"アニメ"カテゴリーの記事一覧
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現在GYAOでは「魔法少女もの」を順次配信中である。現在配信中なのが「魔法のプリンセス ミンキーモモ」だが、その少し前の時期に「魔法のステージ ファンシーララ」という作品が配信されていた。
オレはこの作品のヒロイン、篠原みほの姿を最初に見たときにびっくりしたのだった。というのは、過去4作品のほかにもう一度、福沢祐巳に会えたような気がして、ものすごく得をした気分になったからだった。
「ファンシーララ」は大人に変身しても、少女の篠原みほ同様に問題にぶつかり悩む。彼女はただ大人になっただけで、内面はまったく篠原みほのままだからだ。そしてさまざまにこころを揺れ動かす。大人に変身するとスーパーガールになるモモとは、ヒロインの性格づけがまったく異なっている。
そして、揺れ動く篠原みほの心に焦点を当てて描いているという点でも、「マリア様がみてる」のヒロイン福沢祐巳の姿と重なって見えてしまうのだった。
篠原みほは小学3年生で、昔の幼児時代のように、ただただ無邪気ではいられなくなる9歳という「ルビコン川」を渡らなければならない微妙な年齢の子供だ。その心のあがったり、さがったりの描き方が「マリア様がみてる」をどこか彷彿とさせる。もちろん、「ファンシーララ」には「憧れのお姉さま」は出てこないが、なにか似たにおいを感じたのだ。
「ファンシーララ」が放送されたのは1998年(4月5日放送開始)で、実はこの年に「マリア様がみてる」の原作本が出版され始めている(4月24日刊行開始)。「マリア様がみてる」のアニメが最初にテレビで放送されたのは2004年。
福沢祐巳は「百面相をする」と言って「お姉さまたち」に面白がられる。
以下の絵を見てもらいたい。
これは第22話から取った篠原みほの画像。
以下は「マリア様がみてる」の4期の第1話から取ってきた画像。
小説「マリア様がみてる」からイラスト化された福沢祐巳の原型が、そこにあるじゃないか、とアナタは思わないだろうか。
もしアナタが「マリア様がみてる」のファンで、まだ「ファンシーララ」を見たことがないというのなら、ぜひ一度鑑賞してみることをお勧めする。これは「隠れた名作」ある。そして、オレにとってこの作品は「マリア様がみてる」同様、「また見たくなるアニメ」のひとつになったのだった。
p.s.1 「ファンシーララ」にはピグ(ボケ役)とモグ(突込み役)という妖精が出てくるが、ピグの声とセリフ回しが実に面白い。「あー叫びてー、アー」とか「寿司食いてー」とか、そういうなんということもないセリフを吐くだけなのに、実に愛嬌があってかつ笑える。ピグとモグってピグモンという怪獣の名前からヒントを得たのかな?
p.s.2 ヒロインの声は当時14歳くらいだった大森玲子。この人がOPテーマもEDテーマも歌ってる。監督が大森貴弘(最近だとデュラララ!!の監督だね)、で歌の歌詞の作者として大森祥子、この3人の大森って関係あるのかな? 大森玲子はあとで相原玲に改名してるね。
p.s.3 「マリア様がみてる」のOPとEDは4期になると、それまでのものとはまったく雰囲気が変わってしまうが、実はOPもEDも4期のものが一番好きだ。OPで好きなシーンが島津由乃が片腕を挙げてくるっと回転するシーンと、あと温室での福沢祐巳のひょうきんな振る舞い。歌もとてもいいよね。EDの歌もいいね。歌詞は原作者の今野緒雪が書いてるけど、まさに4期で演じられるドラマの核心部が歌われているね。4期全体を見終わったあとで、歌詞の内容を振り返ると、またしみじみとすると思うよ。
p.s.4 GYAOでやってた大森貴弘監督の「赤ちゃんと僕」も名作だよね。小学5年生の男の子の「子育て奮戦記」なんて、びっくりするテーマだ。しかもこのアニメ、見る者の涙腺をあったかく刺激する。弟の実(みのる)かわいい。EDテーマを熊谷幸子がやってたことも大発見。
p.s.5 ええっ、「マリア様がみてる」実写化だって・・・・(本日4/26初めて知った)。なんちゅうこと。でもまだまだこのシリーズは忘れられていないって証拠だな。映画化が宣伝になって、「アニメも見てみようか」って人が、新たなアニメ版のファンになってくれるとうれしいっすね。ってか、地元では、TSUTAYAにしろGEOにしろ、4期全部そろってるところ、なかったぞ。1期のみとか、1期と4期のみとか、変なそろえ方。たぶん全国的にそうだろ、この状況は。なんとかしてくださいよ、全国のレンタル店仕入れ担当者の方々。
p.s.6 アニメのEDに入る前にすでにテーマのイントロを前もって流し始める手法を始めて取り入れたのが、「シティーハンター」だそうだ。同じ手法が「ファンシーララ」「赤ちゃんと僕」でも使われているね。でもウィキペディアの「ファンシーララ」の該当箇所を読んで、まっさきに思い浮かんだアニメは「蒼穹のファフナー」の、あの印象的なEDだった。実は「シティーハンター」、以前GYAOでやってたけど、見てないのだった。PR -
アニメ版や実写版の時代劇(舞台が西洋であれ日本であれ、あるいは架空の世界であれ)をつらつら見てきて、どうにも気になるのが、「おっしゃる」と「申す」の使い方の「?(ハテナ)的展開」。特に身分制度が厳然としてあった時代劇物で頻繁に耳にするのが、身分の低い者(商人や家来など)が身分の高い者(武士や殿様など)に「と申されますと・・・・・」などと返答する箇所。
こういう「返答」をきくたんびに、「そこは『とおっしゃいますと・・・・・』じゃない?」とか突っ込みをいれたくなる。当ブログにこられる読者の中にも「同じ違和感体験」をした方はおられると思う。
殿様あるいは武士が、家来や町人百姓の発言に対して「と申すか・・・・」----でも「申されますか」になったらもはや変----というならかまわないが、シナリオライターの多くが、この敬語表現の機微をよくつかんでいないままシナリオを書き、そのシナリオを渡された誰もが----監督、役者、声優ほか、さまざまな制作関係者たちが----「この言い方って変じゃない?」ってチェックをいれないまま、シナリオを担当したライターの「言語感覚」、つまり「変な日本語」が通っちゃうって現状はよくない傾向だと思う。
みな高校の古典の授業で源氏物語などをテキストに敬語を学習したと思うが、あれはほんと複雑怪奇で大変だったよね。「と申される」という言い回し----「申す」のあとに「れる」という尊敬の助動詞が来てよい場合----が許されるのは、ある主君に使えている家来1のそのまた家来2が、手紙文とか文書のなかで自分の直接のあるじ(家来1)の主君に対する言動を他者に文書で伝えるような場合だ。
わがあるじ(家来1)が主君に対して何々と申されました。(家来2が第三者に送った手紙文)
この場合なら「申す」のあとに「れる」が続いてもまったく問題ない。そのときの「申す」は家来1が主君に対してへりくだる態度であって、そのあとに続く「れる」は文書を書いている家来2が自分のあるじ(家来1)に対してへりくだっているのだ。目の前の主君に対して「と申されますか」というような変な表現を「物事の分かっている家来2」は恐れ多くて言えるわけがない。こういうことを平気でやるのは「身分制度下の社会」で生きていない新しい日本人たちである。というか高校時代の古典の授業(源氏物語)をまじめにやらなかった現シナリオライターたちね。目の前にいるエライ人に対する 「と申されますと」という言い回しはあまりにもいろんな作品で「耳にする表現」なので、制作側にも「チェック能力を有している者」がいないのかな、とか思う。年配の俳優さん、声優さんとかも「そのまんまのシナリオ通りに読んでいる」ようなので、たとえ気づいていたとしても、「あえて黙っている」のだろーかと勘繰りたくなるほどの奇妙さだ。
そのあたりのこと、今まで考えずにアニメとか実写ドラマとか映画とか見てきた人は、今度気をつけてセリフを聞いてみるといい。「申す」の使い方が変なシナリオがたくさん存在していることに気がつくだろうから。
この辺のことは監督さんを含め、もう一度気をつけてシナリオを読み直してみるように、業界的に「注意報」を出しておいた方がいいと、オレは思うんだけどな・・・・・。
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capetaを見た。
GYAOで何度も配信されてきたが、見る余裕がなくて後回しにしてきた。だが、最近全エピソードを見終わった。
レースシーンの演出が出色で、ほんと気がつくと、映像を見ながら自分の体に力が入っている。でもそれは、オレだけじゃなく、誰が見ても、あの演出にはそんなふうな「無意識の身体反応」が起こっちゃうと思う。
小学生時代の声は「精霊の守り人」でチャグムをやった少年(安達直人)と同じなのを知って、これもうれしい発見だった。確かに子供時代の声を「本物の子供」にやらせるってのもありだ。
このアニメの2ND ED、鈴木茂波大フィーチャーの映像演出がオレはいたく気に入ってしまって、これはもうこれでひとつの作品だよなって思った。このEDの出だしは下の絵にあるような、何枚かの鈴木茂波のキメポーズを順番に並べたシーンから始まる(この流れもいい)、だが、このあと自宅の勉強部屋での様子がなんかすごくいいのだった。アニメワンでやってる「トライガン」(てかもうすぐ終わるけど)のOPでメリル・ストライフがタイプライターを打つシーンがあるけど(実はこのシーンが好きでね、手がひらひらと動く絵の動かし方が)、鈴木茂波の自室シーンを見て、オレはこのタイプライター・シーンを連想したのだった。なぜだろーか?
それにこのED「ナナナビゲーション」の抑揚をおさえた歌声は、どこかボーカロイドっぽい感じさえあって、この生声部分をメイコ・ボーカロイドに変えて歌ってもらったら、印象がどうかわるだろうかとかも思ったりした。
原作はまだ進行中のようだけど、アニメの続編ができたらうれしいよね。ぜひ作ってもらえないかなあ。
p.s.1 ペットの小猿のサルッキーってかわいいけど、なんか小さな小さな人間の男の子が気ぐるみ着てるような人間の子供くさい顔つきをしてるよな。 -
今回もまたまた引用元探しである。
11話でナゾを残したままテレビ版を終了させて、その後は映画へ誘導って、それはないよ。
監督は、テレビアニメ版の「攻殻機動隊」とか「精霊の守り人」を監督をした神山健治。筋立ての感じが、「今日の政治経済状況への連想を起こさせるような仕掛けを持ったシナリオ仕立て」と「事件のナゾを追う登場人物たちの描写」という点で、以前監督をしたテレビアニメ版の「攻殻機動隊」シリーズと似た構造をしていると感じた。「攻殻機動隊」でタチコマ役をした玉川砂記子がジュイス役として出てるしネ。
昔地元の延岡で竜巻が発生したことがあった。横転した電車の映像をもしかしたら覚えている人もいるかもしれない。突然ヒューヒューと風のうなる声が聞こえ始め、チリチリチリという細かい砂塵のようなものが家の外壁に当たっているような音を感じた。あと30mほど進路が平行に北へずれていたら、オレの家の天井がふっとんでいたくらい、すぐ近くを竜巻が通りすぎたのだった。
以下はネットから拾ってきた竜巻進路図。
オレは当時、竜巻発生地点に近い緑ヶ丘(地図では右下)に住んでいた。
「あのチリチリ音は竜巻の外縁部で、風が運んだ砂塵が鳴る音だったんだ」と気がついたのは、テレビニュースを見た後だった。当時地元の夕刊紙が竜巻の目撃者の話として「まるでたくさんの黒いカラスの群れが飛んでいくように見えた」という話を伝えている。
オレは旧BBS(廃止済み)で、その話をもとに、ちょうどその当時DVDで借りて見たロシア映画の「ナイトウォッチ」の画像の話をした。ビルの屋上から立ち上るカラスの群れのような竜巻の映像である。
オレが上記の画像に連想が飛んだのが、「東のエデン」第5話の以下の画像である。
カラスの規模としてはまことに微々たる数だが、この絵を見た瞬間なぜだかすぐに「ナイトウォッチ」のあの画像に意識が接続したのだった。もしかしたら、神山監督は「ナイトウォッチ」から引用したのではないのかもしれない。だからこれはオレの提示する参考意見程度のものとして受け取ってもらいたい。
だが第6話の「机のシャッターを上げてしゃべくる男」の登場の仕方は、あきらかに黒澤明監督の「椿三十郎」からの引用だろう。
このアニメ、11話という話数はまことに少ない。せめて26話ものとして作ってほしかったなあ、と、これはバウンドヘッドの願望である。
p.s.1 ちなみに「東のエデン」の上記画像は以下の韓国の化粧品CMが流れるサイトからとってきたものだ。
ETUDE HOUSEって韓国ではどういう位置にある化粧品会社なんだろうねえ。ちなみにバックで流れている曲は、カプセル系っていうか、中田ヤスタカ----Perfumeの楽曲提供者と言ったほうが分かるかな?----系の音楽だったな。
p.s.2 「菅野よう子×神山健治×渡辺信一郎『音楽がアニメーションをどう変えるか』 」と題する記事をたまたま見つけたのでこのページに付け加えておこう。 -
今日やっと「崖の上のポニョ」を見た。例によって一切の前知識なしで見た(オレが前もって知っていたのはテーマソングの最初の4小節と人魚姫に似た話だってくらいのもんだった)。
ポニョが女の子の姿で海上を駆けてくるシーンで使われた音楽が妙に心にひっかかった(それは違和感だったのかもしれない)。「なんか妙にワーグナーっぽい音楽使ってんな。でもなんでここでワーグナーなんだろう」と・・・・・。それにそのときのポニョの走り方が、あの『未来少年コナン』でコナンが巨大な飛行艇の翼の上を走っていた姿とだぶっても見えた。
で鑑賞終了後、詳細を確認しようと思い、ウィキペデアに行ったら、ちゃんとワーグナーの話が出ていた。
ああ、そうなんだ。でも奇妙なことだ。確か宮崎駿監督は『もののけ姫』の公開後のNHKのドキュメンタリーで北欧神話の話----「ヴァルハラでうんぬん」というような内容だった----をしていたよな。そのときもオレには「ヴァルハラの話」は「唐突な挿入」に聞こえたけど、その心理的関心を今日まで延々と持ち続け、なんとこの童話系アニメにまでワーグナーというワン・クッションを入れることで、その当時からずっと自分のこころに絡まり続けてきた神話的(あるいは秘儀的)関心を「唐突な挿入」として持ち込んじゃったんだ、と思った。
さらに驚いたのは、最近オレがこのブログで報告した「オフィーリア」の絵の話がウィキペデアの「崖の上のポニョ」の説明文のなかに出てきたことだった。彼はジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」に感銘を受けたと書いている。なんてこった。もっとはやく「崖の上のポニョ」を見ていたら、このアニメ関連からもっと簡単に「オフィーリア」にたどり着けたのに、と思った。それから押井守監督のコメントがネット上に上げられていたのをたまたま聴いた。宮崎駿監督と押井守監督はいつも互いの作品に対してけっこうキツいこと言いあってる気がするな。「デヴォン紀の海」だったけ? 水面下で古代魚が悠々と泳ぐシーン。でも押井守監督がその作品を作ったためにしばらく仕事をほされたという「天使のたまご」にも、古代魚が悠々と泳ぐシーンが出てくる。コメントにはなかったが、あのシーンを見た押井監督はひそかに自分の作品の古代魚シーンを連想したんじゃなかろうか。ちなみに「天使のたまご」の宮崎駿評は「努力は認めるが理解されない」だったっけ?。今回の宮崎作品に対する押井守評は「老人の妄想」だった。
だが「老人の妄想系童話」なら、「不思議の国のアリス」という話もある。
ウィキペディアによると、「崖の上のポニョ」ではエピソードを大胆にカットしたと宮崎監督は言っていたらしい。この作品を映画としてではなく、もっとじっくり腰をすえて、テレビアニメ様式でさまざまなエピソードに彩られた13話、あるいは26話、あるいは52話のアニメとして制作できたなら、つまりポニョの苦闘をポニョの心理を丹念に追っていけたら、最後のキスシーンは大感動シーンに姿を変えたんじゃないだろうか。ああハッピーエンドでよかったという思いだけではなく、「それに加えて」きっと人々はうれしい涙を流したに違いない。大人たちばかりではなく、もちろんポニョと同じくらいの年齢の子供たちが「ほんとうによかったね、ポニョ」と言いながら。
しかしこの短い尺のなかのわずかなエピソードの積み重ねの中からは、鑑賞者たちは、ポニョの情熱、ポニョの苦悩、ポニョの悲しみと喜びに共感することはまったくできなかったにちがいない。
この映画のポニョは「思いついたら」なんでもやすやすと突破してしまう。これでは5歳の幼児たちは「ああっ、危ない。ポニョがんばれ。ポニョ逃げろ。ポニョ、後ろー」とか言いながら、物語の中に入り込んで「ポニョとともに旅をする」ことはできなかったろう。
だから映画のラストシーンは人々に感動をもたらさないつけたしのようなもの----テレビアニメで言えば、原作が終了していないので、便宜的につけた足早に進むラスト・シークエンスのようなもの----になってしまったように思う。宮崎監督は「エピソードの積み重ねによる起伏を物語に持ち込むという定石を拒絶したかった」というような趣旨のことを言っているが、その試みは成功したとは、やはり言えないだろう。
「未来少年コナン」の話をさっきもしたが、あの話のエピソードのいくつかを大胆にカットして----話のつながりが追えないくらいに大胆なカットでつなぎ、「巨大飛行艇ギガントの翼の上を走るコナンの姿」や「あの有名な津波シーン」は必ずいれるというような編集をして----1時間40分ほどの映画にしたら、たぶん感動は半減する。あるいは「意味不明な映画」に変貌するだろう。オレには「崖の上のポニョ」はそういう構造をしたアニメだったように思う。「ほんとうの崖の上のポニョ」は全13話、あるいは26話あるいは52話で出来ていたのだ。それを宮崎監督はいきなり映画版に再編集したのだった。
オレにはそう思えてならない惜しい作品だった。
もしアナタが「この物語には納得できねー派」だったとしたら----というのはこの映画をとても満足して見終えた人々もたくさん存在するのもまた事実だろうから----地上界では宮崎駿によって大胆にカットされてしまった、ヴァルハラの神々と戦士たちにのみ読むことが許されている、霊界(理念界)にのみ存在している「崖の上のポニョ」というお話の真の全体像、その膨大なエピソードを自分なりに空想し、アナタも13話バージョンのポニョ、26話バージョンのポニョ、52話バージョンのポニョを、つまり自分の空想上の「崖の上のポニョ」を作ってみるといいと思う。もちろんこの映画では登場してこなかったたくさんのキャラクターも空想しつつ・・・・・。そうすれば「人間になることと引き換えにポニョが失わなければならなかった魔法の力」が、ふたたび「アナタの中で復活し」、この物語のラストを「本当のラストシーン」に変容させてくれるに違いない。
p.s.1 ところで押井監督の「スカイクロラ」まだ見てないのだった。ていうか最近「映画自体」を----っていってもオレの場合、レンタルDVDメインだけど----見てないっすよ。シリーズ物のアニメばっか見てるんで・・・・。押井監督もスターウォーズ・シリーズを全部見ていないってような話をしてましたね。
p.s.2 宮崎監督には「頑固じいさんモード」には入ってほしくないですよ。なんせ「ハイジ効果」という用語を思いつくきっかけをくれたのは宮崎監督が若いころ手がけたあの有名な「アルプスの少女ハイジ」なんですから。
p.s.3 でもジブリはあの絵柄から----ジブリは基本的に1類類の絵柄(定石)しか持っていない----自由になれないんだろうな、これからも。
p.s.4 昨夜また「風の谷のナウシカ」をやってたようだね。内容が映画版とは違う原作の宮崎駿自筆の漫画がいいよね。もちろん映画版も傑作だけど。でも、オレにとってあの漫画の魅力は、ナウシカと巨神兵との交流、もうその一事に尽きる。オレは巨神兵ファンなので。
p.s. 5 実を言うと「秘儀の歴史」から言えば、遥か以前「(現在のような状態の)人間になるために魔術的な能力を失った」のは「人間」そのものなのだった・・・・・と、これはシュタイナーファンなら、了解済みの人間秘史だったね。