-
--------------------------------------------------------------------------------
(古代には)選ばれた人だけが、秘儀参入を通して、霊界を見ることができました。そのような人びとは、古代においては、「蛇」と呼ばれました。蛇とは秘儀参入者のことなのです。(ヨハネ福音書講義P140)
--------------------------------------------------------------------------------古来、象徴あるいは象徴図は多義的に用いられてきたので、判断を行う場合は、文脈を理解しないと大抵誤解に終わります。
たとえばヨハネの黙示録を「物質世界、あるいは世界政治的に読む人」は、ちょうどタロットカードに描かれている図案を「王様がさかさまに落ちていきます」次のカードは「火がが山頂に降り注いでいます」などと説明している人の言葉に、図案通りに反応し、かつて歴史的に物質界に存在したあれやこれやを「連想的に当てはめて、おそろしい未来が来る」と吹聴してまわる人と同じことをやっているにすぎません。タロット占い師はイメージが指し示しているものを解読します。ヨハネは人々に、タロットカードの絵柄をこんなものが描かれていると順番に説明する人のように霊界で見たイメージをそのまま書き並べているのですが、そのように受け取りたくない、唯物論的な感受性を持った人々が、物質界で起こるべき大災害だ、政治的変動だと受け取ります。
インドのヨガなど、神秘思想の領域において、尾骶骨から背骨に沿って上昇していく力(クンダリニー)を、英語でserpentine fire(サーペンタイン・ファイア)と呼んでいたりします。
日本人にはクンダリニーとサーペンタイン・ファイアと、どちらがより聞き覚えのある「用語」でしょうか?アース・ウィンド&ファイアのファンだった人なら、アルバム『太陽神』(原題All 'n All[オール・アンド・オール])に「serpentine fire」という曲が収められていますから、あるいはサーペンタイン・ファイアという言葉を知っているとおっしゃる日本の方もおられるかもしれません。
クンダリニーについては、ウィキペディアでは以下のように説明しています。
-------------------------------------------------------------------------------
インド哲学用語。 原義は「とぐろを巻いている雌のへび」で、人間の個人存在の奥底にある活力、可能力を意味する。
-------------------------------------------------------------------------------
シュタイナーの『ヨハネ福音書講義』にはこう書いてあります。
-------------------------------------------------------------------------------彼ら(秘儀参入者たち)がイエス・キリストの先ぶれでした。モーセは蛇を掲げる(民数記21章8-9)、つまり霊界を見る人びとに高めるという使命を、象徴として民衆に示したのです。(ヨハネ福音書講義P140)-------------------------------------------------------------------------------聖書には人類の言語が分断される原因となったバベルの塔の話が出ていますが、神智学の文献によると、アトランティス時代の人類の言語は皆膠着語だったそうです。その時代は、今日よりもずっと世界の人種・民族・国民相互の意思疎通が容易な時代だったはずです。
神智学、あるいはシュタイナーの解説によれば、アトランティス時代の終焉期に勃興したのがモンゴロイド、黄色人種です。それ以前にすでに6つの人種が勃興し、前衛の役割交代を重ねて行きました。ある人種が、力を得、力を発揮し、そして、次の時代の人種に勢力が移動していきました。今日でもそういう「力の担い手の交代劇」は「フラクタル的」に起こっています。
アトランティス時代の文明が「7つの人種による交代劇」によって進展していったのに対し、アトランティス後のユーラシア文明は「7つの民族の交代劇」によって進展します。
15世紀以降、今日までアングロ・サクソンが世界を牽引しています。英語は世界共通語になりました。しかし少し以前までは、ラテン系の民族が世界を牽引し、今日のアングロ・サクソンたちの先祖たちは自分たちを文化的に劣った者として、ギリシア・ローマ文化的なものを、あるいはラテン語を敬っていたのです。
それ以前の前衛文化はエジプト文化であり、その前は(今日知られているよりも以前の)ペルシャ文化であり、その前は(今日知られているよりも以前の)インド文化が人類の前衛的立場に位置しておりました。それより以前になると、すでにアトランティス時代末期の別のサイクル時代に突入します。
インドを大きな円の最下部として、左向きに時間を動かしていくと(下図クリック参照)、古代文明の担い手から近代文明の担い手へ順番に左回りに力が移動していることに気づくはずです。古代インド東隣にアトランティス人としての最後の人種、黄色人種が生きていました。黄色人は前時代の一連の文化継起の最後の場所を生きました(小さな6の端っこ)。継起する時間は、新時代を生きるようになったアトランティス系モンゴル人種と新たに生み出されたインド民族の間で分断されています。
神智学の文献によれば、アトランティス時代の黄色人種は、それまでの人種と異なり、アトランティス大陸では生じず、今日のユーラシア大陸が、古代的な形をしていた時代に、今日のロシアの北東部あたりを居住地として始まったということでした。
今日の人種は素質のいくつかを受け継いでいることはありますが、アトランティス時代の、人種と全く同じというわけではありません。今日の、人種は新しく生まれたもの、新生されたものです。
エドガー・ケイシーの1万年以上前の超古代時代のエジプトに関するリーディングに黄色人種の記述が出て来ますが、「黄色人種とはいっても、彼らは今日黄色人種と分類される人々とは顔つきが異なっていた」という不思議な記述がでてきます。
ちなみに余談ですが、アトランティス大陸からエジプトへ避難してきた高貴な人々は両性具有者だった。彼らはそれを誇り、両性具有者ではない現地民を軽蔑していたというこれまた奇妙な記述もあります。
アトランティス後の新しい周期は「新しい言語構造」を人類にもたらしましたが、今日でも膠着語を話している日本人は、古い時代の言語構造を受け継いだ民族です。今日の中国人の話す言語は膠着語ではありませんが、周辺のモンゴロイド系の民族には膠着語系が多いので、中国人は、ある目的で特別に分けられた人々だったのでしょう。
紀元前2000年より少し前頃に、ルシファーが人としてかつての中国に出現し、現地人を指導したとシュタイナーは語っていますから、モンゴロイドの仲間であるにも関わらず言語構造はむしろ、アトランティス後に世界中に出現した非膠着語系の言語を使うようになった今の中国人たちの先祖たちは、やはり特殊な立場に置かれていた人種民族集団だったのでしょう。
アトランティス文明が終焉して、新しい周期が始まり、今日もその時間軸上で事件が展開し続けています。前の周期においては、すべての人類が一般庶民まで秘儀参入者的でした。つまり地上生活を行いながらも、霊界もまた体験していたのでした。しかし、そのような「感覚体験」はたくさんの世代交代を重ねる間に次第に民衆生活から消えていきました。
キリストが地上に、人間の肉体のなかに顕現した当時、一般の民衆からは前の周期では当たり前に行使できていた「霊界を見る感覚」は失われていました。ただ言い伝えや伝説だけが霊界の存在を教えてくれていました。
それゆえにアトランティス崩壊後の周期において「秘儀参入者」という人々が価値を持つようになったのです。彼らはいわば菩薩道に参入した人々です。富士山が山開きするときは、まず富士山登山のあれこれに通暁したエキスパートが先に入って、後から来る「一般登山者たち」のために人知れず「道を整え」ます。そのように「彼ら」は、これから未来に向けて、霊界参入していく人類の安全を考慮し、見届けます。
「日本の神話部分は秘儀参入(霊界参入)を描いている」と何度も訴えてきましたが、YouTubeなどでも、このテーマをまじめに取り上げている「その方面の広宣人たち」をいまだに目にすることがないのが少々残念です。
伊勢遍歴をする倭姫命(やまとひめのみこと)は個人名ではないとどこかの記事で書いたことがあります。これは秘儀参入用語のひとつです。同様に、倭彦命(やまとひこのみこと)、も倭建命(やまとたけるのみこと)も「個人名」ではありません。
たとえばこの秘儀参入者用語は以下のように使います。
倭イワレ彦命
これは神武天皇の諡号として日本書紀に伝わっているものです。
倭〇〇〇彦命、という形式で呼ばれる人物は、「ある段階の秘儀参入」に至ったことを示しているのです。女性の場合は、倭〇〇〇姫命と呼ばれます。有名な人物として日本書紀に登場する倭迹迹日百襲姫命 (やまとととびももそひめのみこと)の逸話があります。ともに秘儀の7段階のうち、第5段階の秘儀参入を成功させている男女への呼称です。
神話上では、さらに高い段階の秘儀に参入できた者は、倭〇〇〇建命と呼ぶことになっていたらしいいことが暗示されています。ですから、神話に登場するヤマトタケルノミコトの「個人名」は今日伝わっておりません。倭姫命の遍歴物語もまた、彼女の「個人名」は示されていないのです。
西洋には「白鳥」を象徴とする秘儀の高次段階が存在します。ヤマトタケルの物語も「白鳥となって飛び立つお話」で終わるのは、興味深いことです。
「蛇」は秘儀参入者を暗示する符牒でした。オオキミの時代の日本において、「蛇」の象徴を持っていたのが大物主大神ですが、具体的にはその子孫と言われる物部一族が「秘儀実践の細則」を「不立文字」(とはいえ、当時は、もともと文字なき口承の時代でしたが)として保全してきたのでした。
のちの時代の物部氏の没落物語(=表舞台からの隠遁)は、「もはや本来の秘儀参入は行われない」ということの別様の表現でもありました。
遠い古代以来の霊界参入能力を素質として持っている人々は、必然的に減っていきました。アトランティス後の時代の「前半」は、そうなるように運命づけられていました。人間はかわりに知性を育てる周期に入っていたからです。
神話に登場する、倭姫命が「箸にホドを突かれて絶命するエピソード」は「蛇の一族、すなわち物部族に導かれて行われた秘儀参入の失敗を告げる物語であり、もはや秘儀の7段階のうちの、第6段階の秘儀参入の儀式に耐えられる者(アマテラス)はいなくなった」ということを示す物語でした。
-------------------------------------------------------------------------------《日本書紀》に登場する巫女的な女性。《古事記》では夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命と名のみみえる。謀叛の予見,神憑りによる神意の伝達などで崇神天皇を助けたとある。姫は蛇体の大物主(おおものぬし)神の妻となるが,その正体に驚いて夫の怒りをかい,後悔のあまり箸で陰部を撞いて死ぬ。よって姫の墓は箸墓(はしはか)とよばれた。奈良県桜井市にある大規模な前方後円墳がそれだといわれる。姫を邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)に比定する説もあるが,ともあれ大古墳の主という伝承自体,当時の巫女的女性の権威の大きさを物語っている。
-------------------------------------------------------------------------------
「蛇体の大物主神の妻となる」=第6段階のアマテラスの秘儀を敢行する
「その正体に驚いて夫の怒りをかい,後悔のあまり箸で陰部を撞いて死ぬ」=高次の霊界への上昇に失敗し、命を落とした。
この神話はエロ話をしているのではありません。今日のような唯物論者ならば、エロくて悲惨な話と受け取るでしょうが、「秘儀の秘密の管理者たち」は秘密を知るべきでない人々が「そのように受け取ってくれるなら、むしろ歓迎だ」と思っていたでしょう。
世界中にある「蛇殺し」の神話は、「アトランティス後の人類はそれまであった霊界を見る能力を失った」ことを神話的に表現したものです。ギリシア人の活躍した時代はもはや「特殊な素質を遺伝的に受け継いでいる少数の者以外、一般庶民たちが蛇たることをやめてしまった時代」でした。ただ、そのような神話・伝説を未来に解読されるべき贈り物として受け取り、知性の育成の時代に入っていったのです。
今年は巳年、蛇の年ですし、「モーセが蛇を掲げた」ように、新しい秘儀参入体験を持つことのできる人々がさらに増えていくのでしょうか?
楽しみですね。PR -
実は「爽快3Dゴルフ」はPlayStation2向けに販売されていた「エンジョイゴルフ!」の再編集版です。
PlayStation2対応版では、7つのコースが用意されており、PC版でプレイできるのは、そのうちの最初の2つだけなのですが、PC版のパッケージにはあたかも7つのコースがプレイできるかのような誤解を招くような説明文を載せているので、「騙された」と思った購買者(オレです)がけっこういたんじゃないかと思います。
この際、全機能をまるまるPC版に移し替えた新版を出してくれるとうれしんですけどねえ。PC版ではゲームパッドの代わりにマウスでボールを打ち出す方式になってますけど(アナログモード有りのゲームパッドにも対応しています)、これがとんでもなく習熟するのに難易度が高くて、やる気をなくした人(オレです)がいっぱいいるような気がします。
救いになったのは、PC版ではキーボードの「Y」と「N」のキーで球を飛ばせる機能が加えられている点です。
私の場合、右人差し指を「N」キー(パワー充填)、左手人指し指を「Y」キー(打ち出し)にあてています。
同時使用で上下左右の矢印キーを使うと、フェードやドローやスピンになるので、左手親指を「N」キーに使うこともあります。
PC版の場合、習熟難易度はマウス→ゲームパッド→キーボードの順になるかと思います。
私の場合、マウスやらゲームパッドやらを使い続ける限り、あさっての方向へフニャフニャの球ばかり出るので、「このままではアンダーパーなんぞ、いつ達成できるか分からない」と思い、「本来のゲーム設計思想」から見れば、チートを持ち込んでいるわけですが、今のところキーボードで球を打ち出しております(「つくしの原海岸線コース」-7、「レッドロックカントリー」ー2まで出せました。レッドロックカントリーの方が難しいです)。
最近になって、PC版ではカットされた他の5つのコースも見てみたいと思うようになったので、中古のPS2と「エンジョイゴルフ!」も注文しちゃいました(バカです)。当然ですが、PC版と比べると画質が圧倒的に悪いようですね。VHSに使われていたRCAケーブル接続時代のシロモノですから、これは仕方がないです。
PS1.ということでPS2と「エンジョイゴルフ!」(「みんなのゴルフ4」も手に入れました)が届いたので、「あらかじめ予想」していたように、PS2版では「7つのプリセットコース」に入れるのかと思っていたら、結局PC版と同じでした。
上の写真はPC版のものですが、黄色い円で囲んだ部分には何も入っていません。PS2版でも同じ表示でした。結局私の「先走った判断」は、「誤解×誤解=ふざけんな、こらー」で終了しました。まあ、でもPS2版ではオリジナル・ゴルフコースを造れるモードがあるので、いずれ作ってみたいと思います。他の5つのコースの一部は「ミッション」、つまり課題チャレンジモードとか「チャレンジ」(次々に対戦相手を負かしていく)でPC版にも登場してきますので、「そのこと」を採り上げて「7つのコースが楽しめる」などと購買者に誤解を与えるような説明文を書いていたのだったということが分かりました。「そうだったんだ」と分かって、がっかりではあったんですが、せっかくPS2の中古品を手に入れたので、ほかにもいろいろ「古いゲーム」を集めていこうかと思ってます。
2MB以下というアップロード制限がありまして、画質悪いですけど、以下はPS2バージョンのものをGIFアニメーションにしたものです。打ち出し操作は当然ながらゲームパッドのステックを右親指で動かしております。
よく売れた「みんなのゴルフ」シリーズは打ち出し操作がボタン式なので、「エンジョイゴルフ!」のPC版にY-Nボタン式が加えられたことはおおいに評価されてよい点ですよ。個人的には「みんなのゴルフ」みたいにキャラがデフォルメ(頭が異常にデカイ)されてるルック、つまり「かわいい系キャラ」をフィーチャーせずに、人物造形的にも、よりリアルゲームっぽい雰囲気を味わえる「爽快3Dゴルフ」の方が私の好みですよ。「爽快3Dゴルフ」には、自分にとってはジャマなものとしか思えない、他のゴルフゲームには採用されている、打ち出し前に登場する、ゴルフボールが飛んでいく予想経路の線がないのも、おおいに支持する点です。
最近50代のオジサンが乙女ゲーム内に転生してしまうアニメやってますけど、私も「爽快3Dゴルフ」内ではオトメになってプレイしておりまする。
ちなみに、ゲーム中、声優さんたちが「ナイスショット」とか「すごい」とか、声を提供してくれてますが、その中の一人がどうしてもHUNTERxHUNTERでヒソカをやってる浪川大輔さんのように思えてなりませんが、どうなんでしょうか。
PS2.トーナメントで3勝したら、アマチュアトーナメント戦への参加資格アイコンが現れて、予選・本選と勝ち抜いたら、。なんと3つ目のコースが「出現」しました。ああ、これでやっと理解しました。「一人遊び」(ストローク・モード)ではなく(基本こればっかりやってました)、「試合」(トーナメント)に参加して勝ち続けないと、新しいコースが出現しないということが。なんだ、そういうことだったんだ。ということは、このゲームかなり長く遊べそうです。PC版はPS2時代の粗悪な画質じゃなくて、ほんとキレイなんで、こんなきれいなコースで試合を続けていけるなんて楽しみだなあ。 -
「毎月最低2回は投稿する」と決めておきながら、昨年末はさぼっちゃいました。
そのかわり何に熱中していたかというとゴルフです。
とはいってもPCゲームですが。
ゴルフは20代の若いころ、ほんの数回打ちっぱなし場へ出かけたことはあったんですが、すぐに熱が冷めちゃいました。またゴルフのテレビ中継を見るということもなく、ほぼゴルフとは無縁で暮らしていました(というかスポーツに関してテレビでスポーツ観戦という習慣がない)。
昨年の秋以降、投稿は「やる気なしモード」になっちゃいましたが、かわりに熱中していたのが、打ち出す方向やらその時の力加減やらを「考えて実行に移さなければならない」という要素がメインのPCゲームでした。
そういう要素が「遊び・気晴らし」に欲しいというのなら、すでに以前熱中したPCゲームがありました。当ブログでも紹介したダイソーのビリヤードです。「場の状況」を把握し、方向を決めて目的の穴に入れる・・・似てますね。
そういうわけで、「遊び手にそういう種類の心理的負担をかけてくる傾向のゲーム」として、新たに熱中していたのが、ダイソーの「パターゴルフ」でした(今でも17番ホールはまったく攻略できてませんが)。
これは、かなりやりこんだので、「新たなゴルフゲームをやりたい」と手に入れたのが、Shock Price 500シーリズの「ゴルフ チャレンジ・アット・マウナラリゾート」
そして昨年末後半「爽快3Dゴルフ」を手に入れて、今、もっとも熱中しているのが、このゴルフゲームです。「いろいろな条件を読み取って、あれこれ考えて、じゃこれでどうだ」と打ち出すとうまくいったり、いかなかったりして、それが面白くてはまっちゃいました。
これらのゲームはみなWindows 95/98~xp時代のものなので、基本XP機を持っていない人はできませんが、私が手に入れた「爽快3Dゴルフ」はVista/7まで対応のものでした。SoftBank Selection「爽快3Dゴルフ」はWindows11-64bit機でも動くので、こっちは11の入ってるPCでやってます。
なお補足として付け加えると「爽快3Dゴルフ」は、ビリヤードと釣りと抱き合わせで再パッケージ化されて(タイトル「100万人のためのお得セット」内の表題は「めっちゃGOLFデラックス」Windows11まで対応と銘打ってます)再販されています。実はアマゾンでこっちのパッケージも買っちゃったんですが、実際に使ってるのは「SoftBank版」(旧盤)の方です(先に買って始めちゃってキャラ作って経験値をため込んでる最中だったので)。
実は年が明けて最後に手に入れたのが、「3Dゴルフ+つくろうMyコース 爆発的1480シリーズ」だったんですが、こっちにはまだ手をつけていません。
ゴルフゲームに関心を持った時期にNetFlixでは「ライジング・インパクト」アマゾンでは「オーイとんぼ」、そして新年「空色ユーティリティ」と、結構ゴルフ潮流来てますよねえ。「プロゴルファー猿」や「BIRDIE WING」を配信時期に見逃していたのが残念。大昔に見た「あした天気になあれ」をも一度見なおしてみようかな。
内面(自分の個人的な関心)と外(エンタメ)の流れが一致すると「不思議だなあ」と思っちゃいますよね。
PS1. とはいえゲームとは別にアニメ鑑賞では、昨年末もっともはまって見てたアニメは「ティアムーン帝国物語」でした(また見ようと結局4周回しましたよ、はは)。ちびまる子ちゃん系ナレーションを彷彿とさせる突っ込みを入れる成田剣の声は最高です。音楽は幼虫社と猫祭り姫をブログ紹介以後もずっとヘビーローテーションでした。ただしそこに強烈に食い込んできたのが吉田美奈子の「Gazer」。吉田美奈子がみずから打ち込んでつくった、今でいうところのDTM(DAW)系オケの完成度。これを90年代にすでにやっていたってのが、すごすぎる。今のDTM(DAW)系の業界で楽曲提供している若い人たちって「騒がしい、盛り込みすぎのオケで自己主張する悪癖」を払しょくできていないので、オケ(今ならトラックって言うのかな?)ってのは「ボーカルを生かす」ために存在するっていう原点に(だから歌い手と競ってどうする気だ)、「職人」として、も一度自覚的になってほしいよね。
PS2.子供時代の日本におけるゴルフの受容のされ方、あるいは人気の隆盛って、下品な方向性を持ってたよなあと回想する。各地にゴルフ場新設と投資対象としての会員券の売り買い、サラリーマンたちは接待のために、ゴルフ習得に熱中し、駅のホームでスーツ姿で到着列車を待つ間に傘で素振りしている、とか、こういう「典型イメージ」があった。今のゴルフは「そういう受容のされ方」って日本の巷の風景から消えてしまって、ようやく「下品さの払拭されたゴルフ環境」になって、サラリーマンの職場でもゴルフ系パワハラマウンターのいなくなった時代になってると思う。岡田斗司夫のいうホワイト社会じゃないけど、やっぱ「下品さ」ってだんだん払拭されていくもんなんだなあ。松本人志や中居正広のような人物と彼らを利用して企業の中でのし上がろうとしてきた、その手の業界のサラリーマンな人々の下品さも、はやく払拭されればいいよねえ。 -
前回の記事では、「エルフェンリートと百合の花」を扱ったが、今回はエルフェンリートと角について、さらに「連想」したことを書くことにする。
エルフェンリートに登場してくる少女たちの頭には、一見すると猫耳と誤認しそうな形姿の「角」が描かれている。岡本倫先生は、なぜあのような読者が簡単に誤解してしまいそうな形姿で(猫耳っぽく見える)角を描いたのだろうかと思う。
それは単にデザイン上のつまりルック上の審美的判断によって、日本における鬼のイメージのような「伝統的な角の描き方」を避けたからということなのかもしれない。作品中では、角と松果体との関連にも言及していたので、秘儀参入関連の話として登場してくる7つのチャクラ、特に眉間(アジナ)のチャクラの話とまったく無関連だとも思えない。きっと文献的な参照はされているのだろうと思う。
近年日本の漫画家やアニメーター、あるいはラノベ作家たちは、神話や魔術や神智学や人智学文献に詳しい人が増えていると思われる。ネタの宝庫だからだ。ところで一方で、飯のタネになるからとそれらの書物群を読み、その体験をもとに物語作りに没頭している彼らクリエイターたちは、自覚はなくとも「天啓」を地上で具象化しているのであって、中世的な布教システムのなかで、古びた説教を、教えられた通りにオウム返しているわけではない。組織安堵が目的の古い西洋由来、東洋由来の教会思想の頒布者たちは、今日もはや力を失っている。「彼らの言葉」はもはや民衆を感激させる力を失っている。
西洋においては、悪魔は角を生やして描かれているし、日本においては、鬼と呼ばれる存在は、童話の挿絵などで図像化されているように、やはり頭に角を生やしている。
古代日本人は「鬼」という漢字が日本に入ってきたとき、なぜか中国原義の「死霊」の意味を、「鬼」と書いて「おに」と読ませる漢字に含意させなかった。今日においても日本人にとって鬼(おに)は中国人が思うような「死んだ人間の霊」ではない。一方、ルドルフ・シュタイナーは、『神智学の門前にて』で、ミケランジェロは、モーセが秘儀参入者であることを象徴的に示すために二本の角を頭の上に加えたと語っている。
シュタイナーによると、額のチャクラは二枚の花弁を持っており、モーセの頭部に付け加えられた二本の角は、その二枚のチャクラの花弁の隠喩なのだ。つまり「角を持つ者」とは「秘儀参入者」の隠語でもあったということだ。
------------------------------------アストラル体に、ある器官が発生する。その器官というのは、七つのチャクラである。鼻根のあたり、眉のあいだのところに、二弁の蓮華のチャクラができる。霊視的な芸術家は、このことを知っており、作品のなかにそのチャクラを象徴的に描いた。ミケランジェロはモーセ像に、二本の角を刻み込んでいる。(P55-P56)------------------------------------神智学者のリード・ビーターは「これがチャクラのイメージ図だ」と、彩色された七つのチャクラの姿を『チャクラ』という本の中で紹介している。以下は眉間のチャクラの図像である。
『チャクラ』によると「眉間のチャクラの花弁は2枚または96枚」と書かれている。真ん中で半分に割って左右微妙に色合いが異なっていることは確認できると思う。大まかな色としては2色に分割できるが、さらに発展すると96枚に分節していくということなのだろう。
ちなみに、シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』においては、眉間のチャクラは2弁でできていると述べている。
以下は『チャクラ』掲載の図像に手を加えたものだ(画像をクリック)。
----------------------------------
そして今はじめて、両目の付近にある二弁の蓮華を用いる時がきたのである。この蓮華が回転し始めると、自分の高い自我をそれより一層高次の精霊達と結びつけることが可能になる。この蓮華から生じる流れは高い位階にまで広がっていくので、その精霊たちの活動が完全に意識化できるようになる。光が物体を見えるようにしてくれるように、この流れが高次の世界の精霊たちを霊視させてくれるのである。(文庫版P183)
----------------------------------
このように、ルドルフ・シュタイナーは、「額の二弁のチャクラを発達させた者は、高次の精霊(神霊)たちと交流を持つことができるようになる」と『いかにして超感覚的世界の認識を獲得できるか』のなかで述べている。
そういうわけで、古代の日本においても、二弁の額の蓮華(チャクラ)を開華させえた者(秘儀参入者)は、「額に二本の角を生やした者」あるいは「おに」と形容されていた時期があったのではないかと考えたのだった。
飛鳥・奈良時代は「日本精神の中国化」が進められた時代だった。特に大化の改新の均田制の導入は司馬遼太郎によれば「古代の社会主義革命」だった。また彼によれば、その時代は一方では、国家によって民衆が黙らされた時代だった。(参考『この国のかたち』)
高松塚古墳には人物像が描かれているが、それは、あきらかに当時の中国人の風俗図であった。では、日本の選良たちが「中国文化にかぶれ」る以前の日本人は、顔をどのように描いていたのだろうか、というのが新たに芽生えた私の関心だった。
そう思ったとき、隔世遺伝のごとき復古趣味、つまり両親(飛鳥・奈良時代)からではなく、その前の世代(おおきみの時代)の祖父母の因子が遺伝されるように、平安時代の化粧法の中にその「日本本来の化粧思想」が隠れているのではないかと、ふと思いついた。
そして同時に30年ほど前、ニフティーサーブでパソコン通信をしていた時代に出会った「ある議論」を思い出した。
それはスサノオノミコトの図像には眉の下に角が描かれている、というものだった。それが以下に掲げた、島根県松江市の八重垣神社に伝わる絵画である。
左がスサノオノミコト、右がイナダヒメの図像と伝わっている。両人ともに本来の眉を消し、額の左右にべったりと墨を塗ったような大きな眉が描きこまれている。「スサノオノミコトの左側の眉はなぜ盛り上がっているのか、これは角ではないのか、角の上から眉墨を大きく塗りこんだ姿ではないのか」という問題提示だった。
今日、考古学的遺産として残されているのは、当時の日本の指導層がどのように隋・唐の政治・文化風俗に感染させられたか(かぶれたか)を示す証拠である。
高松塚古墳の壁画に出てくる人物画は、眉間に文様はないが、眉は「正しい位置」にしっかりと描きこまれており、これらはそのまま当時の中国人の風俗そのものだと言える。また正倉院にある「鳥毛立女屏風」からは、眉をしっかりと描き、眉間の間に文様を描き込むという、当時の中国婦人たちの化粧風俗を読み取ることができる。
今日の日本の女性の眉は時代によって濃くなったり、薄くなったりしても、本来眉のあるべき「ただしい位置」に描いている。だが、そもそも平安時代の貴族たちは、男も女も「本来の眉のある位置」に眉を描かなかった。
当時の中国人たちが「眉のある場所に眉を描いていた」のに対して、日本の貴人たちは本来の眉を消して、額の位置に新たに眉を描き込んでいる。
わざわざそんなことをする理由が「何に由来しているか」、実ははっきりしたことは一般には知られていない。ただ「確かにこの化粧習慣は中国産ではない」と思われる。とすれば、その淵源は飛鳥時代以前の「秘儀の文化」からもたらされたものではないかというのが私の見立てだ。
2.3世紀ころまでの日本人は、まだ肉の体にありながら霊界を垣間見る能力を残していたらしいことは、以前にも書いた。
そのような人々の中に、高次の神霊たちと交流する感覚を持っていることを示す「眉間のチャクラ(蓮華)」の開華者たち、すなわち秘儀参入者たちが存在した。彼ら彼女らは「光り輝く眉間のチャクラ」を有していた。
6・7世紀には、本来の秘儀参入者は日本の朝廷周辺からも消えてしまっていたが、「古代の思い出」はなお残っていた。
古い時代、魏志倭人伝に書かれているように、貴人とは秘儀参入者であるがゆえに拍手を受けて敬われる存在のことだったことも前回書いた。
平安時代に「シナ革命以前の日本の古代への復古(国風文化)」として、当時の貴人たち(貴族たち)が、自分たちの化粧として施した「不思議な眉の描き方」は、「強い霊力の持ち主の象徴として二本の角(二弁のチャクラ)を額に持っていた先祖たちの子孫」であることを表示する、いわば記号だったというのが私の見立てである。
平安時代の日本の貴族たちは<男女ともに>同じような眉の描き方をするようになった。あるいはすでに以前から「日本人の伝統」として、飛鳥・奈良時代には、そのような化粧法(秘儀参入者であった先祖の思い出として、その血を受け継ぐ子孫のあかしとして、「角持ち」の象徴として額の高い位置に眉を描くこと)はあったのかもしれないが、考古学的遺物として発見された中国式肖像画の存在が、そのような「伝統の先在」の事実を覆い隠していたのかもしれない。
飛鳥・奈良時代の人物画として日本に残っているものは、「当時の日本人」を描いたものだったのかさえ、あやしいからだ。それは単に当時の中国人の姿だったのかもしれない。
古代中国文化が流入する以前の古代日本には「神あるいは貴人の肖像を描く」というような文化はなかったのだから。
「古代へ帰れ」あるいは、新しい攘夷、あるいは王権継承というのなら、飛鳥以前の大王(おおきみ)の時代までの文化、「秘儀参入者たちが統治した時代の文化」へのまなざしが復古する必要がある。これは今日の日本人にはまったく知られていないものである。
見たり聞いたり触れたりする行為は「直観」的(直接的)認識である。先祖たちが、近代日本人が失って久しい「ある直観能力」を持って霊界と物質界を「それぞれの感覚器官(直観器官)」を用いて「認知」していた時代があったということを認めることから始めなければならない。しかしそれは唯物論者であることをやめた者にしか始められない。「それぞれの感覚器官」と書いたが、今日、その片方はずっと失われたまま「復活する」のを待っている状態なのだ。
実際には目には見えないが、「すべての自然物に神霊が宿っている」と空想することをアニムズムという、と近代西洋の唯物論の土台の上で思考作業を重ねている人文科学者たちが語ると、「その意味が担っている土台(実際には自然の中に神などいないのだが、という唯物論者の隠れた悪意」を観取できずに、「これは古い日本文化賞賛のための補強理論になる」と思い込んで「日本人は古来アニミズム思想で生きてきた。すばらしい、日本の古代人は最高のエコロジストだった。自然にはどれもこれも神々が宿っているから大切にすべきだ。実際には古代人にも神々なんて見えなかったのだろうが、考え方自体はすばらしい。だから近代日本人はそのような古代人的思考態度を持つべきだ」などという宣教にしきりに感心して、このトピックは近代日本人への「政治上の説教話」に使えると思いなして、実際にそれを言う輩がとても多いことが問題なのだと気が付かない。
YouTubeなどで「日本最高教」を布教する彼ら自身は、まさに「近代の子」であり、日本の遠い先祖たちは「自然界についてこうあれかしと空想」していたのではなく、「実際に神霊を見、交流していた」ということについては夢にも思っていないのだ。
人間が「実際に神霊を見、交流すること」はアニミズムではない。それは「近代の学者が論文用に空想してこさえ上げた架空の思想」ではなく「実体験」なのだから。日本において左翼的エコロジストにしろ、王党派的な政治的に右側を自任している人々も、実際には「近代人特有の感受性と近代に書かれた歴史解釈本で学習した連想感覚」で古代人を眺めているにすぎない。
皆「どのように思考するか」については「唯物論的近代教育の犠牲者」なのだ。近代人的な連想感覚を土台に作成された教科書の内容でテストされ、高得点をとって、権威筋から褒められ続けると「その言語ルール」のなかで他者とのペーパー競争に勝利し続けてきた自分に酔ってしまい、そこから冷めることのできない悟性魂(硬直脳)のままの利口者もいる。
だから「古代の神話を読んでみよう。万葉集を見てみよう。人の心は昔も今も変わらない」などという「近代人特有の言い回し(偏見)」から抜け出せない人々の「解説」など、本来聞くべき真実な内容を持っているはずがないのだ。遠い古代以来、人間は変容し続けてきたし、これからも変容を続けるのだから。人の心(認識力)は昔と今では変わってしまったのだ。
今後人類が「どのように変化」していくのかについての見取り図については、かつて当ブログでも書いた。
シュタイナーの語る「7の5乗の世界」
今後、一人でも多くの人に「この観点」が共有されるようになっていくことが新しい時代感覚の進展の到来時期の早さ、遅さを決めていくことになるという話だ。 -
それほど昔の話ではないが、いつだったかネットでアニメ「エルフェンリート」のオープニング曲の「Lilium」が西洋圏の教会で讃美歌として歌われているという記事を目にしたことがあった。
百合のことを英語で「Lily」と書くが、「Lilium」はラテン語である。歌詞もラテン語で歌われている。それでその時はその動画を見たあと、アニメ「エルフェンリート」についてウィキペディアの記事に飛んでさっと目を通した記憶がある。
エルフェンリート(妖精の歌)という言葉はドイツ語でelfenliedと書く。原作の漫画を描いた岡本倫氏は、もともとドイツ語圏にあった有名な楽曲から着想を得たらしい。アニメには使われなかったが、原作漫画の方では、そのヴォルフのエルフェンリートが引用されている。とはいえ、このエルフィンリートはアニメ版のオープニングテーマの「Lilium」のように悲壮な感情を呼び起こすタイプの曲ではなくもっと軽快な感じの曲調だ。私は、これまで20年近く「エルフェンリート」というアニメを見たことがなかった。このアニメは2004年に公開された作品だが、日本よりも海外で今なお評価が高い作品だという話だった。
当時は「Lilium(白百合)」という歌と、去年の秋、隣の空き家の庭で初めて目にしたタカサゴユリとはつながっていなかった。
今年の9月6日に、去年同様一輪のタカサゴユリが隣家の庭に咲いているのに気が付いた。去年の関連記事については以下のリンク参照のこと。
10月7日(土)からの三連休は変だったけど、タカサゴユリでほっとする
ふたたびタカサゴユリ
The age of the lily 水瓶座時代はユリの時代
今年見つけた花は、去年に比べて小さい花だったので「どうして小さいんだろう」と不思議に思ったが、ふたたびユリの花を見ることができたことがとてもうれしくて、「よっしゃ写真撮ったろう」と私の家の庭から腕を伸ばして撮ったのが以下の写真だ。
写真をよく見ると(写真をクリック)、「その時咲いていた小さいユリの花」の右隣にすでに花を落とした後のタカサゴユリの茎の様子が写っている。落ちている花の様子から、咲いていたときは、今咲いている花と同じくらいの大きさだったと思われる。「あっそうか、まず右側が先に咲いたのに、オレ、気づかないままだったんだ・・・・・ってことは8月の下旬にはすでに咲いていたってこと?そんな時期に咲くとは予期してなかったもんなあ」
そんなこんながありつつ、最近また「Lilium」をYouTubeで聴いて「やっぱいい曲だなあ」と思ったので、今度は「Lilium」という曲についてネットで調べてみた。
アニメ「エルフェンリート」のオープニングテーマの「Lilium」は悲劇的な人生を歩まざるを得なかった主人公のルーシーを、西洋(キリスト教圏)で「純粋」「無垢」あるいは「聖母マリア」の象徴とされている「白百合」に仮託して日本の作詞作曲家たち(小西香葉&近藤由紀夫)によって讃美歌様式で書かれた作品だった。
この記事に「気づいた(意識的になった)」とき、去年、当ブログに投稿したエドガー・ケイシーが語った水瓶座時代=「ユリの時代」にまつわる論考やら隣家の庭に咲いた三つのユリの花の記事に連想が接続した。
それで「あ、これはアニメを見なくちゃいけないな」と急にそわそわした気分になり始めたので手始めに地元のレンタル店に行ってみたが、なかったので、そんな場合いつもやってるようにネットレンタル店でレンタル可能かどうか調べた。ちゃんとあった。ちょうどツタヤ・ディスカスが一枚55円セールをやっている時期だった。ちなみツタヤ・ディスカスでは第1巻が借りられなかったので、あらためて別途DMMで第1巻を借りたのだった。
アニメ放送当時は、もともと16:9で制作されていたものを4:3にトリミングして放送したそうだ。残虐なシーンには修整が施されていた。DVDはトリミングなしの、もともとの16:9で製品化されており、テレビ放送時の修整は取り除かれてたので、見た目上の残虐度は増している。にもかかわらず、「このアニメは見た人を感動させる」と思った。
ひさびさに心の深いところにジーンと刺さったアニメを見たので、原作の漫画とCDも手に入れたくなった。そういうわけで原作漫画12巻とMOKA☆の合唱版CDを手も手に入れた。
このアニメのために作曲された、「白百合の象徴に関連した主題曲」があまりにも出来がよくて、オープニングのクリムトから引用された映像とともに「これなしではこのアニメのトーン(諧調)を成立させえないほどのインパクト」を視聴者たちに与えてしまうという重大な役割をこの楽曲はになっている。
だから私は、このアニメには図像としても「ユリの象徴」が出てくるはずだと思いながら見ていた。するとやはり何度か出てきた。
そのひとつが、ルーシーが幼いころ養護施設でひどいイジメに合い、その騒動の果てに、能力が暴走し、広間のテーブルの上の花瓶に生けてあったユリの花が血しぶきを浴びて赤く染まる、という、すごく象徴的なシークエンス。
ほかには、頭に銃撃を受け、「赤ちゃん(無垢)返り」になってしまったルーシーが世話になる、コウタのいる屋敷のなかにも、またさりげなく(血に染まっていない)ユリの花が出てくる。(以下参照)実は、原作の漫画には全体を通して「白百合の象徴」は出てこない。「血にまみれた白百合」が出てくるアニメの養護施設の広間シーンは漫画には出てこない。漫画においては、ただ「そこで殺戮があったこと」が示されるのみだ。
このアニメが「悲劇」として絶大な心理的効果を視聴者に与えるのは、劇中で何度も流れる「Lilium」という曲のバリエーションと、ところどころで象徴的に示される「百合の花」が、「ルーシー(楓)の運命の悲劇性」をたえず思い出させるからだろう。
「Lilium」という讃美歌と「百合の花」の図像を象徴的に提示するという「アニメ独自の観点を持ち込んだ」ことで、このアニメは「悲劇を宗教的に昇華させる象徴性」を獲得したんだと思う。
そういうわけで毎回、白百合の象徴を讃美歌にして始まるオープニングテーマを聞きながら話の展開を追っていったキリスト教圏のアニメ視聴者たちは、日本の視聴者たち以上に、より強く宗教的テーマ性を連想し、深く受け止めることができたんだろうと思う。だからこそこのアニメは「日本より西洋圏でこそ評価された」のだと思う。
アニメではルーシー(本名は楓)、ナナ、マリコという三人の角持ちの娘たち(ディクロニウス)が主要人物として登場してくるが、私はその三人の娘と、去年、ブログ投稿時に話題に出した三本のユリの花とを連想で結びつけてしまった。そして去年は三輪の花が咲くはずが、最後の一輪は咲けなかったこと(開花の時期まで時が待ってくれなかった)を思い出していた。
けれど、今年はすでに二つの花が咲いた。そして、そのときからひと月が経過した或る日、なんと三つ目の「白百合」のつぼみが、「彼女たち」の「右側」に出現しているのを発見して、私の心は高揚した。
それからの一週間というもの、私は「雑草駆除業者がやってくるんじゃないか」とびくびくだったが、ありがたいことに、この時期、雑草駆除は行われなかった。
そういうわけで、なんとなんと、その三つ目のタカサゴユリはひと月前に咲いたユリたちよりも大きな花を咲かせて、りっぱに花の一生を終えた。その一部始終を観察して「去年咲けなかったぶん、大きく咲いたんだろうか」などと非論理的なことを考えつつ、去年のようにならずによかったと思ったのだった。