-
人があれやこれやの音楽を好むって、食べ物の好き嫌いと似てるような気がする・・・・・。
「オレはデスメタル以外受けつけない」とか、「アナタ、大衆音楽をピアノで弾くなんてもってのほかよ。クラシック・ピアノの技術が汚染されるわよ。だから絶対近づいちゃダメ」とか言う人たちがいるとしたら、これはかなり極端な部類だろうけど、でも彼や彼女だって「好きなものはスキ」以外ないんだよねえ。
でもデスメタルしか聴かなかったロンゲ兄さんが結婚して、娘ができて、彼女がアンパンマンの歌ばかり歌うようになったので、アンパンマンのCDを買ってきて娘と一緒に歌ったりするようになることもあるわけです。
とはいえ世間一般に対してはJ-POPとかK-POPなんか聴いてる連中に依然として相当に憎しみを感じてたりする。「そんなくそみたいな音楽聴いてんじゃねーよ」などと毒を吐く。でも外出中なにかの拍子にアンパンマングッズを見かけたら、娘のために買って帰ろうなどと考える。
このお兄さんは「お父さん」的には「娘の好きなものを否定したくない」のです。むしろ「理解したい」「受け入れたい」と思うから、娘への愛ゆえにアンパンマンへの関心を持つようになった。
でも人間は見知らぬ他人の好みなら、自分の好みと照らして、強烈に否定したくなるもんですよねえ。食事についてのたとえでいうなら、世に出回っているものなら、なんでも食べられる、ほとんど好き嫌いのない人もいれば、特定のものしか受け付けない偏食がちな人もいる。そういうもんです。
音楽の受容態度にも似たような問題はありますねえ。私もついついアニソンなどで最近よく遭遇するようになったDAW系の「やっつけ仕事」のような作品を「ただただうるさい編集をする楽曲」だと思って、批判的になってしまうんですけど(DTMソフトからアウトプットさた「デジタル音源オンリーなオケ」からはどこか不快感を感じさせるザラザラしたような変な周波数が出てる気がする)、それでもそういう曲を「何度も聴きたくなる名曲」として、好んで聴いている層もいるはずです。
まあ、日本のアニメ産業は番組の最初と最後に音楽を付けるという「先人が始めた伝統」を踏襲し、「こういうことを必ず盛り込む必要なんかないのにね」という疑問を当事者たちが感じていても「大人の事情」的発注作業を前例通りにやらざるを得ないんでしょうねえ。
これまでのセオリーからすれば、「編曲が歌(ボーカル)を生かす」には「やりすぎ盛りだくさん状態からいかに引き算的発想ができるか」が曲を名曲にするかどうかの分かれ目になりそうですが、彼ら「DAW系でメシを食っている人々」は「自己主張」をしなければ、つまり「ホラちゃんと仕事してますでしょ的証拠」をアリバイとして提示したいがために「デジタル音源を用いた編曲(過剰盛り込み)作業をついついやりすぎてしまう」のが常態になってるんじゃないだろうかと私はひそかに疑っています。
アニソンを発注する側も「アニメ本編の前後に約90秒の歌を入れるという伝統的フォーマットが整えばいい」だけなので、その形式に沿った発注をすることで、「これで発注者としての責任は果たした」ということなんでしょうねえ。何かすごく機械的流れ作業っぽくなってます。それに今後アニメのOPやEDもますますAI発注に置き換わっていく可能性もありますしね(すでにエンタメ業界のなかで仕事をしている「受注職人たち」は機械に吐き出させたものを自作品として自分のDAW環境に取り込んで部分的に再編集しながら楽曲作りをしているはずです)。劇伴制作も含め「アニソン(あるいはゲーム)界隈でよく流れているような〈そんな感じのようなもの〉が納期を守ってちゃんとできあがっていれば、それで業界仕事的にはOKなんだよ」的「職人マインド」(とてもこんにち的です)の成果です。
さて、前置きが長くなりました。ルドルフ・シュタイナーは「理解するということは、ある事柄を別な事柄に関係づけることです。この世では一つの事柄を他の事柄に関係づけなければ、何も理解することができません」と。「教育の基礎としての一般人間学」で語っています。
唯物論的な表象(概念)を「身近なもの」として生きてきた人は「その自分が知っている唯物論的表象」と「今出会った対象」を関連付けることで「対象が何なのか理解した」と判断します。古代のキリスト教徒は黙示録を読んでICBMと関連付けたりはできません。そんな「表象」を持っていないのですから。「彼ら」は当時彼らが身近に持つことができた表象と関連付けて理解しようとしたでしょう。こんにちでは、ICBMのたとえのように、世界を唯物論的イメージと関連付けるようになった人々がキリスト教徒を自称しています。「救済」のイメージも物質生活的表象内でしか理解できなくなっています。(また話がそれました。)
人が音楽を聴いて「これはよい、これはあまりよくない」と判断するのも、自分の過去の音楽体験が、新曲を聴くたんびにたえず想起されて、「その関連付け行為」が審美判断の助けをしているためでしょうねえ。
最近アンテナにかかったアニソンのひとつが、レトロリロンの「エゴ」です。
シンプルなエイトビート曲っていまでは希少品になってるんですよ、特に現在の日本の音楽環境下では。昔そのために世界戦略的に自滅した家電品やガラ携帯の「狭いところに機能を何でも盛り込め感」の局所最適化的適応行動、「その精神」の再現が、今再び同調的横並び音楽業界において、起きています。男性ボーカリストたちの、高域発声指向も「売れ線」を意識するがゆえの業界的「同調圧力性」だろうし(注:日本人の日常における声域の変化について別の領域から考察している車田さんの動画も面白いですよ)、女性ボーカルは皆上手なのに「個性」がない。というか、あの独特の節回しは、あえて「モデルケース」になっているような何かに寄せるように、ボイストレーナーに付いて発声訓練をした結果の「非個性化」なのかもしれないし。どちらにしろ、「個性的な」それでいて「天然のよい声(ポピュラー音楽ではこれが大事だ)」を持った歌い手が、昭和・平成時代にくらべて格段に少なくなっているのではないかというところも気になるところです。
よい歌詞を書く甲本ヒロトが「日本のリスナーは歌詞を意識しすぎる」というような趣旨の不満を漏らしていましたけど、それは皮肉な話ですが(裏を返せば「音楽」として「聴く」ためのセンスが弱いということでもあります)、歌詞なんか(それを自己主張だとかメッセージだとか言うならば)どうでもいい(誤解しないでね)、思うまま、なんでも歌にしてくれ(ただし楽曲との音韻的な--音楽的な--違和感を感じさせないこと)、とにかく自然に体が揺れる、そして誰でも1回耳にしたら、たちまち聴き手の中で自然に鼻歌化されて覚えられてしまう、そんな言葉のリズムとメロディを持っている楽曲が日本でも「再び生まれるようになってほしい」と最近つくづく思うんですよ。
------------------------------------------------------------------詩人は、詩の言葉を紡ぐ際に、呼吸のリズムを保とうと努めている。歌を作る人は、すべてを呼吸、ひいては頭の呼吸へと回帰させる。人が話すことから歌うことへと移行するとき、地上の状況に言葉を適応させるために経験してきたことを、ある意味で元に戻すことになる。実際、歌は地上での生活以前の経験を思い出す手段である。私たちは、思考システムよりもリズムシステムを通して、精神世界にずっと近いところにいる。(ルドルフ・シュタイナー「音楽の本質と音色の体験」GA283)「再び」とか言いましたが、というか流行歌をレコードにして売るという文化が日本で始まって以来最近までずっと「それが常態だった」んですよ。だから「異形の進化」を遂げた、J-POPなどと呼ぶようになった今の日本の音楽は(外国人YouTuberさんたちがいくら今の日本の流行歌をJ-POP、J-POPと言ってほめたたえようと)、これまでと異なった、非ニッポン的な何かになっており、今は異質時代なんですよ(もはや日本は大衆音楽進化史的には衰退期なのかも)。
------------------------------------------------------------------
ジャニーズ・システムが崩壊して以降、ますますそのような「ショービズ系」の新たな展開がJ-POPなどというジャンル名を騙りながら、再起動しているんじゃないかと思います。
昭和時代まではそのようなジャンルは、新しく台頭してき世代には「歌謡曲部門」として認識されており、とはいえ明るい大衆歌謡であれ暗い演歌であれ、歌い手はよく訓練された歌手であり、ほんとに歌が上手なプロでした。
のちに「使い道」の分からなかった「若者たちの帰依心」(本来は尊いものですが)を金銭に交換させるために偶像性を売りものにするアイドル系が産業として歌謡曲部門に加わっていきます。そして今やJ-POPもこの流れの延長線上に成立しています。
しかしそれでも、60年代、70年代当時における「これまでと違う何か」を求める日本人の感情が、「別のアティチュードを持って活動し始める人々」によって日本で起動した時代があったんですよ。それらの作品群は、のちにニューミュージック(私のパースペクティブではフォーク系からポップス系、ロック系まで範囲は広いです。つまり戦前戦後を通じて歌謡曲販売において通例となっていた作詞家先生・作曲家先生への発注方式とは別のアプローチを採るようになった人々の出現です)と称されるようになりました。
「異なった精神からは異なった作品が出てくる」・・・・それは当たり前ですけど、こんにち「その精神」は消え去っているのでした。そしてネット時代になって世界が「ようやく発見」して評価してくれるようになったのは「今の旬の騒々しく落ち着きのない日本の流行音楽」ではなくて、70年代80年代の「楽曲」でした。
「ポチって支持表明」と言う安楽時代に入って以降、「統計的数字」と国民の精神に本当に「忘れられない音楽体験」として浸透できているかどうかの関連性があやしくなっている。実態は資本主義理念のもとでの音楽産業的展開にダマされてるんじゃないかと思ってます(ま、これは米国なんかも同じでしょうが・・・・)。
2:55辺りからリック・ベアト氏(彼のYouTube番組面白いですよ)がしゃべっている内容に注目です。
こんにちの日本においては、投下予算を組んでのTV局とのタッグは昔からですが、それに加えて、韓国企業から手法をまねたらしいポチリ部隊やネット書き込み部隊を編成する、という「新しいプロモーション予算の投下」が「仕掛け手側」でうごめいているんだと思います。こんにちYouTubeで日本人向けの日本語版コンテンツをAIを駆使しながら大量に作っているのは東南アジアなどに拠点を持ってうごめいている「アジア系外国人たち」です。日本の音楽産業においても、日本の資本家たちが「彼ら」を手駒のようにして利用している可能性が大です。
ということで、またまた脱線から修正。
日本ではギターのアンガス・ヤングの半ズボンにカバンという「ステージ衣装」がダサいと判定されたのか、そのせいでなのかは、はっきりしませんが、日本人には人気がなかったAC/DCとか、ドラムはただドンタン・ドンタンいってるだけですよ。そんなふうにエイトビートはやりすぎないのがいい。それでも偉大なバンドでした。
DAW系の曲のドラムアレンジって、ドラム叩いたことがないまま、思うままにやってんだろうなあと思う場面も多いです。
レトロリロンという名前のバンドですけど、最初私読み方が分からなくて、レト・ロリ・ロンと読んでしまいました。なにレト・ロリ・ロンって変な名前・・・・と思ってしまったのですが、あれこれって実はレトロ・リロンじゃね? と思うようになりました。相対性理論というバンドがいますし。だったらレトロ理論って表記してくれたらよかったのに、と思ったのでした。
声が独特です。でも、最初に聴いたとき、やはり過去作品との関連付け体験が当然起こったわけです。
声質に関して、なんかNOBODYとかを思い出しました。
それとBOOM BOOM SATELLITESとか。以下アニメ「忘念のザムド」で使われた曲です。
「忘念のザムド」については大昔当ブログでも言及したことがありました。「ジブリ臭がする」と。後でスタッフロールで気が付いたんですが、背景画にジブリが参加していたのでした。
レトロリロンと声に類縁性を感じるという切り口で採り上げた2曲でしたが、どちらも男性二人組ユニットでしたが、それぞれ相棒をすでに亡くしてるんですよねえ。
レトロリロンさんはこんにちの日本の売れっ子ミュージシャンたちのような「やりすぎな編曲癖」に走らないように願いたいですけど、やっぱ時代の同調圧力というか、同じ病というか誘惑にかられてるんでしょうか・・・・。
ああ、ロックしなないで。
ということで、最後にそのレトロリロンの「エゴ」のフルバージョンPR -
なんかやる気なしモードから一転、「どうでもいい話だけど、ネタとして出しておこう」と思ったので、最近監視カメラに残っていた「たま飛びシーン」をご紹介いたします。GIF化しました。
「たま」が玄関先から外へ出て行って左に曲がって消えます。
私自身はあまりこういう「光学現象」に「深い意味」を感じたりはしないんですけど、だって自然科学現象として、ホコリの赤外線反射映像って言いながら、投稿してもいいわけですし。
ただ主観的には「比喩」、つまりファンタジーの力によって、自然現象の背後に「主観的解釈=物語」を付け足したくなるときだってあるとは思います。
去年の夏、タカサゴユリでいっぱいになった「空き家化した隣家の庭」で、以前こんな写真が撮れたことがありました。
これにフィルターをかけてみます。
一枚目より少しだけ明確になりました。私は「おお、これは私の目の前で空中を移動しているアナコンダみたいな何かが、たまたま映り込んだんだな」と解釈(空想)することにしました。
「空気」を体として活動している存在がいるらしいですし。ま、これも条件がそろったときに出現する虹という光学現象のように、「ただの自然現象」なんでしょうけど。
ただ「裸眼」では、そのとき、そのあたりに周囲と明確に区別できる「熱のかたまり」のようなものは見えなかったので(というか、たとえば風というう現象があることは皆知っていますが、「どんな見た目(形態)」で吹いているのか人類は認識できません、空気の(透明なもの)の動きですから。
水の沸騰とか対流現象、あるいはゆらゆらする陽炎現象だったら、少しだけ「光学意識」に上りますね)、カメラという機械が「瞬間の光学現象」を切り取って「人間が見逃している光学的瞬間がある」ということを教えてくれるのは、一種の「教訓」のようなものですね。
病的な状態になった人が、幻覚を見るとき、つまり光学像レイヤーに、本来なら「内界」に属しているイメージを第二レイヤーとして重ねて見てしまうこともありますね。
こういった人間の認識の錯誤体験を技術化し、軍事に応用して、最終的に日本政府が戦争犯罪者となった大佐の恨みを買った事件を「攻殻機動隊 ARISE」で描いていましたっけ。
というか、誰でも日常的に「空想」することで、「イメージ・レイヤー重ね」のようなことをやってるはずです。目を開けて何かをしながら、数字なんかを思い浮かべていたり、旅行で行ったことのある場所をふとイメージしています。「光学像」を見ながら「頭の中の別の像」を思い浮かべている瞬間が誰にでも「頻繁」にありますね。
一方のレイヤーだけを透明化したり、二つを同時に重ねて表示したり、PCの画像作成ソフトは自在にできますが、人類には「その潜在能力を駆使して内界の認識像の明確さを上昇させる時代」にはまだ至っていないようです。
ということで最後はまたまたシュタイナーの人智学内容(特に『いか超』)の暗示的な書き方になってしまいました。
Go into the layer・・・・・のために結局死ぬまで修行。でも私の場合は、来世に期待するしかないでしょうねえ。ヘタレですから。 -
投稿が滞ってましたが生きてますよ。
シュタイナー関連の記事を投稿しようと思って当ブログを維持してはいますが、なんかやる気なしモードになっていました。そういうわけで、どちらかというとぼんやり過ごしていましたが、気が付くとアッという間に1週間、さらに1週間と時間が過ぎちゃってます。
まあ、投稿は「仕事」じゃないので、他者にとっては別にどうでもいい話でしょうけど。でも例えば、100万人に一人の確率で、ある人物が、大抵の人にはどうでもいい「ニッチな情報」を探していて、ここで書いていることを「欲しかった情報」として扱ってくれる場面があるなら、時々でも投稿を続けていく「社会的」意味はあるんじゃないかと思います。
そもそもネット空間って「草創期」は特に、そういうニッチ情報を求める人と提供する人との「共有空間」だったじゃないですか。私も特に自作PC関連で、きわめて局所個人的な今直面している問題対処の知識について、いろんな無名人たちがネットに挙げていた情報のお世話になったもんです。
インターネットはYahoo!をホーム画面にしてますので、何か検索したくなったら、Yahoo!の検索欄に単語を入れてます。AIもYahoo!検索がAIモード(Agent i)を導入しているので、ときどき使ってます。
最近もかつて見たアニメのアニソン(「え?」というセリフ)がふと思い浮かんで「そういや、あれは名曲だったなあ」と気になり始め、
「歌詞のなかに『え?』というセリフのが出てくるアニソンは何ですか?」
とYahoo!のAIに尋ねてみたら、雑談的返答はしてくれましたが、答えられませんでした。AIは「知りません」とか「分かりません」とか言わないんですよねえ。質問の追加情報を求めてきます。
しかたがないので、AI活用というタイパ(快適)主義を捨てて、「たぶん、異世界もののアニメのEDだったよなあ」と思い出し、アマゾン・プライムやNetflixでチェックしてみました。
すると分かりました。それは「農民関連のスキルばっか上げてたら何故か強くなった。」のEDでした。以下はアニメ用の短縮版ではなく、「ポップしなないで」自身による「ローリンソウル・ハッピーデイズ」の全長版。
聴き直すと「おーこれはどこかクラムボンを思い出させる個所のある名曲だったから、心から消えなかったんだ」と、はたと気が付きました。ちなみにクラムボンって「異世界居酒屋のぶ」とかアニソン関係の仕事もやってるんでした。
それでクラムボンの名盤「JP」(1999年)をひさびさ聴き直しました。
「あークラムボンっていったら、やっぱピアノのバッキングがすごく印象的なんだよなあ」
ということでYouTubeで動画を探したら、
リスナーのコメント「このアルバムセンス良すぎて弟がピアノを始めました笑」を発見。
読みながら「なんで自分じゃなくて弟?」と突っ込みを入れましたが、このアルバムのピアノバッキングに影響された人って、ピアノを始める始めないにかかわらず、当時たくさんいたんじゃないかと思いますよ。
ということで今回の関心事は最終的に「クラムボン再認識、やっぱピアノ、カッケーよ、おい」という話に収束しました。
今回の投稿の題名は「クラムボンは笑ったよ」ですが「キリストも笑ったよ」とふと返歌のようなセリフも思い浮かんだのでした(まあ、これに関してはエドガー・ケイシーのキリスト関連情報が土台ですが。いずれ別枠で言及しようかな)。で、宮沢賢治のページに飛んで改めて読み直しながら「クラムボンは殺されたよ」に対しては「キリストもそうだったよ」ともう一度返歌のようなものが思い浮かんだのでした。
こんにちのシークエンスは蟹座時代(先史インド文化期)から始まって魚座の時代真っ最中です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここから後半記事に入ります。
今回、転生ものアニメ探しで「黒の召喚士」も見たんですが、エンディング・テーマのエレビアレンジが「まさにあの時代(70~80年代)」的で「なんか典型的すぎる」と感じて「とてもいいんだけど、なんかすでに今の時代とはズレてないか・・・・」と感じたのはなぜなんでしょう?
そう思いながらエピソードを見ていくと最後の3話ではエレピではなく、ピアノアレンジバージョンになってました。こっちの方は違和感なく聴けました。でも結局「その理由がよくわからない」んですよ。
エレピと言えば30年ほど前、フェンダーローズのMARK 5を持ってました。でも私は当時発作的に転職事案に突入してしまい(ほんとずーっと不安定な仕事人生だったなあ)、引っ越しの荷物になるからと、それを処分してしまいました。
こんな感じのエレピです。このエレピを使ってイーグルスの「I can't tell you why」を4トラックMTRで録りました。この曲のギターソロが好きなんですよねえ。でも、カセットテープの音源が残ってないんです(残ってたらYouTubeに挙げたのに)。その曲が入っているカセットをあげた人とは今じゃ音信不通なので、もう二度と聴けない。じゃあもう1回、エレピ、ベース、ギターを通しで弾けるように練習時間をかけたあとで録音し直す意欲があるかと言えば、ないですしねえ。そうそうイーグルスと言えば、この21世紀には、なぜか違う畑で活動しているのにそんな感じのソロギターが心地いいTokyo Tea Roomっていうバンドがいますよ。このアルバムを聴いてるとなぜかイーグルスを思い出すのが不思議です。
最後に70年代邦楽もので、私の好きなエレピのバッキング曲といえば、尾崎亜美の「冥想」です。
70年代洋楽ものだと、スティクスの「ベイブ」手弾きバッキング時代の楽曲は「うるさくない」のがいいです、こんにち聴き比べてみると、ハードロックやヘビーメタルでさえそうです。いまのDAW系オケ主体の変化盛りだくさんの(日本の)楽曲ってなんであんなにガチャガチャ、ガチャガチャとうるさく聴こえるんでしょう。それでいて意図せずとも体が揺れてしまうようなビート感がうすい(洋楽はソレは失ってませんね、ポップスって、ロックって、ソレが(歌詞で何を言っているとかは----もちろん無視はできないけど)もっと大事でしょ。この視点は部分的にクラムボンのミトさんのインタビュー記事にも出てくる視点(母音子音の響きが音楽と一致しているべき論)とも重なる。だから、あー、21世紀の日本のポップもしなないで)。ここがこれからの改善点じゃないでしょうか。日本においてもシンプルな構成で体が揺れずにはいられない、という基本への揺り戻しが起こればいいのにと思ってます。 -
高橋巌氏がものすごく長生きしていることは、かねてから知っていました。
アマゾンでルドルフ・シュタイナーの新刊が出ていないかチェックすると、春秋社から新刊がどんどん出てくるので、「もうすでに90歳超えてるはずなのに、なんて元気な人なんだろう」と思っていました。
ところが今年に入って、ネット上で彼が2024年に他界していたことを知って「ええっ」と驚いたのでした。
そして「彼」がいたからこそ、戦後、日本人にルドルフ・シュタイナーの名を広く知らしめることができたんだと改めて感謝の気持ちを持ちました。氏は角川書店と組んで1980年春に角川選書シリーズの一冊として『神秘学講義』という本を出しています。当時は「精神世界」という言葉が出版世界で頻繁に使われるようになっていた時代です。私がルドルフ・シュタイナーの名前を知ったきっかけが、まさに高橋巌氏の『神秘学講義』だったのです。
その後高橋巌氏に加えて、だんだんといろいろな人々が人智学本の翻訳者として参加してくるようになって、いまとなってはものすごい分量の邦訳本が日本国内で出回っています。
70年代にはすでに他の方々の手によってシュタイナーの邦訳が始められていましたが、高橋巌氏とイザラ書房が結びついたことで、日本におけるシュタイナー紹介が「再起動」されたのでした。氏の功績はルドルフ・シュタイナーの名前を日本においてポピュラーなものにしたということです。戦前にもルドルフ・シュタイナーのことを知っている人物(大川周明など)がいたのですが、戦後のような「邦訳本の横溢」があったわけではなく、要するに、ドイツ語圏の思想家として日本国民一般の相手にされていない人物でした。一方で中央ヨーロッパ思想に関しては、当時の世の中は「ドイツ哲学者リスペクト」の時代でした。小池都知事が「アウフヘーベン」などという「最近の大学生」にはちっともピンとこない言葉を発したシーンを見たとき、「ああ、この人も、日本の大学生たちが、そんな言い回しを口に出すのが、カッコいいと思っていた時代の残滓を引きずってきた人であったのだなあ」と思ったものでした。
高橋巌氏に続いてたくさんの邦訳本を出すようになった西川隆範氏は、東日本大震災が起こったあと病によって他界されました。
その西川隆範氏が、なにかの本で、日本で人智学を広めてきた「仲間たち」が結局みんなバラバラになってしまった、というような趣旨の感想を漏らしていたのを見たとき、「あまりにも人間的なもの」はどんな界隈でもおこらざるを得ないのだなあと改めて思いました。
ルドルフ・シュタイナーの率いてきた本家の人智学協会からして、「あまりにも人間的なふるまい」によって、ルドルフ・シュタイナーが悩まされたらしいですから。
ただ戦後日本の「人智学広宣の仲間たち」のあれやこれやの「いさかい」については、「いま、シュタイナーの『民族論』をどう読むか」の後半部に書かれていたことくらいしか私には分かりません。私は日本にある人智学関連のあれこれの組織の「会員」であったことはなかったので、「一匹へたれ(狼なんておこがましい)野郎」として長年ひとりでもっぱら読書にいそしんできたのでした。
今回の記事を書くに当たって、湾岸戦争勃発を機に出版された(1991年7月に出版)「いま、シュタイナーをどう読むか」に登場してきた対談者の方々の消息を振り返ってみたのです。
写真として掲げた4冊の本は、みなイザラ書房から出版されたものです。「いま、シュタイナーをどう読むか」で対談者のひとりとして登場してくる澁澤賛氏は、当時イザラ書房代表として紹介されていました。
それで今回改めて「イザラ書房」で検索したところ、イザラ書房のHP内の記事に行き当たりました。そこに澁澤浩子さんの回想が公開されていました。澁澤浩子さんは澁澤賛氏の奥様でしょうか?
-----------------------------------------------------------------
そして1985年、日本人智学協会が発足したのですけれど、その直前に高橋先生からイザラ書房をサポートして欲しいと頼まれたのです。協会を作るにあたって出版物が必要なのだがそれを出版する出版社がないと。高橋先生の本はイザラ書房からすでに何冊か出ていたので、皆の勉強になるような本が今後イザラ書房から出版できればいいと思うと、そのようなことを言われたのですが、その当時イザラ書房の経営状態が、はた目に見てもわかるほど悪化しているのは明らかだったのです。当時の私と夫の仕事は、全く別ジャンルの仕事で、ハーレクインロマンスの翻訳編集プロダクションだったのですが、非常に忙しい時期で、主人は業界新聞の編集長やら、はてはそこの代表取締役になったり、私は1ヶ月に多い時で6冊位の本を青山のハーレクイン日本支社に納めたりして、めちゃくちゃ大変な時でした。しかし出版のようなリスクがないので経済的にはうまくいっていて資金繰りは潤沢だったのです。ですからイザラ書房において事業的楽観は望めるとは思わなかったのですが、メインの仕事に精神性が感じられず、意義深い出版のお手伝いができればそれは心の幸いと思い、手伝わせていただくことにしました。
-----------------------------------------------------------------
20世紀後半に、日本における人智学受容の土台を作った方々が、21世紀前半の今、つぎつぎと姿を消していっています。
日本人は、「彼ら」の精力的な活動によって、「小池都知事」の学生時代のような近代ドイツ哲学リスペクト派と異なり、もう一段「山を登攀して」、さらに広い俯瞰景色を見ることができるようになっているはずなのです(ウルトラマンで言及した、日本精神の暗渠を流れる古代ドイツ人の日本への転生という伏流[非意識的流れ]もあります)。シュタイナーは「ニーチェは当時の唯物論ベースの学問世界のなかで、あれほどの才能に恵まれながら、〈もうひとつの視点〉との邂逅を果すことができず、ついに唯物論ベースの思想構築をするしかないという悲劇を体現した人物だ」という趣旨の感想を述べています。
日本に人智学の有能な「第二世代」「第三世代」は生まれているのでしょうか?
以前も紹介しましたが、米国にはドイツ本国の人智学協会とは無関係ではあるけれども、精力的にルドルフ・シュタイナーの講義録を集約公開しているルドルフ・シュタイナー・アーカイブというサイトがあります。
このサイトの「検索機能」は非常に便利です。英語ベースサイトなので、検索用語は英語で入力しないと日本語翻訳のページに日本語入れても反応しません。とはいえ、たとえばJapanese Chineseなどと並べて英単語を入れて手元のキーボードのENTERキーを押すと、たちどろこにGA番号が振られたいくつもの記事が候補リストに出てきます。
読みたいGA番号をクリックするとページ全体を読むことができます。
かつてドイツ語を読めない日本のシュタイナーファンたちは、「有志の方々」による邦訳本の出版を待っているしかありませんでしたが、すでに時代は変化しているのでした。
日本のシュタイナーファンのなかには、この米国のサイトに載っている記事を日本語翻訳機能にかけて隅から隅まで読破してしまうようなやからも出てきそうです。
-----------------------------------------------------------------------------紀元前数世紀に、ギリシア人は賢い振る舞いをしました。ギリシア人はエジプト人を非常に尊敬していました。しかし、彼らは古代エジプト語を学びませんでした。ギリシア人はエジプト語を学ばなかったのです。現代の学者はギリシア語を学ばねばなりません。ギリシア人はもっと利口でした。私たちは彼らが追及したものを模倣せずに、彼らの言語を学んでいます。現代の学者には捉われがあり、原初に地上にあったものを探求せず、古代の言語に精通しようとしています。そうすることによって、彼らは本質的なものから逸れています。青年たちが医者になろうとすると、まずギリシア語の習得で頭を悩まさなくてはなりません。私はギリシア語を非常に愛していますし、ギリシア語を役立てようとする人々は学ぶべきです。しかし、医者や法律家になろうとする人々は、そうではありません。彼らはギリシア語を習っても、のちには忘れます。(「神仏と人間」P75)-----------------------------------------------------------------------------日本人も古代のギリシャ人のようでありたいです。幕末の志士たちの外国語熱も「内容」を手に入れたいという願望があったればこそでした。誰が成績一番かなどと増上慢(利己主義)にふけっている現代の日本の中学生高校生のような志士たちはかつていなかったのです。「彼ら」は近代国家による教育システムによって「精神的荒廃(孤立化)」させられることから、まだまぬがれていました。
こんにちにつながるような、そういう増上慢マインドを持った子供たちが、明治維新後だんだん増えていきました。こんにちの親ガチャ論はその集大成です。戦前まではそれでもまだ「私ではなく、私の中の〇〇マインドに沿いたい」という感覚は「利口者たち」のマインドにも「疑いなく」存在していました。
戦後、西洋式の学校システムは、さらに「日本的」に洗練されて、西洋的なものを外面的に(悟性魂的に)凌駕するようになり「官僚選抜の予備学校」化するにつれ、学校生活において周囲の者は皆私のコンペティターだとする「強い自己保存本能」ばかりが刺激されるようになって、「学校で教え込まれるきれいごとを上手に文章化できる能力(官僚的才覚)」の内側で「強烈な利己主義」となって日本人の若い層の精神を荒廃させるようになり、こんにちの教育世界の悲惨化にいたっているのでした。「そのマインド」を国家が子供たちに芽生えさせているので、子供たちのマインドは、学年が上がっていくにつれて、ますます一方で疲弊していくのです。こんにち「学力と呼ばれているもの≒ペーパーテスト対応能力」は「近代式教育システムによって子供の心に芽生えさせられている利己主義を達成する」ための強力な引換券となっています。それは日本の未成年たちの精神生活とはかかわりのない「内容なき技術」に過ぎないのです。
日本の高等学校の古文で高校生が何をやらされているかについては、かつて当ブログでも、ぼやいたことがあります。シュタイナーの言う古代ギリシャ人のような立場で「国民一般」と向かい合ってきたのは、むしろ古典の教師たちのような学校関係者ではなく、漫画家のような人々だったとも書きました。
人智学については、もちろん、ドイツ語で読めることが一番です。大事なのは「それで自分は何をしているのか」自覚的になっておくことです。
現代日本の漫画家たち(それにアニメ制作者たち)は利口だったので、高校生がひたすらそれに苦しめられているような「翻訳能力の向上(ペーパーテスト対応能力)」にリソースを割かずに、「古文に書かれている内容をみなに広く知らせることに注力」しました。漫画家たちは「古い時代の日本の物語」の内容をよく知っていますが、現役の高校生は3年間古文に苦しめられても、何も「心」に残っておりません。そのような「ふるまい」、つまり「膨大な精神エネルギーの無意味な浪費」で日本の先祖たちの精神生活を理解できるのでしょうか?
そもそも古文は活字で書かれたのではありません。当時の文書には句読点もありません。しかし高校生は、段落分けされ、きれいな近代日本の活字で句読点を振られた文章を相手に、まるで語学をやらされているかのように翻訳作業ばかりやらされてきました。
日本の高校生が目にしているものは一体「何」なのでしょう。「近代精神で異様に捻じ曲げられた、本来そのような形で存在してはいなかった架空の印刷物」です。原本は、筆による草書体で書かれているんですよ。共通テストで古文が満点だった高校生に、「現物」(つまり昔の人が書いた文書)を渡して、読んでくれといっても、実際には何ひとつ分からないのですから。もはや草書体を読める人は現代日本人一般には存在しません。
今の日本人は「上手なペーパーテスト対応ができること」が学校教育の到達点だと思っています.
その「到達点」から逆算して作成されたような各学科の教科書と教授法(「ここ、テストに出るからな、みたいな・・・・」)で授業が行われています。技術は手に入りましたが、その技術は、「心」とは何のつながりももっていません。むしろそうすることで国民の心を疲弊させてきたのでした。
こういうことも、これから変えていかなければならないと思います。
最後に、今回は高橋巌氏の話題から始めたことにかこつけて、高橋巌はミュージシャンだった、ということを強調して終わりたいと思います。
YouTubeがGoogle傘下になる以前の時代に、高橋巌氏はハーモニカの独奏をYouTubeにアップしていました。いまでもその動画が見られるかと検索をかけてみましたが、悲しいことにかつて私が見た演奏動画は消えてしまっています(当時ダウンロードして保存しておけばよかったなあ)。けれども、かろうじて以下のような動画が残っておりました。
戦後日本には、かつてハーモニカ・ブームの時代があったってことが面白いですよ。 -
先週のことだが、YouTubeのhome画面を訪れたら、サムネイルに崎谷健次郎がドナルド・フェイゲンの「I.G.Y.」の完コピカバー・バージョンをアップロードしているのに気が付いた。彼が「I.G.Y.」のカバーを公開したのが4月29日なので、今ちょうどひと月後ということになる。
え、えつ・・・・、そもそも崎谷健次郎がYouTube用のオフィシャル・アカウントを持っていて、そこに自分の動画を上げていたという事実に、こんにちまで気が付かずにいたことにびっくりした。
ちなみに本家バージョンは以下。
あらためて崎谷健次郎についてWikipediaでチェックしてみた。なんと彼は1962年生まれで、今63歳だということが分かった。今でも非常に若く見える。1987年にオリジナルアルバム「ディファレンス」でソロ・デビュー。
当時私もすぐ飛びついて以後彼がアルバムを出すたんびに追いかけたものだった。名曲「もう一度夜を止めて」にいたってはピアノ譜を手に入れて練習していた時期があったくらいだ。今でもその譜面は持っている。
昔当ブログでcakewalkというWindows XP時代のDTMソフトについて何度か書いた。そのとき、「一曲仕上げてくたくたになり、もう打ち込みなんてこりごりだと思うようになった」というような趣旨の話をしたけど、実はその時に完成させた曲が崎谷健次郎の「GO INTO THE TV」だった。この曲のベースラインが大のお気に入りだったからだった。
で、崎谷健次郎が「I.G.Y.」の完コピ・カバーをアップロードしたのを見て、「あ、オレも崎谷健次郎のカバーを公開してもいいんじゃないか」と急に思うようになったので、昨夜動画作成ソフトAviutlのアイコンをひさびさポチッて、崎谷健次郎オマージュをささげることにしたのだった。
最初にこれを企画した当時(Windows XP時代)、自分の声でボーカルを入れ、どこかの若い女子にコーラスをやってもらって完成させたかったのだけど、自分には少々キーが高いので、ひどい歌の仕上がりにしかならなかった。それに、コーラスを手伝ってくれそうな若い女子も身近にいなかったので、結局カラオケだけが残ったのだった。大昔一度YouTubeにアップしたことがあったけど、Google傘下に入った時期に削除したのだった。
今回、動画を作り直してアップロードしたら、しっかり著作権もクリアしてくれてるので、安心して見ることができる。ということで、以下「GO INTO THE TV」のカラオケです。
ちなみに以下が本家バージョンです。
P.S.さらに、ちなみにですが、動画作成中の合間に以下の動画も見て「ほほう」と思ったので紹介しておきます。
楽器は歌は「〈自分の身体〉を使うから楽しい」んですよ。
プロンプト打ちオンリーの人はミュージシャンじゃないでしょ。
警察には犯人の似顔絵描きをする人がいますけど、その絵描きさんたちは犯人の顔を目撃した協力者たちの「こんな感じです」という「プロンプト」に沿って絵を仕上げてるんですよ。絵筆を動かしている人は「画家」ですけど、「こんな感じです」と指示を出している人は、画家じゃないですから。これまでの商習慣的アナロジーで考えると、目撃者は、発注者、クライアント側寄りです。警察から「協力してください」と発注されて、それを請け負い、さらに画家にどんな絵にするか注文する人です。AI制作においては、これまでは人が人に発注していたのが、機械相手に変わっただけですよ。クライアントがAI絵師(ここまでは人が人にです)に発注し、AI絵師(プロンプト打ち)がAI(霊魂を持たないアーティスト)に発注しているのですよ。似顔絵画家さんの話はAI絵師に、より関連した話ですけど、音楽家だっておなじですよね。
とはいえ、経済領域では、AI制作者に発注すれば、これまで人に発注してきたコストよりも安価で済み、効果も人を使っていた時代と変わらないという統計上の数字が厳然と現れるようになったら、「企業」は営利を目的として会社を営んでいるのですから、「コストのかからない方」を選ぶでしょう。超有名女優や超有名プロ野球選手をCMイメージとして雇う力のある大企業は、絵や音楽にも実績と実力のある人に発注して彼らに大金を出すでしょうが、潤沢な資金を持たない地方の中小企業はだんだんとAI制作を選ぶようになりそうです。それもまた一方では必然の未来なんでしょうねえ。あとは法整備が追いつくことですよね。