-
YouTubeにアクセスしたら、幼虫社というユニットの「廃園」というアルバムがたくさんのサムネイル画像のなかに紛れ込んでいたので、そのアルバムジャケットの絵に惹かれて(藤原カムイ氏の絵らしい)、再生してみた。
おお、いいじゃん、これ。興味がわいたので、ほかに動画があるか調べた。
以下はカセットのみで出されたというアルバム「幼虫期」中の一曲「再醒」。文語で歌われる歌は、実は近代日本語より霊力が強いのではないかとふと思わされるような名曲。あなたも私同様「祝詞の奏上」を聴いているような感覚になるはず。
「再醒」の歌詞はこちら
(ただし冒頭部分のみ。ニコニ動画に歌詞を載せている動画があった。後半部の内容から、古事記に登場する大気津姫神の逸話を扱っているらしいことが分かる。でも「眞夜の娘」とは何だろうとさらに調べていくとマヨの祭儀というニューギニアの土俗儀礼がかつてあったらしいことまで掘り当てた。つまり日本以外の食物起源神話もまた歌詞の中に含まれているらしいのだった。)
それで改めてネット検索をかけて、彼らのことを調べてみたが、2000年代初頭前後から京都発で数年活動してたらしいこと以外、はかばかしい情報が得られなかった。
シンセを駆使して楽曲を制作していたのは井蛹机(いさなぎ・つくえ)という人物でボーカルはヂヂこと古庭千尋という女性が担当していた。
今日、この二人の消息についてはよく分からない。
しかし、ネットであれこれ調べていくうち、当時、幼虫社とごく近い立ち位置で活動を共にしていたもうひとつの音楽ユニットがいたことに気が付いた。
それが猫祭り姫だった。猫祭り姫とは燈(ともり)氏のひとりユニットだという。私がYouTubeで最初に聴いた彼女のアルバムが「めぐる」だった。
その中でも、特に「水鶏姫(くいなひめ)」と「狂姫(くるひめ)」という曲を聴いて「これはただならぬ事態だ」と関心が沸いたので、そういう場合当然歌詞にも関心が沸くので、ネットのどこかに「歌詞」が載っていないかなと探したのだった。
「水鶏姫」の歌詞はこちら
「狂姫」の歌詞はこちら
そうしたら猫祭り姫が今日においても稼働させているHP内に掲げている歌詞ページにたどり着くことができた。そこには「水鶏姫」の歌詞も載っていたが、改めて中身を読んでみると、「姫」と言っても、水鶏姫が背負っているイメージが恐ろしいものであったことが分かり、「こんな歌のイメージを思いつく女性歌手ってあまり知らんなあ」とその時は思ったのだった。
猫祭り姫は小説や童話・メルヘンから歌の着想を得ている人だった。童話から着想を得て「猫の森には帰れない」という傑作を世に出した谷山浩子のことが思い出されたが、猫祭り姫は「楽しい猫フェスティバルへようこそ姫」ではなく、むしろ「猫(根子)祀りし姫巫女」と書いた方がふさわしいと思うような「怖い歌」をたくさん奏上している人だった。
彼女は猫祭りの宵というホームページを今日も維持しているが、実はかつてはTOPページから歌詞ページへ至れるようになっていたはずのリンクがなくなっている。私が見つけた歌詞ページは検索の結果、発見したページ群だった。
amazon musicには以下の3枚のアルバムが登録されていた。
「HAKOIRI」と「第N無人居住区」のリリース表記を見れば分かる通り、2000年の最初の方に出ている。けれど「めぐる」は2022年に再編集版としてリリースしたようだった。
「水鶏姫」も「狂姫」も猫祭り姫の、年月を重ねたHPに掲示されている楽曲なので、やはり2000年代に作られた作品なのだった。
だから彼女はこの20年近く、新しい楽曲の制作(あるいは発表)自体はやめていたのかもしれない。けれども彼女は近年、かつて作った楽曲をもう一度YouTubeで公開している。
彼女は多彩な人でダンボールを使ってミニチュアの街を作り、またPIXIVでそれを絵にしたものをたくさん公開している。それに漫画も描いている。
彼女のHPにある「HAKOIRI」のページを見ると、有難いことに歌詞と、作詞者、作曲者、編曲者、そして歌の担当者の名前が載っている。
猫祭り姫のアルバムを聴いて驚かされるのは、楽曲が「七色の声」で成り立っていることだった。今日で言うと、女性の声優さんたちが、子どものキャラになった声で、歌を歌っているような「声色の多彩さ」だった。
私は「すべてのアルバム楽曲において同じ女性が発声法を変えながら歌っているのだろうか、すごいなあ、ここまで徹底して声色を変えて、つまり声優的なアプローチで歌うシンガーソングライターっていただろうか?」とはじめ驚嘆しながら聴いていたのだが(かつて当ブログで大プッシュ記事を書いたchouchouのボーカルスタイルのことを「声優的」と書いたことがあったけど、猫祭り姫に比べたらら、振れ幅はずっと狭い)、「HAKOIRI」のページに出てくるパーソネルをみると、「本人の歌唱じゃない曲も含まれている? じゃあ、ほかのアルバムでは、どの曲が猫祭り姫本人の歌唱なんだろう」と四つ辻で迷子になった少年みたいになってしまった(泣きべそかきそう)。
おそらく「水鶏姫」も「狂姫」も本人の声だろうけど、3枚のアルバムすべてについて明確に判断できないのが、心残りなのだった。
「狂姫」の声を聴いて、「声のいい人だなあ」と思ったものだった。声優で言うと、ガッチャマンの「白鳥のジュン」とかドクタースランプの「木緑あかね」の役の時の杉山佳寿子声を連想した。
近ごろはHPに公開されているアルバム未収録の一連の曲も含めてアルバム4作品としてヘビーローテンションで聴いている毎日なのだった。
そうそうYouTubeにはTomori名義でアルバム「第N無人居住区」(幼虫社&猫祭り姫コラボアルバム)所収の「かげろうがい」の動画が上がっている。幻想文学、メルヘンの世界を堪能できる仕上がりになっている。
P.S.
ちなみに、「HP猫祭りの宵」の歌詞ページに出てくるストリーム再生やダウンロードボタンはWindows11環境下の現在、2000年代当時に想定されていた形では機能してくれない。とはいえダウンロードは手順に手を加えれば可能である。2000年代当時ネット上にたくさんあったmusieのようなアマチュア・インディーズ楽曲集約サイトは今日みな消滅してしまった(当ブログではかつてヤマハ系サイトやnext musicサイトについて言及したことがあった)。ダウンロード版のデータの拡張子は「.rm」なので再生ソフトを選ぶと思うが、mp3変換などの対処法はご自分で探求されてください。PR -
ルドルフ・シュタイナーの『歴史徴候学』を読んでいたら、以下のような「速読モード」で読んでいたら、あるいは「?感覚」をすり抜けてしまうような一節があった。
---------------------------------------------------------------------すぐに共感、反感で相手に対することは、人類の未来の発展にとって最高に反社会的なことなのです。(『歴史徴候学』P113)---------------------------------------------------------------------
今日、人の振る舞い方として問題とされているのは、SNSにおける誹謗中傷問題だが、シュタイナーによれば「脊髄反射的共感表明」もまた「反社会的振る舞い」なのだという指摘である。
人の内面において「共感系」(賞賛、崇拝)に極度に偏ることをルシファー的、「反感系」(憎悪)に極度に偏ることをアーリマン系というふうにシュタイナー用語で言い換えると、今の人類は、シュタイナーが生きていた時代よりも「もっと危機的」に感情のジェットコースターゲームを「やらされている」のではないか、と思う。
昨今話題になるようになった「血糖値スパイク」現象のごときものに「自ら飛び込んで」、いわば魂の血管をズタズタに傷つけているがごときの様相だ。
なぜネット系の企業はわざわざ「サービス利用者たち」にトップに掲げた絵のような「振る舞い」をあえてさせているのか。
今日の「反社勢力」は、たとえば暴力団と言われるような旧来の反社団体、脅しや暴力によって庶民をコントロールするのではなく、「一見自発性の発露」であるかのような体裁をとって、庶民に影響力を行使し、「別の成果」を上げようとしているのだろうが、人類は「この便利さ・快適さ」を放擲できない。
They know how to con people
そういえば、シュタイナーは発明に関してこんなことも言っていた。
---------------------------------------------------------------------
40歳以下の人が発明した物は、人類の進化を遅らせ、特に道徳的進化を妨害する。40歳以上になっての発明品は道徳的な内容を含む。(「シュタイナー用語辞典」P227 全集192)
---------------------------------------------------------------------
今日の地球の物質文明(コンピューターを使った情報拡散技術)は「40歳以下の若い人」の発明に負っているのだなあと思ったりする。
勝海舟の『氷川清話』などを読むと、「切りに行って弟子になる」、とか、「刺すつもりででかけていって、相手に圧倒されてすごすごと帰宅する」なんてエピソードが出てくる。
高速移動できる乗り物も通信手段もない時代には「時間をかけて移動し実際に会って話をする」というのが「相手の人となりを知り理解する」ための「現実的」な方法だった。たとえ手紙のやりとりがあったとしても「それだけでは弱い」と思っていた人々がたくさんいた。だからこそ「実際に対面する」ことを重要視したのだった。
それゆえに、彼らの時代に生きていた人びとの方が「観察眼」というか「人を見抜く眼力」は今日の人々よりも本能的に上なのではないかとも思ったりする。
----------------------------------------------------------------
坂本龍馬が、かつておれに、「先生はしばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者もいって会ってくるにより添え書きをくれ」といったから、さっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきていうには、「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」といったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。(勝海舟「氷川清話」)-----------------------------------------------------------------
伯楽力は、かつての日本人にも備わっていたと思うのだが、「国民を率いていこうとする人々からその力が急速に奪われていった」のが、日本の近代化(精神の官僚(コンピュータ)化ー養老孟司)の別の側面だったのかもしれない。
かつては、ピンポンダッシュ遊びは昭和時代の小学生の遊びだった。けれども、今日では初めから悪意を持ってサムズダウンのボタンを押すことに「精神の解放」を感じる輩(大人)も増えているようだ。
ヤフーニュースで訃報記事が出ると、多くの人がその記事を見て「数字を可視化する作業」に協力する。「お悔やみ申し上げます」という、これといって特に読み手に反感を抱かせそうにない投稿にも何十個もの「下げボタン数字」の表示がつく。
初めから何にでも「下げボタン」を押そうと待機している「得体のしれない人々」がいるということだ。
40歳以下の人々によって米国から生み出された「発明」は、人々を益しているのか、と改めてその功罪についてしばし考えてみた。 -
ひと月ほど前、Netflixで「転生したら剣でした」を見たのだが、このアニメで使われているサウンドトラックに注意が向いた。
いわゆるブルガリアン・ボイス付きのBGMが何度もふんだんに流れるのが非常に気になったからだった(アニメ自体も大変おもしろかった)。
それでひさびさDMMでサントラ盤のレンタルをやっていないかチェックしたら、あったので取り寄せて聴いてみた。
そのあとYouTubeで調べたら、なんと2枚組CDに所収されていた50曲が全部公開されていた。
私がアニメで気になったのが、そのサントラ(ディスク1)の第1曲目に出てくる「Reincarnated as a Sword」だった。
たとえば「Ghost in the Shell」や姫神の「神々の詩」で聞けるブルガリアン・ボイス風の歌声は「日本の生身の女性たちの声」によって録音されたものだった。
「転生したら剣でした」で聴くことのできる女性たちの合唱は、はたして「生身の声」によるものなのだろうかと疑問を持った。同じ疑問は以下の楽曲を聴いたときにも感じた。5:00辺りに飛んで確認してほしい。
Anymaが属しているAfterlifeの楽曲で聴くことのできるブルガリアン・ボイスだ。
「転生したら剣でした」以外にも「アレ、ここでもブルガリアン・ボイスが使われている」と思う経験が別のアニメ視聴時にもあったので、「これはどういうことだろう」と思い始め、「もしかしてすでにボーカロイド系の音源が存在してるんじゃないだろうか」と思い、ネットで探し始めた。
そうしたら、予想通り以下のような「ボーカル系音源」が販売されているのに気が付いた。
RHODOPE 2 ETHNIC BULGARIAN CHOIR
うかつだった。この音源は数年前にすでに販売されていたのに今日まで私は「そのこと」を知らなかった。
ヤマハの機械的なボーカロイド音源は、今日AIだとかいって実在の歌手のボーカルそっくりのフェイク音源がネットで氾濫し始めている昨今においては「時代遅れ」の音源になってしまった。
「ボーカロイド」という言葉は、ヤマハの登録商標なので、「ボーカルのサンプリング音源」を総称して何と言えばいいのか、いまのところよく分からないが、AIという呼称で米国からやってきた「声のサンプリング処理技術」はヤマハのボーカロイド技術をすでに凌駕している。
ボカロPなどといって、「モロ機械音」のような歌声を「ひとつの価値」ととらえて、受け入れられていた時代は、すでに去っているじゃないかと思う。
ボーカロイドよりも、よりリアルに寄せた日本語対応サンプリング音源は、いまは無料で手に入れることもできるようになったので、私も、いずれ試してみたいと思っている。
とはいえ、聴くだけの場合と自分も発声者として、和声体験に参加するのとでは、「感覚体験」に雲泥の差があるのも事実だ。私もDTMもやっているとはいえ、機械オンリーだとやはり反感を感じる。
打ち込みばかりで自分の身体性がまったく参加しないと「欲求不満」になるんだろうと思う。
コーラス音声というのは、リスナーとして聴くだけでも十分、脳内をモゾモゾさせるものだ。
人間の声による和声音は何か目の細かい紙ヤスリ同士をこすり合わせているような奇妙なざらざらするような感覚に陥る。特にブルガリアン・ボイスになるとその感覚がさらに激増する。
聴くだけでもそうなのだから、実際に自分がその合唱のひとりとして参加している場合、脳内に炭酸がシュワシュワ吹き出すような感覚さえ味わえる。それは甘美な何かだが、それが何なのか実は誰も明確に説明できないはずだ。
山下達郎が「on the street corner」をコツコツと一人多重録音で作った情熱を思い出す。
ブルガリアン・ボイスというのは、ブルガリアの民謡をソロではなく、和声合唱で構成したものだ。民謡的な発声のテクニックで合唱をすればブルガリアン・ボイスのようになる。
元来ひとりで歌い上げるのが日本の民謡であり、和声という伝統を持たなかった日本の民謡歌手たち、たとえば「Ghost in the Shell」における西田社中の面々に「ハモってみて」と指示を出して彼女たちに新しい試みをさせた川井憲次氏の酔眼である。
その流れの先に姫神の「神々の詩」という名曲もある。
P.S.1
ちなみに今回、「転生したら剣でした」のサントラを担当した高梨康治という人の名前を始めて意識したのだったが、この人はナルトそのほか有名どころのアニメの音楽をいっぱいやっている人だった。
P.S.2
Anymaが来年1月日本で初めてのコンサートをやるという情報が飛び込んできた。いよいよ日本人一般でも「認知」が広がってきたようだね。
世界最高峰の映像とステージングを誇るANYMAアニマ の出演が決定! -
声優の田中敦子が亡くなったという知らせをヤフーニュースで知った時、かなり落ち込んだ。一日中、寝るまで心が重かった。
アニメ「攻殻機動隊」には、タチコマが「ボクらはみんな生きている」と合唱するシーンがあるのだが、2018年の正月に田中敦子がその歌声を自宅でフィギュアのタチコマに歌ってもらって、草薙素子少佐の声でそれをねぎらう動画を公開したことがあった。
それまで基本ツイッターというかXにはノータッチな自分だったのに、そのページだけはブックマークして、今日まで残していた。
訃報を知ってすぐ、そのページをひさびさに訪れてみたが、途中までで必ず動画が止まってしまう。私は、田中敦子のタチコマへのねぎらいの言葉目当てでページに飛んだのに、聴くことができなくて、さらに落ち込んでしまった。
どういう事情で動画が先へ進まなくなっているのか分からないが、もう一度「全編」視聴できるようにしてほしいと願う。(ちなみにあとで「あ!」と思い、ウェブ上で動くダウンローダーを利用すればいいじゃんと思い立ち、試してみたら「全編」版として手に入れることができた。少佐が最後に何と言っているのか、「どうしても知りたい人」は、そういう手を使うことも有りか?)
声優・田中敦子さんの謹賀新年ツイートで「タチコマ」と「少佐」wwwww
そういうこともあり、以前アニメ映画「Ghost in the Shell」のサントラとブルガリアン・ボイス関連の記事を書いていたことを思い出して、読み直そうと該当ページに飛んだのだが、かつては視聴できていた映画のテーマ個所を歌っている動画が消えていたので、YouTubeにかろうじて残っていた、別の西田社中の動画と差し替えて、少々編集し直しておいた(YouTubeから消えてしまった「高画質版」動画の復活を切に望む)。
ということで、勢いがついて、ふたたび民謡とブルガリアン・ボイスと最近注目していたアニメのサントラ(「転生したら剣でした」)と、これも当ブログで紹介したAnymaについて、自分の脳内で連想関係が生じ、そこから調べに入ってネットからも新しい情報を得て、それらが頭の中で結びつくことがあったので、次回、ご紹介したいと思う。
P.S. 本日(8月27日)深夜1時30分、パンダジャパンというものを知った。
「少佐」がラジオ番組で「完熟マンゴー」というペンネームを使って参加していたラジオ番組エピソード・・・・。Xでのタチコマ動画といい、その本質は、ひょうきん族田中敦子なのだった。 -
Pearl & The Oystersという男女二人によるPOPバンドが最近のお気に入りだ。
このユニットも以前の紹介動画同様、YouTubeのインディーズ集約動画で見つけたものだ。
「素性」を簡単に紹介すると、もともと二人(ジュリエット・パール・デイビスとヨアキム・ポラック)はフランス人で、地元で音楽活動を始めたが、ヨアキム・ポラックが米国の大学院へ行くので、二人は音楽の活動場所を米国に移したそうだ。
最初に一連の楽曲を聴いたときの感想と言えば、「彼らは日本の70~80年代の音楽の影響を受けているんじゃないか」という印象だったが、その後、英語圏の記事をいろいろチェックしてみると、やはり日本の「その当時」の音楽の影響を強く受けていることに言及している記事があった。
記事内に挙げられていた名前以外にも、細野晴臣経由でティンパンアレーや大貫妙子の大ファンだったりするんじゃないだろうかと彼らの楽曲を聴いたときに感じたものだ。その例が以下の楽曲だ。
実際、YouTubeに挙げている動画には日本語の字幕を付けたものや、日本ロケで撮ったと思われる動画もあって、かなり日本趣味を押し出している。
公式にはアルバムを4枚出している。
1st Pearl & The Oysters(2017)
2nd canned music(2018)
3rd Flowerland(2021)
4th coast 2 coast(2023)
私は3枚目の「Flowerland」と4枚目の「coast 2coast」が特にお気に入りだ。
YouTubeにアルバムごとの再生リストがあるので探して聴いてみてください。
今のところ4枚目が最新作で、2023年のリリースなので、もうじき次のアルバムが出てくるんじゃないかと楽しみにまっているところだ。
もはやメジャーレーベルが出している楽曲のヒットチャートという「権威」って20世紀後半の遺物になってしまったと思う。今でも「メジャーの名前を背景に出てくるミュージシャンたち」は米国にも日本にもいるけれど、、そして「表面的」には「彼ら彼女ら」はマスメディアの記事素材の一翼を担ってはいるけれど、ほんとに音楽が好きな人たちは、「もはや本気で取り合っていないんじゃないか」とひそかに疑っている。
私自身は、中坊だったあの頃、すでにアンチ・ヒットチャート派だったマセガキだったけれど(FMのリクエスト番組で普段ラジオでかからない、これまで知らなかった「名曲」がかかるのを釣り人みたいに待っていた坊主頭の中学生だった)、やっぱりそういう「音楽の追いかけ方」は今でも変わらないみたいだ。
「自分がほんとにいいと思うものを事上げせずに淡々と追いかけている」そういう「無言の一大勢力」が世界中にいるんだよな、きっと。