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カセットテープたくさん持ってました。でも、ある時期、ほとんど処分してしまいました。
自宅に残しているのは、貴重なエアチェックものとか、人からもらったものとか、自分の声とかギターとかの音の入ったアイデアテープ、大学時代のバンドの録音とか、です。
一番古いテープは「1978年もの」、高校生の時の自分の声が入っているテープです。やっぱ年代物は「味わい」がありますねえ。
文化祭なんかで高校生の時にやった楽曲は歌詞を書いたノート類も含め全部どこかへ消えてしまいました。それにそもそも録音していませんでしたので。ラジカセは持っていたのに、なんで録音して残しておかなかったんでしょう。なので、かすかに一部を覚えているだけで、全部記憶から飛んでしまいました。
古いカセットテープを聴き直したくなった時は、テープデッキで聴いていました。だから、そうしようと思えばすぐにでもデジタル化できたのに、そうしていませんでした。
最近、手元に残してあった、いろんな音源の入ったカセットテープをようやくデジタル化しておこうと思うようになり、Windows XPに入っているCakewalk Pyro 2004を使って、録音作業を開始したまではよかったんですが、なんとデッキが途中で壊れました。
「はー、なんでだよー」
箱を開いて中を確認したら、歯車を回転させるためのゴムが解けて切れていました。
「まあ、古い機種だから、いずれそういうことがあるだろうなあ」とは予期していましたが、まさかその日に起きるとは思っていませんでした。
それで残りはラジカセのヘッドフォンジャック経由で対処しました。
上の写真に写っているカセットケースはAXIA Artist Audition '96です。いわゆるアマチュアミュージシャンたちのオーディションで、最終選考に残った個人・バンドの楽曲を全国1万人のリスナー審査員(『ギターマガジン』とかの音楽雑誌に広告を載せて募集していたと思います)にカセットテープを送って審査してもらうという催しでした。私は94年度の大会にも審査員として参加しました。
最近、「楽曲録音活動復活したいなあ」「またオリジナル楽曲の制作を始めたいなあ」と切に切に思っているのです。
大昔シュガーベイブの「ダウンタウン」とかYouTubeにアップしてた時期もあったんですが、Googoleに買われた時期に削除してしまいました。
今はかろうじて「レイディ」という楽曲(オリジナル)を一曲置いてます。当時はYAMAHAの DX7Ⅱ(処分済)というシンセを全部手弾きでやってました。今だったら、打ち込みでしょうけど。
大昔このブログでもTaccaさんの「Dear My Friend」のカバー曲を作りたいと投稿したことがありましたが、いまだに「思いを遂げていない」のでした。
とはいえ音感鈍っているし、ところどころコードが自分の耳コピでは分からないところがありました。
それで「バンドプロデューサー5」という音楽ソフトにコード認識機能があることに気づき、使ってみました。いやー、これ便利です。
ということで、「今度こそちゃんと自分バージョンのDear My Friendを完成させよう」と思ってます。PR -
去年の11月あたりから、何だかもやもやした感じの中で生活してまして、この気分は相変わらず続いています。
皆さんは、どうですか?
気分的には階段の踊り場で、ぐるぐる回って停滞している感じです。
最近、約30年周期の土星が一周を終えて、新しいサイクルを始めるという話をネットで知って、「あ、だから、オレの気分も安定しないんだろうか」と「合理化」してみたり。とはいえ、「理由付け」できたからといって、状況は何も変わりません。
自分にとって、第二次性徴以前の少年時代は、もっとも幸福だった時代です。だから幼稚園時代から小学6年生までの期間を過ごした場所には、強い思い入れがあります(中学に上がると、我が家は途中で引っ越しをしてしまいます)。ちなみに当時もっとも好きだった科目は、体育と図画工作でした。
古い写真を整理して、カラー化した話は以前書きましたが、下の写真はその時代に取られたモノクロ写真をカラー化したものです。道路はまだ砂利道です。このような細い砂利道がだんだん舗装されていく様子を見ながら、学校へ通った時代でした。
(左から母の妹、私、次男、三男、伯父、母、祖母、父)
この写真には、当時の我が家は写っていません。写真のさらに右側に建っていました。写真の左側には裁判官が住んでいる大きな屋敷がありましたが、これも今はありません。その隣が「空き地」で、放課後近所の小学生が三々五々集まってくる場所でした。もちろん、今は「空き地」などどこにもありません。どこもかしこも家が建っています。
のちに中学に上がった時、林田君という野球部のクラスメイトが(ちなみに私は剣道部でしたが)「あんなボロ屋に住んでるなんて、驚いた」などと失礼(率直)な「感想」を私に向かって披瀝してくれたのを覚えています。事実なんで怒るわけにもいきません。
写真に写っている長屋の一番奥には、若い警察官夫婦が住んでいましたが、奥さんが癌になって、臥せっていました。「奥さんがね、布団のなかで寒い寒い、って言うんだよ」と見舞いに行った母が語ったことを、なぜか強烈に覚えています。
あの場所はどうなっているのだろうと、最近、自転車で遠出して、ひさびさに訪れてみました。
なんと更地になっていました。古い家族写真は、左手前の白い自動車の前、かつてあったブロック塀の前で、撮られたものでした。ブロック塀の土台の部分だけが今も残っています。
世の中に子供がたくさんいて、子どもを中心にご近所づきあいがあった時代です。電話はまだ普及していませんでしたから、皆、友達を遊びに誘いたかったら、わざわざ出かけて行って、外から言葉に節をつけて「〇〇くん、遊ぼーや」と大声で呼ばうのです。
駄菓子屋へ入るときは、やはり節をつけて「ごめんください」と歌うかのごとく敷居をまたいだ時代でした。そのように、「子供たちの使う日常言葉が音楽的だった時代」があったということを、昭和時代の思い出語りとして語る人をあまり聞かないのが不思議です。 -
以前は仏壇に供えるために、下の写真にあるような、特殊な道具を使って型抜きしたごはんをを供えていたんです。ちなみにウチは真宗大谷派です。
でも、最近、お米がとても高いので、マシュマロを供えることにしました(写真をクリックしてください)。遠くからだと、見た目が似ています。
毎日取り換えてます。これで一日もたせて、前日のものは、取り換え時にパクっと口に入れて、食べてしまいます。
ごはんのときは、そんなこともできず、無駄にしてしまうことも多かったんです。
昔は、一回の食事で一合のご飯をどんぶり茶碗で食べていた時期もありましたが、今は四分の1合メシを小さなちゃわんで食べてます。その代わり、たっぷりのキャベツを食べて、腹を膨らませています。
浄土真宗系は、寝かせて線香をたきます。これまではセリアで購入した十徳香(ラベンダー)を(安価なので)使ってましたが、あまりよくない質のものに最近品揃えがかわりましたね。
がっかりしてたんですが、でも、新しい品揃え品の片隅にパッケージが簡素化された十徳香が置いてあるのに気が付いて、ちょっとほっとしました。見つけたら、まとめて買うようにしてます。 -
以前、ブログで地元の河川映像をよく見ているという話をしたけど、実は地元延岡の(というにはちょっと離れているけど県内の)海の映像もよく見に行っているのだった。
宮崎県はサーフィンをやるのに適した砂浜が多いので、どこから集まってくるのか、平日でも朝から大勢のサーファーがやってきて、大賑わいしている。
延岡市にも長い砂浜(その名も長浜)はあるんだけど、海水浴には適しておらず(ゆえに遊泳禁止)、もっぱらキス釣りするためにでかい竿で遠投を繰り返す釣り人のための浜でしかないのが残念なのだった(写真は長浜)。とはいえ、ここでサーフィンする人もいるらしい。
延岡から一番近いサーフィンのできる砂浜が日向市にある「お倉ケ浜」だ。
上の写真は「II・NAMI.COM」からスクリーンショットで取ってきた。
ご覧の通り海も空もまったく青くないけど、これは使われているカメラが、こんな色合いしか出せない機種だからだと思う。YouTubeなんかで「日向 お倉ケ浜」で検索すれば、「ちゃんと」青々した海と空の映像を見ることができる。
カメラを変えてくれないかなあ、と長年思っているが、希望は叶いそうもない。
このサイトでは、お倉ケ浜以外にも、宮崎県内のさまざまなサーフィン・スポットを映したカメラにアクセスすることができる。
昔、お倉ケ浜は純然たる海水浴場だった。サーファーが毎日、この砂浜を占拠するようになる30年以上前まではそうだった。
上の写真は左から、私、三男、母、従妹(母の妹の娘)。初めて「お倉ケ浜」に海水浴に行ったときの写真。
今日、宮崎県下のかつての「市民みんなの海水浴場」は、行政ともからんで、サーフィン振興に舵を切って、もうずいぶん時間がたっている。
でもサーフィン文化の未来はあまり明るくないかもしれない事実もある。
近年の日本のサーフィン人口は40万人くらいだそうだが、数十年後には、サーフィンをしているのは老人ばかりになるだろう、という趣旨の記事に出会ってしまった。
10年後のサーフィン人口は50代以上ばっかりって本当!?|MINのウラナミVol.375
2030年には65歳以上の層が30%を超えるという予測を今年ネットで読んだことがあるが、そもそも60歳で定年を迎えてリタイアする「慣例」になっている日本の企業文化の状況下においては、今年の60歳が65歳になる5年後ではなくて、今年60歳で生産活動をやめてしまう人々が大勢いる時点で、「非生産活動者」は日本の総人口の3分の1に達しているのではないか、と推察する。
このまま推移すれば、日本人の半分は老人になるというのも、空想的な話じゃなくなる。
よくもまあ、戦後営々と、「子どもが精神的に生きるには酷な社会ルールとそれを支える精神統治システム」をみんなで一致団結して汗水たらして築き上げてきたもんだなあ。
戦後ますます西洋式(社会に対する唯物論的価値規範)に馴化するようになって、「起きていることの質を吟味する」よりも「数字的成果」(偏差値信仰もそのひとつ)を「技術的」に追求すること、「その巧者となること」、それを本家の西洋人たちよりももっと高度に洗練させた結果が、今日の日本の有様だ。
もはや日本の若者は、自分が「そのよう」にして、社会に送り出されたようには、自分たちの子供を世の中に送り出したくはないんだろう。だから子供を社会に送り出すことを断念する(ここ数十年間、静かに進行してきた国民によるサボタージュ行為)。2024年に誕生した子供の数は68.6万人ほどだという。
「今日、百年前にはほとんど知られていなかった病気が広まっている。知られていないことはなかったとしても、広まってはいなかった病気である。神経質である。この独特な病気は、十八世紀の唯物論的な世界観の結果である。唯物論的な思考習慣なしには、神経質はけっして生じなかったであろう。もし、唯物論がまだ何十年もつづくなら、唯物論は民族の健康に破壊的な働きかけをするだろうということを、秘密の導師は知っている。もし、唯物論的な思考習慣が抑止されないなら、やがて人間は神経質になるだけではなく、子どもも震えながら生まれてくるようになる。子どもは周囲の世界を感じるだけではなく、どのような周囲の環境にも苦痛を感じるようになる。」
これが、1世紀前にシュタイナーが出した警告だった。
シュタイナーは別の著書で「日本人が西洋から拝借して〈外面的〉に適応しようとしてきた、〈唯物論的思考態度〉は、その洗練度において西洋人のそれを凌いでしまうだろう」とも語っていた。1980年に中曽根内閣が共通一次テストを日本に持ち込んで以降、日本人の思考態度は「伯楽力」を失って、ますます「適応機械」のようになって硬直化していったように見える。日本人は引き返せるのだろうか?リュック・ベッソンの「グラン・ブルー」のラストシーンは一種のあこがれだ。
「日本人が形成したような霊的な思考は現実のなかに進入していきます。それがヨーロッパ-アメリカの唯物論と結びつき、ヨーロッパの唯物論が霊化されないなら、その思考はヨーロッパの唯物論を凌ぐことは確かです。ヨーロッパ人は、日本人が持っているような精神の可動性を持っていないからです。このような精神の可動性を、日本人は太古の霊性の遺産として有しているのです。(発言の引用元は『いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか』より)
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ひどい世の中だ。
私も深海で天使に出会ったら(これは私の解釈で実際には天使像なんぞ出てこないが)、そのままイルカととも旅立ちたい(天使になりたい)と思ってしまう。
「こっち、来る?」
だけど、シュタイナーなら「今の不完全な君の有様でかね。馬鹿を言っちゃいけないよ」といさめるだろうなあ。彼の著書『死者の書』には、そういう趣旨の話が出てくるし。そのためにこそ「境域の守護霊が君らを〈そんな気持ち〉から守っているのだ」と。
以下『死者の書』から
----------------------------------------------------------------私たちは、私たちのところに押し寄せてくるものの四分の一しか知覚していません。他の四分の三は意識化されずにいます。色彩を知覚する時には、色彩知覚を通して、創造的なヴィジョンやさらに霊聴および霊的合一も私たちの中に生じ、私たちの本性の一部分に組み込まれるのです。
霊的体験の三つのあり方を示す霊視、霊聴、霊的合一が感覚的知覚を通して私たちの生体内に入ってくるときには、昨日お話ししたルツィフェルの誘惑の結果であるような「霊化」を私たちの中に生じさせます。霊視、霊聴、霊的合一は、遠い未来に実現すべき理想的な人間存在へ到ろうとする努力の芽を、すべて摘み取ってしまいます。
そしてその代わりに、今のままで霊的存在になりたいという衝動を、私たちに与えるのです。私たちがこれまでの人生の中で達成してきた程度の完全さで、霊的存在になろうとするのです。そういうときの私たちは、次のように言うでしょう。
「理想的な人間になるのは、あまりにも努力のいることだ。未来へ向けて困難な道を歩まねばならない。そのような人間になるための、われわれの内なる可能性はそのままにしておこう。今のままの不完全さで、すぐに天使になりたいものだ。そうすれば自分の存在を霊化して、直接霊界に入っていける。そのときは、努力してわれわれの素質を開花させるときよりも不完全であろうが、しかし天使のような霊的存在となって、宇宙へはばたけるであろう。」
このような場合が生じうることを考えてみると、霊界の境域、並びに境域の守護霊と呼ばれるものがどれほど重要であるか、理解できるでしょう。(ちくま学芸文庫『シュタイナーの死者の書』P124-P125)
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「楽な道」なんてないんですよねえ、やっぱ。 -
今回の投稿は「自分用(記録用)」です。
これまでも時々、私の見た夢の話を投稿してきましたが、今回の夢はこれまでとかなり異質というか、SFドラマか映画の設定みたいな展開でした。
夢の中で自分に気が付くと、どこかのベッドの上にいて、私は今にも頭に何かを布というか装置というか、そういうものをかぶせられて、その作業をしている人物(年配の男性)から、
「ジリ・レーンに会え」
と言われます。私から見て左側にその男性、右側に助手なのか、女性がいました。
「ジリ・レーン(不思議な名前だ)、誰?(女性の名前?)」
と思っていると、右目の位置に楕円状に映像が現れ始めて、次に気が付いたときは、その映像世界の中にいました。
その世界で私はジリ・レーンを探し始めるのですが、実は何をやったかよく覚えていないんです。
目覚めた後、急激に体験を忘れてしまい、結局、ジリ・レーンに会ったのかどうか分からないのでした。
しかも、目が覚めた後も眠気が収まらず、頭がぼんやりしていましたが、「今この名前を書き写しておかないと、全部忘れてしまう」と感じたので、いったんベッドから起き上がって、台所の食卓にあるメモ帳に「ジリ・レーン」と書いて、また二度寝してしまいました。
あとで「ちゃんと」目が覚めたあと、「ジリ・レーン」でネット検索してみましたが、該当なしです。
「〇〇しろ」と直接言葉で伝えてくる夢って、あまりないと思うので、のちのちの解釈のために(無理かもしれませんが)とりあえず「記録」だけしておこうと思い、投稿しました。
ひょっとして、ジリ・レーンって、私の前世の知り合いなんでしょうか、それとも未来の知り合いなんでしょうか。