現在、人類はすでに21世紀に入って、その五分の一を通り過ぎたところだが、ルドルフ・シュタイナーが100年前に語っていた「人類の意識の変化」に関して「どのあたりに立っている」のだろうと、つい思ってしまう。
彼は『天使と人間』において「21世紀に入るまでに、人類が霊化の道をたどらないのなら、天使たちは、人間が、睡眠という形で定期的に身体から離れて回帰している霊界において(今日の時点においては大部分の人間が明確に思い出すことができないでいるが)、人類が実現すべき未来のヴィジョンを提示するという仕事をやめてしまう」という趣旨の発言をしている。
地上の状況によっては、人類の精神的発展の始まりは100年遅れてしまう場合もありうるし、最悪の場合は、天使の意図は実現されずに終わる場合もありうる、とも言っている(とはいえ、シュタイナーは別の個所で「天使の仕事が無駄に終わることはない。人類は最終的には道を見つける」というような趣旨の発言もしている)。
霊界において天使が人類に示す理想像は三つある。
天使のヴィジョンは人間の構成要素である、霊・魂・体の領域そのひとつひとつに対応している。
一つ目は体の世界、すなわち物質界に関係する。天使は人類は物質生活における友愛を目指すように諭している。平等ではなく友愛である。
二つ目は魂の世界、すなわち宗教感覚に関する提案である。人類個々人が宗教の自由を得ること。最終的にはキリスト教の教会さえ不要のものとすること。シュタイナーはキリスト教教会の消滅を例に挙げているが、もちろん仏教にしろイスラム教にしろ、何であれ宗教団体の組織安堵を目的としたような活動への情熱は、将来人類一般から消えていくという未来だ。
三つ目は霊の世界、すなわち精神の探求願望、個々人による霊学への接近である。アイ・ビリーヴ(信じたい)衝動ではなくアイ・ノウ(知りたい)衝動への接近である。
将来、このまま同じ作業を続けても、霊界で天使から教わったことを「人類は現実化できる可能性がない」と天使たちが判断してしまったら、天使たちは、これまでの仕事を中止して、人間が眠って霊界に滞在している間に、地上に残されたエーテル体に対して働きかけるようになり、そのことによって地上で生きる人類たちに有害な事態が出来するようになる、と語っている。
これまで天使たちは人類の意識魂、つまり「自己を観察・意識する魂」とともにある自我に働きかけてきたのだが、人類個々人の固有の霊に働きかけるのをやめ、人間の地上生活における外皮たる肉体を賦活しているエーテル体に、つまり本能的活動を担う部分に働きかけを開始するようになると語っている。
そうなると人類は、朝になるたんびに、「昨日までは知らなかったはずの知識」を携えて目を覚まし、そして、その「どこからやってきたのか由来の分からない知識」を「インスピレーションが来た!」と言って地上で使って応用し、結局、そのチート能力を駆使して人類の地上生活をまますます荒廃させるようになる、と語っている。
今回のような、「もし天使たちが本来の仕事を完遂できなかったら事案」としてではなかったが、かつて666年に、西アジアでアーリマンの弟子たるゴンディシャプールの学院の学者たちによって、「同じような事態」が地上に起ころうとしていた。しかしその時は、マホメットが地上に出現することによってイスラム教徒たちが、ゴンディシャプールの学者たちを追放し、「自動的に本能的な知識を得ることによって心理的精神的努力なしに生きる唯物論者としての人類」の出現を阻んだのだった。
もし天使が所期の計画をあきらめ、人間の魂ではなく、身体を支えているエーテル体に介入し始めたら、その時は三つのことが起こる、とシュタイナーは言う。
一つ目は「有害な医学知識」の獲得。天使がエーテル体に埋め込んだヴィジョンによって、人類は、薬に精通するようになり、医者たちはそれでもって意図的に病気を引き起こしたり、それを治したりするようになる。
二つ目は「優生学」である。人類は遺伝的な優位性の獲得を目指すようになり、「本能的に得た生殖の知識」を用いて、友愛の精神ではなく、「いかに優秀な子供を得るか」を追求する血統主義に傾く。また「道を踏み外した性行為」に熱中するようになる。そのような振る舞いをする人物は、最高に開明的で、かつ尊敬されるべき人物と見なされるようになる。これまで美しいとされていたことが醜いとされ、醜いとされていたことが美しいと言われるようになり、人類の半分が悪魔のような存在になる。
三つめは「律動学」。新しい動力源の発見と応用である。これまで人類は、車輪を回転させて乗り物を動かしたり、電力を得たりするのに化石燃料を燃やす必要があったが、火を使わないで、ただ振動の合成のみによって、巨大な動力を得て、機械を動かすようになる。つまり石炭、石油、ウラン、プルトニウム等の「地下資源」に頼る必要がなくなるが、人類はそれを利己的な目的に使用する。
人類が近代に失ってしまった願望、すなわち霊界回帰願望を思い出せないまま、物質界の霊化ではなく、「現在の唯物論的な思考態度」をさらに洗練させていくことに邁進するならば、意識魂が発展する機会は失われ、地上世界は荒廃する。
というような話が、『天使と人間』で語られていた。
有無を言わせぬ世界規模のワクチン接種強要問題やLGBT問題など、「フォースの暗黒面の帰依者たち」は、すでに個々の主権国家の自律的な決断を許さないような「政策」を、個々の政府が断行するように「超法規的な圧力」をかけてくる。1920年の国際連盟から始まり、戦後の国連による「国家の多数決主義」(賛同国家の多数派が正義であり、ターゲットにされた反対側は犯罪を犯した国家として、〈みんな〉で鉄槌を下してよいという見方)を世界の諸国民の「新しい常識」にしてしまうという入念な下準備の後、21世紀のこの4年間「恐怖街宣による諸国家のコントロール実験」が行われてしまったことを、我々はありありと見た。
明治維新時、つまり国連主義が地上世界に出現する以前の近代西洋の軍事常識は、「戦争は当事国同士が国際法にのっとって解決すべき事案であり、戦争当事国でない諸国家は調停等の提案が当事国からなされたときに介入する。また国家の戦争行為の是非は問わず、戦争は条約をもって終了とする。」
であった。だが国連主義(その実態は根回しによる同盟行為の簡略化であった)の登場によって、必ずしも軍事力を持たない勢力でも、さまざまな方法で(たとえば莫大な資金の提供などで)、自陣が有利になれるような方策を「国家間の多数決」という方法を駆使することで、以前の西洋世界の儀式的な軍事慣習にのっとるよりも簡単に行使できるようになった。20世紀以後の近代戦争においては、戦闘の前に、すでにリバーシゲームが終了していたのだ。
すでに日本は先の世界大戦で、1920年にウィルソンによって地上に出現させられた「その考え方」によって、世界の舞台で悪役として、首を締めあげられた経験を持つ。
これらのことは、天使に見放された人類にやってくる荒廃世界の、その前触れかと思ってしまいたくもなるが、本当のところはどうだろう。とはいえ、三つ目の「火を使わない動力」の問題は、いまだその兆しさえもネットニュース上の話題には上ってこない。
フリーメーソンがフランス革命を裏から操ったという話は、その界隈ではよく聞かれる話だが、自由、平等、友愛という理念は、もともと秘教由来の言葉で、「彼ら」はそれらを剽窃して、「わざと論争が紛糾するような曖昧な定義立ての概念として普及させた」という趣旨の話をシュタイナーはしていた。
シュタイナー自身は『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』において、「精神の自由」「法の下での平等」「経済における友愛」という表現で「彼ら」が「秘教由来の概念から意図的に脱落させた文言」を補っている。医学や性意識の領域において、「概念普及過程における意図的な混乱の醸成」は今日においても「彼らの戦術」であり続けているのだろう。
よき理念と抱き合わせに闇(不純物)を混ぜて広宣普及活動にいそしんできたのが、「彼ら」だった。
問題は、今日の地球全体を巻き込んだ広報技術とその管理体制によって「個人が真偽・善悪の判断をする力」を奪われて翻弄され続けている状況から、人類はいかに脱出するかということである。
『社会の未来』『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』は必読の書だが、残念なことにまだ文庫化されていない。是非文庫化(ちくま学芸文庫化)していただけないだろうか。
ふさわしい時期ではないときに出現する律動学の警告ではなく、一方で、シュタイナーは人類が正しい発展を遂げたときに地上世界に出現する「振動力の応用」について「この力は善人にしか扱えない。同じ機械を前にして、ある人(善人)の前では動き、別の人(悪人)の前では反応しない」とも語っている。特定の人物たちにしか扱えない機械とは奇妙な存在だ。現代では、属人的という言葉が否定的に使われるようになり、生産現場における「職人的技量」への依存を排除し、「人の経験に頼らない一般的生産システム」の構築こそ安定的で効率的な生産維持に求められている、などと語られる。
今日では電気現象の領域でテスラの名前が頻繁に取りざたされているが、シュタイナーは、未来の振動力学の先駆者として、ジョン・キリーの名前を挙げている。キリーは永久機関の探求者たちの話題で登場してくる人物で、今日的な評価では「ただの詐欺師だった」というレッテルが定着している。しかしシュタイナーは「そうではない。キリーは実際に機械を動かすことができたのだ。彼は人類一般に先んじて、すでに振動力を行使する能力を持っていたが、周囲の者は持っていなかったのだ、誰かがキリーの代わりに機械の前に立って、同じ動作をしても、機械は反応しなかったのだ」というような趣旨の話をしている(『神殿伝説と黄金伝説』『職業のカルマと未来』)
そのような世の中が出現するのは「正規のルート」をたどっても、まだずっと先の話、場合によっては、我々が地上に再来してくる1000年後の世界なのかもしれない。
とはいえ、「今の自分のペルソナ」、あるいは仏教的には「縁の構成体」「ルシファーの作品としての人格」(当ブログ「輪るピングドラムと神様」参照のこと)に個々人が自我の力によって影響力を行使して、細胞膜が細胞壁から剝がれるように、頑強な細胞壁を自分と見なし、一体化して生きてきた感情体験のプリセットモードからより自由で俯瞰的になり、ペルソナの隣に「新しい人間」(ルシファーによって堕天しなければ、そうなれたはずの天使候補生、再興された天界の第四ヒエラルキアに属する人間天使)を生もうと試みる行為(これを修行とも呼ぶ)は、今世の寿命が尽きるまで続けていくしかないのだよ。
地上の状況によっては、人類の精神的発展の始まりは100年遅れてしまう場合もありうるし、最悪の場合は、天使の意図は実現されずに終わる場合もありうる、とも言っている(とはいえ、シュタイナーは別の個所で「天使の仕事が無駄に終わることはない。人類は最終的には道を見つける」というような趣旨の発言もしている)。
霊界において天使が人類に示す理想像は三つある。
天使のヴィジョンは人間の構成要素である、霊・魂・体の領域そのひとつひとつに対応している。
一つ目は体の世界、すなわち物質界に関係する。天使は人類は物質生活における友愛を目指すように諭している。平等ではなく友愛である。
二つ目は魂の世界、すなわち宗教感覚に関する提案である。人類個々人が宗教の自由を得ること。最終的にはキリスト教の教会さえ不要のものとすること。シュタイナーはキリスト教教会の消滅を例に挙げているが、もちろん仏教にしろイスラム教にしろ、何であれ宗教団体の組織安堵を目的としたような活動への情熱は、将来人類一般から消えていくという未来だ。
三つ目は霊の世界、すなわち精神の探求願望、個々人による霊学への接近である。アイ・ビリーヴ(信じたい)衝動ではなくアイ・ノウ(知りたい)衝動への接近である。
将来、このまま同じ作業を続けても、霊界で天使から教わったことを「人類は現実化できる可能性がない」と天使たちが判断してしまったら、天使たちは、これまでの仕事を中止して、人間が眠って霊界に滞在している間に、地上に残されたエーテル体に対して働きかけるようになり、そのことによって地上で生きる人類たちに有害な事態が出来するようになる、と語っている。
これまで天使たちは人類の意識魂、つまり「自己を観察・意識する魂」とともにある自我に働きかけてきたのだが、人類個々人の固有の霊に働きかけるのをやめ、人間の地上生活における外皮たる肉体を賦活しているエーテル体に、つまり本能的活動を担う部分に働きかけを開始するようになると語っている。
そうなると人類は、朝になるたんびに、「昨日までは知らなかったはずの知識」を携えて目を覚まし、そして、その「どこからやってきたのか由来の分からない知識」を「インスピレーションが来た!」と言って地上で使って応用し、結局、そのチート能力を駆使して人類の地上生活をまますます荒廃させるようになる、と語っている。
今回のような、「もし天使たちが本来の仕事を完遂できなかったら事案」としてではなかったが、かつて666年に、西アジアでアーリマンの弟子たるゴンディシャプールの学院の学者たちによって、「同じような事態」が地上に起ころうとしていた。しかしその時は、マホメットが地上に出現することによってイスラム教徒たちが、ゴンディシャプールの学者たちを追放し、「自動的に本能的な知識を得ることによって心理的精神的努力なしに生きる唯物論者としての人類」の出現を阻んだのだった。
もし天使が所期の計画をあきらめ、人間の魂ではなく、身体を支えているエーテル体に介入し始めたら、その時は三つのことが起こる、とシュタイナーは言う。
一つ目は「有害な医学知識」の獲得。天使がエーテル体に埋め込んだヴィジョンによって、人類は、薬に精通するようになり、医者たちはそれでもって意図的に病気を引き起こしたり、それを治したりするようになる。
二つ目は「優生学」である。人類は遺伝的な優位性の獲得を目指すようになり、「本能的に得た生殖の知識」を用いて、友愛の精神ではなく、「いかに優秀な子供を得るか」を追求する血統主義に傾く。また「道を踏み外した性行為」に熱中するようになる。そのような振る舞いをする人物は、最高に開明的で、かつ尊敬されるべき人物と見なされるようになる。これまで美しいとされていたことが醜いとされ、醜いとされていたことが美しいと言われるようになり、人類の半分が悪魔のような存在になる。
三つめは「律動学」。新しい動力源の発見と応用である。これまで人類は、車輪を回転させて乗り物を動かしたり、電力を得たりするのに化石燃料を燃やす必要があったが、火を使わないで、ただ振動の合成のみによって、巨大な動力を得て、機械を動かすようになる。つまり石炭、石油、ウラン、プルトニウム等の「地下資源」に頼る必要がなくなるが、人類はそれを利己的な目的に使用する。
人類が近代に失ってしまった願望、すなわち霊界回帰願望を思い出せないまま、物質界の霊化ではなく、「現在の唯物論的な思考態度」をさらに洗練させていくことに邁進するならば、意識魂が発展する機会は失われ、地上世界は荒廃する。
というような話が、『天使と人間』で語られていた。
有無を言わせぬ世界規模のワクチン接種強要問題やLGBT問題など、「フォースの暗黒面の帰依者たち」は、すでに個々の主権国家の自律的な決断を許さないような「政策」を、個々の政府が断行するように「超法規的な圧力」をかけてくる。1920年の国際連盟から始まり、戦後の国連による「国家の多数決主義」(賛同国家の多数派が正義であり、ターゲットにされた反対側は犯罪を犯した国家として、〈みんな〉で鉄槌を下してよいという見方)を世界の諸国民の「新しい常識」にしてしまうという入念な下準備の後、21世紀のこの4年間「恐怖街宣による諸国家のコントロール実験」が行われてしまったことを、我々はありありと見た。
明治維新時、つまり国連主義が地上世界に出現する以前の近代西洋の軍事常識は、「戦争は当事国同士が国際法にのっとって解決すべき事案であり、戦争当事国でない諸国家は調停等の提案が当事国からなされたときに介入する。また国家の戦争行為の是非は問わず、戦争は条約をもって終了とする。」
であった。だが国連主義(その実態は根回しによる同盟行為の簡略化であった)の登場によって、必ずしも軍事力を持たない勢力でも、さまざまな方法で(たとえば莫大な資金の提供などで)、自陣が有利になれるような方策を「国家間の多数決」という方法を駆使することで、以前の西洋世界の儀式的な軍事慣習にのっとるよりも簡単に行使できるようになった。20世紀以後の近代戦争においては、戦闘の前に、すでにリバーシゲームが終了していたのだ。
すでに日本は先の世界大戦で、1920年にウィルソンによって地上に出現させられた「その考え方」によって、世界の舞台で悪役として、首を締めあげられた経験を持つ。
これらのことは、天使に見放された人類にやってくる荒廃世界の、その前触れかと思ってしまいたくもなるが、本当のところはどうだろう。とはいえ、三つ目の「火を使わない動力」の問題は、いまだその兆しさえもネットニュース上の話題には上ってこない。
フリーメーソンがフランス革命を裏から操ったという話は、その界隈ではよく聞かれる話だが、自由、平等、友愛という理念は、もともと秘教由来の言葉で、「彼ら」はそれらを剽窃して、「わざと論争が紛糾するような曖昧な定義立ての概念として普及させた」という趣旨の話をシュタイナーはしていた。
シュタイナー自身は『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』において、「精神の自由」「法の下での平等」「経済における友愛」という表現で「彼ら」が「秘教由来の概念から意図的に脱落させた文言」を補っている。医学や性意識の領域において、「概念普及過程における意図的な混乱の醸成」は今日においても「彼らの戦術」であり続けているのだろう。
よき理念と抱き合わせに闇(不純物)を混ぜて広宣普及活動にいそしんできたのが、「彼ら」だった。
問題は、今日の地球全体を巻き込んだ広報技術とその管理体制によって「個人が真偽・善悪の判断をする力」を奪われて翻弄され続けている状況から、人類はいかに脱出するかということである。
『社会の未来』『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』は必読の書だが、残念なことにまだ文庫化されていない。是非文庫化(ちくま学芸文庫化)していただけないだろうか。
ふさわしい時期ではないときに出現する律動学の警告ではなく、一方で、シュタイナーは人類が正しい発展を遂げたときに地上世界に出現する「振動力の応用」について「この力は善人にしか扱えない。同じ機械を前にして、ある人(善人)の前では動き、別の人(悪人)の前では反応しない」とも語っている。特定の人物たちにしか扱えない機械とは奇妙な存在だ。現代では、属人的という言葉が否定的に使われるようになり、生産現場における「職人的技量」への依存を排除し、「人の経験に頼らない一般的生産システム」の構築こそ安定的で効率的な生産維持に求められている、などと語られる。
今日では電気現象の領域でテスラの名前が頻繁に取りざたされているが、シュタイナーは、未来の振動力学の先駆者として、ジョン・キリーの名前を挙げている。キリーは永久機関の探求者たちの話題で登場してくる人物で、今日的な評価では「ただの詐欺師だった」というレッテルが定着している。しかしシュタイナーは「そうではない。キリーは実際に機械を動かすことができたのだ。彼は人類一般に先んじて、すでに振動力を行使する能力を持っていたが、周囲の者は持っていなかったのだ、誰かがキリーの代わりに機械の前に立って、同じ動作をしても、機械は反応しなかったのだ」というような趣旨の話をしている(『神殿伝説と黄金伝説』『職業のカルマと未来』)
そのような世の中が出現するのは「正規のルート」をたどっても、まだずっと先の話、場合によっては、我々が地上に再来してくる1000年後の世界なのかもしれない。
とはいえ、「今の自分のペルソナ」、あるいは仏教的には「縁の構成体」「ルシファーの作品としての人格」(当ブログ「輪るピングドラムと神様」参照のこと)に個々人が自我の力によって影響力を行使して、細胞膜が細胞壁から剝がれるように、頑強な細胞壁を自分と見なし、一体化して生きてきた感情体験のプリセットモードからより自由で俯瞰的になり、ペルソナの隣に「新しい人間」(ルシファーによって堕天しなければ、そうなれたはずの天使候補生、再興された天界の第四ヒエラルキアに属する人間天使)を生もうと試みる行為(これを修行とも呼ぶ)は、今世の寿命が尽きるまで続けていくしかないのだよ。
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