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高橋巌氏がものすごく長生きしていることは、かねてから知っていました。
アマゾンでルドルフ・シュタイナーの新刊が出ていないかチェックすると、春秋社から新刊がどんどん出てくるので、「もうすでに90歳超えてるはずなのに、なんて元気な人なんだろう」と思っていました。
ところが今年に入って、ネット上で彼が2024年に他界していたことを知って「ええっ」と驚いたのでした。
そして「彼」がいたからこそ、戦後、日本人にルドルフ・シュタイナーの名を広く知らしめることができたんだと改めて感謝の気持ちを持ちました。氏は角川書店と組んで1980年春に角川選書シリーズの一冊として『神秘学講義』という本を出しています。当時は「精神世界」という言葉が出版世界で頻繁に使われるようになっていた時代です。私がルドルフ・シュタイナーの名前を知ったきっかけが、まさに高橋巌氏の『神秘学講義』だったのです。
その後高橋巌氏に加えて、だんだんといろいろな人々が人智学本の翻訳者として参加してくるようになって、いまとなってはものすごい分量の邦訳本が日本国内で出回っています。
70年代にはすでに他の方々の手によってシュタイナーの邦訳が始められていましたが、高橋巌氏とイザラ書房が結びついたことで、日本におけるシュタイナー紹介が「再起動」されたのでした。氏の功績はルドルフ・シュタイナーの名前を日本においてポピュラーなものにしたということです。戦前にもルドルフ・シュタイナーのことを知っている人物(大川周明など)がいたのですが、戦後のような「邦訳本の横溢」があったわけではなく、要するに、ドイツ語圏の思想家として日本国民一般の相手にされていない人物でした。一方で中央ヨーロッパ思想に関しては、当時の世の中は「ドイツ哲学者リスペクト」の時代でした。小池都知事が「アウフヘーベン」などという「最近の大学生」にはちっともピンとこない言葉を発したシーンを見たとき、「ああ、この人も、日本の大学生たちが、そんな言い回しを口に出すのが、カッコいいと思っていた時代の残滓を引きずってきた人であったのだなあ」と思ったものでした。
高橋巌氏に続いてたくさんの邦訳本を出すようになった西川隆範氏は、東日本大震災が起こったあと病によって他界されました。
その西川隆範氏が、なにかの本で、日本で人智学を広めてきた「仲間たち」が結局みんなバラバラになってしまった、というような趣旨の感想を漏らしていたのを見たとき、「あまりにも人間的なもの」はどんな界隈でもおこらざるを得ないのだなあと改めて思いました。
ルドルフ・シュタイナーの率いてきた本家の人智学協会からして、「あまりにも人間的なふるまい」によって、ルドルフ・シュタイナーが悩まされたらしいですから。
ただ戦後日本の「人智学広宣の仲間たち」のあれやこれやの「いさかい」については、「いま、シュタイナーの『民族論』をどう読むか」の後半部に書かれていたことくらいしか私には分かりません。私は日本にある人智学関連のあれこれの組織の「会員」であったことはなかったので、「一匹へたれ(狼なんておこがましい)野郎」として長年ひとりでもっぱら読書にいそしんできたのでした。
今回の記事を書くに当たって、湾岸戦争勃発を機に出版された(1991年7月に出版)「いま、シュタイナーをどう読むか」に登場してきた対談者の方々の消息を振り返ってみたのです。
写真として掲げた4冊の本は、みなイザラ書房から出版されたものです。「いま、シュタイナーをどう読むか」で対談者のひとりとして登場してくる澁澤賛氏は、当時イザラ書房代表として紹介されていました。
それで今回改めて「イザラ書房」で検索したところ、イザラ書房のHP内の記事に行き当たりました。そこに澁澤浩子さんの回想が公開されていました。澁澤浩子さんは澁澤賛氏の奥様でしょうか?
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そして1985年、日本人智学協会が発足したのですけれど、その直前に高橋先生からイザラ書房をサポートして欲しいと頼まれたのです。協会を作るにあたって出版物が必要なのだがそれを出版する出版社がないと。高橋先生の本はイザラ書房からすでに何冊か出ていたので、皆の勉強になるような本が今後イザラ書房から出版できればいいと思うと、そのようなことを言われたのですが、その当時イザラ書房の経営状態が、はた目に見てもわかるほど悪化しているのは明らかだったのです。当時の私と夫の仕事は、全く別ジャンルの仕事で、ハーレクインロマンスの翻訳編集プロダクションだったのですが、非常に忙しい時期で、主人は業界新聞の編集長やら、はてはそこの代表取締役になったり、私は1ヶ月に多い時で6冊位の本を青山のハーレクイン日本支社に納めたりして、めちゃくちゃ大変な時でした。しかし出版のようなリスクがないので経済的にはうまくいっていて資金繰りは潤沢だったのです。ですからイザラ書房において事業的楽観は望めるとは思わなかったのですが、メインの仕事に精神性が感じられず、意義深い出版のお手伝いができればそれは心の幸いと思い、手伝わせていただくことにしました。
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20世紀後半に、日本における人智学受容の土台を作った方々が、21世紀前半の今、つぎつぎと姿を消していっています。
日本人は、「彼ら」の精力的な活動によって、「小池都知事」の学生時代のような近代ドイツ哲学リスペクト派と異なり、もう一段「山を登攀して」、さらに広い俯瞰景色を見ることができるようになっているはずなのです(ウルトラマンで言及した、日本精神の暗渠を流れる古代ドイツ人の日本への転生という伏流[非意識的流れ]もあります)。シュタイナーは「ニーチェは当時の唯物論ベースの学問世界のなかで、あれほどの才能に恵まれながら、〈もうひとつの視点〉との邂逅を果すことができず、ついに唯物論ベースの思想構築をするしかないという悲劇を体現した人物だ」という趣旨の感想を述べています。
日本に人智学の有能な「第二世代」「第三世代」は生まれているのでしょうか?
以前も紹介しましたが、米国にはドイツ本国の人智学協会とは無関係ではあるけれども、精力的にルドルフ・シュタイナーの講義録を集約公開しているルドルフ・シュタイナー・アーカイブというサイトがあります。
このサイトの「検索機能」は非常に便利です。英語ベースサイトなので、検索用語は英語で入力しないと日本語翻訳のページに日本語入れても反応しません。とはいえ、たとえばJapanese Chineseなどと並べて英単語を入れて手元のキーボードのENTERキーを押すと、たちどろこにGA番号が振られたいくつもの記事が候補リストに出てきます。
読みたいGA番号をクリックするとページ全体を読むことができます。
かつてドイツ語を読めない日本のシュタイナーファンたちは、「有志の方々」による邦訳本の出版を待っているしかありませんでしたが、すでに時代は変化しているのでした。
日本のシュタイナーファンのなかには、この米国のサイトに載っている記事を日本語翻訳機能にかけて隅から隅まで読破してしまうようなやからも出てきそうです。
-----------------------------------------------------------------------------紀元前数世紀に、ギリシア人は賢い振る舞いをしました。ギリシア人はエジプト人を非常に尊敬していました。しかし、彼らは古代エジプト語を学びませんでした。ギリシア人はエジプト語を学ばなかったのです。現代の学者はギリシア語を学ばねばなりません。ギリシア人はもっと利口でした。私たちは彼らが追及したものを模倣せずに、彼らの言語を学んでいます。現代の学者には捉われがあり、原初に地上にあったものを探求せず、古代の言語に精通しようとしています。そうすることによって、彼らは本質的なものから逸れています。青年たちが医者になろうとすると、まずギリシア語の習得で頭を悩まさなくてはなりません。私はギリシア語を非常に愛していますし、ギリシア語を役立てようとする人々は学ぶべきです。しかし、医者や法律家になろうとする人々は、そうではありません。彼らはギリシア語を習っても、のちには忘れます。(「神仏と人間」P75)-----------------------------------------------------------------------------日本人も古代のギリシャ人のようでありたいです。幕末の志士たちの外国語熱も「内容」を手に入れたいという願望があったればこそでした。誰が成績一番かなどと増上慢(利己主義)にふけっている現代の日本の中学生高校生のような志士たちはかつていなかったのです。「彼ら」は近代国家による教育システムによって「精神的荒廃(孤立化)」させられることから、まだまぬがれていました。
こんにちにつながるような、そういう増上慢マインドを持った子供たちが、明治維新後だんだん増えていきました。こんにちの親ガチャ論はその集大成です。戦前まではそれでもまだ「私ではなく、私の中の〇〇マインドに沿いたい」という感覚は「利口者たち」のマインドにも「疑いなく」存在していました。
戦後、西洋式の学校システムは、さらに「日本的」に洗練されて、西洋的なものを外面的に(悟性魂的に)凌駕するようになり「官僚選抜の予備学校」化するにつれ、学校生活において周囲の者は皆私のコンペティターだとする「強い自己保存本能」ばかりが刺激されるようになって、「学校で教え込まれるきれいごとを上手に文章化できる能力(官僚的才覚)」の内側で「強烈な利己主義」となって日本人の若い層の精神を荒廃させるようになり、こんにちの教育世界の悲惨化にいたっているのでした。「そのマインド」を国家が子供たちに芽生えさせているので、子供たちのマインドは、学年が上がっていくにつれて、ますます一方で疲弊していくのです。こんにち「学力と呼ばれているもの≒ペーパーテスト対応能力」は「近代式教育システムによって子供の心に芽生えさせられている利己主義を達成する」ための強力な引換券となっています。それは日本の未成年たちの精神生活とはかかわりのない「内容なき技術」に過ぎないのです。
日本の高等学校の古文で高校生が何をやらされているかについては、かつて当ブログでも、ぼやいたことがあります。シュタイナーの言う古代ギリシャ人のような立場で「国民一般」と向かい合ってきたのは、むしろ古典の教師たちのような学校関係者ではなく、漫画家のような人々だったとも書きました。
人智学については、もちろん、ドイツ語で読めることが一番です。大事なのは「それで自分は何をしているのか」自覚的になっておくことです。
現代日本の漫画家たち(それにアニメ制作者たち)は利口だったので、高校生がひたすらそれに苦しめられているような「翻訳能力の向上(ペーパーテスト対応能力)」にリソースを割かずに、「古文に書かれている内容をみなに広く知らせることに注力」しました。漫画家たちは「古い時代の日本の物語」の内容をよく知っていますが、現役の高校生は3年間古文に苦しめられても、何も「心」に残っておりません。そのような「ふるまい」、つまり「膨大な精神エネルギーの無意味な浪費」で日本の先祖たちの精神生活を理解できるのでしょうか?
そもそも古文は活字で書かれたのではありません。当時の文書には句読点もありません。しかし高校生は、段落分けされ、きれいな近代日本の活字で句読点を振られた文章を相手に、まるで語学をやらされているかのように翻訳作業ばかりやらされてきました。
日本の高校生が目にしているものは一体「何」なのでしょう。「近代精神で異様に捻じ曲げられた、本来そのような形で存在してはいなかった架空の印刷物」です。原本は、筆による草書体で書かれているんですよ。共通テストで古文が満点だった高校生に、「現物」(つまり昔の人が書いた文書)を渡して、読んでくれといっても、実際には何ひとつ分からないのですから。もはや草書体を読める人は現代日本人一般には存在しません。
今の日本人は「上手なペーパーテスト対応ができること」が学校教育の到達点だと思っています.
その「到達点」から逆算して作成されたような各学科の教科書と教授法(「ここ、テストに出るからな、みたいな・・・・」)で授業が行われています。技術は手に入りましたが、その技術は、「心」とは何のつながりももっていません。むしろそうすることで国民の心を疲弊させてきたのでした。
こういうことも、これから変えていかなければならないと思います。
最後に、今回は高橋巌氏の話題から始めたことにかこつけて、高橋巌はミュージシャンだった、ということを強調して終わりたいと思います。
YouTubeがGoogle傘下になる以前の時代に、高橋巌氏はハーモニカの独奏をYouTubeにアップしていました。いまでもその動画が見られるかと検索をかけてみましたが、悲しいことにかつて私が見た演奏動画は消えてしまっています(当時ダウンロードして保存しておけばよかったなあ)。けれども、かろうじて以下のような動画が残っておりました。
戦後日本には、かつてハーモニカ・ブームの時代があったってことが面白いですよ。PR -
先週のことだが、YouTubeのhome画面を訪れたら、サムネイルに崎谷健次郎がドナルド・フェイゲンの「I.G.Y.」の完コピカバー・バージョンをアップロードしているのに気が付いた。彼が「I.G.Y.」のカバーを公開したのが4月29日なので、今ちょうどひと月後ということになる。
え、えつ・・・・、そもそも崎谷健次郎がYouTube用のオフィシャル・アカウントを持っていて、そこに自分の動画を上げていたという事実に、こんにちまで気が付かずにいたことにびっくりした。
ちなみに本家バージョンは以下。
あらためて崎谷健次郎についてWikipediaでチェックしてみた。なんと彼は1962年生まれで、今63歳だということが分かった。今でも非常に若く見える。1987年にオリジナルアルバム「ディファレンス」でソロ・デビュー。
当時私もすぐ飛びついて以後彼がアルバムを出すたんびに追いかけたものだった。名曲「もう一度夜を止めて」にいたってはピアノ譜を手に入れて練習していた時期があったくらいだ。今でもその譜面は持っている。
昔当ブログでcakewalkというWindows XP時代のDTMソフトについて何度か書いた。そのとき、「一曲仕上げてくたくたになり、もう打ち込みなんてこりごりだと思うようになった」というような趣旨の話をしたけど、実はその時に完成させた曲が崎谷健次郎の「GO INTO THE TV」だった。この曲のベースラインが大のお気に入りだったからだった。
で、崎谷健次郎が「I.G.Y.」の完コピ・カバーをアップロードしたのを見て、「あ、オレも崎谷健次郎のカバーを公開してもいいんじゃないか」と急に思うようになったので、昨夜動画作成ソフトAviutlのアイコンをひさびさポチッて、崎谷健次郎オマージュをささげることにしたのだった。
最初にこれを企画した当時(Windows XP時代)、自分の声でボーカルを入れ、どこかの若い女子にコーラスをやってもらって完成させたかったのだけど、自分には少々キーが高いので、ひどい歌の仕上がりにしかならなかった。それに、コーラスを手伝ってくれそうな若い女子も身近にいなかったので、結局カラオケだけが残ったのだった。大昔一度YouTubeにアップしたことがあったけど、Google傘下に入った時期に削除したのだった。
今回、動画を作り直してアップロードしたら、しっかり著作権もクリアしてくれてるので、安心して見ることができる。ということで、以下「GO INTO THE TV」のカラオケです。
ちなみに以下が本家バージョンです。
P.S.さらに、ちなみにですが、動画作成中の合間に以下の動画も見て「ほほう」と思ったので紹介しておきます。
楽器は歌は「〈自分の身体〉を使うから楽しい」んですよ。
プロンプト打ちオンリーの人はミュージシャンじゃないでしょ。
警察には犯人の似顔絵描きをする人がいますけど、その絵描きさんたちは犯人の顔を目撃した協力者たちの「こんな感じです」という「プロンプト」に沿って絵を仕上げてるんですよ。絵筆を動かしている人は「画家」ですけど、「こんな感じです」と指示を出している人は、画家じゃないですから。これまでの商習慣的アナロジーで考えると、目撃者は、発注者、クライアント側寄りです。警察から「協力してください」と発注されて、それを請け負い、さらに画家にどんな絵にするか注文する人です。AI制作においては、これまでは人が人に発注していたのが、機械相手に変わっただけですよ。クライアントがAI絵師(ここまでは人が人にです)に発注し、AI絵師(プロンプト打ち)がAI(霊魂を持たないアーティスト)に発注しているのですよ。似顔絵画家さんの話はAI絵師に、より関連した話ですけど、音楽家だっておなじですよね。
とはいえ、経済領域では、AI制作者に発注すれば、これまで人に発注してきたコストよりも安価で済み、効果も人を使っていた時代と変わらないという統計上の数字が厳然と現れるようになったら、「企業」は営利を目的として会社を営んでいるのですから、「コストのかからない方」を選ぶでしょう。超有名女優や超有名プロ野球選手をCMイメージとして雇う力のある大企業は、絵や音楽にも実績と実力のある人に発注して彼らに大金を出すでしょうが、潤沢な資金を持たない地方の中小企業はだんだんとAI制作を選ぶようになりそうです。それもまた一方では必然の未来なんでしょうねえ。あとは法整備が追いつくことですよね。 -
個人的には、まったく踊ったりしないし、「人前で踊りたい」と思ったこともない人生を歩んできたのですが(バンド活動は若いころ、ときどき人前でやってましたが)、なぜか当ブログには「ダンス」というカテゴリーがあります。考えてみるとオッサンがダンス動画を好んで見ているのは、「ダイジョブ」なことなのだろうかと不安に思うこともあります。
当方まったくその方面の知識はないし、要するにただの素人評定です。
以前から時々、YouTubeのホーム画面に「robot dance」という言葉で登場してくるダンス動画が現れることは知っていました。
そのたんびにクリックして、「おー、面白いなー」と思ってはいましたが、「この人は何者なんだ」という関心を持つまでには至っておりませんでした。
ところが最近以下の動画を見て、完全に魅了されてしまったのです。なぜか直接動画として貼れないので、リンク式でご紹介します。
another beat drop!
(↑クリックしてみてください。驚きますよ)
特にこの動画の10~11秒あたりで、彼女が頭を左に2回振る瞬間がいいですよ。
あなたもここでノックアウトされるはず。
ということで、数々ある彼女のダンス動画の中で、今回ご紹介したダンスが、私の一番のお気に入りになりました。(つまり何度も見たくなる、ということですね)。姿も衣装もメイクもなんか完成しちゃってますよね。とっても上品です。
このダンス動画をみて衝撃を受けたせいで、やっと「彼女は誰?」という関心がわいて、とうとう「調査作業」が始まりました。
Yahoo!知恵袋に以下のような回答が出ていました。
-------------------------------------------------------------------------------芸名: Barbin.ili /Ba Bin (芭比)出生名: Hu Li Lu (フー リー ル)誕生日: 1995 年 11 月 6 日出身地:浙江省温州市星座: さそり座身長: 155cm(5フィート1インチ)体重: 48キロ(105ポンド)ACKYさんという日本人ダンサーが、彼女のポッピング-------------------------------------------------------------------------------
と呼ばれるダンススタイルの師匠のようですよ。
「へー、ポッピング」っていうのかと新しい知識が増えました。
「barbin.ili芭比」という名前で活動しています。芭比=バービーみたいです。
中国のタレント発掘番組に出たことがあるようです。
Youtubeのrobot danceカテゴリーの人気女性ダンサーとして、もうひとりbabyslowという、これも中国人のダンサーが有名のようです。
YouTubeには、barbin.ili(China) vs Babyslow(Japan)として、日本人として紹介している動画もありましたが、調べてみると、中国語記事で以下のように
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ワン・チェンアー - 中国本土の女優。 2016年と2017年には、HHI世界ストリートダンス選手権上海ステーションダンス選手権大会と武漢ステーションダンス選手権大会でそれぞれ優勝した。 2018年には『This is ストリートダンス』シーズン1のレコーディングに参加。 2019年には湖南衛星テレビの「Dance...」に出演。
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とありますから、チャイナガールではないでしょうか。ただし現在日本で活動しているようです。
love MJ
ということで、
barbin.ili芭比とbabyslowという二人のチャイナガールの名前を新たに記憶することになりました。 -
人智学の本を学ぶということは(いや本質的に言えば、それは人智学に限った話ではないのですが)、「〇〇についてはこういうふうに要約できるというふうに、考察対象と自分との距離感を手早く仕上げてインデックス化し、この思想については、これでサマリー化終了、じゃ、次の本のインデックス化へ進もう」と思うような「知識との付き合い方」をしている人には、何の意味ももたないでしょう。本を読んでも〈彼の生き方〉は、「これまで同様」です。
「この手の博識な知識人」はたとえば「宗教とはなんですか」と尋ねると「それが宗教であるためには、教祖、教え、信者の三つが揃っている必要があります。その三つが揃っているものを宗教と言います」などと答える自分に疑問を持つことができません。
こんにちそのような「知的に見えるふるまい」はAIが代わりにしてくれるようになりました。
学校教育の歴史の時間に、あるいはNHKの番組で、またはニュースなどで、宗教に関する唯物論的な説明を聞かされ続け、「信者の属している組織体」が歴史的にやらかしてきた非人道的なあれこれを知って、「宗教とは事実と関わりのない不合理な妄想を信じる行為だ」と考えるようになったのが、こんにちの日本人です。特にアジア人にとって、白人キリスト教徒たちは、「愛しなさい」と教えながら、一方で「その思想(組織的信念)にまつろわない人々」の命を奪ってきたうそつき集団でした。その悲惨な失敗の数々を「歴史の授業」として教科書で教えられると、今日的な言葉を使えば「なーんだ、白人たちというのは要するにただのサイコパス・・・、人類愛を唱えながら、人殺しをやってきた殺人鬼たちなんだ」と思うようになります。国家運営と結びついたことを疑問に思わない西洋のキリスト教徒たちを、日本人は「彼らのその歴史的失敗行為(友愛よりも殺害)の連続」によって「組織体で宗派活動をする人々はまったく信用がならない連中だ」と思うようになりました。これも「一種の近代式歴史教育の成果」ですが、そのような「近代教育」に沿って感情を育ててきた人は、続けて「だから共産主義も宗教だ」と容易に毒づくようになります。
本来宗教とは何だったのでしょう。
宗教とは「人間界を超えた世界を敬う態度」のことです。この観点から言えば、共産主義者たちは、宗教信者なのでしょうか。
新渡戸稲造が、「宗教というのは道徳を育成するために存在するものだが、あなたの国には何かそのような宗教はあるのか」と「近代的」キリスト教徒の外国人にたずねられて、その問いに悩んだすえ、彼への回答として英語で書いた本が「武士道」でした。
しかし「人としての生き方」「道徳を教えること」が宗教であるなら、そのキリスト教徒(近代西洋人)は「物質界の秩序を整序するためのツール」としてしか、実はキリスト教の存在意義を認めていないのかもしれません。「失礼ながら、貴殿は宗教の存在意義をいささか狭くとらえておられるのではないでしょうか」と新渡戸稲造は反論することができませんでした。彼もまた宗教を唯物論的に(つまり物質界の統治と整序の道具として)把握する傾向を、その外国人と共有していたからです。そして新渡戸稲造は「西洋精神の思考形式」に沿って、つまり、「物質界の事象の把握を容易にする言語」である英語で本を書きました。
道徳というよりも「古代以来の血族(家族)主義」から生じてきた、対人マナーを集積した教えである儒教も、「この視点」から見れば「宗教」ということになります。儒教には先祖崇拝の要素があり、そのための儀式の手順や道具類も存在します。しかし中国人は「死後の世界」には関心がありませんでした。むしろ「死者(先祖たち)の現界への出現」は忌避すべき事態であり、そのための封じ込めの呪法なども考案しました。水滸伝の始まりは「呪法によって封じられていた108人の死者の魂」を解放するエピソードから始まりす。「死者の封印」「物質界からの締め出し」を善とする「観念」が古代の中国人のなかにはあったのです。「物質界で生きている人間たちの対人関係を秩序付けること」、彼らはこの「関心事」に注力したのです。気の思想も霊界参入のためというよりも、物質界の秩序維持に役立てるためでした。のちにそのような「死者は封印すべし」という思想と呪術が古代に大陸から日本に入ってきて、神社文化の一部に組み込まれました。
「物質界における人としてのふるまい方」を教えてくれるものが「宗教」ならば、こんにち日本で暗躍しているマナー講師たちも、宗教行為を行っているという極論に達することも可能でしょう。
「よき人間」になることは、人類が、かつては持っており、今は失ってしまった「自然な霊界参入体験」を果たすための準備になるのです。「道徳的であること」は、こんにち特別な巡りあわせで「秘儀参入者」となろうと努力している人物にも「当然課せられている課題のひとつ」です。しかし「地上でよい人間になること」が、宗教の究極の目標ではありません。死んだら終わりだと思って生きている唯物論者も「地上で良い人間になろうと努力すること」を価値ある努力だと見なしています。
こんにちまで宗教として伝わってきたものは、古代の人々が「実際に体験した物質感覚を超えた先にある世界」を、地上の日常界に戻ったときに敬う行為から発展してきたものです。それが、のちの「特殊」な啓示宗教、あるいは教えの体系化によって「書かれたもの(教理)に立脚する集団行為」に発展したのです。
神道には「教えがない」ということをことさら「宗教上のイレギュラーだ」とみなして価値づけをし、そのようなものとして神道を語る人は、「自覚なき西洋視点かぶれ」になって自分たちの生活圏で目にする、あれやこれやを「近代の西洋概念」で判断していることに気が付いていないのです。私論では「神道は秘儀参入者を敬う行為から発展した」という話を何度も当ブログでは行ってきました。そもそも日本語の「宗教」という言葉も明治時代に「新たに造語された数々の西洋由来の概念の熟語化のうちのひとつ」なのです。明治時代以降、日本において熟語化された「西洋由来の概念」は、大陸や半島の人びとの使う母語の中に大量に流れ込んで完全に母国語化しています。
自然の中に入ってその「荘厳な雰囲気」を感じると「なんだかそこかしこに目には見えないけど、何かがいるような気がして拝まずにはいられなくなる」と感じたので、そのような古代の人類の想像力から、古代人は素朴な信仰を始めるようになったのだ。近代的学問に携わるわれわれは、これをアニミズムと呼んで区別しようと思う、と近代西洋の学者たちは思ったのです。「頭の悪かった古代人たちは、そんなふうに空想をたくましくした」・・・・・これが、日本人が西洋文化に対抗して「日本文化」を誇るためにしばしば援用する「いわゆるアニミズムという言葉」の本来の意味です。これは「唯物論者の古代人観」、もっと言えば「近代思想」なのです。
しかし実際には、太古以来、遠い時代の先祖たちは、超感覚的世界を「直接」体験し、この世界には物質界のほかに、自分たちの意識の前にそれとは別個の「出現の仕方」をする世界が存在するということを「知って」いました。ここで言う「知っている」というのは、「あなたはA地区の山田一郎さんを知っているか」と尋ねられて「はい、知っています。会ったことがありますから」と答える人と同じような体験をかつての先祖たちはしていたということです。しかし、時の経過のなかで「それを体験する能力」を失ってしまったのです。それこそがこの世に宗教が生まれた理由です。「人類が認識(直接体験)できなくなってしまった世界がある」ということを「同胞たちが忘れ切ってしまわない」ようにと、世界中の民族共同体のなかで「宗教」という「特別な形式」が生まれたのでした。
自然の中に入ってその「荘厳な雰囲気」を感じると「なんだかそこかしこに目には見えないけど、何かがいるような気がして拝まずにはいられなくなる」と感じたので、そのような「人類の想像力」から、古代人は素朴な「信仰」を始めるようになったのだ、と説明するのが、いわゆる日本人が「日本文化」を誇るためにしばしば援用するアニミズムという言葉の本来の意味です。これは「唯物論者の発想」です。
人間を超えた「隠れた領域」があり、人はそれを敬ってきたのです。そして「それらを敬う行為」こそを宗教的振る舞いとみなすことができるのです。
宗教と聞いて「教祖や教えや信者」の話を第一に思い浮かべる人は、すでに十分「普段どんな思考方法で生活を営んでいるか」に関して「唯物論者」でしょう。神道に教えがないことに「驚き」、「神道は宗教なのか」という問いに向かう人は、たとえば、世界中にある民族音楽を、西洋の楽典によって解釈しようとする人と似ています。東洋の伝統下に生きている人々が、どれほど「西洋から(しかもそれは近代に生まれたものです)借りた分類方法(つまり思考方法)で自分たちの精神生活を〈分類・解釈〉しようとしてきたか」、ちゃんと「意識化」できている日本人はあまり多くないように思えます。
日本を誇るために西洋の近代的な(つまりきわめて唯物論的な)分類衝動を、自分たちの暮らしや文化に当てはめて吟味し、世界に誇って見せるというのは、あまり「誇れる思考態度」とは、私には思えないのです。それを「無自覚」に行えば、たとえば、「日本はアニミズム文化だから素晴らしい」と、そういうレッテル貼り(言葉遣い)が「本来の学問的語義」の「日本人的誤解」から生じている現象なのだということを、その「誉め言葉」を傾聴している人々(一般日本人たち)に気がつかなくさせます。唯物論化した西洋人の「感覚」を「日本上げ」のための素材として重宝する「知的な(というよりも政治的な)人々」としてふるまう、そういう笑える事態が(ほんとは笑えませんが)「日本の近代」に出来してもう長いのです。 -
「チャイニーズ・ルシファーは中国古代神話上の誰に当たるのか?」という表題を掲げて始まる本稿ですが、実は明確な回答は私自身は持っていません。
中国の古代神話に出てくる「堯舜の時代」に当たる人物なのかとも思ったりもしましたが、よく分かりません。上に掲げた図(クリック)で言うと、人智学上の区分ではエジプト文化期に東アジアでは、ルシファーの受肉が起きていたことになります。ちなみに最下段の列はこんにちの占星術の区分になります。上段の列が人智学的区分です。人智学的には水瓶座時代は西暦3573年以降に始まるとされています。
エドガー・ケイシーが占星術に言及するときは、こんにちの占星術の区分に準じて発言しているようです。「魚座時代のまんなかでインマヌエル(キリスト)の降誕があった」と述べたのがエドガー・ケイシーです。
ちなみに「グノーシス」についてエドガー・ケイシーは「初期のキリスト教にあって、こんにちのキリスト教にはまったく含まれていないものである」と回答しています。
一方、ルドルフ・シュタイナーは、「キリストの降誕は牡羊座時代に起こった」と語っています。神の子羊という言葉が生まれたのも、牡羊座時代が背景にあるからだと。そして魚座時代に入ったこんにち、キリストは今後ますます「魚の象徴」で把握されるようになると語っています。人智学的には、「今、魚座時代の10分の3ほどを通り過ぎた」ところです。
今から4000年ほど前、紀元前2000年を過ぎた時期に、中国にルシファーが人間として現れたという話をしたのがルドルフ・シュタイナーでした。邦訳本では『悪の秘儀』で彼の発言を確認することができます。
とはいえ、「ルシファーの受肉」は当時の人類社会に何をもたらしたのかについては、『悪の秘儀』では語られていませんでした。この本においてシュタイナーは、「これから未来に起きることになっているアーリマンの受肉」の話に、より多くの紙面を割いています。
そして「こんにち」こそ「それが起きる(あるいは、すでに起きている?)時期」なのだということになります。GA193においてシュタイナーは「アーリマンは人類に不意打ちを食らわせるような形で現れる」と書いています。
とはいえ、今回はまず、「古代の中国人に化身したルシファー」について、シュタイナーの発言をここでご紹介させていただきたいと思います。
以下の引用は、以前にも紹介した「ルドルフ・シュタイナー・アーカイブ」のGA193の記事をGoogle Chromeのウェブ翻訳機能を使って、翻訳したものです。
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第三千年紀の初めに、重大な出来事が起こりました。このぼんやりとした、より本能的な生活の根本原因は、霊魂の存在である人間が、当時まだ知性の器官をうまく活用できなかったことにあると言えるでしょう。これらの器官はすでに人間の中にあり、肉体的な構造の中に形を成していましたが、霊魂の存在はそれらを活用することができなかったのです。そのため、人間は自らの思考、自らの知的な識別力によって知識を得ることができませんでした。彼らは秘儀から授けられるものに依存していたのです。そして、第三千年紀の初め頃、東アジアで重大な出来事が起こりました。
当時、アジアの名門一族の子供が、秘儀の儀式が行われる場所で育つことを許された。この子供は実際に儀式に参加することが許されたが、それは秘儀の儀式を執り行う司祭たちが、そのような子供を参加させるべきだと霊感を受けたからに違いない。そして、その子供に宿る存在がおよそ40歳になったとき、非常に驚くべきことが明らかになった。東アジアの秘儀の中心地の一つで育つことを許されたこの男が、およそ40歳になったとき、それまで啓示によってのみ秘儀にもたらされていたことを、人間の知性そのものによって突然理解し始めたことが明らかになったのである。秘儀の司祭たちがこの出来事を予見していたことは疑いようもない。彼は、いわば人間の知性の器官を初めて利用した人物であったが、それでもなお秘儀との関連においてであった。
秘儀の司祭たちがこの件について語ったことを現代の言葉で言い換えるならば、こう言わざるを得ない。この人において、ルシファー自身が受肉したのだ――それ以上でもそれ以下でもない!紀元前3千年紀に、東アジアで実際にルシファーが肉体をもって受肉したというのは、重大かつ重大な事実である。そして、このルシファーの肉体による受肉――この存在は教師となった――から、キリスト教以前の異教文化と呼ばれるものが生まれ、それはキリスト教初期の数世紀のグノーシスの中にも生き残っていたのである。
このルシファー文化を軽蔑的に判断するのは誤りだろう。ギリシャ文明が生み出したあらゆる美しさ、古代ギリシャ哲学やアイスキュロスの悲劇に今なお息づく洞察力でさえ、このルシファーの化身なくしては不可能だったに違いない。
キリスト教初期の数世紀において、ルシファーの化身の影響は、ヨーロッパ南部、アフリカ北部、そして小アジアにおいて依然として強力でした。そして、地上でゴルゴタの神秘が起こったとき、それを理解できたのは本質的にルシファーの叡智を通してでした。ゴルゴタの神秘の意味を解明しようとしたグノーシスは、ルシファーの叡智に深く染み込んでいました。したがって、まず第一に、紀元前3千年紀の初めに中国でルシファーの化身が起こり、現代の初めにキリストの化身が起こったことを強調しなければなりません。そして、キリストの化身の意義が理解されたのは、古いルシファーの化身の力がまだ残っていたからです。この力は、西暦4世紀まで人間の理解力から実際に消え去ることはなく、その後もなお、その余波と影響が残っていました。
古代におけるルシファーの化身と、地球に意味を与えるキリストの化身という、この二つの化身に、そう遠くない未来に第三の化身が加わるだろう。そして、現代の出来事は既に、その化身を迎える準備段階へと進んでいる。
紀元前3千年紀初頭におけるルシファーの受肉について、私たちはこう言わなければならない。ルシファーを通して、人類は知性の器官、すなわち知的識別力を用いる能力を獲得した。かつて啓示によってのみ人類に伝えられていたもの、すなわち秘儀の内容を、知性の力によって初めて理解したのは、人間の肉体を持ったルシファー自身であった。
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紀元前20XX年ごろ「当時、アジアの名門一族の子供が、秘儀の儀式が行われる場所で育つことを許された」とシュタイナーは書いています。
今から4000年前の「アジアの名門の一族」って何家なんでしょう?
〈彼〉は秘儀参入者たちが集う土地っ子として生まれ、そこで成長し、儀式にも参加し、40歳のときに「未来の人間たちが順次手に入れていくことになる能力」を初めて人体経験にもたらした人物だった、とシュタイナーは述べています。
ということは、私や今この記事を読んでいるあなたが持っているところの、知性を行使する能力も、4000年前のルシファーの受肉に負っているということなのでしょうか。
ということで以上、GA193「ルシファーとアーリマンの影響」(講義3)からの抜粋と解説でした。