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BOUNDHEAD

駐車場南側の側溝を流れる水
京極夏彦の小説が原作の『魍魎の匣』(もうりょうのはこ)というアニメがある。

ひさしぶりにこのアニメを見直そうと思ったので、Netflixやamazonやらをチェックしたが、なかったので、DMMでDVDをレンタルした。来週には届くだろうから、見直そうと思っている。




このアニメに「呪」という陰陽道用語の解説が出てくる。音読みだと、日常的には普通「呪」は「ジュ」という読み方をまず連想するはずだが、陰陽道では、これを「シュ」と読ませている。



「言葉で相手を縛る術」である。これを「呪(しゅ)をかける」という。近代は実は物理的な大戦争の背後で、この「呪(しゅ)」の魔術によって、人類が特定の思考方法しかできないようにさせられている時代でもあると、私などは思うのだが、どうだろうか? 統計やらなにやら、学問的権威めかして、「人々を誘導する技術の研究」の実践である。

ルドルフ・シュタイナーが「鶏の嘴て線を引くと、それをやられた鶏は、その線に沿って歩くようになる」という趣旨の話をしていたのを思い出した。人間も同じことをやられている、と。

アテンション・エコノミー全盛時代の現在、庶民のレベルまで「呪(しゅ)の飛ばし合い合戦」を行うようになっている。


XやらYouTubeやらが、その戦場である。

1対1で行うリバーシゲームではなくて、複数で行う「転ばしゲーム」である。


昔、ロバート・レッドフォード主演の映画内で「アフガニスタン・バナナスタン」という言葉を彼がささやくと、あらかじめかけられていた催眠状態に復帰して命令を実行し始める男のシーンがあったが、「多くの有名人たち」が世界中でそれをやっている。

以下、深田萌絵のYoutube番組より


アフガニスタン・バナナスタンの例(各社新聞の1面トップ)

もちろん、彼らが催眠術にかけられているというのではなく、「彼らのふるまいの数々の属性のうちのひとつ」が「契約」(金銭)によって発動されるような事態になっている。これは有名人を含め多くの人が「信念」というものを失っている時代だからこそ成り立つ「取引」なのだった。

普段はその有名人たちはみなめいめい勝手に好きなことを言ったり行ったりしているが、時々、「指令」が飛んでくる。すると彼らはビジネスとして「彼らの要請通りに発言する」。その代わりメディアで「〇〇はこう言った系」の記事を定期的に投下してもらい、それが記事集約サイトの管理者と連携して、共感・反感問わず、人々の関心(人気)を維持させる動きをする。

すべてが壮大な茶番だが、人々は「簡単に感情に溺れる」(ルシファーに陥落させられる)ので、胴元が作ったルールを是正する試みに関心が行くよりも、そのゲーム内でいかにチートするか(例えば、偏差値人選ゲーム突破のチート行為が塾通いであるように)、その技法探しに熱中する。

今日でも人は「お金とは何か」を学校で学ぶことはないし、労働者として、サラリーマンがもらっているものも公務員がもらっているのも等しく「労働の対価」だという「まやかし言葉」に疑問を持たないように「その嘴で地面に線を引かされたまま」だ。「時給」という考え方もそうだ。「労働時間」と金銭を交換していると思い込む(自動的にそのように連想するように「育てられてきた」)こと自体に「幻影」が入り込んでいるという気づきがやってこない。

マルクスは「賃金は労働の対価ではなく、生み出した商品の市場価値に対する対価だ」という真実を、自身の説く労働価値説で覆い隠して、「労働者たちがお金とは何かを考える機会」を隠蔽するのに大きな力を発揮した。見かけ上マルクスらの敵対者であるはずの資本家(企業体)側も、その「まやかし言葉」の上に乗っかって、「賃金」を支払っている。議会は「商法」「労働法」を作り、法律家が解釈する。官僚は日々「その思考線上に沿って、法案作成向けの下書き」をする。

その「思考方法」は「胴元がこさえたゲーム上のルール」から始まったのであって、胴元の主催するゲーム自体を破壊しない限り、胴元が勝つようにできてる。この200年の間に彼らは、そのもとのゲームをファインチューニングし続け、なおも人々に呪(しゅ)をかけ続けている。株式制度やら金融制度の世界的普及と均一化も近代以前の軍事的制圧とは別の手段によるアーリマン傘下の武器になった。あらゆる近代法体系が、「資本による(人間精神の)制圧」(脱精神化あるいは個々人の精神生活の漂白化)を容易にし、「彼ら」の目的に十分に仕えるためにファインチューニングされ続けて今日にいたる。「人間精神に干渉できる」という意味で、人類の闘争方法は野蛮力の行使から先へ進んで、「巷にあふれる言葉」こそ人類精神に対する最大の武器となったのだった。

戦後の日本人の精神的屈服も結局仕上げは原爆ではなく、その後に開始された一連の「言葉による制圧」(西洋式陰陽術)だった(似た事件は大化の改新時にも大規模に起きた)。学校では試験を課し、「彼らの欲する回答」に好成績で応じられる者たちが左右から選抜されて、同胞に対する監視官にされた。彼らはプロレスを延々とやり続けてきた。東アジアの三民族が「彼ら」に同じ目に合わされているが、まさに優秀ゆえに同胞の監視官にされた者たち自身には皆その自覚はない。ただ大衆から抜きんでているという自覚、その自尊心が「自分はほんとうは同胞たちの監視者であり実際には敵対者として振る舞っている」という自己洞察を阻んでしまう。あとは「彼ら」が、ぽんと背中を押すだけで、自ら分断統治という、戦前から準備され、戦後に眼に見えるものにされた東アジア統治の仕組みを率先してファインチューニングしてくれる「利口で便利な自動思考人形」として利己心を燃料にして生きる。それは霊界vs物質界の比喩としての「マトリックス」的世界というよりも、この物質界で起こっている「トータルリコール」的世界だ(ただしコリン・ファレル版の)。

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などと、つぶやいてみたが、蒸し暑い時期なのに「唇寒し、初夏の空」である。

すこしだけ「嘆いて」から、近況を書こうと思ったら、やっぱり長くなってしまった。

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以下が今回の本題である。

前回、駐車場の天井にスズメバチがよく巣を作ってきた、という話をしたが、この駐車場は南側が内側で側溝になっていて、家の南面側の瓦屋根の傾斜から流れ落ちてくる雨水を集めて、敷地外のもっと大きい側溝に流れ込むようになっている。

痛みがひどく数年前に一度モルタルを練って修繕したのだが、以後まったく関心を失っていた。今年、梅雨が始まる直前に、突然関心が沸き、チェックしたら、穴だらけだったことに愕然とした。

側溝の開いた穴から駐車場のコンクリートの下にたくさんの雨水が流れこんでいたのに、ほっておいたのだった。

それで、コンクリートのひび割れに使うチューブ式のひび割れ塞ぎ剤を買って応急処置をした。

修繕跡は動画で見れるが、実はブロック塀側ではなく、駐車場側の側溝部分がひどかったのだが、今回の動画では撮れていない。





修繕と言っても見た目相当にひどいが、大量の雨水が「変なところにもぐっていかない」ようになって、一安心である。

パイプの排出口が側溝にかかっているが、ももともはなかった部分で、今回付け加えた。もとは垂直に立った雨どいのパイプの口から、動画の最初に出てくる苔が映っているコンクリートの上を勢いよく雨水が流れ込む形になっていた。このコンクリート部分も大きくひび割れしていて、雨水の一部が流れ込んでいたのでふさいだ。


これまで何の関心もなかったくせに、四散せずにひとつにまとまった透明な水が水路をとうとうと流れていく様子を見ていると、不思議に「もっと眺めていたい」と思ってしまった。

それがスマホで動画を撮って残すことにした理由である。


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