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秘儀参入者は角を持つ
前回の記事では、「エルフェンリートと百合の花」を扱ったが、今回はエルフェンリートと角について、さらに「連想」したことを書くことにする。

エルフェンリートに登場してくる少女たちの頭には、一見すると猫耳と誤認しそうな形姿の「角」が描かれている。岡本倫先生は、なぜあのような読者が簡単に誤解してしまいそうな形姿で(猫耳っぽく見える)角を描いたのだろうかと思う。

それは単にデザイン上のつまりルック上の審美的判断によって、日本における鬼のイメージのような「伝統的な角の描き方」を避けたからということなのかもしれない。作品中では、角と松果体との関連にも言及していたので、秘儀参入関連の話として登場してくる7つのチャクラ、特に眉間(アジナ)のチャクラの話とまったく無関連だとも思えない。きっと文献的な参照はされているのだろうと思う。

近年日本の漫画家やアニメーター、あるいはラノベ作家たちは、神話や魔術や神智学や人智学文献に詳しい人が増えていると思われる。ネタの宝庫だからだ。ところで一方で、飯のタネになるからとそれらの書物群を読み、その体験をもとに物語作りに没頭している彼らクリエイターたちは、自覚はなくとも「天啓」を地上で具象化しているのであって、中世的な布教システムのなかで、古びた説教を、教えられた通りにオウム返しているわけではない。組織安堵が目的の古い西洋由来、東洋由来の教会思想の頒布者たちは、今日もはや力を失っている。「彼らの言葉」はもはや民衆を感激させる力を失っている。


西洋においては、悪魔は角を生やして描かれているし、日本においては、鬼と呼ばれる存在は、童話の挿絵などで図像化されているように、やはり頭に角を生やしている。

古代日本人は「鬼」という漢字が日本に入ってきたとき、なぜか中国原義の「死霊」の意味を、「鬼」と書いて「おに」と読ませる漢字に含意させなかった。今日においても日本人にとって鬼(おに)は中国人が思うような「死んだ人間の霊」ではない。
一方、ルドルフ・シュタイナーは、『神智学の門前にて』で、ミケランジェロは、モーセが秘儀参入者であることを象徴的に示すために二本の角を頭の上に加えたと語っている。




シュタイナーによると、額のチャクラは二枚の花弁を持っており、モーセの頭部に付け加えられた二本の角は、その二枚のチャクラの花弁の隠喩なのだ。つまり「角を持つ者」とは「秘儀参入者」の隠語でもあったということだ。

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アストラル体に、ある器官が発生する。その器官というのは、七つのチャクラである。鼻根のあたり、眉のあいだのところに、二弁の蓮華のチャクラができる。霊視的な芸術家は、このことを知っており、作品のなかにそのチャクラを象徴的に描いた。ミケランジェロはモーセ像に、二本の角を刻み込んでいる。(P55-P56)

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神智学者のリード・ビーターは「これがチャクラのイメージ図だ」と、彩色された七つのチャクラの姿を『チャクラ』という本の中で紹介している。以下は眉間のチャクラの図像である。



『チャクラ』によると「眉間のチャクラの花弁は2枚または96枚」と書かれている。真ん中で半分に割って左右微妙に色合いが異なっていることは確認できると思う。大まかな色としては2色に分割できるが、さらに発展すると96枚に分節していくということなのだろう。

ちなみに、シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』においては、眉間のチャクラは2弁でできていると述べている。

以下は『チャクラ』掲載の図像に手を加えたものだ(画像をクリック)。



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そして今はじめて、両目の付近にある二弁の蓮華を用いる時がきたのである。この蓮華が回転し始めると、自分の高い自我をそれより一層高次の精霊達と結びつけることが可能になる。この蓮華から生じる流れは高い位階にまで広がっていくので、その精霊たちの活動が完全に意識化できるようになる。光が物体を見えるようにしてくれるように、この流れが高次の世界の精霊たちを霊視させてくれるのである。(文庫版P183)

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このように、ルドルフ・シュタイナーは、「額の二弁のチャクラを発達させた者は、高次の精霊(神霊)たちと交流を持つことができるようになる」と『いかにして超感覚的世界の認識を獲得できるか』のなかで述べている。

そういうわけで、古代の日本においても、二弁の額の蓮華(チャクラ)を開華させえた者(秘儀参入者)は、「額に二本の角を生やした者」あるいは「おに」と形容されていた時期があったのではないかと考えたのだった。



飛鳥・奈良時代は「日本精神の中国化」が進められた時代だった。特に大化の改新の均田制の導入は司馬遼太郎によれば「古代の社会主義革命」だった。また彼によれば、その時代は一方では、国家によって民衆が黙らされた時代だった。(参考『この国のかたち』)

高松塚古墳には人物像が描かれているが、それは、あきらかに当時の中国人の風俗図であった。




以下の正倉院の鳥毛立女屏風には眉間に文様を描き込んだ女性が描かれているが、しっかりと眉が描かれている。そして眉間に文様を描き込む化粧法は当時の中国風俗で、それ以前の日本の化粧文化にはなかったものだ。

では、日本の選良たちが「中国文化にかぶれ」る以前の日本人は、顔をどのように描いていたのだろうか、というのが新たに芽生えた私の関心だった。

そう思ったとき、隔世遺伝のごとき復古趣味、つまり両親(飛鳥・奈良時代)からではなく、その前の世代(おおきみの時代)の祖父母の因子が遺伝されるように、平安時代の化粧法の中にその「日本本来の化粧思想」が隠れているのではないかと、ふと思いついた。

そして同時に30年ほど前、ニフティーサーブでパソコン通信をしていた時代に出会った「ある議論」を思い出した。

それはスサノオノミコトの図像には眉の下に角が描かれている、というものだった。それが以下に掲げた、島根県松江市の八重垣神社に伝わる絵画である。




左がスサノオノミコト、右がイナダヒメの図像と伝わっている。両人ともに本来の眉を消し、額の左右にべったりと墨を塗ったような大きな眉が描きこまれている。「スサノオノミコトの左側の眉はなぜ盛り上がっているのか、これは角ではないのか、角の上から眉墨を大きく塗りこんだ姿ではないのか」という問題提示だった。

今日、考古学的遺産として残されているのは、当時の日本の指導層がどのように隋・唐の政治・文化風俗に感染させられたか(かぶれたか)を示す証拠である。

高松塚古墳の壁画に出てくる人物画は、眉間に文様はないが、眉は「正しい位置」にしっかりと描きこまれており、これらはそのまま当時の中国人の風俗そのものだと言える。また正倉院にある「鳥毛立女屏風」からは、眉をしっかりと描き、眉間の間に文様を描き込むという、当時の中国婦人たちの化粧風俗を読み取ることができる。

今日の日本の女性の眉は時代によって濃くなったり、薄くなったりしても、本来眉のあるべき「ただしい位置」に描いている。だが、そもそも平安時代の貴族たちは、男も女も「本来の眉のある位置」に眉を描かなかった。

当時の中国人たちが「眉のある場所に眉を描いていた」のに対して、日本の貴人たちは本来の眉を消して、額の位置に新たに眉を描き込んでいる。

わざわざそんなことをする理由が「何に由来しているか」、実ははっきりしたことは一般には知られていない。ただ「確かにこの化粧習慣は中国産ではない」と思われる。とすれば、その淵源は飛鳥時代以前の「秘儀の文化」からもたらされたものではないかというのが私の見立てだ。

2.3世紀ころまでの日本人は、まだ肉の体にありながら霊界を垣間見る能力を残していたらしいことは、以前にも書いた。

そのような人々の中に、高次の神霊たちと交流する感覚を持っていることを示す「眉間のチャクラ(蓮華)」の開華者たち、すなわち秘儀参入者たちが存在した。彼ら彼女らは「光り輝く眉間のチャクラ」を有していた。

6・7世紀には、本来の秘儀参入者は日本の朝廷周辺からも消えてしまっていたが、「古代の思い出」はなお残っていた。

古い時代、魏志倭人伝に書かれているように、貴人とは秘儀参入者であるがゆえに拍手を受けて敬われる存在のことだったことも前回書いた。

平安時代に「シナ革命以前の日本の古代への復古(国風文化)」として、当時の貴人たち(貴族たち)が、自分たちの化粧として施した「不思議な眉の描き方」は、「強い霊力の持ち主の象徴として二本の角(二弁のチャクラ)を額に持っていた先祖たちの子孫」であることを表示する、いわば記号だったというのが私の見立てである。

平安時代の日本の貴族たちは<男女ともに>同じような眉の描き方をするようになった。あるいはすでに以前から「日本人の伝統」として、飛鳥・奈良時代には、そのような化粧法(秘儀参入者であった先祖の思い出として、その血を受け継ぐ子孫のあかしとして、「角持ち」の象徴として額の高い位置に眉を描くこと)はあったのかもしれないが、考古学的遺物として発見された中国式肖像画の存在が、そのような「伝統の先在」の事実を覆い隠していたのかもしれない。

飛鳥・奈良時代の人物画として日本に残っているものは、「当時の日本人」を描いたものだったのかさえ、あやしいからだ。それは単に当時の中国人の姿だったのかもしれない。

古代中国文化が流入する以前の古代日本には「神あるいは貴人の肖像を描く」というような文化はなかったのだから。

「古代へ帰れ」あるいは、新しい攘夷、あるいは王権継承というのなら、飛鳥以前の大王(おおきみ)の時代までの文化、「秘儀参入者たちが統治した時代の文化」へのまなざしが復古する必要がある。これは今日の日本人にはまったく知られていないものである。

見たり聞いたり触れたりする行為は「直観」的(直接的)認識である。先祖たちが、近代日本人が失って久しい「ある直観能力」を持って霊界と物質界を「それぞれの感覚器官(直観器官)」を用いて「認知」していた時代があったということを認めることから始めなければならない。しかしそれは唯物論者であることをやめた者にしか始められない。「それぞれの感覚器官」と書いたが、今日、その片方はずっと失われたまま「復活する」のを待っている状態なのだ。

実際には目には見えないが、「すべての自然物に神霊が宿っている」と空想することをアニムズムという、と近代西洋の唯物論の土台の上で思考作業を重ねている人文科学者たちが語ると、「その意味が担っている土台(実際には自然の中に神などいないのだが、という唯物論者の隠れた悪意」を観取できずに、「これは古い日本文化賞賛のための補強理論になる」と思い込んで「日本人は古来アニミズム思想で生きてきた。すばらしい、日本の古代人は最高のエコロジストだった。自然にはどれもこれも神々が宿っているから大切にすべきだ。実際には古代人にも神々なんて見えなかったのだろうが、考え方自体はすばらしい。だから近代日本人はそのような古代人的思考態度を持つべきだ」などという宣教にしきりに感心して、このトピックは近代日本人への「政治上の説教話」に使えると思いなして、実際にそれを言う輩がとても多いことが問題なのだと気が付かない。

YouTubeなどで「日本最高教」を布教する彼ら自身は、まさに「近代の子」であり、日本の遠い先祖たちは「自然界についてこうあれかしと空想」していたのではなく、「実際に神霊を見、交流していた」ということについては夢にも思っていないのだ。

人間が「実際に神霊を見、交流すること」はアニミズムではない。それは「近代の学者が論文用に空想してこさえ上げた架空の思想」ではなく「実体験」なのだから。日本において左翼的エコロジストにしろ、王党派的な政治的に右側を自任している人々も、実際には「近代人特有の感受性と近代に書かれた歴史解釈本で学習した連想感覚」で古代人を眺めているにすぎない。

皆「どのように思考するか」については「唯物論的近代教育の犠牲者」なのだ。近代人的な連想感覚を土台に作成された教科書の内容でテストされ、高得点をとって、権威筋から褒められ続けると「その言語ルール」のなかで他者とのペーパー競争に勝利し続けてきた自分に酔ってしまい、そこから冷めることのできない悟性魂(硬直脳)のままの利口者もいる。

だから「古代の神話を読んでみよう。万葉集を見てみよう。人の心は昔も今も変わらない」などという「近代人特有の言い回し(偏見)」から抜け出せない人々の「解説」など、本来聞くべき真実な内容を持っているはずがないのだ。遠い古代以来、人間は変容し続けてきたし、これからも変容を続けるのだから。人の心(認識力)は昔と今では変わってしまったのだ。


今後人類が「どのように変化」していくのかについての見取り図については、かつて当ブログでも書いた。


シュタイナーの語る「7の5乗の世界」


今後、一人でも多くの人に「この観点」が共有されるようになっていくことが新しい時代感覚の進展の到来時期の早さ、遅さを決めていくことになるという話だ。
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