人があれやこれやの音楽を好むって、食べ物の好き嫌いと似てるような気がする・・・・・。
「オレはデスメタル以外受けつけない」とか、「アナタ、大衆音楽をピアノで弾くなんてもってのほかよ。クラシック・ピアノの技術が汚染されるわよ。だから絶対近づいちゃダメ」とか言う人たちがいるとしたら、これはかなり極端な部類だろうけど、でも彼や彼女だって「好きなものはスキ」以外ないんだよねえ。
でもデスメタルしか聴かなかったロンゲ兄さんが結婚して、娘ができて、彼女がアンパンマンの歌ばかり歌うようになったので、アンパンマンのCDを買ってきて娘と一緒に歌ったりするようになることもあるわけです。
とはいえ世間一般に対してはJ-POPとかK-POPなんか聴いてる連中に依然として相当に憎しみを感じてたりする。「そんなくそみたいな音楽聴いてんじゃねーよ」などと毒を吐く。でも外出中なにかの拍子にアンパンマングッズを見かけたら、娘のために買って帰ろうなどと考える。
このお兄さんは「お父さん」的には「娘の好きなものを否定したくない」のです。むしろ「理解したい」「受け入れたい」と思うから、娘への愛ゆえにアンパンマンへの関心を持つようになった。
でも人間は見知らぬ他人の好みなら、自分の好みと照らして、強烈に否定したくなるもんですよねえ。食事についてのたとえでいうなら、世に出回っているものなら、なんでも食べられる、ほとんど好き嫌いのない人もいれば、特定のものしか受け付けない偏食がちな人もいる。そういうもんです。
音楽の受容態度にも似たような問題はありますねえ。私もついついアニソンなどで最近よく遭遇するようになったDAW系の「やっつけ仕事」のような作品を「ただただうるさい編集をする楽曲」だと思って、批判的になってしまうんですけど(DTMソフトからアウトプットさた「デジタル音源オンリーなオケ」からはどこか不快感を感じさせるザラザラしたような変な周波数が出てる気がする)、それでもそういう曲を「何度も聴きたくなる名曲」として、好んで聴いている層もいるはずです。
まあ、日本のアニメ産業は番組の最初と最後に音楽を付けるという「先人が始めた伝統」を踏襲し、「こういうことを必ず盛り込む必要なんかないのにね」という疑問を当事者たちが感じていても「大人の事情」的発注作業を前例通りにやらざるを得ないんでしょうねえ。
これまでのセオリーからすれば、「編曲が歌(ボーカル)を生かす」には「やりすぎ盛りだくさん状態からいかに引き算的発想ができるか」が曲を名曲にするかどうかの分かれ目になりそうですが、彼ら「DAW系でメシを食っている人々」は「自己主張」をしなければ、つまり「ホラちゃんと仕事してますでしょ的証拠」をアリバイとして提示したいがために「デジタル音源を用いた編曲(過剰盛り込み)作業をついついやりすぎてしまう」のが常態になってるんじゃないだろうかと私はひそかに疑っています。
アニソンを発注する側も「アニメ本編の前後に約90秒の歌を入れるという伝統的フォーマットが整えばいい」だけなので、その形式に沿った発注をすることで、「これで発注者としての責任は果たした」ということなんでしょうねえ。何かすごく機械的流れ作業っぽくなってます。それに今後アニメのOPやEDもますますAI発注に置き換わっていく可能性もありますしね(すでにエンタメ業界のなかで仕事をしている「受注職人たち」は機械に吐き出させたものを自作品として自分のDAW環境に取り込んで部分的に再編集しながら楽曲作りをしているはずです)。劇伴制作も含め「アニソン(あるいはゲーム)界隈でよく流れているような〈そんな感じのようなもの〉が納期を守ってちゃんとできあがっていれば、それで業界仕事的にはOKなんだよ」的「職人マインド」(とてもこんにち的です)の成果です。
さて、前置きが長くなりました。ルドルフ・シュタイナーは「理解するということは、ある事柄を別な事柄に関係づけることです。この世では一つの事柄を他の事柄に関係づけなければ、何も理解することができません」と。「教育の基礎としての一般人間学」で語っています。
唯物論的な表象(概念)を「身近なもの」として生きてきた人は「その自分が知っている唯物論的表象」と「今出会った対象」を関連付けることで「対象が何なのか理解した」と判断します。古代のキリスト教徒は黙示録を読んでICBMと関連付けたりはできません。そんな「表象」を持っていないのですから。「彼ら」は当時彼らが身近に持つことができた表象と関連付けて理解しようとしたでしょう。こんにちでは、ICBMのたとえのように、世界を唯物論的イメージと関連付けるようになった人々がキリスト教徒を自称しています。「救済」のイメージも物質生活的表象内でしか理解できなくなっています。(また話がそれました。)
人が音楽を聴いて「これはよい、これはあまりよくない」と判断するのも、自分の過去の音楽体験が、新曲を聴くたんびにたえず想起されて、「その関連付け行為」が審美判断の助けをしているためでしょうねえ。
最近アンテナにかかったアニソンのひとつが、レトロリロンの「エゴ」です。
シンプルなエイトビート曲っていまでは希少品になってるんですよ、特に現在の日本の音楽環境下では。昔そのために世界戦略的に自滅した家電品やガラ携帯の「狭いところに機能を何でも盛り込め感」の局所最適化的適応行動、「その精神」の再現が、今再び同調的横並び音楽業界において、起きています。男性ボーカリストたちの、高域発声指向も「売れ線」を意識するがゆえの業界的「同調圧力性」だろうし(注:
日本人の日常における声域の変化について別の領域から考察している車田さんの動画も面白いですよ)、女性ボーカルは皆上手なのに「個性」がない。というか、あの独特の節回しは、あえて「モデルケース」になっているような何かに寄せるように、ボイストレーナーに付いて発声訓練をした結果の「非個性化」なのかもしれないし。どちらにしろ、「個性的な」それでいて「天然のよい声(ポピュラー音楽ではこれが大事だ)」を持った歌い手が、昭和・平成時代にくらべて格段に少なくなっているのではないかというところも気になるところです。
よい歌詞を書く甲本ヒロトが「日本のリスナーは歌詞を意識しすぎる」というような趣旨の不満を漏らしていましたけど、それは皮肉な話ですが(裏を返せば「音楽」として「聴く」ためのセンスが弱いということでもあります)、歌詞なんか(それを自己主張だとかメッセージだとか言うならば)どうでもいい(誤解しないでね)、思うまま、なんでも歌にしてくれ(ただし楽曲との音韻的な--音楽的な--違和感を感じさせないこと)、とにかく自然に体が揺れる、そして誰でも1回耳にしたら、たちまち聴き手の中で自然に鼻歌化されて覚えられてしまう、そんな言葉のリズムとメロディを持っている楽曲が日本でも「再び生まれるようになってほしい」と最近つくづく思うんですよ。
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詩人は、詩の言葉を紡ぐ際に、呼吸のリズムを保とうと努めている。歌を作る人は、すべてを呼吸、ひいては頭の呼吸へと回帰させる。人が話すことから歌うことへと移行するとき、地上の状況に言葉を適応させるために経験してきたことを、ある意味で元に戻すことになる。実際、歌は地上での生活以前の経験を思い出す手段である。私たちは、思考システムよりもリズムシステムを通して、精神世界にずっと近いところにいる。(
ルドルフ・シュタイナー「音楽の本質と音色の体験」GA283)
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「再び」とか言いましたが、というか流行歌をレコードにして売るという文化が日本で始まって以来最近までずっと「それが常態だった」んですよ。だから「異形の進化」を遂げた、J-POPなどと呼ぶようになった今の日本の音楽は(外国人YouTuberさんたちがいくら今の日本の流行歌をJ-POP、J-POPと言ってほめたたえようと)、これまでと異なった、非ニッポン的な何かになっており、今は異質時代なんですよ(もはや日本は大衆音楽進化史的には衰退期なのかも)。
ジャニーズ・システムが崩壊して以降、ますますそのような「ショービズ系」の新たな展開がJ-POPなどというジャンル名を騙りながら、再起動しているんじゃないかと思います。
昭和時代まではそのようなジャンルは、新しく台頭してき世代には「歌謡曲部門」として認識されており、とはいえ明るい大衆歌謡であれ暗い演歌であれ、歌い手はよく訓練された歌手であり、ほんとに歌が上手なプロでした。
のちに「使い道」の分からなかった「若者たちの帰依心」(本来は尊いものですが)を金銭に交換させるために偶像性を売りものにするアイドル系が産業として歌謡曲部門に加わっていきます。そして今やJ-POPもこの流れの延長線上に成立しています。
しかしそれでも、60年代、70年代当時における「これまでと違う何か」を求める日本人の感情が、「別のアティチュードを持って活動し始める人々」によって日本で起動した時代があったんですよ。それらの作品群は、のちにニューミュージック(私のパースペクティブではフォーク系からポップス系、ロック系まで範囲は広いです。つまり戦前戦後を通じて歌謡曲販売において通例となっていた作詞家先生・作曲家先生への発注方式とは別のアプローチを採るようになった人々の出現です)と称されるようになりました。
「異なった精神からは異なった作品が出てくる」・・・・それは当たり前ですけど、こんにち「その精神」は消え去っているのでした。そしてネット時代になって世界が「ようやく発見」して評価してくれるようになったのは「今の旬の騒々しく落ち着きのない日本の流行音楽」ではなくて、70年代80年代の「楽曲」でした。
「ポチって支持表明」と言う安楽時代に入って以降、「統計的数字」と国民の精神に本当に「忘れられない音楽体験」として浸透できているかどうかの関連性があやしくなっている。実態は資本主義理念のもとでの音楽産業的展開にダマされてるんじゃないかと思ってます(ま、これは米国なんかも同じでしょうが・・・・)。
2:55辺りからリック・ベアト氏(彼のYouTube番組面白いですよ)がしゃべっている内容に注目です。
こんにちの日本においては、投下予算を組んでのTV局とのタッグは昔からですが、それに加えて、韓国企業から手法をまねたらしいポチリ部隊やネット書き込み部隊を編成する、という「新しいプロモーション予算の投下」が「仕掛け手側」でうごめいているんだと思います。こんにちYouTubeで日本人向けの日本語版コンテンツをAIを駆使しながら大量に作っているのは東南アジアなどに拠点を持ってうごめいている「アジア系外国人たち」です。日本の音楽産業においても、日本の資本家たちが「彼ら」を手駒のようにして利用している可能性が大です。
ということで、またまた脱線から修正。
日本ではギターのアンガス・ヤングの半ズボンにカバンという「ステージ衣装」がダサいと判定されたのか、そのせいでなのかは、はっきりしませんが、日本人には人気がなかったAC/DCとか、ドラムはただドンタン・ドンタンいってるだけですよ。そんなふうにエイトビートはやりすぎないのがいい。それでも偉大なバンドでした。
DAW系の曲のドラムアレンジって、ドラム叩いたことがないまま、思うままにやってんだろうなあと思う場面も多いです。
レトロリロンという名前のバンドですけど、最初私読み方が分からなくて、レト・ロリ・ロンと読んでしまいました。なにレト・ロリ・ロンって変な名前・・・・と思ってしまったのですが、あれこれって実はレトロ・リロンじゃね? と思うようになりました。相対性理論というバンドがいますし。だったらレトロ理論って表記してくれたらよかったのに、と思ったのでした。
声が独特です。でも、最初に聴いたとき、やはり過去作品との関連付け体験が当然起こったわけです。
声質に関して、なんかNOBODYとかを思い出しました。
それとBOOM BOOM SATELLITESとか。以下アニメ「忘念のザムド」で使われた曲です。
「忘念のザムド」については大昔当ブログでも言及したことがありました。「ジブリ臭がする」と。後でスタッフロールで気が付いたんですが、背景画にジブリが参加していたのでした。
レトロリロンと声に類縁性を感じるという切り口で採り上げた2曲でしたが、どちらも男性二人組ユニットでしたが、それぞれ相棒をすでに亡くしてるんですよねえ。
レトロリロンさんはこんにちの日本の売れっ子ミュージシャンたちのような「やりすぎな編曲癖」に走らないように願いたいですけど、やっぱ時代の同調圧力というか、同じ病というか誘惑にかられてるんでしょうか・・・・。
ああ、ロックしなないで。
ということで、最後にそのレトロリロンの「エゴ」のフルバージョン