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最近、よく聴いているのがThe Booyah! Kidsです。
もう1曲紹介
彼らの楽曲をいろいろ聴いたなかでもっともお気に入りの2曲です。
日本人受けしやすいアレンジやメロディーラインを持ってるなあと感じます。メンバー構成はジュリアン・カウフマン、エイダン・ラドラム、エマ・リーの3人組構成です。
実際に聴いてみて、「うん、いいじゃん」と気に入ってくれる方がいるといいなと思います。
私の一番のお気に入りは、紹介したくらいですから、もちろん「Don't trust me」ですが、英語圏のページを検索して読んでみたら、リーダーのジュリアン・カウフマンは「最も誇りに思う曲は何ですか?」というインタビュアーの質問に「Don't trust meです」と答えてます。彼自身にとっても会心の出来だったんですね。以下、参照したページです。
インタビュー:ブーヤ・キッズ
ニューヨークを拠点にして始まったバンドです。エマ・リーは東洋系の女性です。Leeというラストネームから中国か韓国をルーツに持っている人なのかなと思います。
自分個人用にいろんなアルバムから20曲ほどチョイスして、「私家版ベストアルバム」も作成して聴いてますよ。
・・・・・・ということで、
おすすめ記事が簡単に終わっちゃったので、以下私の、社会人になる以前の音楽についての思い出話をしようと思います。
今はテクノロジーの発展のおかげで、こうして「お気に入り曲」の「披瀝」なんぞをしてますが、「不特定多数相手にそんなことをしようとは思っていなかった時代」もありました、という話です。
中坊のころから、音楽に関して生意気な態度をとってきた私でした。
21世紀の今ではJ-POPという言葉で「型抜き」されるようになった日本の流行歌界隈ですが、私が中坊だったころ(昭和40年代後半)は、日本の音楽は「歌謡曲」と呼ばれていました。それまでは歌手は歌を歌うことだけにおのれの技量を特化し、歌詞や楽曲は「先生と呼ばれる人たち」が注文を受けて制作していた時代です。
当時の私の観察によれば、歌謡曲において、ランキングのトップ10を競っている勢力には演歌系とアイドル系の二大派閥があるという認識でした。
いっぽうで、当時の音楽産業界における「オルタナティブ」としてフォークとよばれるジャンルがありました。彼らは基本テレビに出て来ませんでした。井上陽水やかぐや姫など(アニメ「トリトン」のEDには出てましたけどね)はそういう界隈から出てきたのでした(今回は当時の洋楽体験の思い出話ははずします。もちろん邦楽同様強烈なものがいっぱいあるんですけどね。当時のラジオ文化って邦楽も洋楽もごった煮状態で流れていましたよね)。
まだまだAMラジオは絶大なる影響力を持っており、FMの方が音がよいということで、だんだと皆が、音楽ならFMで聴くというような流れができ始めていた時代です。
こんにち、当時の流行歌界隈においてトップ10に入っていた多くの「歌謡曲」が忘れ去られています。いっぽうで、たいしてヒットもせず、したがってオリコンの上位ランクとは無縁だった楽曲が、いまだに忘れられない曲として、当時、私と同じような中坊だったり、高校生だったりした人に強烈な「忘れられない音楽との遭遇体験」として保持され続けています。山口一郎の父上はまことに的確なご指摘をなさっております。
時代は私が中坊から高校生に移行するころに、フォーク時代からニューミュージック時代になりました。こんにちYouTubeで、海外において、日本の70年代80年代の音楽がバズっているという動画をよく見かけますが、まさに「同時代体験」ができたことは幸福なことだったと思います。
とはいえ、生意気な中坊だった私は、トップ10の音楽には関心がありませんでした。いつも「私だけがそのすばらしさを理解しているミュージシャンがいる」と感じさせてくれる歌をラジオを通じて探し求めていました。実はこの「生意気な感覚」は当時の少年少女の多くが抱いていた人前では大声で語らない「隠れた感情」でありました。
当時、「私だけが知っている名曲を求める」というような、ある種、飢えのような、精神的な態度をもってラジオを聴いていた中学生や高校生が実はたくさんいたんじゃないかと思います。だから「本当に自分がすきなもの」は自分だけの心の金庫にしまって人には明かさない・・・・・、みたいな奇妙な心の態度を「あの頃の少年少女たち」の多くが持っていたと思うんですよ。
そのような少年少女の心の態度って、福音書の種のたとえ話を思い出すじゃないですか。たくさんの種が広い場所におちて根を出したのに、根が浅いので風が吹いたら、みな吹き飛ばされてしまった。一方で数は少ないけれど、しっかりと地中に根を張ったものたちは、その場に踏みとどまって、さらに成長をしていくみたいなイメージのたとえ話がありましたよね。
だから、ヒットチャートという「瞬間測定器」には、はかばかしい売り上げデータとして表にでてこなかった楽曲群が、ひそかに当時の少年少女たちの心の中で大事にされてきた、ということなんでしょう。「少年少女だった彼ら」が成人していくにつれ、「その時代にはまだ全面的に表に現れていなかった価値」がのちに「だんだんと社会的に評価される」ようになる。「売り上げ」は、「物質界に関わる産業的な評価」であり、「未成年たちの思い出から消えなくなる力」は「精神界に関わる評価」です。
以前にも、当ブログで今回の投稿と同じようなことを書きましたが、いい歳こいた今でも、私はヒットチャートに登場してくる楽曲には(海外も日本も)まったく関心が沸きません。必殺仕掛人たる広告代理店などと共闘して行われる産業主義のにおいがプンプンするものが、いやなんでしょうねえ。いや「そういう外面性」を持って現れても「いい曲」ならば、「いい曲」として評価してきましたよ、もちろん。ただ、本質はいまだに〈中坊魂〉のままなのです。
思い出話をひとつ。私がカバー曲として公開したシュガーベイブの「DOWN TOWN」。17か18歳の高校生だった当時、私はこの曲の一部しか知りませんでした。ドアを開け自室に入って机の上のラジオをつけたところでした。すると「ダウンタウンへくりだそう」とフェイドアウトしていく最中でした。たぶん終わりの10秒くらいしか聴けなかったのに、その時受けた衝撃といったら。「え、いまの何、何、何?」と今流れた楽曲の紹介を期待して待っていましたが、情報は得られませんでした。それ以降一度もその楽曲に「遭遇する」ことがありませんでした。
のちにその曲がシュガーベイブという山下達郎が所属していたバンドの曲だったと解ったとき、また衝撃を受けました。というのは、山下達郎は別口で追いかけ始めたアーティストだったからです。79年ころの話です。いろいろアルバムを集め始めました。情報を追うと彼はシュガーベイブというバンドにいて「SONGS」(1975年リリース)というアルバムを出しているということを知り、ついにそのアルバムにまで手が伸びました。
家に帰って即買ってきたレコードをかけました。曲名とかチェックしないで、流し聴きです。しょっぱなから出てくる音(村松邦男のギター)が独特で「おー、いいじゃんこれ」と思いながら聴いていました。すると曲目が変わり、次に流れ始めた曲のなかで、あの「ダウンタウンへくりだそう」と繰り返すコーラス部分が流れたとき、「あっ」と衝撃がきました。曲名をずっと知りたいと思っていながら、「もう一生出会うこともないんだろうなあ」と半ばあきらめていた楽曲。「なんとこれだった!」と分かったときの鳥肌感たるや・・・・。
私はその時まで「あの曲はなんという曲なんだろう」というもやもやを抱いたまま暮らしていたのでした。今ならネットで即解決ですけどね。ラジオだけが頼りの時代、ラジオは結構聴いていたはずなのに遭遇できませんでした。当時は「それほどにラジオ局のDJにさえ相手にされない曲だった」んです(まあ、めぐり合わせというか、私の運もなかったんでしょうねえ。どこかでは流されていたでしょうし)。
そして「最後の10秒間」ではなく、曲全体をあたらめてちゃんと聴いたとき、「やっぱこれすごい名曲やわ」と確認できたのでした。「よい音楽」は、たった10秒流れただけでも、当時17か18歳だった高校生に強烈な印象を残したんです・・・・。この曲と言わず、「みんなに知られていない楽曲」に強烈な思い入れを持ってしまった、「ラジオ」が頼りの昭和時代の少年少女たちがいっぱいいたはずです。
ということで、もはや少年少女世代ではないですが、いまでも中坊魂を持って音楽を聴いています。下校時間帯にたまたま道で中坊たちを見ると、「あの子ら(浅く根を伸ばす多数派系ではなく、風に吹き飛ばされない根を深く伸ばすことのできる系統の子ら)も人に明かしたくない自分だけの宝物をひそかに心に抱きしめて生きてるんだろうなあ」などと思いますよ。子供だから子供扱いされている彼らの内面で機能している「その審美感覚、センス」は馬鹿にできないものなんですよねえ。PR -
今回は前回の記事をさらに補足するため、シュタイナーがスポーツについてどのような見解を持っていたかこれからご紹介したいと思います。-------------------------------------------------------------
一度、「人間は生まれてから死ぬまで、地上存在である」ということを、考えてみてください。人間は地上で働かねばなりません。しかし、いつも仕事をしていることはできません。身体が消耗したりします。
人間は身体を動かそうとしますが、地球に適したように物質的身体を動かそうとはしません。人間はエーテル体に従おうとします。エーテル体は円環運動をしようとします。それで、人間は踊ります。踊るのは、人間が物質的身体ではなくエーテル体に従おうとすることなのです。踊りたいと欲望するのは、人間が物質的身体を忘れて、自分は宇宙に属する存在であると感じることができる、ということなのです。
人間は内的な感情に従うと、宇宙に属したいと思い、エーテル体に従うでしょう。人間は本来、地球が欲するように動こうとせず、エーテル体に従おうとします。エーテル体が欲する動き、円を描く動きが大変気に入ります。ですから、人間は地球に属する動きに慣れねばなりません。この通常の動きを、私たちは教育のなかにも受け入れねばなりません。体操です。
なぜ人間は体操をするのでしょうか。体操は、普通に地球に適応できる以上に、もっと地球に適応するためのものです。人間がエーテル体から離れて、常時エーテル体に従うことがないように、体操をするのです。しかし人間は、宇宙からまったく切り離されないために、地上に結び付かない動きもしなければなりません。
私たちは唯物論の時代に生きています。唯物論に憧れる人間は、たいてい西洋に生きています。古い文化を有する東洋人・アジア人は、地球に属することに執着しません。東洋人・アジア人は、キリスト教徒よりもずっと、地上を「涙の谷」と考察します。東洋・アジアに生きる人々は、できるかぎり早く、そっと浮世から去ろうと願います。
しかし、西洋の人間は地球を、非常に好みます。口には出しませんが、西洋人はいつまでも地上にとどまりたいと思っています。
「エーテル体は、天に合った動きをしようとする。惑星は円を描いて動き、地球は円を描いて動く。エーテル体は円環運動を欲し、物質的身体は円環から抜け出たいと思う」と、言わねばなりません。人間はたくさん仕事があると、この円から抜け出ます。しかし、西洋の上層階級は仕事をする必要がありません。彼らは、どうなるのでしょう。
彼らには、奇妙なことが起こります。エーテル体が絶えず煩わしい思いをさせるので、彼らは居心地悪く感じます。ビーフステーキを食べる人間が世界を歩むと、絶えずエーテル体に悩まされ、苦しめられます。そして、円環運動をしたくなります。ビーフステーキを食べる人間は、エーテル体の円環運動に従おうとします。しかし、何ということでしょう。それは大変不快なのです。
エーテル体は絶えず踊ろうとし、きれいな円環運動をしようとします。ビーフステーキを食べる人は、その動きについていけません。彼は物質的身体を強くして、エーテル体に円環状にひっぱられないように、物質的身体を慣れさせようとします。こうして、彼はスポーツをします。体操ではなく、スポーツです。
スポーツをすると、その結果、人間は完全にエーテル体から抜け出て、物質的な地球の動きにのみ従います。こうして人間は、ますます地上に親しみ、精神界から離れます。
人間は精神世界について考えないことによってのみ精神世界から遠ざかる、と思ってはなりません。スポーツをしすぎることによっても、精神世界から遠ざかるのです。つまり、物質的身体をエーテル体からまったく離れさせることによって、人間は精神世界から遠ざかるのです。これは人間にとって恐ろしいことであり、まったく気がかりなことです。
スポーツに打ち込むと、人間は精神的なものを忘れます。そういう人たちは、死ぬと、すぐに精神世界から戻ってきます。西洋文明全体が精神を受け取らないと、精神世界に戻りたくない人間のみが地上に住むようになるでしょう。そうなると、しだいに地球を崩壊させる人間たちのみが、地上に住むようになるでしょう。すでに、そうなりはじめています。人間がもはや、まったくエーテル体にへと向かわず、物質的身体のみに向かうと、地上には恐ろしい状態が到来するでしょう。ですから、精神科学によって介入しなければなりません。人間を物質的身体のなかに駆り立てて、まったく地上的にする動きに、別の動きを対峙させることによってのみ、それは達成できます。
いま人間は、最も重要なのは地上的人間になることだ、と考えています。このような状況に、みなさんは心が痛むでしょう。
私は去年の夏、イギリスに行ってきました。イギリスを発つとき、イギリス全体が興奮に満ちており、夕刊に載る重要な出来事を待っていました。みんながかたずを飲んで、いまかいまかと、夕刊を待っていました。何を待っていたのでしょう。サッカーの結果です。
私たちは、ノルウェーから下ってきたところでした。私たちが乗車すると、多くの人々が私たちとともに乗車しました。プラットホームは満員でした。汽車が動き出すと、「万歳、万歳」という声が響き渡りました。つぎの駅でも、「万歳」と、人々が叫びました。もちろん、私たちに向かって歓声が上げられたのではありません。中欧からやってきたサッカー選手たちが、汽車で帰るところだったのです。
今日、人間は何に興味を抱いているのでしょう。何百万という人々の幸福と苦痛に関わる出来事よりも、物質的身体をエーテル体から引き離すもの、つまりスポーツに今日の人間は関心があり、人間は地上動物になっていくでしょう。
これが今日、全世界でなされている運動、ますます広まっている運動に、別の運動つまりオイリュトミーを対峙させねばならない理由です。オイリュトミーはエーテル体に則ります。オイリュトミーを鑑賞すると、エーテル体が行う動きを見ることになります。スポーツを鑑賞すると、物質的身体が遂行する動きを見ることになります。
スポーツへの憧れが強いので、これは非常に重要なことです。私はスポーツ全般に反対して語るつもりはありません。仕事をする人がスポーツに駆られるのは、よいことです。仕事においては、不自然な動きに慣れねばならないからです。物質的身体に適合した、自然な動きをスポーツのなかに持ち込むと、スポーツはレクリエーションとしてよいものです。しかし、多くの人々が参加する今日のスポーツ活動は、レクリエーションになっていません。
朝急いで教会に行って、「私は天にいます一なる神を信じる」云々と祈るスポーツマンがいます。もちろん、スポーツマン全員がそうなのではありません。しかし、なかには、そのように祈ってから競技場に行くスポーツマンがいます。彼らの行動を言葉にすると、「私は天の一なる神を信じない。神は私にエーテル体を与えた。しかし、私はエーテル体について何も知りたくない。私は肉と骨を信じる。それが、私の唯一の至福なのだ」という意味になります。
これが、今日行われてものの、必然的・無意識的な結果なのです。「精神的なものを何も知りたくない」と言う人が唯物論者なのではありません。人間全体が精神的なものから引き離されることによって、人は唯物論者になるのです。
だれかが森のなかを歩いており、霧が深くて道に迷ったら、エーテル体について行く、と私は言いました。そうすると、同じ場所に戻ってきます。回転するのは、そんなに悪いことではありません。あるときはエーテル体に、あるときは物質的身体へと揺れ動きます。人間は物質的身体とエーテル体を育成すべきです。
しかし今日、西洋では一般に、エーテル体から完全に離れて、物質的身体のみを育成する傾向があります。それは恐ろしい唯物論、有害な唯物論を形成します。思考的な唯物論は最悪ではありません。最も有害なのは、人間全体を動物へと突き落とす唯物論です。このことを、よく考えねばなりません。
人々は、「こいつは生半可な知識を振り回す俗物だ。スポーツを罵っている。スポーツは、とても有益なものなんだ」と、言いがちです。
私はスポーツを罵っているのではありません。人間は自由な存在です。しかし、単にスポーツに熱中していると、人間として崩壊するでしょう。(『人体と宇宙のリズム』P69-P75)-------------------------------------------------------------
今回も私が気になった個所をいくつか箇条書きしておきます。
①踊るのは、人間が物質的身体ではなくエーテル体に従おうとすることなのです。踊りたいと欲望するのは、人間が物質的身体を忘れて、自分は宇宙に属する存在であると感じることができる、ということなのです。
②物質的身体に適合した、自然な動きをスポーツのなかに持ち込むと、スポーツはレクリエーションとしてよいものです。しかし、多くの人々が参加する今日のスポーツ活動は、レクリエーションになっていません。
③今日、西洋では一般に、エーテル体から完全に離れて、物質的身体のみを育成する傾向があります。それは恐ろしい唯物論、有害な唯物論を形成します。思考的な唯物論は最悪ではありません。最も有害なのは、人間全体を動物へと突き落とす唯物論です。
最近、YouTubeの「ハンターCh」で榎木孝明氏が古武術をやっている自分に関連させて「筋力に頼らなくて済むのが本来の日本人の体の使い方だというのが分かったので」と述べていたのが印象的です。
日本の盆踊りに典型的に見られるように、日本の伝統的ダンスは円運動を行います。東洋の舞、ダンスは「筋肉に負担をかけるようなこと」をそもそも行ってきませんでした。
日本の古武術、というかその淵源となっている記紀の神々の時代以来の武術(そういえば記紀の神々の武術考察を当ブログでやったことがありました)は筋力に頼った技術体系ではなく、エーテル体の動きに則していたと思います。
植芝盛平によって近代に成立した合気道も、「その精神」の系譜にあるために、「筋力トレ」を修行の基礎に置いていません。達人のワザは、まるで舞っているように見えます。
シュタイナーは別の著書で「バレエは幾分唯物論的です」と語ったことがありますが、バレエが「身体に筋力の負荷を要求するダンス」であることを考えれば、その著書を読んだ際「はて、どういう意味?」と思いながら読み飛ばしてしまった学徒にも、今回のシュタイナーのスポーツ論を読めば、合点がいくのではないかと思います。ちなみに、私はバレエを見るのは大好きです。ただし古典バレエですが。古典バレエはまだ古い時代の精神性へのまなざしの余韻を、その舞台演出などで垣間見ることができますから。20世紀末から21世紀にかけてますます盛んになっているように見える、米国製のダンスは、いまはヒップホップをBGMにして激しい動きを頻繁に行うようになっています。ダンスというより「有酸素運動」といってよいほどに「優雅さ」とは無縁な動きを行います。
「筋肉への偏愛」は「近代の西洋男性たち」から始まったのです。近年アメリカ人男性たちのマッチョイズムは女性をも男性化しています。そして女性の外皮をかぶった「男性性」がスポーツ競技の世界にまで入り込んでいます。フリーメーソンは女性性を排除した秘儀をめざしています。(この問題についてはいずれご紹介する機会もあるでしょう)。
「精神ではなく筋肉運動の喜び」が勝ります。それは審美的にも「女性性の撲滅」「女性の外皮の中身が男性化」「男性性のみによる秘儀参入」(さきほども言いましたが、シュタイナーによれば、これはフリーメーソン思想の土台でもあるのですが)、それがもっとも顕著に表れているように見えるのが、こんにちの米国の政治的文化だと感じます。それは、精神生活、あるいは霊界への道とつながるよりも、むしろ、それを忘れさせるようなもの、つまり「物質界のことだけを考えて生きていたい」と思うような人々を量産するのに大きな寄与をしていると言えます。 -
-----------------------------------------------------------日本人が形成したような霊的な思考は現実のなかに進入していきます。それがヨーロッパ-アメリカの唯物論と結びつき、ヨーロッパの唯物論が霊化(精神化=脱唯物論化)されないなら、その思考はヨーロッパの唯物論を凌ぐことは確かです。ヨーロッパ人は、日本人が持っているような精神の可動性を持っていないからです。このような精神の可動性を、日本人は太古の霊性の遺産として有しているのです。(『いま、シュタイナーの民族論をどう読むか』P76-P77)-----------------------------------------------------------
西洋人が近代に始めた選抜試験システムは、国民の中から「官僚」つまり「国民の管理人役」を「効率的に抜き出す」ために「もっと上位の者たち」によって導入されるようになったものです。
明治維新以降、日本の統治層は、当時の唯物論的な傾向に傾き始めていた西洋思想を「適応すべき対象」として大々的に輸入し始めましたが、それに付随してスポーツも輸入し始めたのでした。
100年前シュタイナーは日本人について「日本人は太古の霊性の(つまりアトランティス時代の)遺産として「精神の可動性」を持っている。しかしその能力は「使い方」を誤ると、本人たちに〈過剰適応〉をもたらし、本家のヨーロッパ人を上回る唯物者論的所作の推進者に変貌してしまうかもしれない」という趣旨の警告を発していたのです。
確かにそういう事態が「出来」しそうな予兆はありました。日本は西洋を見て「追いつけ、追い越せ」と自らに掛け声をかけました。しかし日本の統治層は、「追い越す」とは「どういう状況を指している」のか実は分かっていませんでした。西洋人が「人類が陥る闇の原因」を作り出すと、日本人は「それ」も抱き合わせで輸入して、それどころか、「その洗練化」にさえ着手しました。
こんにちの学校では、子どもたちは、自分の心は「〈その教えられ方〉に共感的に近づくこと」はできないということを早いうちから悟ってしまいますから、教室にいる間は自分の「共感的心」をどこかにしまい込んで、非共感的な「試練(ペーパーテスト)を突破する「技術の習得」に専心させられることになります。なぜ非共感的に感じるのでしょうか。それは、自分の現実生活の喜びあるいは苦悩や疑問に答えてほしいのに、学校という場所は、そのような「彼らの精神的な飢え」に共感的に答えてくれない、という反感を感じてしまうからです。
大昔、テレビCMで、日本の高校の古典の授業風景が出て来ました。突然女子生徒が「先生の授業つまりません」と声を上げるのです。
日本の学生たちは延々と〈古典文法〉を学ばされて、「ソレ」を使って翻訳することばかりさせられて卒業しますが(日本の英語教育と同質のアプローチです)、これは明治維新以来、日本の統治層が、西洋の学校が、古典としてギリシャ語やラテン語の授業を語学的に行っていたのをマネたせいです。近代以前の日本人は古典から「物語そのもの」や「思想」を学んだのであって、翻訳能力をテストされて偏差値的なランクづけによって選別されるために古典を読んでいたのではありません。そもそも寺子屋に通っている子供たちは「自分たちが古典の本を〈手段〉として使われることで、「得点」という「最も貴重な獲得物」(こんにちの日本人にとって学習体験という現場で最も関心がある「非精神的な何か」)を得るために競争させられている」とは思わなかったでしょう。また寺子屋の「お師匠さんたち」も「そんなことが大事だ」とはちっとも思わなかったでしょう。当時の日本人は学び場において、「こんにちの子供たちが受けているような仕打ち」をを受けませんでした。昔の人の方がこんにちの子供たちよりも古典的教養が高かったのです。〈どういう目的〉で、〈何〉を〈どのようにして〉学んだのかということの差が、「そのために費やされた時間」が、精神の血肉に変わるかどうかの分かれ目になるからです。
こんにちの日本の高校生たちは、先祖たちの用いていた言語ルールに「文法解析的」に触れても、「先人たちの思想や感情体験」におのれの心を共感的に投げ込んで追体験する機会がありません。ただ「言葉を解析すること」に3年間もの時間を浪費させられます。こんにち「学校制度の中での学習体験」は、なにひとつ「子供の心の栄養」にになってくれません。
「先生、古典の授業って退屈です」と声を上げる女子生徒は正直です。大部分の学生たちは「寄り添えない心」を脇に置いて、ひたすらペーパーテスト用に編成された授業(解法技術獲得)に付き合います。
「唯物論的な所作に満ちた、こんにちの学校」という場所で「時間を浪費している」とだんだんと心が干からびていくのです、「硬化していく精神」「弱められていく生命力」への対抗手段は学校生活の外部にあります。子どもたちは「学校の外」で「心を共同させることのできるコンテンツに触れる」ことで、生きていくための心の栄養や教養を身に着けています。そういうことに寄与している人々は「行政官のよう」ではありません。皆、「生産者」として、商業行為のなかで、延々と「心が干からびていくような現場に忍耐させられている人々」に精神的な栄養を提供しようとしています。けれども、それでは足りません。子供たちは、あまりにも多くの「非精神的でいなくてはならない時間」に忍耐させられてきたからです。だから学校システムは「健康」を取り戻さなくてなりません。
スポーツの話に戻ります。スポーツのルールにしても西洋人は定期的にそれを「更新」しますが、日本人の場合は、「彼ら」が作った、つまり「出来上がったルール内部」で受身的に対処し、「すでにできている対象にいかに適応して好成績を上げるか」という戦術視点しか関心を持てませんでした。明治維新以来、戦争においてもっとも既存のルール(国際法)を守って戦ったのも日本人です。
戦略的次元、メタ次元へ上昇して「戦略的思考」を発揮したい(つまり新たな思想・理念・理想を創造したい)という衝動が弱かったのです。日本人は「彼らの作ったゲーム盤」に参加して、「いかに技術的戦術的に勝利するか」を追求しました。
そういう「思考態度」は、戦後においても、学歴社会でいかに「高判定」を得るかという「特定技術の洗練化の追求」という欲求になり、予備校や学習塾の大繁栄につながりました。ビデオゲーム文化において、チート的マインドの発露たる「攻略本」を買う行為とパラレルです。ゲームは気晴らしにすぎませんから、「チート行為」をしたからといって、まだ「社会的損害」は少ないですが、「学校システムにおけるチート行為による子供の社会化」という行為は「気晴らし」ではありません。「物質界」で生き抜くことと直結しています。それで子供が精神を病むようになっても、この50年の歳月の経過の中でますます高学歴化していった日本の保護者達は「それでうまくいった〈私〉がそうしたように〈自分の子供だけ〉は、〈既存のルール〉内部で他者を凌ぐための戦術を身につけさせよう」とし続けてきました。現代の保護者たちは子供が学校で〈どんな内容〉を〈どのように〉学ばされているかについてはまったく関心がありません。自分たちの子供の「解法技術」が上がったり下がったりした「報告書類」を見て、喜んだり嘆いたりするだけです。日本人の才能は、「外から学んだもの」を自分たち用に翻案する能力です。日本は極めて唯物論的な近代西洋の学校制度も翻案しました。数字だけがものをいうようになった日本の選抜システムとしての偏差値崇拝はその(唯物論者的適応)到達点です。これは1970年代以降の日本で、直近の50年間に強烈に高まった「唯物論的衝動」のひとつでした。いろいろな方面において日本人の精神は明治維新以降「短い期間」で「みずから進んで〈それ〉に過剰に適応して」大改造されたのです。
そして日本人は、全国津々浦々に「部活動」というもはや課外活動(レクレーション)とはいえないシステムを導入して、昭和のサラリーマンたちが休日出勤して仕事をするような異常な「仕事への過剰適応」を行うようになったのと同時並行して、教師や生徒たちも、そしてそれをよしとする保護者達にも後押しされて土曜日日曜日も費やして部活動に異常なエネルギーを注ぎ込むという過剰適応状態を日本の日常生活にしました。
日本の子供たちは、そうやってシュタイナー的な視点で眺め直してみれば、「いつも物質界のことしか考えない子どもになる」ように、国家とともに邁進してきたのでした。「戦術」的枠組みの中で勝ち残った者たち(「オレは高得点者だ」と「対社会的な自尊心」をくすぐられて育てられた者たち)は、つまり「そんなふうにして心の弱さ(傲慢)を利用された利口者たち」は、誰に雇われたわけでもないのに「そのシステムを守る」ための自覚なきエージェント・代理人になります。こんにちそのような人々が、経済分野や政治分野において日本の統治に当たっています。この50年で教師たちは教育行政に携わっている官僚たちの作った指導要領を実践する行政官的振る舞いをますます実践するようになりました。たしかに教師の大部分は身分的には「地方公務員」ですから、「教師」という名の「役人」として子どもの前に立っているのであれば、「役人」的には正しい振る舞い方なのでしょう。身分的には公務員ではない私立の教師であっても、「振る舞い方」において「公務員的行政官」であることに変わりはありません。「決められたルールを忠実に実施する者」こそが有能な行政官です。
以下は、シュタイナーの警告です。
-------------------------------------------------------------今日、百年前にはほとんど知られていなかった病気が広まっている。知られていないことはなかったとしても、広まってはいなかった病気である。神経質である。この独特な病気は、十八世紀の唯物論的な世界観の結果である。唯物論的な思考習慣なしには、神経質はけっして生じなかったであろう。もし、唯物論がまだ何十年もつづくなら、唯物論は民族の健康に破壊的な働きかけをするだろうということを、秘密の導師は知っている。もし、唯物論的な思考習慣が抑止されないなら、やがて人間は神経質になるだけではなく、子どもも震えながら生まれてくるようになる。子どもは周囲の世界を感じるだけではなく、どのような周囲の環境にも苦痛を感じるようになる。とくに、精神病が非常な早さで広まる。狂気の流行病が、何十年か先には現れるだろう。(『神智学の門前にて』P90)
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2024年の日本の子供たちの自殺件数は529件で過去最高となりました。不登校の数も出生数が減っているにもかからわず、増えています。確かに日本でも「子供はふるえながら生まれてきている」に違いありません。その2へ続く -
前回、「ヨーロッパ人は証明衝動が強く、アメリカ人は自己主張衝動が強い」という趣旨のシュタイナーの発言をご紹介しました。「この箇所」を読んで、もっと前後の文脈を含んだシュタイナーの発言を知りたいと思った方もおられるでしょう。けれども、それをしようと思うと、『色と形と音の瞑想』という本を手に入れなければなりません。私としては「ぜひぜひご購入してご自分で確かめてください」と言いたいのですが、その前にここで前回よりもさらに詳しい抜粋を紹介しておこうと思います。前回の抜粋個所の前に語られていた部分になります。
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(ヨーロッパ人が)アメリカに引っ越すと、その家族の子孫はだんだん腕が長くなっていきます。ヨーロッパ人がアメリカに定住すると、脚もいくらか伸びます。もちろん移住した人自身ではなく、子孫の腕と脚です。ヨーロッパ人がアメリカに来ると、中脳を通過して後脳へと引かれるからです。
しかし同時に、アメリカ人には独特のことが生じます。ヨーロッパ人は思想家になると、まったく自分の内面に生きます。思想家にならないでも、確かに熟考しますが、その場合は思考活動は果たし尽くされません。しかし、ヨーロッパ人がアメリカに行くやいなや、もはやじっくり考えなくなります。
ヨーロッパの本を読むと、いつも証明がなされています。証明からまったく抜け出ていません。四百ページの本を全部読んでも、証明しか書かれていません。小説でも、常に証明がなされています。四百ページの本の最後では、たいてい何も証明されていません。アメリカ人はそうはしません。アメリカの本を読むと、あらゆる主張がなされています。本能に近いところに、繰り返し戻ります。動物はそもそも、何も証明しません。ライオンは、他の動物を食べようとするとき、その正当性を証明しません。ただ食べます。ヨーロッパ人は、何かを行おうとするとき、まず、その正当性を証明します。すべてが、まず証明されなくてはならないのです。ヨーロッパ人は証明し、アメリカ人は主張します。これが、ヨーロッパ人とアメリカ人との大きな違いです。
しかし、アメリカ人が主張することは真実ではありえない、と言うことはできません。彼らは全身で主張します。これが、アメリカ人がヨーロッパ人に勝っている点です。アメリカ人は一方では、滅亡していくインディアンに接近します。人間は滅亡しはじめると賢くなります。ヨーロッパ人はアメリカに来ると、賢くなって、証明をやめます。
証明への欲求は、前進をもたらす特性ではありません。朝、何かをすべきときに証明しはじめ、いつも証明すべきことがまだあるので、夜眠るときになっても、まだ実行できません。アメリカ人は、そんなことはしません。アメリカ人は証明する練習・訓練をしていないのです。ですから、さしあたりアメリカはドイツに勝ります。
太陽は常に光と熱を地上に送っています。いま、春分点は魚座にあります。それ以前は、春分点は牡羊座にありました。後には、春分点は水瓶座に移ります。そのとき、本当のアメリカ文明が成立するでしょう。それまで、つぎつぎと文明がアメリカに向かっていくでしょう。今日すでに、アメリカ人が強大になり、ヨーロッパ人がだんだん無力になっているのを、見ることができます。ヨーロッパ人は自分の土地をもはや理解していないのです。(1923年の)いまヨーロッパは平和ではありません。全文明がアメリカへと向かいます。ゆっくりした歩みながら、春分点が水瓶座に入ると、アメリカ文化が特別に力強くなるのに好都合なように、日光が地上に降り注ぎます。その前触れが、今日すでに見られます。(P46-P49)--------------------------------------------------------
以下、私が気になった個所を取り出してみました。
①ヨーロッパ人がアメリカに行くやいなや、もはやじっくり考えなくなります。
②アメリカの本を読むと、あらゆる主張がなされています。本能に近いところに、繰り返し戻ります。
③彼らは全身で主張します。これが、アメリカ人がヨーロッパ人に勝っている点です。
④アメリカ人は証明する練習・訓練をしていないのです。ですから、さしあたりアメリカはドイツに勝ります。
本日、ドジャース優勝でMLBの決着がつきましたね。優勝、おめでとうございます。米国人はスポーツが大好きです。私自身はスポーツ一般への反感は特にありませんが、「筋肉運動への過度の愛着」は人を唯物論者にするというのがシュタイナーの主張でしたね。彼は健康増進に寄与する軽い運動や体操を攻撃していたわけではありません。彼はまた、「スポーツ(筋肉酷使)に熱中すると嗜眠性を誘発する」という趣旨の発言もしています。この発言を読んだとき、白鵬や大谷翔平が一日12時間寝ているというニュース情報を思い出したものです。
スポーツという言葉のもともとの意味は「気晴らし」ですが、近代人のスポーツへの愛着は「スポーツ(気晴らし)」になっていなというのがシュタイナーの主張です。要は「あんたらやってることが極端なんだよ」ってことですね。
シュタイナーは「米国では、男たちはスポーツに熱中して、輪廻転生思想の普及を阻止しようとするが、一方で、女性たちが米国における精神活動の普及を担うようになる」とも言っています。
YouTubeなどを見ると、スピリチュアル運動が米国発なのは分かりますが(日本人の一部がそれを輸入して日本風に翻案している最中です)、それがまだ「人智学(神智学)のパチもん」だとしても、ヨーロッパよりもずっとキリスト教信仰への情熱が強かったはずの北米の地で、占星術やタロットなどを扱う女性の占い師たちが、輪廻転生やカルマの話をタロットというカード占いと紐づけて語るようになっているのを知って、私は「これは新しい事態だ」と思ったのでした。
「人は一度だけ神によって地上に生まれ、死んだら霊界でキリストが迎えに来るまで待機している」これが典型的(公的な)なキリスト教徒的発想でした。
キリストが迎えに来るまで何度も何度もさまざまな人種・民族・国民・性別に生まれ変わらなければならない、という考え方を普通米国の神父(カトリック)や牧師(プロテスタント)は語らないでしょう。米国人はすでに、教会関係者から提供される、伝統的な(つまりさんざん聞き飽きた)救済話だけでは満足しなくなっているのです。
霊界的現実問題として、人間は集団で霊界(それは物質界の人間たちにとっては交通用roundaboutのようなものです)を経由して人種・民族・国民を移動します。明治維新以降、霊として流入し、日本人の体をまとって地上で活動してきたのは、3・4世紀ごろゲルマン民族として生きていた人々だというのがシュタイナーの情報です。彼がこの情報を出してすでに100年の月日が経過していますが、その間もさまざまな「民族移動」が頻繁に起きているのです。
3・4世紀ごろ日本人として生きていた人々は今どこで人間の体をまとっているのでしょう。源平の合戦の時代、あるいは鎌倉時代、あるいは戦国時代に生きた人々は、いま「どこ」にいるのでしょう。そしてこんにち日本人の体をまとっている人々の「民族移動前の故郷」はどこでしょうか。
人々の内面が変化するのは、あるいは、それまで受け入れられなかった思考態度が、人々の間に浸透するようになるのは、「いったん死を迎え、霊界に退き、ふたたび霊界を経由して、各民族が物質界で先祖から受け継いで保存してきた体に、かつて別の人種・民族として違った経験を積んだ人間集団が入り込む」からです。物質界で肉体とそれを賦活するエーテル体として先祖から受け継がれてきた遺産と、霊界から新たにやってきて、保管されたものと結びつき、新たな衝動をもたらす霊団が共同するのです。
代々受け継がれてきた先祖の肉体は物質界で発展を続け、かつてそのなかで力を発展させた民族の成員たちが、時を超えて別の民族が物質界で発展させた地上の遺産(身体と文化)を受け継ぐのです。
人々は「私とは何だ」と「新しい問い」を自分に向けるようになります。その問いは唯物論時代の、せいぜい7、80年くらいで滅びてしまう「こんにち的な発展段階の弱弱しい自我に紐づけされたもの(魂)」「ペルソナ(人格):原義は仮面」、つまり「死のたびに解消される縁起の成果としての構成体(仏教)」「ルシファーの影響力によって生み出され、足枷として地上に投げ落とされた錘(おもり)のようなもの(キリスト教)」だけを自分だと思って生きてきた時代の人々の苦悩や悩みに関連した問いとは「見た目(言葉)は同じなのに、内包している意味が違う」ものになっていきます。 -
前回の投稿で「近代に英語圏の人びとはゴーストという古代語をスピリットという言葉に置き換えた」という趣旨の話をしました。
攻殻機動隊の草薙素子は「私のゴーストが囁くのよ」という名台詞を吐きましたが、今の英語圏の人びとは、彼女が「私のスピリットが囁くのよ」と語ったなら、もっと簡単に理解できたでしょう。そういうわけで、彼らには「彼女が言うゴーストとは何だ?」という問いが生じます。
ちなみに最近英語圏の若い人々が、ghostという言葉を動詞として使うようになったようです(相手と「音信不通になる。交流を断つ」というような意味)。
こんにちの英語圏ではボディ・アンド・ソウルという言葉が当たり前すぎて、まさにローマ・カトリックがキリスト教に持ち込んだ「改変」(体・魂・霊の三分節から体・魂の二分節へ)は、長い時を経て、特に英語をしゃべっている人々に、もっともローマ的な影響を、「霊」を指す古語を消失させることで、及ぼしたのだということもできます。
アメリカ人が霊的事象を「物質界的比喩によって表象しようとする強い衝動」を持っていることは、往年のホラー映画などを見るとよく分かります。
以下、シュタイナーの発言の抜粋をご紹介します。
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注意深くアメリカの本を読み、注意深く国会演説を聞くと、今日(今から100年前)アメリカで起こっていることが理解できます。「おやまあ、こりゃたまげた。まったく奇妙なことだ。ヨーロッパでは、精神から人智学が形成されている。アメリカでは人智学の模造品が作られている」と、思われます。その模造品は、すべて唯物論になります。アメリカ文化はヨーロッパの人智学に似たものを有しています。ただアメリカでは、すべてが模造品で、まだ生命的ではありません。ヨーロッパでは、精神によって人智学を生命的にできます。アメリカでは、人智学を本能から取り出します。
このアメリカの模造品が語りはじめるときが、いつかやってきます。そうなったら、ヨーロッパの人智学によく似たことを語るでしょう。「ヨーロッパでは、精神的な方法で人智学が形成される。アメリカ人は人智学を、自然な(本能的な)方法で形成する」と、言うことができます。ですから、私は人智学を説明するときに、「これは人智学的です。それはアメリカ的な戯画です。人智学の戯画です」と示唆できます。
(人智学の)狂信者は、「内的ないとなみ」をとおしてではなく、熱狂的に(外面的に)人智学に親しみます。そうして(人智学の)狂信者は、アメリカ主義を強烈に罵ります。人間が猿を罵倒するのは、猿が人間に似ているからです。これは漫画です。「ヨーロッパで精神的に達成されるもの」と、「アメリカで自然な(本能的な)方法で達成されるもの」とのあいだには、北極と南極のような差異があります。
アメリカの自然科学の本は、ヨーロッパの自然科学の本とはまったく別物に見えます。アメリカの自然科学の本は、絶えず霊について語りますが、霊を粗雑に物質的に表象しています。ですから、近代の心霊主義はアメリカで発生したのです。心霊主義は何を行っているのでしょうか。霊について語り、霊を雲のような現象だと思っています。すべてが雲のように現れてほしい、と思っているのです。ですから、心霊主義(スピリチュアリズム)はアメリカ製です。心霊主義は唯物論的な方法で、霊を研究します。
アメリカでは、精神への途上で、唯物論が猛威を振るっています。ヨーロッパ人は唯物論者になると、人間としては死にます。アメリカ人は若い唯物論者です。本来、子どもは最初、みな唯物論者です。そして、唯物論的でないものへと成長していきます。そのように、アメリカの極端な唯物論は、太陽が水瓶座から昇るとき、精神的なものへと成長していくでしょう。
このように、ヨーロッパ人がどのような課題を持っているかが分かります。アメリカ人を罵るのがヨーロッパ人の課題ではありません。ヨーロッパ人は、最良のものから構成された文明を、全世界に築かなくてはなりません。
アメリカ的なヨーロッパ人であるウィルソン大統領に一杯食わされた、バーデンの王子のようにものごとを考えると、うまく行きません。ウィルソンは生粋のアメリカ人ではありません。彼の理論(民族自決主義)は本来、すべてヨーロッパから受け取ったものです。そのために、彼は不毛な理論を作りました。真性のアメリカ主義が、精神的な方法でものごとを見出すヨーロッパ主義と、いつか結び付くでしょう。このような方法で研究すると、世界でどのように行動すべきかが分かります。(『色と形と音の瞑想』P46-P52)
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「現代人はみな悪徳商人になる傾向があります」とシュタイナーは語りました。私はトム・ソーヤー商法(壁塗りエピソード参照のこと)という言葉を創作して、かつてこのブログでも使ったことがあります。その時同時に「うっかり八兵衛商会」という言葉も作りました。「現代はトム・ソーヤーのようなコンマン(con man)が社会システムからの圧力によって大量発生するしかない状況になっている」と思います。悪徳商人というより、価値の取引において、人々を香具師の口上みたいな言葉遣いをする宣伝家ばかりにしたというほうが実態に近いでしょうか。「その技術」を人々は「一か所に大量に人々を集める」ために駆使しています。「われら自覚なき悪徳商人たち」はそうやって、「場所提供者」の作ったゲームルールに則って(場所提供者たちは「もっと大きな顧客」のためにそういう場所を作ったのですが)「プレイヤー候補者たち」として集められ、一か所に耳目を大量に集めるという「作業をやらされている」のでした。巨大な胴元たちは、プレイヤーたちが、メタ次元に出て自分のやっていることに「道徳的疑問」を感じないように金銭的インセティブを与えています。
そういうえば『悪の秘儀』でシュタイナーは「アーリマンは(彼がばらまく思想の)賛同者を集めることに躍起になっている」と書いてましたっけ。彼は一方で、「人々はバラバラな集団に分裂していき、その集団も内部分裂し、やがてそれぞれが集団の中でひとりになる。そして最後は一人の人間が右の人と左の人に分裂して争うようになる」と不思議な話もしていましたね。
「ロスト」という北米人気ドラマにはトム・ソーヤーという偽名を名乗るキャラクターが出て来ます。彼はコンマン、つまり詐欺師でした。彼が自分のことをトム・ソーヤーと名乗ったのは、少年時代に彼の両親がトム・ソーヤーと名乗るコンマンの餌食になり、彼の目の前でピストルを使って心中し、その衝撃的な思い出を胸にその復讐心を忘れないために同じ偽名を使うようになったのでした。もちろんこれはシナリオ担当者がこのドラマにおいてはトム・ソーヤーという有名な児童向け小説のキャラクターを「詐欺師の象徴」として翻案したからです。コンマンをやっている自分に自覚がない無邪気さこそ、こんにちのわれわれの精神状況を表しています。それでも未来に人々が(シュタイナーの表現によれば)、「苦い目覚め」を自覚するときも来るのでしょう。P.S.
シュタイナーは「議論においてヨーロッパ人は証明することへの衝動が強く、アメリカ人は自己主張することへの衝動が強い」と述べていました。米国人は「公教育」においても小学生からずっと「大きな声を出して主張せよ」という教育を受けていますし。それが西洋圏といってもヨーロッパ系の人々と異なっているところです。上に紹介した動画は、100年後のこんにちにおいても、やはり「ヨーロッパ人はアメリカ人をなじっている」という事実を教えてくれる動画でした。シュタイナーは「将来アメリカ人は品がよくなる(子供から大人になって精神性を深める。)」ということも言ってますし、期待して(時間的には数百年単位の変容でしょうが)待っていましょう。