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それほど昔の話ではないが、いつだったかネットでアニメ「エルフェンリート」のオープニング曲の「Lilium」が西洋圏の教会で讃美歌として歌われているという記事を目にしたことがあった。
百合のことを英語で「Lily」と書くが、「Lilium」はラテン語である。歌詞もラテン語で歌われている。それでその時はその動画を見たあと、アニメ「エルフェンリート」についてウィキペディアの記事に飛んでさっと目を通した記憶がある。
エルフェンリート(妖精の歌)という言葉はドイツ語でelfenliedと書く。原作の漫画を描いた岡本倫氏は、もともとドイツ語圏にあった有名な楽曲から着想を得たらしい。アニメには使われなかったが、原作漫画の方では、そのヴォルフのエルフェンリートが引用されている。とはいえ、このエルフィンリートはアニメ版のオープニングテーマの「Lilium」のように悲壮な感情を呼び起こすタイプの曲ではなくもっと軽快な感じの曲調だ。私は、これまで20年近く「エルフェンリート」というアニメを見たことがなかった。このアニメは2004年に公開された作品だが、日本よりも海外で今なお評価が高い作品だという話だった。
当時は「Lilium(白百合)」という歌と、去年の秋、隣の空き家の庭で初めて目にしたタカサゴユリとはつながっていなかった。
今年の9月6日に、去年同様一輪のタカサゴユリが隣家の庭に咲いているのに気が付いた。去年の関連記事については以下のリンク参照のこと。
10月7日(土)からの三連休は変だったけど、タカサゴユリでほっとする
ふたたびタカサゴユリ
The age of the lily 水瓶座時代はユリの時代
今年見つけた花は、去年に比べて小さい花だったので「どうして小さいんだろう」と不思議に思ったが、ふたたびユリの花を見ることができたことがとてもうれしくて、「よっしゃ写真撮ったろう」と私の家の庭から腕を伸ばして撮ったのが以下の写真だ。
写真をよく見ると(写真をクリック)、「その時咲いていた小さいユリの花」の右隣にすでに花を落とした後のタカサゴユリの茎の様子が写っている。落ちている花の様子から、咲いていたときは、今咲いている花と同じくらいの大きさだったと思われる。「あっそうか、まず右側が先に咲いたのに、オレ、気づかないままだったんだ・・・・・ってことは8月の下旬にはすでに咲いていたってこと?そんな時期に咲くとは予期してなかったもんなあ」
そんなこんながありつつ、最近また「Lilium」をYouTubeで聴いて「やっぱいい曲だなあ」と思ったので、今度は「Lilium」という曲についてネットで調べてみた。
アニメ「エルフェンリート」のオープニングテーマの「Lilium」は悲劇的な人生を歩まざるを得なかった主人公のルーシーを、西洋(キリスト教圏)で「純粋」「無垢」あるいは「聖母マリア」の象徴とされている「白百合」に仮託して日本の作詞作曲家たち(小西香葉&近藤由紀夫)によって讃美歌様式で書かれた作品だった。
この記事に「気づいた(意識的になった)」とき、去年、当ブログに投稿したエドガー・ケイシーが語った水瓶座時代=「ユリの時代」にまつわる論考やら隣家の庭に咲いた三つのユリの花の記事に連想が接続した。
それで「あ、これはアニメを見なくちゃいけないな」と急にそわそわした気分になり始めたので手始めに地元のレンタル店に行ってみたが、なかったので、そんな場合いつもやってるようにネットレンタル店でレンタル可能かどうか調べた。ちゃんとあった。ちょうどツタヤ・ディスカスが一枚55円セールをやっている時期だった。ちなみツタヤ・ディスカスでは第1巻が借りられなかったので、あらためて別途DMMで第1巻を借りたのだった。
アニメ放送当時は、もともと16:9で制作されていたものを4:3にトリミングして放送したそうだ。残虐なシーンには修整が施されていた。DVDはトリミングなしの、もともとの16:9で製品化されており、テレビ放送時の修整は取り除かれてたので、見た目上の残虐度は増している。にもかかわらず、「このアニメは見た人を感動させる」と思った。
ひさびさに心の深いところにジーンと刺さったアニメを見たので、原作の漫画とCDも手に入れたくなった。そういうわけで原作漫画12巻とMOKA☆の合唱版CDを手も手に入れた。
このアニメのために作曲された、「白百合の象徴に関連した主題曲」があまりにも出来がよくて、オープニングのクリムトから引用された映像とともに「これなしではこのアニメのトーン(諧調)を成立させえないほどのインパクト」を視聴者たちに与えてしまうという重大な役割をこの楽曲はになっている。
だから私は、このアニメには図像としても「ユリの象徴」が出てくるはずだと思いながら見ていた。するとやはり何度か出てきた。
そのひとつが、ルーシーが幼いころ養護施設でひどいイジメに合い、その騒動の果てに、能力が暴走し、広間のテーブルの上の花瓶に生けてあったユリの花が血しぶきを浴びて赤く染まる、という、すごく象徴的なシークエンス。
ほかには、頭に銃撃を受け、「赤ちゃん(無垢)返り」になってしまったルーシーが世話になる、コウタのいる屋敷のなかにも、またさりげなく(血に染まっていない)ユリの花が出てくる。(以下参照)実は、原作の漫画には全体を通して「白百合の象徴」は出てこない。「血にまみれた白百合」が出てくるアニメの養護施設の広間シーンは漫画には出てこない。漫画においては、ただ「そこで殺戮があったこと」が示されるのみだ。
このアニメが「悲劇」として絶大な心理的効果を視聴者に与えるのは、劇中で何度も流れる「Lilium」という曲のバリエーションと、ところどころで象徴的に示される「百合の花」が、「ルーシー(楓)の運命の悲劇性」をたえず思い出させるからだろう。
「Lilium」という讃美歌と「百合の花」の図像を象徴的に提示するという「アニメ独自の観点を持ち込んだ」ことで、このアニメは「悲劇を宗教的に昇華させる象徴性」を獲得したんだと思う。
そういうわけで毎回、白百合の象徴を讃美歌にして始まるオープニングテーマを聞きながら話の展開を追っていったキリスト教圏のアニメ視聴者たちは、日本の視聴者たち以上に、より強く宗教的テーマ性を連想し、深く受け止めることができたんだろうと思う。だからこそこのアニメは「日本より西洋圏でこそ評価された」のだと思う。
アニメではルーシー(本名は楓)、ナナ、マリコという三人の角持ちの娘たち(ディクロニウス)が主要人物として登場してくるが、私はその三人の娘と、去年、ブログ投稿時に話題に出した三本のユリの花とを連想で結びつけてしまった。そして去年は三輪の花が咲くはずが、最後の一輪は咲けなかったこと(開花の時期まで時が待ってくれなかった)を思い出していた。
けれど、今年はすでに二つの花が咲いた。そして、そのときからひと月が経過した或る日、なんと三つ目の「白百合」のつぼみが、「彼女たち」の「右側」に出現しているのを発見して、私の心は高揚した。
それからの一週間というもの、私は「雑草駆除業者がやってくるんじゃないか」とびくびくだったが、ありがたいことに、この時期、雑草駆除は行われなかった。
そういうわけで、なんとなんと、その三つ目のタカサゴユリはひと月前に咲いたユリたちよりも大きな花を咲かせて、りっぱに花の一生を終えた。その一部始終を観察して「去年咲けなかったぶん、大きく咲いたんだろうか」などと非論理的なことを考えつつ、去年のようにならずによかったと思ったのだった。PR -
最近(9月下旬)にアマゾンのプライムビデオで「烏は主を選ばない」というアニメを見た。
そのアニメのなかに現れた「金色のカラス」のイメージを見て、30年くらい前に「奇妙な体験」をしたことを思い出した。
今から約30年前、つまり93-94年頃といえば、こんにちのような形のインターネットが登場する直前のパソコン通信(ニフティーサーブ)活動時代で、私と言えば、日本神話にまつわる神社&古墳巡り活動記事を投稿していた時代だった。
私の地元である延岡市にはニニギノミコトの陵墓だと伝わる古墳が二つあり、私が不思議な体験をしたのは、そのうちのひとつ、南方(みなみかた)古墳群にあるニニギノミコトの陵墓においてだった。
この陵墓の上には天下(あもり)神社があり、当時、私は、原田常治氏の『古代日本正史』に出てくる、「アメノオシホミミノミコトの墓ではないか」という記述にも触発されて、そこを訪れてみたのだった。
紹介した動画は近年地元のケーブルテレビ会社が制作したものだが、天下神社のさらに西側に九州保健福祉大学ができたことで、私が初めてこの神社を訪れた30年前に比べると道路状況が大変によくなっている。
私が初めて訪れたときは、神社の石段前の道は自家用車が1台通れる程度の砂利道というか田舎道で、神社の前は畑だった記憶がある。
天下神社周辺はものすごい数のカラスが生息していた地域で、天下神社とニニギ陵墓にまつわる不思議な話が伝わっている。以下天下神社の敷地内に掲げられた由緒書きより引用。
---------------------------------------天下(あもり)神社の後方に有り現在大きな石が出ていますが、これは言い伝えによ りますと村の人々が神社建設の際山を切り取った時にこの石が出てきたので石工が神社 の石段として割り出そうとしたところ頭上に多くのカラスが舞い下りて仕事を留めるよ うに鳴き散らし又仕事にたずさわっていた人々が倒れる等した等割ってはならない石で あらうと言うことで作業を取り止め現在に至ったものであります。
この古墳は高さ二米八〇、直径東西二十六米五〇、南北十二米、の大きさで大正十二 年十一月十六日元延岡城主内藤家の協力にて考古学者石塚直太郎博士と村上兄一氏が東 京より招聘され調査の結果ご神体は日子番邇々芸尊(天照大神のご子息)の塚であると 今日まで伝えられています。現在このお方の御神徳は棟木(むなぎ)の神であらせられます直古墳のお告げにより 邇々芸尊であるとして大正十二年から今日までお祭りをされている人に延岡市出北町に 住まれている前田正恵という方がおられます。---------------------------------------私はそのむき出しになっている巨石に右手でそっと触ってみた。ふと横を見ると「この陵墓の土をけっして外に持ち出してはならない」という看板が立っている。
あれこれと見て回って、さてそろそろ帰ろうかと思い、神社の拝殿の前(特に右側)に移動したとき、カアカアと鳴きながら、たくさんのカラスが屋根の上から飛び立った。
その音にびくっとしてバタバタという羽音のするあたりを見上げると、飛び立っていくカラスの後を追うかのように最後に橙色というかオレンジ色をした鳥が飛び立った。それはインコのようなサイズの小さい鳥ではなかった(とはいえ、それがインコだったとして、たとえば全身がモフモフで黄色いカナリアがたまたまその時神社の屋根にいて、カラスと一緒に飛び立ったなんて「事象」がありえるのだろうか?)。私は「幻影」を見たのだろうか?
その時は、羽を広げた全身が、橙色をしていたので、強烈な印象を受け、「なんだ、いまの鳥は?」と不思議に思ったのだった(帰宅してもずーっと「あれは、何だったんだ、あれは何だったんだ」と思い返してばかりいた)。カラスとトンビは仲が悪いのに一緒に目撃されることが多いので、トンビのおなかを下から見たのだろうかとも思ったが、どう調べても、トンビのおなかと翼の下側は「一面橙色」とは言えない。(以下はその時の体験のイメージ図)
日本神話に出てくる「金鵄」(きんし)という鳥だろうかと当時は、あれこれと考えを巡らせてみたが、ついにこんにちまで結論が出ず、自分のなかの「怪異な体験カテゴリー」に保存し続けてきたのだった。
そういうわけで、最近「烏は主を選ばない」というアニメを見て「おお、これは!!!」とびっくりしたので、ひさびさに天下神社を訪れたのだった。
最後に天下神社を訪れたのは2001年の11月なので、それから数えると23年ぶりの訪問(3回目)ということになる。この時の訪問については私の別のホームページ内の記事として公開している。この記事に出てくる天下神社は一代前の建物で、私が「橙色の鳥が羽ばたく」のを拝殿前で下から見上げた30年前も、この記事に挙げている写真の神社だった。YouTube動画「カミタビ」に登場する神社は2014年に建て替えられたものだ。
ちなみに以前、当ブログで紹介した国土交通省九州地方整備局が挙げている河川の監視カメラ映像で、天下神社がある小山の一部が確認できる。「五ヶ瀬」というテロップの下の小山が天下神社である。
下の写真、黄色い矢印から見た図が上の河川映像になる。(写真をクリック)
「南方古墳群」と出ている個所が天下神社だ。
ちなみに今回の訪問ではカラスの存在をほとんど感じなかった。
「あー、なんかカラスがいねーなー、昔と変わったなあ」と思ったら、「カア」と一声カラスの鳴く声が聞こえた。
それで「あっ、まだカラスはいるんだな、姿は見えんけど」と思って、帰路についた。
P.S.「烏は主を選ばない」にも登場し、YouTubeでは、格好の都市伝説ネタにされてる八咫烏だが、私個人はシュタイナーの神話論と秘儀参入についての記述から、「本来の八咫烏」とは、やはり「大化の改新以前(オオキミがいた時代)の古代日本の秘儀の保全者の一団、その末席に属す者として、「俗世間と秘儀の秘密の管理者たちとの間を仲介する役割」を担った者たちであったろうと思う(特に「秘儀参入者用語」としてのカラスについては「秘儀の七段階」、「シュタイナーの瞑想法 秘教講義3」参照)。
YouTubeなどの都市伝説系では(スピ系でも)「古代人の秘儀参入」というテーマ自体をまったく扱わない。フリーメーソンにしろイルミナティにしろ、「政治的秘密結社」として扱われており、本来それらは「霊界参入(回帰)」のために創設されたことを「理解し、広めよう」ともしない(とはいえすでに彼らは「伝統的儀礼と象徴図像の保存団体」に過ぎず、「本来の目的」を達成する霊力は失っている。代わりに「組織の力」を使って「物質界」をコントロールすることに粘着することしか「できない」)。神武東征の物語は第五段階までの秘儀参入の修行過程を描いたものであり(第五段階が3日半の死の儀式であり、即位の儀式がこれに当たる)、イワレヒコノミコトが物語の中で出会う「からす」(第一段階)や「隠者」(第二段階)や「戦士」(第三段階)は、彼が「その段階」を通過したことを示すしるしとして描かれている。
とはいえ、日本神話に描かれているような古代の秘儀はもはや行われていない。7世紀以降、完全に廃れて、外国(シナ大陸)の統治思想に基づいた革命政権が誕生し、大嘗祭においても古代中国の思想を取り入れた「命を危険にさらさない儀礼」として、「新たな神社文化」の発展とともにこんにち見られるような「伝統」となった。
魏志倭人伝には「倭人たちは貴人に行き合うと手をたたいて挨拶をする」という趣旨の記述が出てくる。すでに「時代」は下り坂になり、その能力を失いつつあったとはいえ、まだ2、3世紀の古代人たちの霊的感受力はこんにちの日本人とは全く別のものだった。当時は「普通の人」でも今日でいうオーラのようなものを看取するくらいの能力はあったのだ。
幾たびかの変容を遂げたとはいえ、こんにち伝わっている神社文化の淵源は、そのような「秘儀参入者を敬う文化」にあった。「彼ら」(当時の倭人たち)は尋常ならざるオーラを背負って歩いてくる一群の人々と自分たちを「区別」することができたのだ。そしてそのような人に行き会うと、「手をたたいて敬意を表し挨拶をした」のだ。
そしてさらに時代が下り、だんだんと彼ら一般民衆からも「感受力」が失われていくにつれ、「手をたたいて貴人に挨拶する風習」は廃れてしまった。もはや出会った人が「何者なのか」看取できない時代が到来したからだった。そして「生きた人間」に対しては行われなくなった「拍手の風習」は、かつては生前においても、そのような挨拶の仕方によって敬われていた秘儀参入者たちが祀られるようになった「神社という特別な場所」でのみ「継続」されるようになった。「魏志倭人伝」の時代に、民衆から手をたたいて挨拶されていた人びとが、こんにち神社の祭神として敬われている。
「死の技術」(スウェデンボルグ用語)を持った人々、つまり「高次の霊界」へ到達でき、その住人(神霊)たちと交流する異能を持った人々が、民衆に「認識され、敬われ」ていた時代があったのだ。そういうわけで、私自身は、こんにち、「その由来」を知らずに、「縄文へ帰れ」だとか「神道が世界を救う」だとか「神社文化再興だ」とかいって騒ぐ人々の「政治活動」あるいは「口八丁の営業活動」を「まったくの近代人的振る舞いそのものだ」と少々悲しみを感じつつ傍観している。 -
YouTubeにアクセスしたら、幼虫社というユニットの「廃園」というアルバムがたくさんのサムネイル画像のなかに紛れ込んでいたので、そのアルバムジャケットの絵に惹かれて(藤原カムイ氏の絵らしい)、再生してみた。
おお、いいじゃん、これ。興味がわいたので、ほかに動画があるか調べた。
以下はカセットのみで出されたというアルバム「幼虫期」中の一曲「再醒」。文語で歌われる歌は、実は近代日本語より霊力が強いのではないかとふと思わされるような名曲。あなたも私同様「祝詞の奏上」を聴いているような感覚になるはず。
「再醒」の歌詞はこちら
(ただし冒頭部分のみ。ニコニ動画に歌詞を載せている動画があった。後半部の内容から、古事記に登場する大気津姫神の逸話を扱っているらしいことが分かる。でも「眞夜の娘」とは何だろうとさらに調べていくとマヨの祭儀というニューギニアの土俗儀礼がかつてあったらしいことまで掘り当てた。つまり日本以外の食物起源神話もまた歌詞の中に含まれているらしいのだった。)
それで改めてネット検索をかけて、彼らのことを調べてみたが、2000年代初頭前後から京都発で数年活動してたらしいこと以外、はかばかしい情報が得られなかった。
シンセを駆使して楽曲を制作していたのは井蛹机(いさなぎ・つくえ)という人物でボーカルはヂヂこと古庭千尋という女性が担当していた。
今日、この二人の消息についてはよく分からない。
しかし、ネットであれこれ調べていくうち、当時、幼虫社とごく近い立ち位置で活動を共にしていたもうひとつの音楽ユニットがいたことに気が付いた。
それが猫祭り姫だった。猫祭り姫とは燈(ともり)氏のひとりユニットだという。私がYouTubeで最初に聴いた彼女のアルバムが「めぐる」だった。
その中でも、特に「水鶏姫(くいなひめ)」と「狂姫(くるひめ)」という曲を聴いて「これはただならぬ事態だ」と関心が沸いたので、そういう場合当然歌詞にも関心が沸くので、ネットのどこかに「歌詞」が載っていないかなと探したのだった。
「水鶏姫」の歌詞はこちら
「狂姫」の歌詞はこちら
そうしたら猫祭り姫が今日においても稼働させているHP内に掲げている歌詞ページにたどり着くことができた。そこには「水鶏姫」の歌詞も載っていたが、改めて中身を読んでみると、「姫」と言っても、水鶏姫が背負っているイメージが恐ろしいものであったことが分かり、「こんな歌のイメージを思いつく女性歌手ってあまり知らんなあ」とその時は思ったのだった。
猫祭り姫は小説や童話・メルヘンから歌の着想を得ている人だった。童話から着想を得て「猫の森には帰れない」という傑作を世に出した谷山浩子のことが思い出されたが、猫祭り姫は「楽しい猫フェスティバルへようこそ姫」ではなく、むしろ「猫(根子)祀りし姫巫女」と書いた方がふさわしいと思うような「怖い歌」をたくさん奏上している人だった。
彼女は猫祭りの宵というホームページを今日も維持しているが、実はかつてはTOPページから歌詞ページへ至れるようになっていたはずのリンクがなくなっている。私が見つけた歌詞ページは検索の結果、発見したページ群だった。
amazon musicには以下の3枚のアルバムが登録されていた。
「HAKOIRI」と「第N無人居住区」のリリース表記を見れば分かる通り、2000年の最初の方に出ている。けれど「めぐる」は2022年に再編集版としてリリースしたようだった。
「水鶏姫」も「狂姫」も猫祭り姫の、年月を重ねたHPに掲示されている楽曲なので、やはり2000年代に作られた作品なのだった。
だから彼女はこの20年近く、新しい楽曲の制作(あるいは発表)自体はやめていたのかもしれない。けれども彼女は近年、かつて作った楽曲をもう一度YouTubeで公開している。
彼女は多彩な人でダンボールを使ってミニチュアの街を作り、またPIXIVでそれを絵にしたものをたくさん公開している。それに漫画も描いている。
彼女のHPにある「HAKOIRI」のページを見ると、有難いことに歌詞と、作詞者、作曲者、編曲者、そして歌の担当者の名前が載っている。
猫祭り姫のアルバムを聴いて驚かされるのは、楽曲が「七色の声」で成り立っていることだった。今日で言うと、女性の声優さんたちが、子どものキャラになった声で、歌を歌っているような「声色の多彩さ」だった。
私は「すべてのアルバム楽曲において同じ女性が発声法を変えながら歌っているのだろうか、すごいなあ、ここまで徹底して声色を変えて、つまり声優的なアプローチで歌うシンガーソングライターっていただろうか?」とはじめ驚嘆しながら聴いていたのだが(かつて当ブログで大プッシュ記事を書いたchouchouのボーカルスタイルのことを「声優的」と書いたことがあったけど、猫祭り姫に比べたらら、振れ幅はずっと狭い)、「HAKOIRI」のページに出てくるパーソネルをみると、「本人の歌唱じゃない曲も含まれている? じゃあ、ほかのアルバムでは、どの曲が猫祭り姫本人の歌唱なんだろう」と四つ辻で迷子になった少年みたいになってしまった(泣きべそかきそう)。
おそらく「水鶏姫」も「狂姫」も本人の声だろうけど、3枚のアルバムすべてについて明確に判断できないのが、心残りなのだった。
「狂姫」の声を聴いて、「声のいい人だなあ」と思ったものだった。声優で言うと、ガッチャマンの「白鳥のジュン」とかドクタースランプの「木緑あかね」の役の時の杉山佳寿子声を連想した。
近ごろはHPに公開されているアルバム未収録の一連の曲も含めてアルバム4作品としてヘビーローテンションで聴いている毎日なのだった。
そうそうYouTubeにはTomori名義でアルバム「第N無人居住区」(幼虫社&猫祭り姫コラボアルバム)所収の「かげろうがい」の動画が上がっている。幻想文学、メルヘンの世界を堪能できる仕上がりになっている。
P.S.
ちなみに、「HP猫祭りの宵」の歌詞ページに出てくるストリーム再生やダウンロードボタンはWindows11環境下の現在、2000年代当時に想定されていた形では機能してくれない。とはいえダウンロードは手順に手を加えれば可能である。2000年代当時ネット上にたくさんあったmusieのようなアマチュア・インディーズ楽曲集約サイトは今日みな消滅してしまった(当ブログではかつてヤマハ系サイトやnext musicサイトについて言及したことがあった)。ダウンロード版のデータの拡張子は「.rm」なので再生ソフトを選ぶと思うが、mp3変換などの対処法はご自分で探求されてください。 -
ルドルフ・シュタイナーの『歴史徴候学』を読んでいたら、以下のような「速読モード」で読んでいたら、あるいは「?感覚」をすり抜けてしまうような一節があった。
---------------------------------------------------------------------すぐに共感、反感で相手に対することは、人類の未来の発展にとって最高に反社会的なことなのです。(『歴史徴候学』P113)---------------------------------------------------------------------
今日、人の振る舞い方として問題とされているのは、SNSにおける誹謗中傷問題だが、シュタイナーによれば「脊髄反射的共感表明」もまた「反社会的振る舞い」なのだという指摘である。
人の内面において「共感系」(賞賛、崇拝)に極度に偏ることをルシファー的、「反感系」(憎悪)に極度に偏ることをアーリマン系というふうにシュタイナー用語で言い換えると、今の人類は、シュタイナーが生きていた時代よりも「もっと危機的」に感情のジェットコースターゲームを「やらされている」のではないか、と思う。
昨今話題になるようになった「血糖値スパイク」現象のごときものに「自ら飛び込んで」、いわば魂の血管をズタズタに傷つけているがごときの様相だ。
なぜネット系の企業はわざわざ「サービス利用者たち」にトップに掲げた絵のような「振る舞い」をあえてさせているのか。
今日の「反社勢力」は、たとえば暴力団と言われるような旧来の反社団体、脅しや暴力によって庶民をコントロールするのではなく、「一見自発性の発露」であるかのような体裁をとって、庶民に影響力を行使し、「別の成果」を上げようとしているのだろうが、人類は「この便利さ・快適さ」を放擲できない。
They know how to con people
そういえば、シュタイナーは発明に関してこんなことも言っていた。
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40歳以下の人が発明した物は、人類の進化を遅らせ、特に道徳的進化を妨害する。40歳以上になっての発明品は道徳的な内容を含む。(「シュタイナー用語辞典」P227 全集192)
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今日の地球の物質文明(コンピューターを使った情報拡散技術)は「40歳以下の若い人」の発明に負っているのだなあと思ったりする。
勝海舟の『氷川清話』などを読むと、「切りに行って弟子になる」、とか、「刺すつもりででかけていって、相手に圧倒されてすごすごと帰宅する」なんてエピソードが出てくる。
高速移動できる乗り物も通信手段もない時代には「時間をかけて移動し実際に会って話をする」というのが「相手の人となりを知り理解する」ための「現実的」な方法だった。たとえ手紙のやりとりがあったとしても「それだけでは弱い」と思っていた人々がたくさんいた。だからこそ「実際に対面する」ことを重要視したのだった。
それゆえに、彼らの時代に生きていた人びとの方が「観察眼」というか「人を見抜く眼力」は今日の人々よりも本能的に上なのではないかとも思ったりする。
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坂本龍馬が、かつておれに、「先生はしばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者もいって会ってくるにより添え書きをくれ」といったから、さっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきていうには、「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」といったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。(勝海舟「氷川清話」)-----------------------------------------------------------------
伯楽力は、かつての日本人にも備わっていたと思うのだが、「国民を率いていこうとする人々からその力が急速に奪われていった」のが、日本の近代化(精神の官僚(コンピュータ)化ー養老孟司)の別の側面だったのかもしれない。
かつては、ピンポンダッシュ遊びは昭和時代の小学生の遊びだった。けれども、今日では初めから悪意を持ってサムズダウンのボタンを押すことに「精神の解放」を感じる輩(大人)も増えているようだ。
ヤフーニュースで訃報記事が出ると、多くの人がその記事を見て「数字を可視化する作業」に協力する。「お悔やみ申し上げます」という、これといって特に読み手に反感を抱かせそうにない投稿にも何十個もの「下げボタン数字」の表示がつく。
初めから何にでも「下げボタン」を押そうと待機している「得体のしれない人々」がいるということだ。
40歳以下の人々によって米国から生み出された「発明」は、人々を益しているのか、と改めてその功罪についてしばし考えてみた。 -
ひと月ほど前、Netflixで「転生したら剣でした」を見たのだが、このアニメで使われているサウンドトラックに注意が向いた。
いわゆるブルガリアン・ボイス付きのBGMが何度もふんだんに流れるのが非常に気になったからだった(アニメ自体も大変おもしろかった)。
それでひさびさDMMでサントラ盤のレンタルをやっていないかチェックしたら、あったので取り寄せて聴いてみた。
そのあとYouTubeで調べたら、なんと2枚組CDに所収されていた50曲が全部公開されていた。
私がアニメで気になったのが、そのサントラ(ディスク1)の第1曲目に出てくる「Reincarnated as a Sword」だった。
たとえば「Ghost in the Shell」や姫神の「神々の詩」で聞けるブルガリアン・ボイス風の歌声は「日本の生身の女性たちの声」によって録音されたものだった。
「転生したら剣でした」で聴くことのできる女性たちの合唱は、はたして「生身の声」によるものなのだろうかと疑問を持った。同じ疑問は以下の楽曲を聴いたときにも感じた。5:00辺りに飛んで確認してほしい。
Anymaが属しているAfterlifeの楽曲で聴くことのできるブルガリアン・ボイスだ。
「転生したら剣でした」以外にも「アレ、ここでもブルガリアン・ボイスが使われている」と思う経験が別のアニメ視聴時にもあったので、「これはどういうことだろう」と思い始め、「もしかしてすでにボーカロイド系の音源が存在してるんじゃないだろうか」と思い、ネットで探し始めた。
そうしたら、予想通り以下のような「ボーカル系音源」が販売されているのに気が付いた。
RHODOPE 2 ETHNIC BULGARIAN CHOIR
うかつだった。この音源は数年前にすでに販売されていたのに今日まで私は「そのこと」を知らなかった。
ヤマハの機械的なボーカロイド音源は、今日AIだとかいって実在の歌手のボーカルそっくりのフェイク音源がネットで氾濫し始めている昨今においては「時代遅れ」の音源になってしまった。
「ボーカロイド」という言葉は、ヤマハの登録商標なので、「ボーカルのサンプリング音源」を総称して何と言えばいいのか、いまのところよく分からないが、AIという呼称で米国からやってきた「声のサンプリング処理技術」はヤマハのボーカロイド技術をすでに凌駕している。
ボカロPなどといって、「モロ機械音」のような歌声を「ひとつの価値」ととらえて、受け入れられていた時代は、すでに去っているじゃないかと思う。
ボーカロイドよりも、よりリアルに寄せた日本語対応サンプリング音源は、いまは無料で手に入れることもできるようになったので、私も、いずれ試してみたいと思っている。
とはいえ、聴くだけの場合と自分も発声者として、和声体験に参加するのとでは、「感覚体験」に雲泥の差があるのも事実だ。私もDTMもやっているとはいえ、機械オンリーだとやはり反感を感じる。
打ち込みばかりで自分の身体性がまったく参加しないと「欲求不満」になるんだろうと思う。
コーラス音声というのは、リスナーとして聴くだけでも十分、脳内をモゾモゾさせるものだ。
人間の声による和声音は何か目の細かい紙ヤスリ同士をこすり合わせているような奇妙なざらざらするような感覚に陥る。特にブルガリアン・ボイスになるとその感覚がさらに激増する。
聴くだけでもそうなのだから、実際に自分がその合唱のひとりとして参加している場合、脳内に炭酸がシュワシュワ吹き出すような感覚さえ味わえる。それは甘美な何かだが、それが何なのか実は誰も明確に説明できないはずだ。
山下達郎が「on the street corner」をコツコツと一人多重録音で作った情熱を思い出す。
ブルガリアン・ボイスというのは、ブルガリアの民謡をソロではなく、和声合唱で構成したものだ。民謡的な発声のテクニックで合唱をすればブルガリアン・ボイスのようになる。
元来ひとりで歌い上げるのが日本の民謡であり、和声という伝統を持たなかった日本の民謡歌手たち、たとえば「Ghost in the Shell」における西田社中の面々に「ハモってみて」と指示を出して彼女たちに新しい試みをさせた川井憲次氏の酔眼である。
その流れの先に姫神の「神々の詩」という名曲もある。
P.S.1
ちなみに今回、「転生したら剣でした」のサントラを担当した高梨康治という人の名前を始めて意識したのだったが、この人はナルトそのほか有名どころのアニメの音楽をいっぱいやっている人だった。
P.S.2
Anymaが来年1月日本で初めてのコンサートをやるという情報が飛び込んできた。いよいよ日本人一般でも「認知」が広がってきたようだね。
世界最高峰の映像とステージングを誇るANYMAアニマ の出演が決定!