"ルドルフ・シュタイナー"カテゴリーの記事一覧
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さて、次は、近代英語の口語訳旧約聖書に登場する有名な神との対話の話から始める。
旧約聖書には、モーセがシナイ山で「あなたは何という名の神ですか」と尋ねると「I am who(that) I am」とその神は答えた、書いてある。
I am who I amという言葉を、たとえばGpogle翻訳にかけてみると、至極シンプルな訳語が現れる。それは現代日本語訳聖書に 出ているような「分かりにくく大仰な表現」(というか、おかしな日本語)ではなく、誰にでも了解できる表現だ。
Google翻訳は、「私は私だ」と訳している。
本来のヘブライ語(母音添付版)表記はどうなっているだろう。ネット上で検索すると以下の表記が代表例として出てくる。
Ehyeh asher ehyeh.
ルドルフ・シュタイナーの『悪の秘儀』邦訳版には
Ehjeh asher ehieh.
と出ているが、誤記だろうか。
「I am who I am ヘブライ語」で検索をかけると、「Ehyeh asher ehyeh」に対応する英単語は「am who am」で、主語の「I」が省略されている。英語ではそれを補って「I am who I am」と表現している、などと説明を試みている。(参考)けれども結局、日本のキリスト教関係者たちは、ヘブライ語を英語化するときに使われた理屈と経緯をもとに説明をしているので、「あれもあり、これもあり」で、最後まで読むと何か煙に巻かれたような、言いくるめられたような気分になる。さらに検索を進めて、他の記事を読んでも、結局、「言いくるめようとしている」としか感じられなくなる。
ルドルフ・シュタイナーは『美しい生活』で
古代ユダヤには「ヤハウェ」という言葉がありました。この言葉は「私」と同じ意味です。(P167)
と語っている。しかも「私=ヤハウェ」という言葉は「準備のできた祭祀しか声に出して語ることができない言葉だった」とも語っている。
そういう「前提」があるなら、旧約聖書の該当箇所に「I」抜きの表記がなされていたことも一応の納得はいく。
I am who i amという言葉は、最終的に新約聖書のパウロの言葉「私の中のキリスト」に接続すると考えないと「大団円」しない。小文字の〈i〉のなかに現れる、大文字の〈I〉である。
I am who i amのwhoのニュアンスをwhrereと置き換えて読み直してみるならば、「I am where i am=私は私が存在する場所にいる」になる。
ヤハウェ=キリストであるならば、「ヤハウェ=キリストは〈私〉が存在する場所にいる」となる。
そもそも名前を問われて「名詞」で応えていない点で、「この文章は通常のルールから逸脱している」と感じるのが普通だろう、「何か裏がありそうだ」と。けれども学者たちが苦闘したのは、その「裏側の何か」を探求することではなく、「どのように他の言語に表記変えするか」ということだけだった。そして奇妙な訳をして、「そのまま受け取って使いなさい」と言ったのだった。
福音書には、イエスが「崩壊した神殿を三日で再建できる」という言葉を周りのユダヤ人たちが「文字通り」に受け取るシーンが出てくる。けれども読者は「ああ神殿とはイエス自身の肉体のことだったのか」と理解できるような書き方になっていることが、後になって読者自身によって理解できる構成になっている。聖書には「発言者の本意」と「受け取り手」の解釈が、ズレてしまう個所が頻繁に出てくる。今日でも「受け取り手」は「通俗側」に寄り、ある表現を読んで、すぐに唯物論者的な感性で「連想解釈する自分」に疑いを持たずに生きている。
古くは「Frankie goes to hollywood」、最近では「Kiss my foot2」などなど、「文章全体を名詞扱いにして名前の代わりとする」などという例は近年やっと人類の間に出現した「名付け方法」だ。古くからの慣例、本来の名づけ方から言えば西洋であれ東洋であれ「異端的なやり方」だった。
「町に行って〈I AM〉と言いなさい」ではなく、「町に行って〈I〉という方がいらっしゃる、と言いなさい」と解釈した方が、そのもやもやがすっと解消する。
そして,その〈I〉とはのちにパウロによって〈キリスト〉と〈宣言〉されたのである。しかしその〈I〉in 〈me〉の本当の種明かしは、これから個々人に直接やってくる、というのがシュタイナーの語ったことである。
公教的キリスト教に「学術的」に(つまり研究技法における唯物論的手続きを用いて)接近する人々は、表現の裏に込められた秘教的な意図を無視せざるを得ないので、解釈が今日の唯物論的な説明に慣らされた人々に違和感を感じさせないような穏当な説明に終始するしかない。
記紀の神話は古代人の秘儀参入の過程を描いている、ということ知らない人々が、通俗的な解釈をする自分の「現代的な感覚」(試験でさんざん訓練されてきた通俗的文書の読解力)を疑うことを知らずに、自信たっぷりに百科事典的な解説をするのと同じである。「英語圏の学者たち」によって解釈された聖書をもとに日本人にキリスト教とは何かを説明する人々が日本でキリスト教の専門家を自認している。
「私は私。オレはオレ」ならば、日本人も、自分が一本筋を通そうとするときに、一度は口にしたことのある表現だろう。
日本語ならば、「私は私だ」は、言語感覚的にも文法的にまったく問題ない表現である。
しかし英文では文法的に、また「彼らの言語感覚」的に言って
I am IとかI have I.
とか言うのは奇妙に感じるので、関係代名詞を使って「自分たちが言語感覚的に受け入れられるようなもの」として「翻案」したのだ。
このシンプルな「私は私だ」という自己紹介文を、「日本人には解釈不能な翻訳文」にしたのが西洋人たちだった。
邦訳聖書版では、日本語の言語感覚通りに
「私は(あなたたちが)私(と呼んでいる者)だ」と訳すべきだ。
そして「私は〈我有り〉だ」とか「私は〈有りてあるもの〉だ」とか、およそ日本人一般の言語感覚としても「無理筋の翻案」を行って、信者たちに「そのような変な日本語」を平気で押し付けてきたのが、言語感覚においても西洋感覚追従主義の後方支援部隊として活動する「日本のキリスト教関係者たち」だったと、俯瞰的な視点を持つべきである。
前回書いた通り、通りで誰かに出会って「我(I)は海の子、して、我(you)はどこへ行く」と言っても相手に通じたのが彼我感覚の分離の弱かった古い時代の日本の田舎人だった。
キリストの影(反射光)たるヤハウェは、モーセに対して「自分は人類が一人称として使う(I)だ」と言っているのだ。
人類にとって「私」とは自分を意識するときに自分だけに向けて使う言葉である。しかしキリストは人類が「私」という言葉を感じ発するとき、同時にそれはキリストでもあると暗示したのだった。「私」を指して使われる言葉の対象がキリストだということがありえるだろうか。
キリストは「私は人類が自分を指してIというときのIなのだ」「私は人類のIなのだ」と宣言することで、つまり人類の自我の中心になることで、はるかな古代に開始された輪廻転生体験がもっと普通の人々にも有効に働くようになるように、つまり「修行に耐える素質のない弱き霊魂たち」にも価値ある体験になるように、人類の体の中に降臨して、人となり、人の苦しみを経験し、死を体験することで「ルシファーに汚染されていない体」「それでもって天界へ帰還できる朽ちない体」「天使の体」を人類に手渡せるように新生させるため、そのような道行になる未来を、あらかじめモーセの前で告げたのだった。
最終的にモーセは何の神に祈りを捧げたのだろう。旧約聖書にははっきりと書かれていない。けれども、不思議なことに日本人である大貫妙子が「アヴァンチュリエール」という歌の中で、答を出している。なぜそんな歌詞を思いついたのか謎ではあるが。
太陽の神に祈りを捧げる
その時海は二つに割れ
逃れる人々の道をつくる
物質界の人間生活では「あの人は仮面をかぶっている」と言われたりするが、霊界と物質界の関係で見れば、「あの人は仮面をかぶっている」と誰かを非難している自分自身が「霊が物質界でかぶっている仮面」、つまり地上という舞台の〈自己表現体〉なのだ。
英語のパーソンやパーソナリティと、ラテン語のペルソナは語源が同じである。ペルソナは仮面を意味する言葉で、もともと仮面を意味していた言葉が英語ではパーソン(人)パーソナリティ(人格あるいは人物像)というように変容して使われるようになった。
本来パーソン(ペルソナ)とは「人間の霊が地上でつける仮面(構成体)」のことだったのだ。本来この言葉は輪廻転生思想と関連付けて考えなければ了解できない「古代感覚に由来する言葉」だった。
仮面は舞台演者たちが、そのつど取り換えて使うものである。仮面があるのなら、それをつけている「本体」が存在するはずだが、アトランティスの崩壊以降、ますます霊界体験を失っていく人類は、あたかも仮面が本人と融合癒着して一体化してしまったかのように「ひとつ」になり、ますます自分たちの由来を忘れ、指導者層が「科学的」というエクスキューズで「公的場面における唯物論的言動」を「公共社会における、遵守すべきプロトコル、正しい時代感覚の表出」としてしまった近代以降は、まったくそのことを忘れて生きてきたのだ。
長期に渡る死後の人間の霊界生活(それは神の一日たる千年にも及ぶ)が生まれ変わりの準備の時期、すなわち霊界の真夜中あたりに到ると、低次の自我、ペルソナの体験記憶を伴って霊界に戻った霊の「自覚力」、つまり「これは私だ」と感じる自我の力をだんだん失ってしまう。
人は「自分の思い出を持ちこたえること」ができない。それはちょうど誰もが地上界の体験で味わったことのある睡魔同様に、強烈な眠気に襲われた人が、覚醒意識、自我感覚を保つことができなくなって、「生きてはいる」けれども、「自己感覚を喪失してしまう」ようにな状況と似ている。
生者の世界では、人は眠る、つまり肉体から離れ、「霊界へ一時帰還する」と、霊界では自己感覚を消失する。しかし秘儀参入者は肉体から離れても、つまり眠っても自己意識を失わない。
キリスト到来以前の世界では、人が新しいペルソナの原像を形成し始める「霊界の真夜中」まで「強い自覚を維持できる人」は稀だった。霊界で「自我を感じ取る力」は弱かったのだ。紀元前6世紀の仏教徒はそれを「自我の消滅」「無我の境地」と見なした。
しかしキリストが自我の模範を携えて地上に下り、地球の霊となった瞬間を境に、人類は地上の肉体の中にありながら意識を失わずに霊界に回帰し、死しては「霊界の真夜中」まで「正気でいる力」「霊界で持ちこたえられる力」を得る可能性を得たのだった。かつては秘儀参入者にしか可能性がなかった力を普通の人々が持つようになる時代を準備するために多くの神々(天使たち)がこれまで共同してきた。
何千年にも渡って、〈自分が本来何者であったのか〉を思い出せなくなっている仮面の主たちを、本来の天使候補者として正気に戻し、天上に連れ帰るために、キリストは地上の人のなかに現れたのだった。
今後、世界は、輪廻転生思想を再発見し、今後、ますます人の霊、人の自我とひとつになるようになる太陽霊の降臨の意味を理解し、受け入れるようになる、というのがシュタイナーの残した予言である。そしてその理解を容易にしてくれる働きを担って個々人に下るのがホーリー・ゴースト(聖霊)だとも言う。
本来聖霊とは死者に対して霊界のみで働く霊だった。聖霊の「聖」とは、「人間のような肉体における弱さを持たぬ霊」であるがゆえに、先頭に「聖」をつけて、そのように呼ばれるのだ。人類が単に救済にあずかるというだけではなく、聖霊の助けによって、人類にキリスト事件の顛末を理解してもらうためである。
「神あるいは宇宙人の人体降臨モチーフ」は戦後、特撮ドラマやアニメーションによって日本発で世界中に発信され続けているものだ。長い間西洋のキリスト教徒たちにとってポゼッションとは悪霊の憑依をイメージ喚起させるものだった。東洋人はよい憑きものと悪い憑きものがあることを知っている。しかも仏教の中にある権化思想は広く東洋の仏教圏諸国に行き渡っている。菩薩の降臨はポゼッション的だが太陽霊の降臨は確かに人体へのインカーネーションであった。
この新しいキリスト教理解は、むしろ仏教の訓育を受けたのち、近代になって自我感覚を強めてきた東洋人にこそ広く受け入れられる福音になるだろうと私自身は感じている。PR -
最近、アマゾンプライムで『輪るピングドラム』というアニメを見たんですが(ペンギンで笑いを取ってくるところ好きですよ)、その一話目の冒頭の主人公の独白を聴いて、ふと沸き上がった反応をもとに以下、長文を連ねてみます。---------------------------------------------------------------------
「神様は不公平だと訴えるとき、人は自分の由来を意識していない。」
近代人は、たとえ「死んだら終わりじゃない」と漠然と考えるタイプの人間であっても、幼いころからすでに、「自分たちの日常生活の中に忍び込んでいる様々な通路」を通して、繰り返し繰り返し唯物論的な世界観に従うようにと強いられている。
近代において、そのようにして国民の精神生活の自由に介入してきた一番大きな力が、国家が法を盾に国民に「それに従うように」と強いてきた教育制度であった。そのような制度を通じて、いわば「精神に色づけを施された国民」が、今日のような社会体系を構築してきた。それが成り立ってきたのは、最終的には国民の側が「国家によって自分の精神が色付けされることはよきことだ」と思い、「その強制を受け入れた」からだった。「国家がタダで学をさずけてくださるんだ、いいことじゃねえか」という国民の合意が大規模に形成された結果だった。
そのような「体制」のもとで、国民の一部は、そのシステム維持のためのメンテナス要員、つまり官僚になったり、大学、マスコミ、広告会社に到るまで、言葉や映像イメージを操る産業に従事して「選別された特定の言葉遣いや、それに基づいた編集されたイメージの群れ」を再生産し続けている。
現在も続いている、国家が国民に「何をどのように考えるべきなのか」を強制するシステムは、もともと西洋において国民の人選システムとして設計されたものだった。近代以前の古い身分制社会を打破し、「支配層は何を尺度にして形成されるべきか」という近代的実験の結果が、今、われわれが眼の前で見せられているものである。
これまで何度も「私」が地上世界に伸ばしてきた肉体への絆は、この地球の歴史の時間軸の中でたった一本しかないと思うような感受性を、意識的にせよ、無意識的にせよ、長い時間をかけて醸成されてきたならば、人類は「今の私」への関心だけで、歓喜したり悲嘆にくれたり、死にたくなったりするしかないだろう。
特に戦後から今日まで、物質界とはまったく様相が異なった霊界から、まったく勝手の違う競争社会へ降りてきて、強力な模倣衝動、あるいは適応衝動によってペルソナを形成する時期の子供たちにとって世界は、〈愛しくて仕方がない自分のペルソナ〉を傷つけようとしてくる魔物のようなものとしてますます受け止められるようになってしまった。そして現代に至って、自分の運命は福引の回転するガラガラ(あるいはガチャ)から飛び出してきた玉のようなものだと見なしはじめている。
近代の始まりのとき、日本国民は「国家がタダで学をさずけてくださるんだ、いいことじゃねえか」「さあ、おれたちも出世ゲームに参加できる素敵な世の中がやってきた。息子よ、お前は末は博士か、大臣か、いったいどっちになるよ」と希望を膨らませて、新しい社会を受け入れたのではなかったか。だが、そのような希望の時代は、すでに峠をこえて、むしろ日本の子供たちは社会に参加すること自体を恐れるようになってしまった。
希望の掛け声は絶望の掛け声と「同じ言葉」だったことに、今の国民は愕然として気づいている。今となっては、自分のペルソナをそのような社会の不条理から守り抜きたいのに守り切れないという絶望感は、かつての日本の子供たちよりも強いだろう。
けれども、その場所にいる間に、この唯物論ベースで成り立った社会感覚とは異なった思考態度、「新しい世界の理解の仕方」と出会うことがなかったならば、その霊界由来の魂は、ますますこの「人選ゲーム世界」としか認識できなくなってしまった現代社会の空気のなかで、窒息状態になり、若くして老人のように硬化していくしかないだろう。
「将来、唯物論が克服されることがなかったら、子供は震えながら生まれてくるようになるだろう」(ルドルフ・シュタイナー)。
もし「死にたいと思っている今の私」の前の私、そして未来の私は、現在の私とはまったく違った気質や性格、性別、人種、国籍の所有者だろうと思うことができる時代に生きているなら、「嘆き方」も「異なったもの」になっていただろう。
そして神様に「私の苦境を救ってほしい」と願うとき、まだ輪廻転生やカルマの思想にとことん深く触れておらず、「瞑想の対象として徹底できていない人」は、とくに輪廻転生思想を他宗派的だと見なして受け入れようとしない近代西洋のキリスト教徒たちは、自分のペルソナを救ってほしいと祈っていることが分からない。
彼らや彼女らは「私のペルソナ」、つまり「ルシファーによって物質界にもたらされた構成体」を、それが求めるような魂的満足を得られる状況にしてほしいと祈っている。
現在、人類が「人間」と呼んでいるものは、正規の神々とルシファーとの合作品であり、ルシファーの不正な介入(それをキリスト教では堕罪と呼んでいる)によって物質界に出現させられてしまった〈特殊な構成体〉なのだという視点が欠けているからだ。
2000年前、多くの「聞く耳を持った人々」の前でキリストが「あなたがたなら私の言っていることが理解できるだろう」と判断することができたなら、「私は〈アナタが自分だと思っているもの〉を救いに来たのではない。ほかならぬ〈アナタによって妨げられてきたもの〉を育て上げ救い出すためにきたのだ」と告げたことだろう。
しかし当時、「今われわれが読むことができる福音書」に出てくる多くの人々の前で、実際にそう告げて回ったら、誤解され、
「えっ、私を救いに来たんじゃないのか。それなら、なんであんたを敬う必要がある。とっとと、どこかへ行ってしまえ」
と、そのようにあしらわれるのが関の山だったことだろう。
そして布教は福音書に記述されているものよりも更にもっと困難になったことだろう。実際には多くの奥義がその難解さゆえに少数の弟子たちの間のみで秘密にされ(これは福音書にも出ている話)、一般の人々には比喩で「人類の進むべき道」を分かりやすく語ろうと試みるということが「その時代の人類の理解力あるいは許容力に対しての限界」だった。
一方で、人生は一回きり。そういう世界観のなかで西洋人は「自己感覚」というものを鍛えてきた。けれども、キリスト教成立以前には西洋世界にもあった古代由来の輪廻思想は、完全に西洋人のマインドから目隠しされてしまう。
近代文明の中で生み出された西洋産のドラマや映画には、キリスト教徒を自認している人物が「こんなに祈ったのに助けてくれなかった。私は神を憎む。私は神を許さない」と「反対側へ飛ぶシーン」が頻繁に出てくるようになる(これは東洋的感性とは異なった、唯物論ベースのマインドで生きるようになった近代西洋人に頻発する心理反応だと思う)。
輪廻転生を繰り返すたびに霊(あるいは高次の自我)に紐づけされて地上に出現する〈ルシファー構成体〉、つまり、現在のところ人類個々によって「自分自身だ」と「感じられているもの」は、キリストによって救い出される、今のところ「天使の体を破壊されたまま、地上にほってかれている霊」の、その記憶のなかに生きることになる「生まれ変われないペルソナ」、そのたびに霊によって取り換えられてきたペルソナ(仮面)だった。
救済されるのは、例えば、ある時代の、ある人種民族国家に属しており、ある地方都市で暮らしている二児の父や母をやっていると思っているキリスト教徒たる自分(そのパーソナリティ)ではない。
物質界にパーソンとして何度も出現するようになったものは、その始まりにおいては、もともと神々の失敗作だった。しかし元天使候補生たちが失敗作になったのは、彼ら自身の責任と言うよりも、ルシファーが人間の魂に時期尚早に介入したためだ。神々は「その結果」をそのままほっておいてもよかった。神々は自分たちの課題だけを追求する選択もあったのだ。
けれども、今の人類は「汚染された箇所を持つ神々の失敗作」ではあっても、まさに「その汚染された状況」を「最初の素材」として、その悪しきものが、未来の良きものに変容するように、物質界における人類の認識の誤謬と錯誤の結果に対抗させようと、死や痛みや苦悩に遭遇するチャンスを与え、また輪廻転生を通じて繰り返し魂磨きをするようにと、初期の失敗を「補完する計画」を人類に与えたのだった。
けれども、キリスト到来以前においては、特別に素質に恵まれた強い霊魂以外、長期に渡る困難な修行を行って、霊界への帰還を完遂する(秘儀参入者となる)ことはできなかった。当時の人類にとって、釈迦のような修行の道は、誰もが歩み通せる道ではなかった。
人智学で言う自我感覚とは利己主義マインドのことではない。人の霊が「接触感覚(自我感覚)」を用いて「私」を感じるとき、「この身体に接し、この魂の中で喜怒哀楽しているのは私だ、という感覚」には差があるという話をしている。(自我感覚ではないが、白人は傷を負ったとき、痛みに弱いと言われることがあるのは、〈身体内部からやってくる音〉を他人種よりも強くグリップするからだろう。)
人間の身体の接触感覚性をマイクロフォンに例えるなら、西洋産マイクロフォンで音を拾うと、東洋産マイクロフォンよりも明瞭な音声を「高感度(強い入力レベル)で拾い上げる」ことができたという話である。
歴史的に、東洋人と西洋人の身体とでは、自分を個我として感じる力に「感度の差」が存在した。日本では戦後においても、田舎では特に、一人称と二人称の混同共用が起きていた。彼我感覚が分離していない状況があったが、それも21世紀の現代となっては方言感覚はますます弱まって、若い人たちは特に、かつての日本人よりも自己感覚が強まっている。
西洋近代の初め、大航海時代の機運に乗って西洋から日本にやってきた宣教師たちは、他の教えを邪教と見なし、キリスト教を最高の教えとして称揚していた。しかし、ある農民が「じゃあ、キリスト教徒でなかった死んだ私の先祖たちは救われるのか」と質問すると、宣教師たちは答に窮して黙り込んでしまう。
すでに何百年にも渡って、日本人は仏教由来の輪廻転生思想を日常生活のなかに受け入れて生きてきたが、当時の西洋人たちはそうではなかったのだ。
西洋社会においては、彼ら宣教師の時代には「これが私の先祖たちだ」とイメージできる範囲の人々は、すでにみんなキリスト教徒だったからだ。だから西洋のキリスト教徒は「今地上に生きている私のペルソナ」の救済だけにかまけ、「先祖の心配」をしないで済んだのだった。「私とは何か」についての関心を「前へ進めることができなかった」のだ。
戦国時代の日本の農民は、こう思う。
宣教師たちは「人間は生まれ変わらない。生前キリスト教徒だった者は、死後の世界でキリストに声をかけてもらうまで待機しているのだ」と主張している。そうなのか、キリスト教では先祖を救えない。先祖を救えない舶来の教えは、我々の知っている、もう一つの愛と慈悲を説く教え、仏教よりも劣る。
当時の日本の農民たちの多くが「キリスト教は自己中心的な了見の狭い教えだ」と感じたに違いない。
すでに愛と慈悲を説く仏教思想によって十分、魂の訓育を受けてきた日本の人々にとって「キリスト教」は自分たちの知っている愛と慈悲の教えよりも劣るものと見なされたのだった。
次回へ続く -
前回の記事内に以下のような個所があった。
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マトリックスのサイファーが戻りたかった場所のことも連想つながりで思い出す。つまり「幸福な生活を感じさせてくれるイミテーション界」への回帰願望のことだが、アーリマンも着々とそういう「イミテーション界」とでも呼ぶべき「地球の楽園」を作ろうと鋭意画策中なんだろう。
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シュタイナーによれば、アーリマンたちが人類の前進を阻もうとしているのは、「人間は霊である」「人類はかつて天使の第四ヒエラルキア(現時点では第四ヒエラルキアが天界から消失し、第三ヒエラルキアまでしか成立していない特殊状況が続いている)に属するリクルート(候補生)だったのだ」という認識であり、一方で推進しようとしているのは「物質界の快適な経験を永遠のものにすることが人類が追求すべき理想だ」と吹き込むことである。
彼らが広宣するのは、「あなたは、今のあなた、今の自己感覚のまま、機械(電気現象)の中の永遠をめざせ」というアジテーションである。
「イミテーション界」という言葉はシュタイナー用語ではなく、私の造語である。
実は、前回、記事を書いたときに、『シュタイナー用語辞典』において、西川隆範氏がまとめていた関連個所のいくつかも思い出していたので、参照先として、以下、紹介しておこう。
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1850年以来、アーリマンによって、機械の世界が地球の超地質層として形成される危険がある。(P19)
1850年以後、アーリマンの作用によって機械世界が地表の層を形成する危険があり、合目的性の追及・官僚主義・技術にアーリマン的傾向が存在する。(P89)
アメリカでは、アーリマン的な技術によって人間を身体(および身体から発する霊性)に縛り付け、イエズス会に支えられて、キリスト認識を不可能にしようとする。(P32)---------------------
シュタイナー本人が存命中の時代は、蒸気機関全盛時代であり、さら晩年には石油の大規模利用の開始、初歩的な電気技術の普及の時代だったが、シュタイナーの言う「超地質層」というのは、当時の人類には「そのあり方」を空想することさえできなかった電気技術を土台にしたネット空間、いわば「疑似霊界」の出現をも意味している思う。この見立てについてはYouTubeの抹茶ラテの秘教学徒内においても言及した。「電気は蒸気機関よりも魔的な技術である」というのがシュタイナーの見立てであった。
「身体から発する霊性」とは、「地上の物質的身体感覚を土台にした精神活動」と言い換えてみる。日本語の「霊」(幽霊という意味の霊ではない)も「精神」も、ドイツ語ではガイストである。アーリマンの仕事は人類の霊界認識を妨害することなので、シュタイナー的観点に立って地上で継起していく現象を観察すれば、人類がその便利さゆえにありがたがっている近代の機械的電気的技術によって地上に出現した世界は「真の霊界(精神界)」をベールで覆い隠すというアーリマン勢力の行っている仕事の延長線上にあると、言うこともできそうだ。
映画「マトリックス」には、実は聖書や神話からの引用がたくさんあるにしても、それは近代人が行っている唯物論的解釈に立ったそれであった。
「マトリックス」は「荒廃した物質界で〈本来の物質的身体〉のなかで覚醒して生き延びようとする人類」が「機械の中で電極につながれて夢を見ている人類」を助け出そうとする〈だけ〉の物語である。そして結局仕事は完遂されてないまま終わる。
サイファーは二者択一を迫られて、イミテーション界に戻る決断をする。機械から解放されて生身の身体のなかで覚醒しても、太陽の見えない荒廃した地上で生きるしかないとすれば、「自分が今理解できる範囲の、今空想できる幸福観」を満たしてくれる世界を選ぶというサイファーの選択は、その他大勢の、唯物論の中で生きる人類の選びそうな一般的解だと思われる。
宮台真司の娘が「マトリックス」を見て、サイファーの選択の感想を求められたとき、「なんでそれがいけないの」と答えたというエピソードはその象徴的な出来事だ(YouTube参照)。
この映画には「霊界」(物質的身体から抜け出なければ行きつけない領域)が出てこないのである。電脳空間とは言っても、それは地上にちゃんと〈物質的身体〉が存在していることが大前提となっている。
生身の身体のなかで覚醒している少数の人間たちは、地上を荒廃しきった地獄同然の世界と見なしている。彼らは機械の世界を滅ぼせるとはもはや思っていない。そして映画の登場人物たちにも映画を見ている観客にも、伝統的な宗教がずっと人類に主張しつづけてきた「人類が本来生きていたはずの場所」あるいは「人類が動物の身体と結びつく以前にいた世界への回帰」に関しては、まったく暗示さえされていないのである。
そしてさらに空想的な「攻殻機動隊」においては〈人類が物質的身体から抜け出して行きつく世界〉が「ある」と暗示して終わる。「ネットの世界は広大ね」という草薙素子の言葉とともに。「ゴーストが鉱物的=物質的機械を土台とした電気のネットワーク現象のなかで生きることができる」という暗示である。こういう発想自体は近代に出現した唯物論的思考の成果である。ただ攻殻機動隊においては、「ゴースト」というのは「あいまいな概念」として物語上で利用されているので、制作側からも、それが何なのかについては明確な言及がない。
近代英語ではゴーストとは幽霊のことになっている。ところが、勝海舟の『海舟座談』に登場する米国における教会体験として「ホーリー・ゴースト、ホーリー・ゴーストで固めて祈ってるよ」というのが出てくる。この逸話に登場するゴーストは「幽霊」を指すのだろうか。
以下『海舟座談』から引用
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アー、西洋では、いつも礼賛堂(教会)へ行ったよ。大層、褒められたよ。世話をしてくれた親仁(おやじ)が極く熱心だったから、その息子などと一処に行くとネ、ホーリー、ゴースト、ホーリー、ゴーストで固めて祈ってるよ。息子が、親仁の祈っているのを指さして、オレの顔を見て笑うのサ。(P96)
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今でもドイツ語では、日本語で言う「(幽霊という意味ではない)霊」も「精神」もガイストである。実は英語でも近代以前は、ゴーストは、「霊」あるいは「精神」を指して使われていたのだ。英語のゴーストとドイツ語のガイストは、口に出して発音してみると、もともと同じ語源から生まれたものであることが分かる。
古い時代の英語圏の伝統的聖書(ジェームズ王の欽定聖書)では、ホーリー・ゴーストとは聖霊を指す言葉であり、かつてはジェームズ王の聖書にもとづいて民衆がホーリー・ゴーストと呼んでいた対象(聖霊)を、近代口語英訳の聖書ではホーリー・スピリットと差し替えて用いるようになったのだ。
そして英語圏の聖職者(その権威筋の認定を受けたキリスト教布教の権威者である人々)が「ゴーストもスピリットも同じです」などと解説をして一般信者の疑問に回答している。
聖霊をホーリー・ゴーストと呼んでいたジェームズ王の聖書時代の英語民だったら、アーサー・ケストラーの「ザ・ゴースト・イン・ザ・マシーン」は「機械の中の幽霊」ではなく「機械の中の霊(精神)」と解釈しただろう。
アニメ映画「攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL」という映画では、さらにゴーストの意味をツイストさせて、「機械の中に宿った霊あるいは自我のようなものがネットの海に溶融する」という暗示を行って終わるのである。これだと無我論の伝統に沿った小乗仏教的「涅槃に入る」の唯物論的翻案である。
近代日本に生きる人々が「霊」という言葉を聞くとまず最初に連想する「対応イメージ」が、人をおどかすところの「幽霊」になってしまったように、イギリスの一般民衆も、そして世界に散った英語圏民も「ゴースト」と聞くと「幽霊」をまず「最初に連想する」ようになったのである。この現象は近代に唯物論が人類の精神を広範囲に侵すようになった副産物でもある。
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英米の結社は人類に「霊は高次の自然にすぎない」と思い込ませる。『シュタイナー用語辞典』(P165)
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これは9世紀にカトリック教会が「人間は霊と魂と体からなる」という古代キリスト教にあった見立てを否定して「人間は魂と体からなる」というのを正解としたという故事と連動している。カトリック教会は「人間個人は霊を持たない。霊(精神)の部分は教会が受け持つ」と公布して、地上から「霊の真相」を隠したのだ。そして近代の西洋のキリスト教徒たちは霊と魂の区別がもはやつかなくなったまま、教会に通うようになった。
将来において、民衆が「霊」という言葉を聞くと人をおどかす「幽霊」を連想するようになる下地(つまり唯物論的感性)をカトリックが用意したからである。
君子(士大夫たる貴族)は心(精神)を労し、小人(被統治民)は体を労す。(古代中国)
霊(精神)はカトリック教会が担い、人間は魂と体を担う。(カトリック)
共産党は人民の頭脳であり、人民はその体である。(共産党)
これらはすべて、時代や地域は異なれど、被支配民は「精神(霊)」を所有するべきではない、という遠回しな警告であり、貴族統治主義の変奏曲である。そして冷戦後は、民主主義の皮をかぶった官僚統治主義として、資本主義を謳う先進諸国家内においても新手の貴族統治主義思想が「主旋律」に「新しい編曲」を施されて展開中である。
特に聖書は、近代において典型的な通俗的読解娯楽本にされてしまったが、聖書も含め、近代以前に成立していた神話や寓話あるいは童話を、近代人的感覚で受け取って「表現が残虐でけしからん。子供の教育に悪い」とか「ハッピーエンドに改変しろ」などと突っ込みを入れたり、「聖書予言的中、生き残れるか、人類」などと面白がっている感性は、唯物論的に地上世界を感じる以外にできなくなった近代市民一般の「俗物性」「通俗性」の反映でもある。寓話としてのウルトラマンにもそのような「市民に迷惑をかけるウルトラン」という神経質症的突っ込みが「オトナの感性側」から出現し、童話として無意識に子供なかに侵入している霊的な真理をともなうファンタジー部分の意味を見過ごしてしまう。
古代人は神話や聖書や童話に対して、今とは別様の受け止め方をしていたということが、まず前提として近代の知的に奢った一般市民に共有されていなので(彼らの中には敬虔なキリスト教徒を自認している者が大勢いる)、たとえば日本においては、偏差値70の現代文読解力を駆使して「古代の文献の翻訳書籍」が解釈できると思っている。
だが高等数学の教科書も一種の書籍だが、論説文や小説文解釈に強いことを自負している人物は「準備なし」に、「書き手が意図していた内容」を「読み解ける」と思うだろうか。高等数学に関しては、「用語の解釈においても日常的読解感覚で数学の本を解釈してはいけない」ことを「無自覚に受け入れている」のに、古代の文献に対しては「近代人の通俗的感受性」で向き合っていることを自覚できないということこそが、まさにアーリマンにはお気に入りなのだ。
もちろんわれわれが知っている「ネット空間」は「物質界の延長」であり、「霊界」ではない。「そこ」は、シュタイナーが暗示したところの「超地質層」、物質界の地球に付属している世界である。今後ますます、「俗物性普及の王」アーリマンとその軍団(左派)は「空想的熱狂性の王」ルシファーとその軍団(右派)と共闘して人類の抵抗勢力として、より多くの人類を永遠の幸福な地上生活願望に縛り付けるという作業に没頭する。そして「人類を鍛えよ」という、神に託された仕事、「人類に認識の錯誤をさせるという仕事」、つまり「悪のお役目」を完遂させようと奮闘努力していくんだろうねえ。
P.S.
ちなみに「マトリックス」も「攻殻機動隊」映画版アニメ版ともに大好きですよ。
P.S.2
以前、河添恵子が「イギリスが世界に輸出した最大のものは何でしょう?」というような趣旨の質問をYouTubeの動画内でしたことがあった。「うーんなんだろ、帝国主義思想?」と、思いついた言葉を頭の中でもてあそんでいたら、間髪入れずに「英語です」と答えた。その途端、『シュタイナー用語辞典』で読んだことのあった記述が自分の中で蘇った。
----------英米の左道オカルト結社は英語を世界支配言語にしようとしている。(P107)----------
そして今回「ゴースト」という言葉にまつわる英語圏の聖書の歴史に言及したとき、以下の言葉も思い出した。
----------英語では語られたものが精神(霊)に完全に重なる可能性がない。(P107)
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英語は聖書を「唯物論的イメージで頒布する」には最適の言語ツールとしても機能するようになったのではないか、ということだ。
「英米の左道オカルト結社」について西川隆幡氏は具体的な注記をしていないので、いわゆる「あいつら?」と空想するしかないのだが、「左道オカルト結社」といっても「英米系」という但し書きは入っているので「イギリスとアメリカの」ということは分かる。具体的にどんなことをシュタイナーが書いていたか、『シュタイナー用語辞典』から、ご紹介しておこう。
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西洋のオカルト結社は、ドッペルゲンガーと関連する磁気の力を用いて、世界を支配しようとしている。(P129)
3千年紀(21世紀以降に)に世界に輪廻思想が復興するが、心魂が強く地上に捕らわれている英米の男性は、スポーツを盛んにして、輪廻思想を阻止するが、英米では精神生活は女性によって伝えられる。(P32)
西のオカルト結社は、英米が第五文化期を指導するようにし、ラテン系の要素を破壊しようとした。真実を表現するのに適さない英語を世界言語にしようとする左道オカルト結社の影響下にある心魂は、大天使と結びつくことができず、大天使の位階にとどまったアーリマン的なアルカイに捕らわれる。
西のオカルト結社は、人々の心魂を地球に縛り付けて、輪廻思想を排除しようとする。
西の左道オカルト結社は、エーテル界へのキリストの出現をそらせて、エーテル的なアーリマン存在をもたらそうとしている。西のオカルト結社には、アーリマン的な四大元素存在が多数受肉している。(P73)
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今もこの戦いの(アストラル界ではさらに大規模に)真っ最中なんだろうなあ、と思いますよ。 -
今から20年前、つまり2002年、ローランドから「今日からはじめるパソコン・ミュージック」というDTMソフトが発売された。
私がそれを買ったのは発売の年だったのか記憶がはっきりしない。ネット上の話題としてDTMがよく目に飛び込んでくるような時期だったので、自分も興味を持ったのだろうが、うん万円もするDTMソフトに手を出す気はサラサラなかった。
ただ「アア、オレも安いのでいいから、その手のソフトをひとつ持っておきたいなあ」という思いが募ったので、たまたまいきつけの家電量販店で見つけたDTMソフトが安かったので、手に入れたのだった。
私が手に入れたのは、箱に『今日からはじめるパソコン・ミュージック』という名前が付いたDTMソフトだった。
私はそれを5000円くらいで買った記憶がある。一番安い値札がついていたからだった。だが、最近改めてネットで検索したら12000円という記事が出ていたので、「?」と思ってしまった。
参考ページ 新cakewalkの隠された機能
地元の店が安売りしたのか、それともメーカー側が値段を下げて再発売したのか、さだかではない。
買ったはいいものの、それに付いていたマニュアルを見て、すぐに「こんなもん、読めるかい」とやる気を失った。それでも1曲完成させたが、ひたすらマウスをポチる作業の連続で、もうそれでおなか一杯になったというか、ヘとへとになって、それ以降DTMソフトには近づかなくなって20年が過ぎたのだった。
ネット世界が始まる以前、90年代までは録音はカセットテープの時代だった。
中学3年の時、友人からラジカセを3日の約束で借りて、自分のラジカセに録音したものを流しながら、リードギターなんぞを加えて、またそのテープを流しながら、もう一方のラジカセの前でハモリを入れたり、いろいろ加えて、録音してというふうに、そういう作業を何度も繰り返して、1曲を完成させた。音質は最悪である。
それを友人に聞かせると、「え、これどうやって録ったんだよ」と、とんでもなく感動して(もちろん曲にではない、録音方法にである)感心しまくったのだった。そして、あまりつきあいのなかった同級生が(彼はその当時の同じ中学校全体のトップと呼んでもいいくらい、とてつもなくギターが上手だったが、付き合い的には私とは別グループの人物だった)間接的に曲を聴かせた友人からラジカセ録音話を聞いて、「聞かせてくれ」と自宅にやってきて、感銘を受けたようで、のちには彼の自宅にも招待してくれた。
しかし、当時はまだ、その後に到来することになるカセットテープ式MTR(マルチトラックレコーダー)を用いた、宅録全盛時代の日本はやってきていなかった。そういうことができる商品(機材)が一般人の市場には、まだなかったからだった。
私が「そういう機材」を手に入れることができるようになったのは、80年代の後半以降のことだったと思う。
写真は、左が4トラックのTASCAMのportaoneで、右が8トラックのYAMAHAのMT8X。この二つの機材もいまは処分されて自宅にはない。写真はネットから拾ってきたものだが、同じ機種を私も自宅で使っていた時代があったのだった。
演奏(合奏)を録音したかったら、仲間を集めてやる、つまりバンドを作る。至極当たり前なことだったし、それに「身体」を駆使してやる音楽はほんとに楽しかった。声を出すにしろ、楽器を弾くにしろ、そうだ。これは今でも変わらない。
シンセ系の楽器を使っている人々も一部をシーケンス機能に任せているにしても、まだ「身体性」を保っていた時代だったろうと思う。そういうわけだから、いろんな楽器や声を「自分自身の技能」でまかなうこと自体は「まだ許容範囲内」だった。「演奏(身体性)」を「記録する」わけだから。
だがDTM全盛時代の今、「身体性」は記録される必要がなくなった。「構想」「設計データ」が記録され、そのデジタルデータがデコードされて、空気を震わせる音声に変換されてスピーカーから鳴らされるのを聴いて感動するのが、もっとも新しい音楽の聴かれ方になった。
DTM系では特に顕著に個人の演奏能力や演奏の個性はパージされ、またDTM系の楽曲を好むリスナーの興味関心を引くテーマではなくなった。リードギターなどの間奏部を飛ばして聴く若者たちの出現が最近話題になっていたけれど、さもありなんということだ。
商品としての人間の生の歌声はそれでもまだ「身体性」に頼っている。しかしボカロの出現と進化は結局、プロの音楽家たちのDTM作業への接近が「人間の演奏者を用なしにし、駆逐していった」ように、「生きている人間の声」を完全に駆逐してしまわないまでも、ますますの台頭を許すようになるのかもしれない。
アナログ楽器の音色のデジタル化、つまりサンプリング技術は飛躍的に進歩したではないか。読み上げソフト以上の技術が必要になってくる歌声のサンプリング技術もいずれ、楽器に劣らず極点にまで到達するんだろう。
画像のAI生成技術やら美空ひばりの合成動画やひろゆきのようにしゃべる音声合成ソフトなどの出現がそういう未来の到来を予告してくれている。
すでに映画やドラマだってディープ・フェイク技術を使って、ところどころで「のようにみえる顔」を作って使っている。「ストレンジャー・シングス」では子役の女の子の顔にミリー・ボビー・ブラウン嬢の若返った顔が違和感なく合成されていた。「のようなもの思想」はすでに大昔に、建築資材やら食品パッケージで「出現」していた。レンガ材や壁板材、フローリング材のように見える安価な建築素材、桐の弁当箱を模したプラ容器(これはすでに市場から消滅しているようだが)笹の葉のように見える仕切り材しかり。どれも「かつて存在してた本物のイミテーション」である。そしてそれは経済行為として出現したのだった。
現在は、かろうじて声の個性や歌の上手さは「DAW内で構想される一部門」になることは、まだ完全には実現されていなけれども、こういう状況(生声録音素材なのかデジタル合成音の誰か風のイミテーションなのかの配分)もいつかは変化していくんだろう。
とはいえ、そのような予想される道行への反対運動をしたいわけではない。「バック・トゥ・ザ・フューチャーⅠ」で描かれていた「新しい音楽の出現に対する人類の鳥肌衝撃体験」(チャック・ベリーの楽曲のパクリ演奏シークエンスはその象徴表現である)の連続が、50年代に始まった新しい流行音楽の黎明期から90年代までの終焉期までの間に人類が得た経験値だった。ラジオが新しい音楽に触れるための窓口だった当時の若者たちの多くが、「低音質のラジオ」から流れてきた、かつて自分が接したことがない「のようなものではない曲」を聴いて、ほんとに鳥肌立てて気が狂ったようになった体験を持っている。
だがもはや21世紀の若者は「狂ったように感激」はしない。「最高の音質」で、まあいいんじゃないと思う音楽を生活の隣に付随させて生きている。その商品としての付加価値は「音楽自体が持っている力」からやってはこない。何かのイベントにぶら下がった価値として出現するしかなくなっているようだ。
日本の昭和時代のリスナーたちのようには、音楽アルバムパッケージに3000円払う価値はもはや感じていない。昭和の中学生のように、何か精神的な飢えのようなものに促されて、小遣いをためて身銭を切る感覚で1枚のアルバムを買いに行くわけではもはやないのだ。音楽の手に入れ方も大変容した。今は、ゲームに金を払うほうがずっと意味があると感じている世代の時代である。
今後は「~のような音楽」の時代が続くのだろう。AI(自動生成)技術がさらに進化すれば、「~のようなもの」をイラストや絵画に限らず、映画にしろ、音楽にしろ、もしかしたら小説や、あるいは哲学書さえ、AIが作り出してくれるだろうから。
とはいえ、それらはもはや、かつては「精神と身体感覚性」との共同作業の中から出現してきた生成物だったものの模倣にすぎない。消費者が「のようなもの」で満足している以上、それは商品価値を持ち続けるだろうし。
過去のデータしか学習できないAIは人類に「新しいもの(制作物あるいは精神)」をもたらさない。「機械に読み込ませた〈思い出〉の再合成の反復」をするだけである。けれども、商売人は「生成された思い出」を「新商品」と言って売りつけるのだろう。ますますトム・ソーヤー商法(壁塗りエピソード参照)が栄えていくのだろう。
ここで突然話題がアナタの予想外の方向へ飛んでしまうかもしれないが、ついでなので語っておこう。
超感覚的世界にも、そういう「のようなもの現象」が存在するらしいことを、ルドルフ・シュタイナーが報告している。というより、ようやく物質界におけるアーリマン的進展が霊界的現象の模倣を行える地点まで人類史は来たということなのだろう。
『神智学の門前にて』で、シュタイナーは以下のような話をしている。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------人間が行ったことすべては、たとえ歴史の本に書かれなくとも、神界の境にあるアーカーシャ年代記という不滅の歴史書に書き込まれている。意識のある存在によって世界に引き起こされたことすべてを、この境の領域で経験できる。---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
意識のある存在が体験したことは、アーカーシャ年代記に書きとめられる。秘儀参入者はこのようにして、人類の過去のすべてを読み取ることができる。しかし、まずどのようにして読み取るかを学ばねばならない。アーカーシャ(虚空)は生命的なもので、アーカーシャ像は混乱した言葉を語る。
シーザーのアーカーシャ像を、シーザー自身と混同してはならない。シーザー自身はもう再受肉しているかもしれない。外的な手段によってアーカーシャ年代記に近づくと、そのような混同をしやすい。そのような混同は往往にして、降霊会で生じるのである。心霊論者は、亡くなった人を見た、と信じる。しかし、それは死者のアーカーシャ像にすぎないのである。
たとえば、ゲーテのアーカーシャ像が、1796年に活動したときの姿で現れることがある。神秘学に通じていない者は、このアーカーシャ像をゲーテ自身と混同する。このアーカーシャ像は、質問に答えることができる。それも、昔答えたことを答えるだけではなく、昔は答えなかった、まったく新しい質問にも答える。答えを繰り返すのではなく、当時ゲーテが答えたであろうように答えるのである。それどころか、このゲーテのアーカーシャ像は、当時のゲーテのスタイルとセンスをもって、詩を作ることもできる。
アーカーシャ像は、まさに生きた構成体なのである。事実はこのように、驚くべきものである。しかし、事実なのである。(P32-P34)
マトリックスのサイファーが戻りたかった場所のことも連想つながりで思い出す。つまり「幸福な生活を感じさせてくれるイミテーション界」への回帰願望のことだが、アーリマンも着々とそういう「イミテーション界」とでも呼ぶべき「地球の楽園」を作ろうと鋭意画策中なんだろうねえ。
さて、「今日からはじめるパソコン・ミュージック」というWindows XP向けソフトだが、結局イジリたおして習熟したわけでもなく、すでに20年も経過してしまった。にもかかわらず最近やっとソフトに添付されていたカーペンターズのデータ入力用練習曲(「イエスタデイ・ワンス・モア」と「トップ・オブ・ザ・ワールド」)を「指導書」通りにやってみた。
つまり再度マニュアルの読み込みから始めなければならなかったわけだ。指導書に沿ってクリック、クリック。やはりすごく疲れた。
いまでは最新版のcakewalkのDTMソフトがネット上で無料で手に入る。
cakewalk by bandlab
こちらも手に入れて、さあ、どうしようかと思うのだが、結局生演奏を録音するための機材として、つまりアナログ・カセットテープ録音式からデジタル録音式に進化したMTRとしてギター、ベース、キーボードなどの演奏を録音するために利用するくらいが(ドラム音源はDTM付属のソフトシンセサイザー利用で)、自分が「楽しいと感じながらできること」の最大値なんだろうと思う。
YouTubeでcakewalk関連の動画をたくさん見たせいか、DTM関連の動画が頻繁に現れるようになった。自動コード進行生成機能付きDTMソフトとか、与えられたコード進行に自動的に多種多様なメロディー生成提案をしてくれる機能を搭載したソフトとかの解説をしているYouTuberもいる。
もういいよ、「アレクサ、大瀧詠一の声を使って、ロング・バケーションに入ってたような曲を作って流してくれないか」と言ったら「こんなのどうですか?」と〈高品質の楽曲〉が流れてくるのが日常になってる「のようなもの文明」が全盛の未来なんて、そんなことがすでに実用化されていたとしても、そんな家電品使わんと思うんだよ、オレ様は。
結局、未来において、そんなものは経済的には成立せず、「そんな生活が当然の日常」にはなっていなかったって状況ももちろん十分にあり得ると思う。けれど、100年後の人類がどんな音楽をどんなふうな方法で聴いているのか、やはり想像することはできないよなあ、自分には。
シュタイナーはアトランティス時代の7度インターバル感受時代を経て(「エリック・ザ・バイキング」という映画には海に沈む国の住人がみょうちきりんな和声音楽を誇らしげにエリックに披露するシーンが出てくるのを思い出した)、古代エジプト時代の5度インターバル感受時代からギリシア・ラテン時代の3度インターバル感受時代になり、近代人はまだその感受性(長3度感覚と短3度感覚)の延長線上に立っているという趣旨の話をしている。
今後は、オクターブ感受時代がやってくると言っているが、ポピュラー音楽の世界では、オクターブを「和音」の響きとしてウェス・モンゴメリーとかジョージ・ベンソンとか、ピアノではリチャード・ティーとか米国のミュージシャンたちがすでに試みているし、ギター・エフェクターとしてBOSSからオクターバーという商品が発売されていた時代もあったけれど、いまはそういう「和音感覚」を押し出した曲はついぞ聴かなくなったね。
私個人としては「ある周波数」が大事なんだという意見から、反440ヘルツ運動をやっている人々、あるいは特定周波数押しをする人々の存在も認識しているけれど、大事なのは音と音の「間(あいだ)」から人間にもたらされる「ある感覚」その「何か」のほうが重要なんじゃないかと思う。つまり「音楽としての周波数の共鳴現象」が人類にもたらしてきたものについての話をシュタイナーはしていたのであって、「特定周波数を贔屓にしろ」ということではないのだった。
大事なのは周波数同士が「〈音楽〉として共同したときに生まれるもの」なのであって、「特定の単体周波数」それ自体の価値ではないと思っている。
未来にやってくる「オクターブ感覚」というのは現代人が使っている「今の感受力」とは異なっているんだろうとは予想ができるけれど、将来「オクターブ」を心を動かす和音として聴くことになる人類は、その和音から「どんな感情を引き出す」ことになるのか(シュタイナーによれば自我感覚に関連するようだ)、今世で味わえるものなら味わってみたいものであるが、「〇〇は死ななきゃ治らない」ということわざはつまりは「生まれ変わらなきゃ先へ進めない」と同義だと勝手に解釈している私は、今世においては「いろんなことをあきらめて」おかないといけないんだろうなあとも思ってますよ。
オクターブ感覚もそのうちのひとつですよ。 -
ルドルフ・シュタイナーの著作は日本では大量に翻訳本が出ていますので、ドイツ語が分からない人々にとって日本は、本気でオカルト学(秘教)に挑みたい人にとっては、たいへんよい環境が整っていると思います。
彼の情報によると、さかのぼること1万年以上前までのアトランティス時代の人類は、みな今で言うところの秘儀参入者でした。「秘儀参入者である」というのは、単に霊界を垣間見ることができるというのではなく、高位の神霊たちと交流することができたという意味を含んでいます。
シュタイナーは『ルカ福音書講義』にて、霊界参入者を以下のように3段階に分類して説明しています。
(1)霊視者(イマジネーション認識者)(2)霊聴者(インスピレーション認識者)(3)霊的合一者(インテュイション認識者)
彼は現代においても霊視者はたくさんいると述べています。霊視者は霊界の像を浮かび上がらせる能力はあるが、その像が何を意味しているのか分からない段階にいる霊界参入者です。またその能力にも差があることは、最近ではアニメ「見える子ちゃん」でも描写されていましたね。
音楽的な才能(感覚)を比喩として用いるなら、訓練されている人とされていない人とでは、聴こえてくる音像から取得できる「情報」には大きな差があることはよくご存じのことだと思います。音楽に疎い人にとってはひとつの漠然とした響きにしか聴こえない複数音声の集合体をを、訓練を受けた人は、いくつの音で構成されていて、その音はこれこれだ、そしてコード名は何々と言うと答えられます。
人間の可聴周波数の問題ではモスキート音というものがありましたね。20歳の人には〈音〉として聴こえる周波数が年を取ると〈可聴化できない〉、つまり認識できなくなくなるというあれです。人間が持っている「感覚器」を用いて、何かの情報を取得しそれが何であるかを解釈できる能力には個人差があるのです。霊能力についても、同じ個人差が存在するということですね。もっと長大な年月をスパンとした人類史においては、時を経ることよって、全人類単位で一気に失われた「人類の能力」というものがあったのだということを、その事実を、現代人は認めることができるでしょうか。
霊視者は霊界参入者ではあっても「秘儀参入者」ではないとシュタイナーは言います。
秘儀参入者と呼ばれるためには、霊聴能力、つまり見たものを言葉や音として聴き取る能力も、〈見る力〉つまり霊視能力とともに持っていなければなりません。そういう能力の所有者のことを日本の古代の秘教の伝統にそって言い直すなら、「耳」という称号を贈られた者たちがそういう領域に属している人々です(以前当ブログで紹介した古代の大王(おおきみ)たちの諡号や聖徳太子が豊聡耳命と呼ばれた故事を思い出してください)。
宜保愛子氏は晩年、「像は確かに見えていたが、言葉は聴きとれなかった」と述懐したと語られていますが、そういう意味では彼女は霊界参入者ではあっても秘儀参入者ではなかったということになります。
霊的合一者は霊視能力、霊聴能力に加えて、対象の中に入って一体化できる能力を持つ者です。認識できる範囲は霊聴者よりもさらに広がるのです。「秘儀参入者」とは霊聴能力者か霊的合一者のどちらかを指す言葉なのです。
アトランティス時代には人類は誰でも自分がその中に生きているところの霊界を認識しながら生きていました。つまり死者や高次の種々の神霊たちに取り巻かれて生きることは所与の現実体験だったので、それらの実在を証明する「動機」が存在しませんでした。それゆえに、いわゆる今日に見られるような形態の「宗教」というものはありませんでした。
宗教というものが「この新しい世界」に出現したのは、人類が「霊界の住人」でいられなくなった結果なのです。宗教は、かつての人類は彼岸の存在だったということを思いださせ、人類にその見えなくなった世界を敬わせるために出現したのがそもそもの始まりです。「そのような宗教感覚」はアトランティス後の時代に世界各地にいた秘儀参入者たちが自分たちの属する共同体に持ち込み、育て上げたものに由来するのです。「宗教的である」というのは、彼岸の存在を信じ、それを敬う態度を持つということなのです。
シュタイナーは『神智学の門前にて』で、以下のような話をしています。
学識者は(神話や)伝説は民族精神に由来するものだという。だが、それは真実ではない。また、この伝説は偶然にできあがったものではない。偉大な秘儀参入者たちが、自分たちの叡智を込めてこの伝説を作り、人々に伝えたのである。あらゆる伝説、神話、あらゆる宗教、あらゆる民衆文学は世界の謎を解くのに役立つものであり、秘儀参入者たちの霊感に由来するものである。(P26)
どこかの宗派に属していることをもって宗教に入っている人という認識で日常生活を営んでいる戦後日本人的な感覚は実は相当に世界の常識とずれた見立て(自己認識)なのだということです。
それは日本人が近代化という掛け声のもとで唯物論という「悪しきセンス」も同時に持ち込んで、そこに自分自身をフィットさせようと努力してきた結果です。
近年日本が生産した四角いスイカが世界の話題になったことがありますが、まさに近代化以降の日本人の態度そのものを象徴するトピックでした。日本人は「自分の身体にあった衣服をオーダーメイドする習慣」を捨てて、それを善なる振る舞いだと信じて、スイカの実がだんだんと四角い木枠のなかに隙間なくぴったりとフィットするように成長を遂げていくように「自分自身の精神の可動力を駆使して精神を変容させた」のです。木枠の持つ「形」に迎合したのです。
よく「共産主義は宗教だ」という表現を聞きますが、厳密には宗教ではありません。何かの主義主張が宗教であるためには、地上を超えた世界や存在の実在を信じそれを敬うという要素がなければなりません。
しかし死後の生を否定するようになった近代人は、その定義を捻じ曲げて、「彼らにとって不合理だと見做せる教え」を「信じる行為」を行っている人々への蔑みの表現になりました。
たしかにカルトの問題を見れば、そういう見方になってしまう側面もあるでしょう。この定義ならば、共産主義をもカルト宗教に似た側面をもつ教えとして存分に罵倒できるからですが、そもそも、宗教という言葉を使うときに、本来の宗教との微妙な差異について「自覚的になれない人」は、学校現場を支配している近代教育の思考態度で批評をしているだけの話です。
私はかつて、高校の現代社会の教師が「〇〇は宗教だ」と生徒の前で言っている事実を知ったときに、明治維新時に近代改革派が当時のヨーロッパの思想を「技術」中心に輸入したとき、それに付随して唯物論的な思考態度を学問的思考の「基本態度」として重視すべきだと思って学校現場にも持ち込んだ成果が、今ありありと実を結んだのだと思っています。
その後の日本の教育界は「西洋のそれをしのぐほどの唯物論思想」普及に無自覚にまい進しました。その結果、唯物論者であること(あるいは「そのように装う」こと)が、現代日本人の「公的態度=建前」の表現として世間の表舞台に掲げられ、流通させられるようになり、日本人は「公的マナー」として無自覚にそのことに「身を摺り寄せ」て、つまり自らを変化させ適応させて生きてきたのだということです。
以下はシュタイナーの日本人への警告です。
日本人が形成したような霊的な思考は現実のなかに進入していきます。それがヨーロッパ-アメリカの唯物論と結びつき、ヨーロッパの唯物論が霊化(精神化=脱唯物論化)されないなら、その思考はヨーロッパの唯物論を凌ぐことは確かです。ヨーロッパ人は、日本人が持っているような精神の可動性を持っていないからです。このような精神の可動性を、日本人は太古の霊性の遺産として有しているのです。(『いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか』P76-P77)
また西川隆範氏は、シュタイナーが日本の近代化の実情について語った内容を以下のように紹介しています。
日本人が蒸気船の運転を試みたという話である。どのように運転するか、どのように舵を切るかを、日本人は見様見真似で習得した。そして、日本人は外国人の教師に対して、もう自分たちで航行できる、といった。そうして、外国人教師を陸に残して、日本人船長の指揮のもとに蒸気船は出発した。日本人は舵を切って、方向転換をした。ところが、どうやって元に戻せばよいのかを知らなくて、船は回転しつづけた。(『いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか』P77)「どうやって元に戻せばよいのかを知らなくて、船は回転しつづけた。」という部分はとても深刻に響きますねえ。「その回転度はますます激しさを増している」というのが現代日本の姿なのでしょうねえ。まるで地球の重力圏から飛び出せずに永遠に周回軌道を回転を続けるデブリのような状況です。
現代日本人の場合に限って言えば、長い学校生活を通して一度も「宗教とは何か」ということについて、ここで述べたような「ちゃんとした定義」を教師の口から聞くことなく成人した人ばかりです。
中学生が高校受験用の質問として「世界の三大宗教は何ですか」と問われると優秀な子は「仏教、キリスト教、イスラム教」と即座に答えられます。そのように「表面的なこと」はたくさん知っていますが、肝心なことは分からないままにほっておかれているのが日本の現代っ子たちの「精神生活」のありようです。しかし子供を育てているオトナの側にそのような観点に対する自覚がない以上、子供を責めることもできませんね。
アトランティス大陸の崩壊後、新しい陸地に移住した人々が「知性の発展」という新しい課題に向けて、新生活を始めるようになりました。霊視を可能にするために身体からはるかに抜きん出ていた古代人のエーテル体は、ますます物質的身体とその輪郭を一致させるようになりました。そのような状態に身体が変化することが思考力を育てるには必要だったのです。とはいえ、その時代においても、なお高次の神霊たちの言葉を理解できる霊聴能力を維持できている人々もいましたが、時代が下るにつれて、知力の発展と引き換えに、「ますます古いタイプの霊界参入能力」を失っていきました。
日本の縄文時代人も5千年前までは実際に自分の周囲に神霊を見ていたのです。山や木に神霊がいると「空想」し、「その空想を信じた」のではなく、「実際に見ていた」ということを縄文時代文化復興運動にまい進する人々は理解すべきです。それは西洋近代の宗教学者が定義したような「アニミズム」ではないのです。日本人はこういう唯物論ベースの説明を百科事典的に参照し、「分かったような気」になって人前でオウム返しします。
彼らの言うアニミズムとはどういう意味でしょう。それは学問的には「古代人による、自然界には神霊がいると〈空想〉する態度」のことなのです。〈そういう態度〉を学問的にはアニムズムと定義すると言ってるにすぎません。つまり「神霊やら精霊やらの実在を〈信じる〉なんて、古代人は馬鹿だった」と遠回しに言うためにアニミズムという言葉を学問用語として捏造したのです。一方で、彼らは「神々と言うのは古代人の捏造にすぎない」と〈信じる態度〉を一般庶民たちの前で披歴してくれていますが。では〈このように信じる態度〉は学問的にはなんと言う言葉で定義されるべきなのでしょうか。それを唯物論というのです。
高次の神霊と交流できるような「高い霊能力」が完全に失われたのが紀元前3千年、言い換えるといまから5千年前の時代です。縄文時代末期に抜歯の習慣が始まったのも、そのことと関連性があるのです。歯の形成力とエーテル体には強い関連性があり、抜歯によってエーテル体を霊視力として解放する技術でした。それは自分たちの周囲からますます消えていきつつある神霊世界の消失を押しとどめたいがための苦肉の策でした。
ルドルフ・シュタイナーは「霊視」について以下のような話をしています。
霊視とは、そもそもなんなのでしょうか。霊視できるということは、エーテル体の器官を使用することができるということです。アストラル体の器官だけを使うことができる状態では、深い秘密を内的に感じ、内的に体験することはできますが、その秘密を見ることはできません。アストラル体のなかで体験したことがエーテル体に刻印されると、霊視が可能になります。太古の霊視は、まだ完全には物質体のなかに入り込んでいないエーテル体の器官を使用できたために可能なものでした。人類は時間の経過のなかで、なにを失ったのでしょうか。エーテル体の器官を使用する能力を失ったのです。(『ルカ福音書講義』P64)
そしてさらに3千年が経過し、キリストが太陽領域から地上に到来するころには、一部の人類がかろうじて若干の霊視力を隔世遺伝的に保持できている状態でした。もはやその当時において、霊視力を持つ人々の見るものは、悪霊のようなものばかりとなっていました。最後に人類に残された力に映じた霊視像は邪悪なものばかりの時代がやってきて、そしてついにそれさえも見えなくなる時代がやってきたのでした。
今日では、先祖から隔世遺伝的に霊視能力を受け継いでる人も、それを失ってしまうことはよくあるようです。YouTubeでパシンペロン氏が、「以前見えていた人が失ってしまった霊視能力が復活するときにまず最初に遭遇するのは悪霊だ。そのあと能力が高まるにつれて善霊が見えるようになる」というような趣旨の話を語っておりましたが、これはシュタイナーの発言とも符合するコメントです。
紀元後の弥生時代以降の日本の古代においてもすでに個々人から霊視能力は奪われておりました。神おろしと称して霊媒を使う技術も残っておりましたが、これは縄文時代前期人一般がそなえていた「高い霊視能力」が失われた代替技術でしかなく、今日的視点で言えば、一種の堕落行為でした。
特別な修行体系に則って「長期的な準備」のもとに行われたのがその総仕上げとしての秘儀参入体験としての大嘗祭です。この秘儀は中臣・藤原氏が主導する大化の改新以降は完全に別のもの(神秘体験を伴わない古代中国式即位儀礼)にとってかわられました。
日本民族の秘儀参入の伝統もこのとき途絶えたのです。しかし、世界中の民族が同じ運命をたどって今日ある姿となっているのです。
しかし人類には「新たな能力」が目覚めつつあるということもシュタイナーは語っております。これから2500年ほどかけて、個々人に順々に隔世遺伝的な霊視力によるのではなく、個々人が忍耐して繰り返してきた長い輪廻転生の成果がこれから少しずつ現れてくるという話です。
5千年前に人類一般が失った能力を取り戻すために修行僧という人々が出現しました。仏教のお坊さんもカトリックの神父さんたちも霊界参入のために修行したのだということが今日の一般の人々の常識からも失われています。庶民はいまやそれらの地位は「社会的職業の一種」に過ぎないとさえ思っています。
この系統の伝統もすでに形骸化しています。それらはもはや有職故実に過ぎないものとなって、企業に属している人々が企業の利益や秘密を守るために利己的にふるまってしまうように、僧団や教会集団に属している人々も「組織に属していること自体に意味を見出す」のみで、「組織安堵」のためにポジショントークすることこそが自分の役割だと思って活動しています。
しかし釈尊にしろ、イエスにしろ、若いころはたくさんの旅をして師につき、個人として世界の成り立ちの真の姿を追い求めたのではなかったでしょうか。
僧団や教会組織がちょうど個々人の属する家庭のようなものならば、我々は昔から家族の住む家でともに過ごしながら、外に出て行ってともに働く仲間を得て、「新しいもの」を作り上げるために共同してきたではありませんか。
有職故実主義から自由になって、すでに近代に出現しているにもかかわらず無視され続けてきた「新しい啓示」に個人として積極的に触れることが必要です。大事なのは、「古い教え(解釈)」をオウム返しできるようになることではなく、自分自身が霊界参入者となることで、これまで語られてきた宗教上の教えを「自分の力で再確認できるようになる」ことです。これが人類の新しい目標です。
今日では秘儀参入者となるために修行の道を歩む人と隔世遺伝ではない新しいタイプの秘儀参入者の出現の道という二つの道が予告されています。宜保愛子氏のような遺伝的素質による霊界参入は新しい霊界参入ととって変わられるのですが、現代はまだそのかすかな予兆が始まったばかりです。
そのような人々の「体験の報告」がゆるやかに人々の常識感覚を変える時代が近づいているというシュタイナーやエドガー・ケイシーの予告が実現される日をはやく見てみたいものです。