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今回は、Netflixで見ることができる北米ドラマ「トラベラーズ」の話題から始めたいと思います。あらすじ遠い未来より21世紀初頭の人間に意識を転送して憑依することで現代人に成りすまし暗躍する"トラベラー"達。人類最後の生き残りの中から選ばれて送り込まれた彼らの目的は、歴史を改変して悲惨な未来から人類を救うことだった。----------------------------------ウィキペディアの説明では「憑依」という言葉が使われていますが、実際には「自我の交代」というほうがドラマ内容の実情に近いと思います。「トラベラーズ」というドラマは、「自我の入れ替わり」という、唯物論時代下の現代人にとって、なかなかに斬新なモチーフを導入したドラマでした。ただしシナリオ的に「面白くなるように展開できず」、3期で打ち切りになっています。近代人にとって「自我の管理下」にない人間個体が、言葉を発する場面に遭遇することがあるとすれば、たとえば隣に寝ている誰かが寝言を言っている場面に遭遇した時や、酩酊した人物が行った言動を翌朝別の目撃者から「覚えてないのか? お前はこんなことを言い、あんなことをした」と指摘された時ぐらいのものでしょう。上記の現象は「自我と肉体の連結が解かれた時」に起きる現象です。そのように、たまさか自我が肉体との結びつきを失っても、酔っぱらった人物が朝目覚めると、自然と「自我感覚」は戻ってきて、「正気の朝」を自我感覚とともに迎えることができるわけです。通常では、自我が完全に肉体との関連を失うということは、死の到来を意味します。昔「悪魔を憐れむ歌」というデンゼル・ワシントンが出演した映画がありましたが、この映画で描かれていたのが「憑依」現象でした。もっと古くには「エクソシスト」という有名な映画がありました。憑依という言葉が使われるときは、悪霊による不当な肉体の乗っ取り現象を指していることがほとんどです。悪霊的な存在が「物質的」にイメージされると、たとえば「ボディ・スナッチャー」とか「ゼイリブ」のような侵略宇宙人映画が出来上がります。「人格の入れ替わり」というテーマは、これまでほぼ「災厄的な事象」として、扱われてきたことが分かります。しかし、ごくまれに地上の物質体から「人間の自我」が抜けたあと、その肉体に「別の高次の自我」が住み着くという現象があることを指摘したのがルドルフ・シュタイナーでした。
(すでに上のような秘儀のイメージのフィギュアが誰かによって作られ、流通していた日本でした)
シュタイナーによれば、その最大の出来事こそキリスト誕生事件でした。ヨハネによる洗礼によって、30歳のイエスの自我(霊)が霊界へ送り返され、代わりに彼が占めていた場所を宇宙の神の自我(霊)で満たしたのでした。このテーマについてご存じない方は、今回私の語っていることが、さっぱり理解できないでしょうから、「俄然関心がわきました」という方には、邦訳としては『ルカ福音書講義』『仏陀からキリストへ』などをオススメいたします。-----------------------------------------------------------------キリストは太陽からやって来て、ヨハネによる洗礼を通して初めて地球に歩み入り、3年間だけナザレのイエスの肉体の中に存在しました。地上では3年間しか働けないと決められているのがキリスト存在の特徴です。
キリスト存在は、かつてゾロアスターが太陽の背後に立つアフラ・マズダと呼んだ存在、インドの神仙たちがヴィシュヴァ・カルマンと呼んだ存在、ギリシア人たちが満ち満ちているもの(プロレマ)の基盤となる存在、と呼んだ存在です。
この存在はゴルゴタに血を流して以来、次第に地球の霊、地球のオーラとなってゆきました。キリストを肉体の中に担ったイエスを知ることなしに、地球の霊としてのキリストを体験した最初の人物はパウロです。(『仏陀からキリストへ』P18-P19)-----------------------------------------------------------------自我あるいは人格の変容に関して、トラベラーズというドラマでは、完全に自我が入れ替わった人物と、未来からのメッセージを伝えるため、たまさか一時的に意識を乗っ取られてしまう子供たちが出てきます。メッセンジャー役をしているときの子供たちの状態なら「憑依(posssion)」された、という説明もありでしょう。ただし、この場合、憑依しているのは「未来のAI指導者(人間ではなくマシンです。未来の人類は「全権」をAI指導者に移譲して生きています)」からくる命令情報です。
ルドルフ・シュタイナーの人智学の本を長年いろいろと読み続けてきた日本人には、「自我の交代」というテーマは、いまだ現代社会でキリスト教徒を自認している人々にとっても受け入れがたい話ではあるかもしれないと思われます。「憑依」なのか「交代」なのか・・・・・、判断に苦しむ場面もありそうです。
シュタイナーによれば、菩薩の物質界への出現もまた「自我の交代」によって行われてきた、という話です。菩薩の出現というのは、「これまで取り立てて目立たない普通の人生を送っていた人物の自我が高次存在と交代する」という現象なのです。
これがさらに宇宙の神霊、太陽神の物質界への人ととしての誕生という話になると、シュタイナーの説明を一回聞いたくらいでは、その起こったことにまつわる、歴史過程における長大な準備期間と手順の多さゆえに、簡単には全貌が把握できないくらい複雑な過程を経たうえで達成された「自我の交代劇」が起きたのだという話になります。
おもしろいことに、シュタイナーは、存命時、東洋の日本には、こんにちの西洋のキリスト教徒から失われてしまっている知識、すなわち「キリストは光の国(太陽)から人類の救済のために地上にやってきた太陽神である」という教えを奉じてきた原始キリスト教徒たち、つまり古代ドイツ民族が数多く転生している、と語っていました。彼らはまた輪廻転生の思想も持っていました。光の国(太陽)から僕ら(全人類)のために来たぞわれらのウルトラマン(Ultra Manとは、ラテン語的に解釈すれば、人間[man]を超えし[ultra]存在つまり神のことです)
シュタイナーの語る、キリストの誕生と死の秘儀の話を初めて読んだとき(『輪廻転生とカルマ』)、私は即座に「あれ? これって・・・・」と、初代ウルトラマンの第一話の物語に連想が飛んだのでした。
世界中に、さまざまな母国語を背景に持った人智学研究者あるいはファンが存在しますが、こんな〈観念連結〉、つまり連想が可能なのは、ウルトラマンの物語(これは一種の神話的物語です)を知っている極東の民族の中の人智学徒あるいは人智学ファンだけです。私は、「これはまるで地上に初めてきたときのウルトラマンの物語じゃないか」と思ったのでした。
「キリストは地上では3年間しか活動できないという縛りがありました」とはシュタイナーの発言です。物質界での活動に「3」という数字で象徴される「制限時間」が設けられていたなんて、それってウルトラマンもそうでしょう、と私は思ったものです。
超古代にウルトラマンがかつて「ノアの神」とも呼ばれていたというエピソードがあったのも「驚嘆的」な事実でした。それにウルトラマンを迎えにきたゾフィー(ドイツ語系)は、「ソフィー」や日本人にはさらになじみのある名前としての「ソフィア」と同語源です。宇宙から「ソフィア(霊智)」が迎えに(降りて)来たのでした。
そして、世界のネット環境の発展によって、日本発のコンテンツ(特にアニメ)の流布によって、「輪廻転生思想」というモチーフをこれでもかこれでもかというほどに「西洋のキリスト教徒たち」に「語り」続けている状況が、まさに「こんにち的状況」なのでした。
このような「宗教観念」を、かつて世界に散った宣教師たちがやっていたような「宣教・折伏式」で、「世間一般」に提示することは、今日的なマインドを持って生きている「現代人」にはもはや受け入れられにくい「スタイル」になっています。現代人は「知識」というものならなんでも頭の中で整理してインデックス化して保存することを「最終目的」にしているふしがあるので(「この近代(アーリマン)人的センス」をますます精緻化した結果が、こんにちのAI礼賛時代のいまの到達地点ですし)、国家が管理する学校制度の試験文化のもとで「~が正解、あるいは通説と言われていること」を集積することでせいいっぱいになっています。「心」は外的知識とつながっていません。したがって言葉が価値を内包しているなんて、真の意味で「実感」することもないのです。こんにちの「言葉」は「人格の外に価値なき並列陳列概念として(そうでなければ学校の先生もペーパーテストでこれは2点これは3点と恣意的に数量化なんかできません)存在する」のみで、「人格に浸透する力を失っている」のです。
シュタイナーは「こんにち(20世紀初頭)古代にドイツ地方の原始キリスト教徒として生きた人々が大量に日本人に転生している」と語りました。
シュタイナーの「二人のイエス論」(キリストが人の体のなかに受肉できたのは、二人の人間の協力があったから)を読んだとき、私は、ウルトラ・シリーズにはその後も「二人の人間の協力によって、ひとりの神(ウルトラマン)が地上に出現する」という「合体モチーフ・ドラマ」(ウルトラマンA)があったたことも思い出し、「ふたりのイエスの秘密」も、かつて「その知識」が広く共有されていた時代の古代のドイツ民族の一員だった人々が日本人に転生してきた結果なのだろうかと空想しました。
----------------------------------------------------------------------歴史において通常、民族移動の時代と呼ばれる時代にヨーロッパに住み、移住した人々がいます。この住民の魂は、南から北に広まってきたキリスト教を受け入れた魂に似ています。つまり、キリスト教化のなかで成長した魂です。今日のキリスト教とはかなり異なった、紀元後数世紀にヨーロッパに生きてキリスト教を受け入れた魂は、ふたたび中部ヨーロッパに受肉してはいません。紀元後数世紀にヨーロッパに受肉し、キリスト教が文化的に南から北に広まってきたのを体験した魂は、いま、むしろアジアに受肉しています。いま述べたことは、1910年代の恐ろしい破局(第一次世界大戦)のときに、とくにはっきりと現れています。とくに日本民族にそのような魂が受肉していることを知ると、現在の地球文明を新たな方法で考察できます。かつてヨーロッパで特別な方法でキリスト教化を体験した魂は、いま、キリスト教について聞く機会がない地域に住んでいます。意識下からの当時のキリスト教衝動とともに、退廃したアジア主義のニュアンスを内に担っています。今日のヨーロッパに対立するものも、内に担っています。それは本質的に、かつては偉大であったのに退廃した東洋の叡智と、南から北上してくるキリスト教を受け入れたヨーロッパの野蛮な民族の素朴なキリスト教衝動との共鳴の結果なのです。---------------------------------------------------------------------
民族移動の前後にヨーロッパに生きていた人々に目を向けることができます。民族移動のころに、南から広まってきたキリスト教に出会ったヨーロッパ人たちです。彼らはキリスト教を、今日とはちがって、根源的、本源的な、生命全体に作用していた計り知れない力を持った形で受け入れました。キリスト教は抽象的で悟性的な神学にまだ浸透されておらず、魂の基本感情に働きかけました。この当時ヨーロッパにいて、このような方法でキリスト教を受け入れた魂の大部分は、ほかの場合よりもやや長い期間を死と再受肉あいだで過ごして、今日アジアに受肉しています。とくに、当時キリスト化された魂の多くは今日、日本人の身体に受肉しています。多くの謎を提出している、アジアの独特の生を理解するには、今日アジアには前世でキリスト教的感情を受け取った魂が、すでに言語をとおして子どものころから、退廃した古い東洋文化に囲まれていることを明らかにしなければなりません。(『いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか』P78-P79)
私は、「なぜかキリスト教徒がほとんどいない日本の地で、遠い古代に、西洋から失われていた太陽霊の秘密を子供向けのテレビ番組という形式を使って公開した転生者たちがいた」と思うようになりました。その役割を担った人々が、幕末期から昭和期にかけて、順に転生してきた古代ヨーロッパ(ゲルマン)人たちのなかから現れたのだと思うようになりました。
高橋巌氏がある著書のなかで以下のように語ったことがあります。ただし今のところ高橋氏が依拠した引用元を確認出来ていないので、ご存じの方がいらっしゃったら、ご教示願います。
--------------------------------------------------------------------晩年のシュタイナーはあるとき、「もし自分の人智学がドイツで根付くことができなかったら、人智学の理想は東洋の日本に移ってしまうだろう」、と言いました。(『現代の神秘学』P35)
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現代日本のアラウンド60世代は、戦前戦中世代が日本において提示した「神話」「神の物語」に触れた最初の子供世代でした。あるいは日本人として子供時代を過ごし、かつて共有していた太陽霊キリストについての知識を無意識のなかで、再確認しあうためのイベントだったのかもしれません。
ちなみにウルトラマンAが放映されたまったく同時期(1972年4月)に、「神を地上に出現させるために二人の人間が組む」というウルトラマンAと同じモチーフを持った「バロム1」というSFドラマが放映され始めたこともかなり奇妙な出来事でした。おまけに「キリストの再臨」という言葉から「帰ってきたウルトラマン」という言葉も連想してしまいます。
ある民族内部にいた集団がある時期に集中的に「秘密を神話的物語として体験し(つまり無意識の中で古代に学んだことを思い出し)、ふたたび亡くなって来世の世界へ散る準備をする」そういうことが起きていたのでしょうか。
映画史(のちにはテレビ史)においても、ある時期に集中的に同じテーマの物語が乱造され、そして訴求力をなくして、別のテーマを乱造し始めるというような流行の入れ替わりのサイクルがあります。こんにちの状況もいずれ一段落する時期も来るのでしょうが、それにしてもYouTubeやNetFlixのようなものが出現したことで、日本発のコンテンツの世界への訴求力状況が変わったのでした。
「トラベラーズ」に話題を戻すと「もしかしたらメッセンジャーを使う霊界の高次存在はいるのかもしれない」と「体験的」にも思います。人智学的にはリクルーター「クリスティアン・ローゼンクロイツ」の話(参考『いかにして前世を認識するか』)が有名ですが、彼でなくともなにがしか、高次世界から、「自己認識を促すメッセージ」のようなものが、周辺にいる知人や誰かの口を借りて伝えられていたのではないか、という「気づき」のようなものを持ったことのある人は、私ばかりではないと思うのです。
「なぜあの人はわざわざ近寄ってきて、あんなことを私に告げて去っていっただろう」・・・・その時だけ何か彼や彼女から異質なものがやってきたような気がする。だからこそ「その時のこと」を大した内容にも思えないにも関わらず、こんにちまでずーっと覚えているじゃないか、そういう風に、きっと多くの人に確かに「うまく説明(消化)ができないそんな体験」に心当たりがあるんじゃないだろうかと思っています。PR -
季節感覚というんでしょうか、「〇月か。じゃあそろそろ天候的には〇〇が起きる。そうすると〇〇が咲く」って思ってしまうってのがありますよね
子供時代にはごく弱く、年齢を重ねると強くなっていく、そういう「想起感覚」です。
例えば、3月に、続けて雨が降り出すと、「いよいよ暖かくなる合図だ」と分かります。こういうことは小さな子供時代にはまだ気が付きません。
小学3年生の自分だったら、1年には春夏秋冬がある、ということは認識できてますが、さらにそれを月ごとに分けて、〇月になったら、天候がこういうふうに変化して、庭には〇〇の花が咲くなんて、感覚はまだまだ身についていませんでした。
私の住んでいる地域では、毎年3月の3日か4日には、空がヒューヒューとうなり声をあげます。夜中にその風がうなる音を聴くと、「ああ今年もあの音を聴くことができたなあ」と思うのです。
でもそれ以降はまたこれまで通りの無音の風が吹く日常に戻る、そいういうことに気づくようになりました。
私の自宅はもともと木々や草花がうっそうとしていたんですが、病気になって以降、庭じまいというものを行いました。まあ、死ぬような病気でもないんです。これからあと30年も生きることになったら、どうしようと思うこともあります。
うっそうとしていた庭の木々を切って、あとでこの家を管理しなければならなくなる者たちが余計な出費をしなくて済むように早めに手を打っておこうと思ったのでした。
我が家の庭はかつては野生の猫たちの天然の涼み場だったのですが、夏場にはカンカンと日光が照り付ける場所に変わったので、猫たちは我が家の庭を通り過ぎるだけになりました。
かつては以下のような場面に遭遇して、「なに、これー。このカワイイ世界を無料で堪能できるなんて・・・」みたいな体験もできたんですが。以下GIFです。ノイズみたいなものが出てますが、画面をクリックすれば、きれいなGIFを見ることができますよ。
そういうわけで、かつては季節ごとにいろんな花が咲くのを見ることができたんですが、雑草や落ち葉の管理も大変ですし、大部分の木を切ってしまいました。庭の整理をしようと思った最大のきっかけは西側の隣家の家人から落ち葉の苦情がきたことでした。それでこの際だからということで、業者の人に来てもらって、大部分の木々を切ってもらったのでした。
それでも玄関先には、まだ椿の木が健在です。
写真ではだいぶ花が落ちてしまいました。
東側の花は赤い花が多く、西側の花は白やまだらが多くて、それらの花がポトンポトンと地面に落ちているので、気が付くたびに掃除をしています。
シュタイナー学徒だからなのか、この世のことは、不思議で不思議で仕方なく、理解しようと思っても、とても理解しきれないとますます思うようになりました。
結局何もわからないまま死ぬんだろうなあと。
若い人は今まさに「適応のための闘争を続けている真っ最中」なんでしょうけど。
知っているのは「AすればBになる」とか「Cの場合はDすればいい」とか「EしたかったらFしろ」とか、そういう表面的なこの世を生きるための適応術ばかりだったなあ、と。 -
月ごとに最低2本は記事を投稿すると決めておきながら、なかなか思い通りにいかないです。調子のいいときは、ひと月に2本どころか、4本投稿したりしてますし。もー、ほんと気分屋ですよ。
最近、ひさびさに親戚関係で葬儀がありまして、車で一時間かけて神話の里高千穂町に行ってきました。伯父(私の父[次男]にとっては長兄)の奥様の葬儀です。88歳でした。伯父は5年前に他界しております。
浄土真宗系の葬儀です。伯父の時は、導師(お坊さん)として、ふっくらした年配のドイツ人の女性が金髪+眼鏡+袈裟姿で登場し、お経をあげてくださいました。「あの人は、国際結婚されて、住職の奥さんになった人だ」との話を聞いて「おー、これは珍しい。葬儀においてめったに出会えないような、とてもよい体験をした」と思ったのでした。今回は副住職との紹介を受けたハーフ顔の若いお兄さんが、導師を務められました。浄土真宗のお坊さんは、剃髪しないので、短めの茶色がかった髪の色をしておりました。寺の跡取りの息子さんなのでしょう。
帰りに葬儀場のすぐ近くにある高千穂神社に寄ってきました。宮崎交通の特別仕様バスが神社の駐車場に止まっていたので、上着を普段着に着替えてついふらふらと見にいきたくなったのが原因でした。
以下参考リンク
「侍ジャパン」をラッピングバスで送迎します。
そのついでに社殿にも寄ったのでした。ちなみに「このバス」に野球選手たちが乗ってきたわけではないので、誤解なきよう。
こんにちの高千穂神社は、観光客たちが立ち寄る名所のひとつになってます。でも、私の感想では、そのせいなのかどうか分かりませんが、どこか荒れてる感じがしました。その日も観光客でにぎわっていましたよ。中国語とかも飛び交ってました。
平成22年に秋篠宮家が参拝に来ていることが看板に出てました。
ちなみに私の地元延岡には観光地的にぎわいを感じるような神社はありません。なので規模の大きな神社はないんですが、私個人は春日神社が、小学生時代は仲間たちと境内で遊んでいた場所だったこともあり、子供時代からずっと清浄神秘に感じて、好きな神社です。
小学生時代の「遊び場」のひつとだったころの春日神社は、入り口が解放的で、遠くから社殿が見通せていました。開放的だったということは、子供が入り込みやすかったということです。以下はネットから拾ってきた写真。
「神様は風に乗って出入りする。」
しかし近年、写真で見ることのできる太鼓橋は撤去されて、代わりに下のようなりっぱな門が入り口に加えられました。かつて神社の敷地の北側(1枚目の写真で言うと太鼓橋のさらに右側)には西からずうっと水路が流れていましたが、蓋をかぶせられて、道路となり、元あった道と合体して今では暗渠となっています。
「非開放的な入り口空間」になってしまった「入り口」を初めて見たとき、悲しみのようなものを感じたのでした。「ああ、なんかもう気軽に入れない。身を縮めて門を抜けるような感じだなあ」。そう感じたのでした。なかなか、ほかの神社では、ついぞ見ることのできない太鼓橋。「社殿に至る入口前に子供受けする太鼓橋を配して、子供たちはいつも喜んでこの太鼓橋を渡ったのでした。けれども、もはや太鼓橋を渡って神社に入り込んで遊びを始める体験を今の子供たちは持つことができません。
大学生のころは、神武天皇を祭った宮崎神宮(上の写真)の近くに住んでました。きれいな神社です。毎日神社横を自転車で通りました。敷地が広大なので自転車で横を通り過ぎるまで結構な時間がかかりました。
延岡と宮崎の間にある、都農(つの)神社(上の写真)もよく行きました。この神社もなかなに広いです。祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)、つまり大国主命なので、出雲系神社です。昭和時代の大昔、「ここから邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)の社を遥拝することができます」という趣旨の結構大き目の横長の看板がかかっていたんですが、90年代には撤去されてしまいした。私は神社に電話して理由を尋ねたのですが、「駐車場整備のためです」という返答でした。かつて「都農神社の敷地内の〈特定の場所〉から西の空を仰げば、ここから遠く山の上に鎮座している邇芸速日命のお社を拝することができる」という趣旨の看板が90年代以前まではかかっていたのです。
こんにち都農神社は観光地化が進んでますが、邇芸速日命の名前を参拝者たちに意識させる「仕掛け」はついに復活しないままです。
ふと万葉集の額田王の歌を思い出しました。三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや( 懐かしい三輪山をそんなにも隠すのか。せめて雲だけでも思いやりの心があって ほしい。そんなにも隠し続けてよいものか。)
三輪山は邇芸速日命の山です。P.S.今回の話題とはまったく関係ないんですが、ひさびさ「こんな道具あります」系の話題も最後に添えておきます。最近手に入れました。昔同じようなタイプのものを使っていたのですが、有線キーボードでした。今回はBluetooth化してたので、値段も安いし見つけた時点で即買いしました。あんまりこういうガジェットを使っている人はいないと思うんですが、フリック入力が苦手で、一個一個ひらがなを選んで文章を書いている人が、スマホで「長文」を書きたいときは、便利かもです。
見た目はもはや「極小PC」のごとし、です。
Bluetoothのキーボード。同じくBluetoothのマウスとイヤホンとセットで利用してます。自宅ではあまり使い道がないんですが(写真上部にPC用キーボードが写っている通り、普段は大画面のモニター見ていますからねえ)、「どこかへ出かけたとき」に利用しようと思います。 -
以下「シュタイナー用語辞典から抜粋」
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●ヨーロッパ文化は長年ルシファーに支配されていたが、いまや才能試験など、アーリマン的になっている。
●世界の機械的・数学的把握、経済至上主義、国粋主義、福音書の一面的把握が、アーリマンの受肉を準備する。
●機械・技術にアーリマンの作用が見られ、アーリマンは歴史・自然科学を歪める。
●少年時代から唯物論的な思考になじんでいる者は、簡単にアーリマンの手中に陥る。---------------------------------------------------------シュタイナー的な観点に立って観察しなおすと、順位を競わせ、成績(競わされている対象は勉学からスポーツまでいろいろあろうが)優秀者のなかから、オーソリティー側へ抜き取っていく活動が、人類の「近代人」的ふるまいのひとつの典型だろう。シュタイナーは、それを「アーリマン的」と呼んで近代以前の人類のふるまい方と区別している。そういう意味でオリンピックもかなりアーリマン的祭典ではあるわけだ。
近代は「統計」がものをいう時代だ。
とはいえ、あらためて「その現象」を意識の上に呼び起こして、「なんで〈彼ら〉はそんなことしてたんだろう?」と問い直してみると、
「あれ?、それってもしかしてかなり〈病的な〉振る舞いだったのかもしれない」
とふと思いいたることになる。
なんの話をしているのか?、だって・・・・・。
音楽ランキングの話だよ。
結局、米国のビルボードにしろ、日本のオリコンにしろ、こういう「統計結果」を何か庶民として知っておくべき重要情報だと勘違いさせられて、〈彼ら〉(壁塗りトム・ソーヤーみたいな人々)がかつてはラジオ放送などを通じて、レコードの売り上げ増進の一助にしていたわけだ。
とはいえ、こんにち、誰もラジオを聴かなくなったし、「今週の人気トップ10」はなんだろうか、と気にする人々も消えてしまってはいる。
本来はただの商品売り上げ統計にすぎないものが「何かキラキラしたもののように偽装されて(トム・ソーヤー的でしょ)」、ラジオを聴いている「消費者たち」に届けられ続けて、それが「人々の精神生活を一方向へ向けてきた」ことに、いまだに多くの人々は自覚的になれていない。
「売り上げ統計発表」をそれ自体で「コンテンツ化」することで、放送番組として大成功をした稀有な例が「音楽統計発表番組」だった。
J-POPなどという「誰が言い出した分からない言葉(もちろんミュージシャン側からではない)」を聴くと反感を感じる。ショウビズ系に居直って金儲けしている集団にはアーリマン族という立派な庇護者たちがついてるようだし・・・・。
音楽といったってそのカテゴリーには幅がある。
統計に表れない音楽を心の底から愛して技術を磨き、保全している人々の集まりは世界中にある。
日本に限っても、端歌・小唄・長唄、詩吟、日本舞踊や神楽その他いろいろ。あるは学校文化のなかで育てられてきたブラスバンドの定期発表会。
これらの芸事、「人的活動」の「売り上げ」と「人気ランキング」は「どこ」で見ることができるのか?
あなたは「今週のカップ麺売り上げのトップ10」を知りたいか?
ラジオ文化華やかなりしころ、「音楽商品の売り上げ発表会」はそれ自体でコンテンツ化できたけれども、本来なら、その業界の関係者でなければ、普通誰も「商品」の「売り上げ統計」なんぞに関心を持つはずがない。だから「近代」に人々の前に出現してきたさまざまな現象のなかには、あらためて吟味しなおしてみると病的な振る舞いが数多く紛れ込んでいるということだ。
いまやYouTubeは「相手から労力や時間を奪い、それどころか金銭まで奪う」ようなリトル・トム・ソーヤーの群れであふれかえっている。オールド・マスコミは相変わらずの「うっかり八兵衛商会」をやっている。
秘教学徒でも扱ったことがあるけれど、今一度、以下の文章を紹介しておきたい。「霊視」という言葉は、今ふうに言うなら「ある言葉(場合によってはイメージや遺物)をキーワードに、霊界にある情報をサーチ〈検索〉すること」だ。
だからシュタイナーが「霊視」「霊視的」と言うとき、21世紀の読み手は、これを「検索」「検索的」と置き換えて読み直すと、「これはまさに現代のわれわれの精神生活の状態を予告している文章だ」と納得してもらえると思う。
------------------------------------------------------------もし人間がアーリマンへと続く潮流を正しい方法で理解し、洞察し、つい先日お話ししたような正しい軌道へと向かうことがないならば、何が起こるでしょうか。そうなれば、アーリマンが特定の時機に西欧世界に受肉するとすぐに、人類の文化はアーリマン化されることになります。アーリマンは何をもたらすのでしょうか。アーリマンはみごとな技術を用いて、霊視的な知識に関して、それまでは大変な苦労と努力と引き換えにすることによってのみ獲得することができた、あらゆるものをもたらします。それがいかに計り知れないほど快適なものになるか、考えてみてください。
人間は何もする必要がなくなるのです。人間は物質的に安穏と生きることができるようになるでしょう。人間は戦争の破局がやって来たあとですら、食べたり飲んだりすることができるようになるでしょう。そしてなんらかの精神的な努力について、心を煩わせる必要もなくなるでしょう。アーリマン的な潮流は「美しく、善く」進行していくことでしょう。正しい時期にアーリマンが西欧世界に受肉するならば、アーリマンは巨大な秘儀の学校(引用者注:インターネットのことか?)を創設するでしょう。
この秘儀の学校では極めて壮大な魔術が行われ、それ以前は苦労することによってのみ獲得できたあらゆるものが、人類の上に注ぎ込まれることになるでしょう。
私たちはここで、「地上に降りてくるアーリマンが一種の悪魔のような姿をして、人間に可能な限りの悪を働く」などという俗物的な考え方をしてはなりません。そうではないのです。「私たちは精神科学について何も知りたくない」と言う不精な人たちは皆、アーリマンの魔力に負けてしまうのです。
と言うのも、アーリマンは壮大な方法で、魔術によって非常に多くの人間を霊視者にすることができるからです。アーリマンは個々の人間を恐ろしいほど霊視的にするでしょう。しかしどのように霊視的になるかは、個々の人間でまったく、異なっています。一人の人間が見るものは二番目の人間には、そして三番目の人間には見えないのです。 人々は混乱し、霊視的な知恵の基礎を受け取ったにもかかわらず、互いに争ったりけんかしたりするようになります。
なぜならさまざまな人間が見るものは、それぞれ極めて異なったものになるからです。しかし最終的には、人々は自分たちの霊視能力に非常に満足するようになるでしょう。というのも、彼らはそれぞれ霊界(引用者注:ネット世界?)を覗き見ることができるようになるからです。しかしその結果、地球の文化はすべてアーリマンの手に落ちることになるでしょう。
自分の力で身につけなかったものをアーリマンから受け取る(引用者注:AIに精神的作業を丸投げすること?)ことで、人類はアーリマンの手に落ちるでしょう。「今の状態に留まりなさい。君たちが望むなら、アーリマンは君たちを全員、霊視的にするだろう。そして君たちはそれを望むだろう。なぜなら、アーリマンは大きな力を持つようになるのだから」というのは、人間に与えうる最も悪い助言になるでしょう。
その結果、地球上にアーリマンの王国が建設され、地球全体がアーリマン化されるでしょう。そして、それまで人間の文化によって築き上げられてきたものは、いわば崩壊していくことになるでしょう。現代の人間が無意識的な傾向の中で欲している善くないことが、すべて実現されることになるでしょう。(『悪の秘儀』P201)---------------------------------------------------------P.S.4
かつて中坊だった時代、私は音楽ランキング番組が大嫌いだった。だから、NHK-FMのリクエスト番組(地元放送局制作もの)が一番のお気に入りだった。
「みんなが知らない聴いたこともない音楽、聴いたこともない声、ん、なんかこれまでとちがうぞ、なんだこれミュージシャン体験」こそ至宝、それを探すべきだ。中坊の私は、生意気にも、そう思っていた。「自分の精神生活と強く結びついた音楽」は自分だけの心の中に秘して守るべき宝物だった。
「推し活」(反感を感じる言葉だ)してますなんて、「誰かに教える必要がある」か?
おおかた、これもトム・ソーヤー商法家たち界隈の「商売用語」なんだろう。
「静かに何かを心に抱いたまま、誰にも明かさない生活(~活動ではない)をしている15歳」は、実はたくさんいるはずだ。こんにち無限に増殖したように見えるリトル・トム・ソーヤーたちの出す騒音をかき分けていけば、「まさか、君が・・・・」と思うような少年少女たちが、きっと生きている。
P.S.
ちなみに今回掲げた絵は、15歳のとき、私は毎週6時(月~金)土曜3時から何をしていたかを表現したものだ。
いきなり、ラジオから、アナログシンセ音による
テンテン・テテテテンテン、テテテテンテン、テーテテンというイントロが流れてきた。そして
たとえ君が目の前にひざまづいて「すべてを忘れて欲しい」と涙流しても
と今まで聴いたことのない「ものすごく変な声に聞こえる歌」が流れてきた。
私は上半身を起こして、「え、なになになに、すごい変な声、女の人が歌ってるのかな?」
と思いながら興味津々となり、曲名の紹介を待った。すると
オフコースの「眠れぬ夜」でした、との紹介があった。それがオフコースとの初めての邂逅だった。
こんにち小田和正の声を「女の人?」と思うような人はいないと思うけど、15歳当時の自分には、それだけで(男か女かわからないけどスゴいいい声に巡り合ったという)「ひとつの衝撃体験」だった。当時私同様に「変な声」と感じた中学生がたくさんいただろうと思う。
P.S.2
むかしブログでラジカセを2台駆使して、カセットテープに多重録音したものを友人に聴かせたら、その、さらに友人つながりで、その当時自分の中学で一番ギターがうまかったA君に自宅に招待されたことがある、と書いたことがあった。
その多重録音のなかみこそ、オフコースの「眠れぬ夜」だった。出だしのイントロ含め、全部アコースティックギターだったけど。
P.S.3
ちなみに絵の中では「長髪」だけど、もちろんほかの地元の中坊同様坊主頭だった。
P.S.4
さらにちなみにだが、今季アニメ「魔王の娘は優しすぎる!!」に登場してくる魔王は「アーリマン」という名前だ。エーテル体という言葉は、日本のアニメでも頻繁に耳にするようになったけど、アニメのなかで「アーリマン」は初めてだ。日本の漫画家やアニメ関係者にはシュタイナーの隠れ読者がたくさんいると、昔語ったけど、どのくらいの規模で浸透しているのかは私には不明である。
プロのミュージシャンが「流行音楽は、この30年間、何一つ進歩していない」という趣旨の発言をしているのを聞いて、「やっぱそうですよね」と思っちゃいました。この方、ルドルフ・シュタイナーとも関連のあるってことを、この後、別の動画をいくつか見たあとで「発見」して、さらに驚かされました。 -
前回、PCゲーム「めっちゃGOLFデラックス」の元祖であるPS2版の「エンジョイ・ゴルフ!」もグランドスラムを達成したいという話をしました。
あれからも毎日一試合ずつゲームを進めてきました。
34番目の試合会場たるエデンズ・ガーデンは失敗せずに進めましたが、最後の35試合目の試合会場たるアヴァロンズ・ヒルは2度連続で失敗してしまいました。
「ああ、10回くらいは再挑戦するの覚悟しておかないといけないかなあ」と思ってましたが(PC版ではそうだったので)、3度目で突破できました。
今回のマッチプレイではPC側は私に対し「忖度モード全開」だったので勝てたんだと思うんです。特に最後の対戦相手であるバランが「バランがこんなに下手っぴなわけねーだろ」とこちらが気の毒に思うくらいの「八百長モード」だったような気がする。
まあ、それでもさらにたくさんの時間を奪われずに、3度目でようやく、すべての試合相手を突破できてよかったです。
ラスボスのバランは18ホールによるマッチプレイでしたが、ほかのメンバーは、最短で2勝するか、1勝2引き分けできれば、先へ進める形式になっています。
結局8勝2敗3引き分けで終了しました。
PC版、PS2版の両方に接して一番最初に出てくる感想は、オリジナル版(PS2版)は、映像が暗すぎるという欠点があったので、この欠点をPC版では完全に払拭したんだなあということです。そのほか印象に残った部分は、PS2版からPC版への移行に際して、さまざまなマイナーチェンジが施されていますが、特に表彰式会場において、PC版では各試合で優勝すると両手を上げてジャンプしながら喜びを表現していたキャラクターが、オリジナル版では、「壇上で上品に手を振る」という形になっていて、これはこれでいいじゃん、と私は思いました。
さて、結構長期に渡って継続してきた一連の「調査研究を兼ねたゴルフゲーム体験」でしたが、「13人目のミスターX」との最終決戦はありやなしや、という未解決の問題は依然として残ったままです。今後はあまり熱心にこのゴルフゲームをすることもないかもしれませんが、死ぬまでに、「謎が解かれる」ことが「偶然にも」起こればいいなあくらいのスタンスです。
PC版用にも無線式ゲームパッド(エクセレント率が爆上がりするやつ)を手に入れたので、今後はPC版もゲームパッドで遊ぶ予定です。
ただこの無線式ツイン・ゲームパッド、使い方が今一つよく分かりません。ペアリングボタンが点灯しているほうだけが、使えます(下二つがPC用)。動作については、ゲームの種類にも対応の違いがあるのでしょうが、「その検証」については、また別の研究テーマになります。
何か気づきがあれば、報告することもあるかと思います。
この期間中、石平信司監督の「ログ・ホライズン」を見てました。すごく久しぶりに。でもNetflixにはないし、アマゾン・プライムにもない(別の契約方法で見ることはできるようですが)。それでひさびさツタヤ・ディスカスで旧作60円セールをやっていたので、DVDを借りて見ることにしました。season4が作られないと「なんかこのアニメシリーズ、まだ終わってないじゃん感」が強烈なので、実現してほしいですよね。
ちなみに、石平監督の「転生系」「異世界系」のアニメ、何気にみな面白いですし。「月が導く異世界道中」とか「転生したら剣でした」とか。
あとひさびさに見直してびっくりしたのが伊瀬茉莉也がお姫様を演じていたという事実です(10年以上前の、初見時は声優チェックしてませんでした)。
伊瀬茉莉也といえば、HUNTER×HUNTERのキルアボイスでしょう。彼女はこのアニメで、姉のレイネシア(まったくキルアボイスと違う)とその弟のイセルス役をやっていて、弟は男の子ですが、キルアボイスとはまた違った声を出していて、「ほんと女性の声優さんて、スゲーなあ。つか、いろいろな音色をひとつの声帯から出せてほんまうらやましい」と思っちゃいました。
歴史的には、ミュージシャンというか歌手は「自分は一種類のボイス(音色)しか使っていない」という事実を意識化することはなかったし、疑問を感じることがなかったはずで、昭和の時代から声色(こわいろ)を使ってアニソンを歌うのは、声優たちに限られた特殊技能だったはず。
でも声優ではない人々、一般のミュージシャンあるいは歌手には「まだ手付かずの鉱脈」が、眠っていると思うんですよ。
この点については、昔、シュシュ(chouchou)とか猫祭り姫とかでも言及したことがありましたね。
そういうアプローチでアルバム作りをしているミュージシャンはほとんどいませんから。とはいえ、音楽制作においても多彩な「ねいろ」を駆使することのできる声優的歌唱の展開は、「こんな手法があったのか」と、ミュージシャンあるいは歌手を自称している人々の目を覚まさせるまでにはいたっていませんね。
声は音色(ねいろ)なんですよ。でも実写ドラマや映画を見ていると、役者の声に注意が向くことはほんとありません。そこがとても不思議で奇妙なところです。実写で役者が出す声は「音色(ねいろ)」的に、つまり「それ自体が鑑賞されるべき対象としての美的何か」として「人間たちの耳」には届いていないのでした。これって、すごく面白い「現象」ですよねえ。
その歌声を聴けば「ああ、〇〇だ」とすぐに分かるような歌手のヒット曲のうわさをトンと聞かなくなって久しいですよね。近年のアニソン系だとangela(アンジェラ)のatsukoみたいなタイプの声質はとても貴重品。まあangelaは「近年」じゃなくてキャリア長いですけど。だからというんではないですが、そのような「J-POP」状況に失望した「歌声マニアたち(私もその一人ですが)」はむしろアニメの声優が、独特のセリフ回しで奏でる、そういう唯一無二の声質の音色の甘美さに「日本の流行歌から失われてしまった要素」の代替品を求めているのかもしれません。だから私みたいな感覚で、声優の声を味わっている人は案外たくさんいるんではないかと思います。
そういうわけで、以下、余談ですが、独特で個性的で、なおかつ甘美な歌声の思い出を、過ぎ去った過去(70年代80年代90年代)から時々呼び戻して聴いていたりします。
最近、「独特で、個性的で、なのにやっぱいい声だよなあ」と昔を思い出して聴いていたお気に入りボイスの持ち主が、PSY・S(サイズ)のchakaと麗美でした。