最近、アマゾンプライムで『輪るピングドラム』というアニメを見たんですが(ペンギンで笑いを取ってくるところ好きですよ)、その一話目の冒頭の主人公の独白を聴いて、ふと沸き上がった反応をもとに以下、長文を連ねてみます。
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「神様は不公平だと訴えるとき、人は自分の由来を意識していない。」
近代人は、たとえ「死んだら終わりじゃない」と漠然と考えるタイプの人間であっても、幼いころからすでに、「自分たちの日常生活の中に忍び込んでいる様々な通路」を通して、繰り返し繰り返し唯物論的な世界観に従うようにと強いられている。
近代において、そのようにして国民の精神生活の自由に介入してきた一番大きな力が、国家が法を盾に国民に「それに従うように」と強いてきた教育制度であった。そのような制度を通じて、いわば「精神に色づけを施された国民」が、今日のような社会体系を構築してきた。それが成り立ってきたのは、最終的には国民の側が「国家によって自分の精神が色付けされることはよきことだ」と思い、「その強制を受け入れた」からだった。「国家がタダで学をさずけてくださるんだ、いいことじゃねえか」という国民の合意が大規模に形成された結果だった。
そのような「体制」のもとで、国民の一部は、そのシステム維持のためのメンテナス要員、つまり官僚になったり、大学、マスコミ、広告会社に到るまで、言葉や映像イメージを操る産業に従事して「選別された特定の言葉遣いや、それに基づいた編集されたイメージの群れ」を再生産し続けている。
現在も続いている、国家が国民に「何をどのように考えるべきなのか」を強制するシステムは、もともと西洋において国民の人選システムとして設計されたものだった。近代以前の古い身分制社会を打破し、「支配層は何を尺度にして形成されるべきか」という近代的実験の結果が、今、われわれが眼の前で見せられているものである。
これまで何度も「私」が地上世界に伸ばしてきた肉体への絆は、この地球の歴史の時間軸の中でたった一本しかないと思うような感受性を、意識的にせよ、無意識的にせよ、長い時間をかけて醸成されてきたならば、人類は「今の私」への関心だけで、歓喜したり悲嘆にくれたり、死にたくなったりするしかないだろう。
特に戦後から今日まで、物質界とはまったく様相が異なった霊界から、まったく勝手の違う競争社会へ降りてきて、強力な模倣衝動、あるいは適応衝動によってペルソナを形成する時期の子供たちにとって世界は、〈愛しくて仕方がない自分のペルソナ〉を傷つけようとしてくる魔物のようなものとしてますます受け止められるようになってしまった。そして現代に至って、自分の運命は福引の回転するガラガラ(あるいはガチャ)から飛び出してきた玉のようなものだと見なしはじめている。
近代の始まりのとき、日本国民は「国家がタダで学をさずけてくださるんだ、いいことじゃねえか」「さあ、おれたちも出世ゲームに参加できる素敵な世の中がやってきた。息子よ、お前は末は博士か、大臣か、いったいどっちになるよ」と希望を膨らませて、新しい社会を受け入れたのではなかったか。だが、そのような希望の時代は、すでに峠をこえて、むしろ日本の子供たちは社会に参加すること自体を恐れるようになってしまった。
希望の掛け声は絶望の掛け声と「同じ言葉」だったことに、今の国民は愕然として気づいている。今となっては、自分のペルソナをそのような社会の不条理から守り抜きたいのに守り切れないという絶望感は、かつての日本の子供たちよりも強いだろう。
けれども、その場所にいる間に、この唯物論ベースで成り立った社会感覚とは異なった思考態度、「新しい世界の理解の仕方」と出会うことがなかったならば、その霊界由来の魂は、ますますこの「人選ゲーム世界」としか認識できなくなってしまった現代社会の空気のなかで、窒息状態になり、若くして老人のように硬化していくしかないだろう。
「将来、唯物論が克服されることがなかったら、子供は震えながら生まれてくるようになるだろう」(ルドルフ・シュタイナー)。
もし「死にたいと思っている今の私」の前の私、そして未来の私は、現在の私とはまったく違った気質や性格、性別、人種、国籍の所有者だろうと思うことができる時代に生きているなら、「嘆き方」も「異なったもの」になっていただろう。
そして神様に「私の苦境を救ってほしい」と願うとき、まだ輪廻転生やカルマの思想にとことん深く触れておらず、「瞑想の対象として徹底できていない人」は、とくに輪廻転生思想を他宗派的だと見なして受け入れようとしない近代西洋のキリスト教徒たちは、自分のペルソナを救ってほしいと祈っていることが分からない。
彼らや彼女らは「私のペルソナ」、つまり「ルシファーによって物質界にもたらされた構成体」を、それが求めるような魂的満足を得られる状況にしてほしいと祈っている。
現在、人類が「人間」と呼んでいるものは、正規の神々とルシファーとの合作品であり、ルシファーの不正な介入(それをキリスト教では堕罪と呼んでいる)によって物質界に出現させられてしまった〈特殊な構成体〉なのだという視点が欠けているからだ。
2000年前、多くの「聞く耳を持った人々」の前でキリストが「あなたがたなら私の言っていることが理解できるだろう」と判断することができたなら、「私は〈アナタが自分だと思っているもの〉を救いに来たのではない。ほかならぬ〈アナタによって妨げられてきたもの〉を育て上げ救い出すためにきたのだ」と告げたことだろう。
しかし当時、「今われわれが読むことができる福音書」に出てくる多くの人々の前で、実際にそう告げて回ったら、誤解され、
「えっ、私を救いに来たんじゃないのか。それなら、なんであんたを敬う必要がある。とっとと、どこかへ行ってしまえ」
と、そのようにあしらわれるのが関の山だったことだろう。
そして布教は福音書に記述されているものよりも更にもっと困難になったことだろう。実際には多くの奥義がその難解さゆえに少数の弟子たちの間のみで秘密にされ(これは福音書にも出ている話)、一般の人々には比喩で「人類の進むべき道」を分かりやすく語ろうと試みるということが「その時代の人類の理解力あるいは許容力に対しての限界」だった。
一方で、人生は一回きり。そういう世界観のなかで西洋人は「自己感覚」というものを鍛えてきた。けれども、キリスト教成立以前には西洋世界にもあった古代由来の輪廻思想は、完全に西洋人のマインドから目隠しされてしまう。
近代文明の中で生み出された西洋産のドラマや映画には、キリスト教徒を自認している人物が「こんなに祈ったのに助けてくれなかった。私は神を憎む。私は神を許さない」と「反対側へ飛ぶシーン」が頻繁に出てくるようになる(これは東洋的感性とは異なった、唯物論ベースのマインドで生きるようになった近代西洋人に頻発する心理反応だと思う)。
輪廻転生を繰り返すたびに霊(あるいは高次の自我)に紐づけされて地上に出現する〈ルシファー構成体〉、つまり、現在のところ人類個々によって「自分自身だ」と「感じられているもの」は、キリストによって救い出される、今のところ「天使の体を破壊されたまま、地上にほってかれている霊」の、その記憶のなかに生きることになる「生まれ変われないペルソナ」、そのたびに霊によって取り換えられてきたペルソナ(仮面)だった。
救済されるのは、例えば、ある時代の、ある人種民族国家に属しており、ある地方都市で暮らしている二児の父や母をやっていると思っているキリスト教徒たる自分(そのパーソナリティ)ではない。
物質界にパーソンとして何度も出現するようになったものは、その始まりにおいては、もともと神々の失敗作だった。しかし元天使候補生たちが失敗作になったのは、彼ら自身の責任と言うよりも、ルシファーが人間の魂に時期尚早に介入したためだ。神々は「その結果」をそのままほっておいてもよかった。神々は自分たちの課題だけを追求する選択もあったのだ。
けれども、今の人類は「汚染された箇所を持つ神々の失敗作」ではあっても、まさに「その汚染された状況」を「最初の素材」として、その悪しきものが、未来の良きものに変容するように、物質界における人類の認識の誤謬と錯誤の結果に対抗させようと、死や痛みや苦悩に遭遇するチャンスを与え、また輪廻転生を通じて繰り返し魂磨きをするようにと、初期の失敗を「補完する計画」を人類に与えたのだった。
けれども、キリスト到来以前においては、特別に素質に恵まれた強い霊魂以外、長期に渡る困難な修行を行って、霊界への帰還を完遂する(秘儀参入者となる)ことはできなかった。当時の人類にとって、釈迦のような修行の道は、誰もが歩み通せる道ではなかった。
人智学で言う自我感覚とは利己主義マインドのことではない。人の霊が「接触感覚(自我感覚)」を用いて「私」を感じるとき、「この身体に接し、この魂の中で喜怒哀楽しているのは私だ、という感覚」には差があるという話をしている。(自我感覚ではないが、白人は傷を負ったとき、痛みに弱いと言われることがあるのは、〈身体内部からやってくる音〉を他人種よりも強くグリップするからだろう。)
人間の身体の接触感覚性をマイクロフォンに例えるなら、西洋産マイクロフォンで音を拾うと、東洋産マイクロフォンよりも明瞭な音声を「高感度(強い入力レベル)で拾い上げる」ことができたという話である。
歴史的に、東洋人と西洋人の身体とでは、自分を個我として感じる力に「感度の差」が存在した。日本では戦後においても、田舎では特に、一人称と二人称の混同共用が起きていた。彼我感覚が分離していない状況があったが、それも21世紀の現代となっては方言感覚はますます弱まって、若い人たちは特に、かつての日本人よりも自己感覚が強まっている。
西洋近代の初め、大航海時代の機運に乗って西洋から日本にやってきた宣教師たちは、他の教えを邪教と見なし、キリスト教を最高の教えとして称揚していた。しかし、ある農民が「じゃあ、キリスト教徒でなかった死んだ私の先祖たちは救われるのか」と質問すると、宣教師たちは答に窮して黙り込んでしまう。
すでに何百年にも渡って、日本人は仏教由来の輪廻転生思想を日常生活のなかに受け入れて生きてきたが、当時の西洋人たちはそうではなかったのだ。
西洋社会においては、彼ら宣教師の時代には「これが私の先祖たちだ」とイメージできる範囲の人々は、すでにみんなキリスト教徒だったからだ。だから西洋のキリスト教徒は「今地上に生きている私のペルソナ」の救済だけにかまけ、「先祖の心配」をしないで済んだのだった。「私とは何か」についての関心を「前へ進めることができなかった」のだ。
戦国時代の日本の農民は、こう思う。
宣教師たちは「人間は生まれ変わらない。生前キリスト教徒だった者は、死後の世界でキリストに声をかけてもらうまで待機しているのだ」と主張している。そうなのか、キリスト教では先祖を救えない。先祖を救えない舶来の教えは、我々の知っている、もう一つの愛と慈悲を説く教え、仏教よりも劣る。
当時の日本の農民たちの多くが「キリスト教は自己中心的な了見の狭い教えだ」と感じたに違いない。
すでに愛と慈悲を説く仏教思想によって十分、魂の訓育を受けてきた日本の人々にとって「キリスト教」は自分たちの知っている愛と慈悲の教えよりも劣るものと見なされたのだった。
次回へ続く
「神様は不公平だと訴えるとき、人は自分の由来を意識していない。」
近代人は、たとえ「死んだら終わりじゃない」と漠然と考えるタイプの人間であっても、幼いころからすでに、「自分たちの日常生活の中に忍び込んでいる様々な通路」を通して、繰り返し繰り返し唯物論的な世界観に従うようにと強いられている。
近代において、そのようにして国民の精神生活の自由に介入してきた一番大きな力が、国家が法を盾に国民に「それに従うように」と強いてきた教育制度であった。そのような制度を通じて、いわば「精神に色づけを施された国民」が、今日のような社会体系を構築してきた。それが成り立ってきたのは、最終的には国民の側が「国家によって自分の精神が色付けされることはよきことだ」と思い、「その強制を受け入れた」からだった。「国家がタダで学をさずけてくださるんだ、いいことじゃねえか」という国民の合意が大規模に形成された結果だった。
そのような「体制」のもとで、国民の一部は、そのシステム維持のためのメンテナス要員、つまり官僚になったり、大学、マスコミ、広告会社に到るまで、言葉や映像イメージを操る産業に従事して「選別された特定の言葉遣いや、それに基づいた編集されたイメージの群れ」を再生産し続けている。
現在も続いている、国家が国民に「何をどのように考えるべきなのか」を強制するシステムは、もともと西洋において国民の人選システムとして設計されたものだった。近代以前の古い身分制社会を打破し、「支配層は何を尺度にして形成されるべきか」という近代的実験の結果が、今、われわれが眼の前で見せられているものである。
これまで何度も「私」が地上世界に伸ばしてきた肉体への絆は、この地球の歴史の時間軸の中でたった一本しかないと思うような感受性を、意識的にせよ、無意識的にせよ、長い時間をかけて醸成されてきたならば、人類は「今の私」への関心だけで、歓喜したり悲嘆にくれたり、死にたくなったりするしかないだろう。
特に戦後から今日まで、物質界とはまったく様相が異なった霊界から、まったく勝手の違う競争社会へ降りてきて、強力な模倣衝動、あるいは適応衝動によってペルソナを形成する時期の子供たちにとって世界は、〈愛しくて仕方がない自分のペルソナ〉を傷つけようとしてくる魔物のようなものとしてますます受け止められるようになってしまった。そして現代に至って、自分の運命は福引の回転するガラガラ(あるいはガチャ)から飛び出してきた玉のようなものだと見なしはじめている。
近代の始まりのとき、日本国民は「国家がタダで学をさずけてくださるんだ、いいことじゃねえか」「さあ、おれたちも出世ゲームに参加できる素敵な世の中がやってきた。息子よ、お前は末は博士か、大臣か、いったいどっちになるよ」と希望を膨らませて、新しい社会を受け入れたのではなかったか。だが、そのような希望の時代は、すでに峠をこえて、むしろ日本の子供たちは社会に参加すること自体を恐れるようになってしまった。
希望の掛け声は絶望の掛け声と「同じ言葉」だったことに、今の国民は愕然として気づいている。今となっては、自分のペルソナをそのような社会の不条理から守り抜きたいのに守り切れないという絶望感は、かつての日本の子供たちよりも強いだろう。
けれども、その場所にいる間に、この唯物論ベースで成り立った社会感覚とは異なった思考態度、「新しい世界の理解の仕方」と出会うことがなかったならば、その霊界由来の魂は、ますますこの「人選ゲーム世界」としか認識できなくなってしまった現代社会の空気のなかで、窒息状態になり、若くして老人のように硬化していくしかないだろう。
「将来、唯物論が克服されることがなかったら、子供は震えながら生まれてくるようになるだろう」(ルドルフ・シュタイナー)。
もし「死にたいと思っている今の私」の前の私、そして未来の私は、現在の私とはまったく違った気質や性格、性別、人種、国籍の所有者だろうと思うことができる時代に生きているなら、「嘆き方」も「異なったもの」になっていただろう。
そして神様に「私の苦境を救ってほしい」と願うとき、まだ輪廻転生やカルマの思想にとことん深く触れておらず、「瞑想の対象として徹底できていない人」は、とくに輪廻転生思想を他宗派的だと見なして受け入れようとしない近代西洋のキリスト教徒たちは、自分のペルソナを救ってほしいと祈っていることが分からない。
彼らや彼女らは「私のペルソナ」、つまり「ルシファーによって物質界にもたらされた構成体」を、それが求めるような魂的満足を得られる状況にしてほしいと祈っている。
現在、人類が「人間」と呼んでいるものは、正規の神々とルシファーとの合作品であり、ルシファーの不正な介入(それをキリスト教では堕罪と呼んでいる)によって物質界に出現させられてしまった〈特殊な構成体〉なのだという視点が欠けているからだ。
2000年前、多くの「聞く耳を持った人々」の前でキリストが「あなたがたなら私の言っていることが理解できるだろう」と判断することができたなら、「私は〈アナタが自分だと思っているもの〉を救いに来たのではない。ほかならぬ〈アナタによって妨げられてきたもの〉を育て上げ救い出すためにきたのだ」と告げたことだろう。
しかし当時、「今われわれが読むことができる福音書」に出てくる多くの人々の前で、実際にそう告げて回ったら、誤解され、
「えっ、私を救いに来たんじゃないのか。それなら、なんであんたを敬う必要がある。とっとと、どこかへ行ってしまえ」
と、そのようにあしらわれるのが関の山だったことだろう。
そして布教は福音書に記述されているものよりも更にもっと困難になったことだろう。実際には多くの奥義がその難解さゆえに少数の弟子たちの間のみで秘密にされ(これは福音書にも出ている話)、一般の人々には比喩で「人類の進むべき道」を分かりやすく語ろうと試みるということが「その時代の人類の理解力あるいは許容力に対しての限界」だった。
一方で、人生は一回きり。そういう世界観のなかで西洋人は「自己感覚」というものを鍛えてきた。けれども、キリスト教成立以前には西洋世界にもあった古代由来の輪廻思想は、完全に西洋人のマインドから目隠しされてしまう。
近代文明の中で生み出された西洋産のドラマや映画には、キリスト教徒を自認している人物が「こんなに祈ったのに助けてくれなかった。私は神を憎む。私は神を許さない」と「反対側へ飛ぶシーン」が頻繁に出てくるようになる(これは東洋的感性とは異なった、唯物論ベースのマインドで生きるようになった近代西洋人に頻発する心理反応だと思う)。
輪廻転生を繰り返すたびに霊(あるいは高次の自我)に紐づけされて地上に出現する〈ルシファー構成体〉、つまり、現在のところ人類個々によって「自分自身だ」と「感じられているもの」は、キリストによって救い出される、今のところ「天使の体を破壊されたまま、地上にほってかれている霊」の、その記憶のなかに生きることになる「生まれ変われないペルソナ」、そのたびに霊によって取り換えられてきたペルソナ(仮面)だった。
救済されるのは、例えば、ある時代の、ある人種民族国家に属しており、ある地方都市で暮らしている二児の父や母をやっていると思っているキリスト教徒たる自分(そのパーソナリティ)ではない。
物質界にパーソンとして何度も出現するようになったものは、その始まりにおいては、もともと神々の失敗作だった。しかし元天使候補生たちが失敗作になったのは、彼ら自身の責任と言うよりも、ルシファーが人間の魂に時期尚早に介入したためだ。神々は「その結果」をそのままほっておいてもよかった。神々は自分たちの課題だけを追求する選択もあったのだ。
けれども、今の人類は「汚染された箇所を持つ神々の失敗作」ではあっても、まさに「その汚染された状況」を「最初の素材」として、その悪しきものが、未来の良きものに変容するように、物質界における人類の認識の誤謬と錯誤の結果に対抗させようと、死や痛みや苦悩に遭遇するチャンスを与え、また輪廻転生を通じて繰り返し魂磨きをするようにと、初期の失敗を「補完する計画」を人類に与えたのだった。
けれども、キリスト到来以前においては、特別に素質に恵まれた強い霊魂以外、長期に渡る困難な修行を行って、霊界への帰還を完遂する(秘儀参入者となる)ことはできなかった。当時の人類にとって、釈迦のような修行の道は、誰もが歩み通せる道ではなかった。
人智学で言う自我感覚とは利己主義マインドのことではない。人の霊が「接触感覚(自我感覚)」を用いて「私」を感じるとき、「この身体に接し、この魂の中で喜怒哀楽しているのは私だ、という感覚」には差があるという話をしている。(自我感覚ではないが、白人は傷を負ったとき、痛みに弱いと言われることがあるのは、〈身体内部からやってくる音〉を他人種よりも強くグリップするからだろう。)
人間の身体の接触感覚性をマイクロフォンに例えるなら、西洋産マイクロフォンで音を拾うと、東洋産マイクロフォンよりも明瞭な音声を「高感度(強い入力レベル)で拾い上げる」ことができたという話である。
歴史的に、東洋人と西洋人の身体とでは、自分を個我として感じる力に「感度の差」が存在した。日本では戦後においても、田舎では特に、一人称と二人称の混同共用が起きていた。彼我感覚が分離していない状況があったが、それも21世紀の現代となっては方言感覚はますます弱まって、若い人たちは特に、かつての日本人よりも自己感覚が強まっている。
西洋近代の初め、大航海時代の機運に乗って西洋から日本にやってきた宣教師たちは、他の教えを邪教と見なし、キリスト教を最高の教えとして称揚していた。しかし、ある農民が「じゃあ、キリスト教徒でなかった死んだ私の先祖たちは救われるのか」と質問すると、宣教師たちは答に窮して黙り込んでしまう。
すでに何百年にも渡って、日本人は仏教由来の輪廻転生思想を日常生活のなかに受け入れて生きてきたが、当時の西洋人たちはそうではなかったのだ。
西洋社会においては、彼ら宣教師の時代には「これが私の先祖たちだ」とイメージできる範囲の人々は、すでにみんなキリスト教徒だったからだ。だから西洋のキリスト教徒は「今地上に生きている私のペルソナ」の救済だけにかまけ、「先祖の心配」をしないで済んだのだった。「私とは何か」についての関心を「前へ進めることができなかった」のだ。
戦国時代の日本の農民は、こう思う。
宣教師たちは「人間は生まれ変わらない。生前キリスト教徒だった者は、死後の世界でキリストに声をかけてもらうまで待機しているのだ」と主張している。そうなのか、キリスト教では先祖を救えない。先祖を救えない舶来の教えは、我々の知っている、もう一つの愛と慈悲を説く教え、仏教よりも劣る。
当時の日本の農民たちの多くが「キリスト教は自己中心的な了見の狭い教えだ」と感じたに違いない。
すでに愛と慈悲を説く仏教思想によって十分、魂の訓育を受けてきた日本の人々にとって「キリスト教」は自分たちの知っている愛と慈悲の教えよりも劣るものと見なされたのだった。
次回へ続く
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