昔、夫婦別姓問題で、池田信夫が「北条政子は源政子と名乗らなかった」と語りましたが、彼は誤解しています。「源」という「氏」は同じ血の由来を示す記号なのです。同様に儒教国家の国民には「姓」はあっても「苗字≒西洋で言うファミリーネーム」はありません。
かつて徳川家康は「源の徳川家康」と署名しました。源が儒教国家式の「姓」に類縁であり、「徳川」が西洋人の持つファミリーネームに類縁のものです。「ふじわらの」とか「たちばなの」とか「の」を付けて読むのが「氏」であり、公的に表示する「遺伝情報」です。
つまり今日でいう苗字(ファミリーネーム)を持っていなかったのは頼朝の方であり、儒教国家の国民は「今日」においても「そう」なのです。
たとえ話で言うと、B型血液の女性(これを趙族という記号で代用します)が、A型血液の男性(これを李族という記号で代用します)と結婚し、結婚後「私は以後、姓を李に変え、つまりほんとはB型ですがA型血液の持ち主だと〈申告〉します」と言ったら、「遺伝情報」の虚偽申告になります。
では、彼らは、子どもの「姓」をどう扱ってきたのでしょうか。「彼ら」の儒教論理では、伝統的に「二人の間に生まれた子供」には父方の「血の系譜」を「申告」させてきました。だから家族のなかで「別系統の血の系譜」からやってきた母親だけが、「新しい家族関係」の内部で、夫や子供たちとは異なった自分の父方の血液型を名乗っているのです。
儒教圏の「姓」は「同じ血(遺伝情報)を共有する者」を示す記号なのです。古来日本人は儒教文化で言うところの「姓」を「その論理の通りに」、日本国内で通用させたことはありません。古代日本においては「姓」は「かばね(役職表示)」であり、「遺伝情報」ではありませんでした。この点を敗戦後あいまいにされたので、こんにちの日本国民がそうされてしまったように、「姓」という「文字」の「意味」の扱い方を混乱させたまま政治利用されるようになったのです。
日本の武士階級が使い始めた苗字はもともとは「住んでいる場所」から採られたものでした。そして「その地名の場所で生きているその家族のすべての成員」が「住む場所(その土地に建った家)を同じゅうする人々としてのグループ名」たる苗字を名乗りました。遺伝情報、血の由来(縦)表示ではなく、土地、共同体、生活場所(横)表示の機能をしたのが苗字でした。
西洋や日本と異なり、儒教国家の国民には「みんなで家族固有の名前を共有する」という文化を生むための歴史的要因(近代)が存在しなかったので、儒教国家の人々は今日でも西洋人や日本人のようなファミリーネーム(苗字)を持っていません。けれども、彼らはそのまま部族名(遺伝情報に似た何か)だったものを西洋風のファミリーネームとして「国際社会」で代用して今日に至っています。
とはいえ「もちろん」、彼らは世界の諸民族同様の家族愛を持って暮らしています。夫婦の「ラストネーム」がそれぞれ違っていても、家族愛に満たされています。ただもし、日本の主婦が「中国や韓国の女性がうらやましい。自分の出身家の苗字をそのまま使っているから」というとしたら、その人は誤解していることになります。儒教国家の人々が使っている「姓」というのは、日本人の使っている「苗字」とは「内包する意味合い」が異なっているのです。
「ベン・ハー」という映画がありました。「ベン・ハー」とは「ハーの子」という意味です。紀元前後のユダヤ人が「自分の由来」について「このような自己申告の仕方」をしていました。シュタイナーも「イエス・ベン・パンデラ」、「パンデラの子イエス」と名乗る人物(菩薩)がイエス・キリストが出現する100年前にかの地に生きていた、というような話をしていますね。アニメだと、主人公の少年が「マルカの子ジル」と「自己申告」するシーンが「ドルアーガの塔」にでてきましたね。
今日ユダヤ人は「西洋風のファミリーネーム」を持っていますが、かつてはそうではなかったということが分かります。
「日本の」左翼の人々が真に先鋭的に伝統文化に変更を加えたいと言うのなら、
ファミリーネーム廃止運動
をこそ推進すべきだと思います。日本の場合はこれまでもそうだったように「家制度が諸悪の根源だ、うんぬんかんぬん」と理論武装しながら、真の平等のために市民は「姓」を廃止して「名前」だけで、アイデンティティを確立すべきだとかなんとかぶちあげればいいでしょう。
鈴木というファミリーネームを廃し、ただ「イチロー」という名前のみを「公称」として用いたプロ野球選手などは、そうなったら「政治利用」するための「よい歴史資料」にされるでしょう。
けれども、「姓(遺伝情報公称)廃止運動」なんぞがほんとうに起こったら、まっさきに反対側へ回りそうな勢力が日本の左翼勢力かもしれませんねえ。
今日の日本においては、「夫婦別姓」は「外国の伝統文化」を尊重する見地から「外国人枠」ではちゃんと認められています。この運動の真の目的は「日本国籍を得たもと外国人」が「自分の出身国の伝統」を維持したまま「日本人を名乗れるようにすること」なのかもしれませんね。
もちろん、日本の婚姻制度における「名乗りの文化」も「今日の西洋人たちがそれを解禁した」ように、いずれ新制度に移行せざるを得ないのでしょうが、東アジアの日本で起こっていることの奇妙さは「21世紀的な西洋思想風近代的展開」なのか「儒教文化的反動」なのかが、はっきりしないことです。
古来、儒教文化圏では「同姓不婚」の原則が厳格に貫かれており、今日においても、「森進一と森昌子が結婚した」などというような事態は最高に近親相姦的不快感をもたらすものなのです。「姓が同じ」というのは、彼らの文化圏では「家族内結婚をした」というのと同じです。どうしょうもなく不快な感情反応を彼らにもたらします。
近代科学の技術を用いて、DNA検査をして、まったく親族関係を持たないと証明できたとしても、儒教文化圏の人々は「今日においても」、世間から糾弾されないように同姓婚を避けます。彼らにとって
「夫婦」が同じ姓を名乗ることは「罪の告白」と同じ
なのですから。
そもそも、元来「日本人は姓を持っていないのに(ファミリーネームつまり苗字は持っている)、夫婦の姓(遺伝情報)を別々に公開することを認めろ」というのは文化的いいがかりでしょう。日本国籍を取った儒教文化圏の夫婦が「日本の法に沿って姓をおなじくすることは、われわれにとっては近親相姦の公示のようなものであり不快である」と内心感じているのなら、正直にそれを告白して、外国人枠ではなく「同じ日本国民として名乗り方の選択肢を広げてほしい」と運動すればいいじゃないですか。日本人は「正直に助けを求められる」とちゃんと応えてくれますよ。
かつて徳川家康は「源の徳川家康」と署名しました。源が儒教国家式の「姓」に類縁であり、「徳川」が西洋人の持つファミリーネームに類縁のものです。「ふじわらの」とか「たちばなの」とか「の」を付けて読むのが「氏」であり、公的に表示する「遺伝情報」です。
つまり今日でいう苗字(ファミリーネーム)を持っていなかったのは頼朝の方であり、儒教国家の国民は「今日」においても「そう」なのです。
たとえ話で言うと、B型血液の女性(これを趙族という記号で代用します)が、A型血液の男性(これを李族という記号で代用します)と結婚し、結婚後「私は以後、姓を李に変え、つまりほんとはB型ですがA型血液の持ち主だと〈申告〉します」と言ったら、「遺伝情報」の虚偽申告になります。
では、彼らは、子どもの「姓」をどう扱ってきたのでしょうか。「彼ら」の儒教論理では、伝統的に「二人の間に生まれた子供」には父方の「血の系譜」を「申告」させてきました。だから家族のなかで「別系統の血の系譜」からやってきた母親だけが、「新しい家族関係」の内部で、夫や子供たちとは異なった自分の父方の血液型を名乗っているのです。
儒教圏の「姓」は「同じ血(遺伝情報)を共有する者」を示す記号なのです。古来日本人は儒教文化で言うところの「姓」を「その論理の通りに」、日本国内で通用させたことはありません。古代日本においては「姓」は「かばね(役職表示)」であり、「遺伝情報」ではありませんでした。この点を敗戦後あいまいにされたので、こんにちの日本国民がそうされてしまったように、「姓」という「文字」の「意味」の扱い方を混乱させたまま政治利用されるようになったのです。
日本の武士階級が使い始めた苗字はもともとは「住んでいる場所」から採られたものでした。そして「その地名の場所で生きているその家族のすべての成員」が「住む場所(その土地に建った家)を同じゅうする人々としてのグループ名」たる苗字を名乗りました。遺伝情報、血の由来(縦)表示ではなく、土地、共同体、生活場所(横)表示の機能をしたのが苗字でした。
西洋や日本と異なり、儒教国家の国民には「みんなで家族固有の名前を共有する」という文化を生むための歴史的要因(近代)が存在しなかったので、儒教国家の人々は今日でも西洋人や日本人のようなファミリーネーム(苗字)を持っていません。けれども、彼らはそのまま部族名(遺伝情報に似た何か)だったものを西洋風のファミリーネームとして「国際社会」で代用して今日に至っています。
とはいえ「もちろん」、彼らは世界の諸民族同様の家族愛を持って暮らしています。夫婦の「ラストネーム」がそれぞれ違っていても、家族愛に満たされています。ただもし、日本の主婦が「中国や韓国の女性がうらやましい。自分の出身家の苗字をそのまま使っているから」というとしたら、その人は誤解していることになります。儒教国家の人々が使っている「姓」というのは、日本人の使っている「苗字」とは「内包する意味合い」が異なっているのです。
「ベン・ハー」という映画がありました。「ベン・ハー」とは「ハーの子」という意味です。紀元前後のユダヤ人が「自分の由来」について「このような自己申告の仕方」をしていました。シュタイナーも「イエス・ベン・パンデラ」、「パンデラの子イエス」と名乗る人物(菩薩)がイエス・キリストが出現する100年前にかの地に生きていた、というような話をしていますね。アニメだと、主人公の少年が「マルカの子ジル」と「自己申告」するシーンが「ドルアーガの塔」にでてきましたね。
今日ユダヤ人は「西洋風のファミリーネーム」を持っていますが、かつてはそうではなかったということが分かります。
「日本の」左翼の人々が真に先鋭的に伝統文化に変更を加えたいと言うのなら、
ファミリーネーム廃止運動
をこそ推進すべきだと思います。日本の場合はこれまでもそうだったように「家制度が諸悪の根源だ、うんぬんかんぬん」と理論武装しながら、真の平等のために市民は「姓」を廃止して「名前」だけで、アイデンティティを確立すべきだとかなんとかぶちあげればいいでしょう。
鈴木というファミリーネームを廃し、ただ「イチロー」という名前のみを「公称」として用いたプロ野球選手などは、そうなったら「政治利用」するための「よい歴史資料」にされるでしょう。
けれども、「姓(遺伝情報公称)廃止運動」なんぞがほんとうに起こったら、まっさきに反対側へ回りそうな勢力が日本の左翼勢力かもしれませんねえ。
今日の日本においては、「夫婦別姓」は「外国の伝統文化」を尊重する見地から「外国人枠」ではちゃんと認められています。この運動の真の目的は「日本国籍を得たもと外国人」が「自分の出身国の伝統」を維持したまま「日本人を名乗れるようにすること」なのかもしれませんね。
もちろん、日本の婚姻制度における「名乗りの文化」も「今日の西洋人たちがそれを解禁した」ように、いずれ新制度に移行せざるを得ないのでしょうが、東アジアの日本で起こっていることの奇妙さは「21世紀的な西洋思想風近代的展開」なのか「儒教文化的反動」なのかが、はっきりしないことです。
古来、儒教文化圏では「同姓不婚」の原則が厳格に貫かれており、今日においても、「森進一と森昌子が結婚した」などというような事態は最高に近親相姦的不快感をもたらすものなのです。「姓が同じ」というのは、彼らの文化圏では「家族内結婚をした」というのと同じです。どうしょうもなく不快な感情反応を彼らにもたらします。
近代科学の技術を用いて、DNA検査をして、まったく親族関係を持たないと証明できたとしても、儒教文化圏の人々は「今日においても」、世間から糾弾されないように同姓婚を避けます。彼らにとって
「夫婦」が同じ姓を名乗ることは「罪の告白」と同じ
なのですから。
そもそも、元来「日本人は姓を持っていないのに(ファミリーネームつまり苗字は持っている)、夫婦の姓(遺伝情報)を別々に公開することを認めろ」というのは文化的いいがかりでしょう。日本国籍を取った儒教文化圏の夫婦が「日本の法に沿って姓をおなじくすることは、われわれにとっては近親相姦の公示のようなものであり不快である」と内心感じているのなら、正直にそれを告白して、外国人枠ではなく「同じ日本国民として名乗り方の選択肢を広げてほしい」と運動すればいいじゃないですか。日本人は「正直に助けを求められる」とちゃんと応えてくれますよ。
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