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ひと月ほど前、Netflixで「転生したら剣でした」を見たのだが、このアニメで使われているサウンドトラックに注意が向いた。
いわゆるブルガリアン・ボイス付きのBGMが何度もふんだんに流れるのが非常に気になったからだった(アニメ自体も大変おもしろかった)。
それでひさびさDMMでサントラ盤のレンタルをやっていないかチェックしたら、あったので取り寄せて聴いてみた。
そのあとYouTubeで調べたら、なんと2枚組CDに所収されていた50曲が全部公開されていた。
私がアニメで気になったのが、そのサントラ(ディスク1)の第1曲目に出てくる「Reincarnated as a Sword」だった。
たとえば「Ghost in the Shell」や姫神の「神々の詩」で聞けるブルガリアン・ボイス風の歌声は「日本の生身の女性たちの声」によって録音されたものだった。
「転生したら剣でした」で聴くことのできる女性たちの合唱は、はたして「生身の声」によるものなのだろうかと疑問を持った。同じ疑問は以下の楽曲を聴いたときにも感じた。5:00辺りに飛んで確認してほしい。
Anymaが属しているAfterlifeの楽曲で聴くことのできるブルガリアン・ボイスだ。
「転生したら剣でした」以外にも「アレ、ここでもブルガリアン・ボイスが使われている」と思う経験が別のアニメ視聴時にもあったので、「これはどういうことだろう」と思い始め、「もしかしてすでにボーカロイド系の音源が存在してるんじゃないだろうか」と思い、ネットで探し始めた。
そうしたら、予想通り以下のような「ボーカル系音源」が販売されているのに気が付いた。
RHODOPE 2 ETHNIC BULGARIAN CHOIR
うかつだった。この音源は数年前にすでに販売されていたのに今日まで私は「そのこと」を知らなかった。
ヤマハの機械的なボーカロイド音源は、今日AIだとかいって実在の歌手のボーカルそっくりのフェイク音源がネットで氾濫し始めている昨今においては「時代遅れ」の音源になってしまった。
「ボーカロイド」という言葉は、ヤマハの登録商標なので、「ボーカルのサンプリング音源」を総称して何と言えばいいのか、いまのところよく分からないが、AIという呼称で米国からやってきた「声のサンプリング処理技術」はヤマハのボーカロイド技術をすでに凌駕している。
ボカロPなどといって、「モロ機械音」のような歌声を「ひとつの価値」ととらえて、受け入れられていた時代は、すでに去っているじゃないかと思う。
ボーカロイドよりも、よりリアルに寄せた日本語対応サンプリング音源は、いまは無料で手に入れることもできるようになったので、私も、いずれ試してみたいと思っている。
とはいえ、聴くだけの場合と自分も発声者として、和声体験に参加するのとでは、「感覚体験」に雲泥の差があるのも事実だ。私もDTMもやっているとはいえ、機械オンリーだとやはり反感を感じる。
打ち込みばかりで自分の身体性がまったく参加しないと「欲求不満」になるんだろうと思う。
コーラス音声というのは、リスナーとして聴くだけでも十分、脳内をモゾモゾさせるものだ。
人間の声による和声音は何か目の細かい紙ヤスリ同士をこすり合わせているような奇妙なざらざらするような感覚に陥る。特にブルガリアン・ボイスになるとその感覚がさらに激増する。
聴くだけでもそうなのだから、実際に自分がその合唱のひとりとして参加している場合、脳内に炭酸がシュワシュワ吹き出すような感覚さえ味わえる。それは甘美な何かだが、それが何なのか実は誰も明確に説明できないはずだ。
山下達郎が「on the street corner」をコツコツと一人多重録音で作った情熱を思い出す。
ブルガリアン・ボイスというのは、ブルガリアの民謡をソロではなく、和声合唱で構成したものだ。民謡的な発声のテクニックで合唱をすればブルガリアン・ボイスのようになる。
元来ひとりで歌い上げるのが日本の民謡であり、和声という伝統を持たなかった日本の民謡歌手たち、たとえば「Ghost in the Shell」における西田社中の面々に「ハモってみて」と指示を出して彼女たちに新しい試みをさせた川井憲次氏の酔眼である。
その流れの先に姫神の「神々の詩」という名曲もある。
P.S.1
ちなみに今回、「転生したら剣でした」のサントラを担当した高梨康治という人の名前を始めて意識したのだったが、この人はナルトそのほか有名どころのアニメの音楽をいっぱいやっている人だった。
P.S.2
Anymaが来年1月日本で初めてのコンサートをやるという情報が飛び込んできた。いよいよ日本人一般でも「認知」が広がってきたようだね。
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声優の田中敦子が亡くなったという知らせをヤフーニュースで知った時、かなり落ち込んだ。一日中、寝るまで心が重かった。
アニメ「攻殻機動隊」には、タチコマが「ボクらはみんな生きている」と合唱するシーンがあるのだが、2018年の正月に田中敦子がその歌声を自宅でフィギュアのタチコマに歌ってもらって、草薙素子少佐の声でそれをねぎらう動画を公開したことがあった。
それまで基本ツイッターというかXにはノータッチな自分だったのに、そのページだけはブックマークして、今日まで残していた。
訃報を知ってすぐ、そのページをひさびさに訪れてみたが、途中までで必ず動画が止まってしまう。私は、田中敦子のタチコマへのねぎらいの言葉目当てでページに飛んだのに、聴くことができなくて、さらに落ち込んでしまった。
どういう事情で動画が先へ進まなくなっているのか分からないが、もう一度「全編」視聴できるようにしてほしいと願う。(ちなみにあとで「あ!」と思い、ウェブ上で動くダウンローダーを利用すればいいじゃんと思い立ち、試してみたら「全編」版として手に入れることができた。少佐が最後に何と言っているのか、「どうしても知りたい人」は、そういう手を使うことも有りか?)
声優・田中敦子さんの謹賀新年ツイートで「タチコマ」と「少佐」wwwww
そういうこともあり、以前アニメ映画「Ghost in the Shell」のサントラとブルガリアン・ボイス関連の記事を書いていたことを思い出して、読み直そうと該当ページに飛んだのだが、かつては視聴できていた映画のテーマ個所を歌っている動画が消えていたので、YouTubeにかろうじて残っていた、別の西田社中の動画と差し替えて、少々編集し直しておいた(YouTubeから消えてしまった「高画質版」動画の復活を切に望む)。
ということで、勢いがついて、ふたたび民謡とブルガリアン・ボイスと最近注目していたアニメのサントラ(「転生したら剣でした」)と、これも当ブログで紹介したAnymaについて、自分の脳内で連想関係が生じ、そこから調べに入ってネットからも新しい情報を得て、それらが頭の中で結びつくことがあったので、次回、ご紹介したいと思う。
P.S. 本日(8月27日)深夜1時30分、パンダジャパンというものを知った。
「少佐」がラジオ番組で「完熟マンゴー」というペンネームを使って参加していたラジオ番組エピソード・・・・。Xでのタチコマ動画といい、その本質は、ひょうきん族田中敦子なのだった。 -
Pearl & The Oystersという男女二人によるPOPバンドが最近のお気に入りだ。
このユニットも以前の紹介動画同様、YouTubeのインディーズ集約動画で見つけたものだ。
「素性」を簡単に紹介すると、もともと二人(ジュリエット・パール・デイビスとヨアキム・ポラック)はフランス人で、地元で音楽活動を始めたが、ヨアキム・ポラックが米国の大学院へ行くので、二人は音楽の活動場所を米国に移したそうだ。
最初に一連の楽曲を聴いたときの感想と言えば、「彼らは日本の70~80年代の音楽の影響を受けているんじゃないか」という印象だったが、その後、英語圏の記事をいろいろチェックしてみると、やはり日本の「その当時」の音楽の影響を強く受けていることに言及している記事があった。
記事内に挙げられていた名前以外にも、細野晴臣経由でティンパンアレーや大貫妙子の大ファンだったりするんじゃないだろうかと彼らの楽曲を聴いたときに感じたものだ。その例が以下の楽曲だ。
実際、YouTubeに挙げている動画には日本語の字幕を付けたものや、日本ロケで撮ったと思われる動画もあって、かなり日本趣味を押し出している。
公式にはアルバムを4枚出している。
1st Pearl & The Oysters(2017)
2nd canned music(2018)
3rd Flowerland(2021)
4th coast 2 coast(2023)
私は3枚目の「Flowerland」と4枚目の「coast 2coast」が特にお気に入りだ。
YouTubeにアルバムごとの再生リストがあるので探して聴いてみてください。
今のところ4枚目が最新作で、2023年のリリースなので、もうじき次のアルバムが出てくるんじゃないかと楽しみにまっているところだ。
もはやメジャーレーベルが出している楽曲のヒットチャートという「権威」って20世紀後半の遺物になってしまったと思う。今でも「メジャーの名前を背景に出てくるミュージシャンたち」は米国にも日本にもいるけれど、、そして「表面的」には「彼ら彼女ら」はマスメディアの記事素材の一翼を担ってはいるけれど、ほんとに音楽が好きな人たちは、「もはや本気で取り合っていないんじゃないか」とひそかに疑っている。
私自身は、中坊だったあの頃、すでにアンチ・ヒットチャート派だったマセガキだったけれど(FMのリクエスト番組で普段ラジオでかからない、これまで知らなかった「名曲」がかかるのを釣り人みたいに待っていた坊主頭の中学生だった)、やっぱりそういう「音楽の追いかけ方」は今でも変わらないみたいだ。
「自分がほんとにいいと思うものを事上げせずに淡々と追いかけている」そういう「無言の一大勢力」が世界中にいるんだよな、きっと。 -
実は、YouTubeでよく見にいくのが「国土交通省九州地方整備局」が管理している川の映像なのだった。
今年の6月までは地元の監視カメラ映像ばかり見ていた。(夜間の河川映像は魅力が半減するので、興味を持った方は、お日様が出ているいずれかの時間、都合のいい時に覗いてみてください。)
7月に入ってすぐ、YouTube上に九州内のほかの河川の監視カメラ映像を「国土交通省九州地方整備局」があげているのに気づき、こちらもよく見るようになった。
筑後川は五ヶ瀬川よりもかなり規模が大きいので、最近はこちらもよく見るようになった。
すごくいい映像だと思うんだが、五ヶ瀬川にしても、筑後川にしても、登録者はすくないし、五ヶ瀬川の場合は、見に出かけると視聴者0だったりして「え、これ見てんのオレだけ。なんで河川映像ってこんなに人気ないの?」と不思議に思ってしまう。
球磨川の映像もいい。
以前、国土交通省九州地方整備局による五ヶ瀬川ライブ映像を発見したとき、日本全国の河川もほかの地方の国土交通省の管理部門が公開しているんじゃないかと思って探したことがあったけど、その時にはいい結果が得られなかった。
「もしかして五ヶ瀬川だけなの?」とがっかりしながら、長年過ごしてきたが、梅雨の時期に合わせたのか、今年の7月になって、たくさん河川のライブ映像が「スーパーマーケットのチラシ画面」(YouTubeのホーム画面のこと)の中に紛れ込むようになって、「おお」と驚いて、即出かけていって登録しまくったのだった。
今後、さらに「全国河川」のライブ映像が増えてくれたら、YouTubeを見る楽しみが増えるというものだ。
前回は「小さい水路」の話で終わったけれど、連想作用でも働いたのか、今回は「でっかい水路」の話でした。 -
京極夏彦の小説が原作の『魍魎の匣』(もうりょうのはこ)というアニメがある。
ひさしぶりにこのアニメを見直そうと思ったので、Netflixやamazonやらをチェックしたが、なかったので、DMMでDVDをレンタルした。来週には届くだろうから、見直そうと思っている。
このアニメに「呪」という陰陽道用語の解説が出てくる。音読みだと、日常的には普通「呪」は「ジュ」という読み方をまず連想するはずだが、陰陽道では、これを「シュ」と読ませている。
「言葉で相手を縛る術」である。これを「呪(しゅ)をかける」という。近代は実は物理的な大戦争の背後で、この「呪(しゅ)」の魔術によって、人類が特定の思考方法しかできないようにさせられている時代でもあると、私などは思うのだが、どうだろうか? 統計やらなにやら、学問的権威めかして、「人々を誘導する技術の研究」の実践である。
ルドルフ・シュタイナーが「鶏の嘴て線を引くと、それをやられた鶏は、その線に沿って歩くようになる」という趣旨の話をしていたのを思い出した。人間も同じことをやられている、と。
アテンション・エコノミー全盛時代の現在、庶民のレベルまで「呪(しゅ)の飛ばし合い合戦」を行うようになっている。
XやらYouTubeやらが、その戦場である。
1対1で行うリバーシゲームではなくて、複数で行う「転ばしゲーム」である。
昔、ロバート・レッドフォード主演の映画内で「アフガニスタン・バナナスタン」という言葉を彼がささやくと、あらかじめかけられていた催眠状態に復帰して命令を実行し始める男のシーンがあったが、「多くの有名人たち」が世界中でそれをやっている。
以下、深田萌絵のYoutube番組より
アフガニスタン・バナナスタンの例(各社新聞の1面トップ)
もちろん、彼らが催眠術にかけられているというのではなく、「彼らのふるまいの数々の属性のうちのひとつ」が「契約」(金銭)によって発動されるような事態になっている。これは有名人を含め多くの人が「信念」というものを失っている時代だからこそ成り立つ「取引」なのだった。
普段はその有名人たちはみなめいめい勝手に好きなことを言ったり行ったりしているが、時々、「指令」が飛んでくる。すると彼らはビジネスとして「彼らの要請通りに発言する」。その代わりメディアで「〇〇はこう言った系」の記事を定期的に投下してもらい、それが記事集約サイトの管理者と連携して、共感・反感問わず、人々の関心(人気)を維持させる動きをする。
すべてが壮大な茶番だが、人々は「簡単に感情に溺れる」(ルシファーに陥落させられる)ので、胴元が作ったルールを是正する試みに関心が行くよりも、そのゲーム内でいかにチートするか(例えば、偏差値人選ゲーム突破のチート行為が塾通いであるように)、その技法探しに熱中する。
今日でも人は「お金とは何か」を学校で学ぶことはないし、労働者として、サラリーマンがもらっているものも公務員がもらっているのも等しく「労働の対価」だという「まやかし言葉」に疑問を持たないように「その嘴で地面に線を引かされたまま」だ。「時給」という考え方もそうだ。「労働時間」と金銭を交換していると思い込む(自動的にそのように連想するように「育てられてきた」)こと自体に「幻影」が入り込んでいるという気づきがやってこない。
マルクスは「賃金は労働の対価ではなく、生み出した商品の市場価値に対する対価だ」という真実を、自身の説く労働価値説で覆い隠して、「労働者たちがお金とは何かを考える機会」を隠蔽するのに大きな力を発揮した。見かけ上マルクスらの敵対者であるはずの資本家(企業体)側も、その「まやかし言葉」の上に乗っかって、「賃金」を支払っている。議会は「商法」「労働法」を作り、法律家が解釈する。官僚は日々「その思考線上に沿って、法案作成向けの下書き」をする。
その「思考方法」は「胴元がこさえたゲーム上のルール」から始まったのであって、胴元の主催するゲーム自体を破壊しない限り、胴元が勝つようにできてる。この200年の間に彼らは、そのもとのゲームをファインチューニングし続け、なおも人々に呪(しゅ)をかけ続けている。株式制度やら金融制度の世界的普及と均一化も近代以前の軍事的制圧とは別の手段によるアーリマン傘下の武器になった。あらゆる近代法体系が、「資本による(人間精神の)制圧」(脱精神化あるいは個々人の精神生活の漂白化)を容易にし、「彼ら」の目的に十分に仕えるためにファインチューニングされ続けて今日にいたる。「人間精神に干渉できる」という意味で、人類の闘争方法は野蛮力の行使から先へ進んで、「巷にあふれる言葉」こそ人類精神に対する最大の武器となったのだった。
戦後の日本人の精神的屈服も結局仕上げは原爆ではなく、その後に開始された一連の「言葉による制圧」(西洋式陰陽術)だった(似た事件は大化の改新時にも大規模に起きた)。学校では試験を課し、「彼らの欲する回答」に好成績で応じられる者たちが左右から選抜されて、同胞に対する監視官にされた。彼らはプロレスを延々とやり続けてきた。東アジアの三民族が「彼ら」に同じ目に合わされているが、まさに優秀ゆえに同胞の監視官にされた者たち自身には皆その自覚はない。ただ大衆から抜きんでているという自覚、その自尊心が「自分はほんとうは同胞たちの監視者であり実際には敵対者として振る舞っている」という自己洞察を阻んでしまう。あとは「彼ら」が、ぽんと背中を押すだけで、自ら分断統治という、戦前から準備され、戦後に眼に見えるものにされた東アジア統治の仕組みを率先してファインチューニングしてくれる「利口で便利な自動思考人形」として利己心を燃料にして生きる。それは霊界vs物質界の比喩としての「マトリックス」的世界というよりも、この物質界で起こっている「トータルリコール」的世界だ(ただしコリン・ファレル版の)。
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などと、つぶやいてみたが、蒸し暑い時期なのに「唇寒し、初夏の空」である。
すこしだけ「嘆いて」から、近況を書こうと思ったら、やっぱり長くなってしまった。
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以下が今回の本題である。
前回、駐車場の天井にスズメバチがよく巣を作ってきた、という話をしたが、この駐車場は南側が内側で側溝になっていて、家の南面側の瓦屋根の傾斜から流れ落ちてくる雨水を集めて、敷地外のもっと大きい側溝に流れ込むようになっている。
痛みがひどく数年前に一度モルタルを練って修繕したのだが、以後まったく関心を失っていた。今年、梅雨が始まる直前に、突然関心が沸き、チェックしたら、穴だらけだったことに愕然とした。
側溝の開いた穴から駐車場のコンクリートの下にたくさんの雨水が流れこんでいたのに、ほっておいたのだった。
それで、コンクリートのひび割れに使うチューブ式のひび割れ塞ぎ剤を買って応急処置をした。
修繕跡は動画で見れるが、実はブロック塀側ではなく、駐車場側の側溝部分がひどかったのだが、今回の動画では撮れていない。
修繕と言っても見た目相当にひどいが、大量の雨水が「変なところにもぐっていかない」ようになって、一安心である。
パイプの排出口が側溝にかかっているが、ももともはなかった部分で、今回付け加えた。もとは垂直に立った雨どいのパイプの口から、動画の最初に出てくる苔が映っているコンクリートの上を勢いよく雨水が流れ込む形になっていた。このコンクリート部分も大きくひび割れしていて、雨水の一部が流れ込んでいたのでふさいだ。
これまで何の関心もなかったくせに、四散せずにひとつにまとまった透明な水が水路をとうとうと流れていく様子を見ていると、不思議に「もっと眺めていたい」と思ってしまった。
それがスマホで動画を撮って残すことにした理由である。