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最近、またエドガー・ケイシーのリーディングをもとに「ギザのピラミッド問題」を追いかけてました。
公称ではギザのピラミッドはクフ王の墳墓だということになってますが、ケイシー情報によると、「あのピラミッド」は、今からおよそ1万2千500年前、100年の歳月をかけて(紀元前1万490年から1万380年[正確には「キリストのエジプト入りを起点に数えて」とリーディングにはあります])建設されたものだということでした。
どういうことでしょう?
つまりギザの大ピラミッドは「アトランティス時代の最末期」に建てられたものでした。
世界の陸地はまだ現在のような変容を遂げ切っていない時代でした。
当時のエジプト地域の状況をリーディングが以下のように語っています。
人は当時、サハラと上ナイル地帯に居住していた。川は北へは流れず、ナイルから今の大西洋へと注ぎ込んでいた。チベット、コーカサス地方の河川は北海へ注ぎ、モンゴルでは太平洋に、また高原地方では北方海域に注ぎ込んでいたのである。そして、諸部族の最初の統治者は、今は『王家の谷』として知られている所に近い、上ナイルのその場所に拠点を定めたのである。(5748-1)
海の下に沈んだ大陸のうち、ポセイディアと呼ばれるアトランティス大陸のなごりが海上に残っている時代でした。そこから避難民が世界中に散っていった時代でした。
ケイシーのリーディングを読むと、大ピラミッドが建設された当時、ギザのピラミッド群の東側にはナイル川は流れていなかったことになります。
シュタイナーによると、旧約聖書に出てくるノアの箱舟の話は、もっと古い時代のアトランティス時代の話で、当時の地球はどこもかしこも霧に覆われていました。北欧神話において「霧の国」として描かれていたのがアトランティス大陸でした。旧約聖書の大洪水エピソードは、長きにわたるアトランティス時代の「異変」について書かれたもので、大気中に大量に含まれていた水蒸気が大量の雨となって地上に降り注いだ事件を描いているとのことです。ノアはアトランティス時代に新しい使命を帯びてユーラシア大陸に移住した人物なのです。
霧が雨水となって地上に満ち、大気が晴れ上がったので、ノアは初めて虹を見た人物として描かれています。
大ピラミッドの時代は、その地球変動時代のさらにのちの時代の話ですが、アトランティス大陸が「沈んだ」という話は、現代人なら誰もが知っている話ですが、「それと入れ替わりに、それまで海の下にあったその他の地域が浮上した」のだということは、「思い及ばない」ことが多いようです。
上に掲げた絵は、ネットから拾ってきたものですが、ヨーロッパもアフリカも南北アメリカもだいぶ現代に近い描かれ方になってます。
よーく考えてみてください。アトランティスと入れ替わりに、それまで海面下にあった場所があちこちで浮上を始めたら、盆地状になっている個所の上にあった海水は、その海抜の状況に応じて、より低い場所へと一気に流れ落ちていくでしょう。
世界中で大洪水事件が頻発したはずです。
また別の話の関連で、シュタイナーは「イギリスでは土地が四回、海の上になったり下になったりしました。イギリスは四回、水浸しにされては、また上昇しました」とイギリスを例に、大陸の上昇運動と下降運動が「大きな周期」で繰り返されていることを強調しています(『神仏と人間』)。
現在は大陸の上昇期に入っており、4000年後には、また氷河期がくるとも語っています。「近年」においてヨーロッパがもっとも暖かかったのが1200年代で、「その当時は大地が最も低かったのです」とも述べています。
面白いことに、『古代日本正史』の著者である原田常治氏は、「平安時代は冬でも掛布団がいらないくらい、最も日本が暖かかった時期だった」と語っています。
温暖化が叫ばれて久しいですが、現在、京都はまだまだ平安時代の「平均気温」に達してはいないようです。当時の植生も何百年単位で以前のものと入れ代り、また寒くなっていって、以前の植生へと変化するというような、長周期のサイクルで植生も海の魚の生息地域も変容してきたのです。
以下、大陸の浮沈問題に関してシュタイナーの発言を、ご紹介しておきます。
大洪水がやってきて、アトランティス大陸が海中に没する以前まで「アカシャ年代記」を通して地球の進化を遡っていくと、このアトランティスで生じたさまざまな出来事の経過を辿ることができます。同じ経過が後に違った形でもう一度繰り返されました。キリスト時代の遥か以前、キリスト教が南から北上してくる以前に、北ドイツ、中央ヨーロッパ、アトランティス大陸の東の方で、アトランティスの洪水が再現されました。南方からの影響があった後で、初めて、ヨーロッパに独立して人々が住むようになったのです。
よく陥る誤謬として、「アカシャ年代記」の霊的映像ではなく、アストラル的映像を追っていくと、この繰り返しを本当の古代のアトランティスの出来事とみてしまうのです。スコット=エリオットのアトランティスについての叙述は、この繰り返しを本当のアトランティスの事件ととり違えているのです。
アストラル的な映像を見れば彼が書いたことは合っているのですが、神界の本物の「アカシャ年代記」とは符合しません。誤謬の原因がどこにあるかを知ることによって、スコット=エリオットの記述に対して正しい評価ができるようになります。(『薔薇十字会の神智学』P58)
ちなみに私の場合、スコット・エリオットの邦訳本はないのでアマゾンで英語版を手に入れて、ぼちぼちと目を通してます。91ページの薄い本です。今はバラしてクリップで綴じてます。
コーカサスの王とともに神官ラータ(エドガー・ケイシー)が一族を連れて、現在上ナイル地方と呼ばれている場所にやってきて、ひとつの国家を建設したのは、今のナイル川が、北上せずに、大西洋側へ流れ落ちていた時代のことでした。
当時の国民の様相は、もともと1万2千年以上前からそこに住んでいた部族、そしてラータとともにコーカサス地方からやってき王朝部族、アトランティス(つまりポセイディア島)からの避難民と、彼らが一緒に連れてきていた〈もの〉(英語表現ではthings)と呼ばれていた、人体と不完全な結びつき方をしていた人間たち(半獣半人)などなど多彩でした。当時の人間の人体はまだ柔軟でしたから(古代の人類の人体の有様についてはシュタイナーも『神々との出会い』において強調していた点でしたね。「古アトランティス人は自我なき従者たちを従えていた」というような話が出てきます)、ラータはアトランティス人たちから「同じ人間」として扱われていなかった「自我の働きの弱かった従者あるいは奴隷身分の人々」の人体を「修復」する事業に情熱を傾けたのでした。
以下そのシュタイナーの発言です。なんらかの魔法を使って、目の前の人間の肉体、エーテル体、アストラル体から、不可視的な本来の超感覚的な自我体を引き離したなら、その人間からディオニュソスの従者たちのような姿が生じたでしょう。(P166)
アトランティス時代には、自我はまだ人体の中に組み込まれていませんでした。一体、アトランティス人のからだはどんな様子をしていたのでしょうか。ギリシア人の想像力は、そしてギリシア人の直観力は、すばらしい仕方で、通常のアトランティス人の平均的な姿を、サテュロス、ファウヌス、パンとして描いたのです。
現在の地球の状況では、こういう人間形姿は生じえません。サテュロス、ファウヌス、そもそもディオニソスの従者全体は、アトランティス人の古い形姿を最も忠実に保持し続けた、後アトランティス人の集まりでした。ディオニソスは、まさにこのような人間たちを----その人間たちはまだ自我を内的にほとんど所有していなかったのですが----自分の隊に組み入れて、自我の最初の教師として働いたのです。
このことからも分かるように、ギリシア人は、ディオニソスの一行を、古いアトランティスの平均的人間の姿として示したのです。この一行は、現在の人間のような固い骨格を持っていませんでした。人体は固くなったのです。古アトランティス期の人間は、もっと柔軟なからだを持っていました。(『神々との出会い』P167-P168)
当時、「大陸」としてではなく「大きな島」としてのみ存在するようになっていたアトランティス文明が終焉しようとしているその時代において、大ピラミッドはそのような「将来における世界の大陸状況の変化」を見越して建設する上において、被害をこうむりにくい安全な場所として、アトランティスからの避難民たち(技術の提供者たち)との合意のもとに選定された位置に建てられたのです。
現在のギザの大ピラミッド群が見下ろしている地域は、その当時の陸地の大変動によって、ナイル川の流れ方が変わり、大洪水となって、氾濫するようになった地域なのです。
アトランティス大陸沈没後に、世界各地域の大陸隆起に伴って発生した大洪水によって、大ピラミッドの東側もまた、大量の土砂で埋まり、その上を「新しいナイル川」が地中海へ向けて流れ落ちるような時代に変容しました。
スフィンクスとナイル川の間の分厚い土砂の下に今でも「変動前に建設された未発掘の神殿」が眠っているのです。そこには「アトランティス大陸からの避難民」が保存しておきたかった膨大な量の「過去の記録」が保管されています。
「新ナイル川の出現」以降、本来の歴史上のエジプト王朝時代が始まります。クフ王は大ピラミッドの周囲に街を建設しました。本来、まったく異なった歴史時間存在だった二種類の遺跡群が考古学者や炭素年代法などの近代科学手法による「解釈の不手際」によって、今日も多くの誤解を抱えたままだというのは、少し残念ではあります。
大ピラミッドの内部には、未来の地球の変遷の様子が使用された岩石の違いによって表現されていると言います。本来は1998年までの地球の有様を載せていたようですが、1958年以降の部分は、のちの時代に悪意を持ったファラオによって削り取られてしまったそうです。一方で、大ピラミッドは秘儀参入者たちのための実践的神殿でもありました。ピラミッド内部にある「空の石棺」の意味は「そこに安置されていた人物が取り去られてしまった」というのではなく、もともと「空の石棺」として、象徴的にそこに置かれたものなのです。
いずれにしろ、「預言書としてのピラミッド」の使命は、21世紀の今日果たされ終わっていると言えますが、現代人は「解釈」することがいまだに果たせていないのでした。
ピラミッドの内壁を読んでも、これからやってくる未来は書かれていないのです。いずれにしろ「彼らが展望していた時代の範囲」からすでに脱出し「新時代」に入ったのだということです。
エドガー・ケイシーが神官ラータ時代に送った人生の詳細について、分かりやすくまとめている本として『大霊視者エドガー・ケイシー』(大陸書房)をお勧めしておきます。
アトランティス時代や古代エジプトの時代については、ほかにもいろいろとエドガー・ケイシー関連の翻訳本が出ていますので、興味のある方は、手に入れて研究してみられるといいでしょう。PR -
10月7日以降、不思議な星回りの集中時期だったんでしょうか、いろいろ変なことがいっぱいありましたねえ。
ハマスとイスラエルの喧嘩は一番デカい事件ですが、同時期boundheadのblogも異常動作期間に突入してまして、近況でも書き込もうかと思っていましたが、そもそもトップのバナー写真が消えており、写真のアップロードもうまくいかない状況でしたが、昨日あたり、ブログの操作回りは、通常に復帰したので、こうして更新記事を書いております。
銀行がダウン、スマホには地震が観測されていないのに津波警報が来る、なんてこともありましたねえ。気象庁は「なんでこんなことが起きたのか分からない」と言ってますけど、YouTuberのなかには「ハマスVSイスラエルのドサクサに乗じて中国が海底で核実験をした結果だ」とおっしゃってた方もおりましたねえ。一般的には海底火山の影響じゃないか、ということですが。
日本の他の地方もそうでしょうが、私の住んでいる住宅地区においても、世代交代が進みまして、周りには空き家ばかりが増え、そこを不動産が買い取り、更地にして建売住宅にしつらえ直して、売りに出すと、たいして間を置かずにどこからか新しい家族がやって来て住人になる、という新陳代謝現象がまっさかりであります。
私の家の南側の住人もすでにいなくなって久しいのですが、ふと北側の敷地を見ると、野草が一輪、花を咲かせているではないですか。「テッポウユリかな?」
「ああ、この花は去年も見たなあ。また同じ場所に咲いてんだ」と思いながら、いったん家の中に入ったんですが、ふと「一輪挿しにしてみたらどうかな」と思ったので、他人の敷地ですが、私の家の庭との隔てになっているブロック塀の高さは70cmほどなので、簡単にまたいで入れますので、「不法侵入」して摘み取ってしまいました。
どうせあたり一面クサギだらけで荒れ放題の敷地に咲いている花なのだからと、切り取って、床の間に飾ってみました。ネットで調べてみると、この花にはピンクの筋がはいっているので、テッポウユリではなく、タカサゴユリでした。
生花を使うのがめんどくさくなっている私は、こういう一輪挿しを置いていました。
しばらくの間、タカサゴユリを飾ったら、また造花に戻ります。
あとになって「そういえば、今までやったことがなかったなあ」と、彼岸花を一輪挿しで飾ってみればよかったのに、と思ったのですが、すでに時期が去ってしまいました、今年の彼岸花は写真だけは撮って残しております。
「彼岸花は曼殊沙華とも言います」という説明はこれまでの典型的な言い回しだったのですが、最近では、アニメの題名にまで使われるようになった、リコリスというカタカナ言葉もまた、彼岸花の別称として日本語として定着したようですね。
P.S
クサギの繁殖力ってすごいんですよ。切ったってすぐに葉っぱを出して伸びてしまいます。
10月になっても、まあ、こんな感じでのびのび育ってます。 -
YouTubeでOTYKENを知ってもうずいぶんになるけど、このバンドをどのように扱っていいのかわからなくて、長らく自分だけのお気に入りとして、定期的に視聴してきた。
私が初めてOTYKENに出会ったのが、GENESISという曲だった。
一体、なにもの?
なんか衣装とか見るとアイヌ的雰囲気もある、遠い昔には彼らとも関連のある(枝分かれした)北方モンゴル系? でも騎馬民族(朝青龍)系とも違うよなあと感じた。
「おー、あれって精霊の仮面をかぶっているのか?、ビジュアルもカッケーなあ」と思ったのだった(おそらく彼がアンドレイ・メドノス?)。
というのが最初の感想で、しかもこの「民族言語で歌われる奇妙な曲」は、最後まで聴かせてしまう不思議な魅力に溢れていたので、続いて、次をポチりたいと思ってしまったのだった。
それが以下のLEGENDという曲だった。
いよいよ、「こいつあただならぬバンドじゃん」と思って、例によって検索開始。当然、まずは日本国内の認知状況から入ったわけだが、ほとんど情報がない。
それで英語圏のwikipediaに飛んだら、ちゃんと記事があった。
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オティケンのメンバーはチュリム族、ケト族、ハカス族、ドルガン族、セルクプ族であり、これらの民族はアイヌやアメリカ先住民と関連している可能性があります。メンバーは全員、パセチノエ村近くの小さな集落出身の地元の人材です。そこでは医薬品や電気へのアクセスが難しく、食料は漁業、狩猟、採餌、農業、養蜂を通じて地元で得られています。 その結果、グループのメンバーは、特にコンサートが中止になる夏の間、地域で働き、家族を助けるなど、バンドの外でも多忙な生活を続けています。グループの主なメンバーは約 10 人ですが、各人の空き状況に応じて、コンサートに参加する人は少なくなる傾向があります。出演者の中には(アハを除いて)専門的に音楽の訓練を受けた者はいなかったが、シベリア先住民の多くは家庭で民謡や楽器を演奏する習慣があり、音楽の才能を持っている。
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彼女たちは国籍的にはロシア人で、民族的には北方シベリア人の少数民族に属しているということだ。
日本のJ-POPのようにAメロBメロサビの永久運動みたいな古びた定型とは無縁の「構成的にもユニークな無国籍感タップリの音楽」を民族的土台から再構築して演奏している。日本でこういうアプローチに成功していると思えるものは少ない。劇場版「攻殻機動隊」のテーマくらいだろうか。ロシア語ではなく民族言語を使って歌われているとはいえ、彼女たちがやっているのは「伝統音楽」ではまったくない、ということも言っておきたい。
世界の音楽潮流にとってのオルタナ的展開である。
彼女たちの活動が、アメリカ先住民の多くがシベリア系民族の音楽をよく聴きに来ていたことから(彼らに民族音楽を聴いてもらう)始まったことを思えば、今回の最新バージョンのGENESISのヴィジュアルがネイティヴ・アメリカン様式になったのも、奇妙なことではない。
詳しくはウィキペディアの記事を参照してもらいたいが、彼女たちが世に出たのは、彼女たちの村と家業の養蜂業を通じて知り合いになったアンドレイ・メドノス(白人系、奥さんがチュリム族)が後押しをしてくれたからだった。
この絵を見て、日本の「今どきの女子がコスプレしてる」感じをも受けちゃう、奇妙な視聴体験時間だった。たまたま今日の夕方、彼女たちの最新の更新動画を見たせいで、やっと記事の投稿をする気になったのだった(OTYKENについて書きたいとずっと思っていたので、今回達成できてよかった)。
アイヌについて政治的に語ることが好きな人(アイヌ利権側も批判側も)はここではほっておきたい。戦前金田一京助博士は、鈴鹿山脈以北にはアイヌの足跡が残っていると語っていたが、最近の政治的アイヌ論争では、金田一博士の言葉が引用された場面に出会ったことがない。
日本列島の南方と北方は入れ墨文化があって、その間に別の文化を持った種族が入ってきたようだ。古事記ではボディーガードの隼人族が目の周りに入れ墨をしているの見て、姫が驚いて「それは何なの?」と尋ねたというエピソードが出てくる。南方の諸島人たちは明治期まで女性も入れ墨をする文化があった。西郷さんが島流しされていたときの島女房の女性も入れ墨の入っている人で、薩摩人の文化とは異なっていた。
かつて暴走族の総長で、のちに役者として活躍することになる宇梶剛士はアイヌの血を受け継いでいる。私は彼の名字を聴いたとき、すぐに古事記に登場する兄弟の名前を連想した。
エウカシとオトウカシ
である。兄のウカシと弟のウカシ、という意味である。
だから、「ああ、宇梶さんて古事記にも登場してくるキャラの子孫なんだろうか」と思ったものである。まあ、これはあてにならない憶測である。
単に民族音楽ではなく、それを踏まえて他の音楽要素も取り入れる、そして「まったくの先祖文化に戻るのではなく、今の時流を超えて新生する活動」こそがオルタナであるのだよ。だから、これから生まれて来るものは「これまでになかった何か」でなければならない。
ということで、月最低2回は更新すると言っておきながら、さぼっていた更新をなんとか月の最終日にクリアできてよかったですよ。
P.S.
大昔「こころの旅 神ありて我あり 我ありて神あり」という題名のNHK番組があったのを思い出す。アイヌの芸能一家のドキュメンタリーだった。そういやあすこに出てきた女子たちもOTYKENと同じような髪の伸ばし方をしていたなあ。(ということで調べてみたら2001年11月4日にNHK教育で放送された番組だった。なんと22年前。VHSビデオに録画したものをDVDに焼き直して保存してた。改めて見直したけど、やっぱいいわ。)
近年、アイヌの音楽で話題になったものと言えば、Netflix版のドラマシリーズ『呪怨』のエンディングテーマとして使われたsonkaynoがあるね。
Sonkayno / MAREWREW
南方諸島系のおすすめ
朝崎郁恵 おぼくり~ええうみ
P.S.
1:40前後から出てくる縄というかロープをくるくる回しながら太鼓をたたく
シーンがすごくかっこいいねえ。エスニック四つ打ちミュージック。 -
現在、人類はすでに21世紀に入って、その五分の一を通り過ぎたところだが、ルドルフ・シュタイナーが100年前に語っていた「人類の意識の変化」に関して「どのあたりに立っている」のだろうと、つい思ってしまう。彼は『天使と人間』において「21世紀に入るまでに、人類が霊化の道をたどらないのなら、天使たちは、人間が、睡眠という形で定期的に身体から離れて回帰している霊界において(今日の時点においては大部分の人間が明確に思い出すことができないでいるが)、人類が実現すべき未来のヴィジョンを提示するという仕事をやめてしまう」という趣旨の発言をしている。
地上の状況によっては、人類の精神的発展の始まりは100年遅れてしまう場合もありうるし、最悪の場合は、天使の意図は実現されずに終わる場合もありうる、とも言っている(とはいえ、シュタイナーは別の個所で「天使の仕事が無駄に終わることはない。人類は最終的には道を見つける」というような趣旨の発言もしている)。
霊界において天使が人類に示す理想像は三つある。
天使のヴィジョンは人間の構成要素である、霊・魂・体の領域そのひとつひとつに対応している。
一つ目は体の世界、すなわち物質界に関係する。天使は人類は物質生活における友愛を目指すように諭している。平等ではなく友愛である。
二つ目は魂の世界、すなわち宗教感覚に関する提案である。人類個々人が宗教の自由を得ること。最終的にはキリスト教の教会さえ不要のものとすること。シュタイナーはキリスト教教会の消滅を例に挙げているが、もちろん仏教にしろイスラム教にしろ、何であれ宗教団体の組織安堵を目的としたような活動への情熱は、将来人類一般から消えていくという未来だ。
三つ目は霊の世界、すなわち精神の探求願望、個々人による霊学への接近である。アイ・ビリーヴ(信じたい)衝動ではなくアイ・ノウ(知りたい)衝動への接近である。
将来、このまま同じ作業を続けても、霊界で天使から教わったことを「人類は現実化できる可能性がない」と天使たちが判断してしまったら、天使たちは、これまでの仕事を中止して、人間が眠って霊界に滞在している間に、地上に残されたエーテル体に対して働きかけるようになり、そのことによって地上で生きる人類たちに有害な事態が出来するようになる、と語っている。
これまで天使たちは人類の意識魂、つまり「自己を観察・意識する魂」とともにある自我に働きかけてきたのだが、人類個々人の固有の霊に働きかけるのをやめ、人間の地上生活における外皮たる肉体を賦活しているエーテル体に、つまり本能的活動を担う部分に働きかけを開始するようになると語っている。
そうなると人類は、朝になるたんびに、「昨日までは知らなかったはずの知識」を携えて目を覚まし、そして、その「どこからやってきたのか由来の分からない知識」を「インスピレーションが来た!」と言って地上で使って応用し、結局、そのチート能力を駆使して人類の地上生活をまますます荒廃させるようになる、と語っている。
今回のような、「もし天使たちが本来の仕事を完遂できなかったら事案」としてではなかったが、かつて666年に、西アジアでアーリマンの弟子たるゴンディシャプールの学院の学者たちによって、「同じような事態」が地上に起ころうとしていた。しかしその時は、マホメットが地上に出現することによってイスラム教徒たちが、ゴンディシャプールの学者たちを追放し、「自動的に本能的な知識を得ることによって心理的精神的努力なしに生きる唯物論者としての人類」の出現を阻んだのだった。
もし天使が所期の計画をあきらめ、人間の魂ではなく、身体を支えているエーテル体に介入し始めたら、その時は三つのことが起こる、とシュタイナーは言う。
一つ目は「有害な医学知識」の獲得。天使がエーテル体に埋め込んだヴィジョンによって、人類は、薬に精通するようになり、医者たちはそれでもって意図的に病気を引き起こしたり、それを治したりするようになる。
二つ目は「優生学」である。人類は遺伝的な優位性の獲得を目指すようになり、「本能的に得た生殖の知識」を用いて、友愛の精神ではなく、「いかに優秀な子供を得るか」を追求する血統主義に傾く。また「道を踏み外した性行為」に熱中するようになる。そのような振る舞いをする人物は、最高に開明的で、かつ尊敬されるべき人物と見なされるようになる。これまで美しいとされていたことが醜いとされ、醜いとされていたことが美しいと言われるようになり、人類の半分が悪魔のような存在になる。
三つめは「律動学」。新しい動力源の発見と応用である。これまで人類は、車輪を回転させて乗り物を動かしたり、電力を得たりするのに化石燃料を燃やす必要があったが、火を使わないで、ただ振動の合成のみによって、巨大な動力を得て、機械を動かすようになる。つまり石炭、石油、ウラン、プルトニウム等の「地下資源」に頼る必要がなくなるが、人類はそれを利己的な目的に使用する。
人類が近代に失ってしまった願望、すなわち霊界回帰願望を思い出せないまま、物質界の霊化ではなく、「現在の唯物論的な思考態度」をさらに洗練させていくことに邁進するならば、意識魂が発展する機会は失われ、地上世界は荒廃する。
というような話が、『天使と人間』で語られていた。
有無を言わせぬ世界規模のワクチン接種強要問題やLGBT問題など、「フォースの暗黒面の帰依者たち」は、すでに個々の主権国家の自律的な決断を許さないような「政策」を、個々の政府が断行するように「超法規的な圧力」をかけてくる。1920年の国際連盟から始まり、戦後の国連による「国家の多数決主義」(賛同国家の多数派が正義であり、ターゲットにされた反対側は犯罪を犯した国家として、〈みんな〉で鉄槌を下してよいという見方)を世界の諸国民の「新しい常識」にしてしまうという入念な下準備の後、21世紀のこの4年間「恐怖街宣による諸国家のコントロール実験」が行われてしまったことを、我々はありありと見た。
明治維新時、つまり国連主義が地上世界に出現する以前の近代西洋の軍事常識は、「戦争は当事国同士が国際法にのっとって解決すべき事案であり、戦争当事国でない諸国家は調停等の提案が当事国からなされたときに介入する。また国家の戦争行為の是非は問わず、戦争は条約をもって終了とする。」
であった。だが国連主義(その実態は根回しによる同盟行為の簡略化であった)の登場によって、必ずしも軍事力を持たない勢力でも、さまざまな方法で(たとえば莫大な資金の提供などで)、自陣が有利になれるような方策を「国家間の多数決」という方法を駆使することで、以前の西洋世界の儀式的な軍事慣習にのっとるよりも簡単に行使できるようになった。20世紀以後の近代戦争においては、戦闘の前に、すでにリバーシゲームが終了していたのだ。
すでに日本は先の世界大戦で、1920年にウィルソンによって地上に出現させられた「その考え方」によって、世界の舞台で悪役として、首を締めあげられた経験を持つ。
これらのことは、天使に見放された人類にやってくる荒廃世界の、その前触れかと思ってしまいたくもなるが、本当のところはどうだろう。とはいえ、三つ目の「火を使わない動力」の問題は、いまだその兆しさえもネットニュース上の話題には上ってこない。
フリーメーソンがフランス革命を裏から操ったという話は、その界隈ではよく聞かれる話だが、自由、平等、友愛という理念は、もともと秘教由来の言葉で、「彼ら」はそれらを剽窃して、「わざと論争が紛糾するような曖昧な定義立ての概念として普及させた」という趣旨の話をシュタイナーはしていた。
シュタイナー自身は『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』において、「精神の自由」「法の下での平等」「経済における友愛」という表現で「彼ら」が「秘教由来の概念から意図的に脱落させた文言」を補っている。医学や性意識の領域において、「概念普及過程における意図的な混乱の醸成」は今日においても「彼らの戦術」であり続けているのだろう。
よき理念と抱き合わせに闇(不純物)を混ぜて広宣普及活動にいそしんできたのが、「彼ら」だった。
問題は、今日の地球全体を巻き込んだ広報技術とその管理体制によって「個人が真偽・善悪の判断をする力」を奪われて翻弄され続けている状況から、人類はいかに脱出するかということである。
『社会の未来』『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』は必読の書だが、残念なことにまだ文庫化されていない。是非文庫化(ちくま学芸文庫化)していただけないだろうか。
ふさわしい時期ではないときに出現する律動学の警告ではなく、一方で、シュタイナーは人類が正しい発展を遂げたときに地上世界に出現する「振動力の応用」について「この力は善人にしか扱えない。同じ機械を前にして、ある人(善人)の前では動き、別の人(悪人)の前では反応しない」とも語っている。特定の人物たちにしか扱えない機械とは奇妙な存在だ。現代では、属人的という言葉が否定的に使われるようになり、生産現場における「職人的技量」への依存を排除し、「人の経験に頼らない一般的生産システム」の構築こそ安定的で効率的な生産維持に求められている、などと語られる。
今日では電気現象の領域でテスラの名前が頻繁に取りざたされているが、シュタイナーは、未来の振動力学の先駆者として、ジョン・キリーの名前を挙げている。キリーは永久機関の探求者たちの話題で登場してくる人物で、今日的な評価では「ただの詐欺師だった」というレッテルが定着している。しかしシュタイナーは「そうではない。キリーは実際に機械を動かすことができたのだ。彼は人類一般に先んじて、すでに振動力を行使する能力を持っていたが、周囲の者は持っていなかったのだ、誰かがキリーの代わりに機械の前に立って、同じ動作をしても、機械は反応しなかったのだ」というような趣旨の話をしている(『神殿伝説と黄金伝説』『職業のカルマと未来』)
そのような世の中が出現するのは「正規のルート」をたどっても、まだずっと先の話、場合によっては、我々が地上に再来してくる1000年後の世界なのかもしれない。
とはいえ、「今の自分のペルソナ」、あるいは仏教的には「縁の構成体」「ルシファーの作品としての人格」(当ブログ「輪るピングドラムと神様」参照のこと)に個々人が自我の力によって影響力を行使して、細胞膜が細胞壁から剝がれるように、頑強な細胞壁を自分と見なし、一体化して生きてきた感情体験のプリセットモードからより自由で俯瞰的になり、ペルソナの隣に「新しい人間」(ルシファーによって堕天しなければ、そうなれたはずの天使候補生、再興された天界の第四ヒエラルキアに属する人間天使)を生もうと試みる行為(これを修行とも呼ぶ)は、今世の寿命が尽きるまで続けていくしかないのだよ。 -
前回の投稿で、「お薦めアーティスト」系記事がさらに続くような書き方になっていた手前、そういう約束はちゃんと果たしておかないとダメだろうと思ったので、あともう一本記事を投稿しておきたい。
YouTubeにおけるインデー系アーティストたちのプレイリスト紹介のなかで、「選者のセンス」と「自分の趣味」が一致すると最高の新曲体験が味わえるという趣旨のことを書いた。
数々の選集ページの中で私がもっともお気に入りの楽曲選集ページはMusic like Men I Trust | Similar Artists Playlistに集められた楽曲集だった。
Men I Trustというバンドに似た楽曲集というテーマで集められた52曲だが、ほんと「選者さん」はいい曲を集めてくれたなあと思う。
思い出すと、エマニュエル・プルクスがボーカリストとして定着した以降のMen I Trustとか、スペイン語系のルーツを大事にしているThe Maríasとか、70年代のラジオ番組を聴いてるかのような感情を湧き出させるStrawberry Guyとか、Japanese BreakfastとかJakob Ogawaとか、ほか(and more)にも「調査意欲を沸き立たせたアーティストたち」が目白押しだった。
Men I Trust自体はOncle JazzというYouTubeページを偶然試しにクリックして知り、そこから似た楽曲のプレイリストということで今回の言及記事となった。
とはいえ、Xinxinみたいに「気合を入れて記事を書く=布教活動にいそしむ」よりも「結局自分が楽しんでいれば、それいいじゃん」とも思うが、「偶然の接触」こそ最強の出会い衝動の行使でもあるので、その行使が「誰か」にとっては別の局面において小さなお役にたってくれるかもしれないとも思っている。
さてここまで前振りをしておきながら、結局、名前を挙げたアーティストたちの深堀記事は今回書かないのだった(なんだ、それ?)。
今回紹介したいアーティストは、別のプレイリストで出会ったバンドだった。その名を「Night Tapes」と言う。
bandcampの紹介文はこのように書いてある。
Night Tapes started out as evening jams between housemates Max Doohan, Sam Richards and Iiris Vesik in London.
Night Tapes は、ロンドンでハウスメイトのマックス・ドゥーハン、サム・リチャーズ、アイリス・ヴェシクによる夜のジャムセッションとして始まりました。
前回紹介したXinxinは米国の西海岸側出身のバンドだったが、Night Tapesはロンドン出身のバンドだ。
彼らもXinxin同様に発表曲が極端に少ない。物販品としてビニール系、つまりレコードかカセットテープを作っている。CDは作らず、デジタル配信はさまざまな場所を通じて行っているようだ。
英語圏の検索機能を使ってNight Tapesのディスコグラフィーを調べてみたが、一番古いのがカセットテープとして発売された2019年発表の「Dream Forever In Glorious Stereo」で、実は「 Dream」 「Forever」「 In Glorious Stereo」という3曲を並べて、カセット版のタイトルにしていただけの話だった。
発表曲は次の順番だ。
「Dream Forever In Glorious Stereo」(2019) 3曲入り
「Download Spirit」(2020) 5曲入り
「Forever Dream Kids」(2021) 「Download Spirit」からのシングルカットとしてA面「Forever Dream Kids」B面「Forever」
「Perfect Kindness」(2023) 6曲入り
つまり彼らの既存曲は、3曲+5曲+6曲=14曲で、2019年を活動開始の年として数えると、すでにキャリアは5年ほどになるが、公式にNight Tapesとして公開された楽曲は14曲しかないということだ。
けれども内容はすばらしい。Men I trustの初期メンバーは男たちで結成されたので、初期の楽曲には男性ボーカルものもあるし、複数の女性ボーカリストを招いてアルバムを作っているが、Men I Trustが本当の魅力を発揮し出すのは、エマニュエル・プルクスが正式の女性メンバーとしてボーカルを引き受けるようになって以降に発表されたアルバム群からである。
同じようにNight Tapesにおいても初期(記念すべき第1曲目)は男性メンバーの声メインの楽曲も出しているが、やはりこのバンドはアイリス・ヴェシクの個性的なきんきら声あってのバンドなのだ。
私が小学生の昭和時代、「まこち、Mさんは、はよ、しね、はよしねち、きんきら声でおらんじかいよー」などと母がその日あったことなどを語っていた時代があった。私は一学年下の近所の遊びともだちのお母さんたる、Mさんを知っていたので(当ブログ「怪異な出来事」記事において灰色の背広男に追いかけられたときに私が逃げ込んだ家の敷地こそ彼女の家だった)、もちろん具体的に脳内でMさんの顔を思い浮かべ、きんきら声を再生しながら母の話を聞いていたものだった。
ちなみに標準語現代語訳では「ほんと、Mさんは、早くして、早くして、と言って、キンキンする声で叫ぶんだからねー」くらいの意味である。
私がYouTubeで最初に出合ったNight Tapesの楽曲が「Silent Song」という曲だった。他の音楽愛好家なら「ああ、〇〇っぽいね」と連想(過去体験との比較思考)できた人もいるかもしれないが、私の狭い知識では「新しい音像体験」だった。
それで「これはおもしろいぞ」と、いつものように「調査」を始めたわけだ。そして他の楽曲にも複数触れて、「このバンドはすごくいいぞお」と確信した私は、今では彼らの数少ない楽曲を発表順に14曲並べてヘビーローテーションで聴いている日々である。2023年の今年発表された「Perfect Kindness」は特に最高の出来だと思う。
ボーカルの声質に触れれば、アイリス・ヴェシクの歌声を聴くと、往年のケイト・ブッシュの声に連想が飛ぶ人もたくさんいるだろう。
ケイト・ブッシュを知らない若い人たちにとってはNetflixの「ストレンジャー・シングス」で引用されて話題にされた楽曲(Running Up That Hill)がケイト・ブッシュのものだったと言えば、「あ、なんかそんな記事読んだ記憶があるな」という人もいるかもしれない。
ケイト・ブッシュのような声質は、私の地元では古くから「きんきら声」と呼んで区別している。日常会話において、こんな声でまくしたてられたら、さぞ大変だろう。特に旦那になった人は夫婦喧嘩なんぞ絶対したくないと思うはずである。
けれども、近代芸術の世界においては、強烈な個性を持った声こそ武器である。クラッシックの声楽(あるいは日本の能などの芸能における発声もそうだ)が一定の型に沿って皆似たような響きになるように寄せていく訓練をほどこされるのに対して、販売を目的に作られている「現代のポピュラー音楽」においては誰かの声に似ている(というか、印象に残るような特徴がない)と感じられることはマイナス点でしかない。
だからこそ現代において「個性的な声質」をもって生まれてきた人は祝福された人である。洋画やドラマの吹き替えやアニメの仕事をする声優さんたちの声質の差異や個性に対して、長年に渡り、強い関心を持ちつつ視聴者として接してきた日本人にとって、戦後に新たに発展したこの独特のセンスは、近代以前から続く、詫び寂びを肯定的に感じる感覚や虫の声を雑音ではなく音楽的に聴いたりできる感覚同様、他国では生まれてこなかった感覚であった。だから声の個性に対する独特の関心もまた、日本でこそ生じた新しい何かであって、他国的ではないものだった。
そしてそういう感性があったればこそ「日本にしかない声優業」という仕事も「価値」を持ち、業種として成立できている。日本人という人々は「声の個性の価値」を世界中でもっともよく理解できる人々でもあるのだった。
とはいえ、一方では、最近の邦楽ミュージシャンたちの「声の個性は弱い」と感じる。
バンドで歌を売って成功したかったら、「宝(個性的な声質)を持っているボーカリストをまず探せ」と、日本でインディー活動をしたいと思っている人々には言いたい。
ということで、最後はNight Tapesとは直接関係のない話になってしまったけど、「Night Tapesいいじゃん」と思ってくれるリスナーが少しでも増えてくれれたら、幸いである。
p.s. ちなみに表題の「Silent Song」は「Perfect Kindness」所収の曲で、このアルバムの最後に出てくる曲だ。YouTube内に掲示している英語の歌詞を味わいつつ試聴してみるのも一興である。