"ルドルフ・シュタイナー"カテゴリーの記事一覧
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現在、人類はすでに21世紀に入って、その五分の一を通り過ぎたところだが、ルドルフ・シュタイナーが100年前に語っていた「人類の意識の変化」に関して「どのあたりに立っている」のだろうと、つい思ってしまう。
彼は『天使と人間』において「21世紀に入るまでに、人類が霊化の道をたどらないのなら、天使たちは、人間が、睡眠という形で定期的に身体から離れて回帰している霊界において(今日の時点においては大部分の人間が明確に思い出すことができないでいるが)、人類が実現すべき未来のヴィジョンを提示するという仕事をやめてしまう」という趣旨の発言をしている。
地上の状況によっては、人類の精神的発展の始まりは100年遅れてしまう場合もありうるし、最悪の場合は、天使の意図は実現されずに終わる場合もありうる、とも言っている(とはいえ、シュタイナーは別の個所で「天使の仕事が無駄に終わることはない。人類は最終的には道を見つける」というような趣旨の発言もしている)。
霊界において天使が人類に示す理想像は三つある。
天使のヴィジョンは人間の構成要素である、霊・魂・体の領域そのひとつひとつに対応している。
一つ目は体の世界、すなわち物質界に関係する。天使は人類は物質生活における友愛を目指すように諭している。平等ではなく友愛である。
二つ目は魂の世界、すなわち宗教感覚に関する提案である。人類個々人が宗教の自由を得ること。最終的にはキリスト教の教会さえ不要のものとすること。シュタイナーはキリスト教教会の消滅を例に挙げているが、もちろん仏教にしろイスラム教にしろ、何であれ宗教団体の組織安堵を目的としたような活動への情熱は、将来人類一般から消えていくという未来だ。
三つ目は霊の世界、すなわち精神の探求願望、個々人による霊学への接近である。アイ・ビリーヴ(信じたい)衝動ではなくアイ・ノウ(知りたい)衝動への接近である。
将来、このまま同じ作業を続けても、霊界で天使から教わったことを「人類は現実化できる可能性がない」と天使たちが判断してしまったら、天使たちは、これまでの仕事を中止して、人間が眠って霊界に滞在している間に、地上に残されたエーテル体に対して働きかけるようになり、そのことによって地上で生きる人類たちに有害な事態が出来するようになる、と語っている。
これまで天使たちは人類の意識魂、つまり「自己を観察・意識する魂」とともにある自我に働きかけてきたのだが、人類個々人の固有の霊に働きかけるのをやめ、人間の地上生活における外皮たる肉体を賦活しているエーテル体に、つまり本能的活動を担う部分に働きかけを開始するようになると語っている。
そうなると人類は、朝になるたんびに、「昨日までは知らなかったはずの知識」を携えて目を覚まし、そして、その「どこからやってきたのか由来の分からない知識」を「インスピレーションが来た!」と言って地上で使って応用し、結局、そのチート能力を駆使して人類の地上生活をまますます荒廃させるようになる、と語っている。
今回のような、「もし天使たちが本来の仕事を完遂できなかったら事案」としてではなかったが、かつて666年に、西アジアでアーリマンの弟子たるゴンディシャプールの学院の学者たちによって、「同じような事態」が地上に起ころうとしていた。しかしその時は、マホメットが地上に出現することによってイスラム教徒たちが、ゴンディシャプールの学者たちを追放し、「自動的に本能的な知識を得ることによって心理的精神的努力なしに生きる唯物論者としての人類」の出現を阻んだのだった。
もし天使が所期の計画をあきらめ、人間の魂ではなく、身体を支えているエーテル体に介入し始めたら、その時は三つのことが起こる、とシュタイナーは言う。
一つ目は「有害な医学知識」の獲得。天使がエーテル体に埋め込んだヴィジョンによって、人類は、薬に精通するようになり、医者たちはそれでもって意図的に病気を引き起こしたり、それを治したりするようになる。
二つ目は「優生学」である。人類は遺伝的な優位性の獲得を目指すようになり、「本能的に得た生殖の知識」を用いて、友愛の精神ではなく、「いかに優秀な子供を得るか」を追求する血統主義に傾く。また「道を踏み外した性行為」に熱中するようになる。そのような振る舞いをする人物は、最高に開明的で、かつ尊敬されるべき人物と見なされるようになる。これまで美しいとされていたことが醜いとされ、醜いとされていたことが美しいと言われるようになり、人類の半分が悪魔のような存在になる。
三つめは「律動学」。新しい動力源の発見と応用である。これまで人類は、車輪を回転させて乗り物を動かしたり、電力を得たりするのに化石燃料を燃やす必要があったが、火を使わないで、ただ振動の合成のみによって、巨大な動力を得て、機械を動かすようになる。つまり石炭、石油、ウラン、プルトニウム等の「地下資源」に頼る必要がなくなるが、人類はそれを利己的な目的に使用する。
人類が近代に失ってしまった願望、すなわち霊界回帰願望を思い出せないまま、物質界の霊化ではなく、「現在の唯物論的な思考態度」をさらに洗練させていくことに邁進するならば、意識魂が発展する機会は失われ、地上世界は荒廃する。
というような話が、『天使と人間』で語られていた。
有無を言わせぬ世界規模のワクチン接種強要問題やLGBT問題など、「フォースの暗黒面の帰依者たち」は、すでに個々の主権国家の自律的な決断を許さないような「政策」を、個々の政府が断行するように「超法規的な圧力」をかけてくる。1920年の国際連盟から始まり、戦後の国連による「国家の多数決主義」(賛同国家の多数派が正義であり、ターゲットにされた反対側は犯罪を犯した国家として、〈みんな〉で鉄槌を下してよいという見方)を世界の諸国民の「新しい常識」にしてしまうという入念な下準備の後、21世紀のこの4年間「恐怖街宣による諸国家のコントロール実験」が行われてしまったことを、我々はありありと見た。
明治維新時、つまり国連主義が地上世界に出現する以前の近代西洋の軍事常識は、「戦争は当事国同士が国際法にのっとって解決すべき事案であり、戦争当事国でない諸国家は調停等の提案が当事国からなされたときに介入する。また国家の戦争行為の是非は問わず、戦争は条約をもって終了とする。」
であった。だが国連主義(その実態は根回しによる同盟行為の簡略化であった)の登場によって、必ずしも軍事力を持たない勢力でも、さまざまな方法で(たとえば莫大な資金の提供などで)、自陣が有利になれるような方策を「国家間の多数決」という方法を駆使することで、以前の西洋世界の儀式的な軍事慣習にのっとるよりも簡単に行使できるようになった。20世紀以後の近代戦争においては、戦闘の前に、すでにリバーシゲームが終了していたのだ。
すでに日本は先の世界大戦で、1920年にウィルソンによって地上に出現させられた「その考え方」によって、世界の舞台で悪役として、首を締めあげられた経験を持つ。
これらのことは、天使に見放された人類にやってくる荒廃世界の、その前触れかと思ってしまいたくもなるが、本当のところはどうだろう。とはいえ、三つ目の「火を使わない動力」の問題は、いまだその兆しさえもネットニュース上の話題には上ってこない。
フリーメーソンがフランス革命を裏から操ったという話は、その界隈ではよく聞かれる話だが、自由、平等、友愛という理念は、もともと秘教由来の言葉で、「彼ら」はそれらを剽窃して、「わざと論争が紛糾するような曖昧な定義立ての概念として普及させた」という趣旨の話をシュタイナーはしていた。
シュタイナー自身は『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』において、「精神の自由」「法の下での平等」「経済における友愛」という表現で「彼ら」が「秘教由来の概念から意図的に脱落させた文言」を補っている。医学や性意識の領域において、「概念普及過程における意図的な混乱の醸成」は今日においても「彼らの戦術」であり続けているのだろう。
よき理念と抱き合わせに闇(不純物)を混ぜて広宣普及活動にいそしんできたのが、「彼ら」だった。
問題は、今日の地球全体を巻き込んだ広報技術とその管理体制によって「個人が真偽・善悪の判断をする力」を奪われて翻弄され続けている状況から、人類はいかに脱出するかということである。
『社会の未来』『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』は必読の書だが、残念なことにまだ文庫化されていない。是非文庫化(ちくま学芸文庫化)していただけないだろうか。
ふさわしい時期ではないときに出現する律動学の警告ではなく、一方で、シュタイナーは人類が正しい発展を遂げたときに地上世界に出現する「振動力の応用」について「この力は善人にしか扱えない。同じ機械を前にして、ある人(善人)の前では動き、別の人(悪人)の前では反応しない」とも語っている。特定の人物たちにしか扱えない機械とは奇妙な存在だ。現代では、属人的という言葉が否定的に使われるようになり、生産現場における「職人的技量」への依存を排除し、「人の経験に頼らない一般的生産システム」の構築こそ安定的で効率的な生産維持に求められている、などと語られる。
今日では電気現象の領域でテスラの名前が頻繁に取りざたされているが、シュタイナーは、未来の振動力学の先駆者として、ジョン・キリーの名前を挙げている。キリーは永久機関の探求者たちの話題で登場してくる人物で、今日的な評価では「ただの詐欺師だった」というレッテルが定着している。しかしシュタイナーは「そうではない。キリーは実際に機械を動かすことができたのだ。彼は人類一般に先んじて、すでに振動力を行使する能力を持っていたが、周囲の者は持っていなかったのだ、誰かがキリーの代わりに機械の前に立って、同じ動作をしても、機械は反応しなかったのだ」というような趣旨の話をしている(『神殿伝説と黄金伝説』『職業のカルマと未来』)
そのような世の中が出現するのは「正規のルート」をたどっても、まだずっと先の話、場合によっては、我々が地上に再来してくる1000年後の世界なのかもしれない。
とはいえ、「今の自分のペルソナ」、あるいは仏教的には「縁の構成体」「ルシファーの作品としての人格」(当ブログ「輪るピングドラムと神様」参照のこと)に個々人が自我の力によって影響力を行使して、細胞膜が細胞壁から剝がれるように、頑強な細胞壁を自分と見なし、一体化して生きてきた感情体験のプリセットモードからより自由で俯瞰的になり、ペルソナの隣に「新しい人間」(ルシファーによって堕天しなければ、そうなれたはずの天使候補生、再興された天界の第四ヒエラルキアに属する人間天使)を生もうと試みる行為(これを修行とも呼ぶ)は、今世の寿命が尽きるまで続けていくしかないのだよ。PR -
長い中断期間に入る前に掲げていた「あんずのお母さん登場回」とうとう実現できました。
いや、よかったです。
でも、関西弁のテンポというか調子は、ほぼAIにお任せだったので、かなりあやしいし、言い回しも大阪人ぽいのかどうか分かりません。
なんちゃって大阪弁ですが、関西人以外の方々は、そもそもツッコミどころが分かりにくいと思うので心配してませんが、本物の大阪人の方がいらっしゃったら、おかしなところがあっても、そこは笑ってスルーしておいてください。
でも、関西弁でしゃべくるというか、まくしたてると気持ちいいですねえ。
あと前回迷っていると書いていた「やまとくん」の扱いですけど、これはあんずの叔父さんに決めました。YouTubeといえば、ゆっくり解説系のAIボイスが一番有名だと思うんですが(VTuber系はほとんど見てないので感想がありません)、関西弁のAIボイスは貴重系だと思います。
絵の方はヘッドを別の衣装や身体に挿げ替えて使ってますが、ほんとは自分で絵が描けたら一番いいんですけどねえ。絵自体は好きでしたよ。小学校6年生のときは特に漫画作成に熱中しました。当時の参照漫画家さんは横山光輝だったですけど。あとシナリオとかも書きました。
シナリオに沿って漫画描こうって企てたことが小6のときにあったんですよ。そのシナリオを書き連ねた手帳が無くなりました。絶望していたら、近所の友達から面白かったと言って返してもらいました。話を聞くと、私の弟から回ってきたという話で、私に無断で隠れて読んで、それを外に持ち出し、それが私の遊び仲間みんなに回っていったらしいという話でした。で、続きを要求されたんですが、秘密の企てとして始めたことだったので、思いがけずバレてしまったことが自分には恥ずかしくて相当にショックだったので、その事件を境に漫画家はあきらめました。3か月くらい(たぶん)の夢でした。
私左利きなんですよ。でも小学校に上がる前に母に字を右手で書くように矯正されました。母親の奇妙さは、箸や絵筆はこれまで通り何にも言わなかったことでした。
それで小学校中学校と、字は右手で書き、図画工作とか美術とかの時間には筆を左手で持って描いていました。
高校に上がると音楽を選択したので、それ以来、左手で絵を描くことがなくなりました(高校卒業したら絵を描く機会なんて普通は来ない人が多いでしょう、利き腕にかかわらず)。なので、動画を編集するときにも、マウスはそもそも右手用にできていますから、修正のための線入れやら色付けも右手でやってるわけです。そもそもギターとかも右利き用でしたし。ポール・マッカートニーとかジミヘンみたいに強引に左利きモードでチャンレンジすることはありませんでした。
最近では、ペンタブは安く出回ってるようですから、手に入れたいとは思うんですが、そのときは左手でまた描き始めたいと思っているので、そんなことができるのかまだ十分に情報を吟味していないので、左手OKであるならば、タブレットを購入したいと思ってます。 -
YouTubeの抹茶ラテのホーム画像を更新しました。
これはかつて当ブログで、「関西弁でしゃべるあんずのお母さん登場構想」を書いたことをちょっとだけ前進させた結果です。
かつては五人のキャラクターでやってましたが、最終的には「七人にしようかなあ」と思っていたので、ようやく一部「目に見える化」できました。
「七人化計画」を思いつかせた原因は、私が利用しているAI Talk3には関西弁バージョンがあったことです。AI Talk3には、これまでの動画作成では、まだ使っていなかった関西弁イントネーションの女声と男声が一人ずつあるんです。
せっかく持ってるんだから、なんとか活用したいと思ってました。それと「名探偵コナン」に出てくる、ネットでは「せやかて工藤」で有名な服部平次とそのおかんのキャラ立てが妙に印象深くて、「ああゆう感じ出せたらいいのになあ」と思いながら、過ごしてました。
ただ、すでにブログのバナーの中にもスーツ姿のお兄さんが出てますが、これを抹茶ラテの同僚にすべきか、あんずのおかんの弟にするか、まだ迷ってます。
還暦過ぎた、いい歳こいたおっさんが、こういうことを「あれはどう、これはどうかな?」と空想しながら、「目に見える化」に苦闘してるなんて、30歳のころの自分に予想できただろうか、と思うと自分が今やってることが不思議でなりませんよ。
でも、こういうチャレンジ目標が目の前に現われたので、YouTube投稿を続ける気持ちが消えなかったんだと思います。もし、ただ単に、シュタイナー本の解説話だけを淡々とやるだけだったら、自分にとってきっと退屈で、おそらく早々にYouTubeから撤退してしまったんじゃないかと思います。
まだ20代の後半だったころ、世の中では女子たちが老いも若きも皆、なにかと言えば「カワイイ」を連発していて、エンピツ見てカワイイ、ご老人を見てカワイイと言う。
「カワイイって何、なんでアレがカワイイの?」と不思議でならず、たまたま女子社員と車で仕事場に移動する最中に、隣に座っていたその彼女に「カワイイってどういう意味なの? オレ美人なら分かるし、区別できるけど、カワイイの基準が分からねえ」と言うと、「えーっとですねえ、胸がキュンとなることですよ」と答えました。でもそのときはやはり「?マーク」をつけたまま公道を走っているオレだったですよ。
清少納言が「小さきものはみなうつくし(かわいらしい)」と言った気持ちも今はよくわかるようになりました。というか「翁化(=老人化)」すると、みなそんなふうになってゆくもんなんでしょうかねえ?ところで、今使っているブログのバナー部分は、ブラウザのズームによって、見え方が変化してしまいます。もともとそういう仕様のものなので、知識のない自分には、ズームに応じて、ページ全体が均等に拡大縮小する「普通のページ構成」にすることができませんでした。
しかし、しばらくはこの状態で維持していこうと思ってます。
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ようやくYouTube投稿再開しました。
1年間何をしていたのかというと、病院通いです。
まあ、それも一応落ち着いたので、「やる気スイッチ」が入りました(といっても気紛れスイッチなので、いつまで続くか分かりませんが)。
再開後第一弾
第二弾
しかしシュタイナーコンテンツって、他のシュタイナー投稿者さんたちの動画同様、ほんと人気がないですよねえ、大量に翻訳書籍が出ていて、今なお新刊が出版され続けているのに、です。
100年前、シュタイナーはヨーロッパにおける人智学の受容状況を以下のように語ってましたけど(『歴史兆候学』)、それはきっと現代でも「世界的に同じ状況」なんだと思います。
----------人々が人智学を知ろうとしますと、一定の要求がその人々に課せられますが、そういう努力はそれほど容易ではないのです。現在は、精神の変革を叫ぶ扇動家たちがいます。彼らが言うには、人々はただ寝椅子に横になって、楽にしていればいいのです。
そうすれば、高次の自我と神が、あるいは何かそういったものが、人間の中で活発に働くのです。人智学のような難解な諸概念に悩まされる必要などないのです。ただ自分自身の声に耳を傾けて、自由に生きれば、この高次の神秘的な自我が現れて、人々は自分の中に神を感得するというのです。
私の知り合った政治家たちも、人智学に耳を傾けるよりも、もっと楽な仕方で自我を求めなさいと教える神の説教者たちの言うことのほうを好んでいます。最近もある友人が私に語ってくれたのですが、こういう神の説教者のひとりが彼に、そのときはまだその説教者の信者だったのですが、こう言ったというのです。「ああ、私がどんなに愚かであるか、あなたにはとても想像がつかないでしょう」。
それにもかかわらず、「私がどんなに愚かであるか」と告白して、叡智の根源に到るのに賢さなど必要ないことを示すこの説教者は、上にも下にも、いたるところに多くの聴衆を見出しています。
実際、わざわざ難しいことをあれこれと語って、人々に意識魂の課題を知らせようとする者たちよりも、こういう人物たちの話し方のほうが人気があるのです。意識魂の立場で語ろうとする者たちは、四度にわたる進化過程について語るだけでなく、人々が互いに熱を与え合うべきこと、互いに色付け合うべきこと、互いに呼吸し合い、互いに消化し合うべきことを語ります。
こういう事柄を述べるには、一連の書物を読むことが必要になります。それはまったく楽なことではありません。しかし、それを難しいと感じることは、私たちの破局的な時代の諸衝動と無関係ではありません。それは私たちの不幸と結びついているのです。(P144-P145)
近代科学の教育を受け、思考を外なる感性界に従わせようとする人は、自由の哲学に到ることができません。私たちの時代の悲劇は、人々が自分の思考を外なる感性界に従わせるように、と大学で教育されていることです。(P154)----------「笑は174秒寿命を延ばす」というキャッチフレーズの映画がありましたけど、一日一回は笑う瞬間が欲しいですよねえ。この1年間は病院通いだったと言いましたが、最初に健康に不安を感じて、検査してもらいにいった病院には、以下のような言葉が壁に張ってありました。
一笑百寿
一怒百老
アストラル体をすこやかに保つ秘訣ですよねえ。
自分で絵を描かずにフリーの素材を加工して動画を作成してますけど、一応Moho Pro12とかPoser12とか持ってるんですけど、「今日もまた始められなかったソフト」の仲間のままです。
結局、今回は、Windows10のペイントを使って、あんずのクチパク画像を数枚作り、それをGIFにして、さらにそれを録画して、動画に加えました。ちっとだけ進歩してうれしいですよ。
でもそんなことをしなくても、AviUtlの作業場に直接画像を並べていけば作れたんですよね。キャラのアニメーション化については、いろいろ研究してみたいと思ってます。
アニメ「ヒナまつり」に登場する「ごはん」という「名台詞」を引用させていただきました。 -
さて、次は、近代英語の口語訳旧約聖書に登場する有名な神との対話の話から始める。
旧約聖書には、モーセがシナイ山で「あなたは何という名の神ですか」と尋ねると「I am who(that) I am」とその神は答えた、書いてある。
I am who I amという言葉を、たとえばGpogle翻訳にかけてみると、至極シンプルな訳語が現れる。それは現代日本語訳聖書に 出ているような「分かりにくく大仰な表現」(というか、おかしな日本語)ではなく、誰にでも了解できる表現だ。
Google翻訳は、「私は私だ」と訳している。
本来のヘブライ語(母音添付版)表記はどうなっているだろう。ネット上で検索すると以下の表記が代表例として出てくる。
Ehyeh asher ehyeh.
ルドルフ・シュタイナーの『悪の秘儀』邦訳版には
Ehjeh asher ehieh.
と出ているが、誤記だろうか。
「I am who I am ヘブライ語」で検索をかけると、「Ehyeh asher ehyeh」に対応する英単語は「am who am」で、主語の「I」が省略されている。英語ではそれを補って「I am who I am」と表現している、などと説明を試みている。(参考)けれども結局、日本のキリスト教関係者たちは、ヘブライ語を英語化するときに使われた理屈と経緯をもとに説明をしているので、「あれもあり、これもあり」で、最後まで読むと何か煙に巻かれたような、言いくるめられたような気分になる。さらに検索を進めて、他の記事を読んでも、結局、「言いくるめようとしている」としか感じられなくなる。
ルドルフ・シュタイナーは『美しい生活』で
古代ユダヤには「ヤハウェ」という言葉がありました。この言葉は「私」と同じ意味です。(P167)
と語っている。しかも「私=ヤハウェ」という言葉は「準備のできた祭祀しか声に出して語ることができない言葉だった」とも語っている。
そういう「前提」があるなら、旧約聖書の該当箇所に「I」抜きの表記がなされていたことも一応の納得はいく。
I am who i amという言葉は、最終的に新約聖書のパウロの言葉「私の中のキリスト」に接続すると考えないと「大団円」しない。小文字の〈i〉のなかに現れる、大文字の〈I〉である。
I am who i amのwhoのニュアンスをwhrereと置き換えて読み直してみるならば、「I am where i am=私は私が存在する場所にいる」になる。
ヤハウェ=キリストであるならば、「ヤハウェ=キリストは〈私〉が存在する場所にいる」となる。
そもそも名前を問われて「名詞」で応えていない点で、「この文章は通常のルールから逸脱している」と感じるのが普通だろう、「何か裏がありそうだ」と。けれども学者たちが苦闘したのは、その「裏側の何か」を探求することではなく、「どのように他の言語に表記変えするか」ということだけだった。そして奇妙な訳をして、「そのまま受け取って使いなさい」と言ったのだった。
福音書には、イエスが「崩壊した神殿を三日で再建できる」という言葉を周りのユダヤ人たちが「文字通り」に受け取るシーンが出てくる。けれども読者は「ああ神殿とはイエス自身の肉体のことだったのか」と理解できるような書き方になっていることが、後になって読者自身によって理解できる構成になっている。聖書には「発言者の本意」と「受け取り手」の解釈が、ズレてしまう個所が頻繁に出てくる。今日でも「受け取り手」は「通俗側」に寄り、ある表現を読んで、すぐに唯物論者的な感性で「連想解釈する自分」に疑いを持たずに生きている。
古くは「Frankie goes to hollywood」、最近では「Kiss my foot2」などなど、「文章全体を名詞扱いにして名前の代わりとする」などという例は近年やっと人類の間に出現した「名付け方法」だ。古くからの慣例、本来の名づけ方から言えば西洋であれ東洋であれ「異端的なやり方」だった。
「町に行って〈I AM〉と言いなさい」ではなく、「町に行って〈I〉という方がいらっしゃる、と言いなさい」と解釈した方が、そのもやもやがすっと解消する。
そして,その〈I〉とはのちにパウロによって〈キリスト〉と〈宣言〉されたのである。しかしその〈I〉in 〈me〉の本当の種明かしは、これから個々人に直接やってくる、というのがシュタイナーの語ったことである。
公教的キリスト教に「学術的」に(つまり研究技法における唯物論的手続きを用いて)接近する人々は、表現の裏に込められた秘教的な意図を無視せざるを得ないので、解釈が今日の唯物論的な説明に慣らされた人々に違和感を感じさせないような穏当な説明に終始するしかない。
記紀の神話は古代人の秘儀参入の過程を描いている、ということ知らない人々が、通俗的な解釈をする自分の「現代的な感覚」(試験でさんざん訓練されてきた通俗的文書の読解力)を疑うことを知らずに、自信たっぷりに百科事典的な解説をするのと同じである。「英語圏の学者たち」によって解釈された聖書をもとに日本人にキリスト教とは何かを説明する人々が日本でキリスト教の専門家を自認している。
「私は私。オレはオレ」ならば、日本人も、自分が一本筋を通そうとするときに、一度は口にしたことのある表現だろう。
日本語ならば、「私は私だ」は、言語感覚的にも文法的にまったく問題ない表現である。
しかし英文では文法的に、また「彼らの言語感覚」的に言って
I am IとかI have I.
とか言うのは奇妙に感じるので、関係代名詞を使って「自分たちが言語感覚的に受け入れられるようなもの」として「翻案」したのだ。
このシンプルな「私は私だ」という自己紹介文を、「日本人には解釈不能な翻訳文」にしたのが西洋人たちだった。
邦訳聖書版では、日本語の言語感覚通りに
「私は(あなたたちが)私(と呼んでいる者)だ」と訳すべきだ。
そして「私は〈我有り〉だ」とか「私は〈有りてあるもの〉だ」とか、およそ日本人一般の言語感覚としても「無理筋の翻案」を行って、信者たちに「そのような変な日本語」を平気で押し付けてきたのが、言語感覚においても西洋感覚追従主義の後方支援部隊として活動する「日本のキリスト教関係者たち」だったと、俯瞰的な視点を持つべきである。
前回書いた通り、通りで誰かに出会って「我(I)は海の子、して、我(you)はどこへ行く」と言っても相手に通じたのが彼我感覚の分離の弱かった古い時代の日本の田舎人だった。
キリストの影(反射光)たるヤハウェは、モーセに対して「自分は人類が一人称として使う(I)だ」と言っているのだ。
人類にとって「私」とは自分を意識するときに自分だけに向けて使う言葉である。しかしキリストは人類が「私」という言葉を感じ発するとき、同時にそれはキリストでもあると暗示したのだった。「私」を指して使われる言葉の対象がキリストだということがありえるだろうか。
キリストは「私は人類が自分を指してIというときのIなのだ」「私は人類のIなのだ」と宣言することで、つまり人類の自我の中心になることで、はるかな古代に開始された輪廻転生体験がもっと普通の人々にも有効に働くようになるように、つまり「修行に耐える素質のない弱き霊魂たち」にも価値ある体験になるように、人類の体の中に降臨して、人となり、人の苦しみを経験し、死を体験することで「ルシファーに汚染されていない体」「それでもって天界へ帰還できる朽ちない体」「天使の体」を人類に手渡せるように新生させるため、そのような道行になる未来を、あらかじめモーセの前で告げたのだった。
最終的にモーセは何の神に祈りを捧げたのだろう。旧約聖書にははっきりと書かれていない。けれども、不思議なことに日本人である大貫妙子が「アヴァンチュリエール」という歌の中で、答を出している。なぜそんな歌詞を思いついたのか謎ではあるが。
太陽の神に祈りを捧げる
その時海は二つに割れ
逃れる人々の道をつくる
物質界の人間生活では「あの人は仮面をかぶっている」と言われたりするが、霊界と物質界の関係で見れば、「あの人は仮面をかぶっている」と誰かを非難している自分自身が「霊が物質界でかぶっている仮面」、つまり地上という舞台の〈自己表現体〉なのだ。
英語のパーソンやパーソナリティと、ラテン語のペルソナは語源が同じである。ペルソナは仮面を意味する言葉で、もともと仮面を意味していた言葉が英語ではパーソン(人)パーソナリティ(人格あるいは人物像)というように変容して使われるようになった。
本来パーソン(ペルソナ)とは「人間の霊が地上でつける仮面(構成体)」のことだったのだ。本来この言葉は輪廻転生思想と関連付けて考えなければ了解できない「古代感覚に由来する言葉」だった。
仮面は舞台演者たちが、そのつど取り換えて使うものである。仮面があるのなら、それをつけている「本体」が存在するはずだが、アトランティスの崩壊以降、ますます霊界体験を失っていく人類は、あたかも仮面が本人と融合癒着して一体化してしまったかのように「ひとつ」になり、ますます自分たちの由来を忘れ、指導者層が「科学的」というエクスキューズで「公的場面における唯物論的言動」を「公共社会における、遵守すべきプロトコル、正しい時代感覚の表出」としてしまった近代以降は、まったくそのことを忘れて生きてきたのだ。
長期に渡る死後の人間の霊界生活(それは神の一日たる千年にも及ぶ)が生まれ変わりの準備の時期、すなわち霊界の真夜中あたりに到ると、低次の自我、ペルソナの体験記憶を伴って霊界に戻った霊の「自覚力」、つまり「これは私だ」と感じる自我の力をだんだん失ってしまう。
人は「自分の思い出を持ちこたえること」ができない。それはちょうど誰もが地上界の体験で味わったことのある睡魔同様に、強烈な眠気に襲われた人が、覚醒意識、自我感覚を保つことができなくなって、「生きてはいる」けれども、「自己感覚を喪失してしまう」ようにな状況と似ている。
生者の世界では、人は眠る、つまり肉体から離れ、「霊界へ一時帰還する」と、霊界では自己感覚を消失する。しかし秘儀参入者は肉体から離れても、つまり眠っても自己意識を失わない。
キリスト到来以前の世界では、人が新しいペルソナの原像を形成し始める「霊界の真夜中」まで「強い自覚を維持できる人」は稀だった。霊界で「自我を感じ取る力」は弱かったのだ。紀元前6世紀の仏教徒はそれを「自我の消滅」「無我の境地」と見なした。
しかしキリストが自我の模範を携えて地上に下り、地球の霊となった瞬間を境に、人類は地上の肉体の中にありながら意識を失わずに霊界に回帰し、死しては「霊界の真夜中」まで「正気でいる力」「霊界で持ちこたえられる力」を得る可能性を得たのだった。かつては秘儀参入者にしか可能性がなかった力を普通の人々が持つようになる時代を準備するために多くの神々(天使たち)がこれまで共同してきた。
何千年にも渡って、〈自分が本来何者であったのか〉を思い出せなくなっている仮面の主たちを、本来の天使候補者として正気に戻し、天上に連れ帰るために、キリストは地上の人のなかに現れたのだった。
今後、世界は、輪廻転生思想を再発見し、今後、ますます人の霊、人の自我とひとつになるようになる太陽霊の降臨の意味を理解し、受け入れるようになる、というのがシュタイナーの残した予言である。そしてその理解を容易にしてくれる働きを担って個々人に下るのがホーリー・ゴースト(聖霊)だとも言う。
本来聖霊とは死者に対して霊界のみで働く霊だった。聖霊の「聖」とは、「人間のような肉体における弱さを持たぬ霊」であるがゆえに、先頭に「聖」をつけて、そのように呼ばれるのだ。人類が単に救済にあずかるというだけではなく、聖霊の助けによって、人類にキリスト事件の顛末を理解してもらうためである。
「神あるいは宇宙人の人体降臨モチーフ」は戦後、特撮ドラマやアニメーションによって日本発で世界中に発信され続けているものだ。長い間西洋のキリスト教徒たちにとってポゼッションとは悪霊の憑依をイメージ喚起させるものだった。東洋人はよい憑きものと悪い憑きものがあることを知っている。しかも仏教の中にある権化思想は広く東洋の仏教圏諸国に行き渡っている。菩薩の降臨はポゼッション的だが太陽霊の降臨は確かに人体へのインカーネーションであった。
この新しいキリスト教理解は、むしろ仏教の訓育を受けたのち、近代になって自我感覚を強めてきた東洋人にこそ広く受け入れられる福音になるだろうと私自身は感じている。