-
調べてみると、matryoshkaの「Monotonous Purgatory」について書いたのが、2008年のことなので、もうずいぶん昔のことなんだけど、この曲のmusic videoが存在することを本日まで知らないで暮らしていたのだった。
この楽曲に合わせて、アニメ作家の銀木沙織がアニメーションを制作している。そこで描かれているのは、
「荒涼とした世界で眠りと死(埋葬)と目覚めの表象を繰り返している少女の姿」
だった。 ということで、今回はこの銀木沙織作品について書いていきたいと思う。(以下はアニメの内容のネタバレなので、知りたくない人は先にリンク先のYouTubeでアニメを見てください。)
matryoshka - Monotonous Purgatory (MUSIC VIDEO)
ここで描かれているアニメーションが、私がかつてこの楽曲と題名(マナータヌス・パーガトーリ)から連想したイメージ(眠りと死と天使)に重なる部分を感じて、なんだか心をジンとさせながら、何度も見直していた。
あの世にいくと案内人が現れるとよく聞くけれど、このアニメのなかにも「彼女を星空のもとへ連れて行く友達のような存在」が現れる。もしかしたら、それは天使だったのだろうか? 本当のところは分からない。
古びた病院のような建物の屋上で彼女はたくさんの流れ星を見る。だが彼女はその後、融けたようになって消えるのだった。ベッドの上から融けて消えたように。
彼女は埋葬され、森のなかで目覚める。そしてこの物語の始まりと同じ道をたどって、アパート(それとも病室なんだろうか)に戻るとふたたびベッドで眠りにつくのだった。
このアニメを見る者は、なにか心にうごめくものを感じずにはいられない。ただそれが何なのかうまく言葉にできる人はいないんじゃないかとも思うのだ。
p.s.1 実を言うと20代のころ、「夢かうつつか定かでない意識状態のなかで繰り返される反復行為」を短いながらも本当に経験したことがある。
物憂い感じのする日差しの照っている午後、自宅にいてステレオから音楽を流しながら、その前に寝転がっていた。無性に眠気を感じる。ちょっと音が大きすぎる感じがするので、体をねじって半身だけ起き上がってアンプのボリュームに手をかけて右に回した。
心なしか音が小さくなった気がしたので、それでまた同じ体勢に戻って寝転がってうとうとしていた。だが気がついたのだった、「音が小さくなってない」。おかしいなと思いながら、また同じ体勢になって、さっきと同じようにボリュームに手をかけて寝転んだ。すると、また「あれ、やっぱり音がちいさくなっていない」。
そんなことを4,5回繰り返したと思う。いったいどういうことか分からなかったが、「もうこれは絶対おかしい」と思い、さっきまでの中途半端な体勢を取るのをやめて最後に完全に体を起こして、ステレオアンプの前に座りなおし、ちゃんと確認しながら音を絞った。すると今度はずっと音量は下がったままだった。「自分は夢を見ていたんだろうか。でも、どこからどこまでが夢だったんだろう。自分の意識、というか記憶の中ではすべての行為が連続していたじゃないか。こんな不思議なことがあるんだろうか。そのときそんなふうに思ったけれど、もはや今日まで同じことは二度と起きなかった。
p.s.2 だが別の不思議なことが起こった。これも物憂い感じのする午後のことだったが、同じ家、同じ場所で目を閉じて寝ころんでいたら、額の上に白く光る両手が一瞬現れたことがある(この話は既出だったね)。それは蛍光灯のような色合いの、ぼっと輝いている感じのてのひらだった。とにかく20代のころ住んでいた家は不思議なことばかり連続して起こる家だった。(さらに知りたい人は「怪異な出来事」カテゴリーに飛んでください)。
p.s.3 ふと思い出したのだが、押井守監督の「天使のたまご」をみると、「マナータヌス・パーガトーリ」状態に陥っていると思われる人々が出てくるよね。
p.s.4 LEXXシーズン3で出てくる海上に浮かぶさまざまなタウンに「死んではまた現れる」を繰り返している人々も、やっぱり「マナータヌス・パーガトーリ」状態だね。彼らは最終的に地球に転生するけど。
p.s.5 黒澤明監督の「乱」で、荒涼とした大地にさ迷いこんだ一文字秀虎(仲代達矢)が叫ぶ、「ここは無間地獄か」。という具合に、銀木沙織さんのアニメーションを見て、実はさまざまなことを思い出したのだった。
p.s.6 「ダークシティ」という映画は傑作だと思う。ここにも輪廻転生というか生まれ変わりのアイデアは使われているけど、ネタバレになるので詳しく語るのはやめておこう。この映画のラストシーンのイメージがどことなく押井監督の「天使のたまご」のラストシーンに重なる。
p.s.7 「一生の?お願い」という映画では主人公はこの世で生きることそのものが「マナータヌス・パーガトーリ」だと感じたんだろうな。PR -
前回、ガールズ&パンツァーのネタで書いたので、それを受けて書いてみたい。
YouTubeで「総統シリーズ」と呼ばれている人気動画があるのをご存知だろうか。
ガルパンがネットで頻繁に取り上げられるようになったのと同時期にYouTubeで「総統閣下、ガルパン最終話ご覧になります!」なる総統シリーズが追加された。
この総統シリーズは「ヒトラー ~最後の十二日間~」という映画に独自の字幕をかぶせたパロディー動画だ。
その動画の中に総統にガールズ&パンツァーについて熱心に説明する陸軍大将が登場する。
実はこの人物こそLexxシーズン4でアメリカの大統領を演じたロルフ・カニースである。だが悲しいことに他の俳優についてはたくさん記事が出ているにもかかわらず、日本版のウィキペデアには彼のページがない。英語版にも彼のページはなかったが、さすがにドイツ語版には出ていた。Lexxでプリースト大統領を演じたことも書いてある。
ディーター・ラーザーにしてもそうだが、日本ではLexxに出演した俳優はまったく知られていないのが残念だ。Lexxはコメディーなのでロルフ・カニースの演技も「ヒトラー ~最後の十二日間~」のようなシリアス調ではまったくない。この映画でロルフ・カニースに関心を持った人はLexxのシーズン3とシーズン4(ドイツ人俳優が演じるアメリカ大統領)を見てみることをお勧めする。ちなみにシーズン3では端役だったのだが、シーズン4でレギュラー待遇に昇格した人である。
-
この3月下旬にようやく待望の「ガールズ&パンツァー」の11話と12話が公開された。
去年の秋期クールで、女子高生と戦車という組み合わせのアニメが始まった。そのときは「なんじゃそりゃ、そんなありえねー組み合わせで、まともなドラマにできるんだろうか」と半信半疑で見始めたんだが、なんと1話ですでにはまった。
そのときはGYAOで見ていたんだが、もう次週がやってくるのが待ち遠しくて待ち遠しくて。だがこのアニメはクライマックスに達する直前で終了してしまった。そのとき生じた「暗い感情」(絶望感なのだろうか)は、自分が少年時代の大昔、楽しみに見ていたタツノコプロの「テッカマン」が突然終わったときに感じた「暗い感情」と同じようなたぐいのものだった。何かが途中でポキンと折られたショックは結構あとあとまで残るもんだ。少年時代のテッカマン・ショックがオッサンになったいまでも残っているくらいなんだから。
「えっ、なんで、なんで、なんで」
テッカマンは再開されなかったが、「ガールズ&パンツァー」はちゃんと落とし前をつけてくれたじゃないか。
監督さんは当ブログでもおなじみの「侵略イカ娘」をやった水島努監督だった。
(もらい物、職場のさるところに飾っております。)
「ガールズ&パンツァー」に熱狂した深夜アニメファンのコアグループたちは、これまたかつて「魔法少女まどか☆マギカ」に熱狂した深夜アニメファンのコアグループたちとはタイプが異なっていると見た。実を言うと自分は「魔法少女まどか☆マギカ」には「血管が振動しなかったタイプ」に属するアニメファンだった。つまりアニメファンといっても、動脈血管を振動せるタイプと静脈血管を振動させるタイプがいるんじゃないかと思う。そういう分類でいえば、「ガールズ&パンツァー」は動脈血管系作品で「魔法少女まどか☆マギカ」は静脈血管系作品なのだと思う。
まあ、しかし、しばしば言っていることだが、シリアスな内容でも「笑いを取りにくる」ところがないと、やはり自分には興味が弱る癖がある、ということも言っておこう。
ガールズ&パンツァーが制作スケジュールの問題で「穴を開けず」に、1話から12話まで、あのクオリティーで一気に突っ走ってくれていたら、世間への衝撃力はもっと増していたはずだと思う。だがもしアナタがまだこの作品を見たことがないなら(むしろラッキーだ)、DVD化されてレンタル店に並んだものを一気見することをお勧めする。
そうすれば放送当時、10話の最後で挿入された「最終回です」という「悲しい告知」は修正されているはずなので、「動脈血管振動の停止状態」に苦悶した多くの「GuPファン」と同じ苦しみを味わわずに済むのである。
作品の舞台となった現実の大洗の駅には「県立大洗女子学園」の戦車道大会優勝を祝う横断幕が出ているという。アニメが日本の人心に及ぼす作用というのはもはや馬鹿にならんのだった。
-
huluでいろいろと北米ドラマを見てきたけど、ギャラクティカ(リメーク作品の方)がかなり面白かった。
基本「笑い」がないと映画にしろドラマにしろアニメにしろ、興味が半減する傾向が自分にはあるんだが、このSFドラマはほぼ笑いを取りにくるところはない。だが、ハマってしまったのだった。
オープニングの太鼓アレンジはやはり日本の和太鼓から来てると思うんだが、違う?
ギャラクティカでは、シーズン1からシーズン4まで全編でさまざまな地域の民族音楽から要素を取ってきた音楽がBGMとして使われてる。特にシーズン4では日本の琵琶というか三味線というか、日本の民族音楽から取ったBGM使いまくりで非常に驚いた。
映画「未知との遭遇」では、ある旋律が重要なモチーフとして使われたけど、ギャラクティカではイスラム圏かインド圏か出所ははっきりしないんだけど、そっち系の旋律が非常に重大な意味を帯びるのも面白い部分だった。
古いオリジナルの方はほとんど知らないのだけど、最近YouTubeで最終話を見つけて視聴した。SF小説はフィリップ・K・ディックとか見ると、どこか哲学的宗教的要素を多分に含んでいるものが多いけど、このリメイクされたギャラクティカもそういう要素に満ちている。
最終話は、われわれの住んでいる現代世界へと接続してこの物語は終了するが、オリジナル・ギャラクティカにはなかったこういう要素もにやりとさせてくれるところだ。
huluの会員であればいちいちDVDを借りたり返したりせずに次から次へとエピソードを追っていけるので、週末まとめてみるとか、ネット視聴方式はすごく便利でお得な(どんだけ見ても月980円)システムだ。
まだギャラクティカを見ていない人には是非お勧めしたい北米ドラマのひとつだ。
-
通勤に使っていた軽のエンジンが再起不能状態になり、3月が車検だったのだが、結局そのまま廃車にした。
もう、ほんとに貧乏なので、無理してまた自動車を買うのはやめて、スクーターのレッツ4を買おうかと思い、とりあえず先にヘルメットを買っておいたのだが、それまでのつなぎとしてのチャリ通が無性に楽しくなり、「なんか自転車よくね」みたいな気持ちになり、いまもチャリ通を続けている。
自転車はギヤ付きの折りたたみ自転車をつかっている。
自動車当たり前主義者の田舎の労働者より、通勤に自動車を使わない東京の労働者の方がぜったい運動量、特に歩く量が多いと思う。オフィスワーカーなどだったら、もはや「歩く運動量」の違いだけで雲泥の差だろうなあ。自分もほんとに運動不足で、というか、運動嫌いで、自宅から車に乗り、職場の駐車場で降りる、という生活を何十年も続けてきた。ほぼ歩かなくてもすむ暮らし。
初日職場まで自転車で往復しただけで、翌日太ももが筋肉痛になった。初日は橋の坂道を二つ渡るのさえきつくて、結局坂道は押して歩いた。こいでいる間はマラソンしてるみたいな口呼吸になる。もうへろへろ。結局片道30分くらいだったかな。
一番寒くなる時期にチャリ通を始めたのでそとみには「重装備」っぽい。
でもこうしてひと月たってみると、ずいぶん体力がついたのを実感する。もう坂道を自転車を押して歩くこともない。Dパックを背負い、mp3プレーヤーで音楽を聴きながら通勤している(写真参照)。このひと月はずっと「Good Face Rockets(+アルファバージョン)」ばかり、聞いている。
というわけで「自分の心臓」が運動不足でやられてしまう前に「車の心臓」が身代わりになって警告してくれたと思うことにしている。