"私が好きな音楽"カテゴリーの記事一覧
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最近、よく聴いているのがThe Booyah! Kidsです。
もう1曲紹介
彼らの楽曲をいろいろ聴いたなかでもっともお気に入りの2曲です。
日本人受けしやすいアレンジやメロディーラインを持ってるなあと感じます。メンバー構成はジュリアン・カウフマン、エイダン・ラドラム、エマ・リーの3人組構成です。
実際に聴いてみて、「うん、いいじゃん」と気に入ってくれる方がいるといいなと思います。
私の一番のお気に入りは、紹介したくらいですから、もちろん「Don't trust me」ですが、英語圏のページを検索して読んでみたら、リーダーのジュリアン・カウフマンは「最も誇りに思う曲は何ですか?」というインタビュアーの質問に「Don't trust meです」と答えてます。彼自身にとっても会心の出来だったんですね。以下、参照したページです。
インタビュー:ブーヤ・キッズ
ニューヨークを拠点にして始まったバンドです。エマ・リーは東洋系の女性です。Leeというラストネームから中国か韓国をルーツに持っている人なのかなと思います。
自分個人用にいろんなアルバムから20曲ほどチョイスして、「私家版ベストアルバム」も作成して聴いてますよ。
・・・・・・ということで、
おすすめ記事が簡単に終わっちゃったので、以下私の、社会人になる以前の音楽についての思い出話をしようと思います。
今はテクノロジーの発展のおかげで、こうして「お気に入り曲」の「披瀝」なんぞをしてますが、「不特定多数相手にそんなことをしようとは思っていなかった時代」もありました、という話です。
中坊のころから、音楽に関して生意気な態度をとってきた私でした。
21世紀の今ではJ-POPという言葉で「型抜き」されるようになった日本の流行歌界隈ですが、私が中坊だったころ(昭和40年代後半)は、日本の音楽は「歌謡曲」と呼ばれていました。それまでは歌手は歌を歌うことだけにおのれの技量を特化し、歌詞や楽曲は「先生と呼ばれる人たち」が注文を受けて制作していた時代です。
当時の私の観察によれば、歌謡曲において、ランキングのトップ10を競っている勢力には演歌系とアイドル系の二大派閥があるという認識でした。
いっぽうで、当時の音楽産業界における「オルタナティブ」としてフォークとよばれるジャンルがありました。彼らは基本テレビに出て来ませんでした。井上陽水やかぐや姫など(アニメ「トリトン」のEDには出てましたけどね)はそういう界隈から出てきたのでした(今回は当時の洋楽体験の思い出話ははずします。もちろん邦楽同様強烈なものがいっぱいあるんですけどね。当時のラジオ文化って邦楽も洋楽もごった煮状態で流れていましたよね)。
まだまだAMラジオは絶大なる影響力を持っており、FMの方が音がよいということで、だんだと皆が、音楽ならFMで聴くというような流れができ始めていた時代です。
こんにち、当時の流行歌界隈においてトップ10に入っていた多くの「歌謡曲」が忘れ去られています。いっぽうで、たいしてヒットもせず、したがってオリコンの上位ランクとは無縁だった楽曲が、いまだに忘れられない曲として、当時、私と同じような中坊だったり、高校生だったりした人に強烈な「忘れられない音楽との遭遇体験」として保持され続けています。山口一郎の父上はまことに的確なご指摘をなさっております。
時代は私が中坊から高校生に移行するころに、フォーク時代からニューミュージック時代になりました。こんにちYouTubeで、海外において、日本の70年代80年代の音楽がバズっているという動画をよく見かけますが、まさに「同時代体験」ができたことは幸福なことだったと思います。
とはいえ、生意気な中坊だった私は、トップ10の音楽には関心がありませんでした。いつも「私だけがそのすばらしさを理解しているミュージシャンがいる」と感じさせてくれる歌をラジオを通じて探し求めていました。実はこの「生意気な感覚」は当時の少年少女の多くが抱いていた人前では大声で語らない「隠れた感情」でありました。
当時、「私だけが知っている名曲を求める」というような、ある種、飢えのような、精神的な態度をもってラジオを聴いていた中学生や高校生が実はたくさんいたんじゃないかと思います。だから「本当に自分がすきなもの」は自分だけの心の金庫にしまって人には明かさない・・・・・、みたいな奇妙な心の態度を「あの頃の少年少女たち」の多くが持っていたと思うんですよ。
そのような少年少女の心の態度って、福音書の種のたとえ話を思い出すじゃないですか。たくさんの種が広い場所におちて根を出したのに、根が浅いので風が吹いたら、みな吹き飛ばされてしまった。一方で数は少ないけれど、しっかりと地中に根を張ったものたちは、その場に踏みとどまって、さらに成長をしていくみたいなイメージのたとえ話がありましたよね。
だから、ヒットチャートという「瞬間測定器」には、はかばかしい売り上げデータとして表にでてこなかった楽曲群が、ひそかに当時の少年少女たちの心の中で大事にされてきた、ということなんでしょう。「少年少女だった彼ら」が成人していくにつれ、「その時代にはまだ全面的に表に現れていなかった価値」がのちに「だんだんと社会的に評価される」ようになる。「売り上げ」は、「物質界に関わる産業的な評価」であり、「未成年たちの思い出から消えなくなる力」は「精神界に関わる評価」です。
以前にも、当ブログで今回の投稿と同じようなことを書きましたが、いい歳こいた今でも、私はヒットチャートに登場してくる楽曲には(海外も日本も)まったく関心が沸きません。必殺仕掛人たる広告代理店などと共闘して行われる産業主義のにおいがプンプンするものが、いやなんでしょうねえ。いや「そういう外面性」を持って現れても「いい曲」ならば、「いい曲」として評価してきましたよ、もちろん。ただ、本質はいまだに〈中坊魂〉のままなのです。
思い出話をひとつ。私がカバー曲として公開したシュガーベイブの「DOWN TOWN」。17か18歳の高校生だった当時、私はこの曲の一部しか知りませんでした。ドアを開け自室に入って机の上のラジオをつけたところでした。すると「ダウンタウンへくりだそう」とフェイドアウトしていく最中でした。たぶん終わりの10秒くらいしか聴けなかったのに、その時受けた衝撃といったら。「え、いまの何、何、何?」と今流れた楽曲の紹介を期待して待っていましたが、情報は得られませんでした。それ以降一度もその楽曲に「遭遇する」ことがありませんでした。
のちにその曲がシュガーベイブという山下達郎が所属していたバンドの曲だったと解ったとき、また衝撃を受けました。というのは、山下達郎は別口で追いかけ始めたアーティストだったからです。79年ころの話です。いろいろアルバムを集め始めました。情報を追うと彼はシュガーベイブというバンドにいて「SONGS」(1975年リリース)というアルバムを出しているということを知り、ついにそのアルバムにまで手が伸びました。
家に帰って即買ってきたレコードをかけました。曲名とかチェックしないで、流し聴きです。しょっぱなから出てくる音(村松邦男のギター)が独特で「おー、いいじゃんこれ」と思いながら聴いていました。すると曲目が変わり、次に流れ始めた曲のなかで、あの「ダウンタウンへくりだそう」と繰り返すコーラス部分が流れたとき、「あっ」と衝撃がきました。曲名をずっと知りたいと思っていながら、「もう一生出会うこともないんだろうなあ」と半ばあきらめていた楽曲。「なんとこれだった!」と分かったときの鳥肌感たるや・・・・。
私はその時まで「あの曲はなんという曲なんだろう」というもやもやを抱いたまま暮らしていたのでした。今ならネットで即解決ですけどね。ラジオだけが頼りの時代、ラジオは結構聴いていたはずなのに遭遇できませんでした。当時は「それほどにラジオ局のDJにさえ相手にされない曲だった」んです(まあ、めぐり合わせというか、私の運もなかったんでしょうねえ。どこかでは流されていたでしょうし)。
そして「最後の10秒間」ではなく、曲全体をあたらめてちゃんと聴いたとき、「やっぱこれすごい名曲やわ」と確認できたのでした。「よい音楽」は、たった10秒流れただけでも、当時17か18歳だった高校生に強烈な印象を残したんです・・・・。この曲と言わず、「みんなに知られていない楽曲」に強烈な思い入れを持ってしまった、「ラジオ」が頼りの昭和時代の少年少女たちがいっぱいいたはずです。
ということで、もはや少年少女世代ではないですが、いまでも中坊魂を持って音楽を聴いています。下校時間帯にたまたま道で中坊たちを見ると、「あの子ら(浅く根を伸ばす多数派系ではなく、風に吹き飛ばされない根を深く伸ばすことのできる系統の子ら)も人に明かしたくない自分だけの宝物をひそかに心に抱きしめて生きてるんだろうなあ」などと思いますよ。子供だから子供扱いされている彼らの内面で機能している「その審美感覚、センス」は馬鹿にできないものなんですよねえ。PR -
最近またYouTubeで英語圏のインディー系楽曲をいろいろ聴いて回ってます。
数日前に、「Best Indie Discoveries June 2025」のページに集められている各楽曲の動画バージョンを1曲1曲確認していたら、とても不思議な、シンクロニシティ感覚を刺激するような動画に出会いました。
その動画イメージは、今年5月に私が「ジリ・レーンに会え」という題で投稿した記事に付けたイメージ写真とすぐに連結しました。
「あ、もしかしてこの人が、ジリ・レーン?」
と思いましたが、楽曲のアップロード主はJackie Februaryという名義を使っていました。
その名前を見ると、またすぐに「Tommy Februaryと関係ある?」という感じの連想が続きます。「・・・・なわけないよな。でも名前を半分引用してるとかはあるかも」などと思ったのでした。彼女は赤いワンピースに白い靴下と運動靴姿、そして髪を後ろで結んで背中に垂らしていました。その上からバイク乗りがかぶるような(というよりよく見ると宇宙飛行士系)フルフェイス型の白いヘルメットをかぶっています。
動画の撮影地は東京のようです。彼女自身は日本人なのでしょうか? それは情報不足で今のところ私にはわかりません。それで、彼女個人のYouTubeページを検索して訪問してみました。もしかしたら、ヘルメットで顔を隠しているのは、すでに知られているミュージシャンの変名だからなのかもしれませんが、結局そこでも情報が得られなかったので、この見立もアテにならない話です。
いやいや、そもそもミュージシャンとフルフェイス型ヘルメットと言えば「Daft Funk」がいるでしょう(元祖はspaceだという記事有り)。Jackie Februaryはそっち系から印象を得たんじゃないですかと言われたら、「そうかも」と言うしかないです。
ちなみに、余談を少々。これらのミュージシャンたちは、いわゆる昔の言葉で言うところのテクノ系ですが、ドラムもベースも「手(足)弾き」ですよ。こんにちのDTM/DAW系の「オケ」は、(最近特に増えてきているように見える、もっぱら打ち込み作業のみで完結させているように聴こえる、日本のアニメのOPやEDは、そのよい実例です)、すでにカラオケ業界などで当たり前になっているタイプの伴奏制作をしている音楽業界経験者たちへの発注品なのでしょうか? 歌声はまだ「生きている人の声」だとしても、それはカラオケ店で流れる伴奏に合わせて歌っているようなものです。ドラム系の音もベース系の音も鳴っているのに、ちっともビート感がない。「ほんとに鳴っているんだろうか」と思って聴くと、確かに鳴っているけど、「ちっとも音楽的ではない」ので、鳴っているように聴こえない(その傾向についてはブログでも紹介した「The Real Reason Why Todays Music Is Starting To Sound The Same」が解説していましたね。クオンタイズ問題に注目)。まるで往年のアニメによく登場していた、本来は立体なのに、時々押しつぶされてペラペラな平面体になってしまうキャララクターのように「音像が平面の内部に押しつぶされている」ような感覚です。最近ではギターの音までシンセ音源を使っているアニソンもあります。そしてアレンジがその平面体の中で押しつぶされて過度にうるさくなってきている。どんどんひどくなっているように見えます。話を戻します。私がさらにJackie Februaryの動画に驚嘆したのは、以下のような、私の見た夢と奇妙にリンク感覚を感じさせる動画を見てしまったからです。この「Arriving on the earth」という題の短い動画は、ヘルメットをかぶった若い女性が、地球に「転移」する物語になっています。この動画が公開された日付は、今の時点で見ると7か月前(2025年2月28日)になってますから、彼女は、私が自分が見た奇妙な夢(2025年5月)についてブログで報告する以前に「異世界への転移」あるいは「タイムトラベル」という私の夢イメージと似たようなイメージの動画を作っていたことになります。
彼女のページのアイコンを見るとますます、私が「ジリ・レーンに会え」という題で書いたブログのページに掲げた写真のイメージと「連想的にそっくりな感じ」がしたので、「これはまったく奇妙でおもしろい」と驚嘆してしまいました。以下が彼女と私の二つの画像を並べたものですが、なんか共通のフォルムを内包していますよね。
でも、そもそも私が夢のイメージとして掲げた写真は、ウェブ版Stable Diffusionでこさえたものでした(ですから実際には「本来の夢のイメージ」とはまったく似たところがありません)。
夢の中では私はベッドに仰向けに寝ていて、足元に男女がいて、男から「ジリ・レーンに会え」と言われながら、布のようなものをかぶせられ(にもかかわらず同時に顔に装置のようなものを付けられたという二重感覚もあり)、それから自分の右目前に楕円状に現れたイメージ(別世界へ通じるポータルのようなもの?)を通って「異世界」へ移動したのでした。
ジャッキー・フェブラリーの動画では、彼女に異世界転移をするように告げる当局の者たちが、私の夢同様二人出て来ます。ただ動画では「転移の目的」が提示されていませんでしたね。
私の夢の場合は「ジリ・レーンに合え」ですが、なぜジリ・レーンに合わなければならないのか、夢の中では知らされていませんでした。ただ「そのこと」ははしょられていただけで、もっとたくさんの要素(設定)が意識の向こう側に隠れていて、自分はただ「その時」はそれを夢から覚めた時の意識上に乗せることができなかっただけの話なのかもしれません。
自分の手で、「ベッドに仰向けに寝ている自分と室内の様子」を描けばよかったんですが、どうせ上手に描けません。それで「病院 ベッド ヘルメット(装置イメージの代用)」などというようなプロンプトを使って、とりあえず手に入れたのが、ヘルメットをかぶってベッドの上で上半身を起こしている写真でした。
私は異世界にいて、ジリ・レーンを探し始め、いろいろな場所へ行き、いろいろなことをやったのですが、目が覚めたときには、具体的なことは何も覚えていなかったという内容の話を書いたのでした。
もしかして、私もJackie Februaryの「中の人」も「異世界からの転移者」で、でも「なぜ転移してきたのか、その目的が自覚できずに、物質界での違和感に耐えながら生きている・・・・」、などということがありえるのでしょうか。
英米系のスピリチュアル運動に詳しい人なら、「ああ、そういうタイプの、ほかの星から地球にやってきた人々の話なら、英語圏の人びとがよく語ってるよ」と答えるでしょう。
そういう界隈における古参的有名どころの人物、ドロレス・キャノンの言葉を借りるなら、インディゴ・チルドレンから始まる地球転移者たちの苦闘の物語の一部として、今回の不思議な体験も大きな物語の枝葉として包摂化も可能でしょうが、ほんとのところはどうなんでしょうねえ。
彼女によれば、インディゴ・チルドレン、すなわち第一波の宇宙からの来訪者たちは、1960年前後から地上に生まれ始めるが、彼らの一生はものすごく苦労の多いものとなると語っていましたね。次の世代、第二派世代、第三派世代の来訪者たちは、インディゴ・チルドレンが敷いた道あるいは経験によって、それほど苦労しなくて済むようになるとも。
とはいえ、私はシュタイナー学徒ですので、英語のスピリチュアルという言葉には多少反感を持っています。ドイツ語圏ではスピリットとは物質を希薄化したものを指し、こんにちでは酒精などの意味で使われることが多いとシュタイナーは書いていました。近代ドイツ語圏では「そういう扱いの言葉」を、英語圏の人びとは近代になったとたん「霊」を指す言葉として使うようになったのです。
霊・精神を表すドイツ語はガイストですが、英語も近代以前、200年前までは、英語版聖書においてゴーストを「霊・精神」の意味で使っていたのです。いわゆる「ホーリー・ゴースト」、聖霊ですね。今日、近代口語訳英語版聖書で説教を行っている人々は、かつてholy ghostという言葉で教えていた「対象」を、holy spiritという言葉に「置き換えて」教えています。
ガイストもゴーストも同じ語源から派生した由緒正しき古代世界由来の言葉です。つまり英語圏の人びとはすでに「霊」を指す「本来の古語」を喪失しているのです。そして語源的には、どこか物質的なニュアンスを感じさせるスピリットという言葉を世界中に普及させました。そしてその由来を知らない不思議大好き系日本人たちも、スピリチュアルという「カタカナ言葉」を何の疑問も感じずに使っています。日本人も「霊」と聞くと「幽霊」を連想するようになっています。しかも近代人は「霊」と「魂」の区別もできなくなっています。幽霊を指すドイツ語はガイストではありません。しかし日本人も英米人も、幽霊と霊をもはや区別できません。
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心霊主義(スピリチュアリズム)
唯物論が頂点を迎えた19世紀中葉に、英米の結社が物質的な方法で霊を証明しようとした試みで、霊は高次の自然にすぎない、と思い込ませる。秘教的知識を広めたくない人々と、その知識を大衆化したい人々との妥協の産物である。(『シュタイナー用語辞典』)
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こんにち「スピリチュアル」という言葉は19世紀の時代よりもずっとカジュアルな受け止められ方をするようになっています。英語で言うところの「スピリチュアリズム」は、もともとは「幽霊の実在の科学的手段による証明運動」として始まったものですが、「音声的」に関連する「スピリチュアル」という言葉は今や完全に「市民的」になっています。
そもそもキリスト教徒は人間は魂と肉体からできており、霊のように見える活動も散見される、というような認識をキリスト教思想の根幹に据えています(もちろんキリスト教も古代には霊・魂・体の三つを教えていたのですが、ニケーアの公会議で、人間から霊の要素を取り除いたのです)。つまり人間は魂的存在ではあっても、霊的存在ではない、と言っているわけです。霊は神霊存在、天使存在が有しているものなのです。あるいは霊の部分は教会が担うということになりました。英語は物質的な事象を表現するには最適な言葉となりました。こんにち世界に流通しているコンピューター言語は「英語」をもとに作られました。この唯物論の時代に「英語が世界を支配している」のは、偶然ではないのです。ゴーストリーという英語はありますから、霊学という意味でなら、ゴーストリー・サイエンスとでも言いたいところですが(ghosticという単語も存在するようですが一般的ではないようです)、そんな用例は近代には存在しません。日本語の「霊学」に当たる実際の用例は、ドイツ語=Geisteswissenschaft、英語=spiritual scienceです。でも200年前、近代にイギリス人たちが「ゴーストの本来の意味」を「喪失」しなかったなら、あるいは ghostly scienceという言葉がspiritual scienceの代わりに使われていたかもしれないということです。・・・・・・--------------------------------------------------------英語はゴート語の段階にとどまっており、言語を無価値にする。精神科学・人智学の本を英語に翻訳することはできない。英語では、語られたものが精神(霊)に完全に重なる可能性がないのである。(『シュタイナー用語辞典』)
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ちなみにシュタイナーは「ラテン語系の言語、イタリア語、スペイン語、フランス語は外界の認識に適した言語であり、物質主義に傾く可能性を持っている。それに対して中部ヨーロッパの言語は心魂的・精神的なものを表現する可能性を有している」という趣旨の発言もしています。
あれ、また「いらんこと」を延々としゃべりはじめそうになってる。なので、今回は「地球転移者」をテーマに記事を書いたんだということをも一度強調して本稿を終えようと思います。
P.S. 「ジリ・レーンに会え」では、「右目前にだんだん楕円状に拡大していくポータルのようなものから異世界へ移動した」という趣旨の話をしましたが、アマゾンプライムで始まったばかりの秋アニメ「素材採取家の異世界旅行記」の第一話を見たら、物語の冒頭部に、同じようなイメージを喚起させるシーンが出てきて、「またまたシンクロニシティじゃん」とびっくりしてます。(2025-10-19追記) -
といことで、表題の通り、前回内容の後続記事であります。
Indie Playlist Septembaer 2025の動画は全体で3時間55分36秒もあるので、まず、ここで全体を通し聴きしようと思って、実行できる人って、あまりいないと思う。
DAW系のシンセ音を使った「環境音楽」的な聴き方だと、「そういうタイプの努力と忍耐」を聴き手に要求しないので、むしろ「耳が楽曲に引っ張られるような曲」を流すことは、聴き手の安楽さ欲求への迷惑行為にさえなる。「聴けば心地いいんだけど、印象が消えていくような楽曲」、できれば、睡眠誘導曲として、あるいは、精神鎮静として、部屋の中で流したい曲、そういう楽曲への要求が昔より、大きくなっている時代なんだろうと思う。
「このまま唯物論的な時代が続けば、いずれ社会は神経質という精神病の大流行に見舞われ、共同体が危機に瀕するようになるだろう」というのがシュタイナーの予言だったしね。だから音楽分野でも、「芸術体験」ではなく「心の鎮静剤」として「投薬体験」を強く求める時代になっているという逆証明でもあるんだろう。私もときどきこの手の「印象薄い系音楽」を「聴いてる」・・・・・、ではなく「部屋で流している」し。夏の間はこれ(←クリックしてください)をかなり頻繁に部屋のなかで流していた(炊事作業したり、本を読んだりしながら)。これだともはやシンセ系音楽ではなく、かつての日本なら地方のどこでも聴けた「本来の環境音の再現」になっちゃうけど。
でも今の私は割と暇人なので、このIndie Playlist Septembaer 2025の「歌声入りの楽曲集」を家の中でずっとリピート再生し続けていると、何か他のことをしていても、「耳が引っ張っていかれる曲」にときどき遭遇する。そういう「体験」をさせてくれる曲を集めると10曲ほどになった。
なかでもPine Barons の LILOって曲はとても耳に残った楽曲だった。で、その曲そのもので動画になってるページを検索して見てみた。するとすぐ「ある楽曲動画」への連想が沸き起こった(これは後で語ることにする)。
コメントはもちろん英文だらけだけど、そのなかに、ひとりだけ日本語賛辞を寄せている人がいた。
ああ、やっぱり、「探索者」は日本にも実はいっぱいいるんだろうなあ、と同志を見たような気分になった。
プレイリストのなかに2回この楽曲は登場してくるので、リスト制作者のミスだろうけど、逆に言うと、制作者も「一番のお気に入り曲」なので、「無意識の自己主張」をしちゃったのかなと思ったりもした。これはLILO動画のことではなく、一般論だけど、画像を見ながら、楽曲を聴くと、広い非物質空間へ移行することを遮断されるような気分になる。昭和時代のような、「喚起されるイメージ」はそれぞれの聴き手が「自分で作っていた」時代、ラジオから流れて来る楽曲のみに集中して聴くというスタイルだった時代は、「自分の空間」に移行することが容易だったよね。楽曲だけで、「自分固有のイメージ空間」に移行していた。それは多くの場合、具象的像ではないけれど、確かにみな、そういう「別世界空間」「印象空間」(ある意味、霊界のような?)に飛んで行ってたはずなんだよね(総合芸術、演劇や舞踏・ダンスとか映画の構成要素としての音楽体験の話はしてないので、誤解なきよう願います)。さて、LILOの動画を見て、沸き起こった「連想」とは、当ブログでもたびたび言及していたバーバパパの動画のひとつだった。
「ああ、なるほど。二つの動画があなたの中で〈つながってしまった〉のは、分かるような気がする」とおっしゃる方も、もしかしたらおられるかもしれない。
あるいはLILOを作ったPine Barons自身が、この動画から着想の一部を得ていた、などということがあったなら、それはそれでかなり面白いことだよなあと思うのだった。 -
北米のインディーズ音楽探索からしばらく遠ざかっていたけど、最近、YouTubeの「おすすめ画面」に出てきたので、ひさびさアクセスしたら、やっぱいいじゃん。(以下、Indie Playlist | September 2025) 基本「手弾き系音楽」(昔はそれが当たり前で、DTM・DAW系の音楽が簡単に万単位のアクセス数になっている状況を見ると、「今は身体性不遇時代」になってるんだなあ、とつくづく思う。)
「好きなことがあって、それに没頭できる人たち」って、シュタイナー的に言えば「意識魂」的に生きているってことなんだろうかと思う。『堤中納言物語』所収の「虫愛づる姫君」なんぞもそういうアマチュア系人物なんだろうか。平安時代にすでにそういう人物が物語のテーマとして取り上げられてるのは驚嘆すべき事例だ。
「アマチュアを日本語訳で素人と訳したのは失敗だ」と言う趣旨の発言を荒俣宏がしていたのが面白かった。
荒俣宏は人智学者の高橋巌と対談本(『神秘学オデッセイ』)を出している人なので、今回は、音楽のカテゴリーからの投稿だけど、「意識魂的生き方」という観点で観察しなおすと、別の意味でまた面白い。
荒俣宏の動画を発見した同じ日に、YouTube(みのミュージック)で鈴木茂の最近の姿を見ることができたのもうれしい。そういえば、鈴木茂については、大昔当ブログにおいても「彼の声が大好きだ」という趣旨の発言を添えてオススメ記事を書いたことがあったなあ。
それと私自身ももう一本自分自身の音楽動画をアップした。ちなみに映像はPIXABAYのものを適当につないだだけのもの(まあこの辺りは手抜きでもいいかと)。
歌声も含めて「へなちょこバージョン」ではあるけれど、とにもかくにも一曲録音版を完成させられたことに対しては「昔のオレ」をちょっとだけほめてあげたい。40代以降になると、「この仕事で大丈夫なのか、生活できるのか」が大問題になって、アマチュア道を貫徹させることが精神的にだんだんできなくなっていたので。
私がカバーしたのは、山下達郎の「ポケットミュージック」所収の「シャンプー」という曲だけど、実はこの曲のカバーをやりたいと思うようになった動機は、大昔まだ「ポケットミュージック」が出る以前、AMラジオ(サウンズ・ウィズ・コーク)で山下達郎がリスナーのリクエストに応えて、エレピ弾き語りライブ演奏版「シャンプー」を初公開したのを聴いて、感激したことがきっかけだった。
普段はそのラジオ番組は聴いていなくて、その日だけ、たまたま聴いてしまい、なおかつなぜか、その回の放送だけ録音していたので、その貴重なライブバージョンの「シャンプー」を今でもカセットテープで聴くことができるという、「こんにちから眺め直すと小さな奇跡が起きていた日」だった。
「ポケットミュージック」が発売されると知ったとき、まずチェックしたのは「シャンプー」のスタジオ録音版がアルバムに入っているかだった。入っていると分かった時、私はきっと「やったあ」と小さくガッツポーズをしたはずだ。
ライブ演奏を聴いて感激し、のちに「絶対スタジオアルバム所収バージョンをゲットしたい」というマインドになったのは、NHKが吉田美奈子の野外ライブを放送し、たまたまテレビをつけたとき、ステージ上の彼女が「CHRISTMAS TREE」(アルバム『BELL』所収)を歌い始めたのを聴いて度肝を抜かれて「その後ずっとその歌ばかり気になっていた事件」と合わせて二つくらい思い出として残っている。
今後は本格的にWindows11マシンで録音活動したいと思っていた矢先、 無料で使えたDTMソフトのcakewalk by bandrabが有料版cakewalk sonarになって、がっかりしていたら、一部機能を制限した無料版(十分使える)が改めてリリースされたので、今は安堵しているところだ。
どんどん「録音版」を制作したいね。
P.S. それと全然記事と関係ないけれど、「竹内結子はなぜ死んだんだ」といつもいつも気にしているオレがいる。それで本日のテーマ記事を書きながら、ネット記事も見ていたら、livedoorのポータルサイトに竹内結子の記事が出ているのに気が付いて、つい読んでしまった。この人を私が発見した最初は映画『リング』だった。まだ少女時代で殺され役だった。でもこの人のことをすぐに気に入ってしまった。なぜ気になる人なのか、よく私には分からないのだけど、なぜか気になる人になったのだった。
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楽器を弾く人にも二種類いると思うんですよ。
ひたすら技術を磨くために練習に励むタイプと、創作つまりオリジナル楽曲制作の手段として楽器を弾くというタイプ。
クラッシック音楽の世界では前者側の人が圧倒的だと思いますが、ポピュラー音楽の世界ではむしろ後者的なマインドの人が多いんじゃないかと思います。特に70年代以降、シンガーソングライターという立ち位置の音楽家たちが日本でも登場するようになって以降はますますそうなったと思うんです。
私の場合、中学3年の時、フォークギターを手に入れて以来ずっと、後者のタイプでした。
だから他人に「何か弾いて」と言われると、ものすごく困ってしまってました。そういうことをほとんどやらなかったからです。
楽曲を完成させようと決意すると、コピー曲にしろ、オリジナル曲にしろ、アコギ、エレキギター、ベース、キーボード全部練習しなけりゃならなくなって、なんとか通しで弾けるようになったら、MTRに録音してミックスダウンして終了です。1週間もしたら、忘れて弾けなくなってました。
なので一発芸的デモンストレーションをするのが嫌で、しかも基本、私の演奏能力は低いので、なるたけそういう界隈には関わり合わないような、音楽とのかかわり合い方をしてました。
もちろんいろんな楽曲を練習(コピー)しましたが、それはコード進行(楽曲の全体像)を学ぶためでした。
作詞作曲そして歌唱の領域に到るまで、いまやAIが「高品質」な「製品」を際限なく生み出せる時代になってます。
「ああ、まさに〇〇っぽい、いい曲だね」的展開です。AIは過去に存在したさまざまなジャンルの楽曲を、「高品質」かつ「のようなもの」として吐き出してくれます。
とはいえ、音楽鑑賞におけるライトユーザーにとっては、「今流行っているもの」に接近できればそれでいいのだと思います。AI楽曲がバズれは、面白がって聴くでしょう。そしてすぐに忘れるのです。
20年後30年後の「彼ら」は、その音楽体験を「大切な思い出」として思い出すこともないのです。「〇〇の曲」ではなく、「〇〇みたいな曲」では、当然訴求力は落ちます。
そもそも21世紀に入ってからは、「流行歌」のオリジナリティは20世紀のものと比べものにならないくらいに質が落ちているのではないかと思います。
特に日本では「いい声」(個性的なのに魅惑的)で歌う歌手がいなくなりました。
楽曲自体の個性に関しては、たとえば「バック・トゥ・ザ・フューチャー」でチャック・ベリーの楽曲をマーティ経由で聴いたプロのミュージシャンたちが、「その新しさ」にどぎもを抜かれている様子が描かれてましたが、50年代以降、ポピュラー音楽は、次々と新しい音楽要素とリズム構成の刷新の提示の連続で、本当に当時のリスナーたちは、日々感激の連続を体験することができました。「その新しさに鳥肌が立つ」というのは、修辞句ではなく、ほんとに多くの人たちが、鳥肌を立てて感激していたんです。
当時は、こんにちのような、「〇〇のようなよくあるタイプの曲だし、特に感激もしない」という連想が湧き出るようなリスナー体験とは異なった音楽体験をすることができた時代でした。
クラッシック音悪の世界で、さまざまなモードの変遷の果てに「既存のもの」を超えようとする営みの果て、「現代音楽」が奇矯でますます難解なものになってしまい、「一般庶民」からそっぽを向かれるようになったように、「モードの更新」が「みんなの感情」を強烈につかまえるような、過去には当然繰り返されてきたような状況が「流行歌の世界」においても失われてしまっているわけです。もっともポピュラー音楽の場合は「難解さ」ではなく「既視感ならぬ視(聴)感による恒常的非感激化」によるのでしょうが。
みな「今の新曲は〈新しくない〉(モード的に新しい感激体験をもたらしてくれる何かを持っていない)」よね」と感じてますが、別に大声で言わないだけです。
ここ2,30年来、人間の制作による「のような楽曲」が量産される状況がすでにずっと続いてきたのです。英米の音楽だって同じです。以下「現代の音楽が同じような音になりつつある本当の理由」日本語字幕でどうぞ。
ポピュラー音楽のモード的変遷への試みは、アイデア的にも汲みつくされてしまいました。次々と「これまで聴いたことがない音楽なのにとてもいい」と人に感じさせてくれるような「新曲体験」を現代の聴衆は「体験」することができなくなりました。
そして、業界で食っている生きた人間たちが「のような楽曲」を量産しながら、糊口を凌ぐ時代が始まりました。そして今度は「彼ら」に代わって「仕事」をAIに代行させて、「権利」は「実在の人間名義」で発表する時代の到来です。
すでにひそかにそういうことが起きているんじゃないかと思います。つまりまずAIに作らせて、あらためて「実在の人間」がその曲の一部をパクったり、カバー曲を制作し、スポティファイなどに登録する。
でも、人は(特に一般庶民たち)は、AI(=「のようなもの製造機」)で曲を作るなどという「めんどうなプロンプト作業」を「喜び」を持ってやるでしょうか。
「喜び」がなくとも、それができる人がいるとしたら、それを「(市場で対価が生まれる)仕事」として扱う心理的な準備ができている人たちでしょう。
楽器を弾くのは(弾けるようになった人なら分かると思いますが)、楽しいのです。そのうえ、皆で集まって合奏、あるいはバンド演奏をするとなお楽しくなります。
歌を歌うのは楽しいのです。それで二人三人四人と集まって、ハモったりすると、頭蓋骨の内部でそれぞれの出す音がぶつかってザラザラと振動して、えもいわれぬ喜び(感激)が沸いてきます。
「これらアマチュアミュージシャン系庶民たち」は近代の貨幣経済のなかでは、もっぱら流行歌に金を払って消費する側でした。けれども、一方で「生身の身体」を使って「音楽体験をする」ことに喜びを感じることのできる人々でもあります。
今カントの『純粋理性批判』を「自発的」に読んでいる中学生は、日本のどこかに確かにいるでしょうが、それは多数派ではありません。
同じように「売り物」の音楽としては、多くの人は、求道者のごとくに自分から未知の楽曲(名曲)を求めて、ネット世界を渡り歩くハンター系ではないでしょう。特に若い層は、「今皆が聴いているから自分も聴いている」的接し方をしている人が多いと思います。
「売り手(企業)」側は、とにかく売れること(数字を取ること)が至上命令ですから、「うんちく豊富で、こだわる聴き手」なんぞは、邪魔で厄介な存在でしかないでしょう。日本の企業文化もますます唯物論寄りに変質しました。握手券を入れると売り上げが爆増するなら、もちろんやるでしょう。企業の目的は「利益の最大化」などという英米系プラグマティズムが流布させた「迷信」を優等生的に反芻し、そのときそのときだけの利益の最大化のために奔走するに決まっているのです。企業人にとって「音楽文化」はもはやどうでもいいからです。
「歌は世につれ、世は歌につれ」という名台詞も、ここ日本においては、かつてのようには「実態」を持っていません。もはや「流行歌」(多くの国民が老若男女問わず知っている歌のことです)は「存在」していません。
DTMが楽器を弾けない人にも作曲の道を開いたなどと言う人もいますが(それは多分に売り手側、つまり企業の販路拡大のための方便として、リップサービスをしていたにすぎないと思います)、DTMから音楽制作に入ってきたとしても、その人がほんとにいろいろ極めたかったら、「本物の楽器」をいじって経験値を増やしたいと思うようになるんじゃないかと思います。
楽器をいじったことのない人が、本当の楽器体験をしないまま、若い頃に始めて以来、ずっとDTMだけの作業に50歳60歳になっても従事しているなんて、私にはほとんど信じられないことです。
そんな人いるんでしょうか?
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さて、とりとめのない話になってきたので、このへんで「愚痴っぽい」ことは(だって、だからと言ってどうにもならないんだもの)終了したいと思います。
サカナクションの山口一郎の動画が、なかなかよかったです。
前回の投稿で言及していましたが、かつて(YouTubeがGoogleに買われる以前に)YouTubeに挙げていて、YouTube傘下に入ったとき削除してしまった楽曲をも一度アップしました。よかったら聴いてやってください。シュガーベイブ・オマージュです。