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BOUNDHEAD

シュガーベイブのDOWN TOWN
楽器を弾く人にも二種類いると思うんですよ。

ひたすら技術を磨くために練習に励むタイプと、創作つまりオリジナル楽曲制作の手段として楽器を弾くというタイプ。

クラッシック音楽の世界では前者側の人が圧倒的だと思いますが、ポピュラー音楽の世界ではむしろ後者的なマインドの人が多いんじゃないかと思います。特に70年代以降、シンガーソングライターという立ち位置の音楽家たちが日本でも登場するようになって以降はますますそうなったと思うんです。

私の場合、中学3年の時、フォークギターを手に入れて以来ずっと、後者のタイプでした。

だから他人に「何か弾いて」と言われると、ものすごく困ってしまってました。そういうことをほとんどやらなかったからです。

楽曲を完成させようと決意すると、コピー曲にしろ、オリジナル曲にしろ、アコギ、エレキギター、ベース、キーボード全部練習しなけりゃならなくなって、なんとか通しで弾けるようになったら、MTRに録音してミックスダウンして終了です。1週間もしたら、忘れて弾けなくなってました。

なので一発芸的デモンストレーションをするのが嫌で、しかも基本、私の演奏能力は低いので、なるたけそういう界隈には関わり合わないような、音楽とのかかわり合い方をしてました。

もちろんいろんな楽曲を練習(コピー)しましたが、それはコード進行(楽曲の全体像)を学ぶためでした。

作詞作曲そして歌唱の領域に到るまで、いまやAIが「高品質」な「製品」を際限なく生み出せる時代になってます。

「ああ、まさに〇〇っぽい、いい曲だね」的展開です。AIは過去に存在したさまざまなジャンルの楽曲を、「高品質」かつ「のようなもの」として吐き出してくれます。

とはいえ、音楽鑑賞におけるライトユーザーにとっては、「今流行っているもの」に接近できればそれでいいのだと思います。AI楽曲がバズれは、面白がって聴くでしょう。そしてすぐに忘れるのです。

20年後30年後の「彼ら」は、その音楽体験を「大切な思い出」として思い出すこともないのです。「〇〇の曲」ではなく、「〇〇みたいな曲」では、当然訴求力は落ちます。

そもそも21世紀に入ってからは、「流行歌」のオリジナリティは20世紀のものと比べものにならないくらいに質が落ちているのではないかと思います。

特に日本では「いい声」(個性的なのに魅惑的)で歌う歌手がいなくなりました。

楽曲自体の個性に関しては、たとえば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でチャック・ベリーの楽曲をマーティ経由で聴いたプロのミュージシャンたちが、「その新しさ」にどぎもを抜かれている様子が描かれてましたが、50年代以降、ポピュラー音楽は、次々と新しい音楽要素とリズム構成の刷新の提示の連続で、本当に当時のリスナーたちは、日々感激の連続を体験することができました。「その新しさに鳥肌が立つ」というのは、修辞句ではなく、ほんとに多くの人たちが、鳥肌を立てて感激していたんです。

当時は、こんにちのような、「〇〇のようなよくあるタイプの曲だし、特に感激もしない」という連想が湧き出るようなリスナー体験とは異なった音楽体験をすることができた時代でした。

クラッシック音悪の世界で、さまざまなモードの変遷の果てに「既存のもの」を超えようとする営みの果て、「現代音楽」が奇矯でますます難解なものになってしまい、「一般庶民」からそっぽを向かれるようになったように、「モードの更新」が「みんなの感情」を強烈につかまえるような、過去には当然繰り返されてきたような状況が「流行歌の世界」においても失われてしまっているわけです。もっともポピュラー音楽の場合は「難解さ」ではなく「既視感ならぬ視(聴)感による恒常的非感激化」によるのでしょうが。

みな「今の新曲は〈新しくない〉(モード的に新しい感激体験をもたらしてくれる何かを持っていない)」よね」と感じてますが、別に大声で言わないだけです。

ここ2,30年来、人間の制作による「のような楽曲」が量産される状況がすでにずっと続いてきたのです。英米の音楽だって同じです。以下「現代の音楽が同じような音になりつつある本当の理由」日本語字幕でどうぞ。






ポピュラー音楽のモード的変遷への試みは、アイデア的にも汲みつくされてしまいました。次々と「これまで聴いたことがない音楽なのにとてもいい」と人に感じさせてくれるような「新曲体験」を現代の聴衆は「体験」することができなくなりました。

そして、業界で食っている生きた人間たちが「のような楽曲」を量産しながら、糊口を凌ぐ時代が始まりました。そして今度は「彼ら」に代わって「仕事」をAIに代行させて、「権利」は「実在の人間名義」で発表する時代の到来です。

すでにひそかにそういうことが起きているんじゃないかと思います。つまりまずAIに作らせて、あらためて「実在の人間」がその曲の一部をパクったり、カバー曲を制作し、スポティファイなどに登録する。

でも、人は(特に一般庶民たち)は、AI(=「のようなもの製造機」)で曲を作るなどという「めんどうなプロンプト作業」を「喜び」を持ってやるでしょうか。

「喜び」がなくとも、それができる人がいるとしたら、それを「(市場で対価が生まれる)仕事」として扱う心理的な準備ができている人たちでしょう。

楽器を弾くのは(弾けるようになった人なら分かると思いますが)、楽しいのです。そのうえ、皆で集まって合奏、あるいはバンド演奏をするとなお楽しくなります。

歌を歌うのは楽しいのです。それで二人三人四人と集まって、ハモったりすると、頭蓋骨の内部でそれぞれの出す音がぶつかってザラザラと振動して、えもいわれぬ喜び(感激)が沸いてきます。

「これらアマチュアミュージシャン系庶民たち」は近代の貨幣経済のなかでは、もっぱら流行歌に金を払って消費する側でした。けれども、一方で「生身の身体」を使って「音楽体験をする」ことに喜びを感じることのできる人々でもあります。

今カントの『純粋理性批判』を「自発的」に読んでいる中学生は、日本のどこかに確かにいるでしょうが、それは多数派ではありません。

同じように「売り物」の音楽としては、多くの人は、求道者のごとくに自分から未知の楽曲(名曲)を求めて、ネット世界を渡り歩くハンター系ではないでしょう。特に若い層は、「今皆が聴いているから自分も聴いている」的接し方をしている人が多いと思います。

「売り手(企業)」側は、とにかく売れること(数字を取ること)が至上命令ですから、「うんちく豊富で、こだわる聴き手」なんぞは、邪魔で厄介な存在でしかないでしょう。日本の企業文化もますます唯物論寄りに変質しました。握手券を入れると売り上げが爆増するなら、もちろんやるでしょう。企業の目的は「利益の最大化」などという英米系プラグマティズムが流布させた「迷信」を優等生的に反芻し、そのときそのときだけの利益の最大化のために奔走するに決まっているのです。企業人にとって「音楽文化」はもはやどうでもいいからです。

「歌は世につれ、世は歌につれ」という名台詞も、ここ日本においては、かつてのようには「実態」を持っていません。もはや「流行歌」(多くの国民が老若男女問わず知っている歌のことです)は「存在」していません。

DTMが楽器を弾けない人にも作曲の道を開いたなどと言う人もいますが(それは多分に売り手側、つまり企業の販路拡大のための方便として、リップサービスをしていたにすぎないと思います)、DTMから音楽制作に入ってきたとしても、その人がほんとにいろいろ極めたかったら、「本物の楽器」をいじって経験値を増やしたいと思うようになるんじゃないかと思います。

楽器をいじったことのない人が、本当の楽器体験をしないまま、若い頃に始めて以来、ずっとDTMだけの作業に50歳60歳になっても従事しているなんて、私にはほとんど信じられないことです。

そんな人いるんでしょうか?

・・・・・

さて、とりとめのない話になってきたので、このへんで「愚痴っぽい」ことは(だって、だからと言ってどうにもならないんだもの)終了したいと思います。

サカナクションの山口一郎の動画が、なかなかよかったです。





前回の投稿で言及していましたが、かつて(YouTubeがGoogleに買われる以前に)YouTubeに挙げていて、YouTube傘下に入ったとき削除してしまった楽曲をも一度アップしました。よかったら聴いてやってください。シュガーベイブ・オマージュです。




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