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「チャイニーズ・ルシファーは中国古代神話上の誰に当たるのか?」という表題を掲げて始まる本稿ですが、実は明確な回答は私自身は持っていません。
中国の古代神話に出てくる「堯舜の時代」に当たる人物なのかとも思ったりもしましたが、よく分かりません。上に掲げた図(クリック)で言うと、人智学上の区分ではエジプト文化期に東アジアでは、ルシファーの受肉が起きていたことになります。ちなみに最下段の列はこんにちの占星術の区分になります。上段の列が人智学的区分です。人智学的には水瓶座時代は西暦3573年以降に始まるとされています。
エドガー・ケイシーが占星術に言及するときは、こんにちの占星術の区分に準じて発言しているようです。「魚座時代のまんなかでインマヌエル(キリスト)の降誕があった」と述べたのがエドガー・ケイシーです。
ちなみに「グノーシス」についてエドガー・ケイシーは「初期のキリスト教にあって、こんにちのキリスト教にはまったく含まれていないものである」と回答しています。
一方、ルドルフ・シュタイナーは、「キリストの降誕は牡羊座時代に起こった」と語っています。神の子羊という言葉が生まれたのも、牡羊座時代が背景にあるからだと。そして魚座時代に入ったこんにち、キリストは今後ますます「魚の象徴」で把握されるようになると語っています。人智学的には、「今、魚座時代の10分の3ほどを通り過ぎた」ところです。
今から4000年ほど前、紀元前2000年を過ぎた時期に、中国にルシファーが人間として現れたという話をしたのがルドルフ・シュタイナーでした。邦訳本では『悪の秘儀』で彼の発言を確認することができます。
とはいえ、「ルシファーの受肉」は当時の人類社会に何をもたらしたのかについては、『悪の秘儀』では語られていませんでした。この本においてシュタイナーは、「これから未来に起きることになっているアーリマンの受肉」の話に、より多くの紙面を割いています。
そして「こんにち」こそ「それが起きる(あるいは、すでに起きている?)時期」なのだということになります。GA193においてシュタイナーは「アーリマンは人類に不意打ちを食らわせるような形で現れる」と書いています。
とはいえ、今回はまず、「古代の中国人に化身したルシファー」について、シュタイナーの発言をここでご紹介させていただきたいと思います。
以下の引用は、以前にも紹介した「ルドルフ・シュタイナー・アーカイブ」のGA193の記事をGoogle Chromeのウェブ翻訳機能を使って、翻訳したものです。
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第三千年紀の初めに、重大な出来事が起こりました。このぼんやりとした、より本能的な生活の根本原因は、霊魂の存在である人間が、当時まだ知性の器官をうまく活用できなかったことにあると言えるでしょう。これらの器官はすでに人間の中にあり、肉体的な構造の中に形を成していましたが、霊魂の存在はそれらを活用することができなかったのです。そのため、人間は自らの思考、自らの知的な識別力によって知識を得ることができませんでした。彼らは秘儀から授けられるものに依存していたのです。そして、第三千年紀の初め頃、東アジアで重大な出来事が起こりました。
当時、アジアの名門一族の子供が、秘儀の儀式が行われる場所で育つことを許された。この子供は実際に儀式に参加することが許されたが、それは秘儀の儀式を執り行う司祭たちが、そのような子供を参加させるべきだと霊感を受けたからに違いない。そして、その子供に宿る存在がおよそ40歳になったとき、非常に驚くべきことが明らかになった。東アジアの秘儀の中心地の一つで育つことを許されたこの男が、およそ40歳になったとき、それまで啓示によってのみ秘儀にもたらされていたことを、人間の知性そのものによって突然理解し始めたことが明らかになったのである。秘儀の司祭たちがこの出来事を予見していたことは疑いようもない。彼は、いわば人間の知性の器官を初めて利用した人物であったが、それでもなお秘儀との関連においてであった。
秘儀の司祭たちがこの件について語ったことを現代の言葉で言い換えるならば、こう言わざるを得ない。この人において、ルシファー自身が受肉したのだ――それ以上でもそれ以下でもない!紀元前3千年紀に、東アジアで実際にルシファーが肉体をもって受肉したというのは、重大かつ重大な事実である。そして、このルシファーの肉体による受肉――この存在は教師となった――から、キリスト教以前の異教文化と呼ばれるものが生まれ、それはキリスト教初期の数世紀のグノーシスの中にも生き残っていたのである。
このルシファー文化を軽蔑的に判断するのは誤りだろう。ギリシャ文明が生み出したあらゆる美しさ、古代ギリシャ哲学やアイスキュロスの悲劇に今なお息づく洞察力でさえ、このルシファーの化身なくしては不可能だったに違いない。
キリスト教初期の数世紀において、ルシファーの化身の影響は、ヨーロッパ南部、アフリカ北部、そして小アジアにおいて依然として強力でした。そして、地上でゴルゴタの神秘が起こったとき、それを理解できたのは本質的にルシファーの叡智を通してでした。ゴルゴタの神秘の意味を解明しようとしたグノーシスは、ルシファーの叡智に深く染み込んでいました。したがって、まず第一に、紀元前3千年紀の初めに中国でルシファーの化身が起こり、現代の初めにキリストの化身が起こったことを強調しなければなりません。そして、キリストの化身の意義が理解されたのは、古いルシファーの化身の力がまだ残っていたからです。この力は、西暦4世紀まで人間の理解力から実際に消え去ることはなく、その後もなお、その余波と影響が残っていました。
古代におけるルシファーの化身と、地球に意味を与えるキリストの化身という、この二つの化身に、そう遠くない未来に第三の化身が加わるだろう。そして、現代の出来事は既に、その化身を迎える準備段階へと進んでいる。
紀元前3千年紀初頭におけるルシファーの受肉について、私たちはこう言わなければならない。ルシファーを通して、人類は知性の器官、すなわち知的識別力を用いる能力を獲得した。かつて啓示によってのみ人類に伝えられていたもの、すなわち秘儀の内容を、知性の力によって初めて理解したのは、人間の肉体を持ったルシファー自身であった。
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紀元前20XX年ごろ「当時、アジアの名門一族の子供が、秘儀の儀式が行われる場所で育つことを許された」とシュタイナーは書いています。
今から4000年前の「アジアの名門の一族」って何家なんでしょう?
〈彼〉は秘儀参入者たちが集う土地っ子として生まれ、そこで成長し、儀式にも参加し、40歳のときに「未来の人間たちが順次手に入れていくことになる能力」を初めて人体経験にもたらした人物だった、とシュタイナーは述べています。
ということは、私や今この記事を読んでいるあなたが持っているところの、知性を行使する能力も、4000年前のルシファーの受肉に負っているということなのでしょうか。
ということで以上、GA193「ルシファーとアーリマンの影響」(講義3)からの抜粋と解説でした。PR -
以前ブログで言及した「ルドルフ・シュタイナー・アーカイブ」の存在は、もうずいぶん前に知っていたんですが、初めてこのサイトを訪れた当時は、こんにちほど使い勝手がよいものではありませんでした。
それが今では、ほぼ日本語として違和感なく読めるような状態になっていることに気が付いて、最近は全集に付けられたGAの番号や、邦訳本のなかに出ている講義の年代や日付をもとに、このサイトを使った「確認作業」をスムーズに行えるようになっています。
最近、シュタイナーの発言に関して自分の中の疑問が氷解したのも、「ルドルフ・シュタイナー・アーカイブ」にアクセスできた結果でした。
「シュタイナー用語辞典」のなかに「入浴」という項目があり、「入浴はむしろ有害である」と辞典には出ていました。
世界の中で最も入浴行為が好きな国民に属している私としては、この発言はなかなかに聞き捨てならないものでした。「何が問題なんだろうか?」と当然思いましたが、ずっとそのままにしていました。
辞典にはシュタイナーの発言のまとめに加えて、参照元の全集の番号が付いていましたが、これまで「その情報」を有効活用することができないでいました。
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入浴[Baden]
手を洗うと周囲に対する敏感さが増す。入浴はむしろ有害である。(全集124)
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最近になって、「そうだ。ルドルフ・シュタイナー・アーカイブで参照元をチェックしてみよう」と思い立ち、調べてみました。すると以下のような記述に出会いました。
参照先:マルコ福音書の背景 GA124 VII.人間の構成要素の上位部分-------------------------------------------------------------------------------------------ここで重要なのは、魂と精神が身体の様々な部分といかに異なる形で関係し、表現されているかを示すことです。手を洗いすぎることでアストラル体に害を及ぼす人はまずいないでしょうが、この点はより広い範囲で考察する必要があります。手と水の関係は、人間と周囲、つまりアストラル体と環境との関係に健全な影響を与える可能性があり、そのため物事は容易に極端に走らないでしょう。しかし、唯物論的に考え、思考を物質だけに結びつける人は、手に良いものは体の他の部分にも良いはずだと言うでしょう。これは、繊細な知覚に基づく違いが全く見過ごされていることを示しています。その結果、そしてそれは明白な事実ですが、ある目的のために全身に同じ治療法が適用されるのです。例えば、頻繁な冷水浴や冷水による継続的な摩擦は、子供にも特に効果的な治療法として推奨されています。幸いなことに、神経系への明らかな影響から、医師たちはこれらの治療法が不合理な極端に走っていることに既に気づき始めています。手はアストラル体と特別な関係にあるため、手にとって適切な行為であっても、アストラル体との関係が異なる身体部位に適用すると、有害な実験となる可能性があります。手を洗うことは、環境に対する健全な感受性をもたらすかもしれませんが、冷水浴などを過度に行うと、不健康な過敏症を引き起こす可能性があり、特に幼少期にそのような処置を受けた場合、生涯にわたって続くことがあります。-------------------------------------------------------------------------------------------西川隆範氏による「まとめ」は前後の文脈を知らない(あるいは意識しない)読者が読むと、誤解してしまうような短い抜粋となっていたことが、これで分かりました。いわゆる、日本人が暮らしのなかで普通に行っている「入浴」ではなく、治療としての「冷水浴」を指して、有害であると言っていたのでした。
長年の疑問が解消した瞬間でした。
シュタイナーの邦訳本はドイツ語の原典から「日本語化」を試みたものです。シュタイナーファンにはなじみの深い、「霊我」や「生命霊」や「霊人」という「人智学用語」も日本語化の過程で「造語」されたものです。
ルドルフ・シュタイナー・アーカイブを翻訳にかけると必ずしも、なじみのある翻訳語が出てくるわけではありませんが、これまでシュタイナーの邦訳本を十分に読みこんできた人は「ああ、これは〇〇〇のことで、こっちは〇〇のことだな」と推測をつけながら読むこともできるので、「訳語の変化に対処できる頭を作るため」の訓練にもなりそうです。
大学生時代は2年間教養でドイツ語を学びましたが、ほとんど身についていません。英語のほうがずっと得意です。それにもっぱら本によって人智学に近づいていた時代、高額なドイツ語の全集を買うことは頭のなかに思い浮かびさえしませんでした。
次々と出版される邦訳本を手に入れて「消化する」だけで、せいいっぱいでした。ドイツ語を参照するときは、特に用語として気になる点が生じた場合のみでした。
「霊」「精神」という言葉を「ゴースト」から「スピリット」に交換して使っている近代の英語圏の人々はある意味「気の毒」です。「〈誰か〉が特定の時代のある時点でそうするように動いた結果」ですから。
英語から日本語への翻訳は、日本語から英語への翻訳よりずっと高精度であるのも、英語が肉や脂肪部分をそぎ落としたような骨格系の言語であって、骨の周りについているさまざまな要素、つまり「多様なニュアンス」に気を使わない「朴念仁系の言語」だからでしょう。逆に言えば、率直に意図を互いに誤解なく伝え合うには(コンピュータ言語としてならなおさらそうでなくてはなりません)便利な言語です。この物質主義時代に「使い勝手のいい言語」(それはまるでレモンの果汁を搾り取った後に残った部分でできているような言語です)を使って「霊的な問題」を「英語で」世界に普及させようとするのは、シュタイナー的な言い回しをするなら戯画のようです。
そして日本においても「好事家たち」がアメリカ国内で次々と起こってくる「霊学を模したようなプレゼンテーアション活動」に接して、「彼らの提示する〈新思想〉」を「スピリチュアル」という「翻訳造語(日本語)」に乗せて、経済の流通過程にはなばなしい宣伝文句で出現し、商行為として再頒布し始めている状況がこんにちの姿です。
第二次世界大戦以前までは中部ヨーロッパの民族からさまざまな精神文化が世界中に届けられていましたが、この大戦は英米の勝利によって「ゲルマン系民族の文化衝動」を「瓶のなかに押し込める」という目的も果たしました。ユダヤ問題が彼らにとっての瓶のふたとなりました。これ以後、中部ヨーロッパの人々は「下を向いて生きていかざるを得なくさせられて」こんにちにいたります。こんにち彼らの精神の発露はせき止められています。かわりに英米文化圏による、「精神的」というよりも、おもに「経済的衝動による文化輸出時代」に突入しました。こんにちに見る英米勢力の支配層の繁栄をもたらすための「たくさんの仕掛け」があの時代の前後を通じて「英米の結社」側から発動され、それらは「ことごとくうまくいった」のでした。
もちろん「精神性の発露」を抑えられ「黙らされた」のはゲルマン民族だけではありません。彼らと同じように悪役として「こんにちの歴史書」に「登録」されている民族がいます。幕末時勝海舟が「東アジア三国合従連衡」して欧米列強と対峙すべきと進言した精神は「彼ら」に先手を打たれて、「実現」を見ずに終わりました。かわりに東アジアにおける瓶のふた役を「英米の結社組織」から委託されて「彼ら」のために、こんにちまでこなしてきたのが、大陸と半島の民族でした。瓶のふた論といえば在日米軍に関する議論でしたが、陰陽道的に言えば、「呪(しゅ)がけ」の装置は何も米軍だけではないのでした。
とはいえしかし・・・・・しかし時代精神の変化を感じます。
今後世界はこれまでと異なった衝動によって、方向転換し始めるのかもしれませんね。私はそれを見届けることができるでしょうか。
以上、今回の投稿の後半は私のボヤキになってしまいましたが、たまにはいいですよね。
P.S.昔こういう動画を作ってました。 -
今回は、Netflixで見ることができる北米ドラマ「トラベラーズ」の話題から始めたいと思います。あらすじ遠い未来より21世紀初頭の人間に意識を転送して憑依することで現代人に成りすまし暗躍する"トラベラー"達。人類最後の生き残りの中から選ばれて送り込まれた彼らの目的は、歴史を改変して悲惨な未来から人類を救うことだった。----------------------------------ウィキペディアの説明では「憑依」という言葉が使われていますが、実際には「自我の交代」というほうがドラマ内容の実情に近いと思います。「トラベラーズ」というドラマは、「自我の入れ替わり」という、唯物論時代下の現代人にとって、なかなかに斬新なモチーフを導入したドラマでした。ただしシナリオ的に「面白くなるように展開できず」、3期で打ち切りになっています。近代人にとって「自我の管理下」にない人間個体が、言葉を発する場面に遭遇することがあるとすれば、たとえば隣に寝ている誰かが寝言を言っている場面に遭遇した時や、酩酊した人物が行った言動を翌朝別の目撃者から「覚えてないのか? お前はこんなことを言い、あんなことをした」と指摘された時ぐらいのものでしょう。上記の現象は「自我と肉体の連結が解かれた時」に起きる現象です。そのように、たまさか自我が肉体との結びつきを失っても、酔っぱらった人物が朝目覚めると、自然と「自我感覚」は戻ってきて、「正気の朝」を自我感覚とともに迎えることができるわけです。通常では、自我が完全に肉体との関連を失うということは、死の到来を意味します。昔「悪魔を憐れむ歌」というデンゼル・ワシントンが出演した映画がありましたが、この映画で描かれていたのが「憑依」現象でした。もっと古くには「エクソシスト」という有名な映画がありました。憑依という言葉が使われるときは、悪霊による不当な肉体の乗っ取り現象を指していることがほとんどです。悪霊的な存在が「物質的」にイメージされると、たとえば「ボディ・スナッチャー」とか「ゼイリブ」のような侵略宇宙人映画が出来上がります。「人格の入れ替わり」というテーマは、これまでほぼ「災厄的な事象」として、扱われてきたことが分かります。しかし、ごくまれに地上の物質体から「人間の自我」が抜けたあと、その肉体に「別の高次の自我」が住み着くという現象があることを指摘したのがルドルフ・シュタイナーでした。
(すでに上のような秘儀のイメージのフィギュアが誰かによって作られ、流通していた日本でした)
シュタイナーによれば、その最大の出来事こそキリスト誕生事件でした。ヨハネによる洗礼によって、30歳のイエスの自我(霊)が霊界へ送り返され、代わりに彼が占めていた場所を宇宙の神の自我(霊)で満たしたのでした。このテーマについてご存じない方は、今回私の語っていることが、さっぱり理解できないでしょうから、「俄然関心がわきました」という方には、邦訳としては『ルカ福音書講義』『仏陀からキリストへ』などをオススメいたします。(注:リンクはウェブ上のアーカイブGA114全10講。Lecture[講義]という項目をクリック。Google Chromeをお使いなら翻訳機能を使って日本語化して読めます。ただしドイツ語を英語化した文章を日本語化して読むことになるので精度はかなり落ちます)-----------------------------------------------------------------キリストは太陽からやって来て、ヨハネによる洗礼を通して初めて地球に歩み入り、3年間だけナザレのイエスの肉体の中に存在しました。地上では3年間しか働けないと決められているのがキリスト存在の特徴です。
キリスト存在は、かつてゾロアスターが太陽の背後に立つアフラ・マズダと呼んだ存在、インドの神仙たちがヴィシュヴァ・カルマンと呼んだ存在、ギリシア人たちが満ち満ちているもの(プロレマ)の基盤となる存在、と呼んだ存在です。
この存在はゴルゴタに血を流して以来、次第に地球の霊、地球のオーラとなってゆきました。キリストを肉体の中に担ったイエスを知ることなしに、地球の霊としてのキリストを体験した最初の人物はパウロです。(『仏陀からキリストへ』P18-P19)-----------------------------------------------------------------自我あるいは人格の変容に関して、トラベラーズというドラマでは、完全に自我が入れ替わった人物と、未来からのメッセージを伝えるため、たまさか一時的に意識を乗っ取られてしまう子供たちが出てきます。メッセンジャー役をしているときの子供たちの状態なら「憑依(posssion)」された、という説明もありでしょう。ただし、この場合、憑依しているのは「未来のAI指導者(人間ではなくマシンです。未来の人類は「全権」をAI指導者に移譲して生きています)」からくる命令情報です。
ルドルフ・シュタイナーの人智学の本を長年いろいろと読み続けてきた日本人には、「自我の交代」というテーマは、いまだ現代社会でキリスト教徒を自認している人々にとっても受け入れがたい話ではあるかもしれないと思われます。「憑依」なのか「交代」なのか・・・・・、判断に苦しむ場面もありそうです。
シュタイナーによれば、菩薩の物質界への出現もまた「自我の交代」によって行われてきた、という話です。菩薩の出現というのは、「これまで取り立てて目立たない普通の人生を送っていた人物の自我が高次存在と交代する」という現象なのです。
これがさらに宇宙の神霊、太陽神の物質界への人ととしての誕生という話になると、シュタイナーの説明を一回聞いたくらいでは、その起こったことにまつわる、歴史過程における長大な準備期間と手順の多さゆえに、簡単には全貌が把握できないくらい複雑な過程を経たうえで達成された「自我の交代劇」が起きたのだという話になります。
おもしろいことに、シュタイナーは、存命時、東洋の日本には、こんにちの西洋のキリスト教徒から失われてしまっている知識、すなわち「キリストは光の国(太陽)から人類の救済のために地上にやってきた太陽神である」という教えを奉じてきた原始キリスト教徒たち、つまり古代ドイツ民族が数多く転生している、と語っていました。彼らはまた輪廻転生の思想も持っていました。光の国(太陽)から僕ら(全人類)のために来たぞわれらのウルトラマン(Ultra Manとは、ラテン語的に解釈すれば、人間[man]を超えし[ultra]存在つまり神のことです)
シュタイナーの語る、キリストの誕生と死の秘儀の話を初めて読んだとき(『輪廻転生とカルマ』)、私は即座に「あれ? これって・・・・」と、初代ウルトラマンの第一話の物語に連想が飛んだのでした。
世界中に、さまざまな母国語を背景に持った人智学研究者あるいはファンが存在しますが、こんな〈観念連結〉、つまり連想が可能なのは、ウルトラマンの物語(これは一種の神話的物語です)を知っている極東の民族の中の人智学徒あるいは人智学ファンだけです。私は、「これはまるで地上に初めてきたときのウルトラマンの物語じゃないか」と思ったのでした。
「キリストは地上では3年間しか活動できないという縛りがありました」とはシュタイナーの発言です。物質界での活動に「3」という数字で象徴される「制限時間」が設けられていたなんて、それってウルトラマンもそうでしょう、と私は思ったものです。
超古代にウルトラマンがかつて「ノアの神」とも呼ばれていたというエピソードがあったのも「驚嘆的」な事実でした。それにウルトラマンを迎えにきたゾフィー(ドイツ語系)は、「ソフィー」や日本人にはさらになじみのある名前としての「ソフィア」と同語源です。宇宙から「ソフィア(霊智)」が迎えに(降りて)来たのでした。
そして、世界のネット環境の発展によって、日本発のコンテンツ(特にアニメ)の流布によって、「輪廻転生思想」というモチーフをこれでもかこれでもかというほどに「西洋のキリスト教徒たち」に「語り」続けている状況が、まさに「こんにち的状況」なのでした。
このような「宗教観念」を、かつて世界に散った宣教師たちがやっていたような「宣教・折伏式」で、「世間一般」に提示することは、今日的なマインドを持って生きている「現代人」にはもはや受け入れられにくい「スタイル」になっています。現代人は「知識」というものならなんでも頭の中で整理してインデックス化して保存することを「最終目的」にしているふしがあるので(「この近代(アーリマン)人的センス」をますます精緻化した結果が、こんにちのAI礼賛時代のいまの到達地点ですし)、国家が管理する学校制度の試験文化のもとで「~が正解、あるいは通説と言われていること」を集積することでせいいっぱいになっています。「心」は外的知識とつながっていません。したがって言葉が価値を内包しているなんて、真の意味で「実感」することもないのです。こんにちの「言葉」は「人格の外に価値なき並列陳列概念として(そうでなければ学校の先生もペーパーテストでこれは2点これは3点と恣意的に数量化なんかできません)存在する」のみで、「人格に浸透する力を失っている」のです。
シュタイナーは「こんにち(20世紀初頭)古代にドイツ地方の原始キリスト教徒として生きた人々が大量に日本人に転生している」と語りました。
シュタイナーの「二人のイエス論」(キリストが人の体のなかに受肉できたのは、二人の人間の協力があったから)を読んだとき、私は、ウルトラ・シリーズにはその後も「二人の人間の協力によって、ひとりの神(ウルトラマン)が地上に出現する」という「合体モチーフ・ドラマ」(ウルトラマンA)があったたことも思い出し、「ふたりのイエスの秘密」も、かつて「その知識」が広く共有されていた時代の古代のドイツ民族の一員だった人々が日本人に転生してきた結果なのだろうかと空想しました。
----------------------------------------------------------------------歴史において通常、民族移動の時代と呼ばれる時代にヨーロッパに住み、移住した人々がいます。この住民の魂は、南から北に広まってきたキリスト教を受け入れた魂に似ています。つまり、キリスト教化のなかで成長した魂です。今日のキリスト教とはかなり異なった、紀元後数世紀にヨーロッパに生きてキリスト教を受け入れた魂は、ふたたび中部ヨーロッパに受肉してはいません。紀元後数世紀にヨーロッパに受肉し、キリスト教が文化的に南から北に広まってきたのを体験した魂は、いま、むしろアジアに受肉しています。いま述べたことは、1910年代の恐ろしい破局(第一次世界大戦)のときに、とくにはっきりと現れています。とくに日本民族にそのような魂が受肉していることを知ると、現在の地球文明を新たな方法で考察できます。かつてヨーロッパで特別な方法でキリスト教化を体験した魂は、いま、キリスト教について聞く機会がない地域に住んでいます。意識下からの当時のキリスト教衝動とともに、退廃したアジア主義のニュアンスを内に担っています。今日のヨーロッパに対立するものも、内に担っています。それは本質的に、かつては偉大であったのに退廃した東洋の叡智と、南から北上してくるキリスト教を受け入れたヨーロッパの野蛮な民族の素朴なキリスト教衝動との共鳴の結果なのです。---------------------------------------------------------------------
民族移動の前後にヨーロッパに生きていた人々に目を向けることができます。民族移動のころに、南から広まってきたキリスト教に出会ったヨーロッパ人たちです。彼らはキリスト教を、今日とはちがって、根源的、本源的な、生命全体に作用していた計り知れない力を持った形で受け入れました。キリスト教は抽象的で悟性的な神学にまだ浸透されておらず、魂の基本感情に働きかけました。この当時ヨーロッパにいて、このような方法でキリスト教を受け入れた魂の大部分は、ほかの場合よりもやや長い期間を死と再受肉あいだで過ごして、今日アジアに受肉しています。とくに、当時キリスト化された魂の多くは今日、日本人の身体に受肉しています。多くの謎を提出している、アジアの独特の生を理解するには、今日アジアには前世でキリスト教的感情を受け取った魂が、すでに言語をとおして子どものころから、退廃した古い東洋文化に囲まれていることを明らかにしなければなりません。(『いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか』P78-P79)
私は、「なぜかキリスト教徒がほとんどいない日本の地で、遠い古代に、西洋から失われていた太陽霊の秘密を子供向けのテレビ番組という形式を使って公開した転生者たちがいた」と思うようになりました。その役割を担った人々が、幕末期から昭和期にかけて、順に転生してきた古代ヨーロッパ(ゲルマン)人たちのなかから現れたのだと思うようになりました。
高橋巌氏がある著書のなかで以下のように語ったことがあります。ただし今のところ高橋氏が依拠した引用元を確認出来ていないので、ご存じの方がいらっしゃったら、ご教示願います。
--------------------------------------------------------------------晩年のシュタイナーはあるとき、「もし自分の人智学がドイツで根付くことができなかったら、人智学の理想は東洋の日本に移ってしまうだろう」、と言いました。(『現代の神秘学』P35)
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現代日本のアラウンド60世代は、戦前戦中世代が日本において提示した「神話」「神の物語」に触れた最初の子供世代でした。あるいは日本人として子供時代を過ごし、かつて共有していた太陽霊キリストについての知識を無意識のなかで、再確認しあうためのイベントだったのかもしれません。
ちなみにウルトラマンAが放映されたまったく同時期(1972年4月)に、「神を地上に出現させるために二人の人間が組む」というウルトラマンAと同じモチーフを持った「バロム1」というSFドラマが放映され始めたこともかなり奇妙な出来事でした。おまけに「キリストの再臨」という言葉から「帰ってきたウルトラマン」という言葉も連想してしまいます。
ある民族内部にいた集団がある時期に集中的に「秘密を神話的物語として体験し(つまり無意識の中で古代に学んだことを思い出し)、ふたたび亡くなって来世の世界へ散る準備をする」そういうことが起きていたのでしょうか。
映画史(のちにはテレビ史)においても、ある時期に集中的に同じテーマの物語が乱造され、そして訴求力をなくして、別のテーマを乱造し始めるというような流行の入れ替わりのサイクルがあります。こんにちの状況もいずれ一段落する時期も来るのでしょうが、それにしてもYouTubeやNetflixのようなものが出現したことで、日本発のコンテンツの世界への訴求力状況が変わったのでした。
「トラベラーズ」に話題を戻すと「もしかしたらメッセンジャーを使う霊界の高次存在はいるのかもしれない」と「体験的」にも思います。人智学的にはリクルーター「クリスティアン・ローゼンクロイツ」の話(参考『いかにして前世を認識するか』)が有名ですが、彼でなくともなにがしか、高次世界から、「自己認識を促すメッセージ」のようなものが、周辺にいる知人や誰かの口を借りて伝えられていたのではないか、という「気づき」のようなものを持ったことのある人は、私ばかりではないと思うのです。
「なぜあの人はわざわざ近寄ってきて、あんなことを私に告げて去っていっただろう」・・・・その時だけ何か彼や彼女から異質なものがやってきたような気がする。だからこそ「その時のこと」を大した内容にも思えないにも関わらず、こんにちまでずーっと覚えているじゃないか、そういう風に、きっと多くの人に確かに「うまく説明(消化)ができないそんな体験」に心当たりがあるんじゃないだろうかと思っています。 -
季節感覚というんでしょうか、「〇月か。じゃあそろそろ天候的には〇〇が起きる。そうすると〇〇が咲く」って思ってしまうってのがありますよね
子供時代にはごく弱く、年齢を重ねると強くなっていく、そういう「想起感覚」です。
例えば、3月に、続けて雨が降り出すと、「いよいよ暖かくなる合図だ」と分かります。こういうことは小さな子供時代にはまだ気が付きません。
小学3年生の自分だったら、1年には春夏秋冬がある、ということは認識できてますが、さらにそれを月ごとに分けて、〇月になったら、天候がこういうふうに変化して、庭には〇〇の花が咲くなんて、感覚はまだまだ身についていませんでした。
私の住んでいる地域では、毎年3月の3日か4日には、空がヒューヒューとうなり声をあげます。夜中にその風がうなる音を聴くと、「ああ今年もあの音を聴くことができたなあ」と思うのです。
でもそれ以降はまたこれまで通りの無音の風が吹く日常に戻る、そいういうことに気づくようになりました。
私の自宅はもともと木々や草花がうっそうとしていたんですが、病気になって以降、庭じまいというものを行いました。まあ、死ぬような病気でもないんです。これからあと30年も生きることになったら、どうしようと思うこともあります。
うっそうとしていた庭の木々を切って、あとでこの家を管理しなければならなくなる者たちが余計な出費をしなくて済むように早めに手を打っておこうと思ったのでした。
我が家の庭はかつては野生の猫たちの天然の涼み場だったのですが、夏場にはカンカンと日光が照り付ける場所に変わったので、猫たちは我が家の庭を通り過ぎるだけになりました。
かつては以下のような場面に遭遇して、「なに、これー。このカワイイ世界を無料で堪能できるなんて・・・」みたいな体験もできたんですが。以下GIFです。ノイズみたいなものが出てますが、画面をクリックすれば、きれいなGIFを見ることができますよ。
そういうわけで、かつては季節ごとにいろんな花が咲くのを見ることができたんですが、雑草や落ち葉の管理も大変ですし、大部分の木を切ってしまいました。庭の整理をしようと思った最大のきっかけは西側の隣家の家人から落ち葉の苦情がきたことでした。それでこの際だからということで、業者の人に来てもらって、大部分の木々を切ってもらったのでした。
それでも玄関先には、まだ椿の木が健在です。
写真ではだいぶ花が落ちてしまいました。
東側の花は赤い花が多く、西側の花は白やまだらが多くて、それらの花がポトンポトンと地面に落ちているので、気が付くたびに掃除をしています。
シュタイナー学徒だからなのか、この世のことは、不思議で不思議で仕方なく、理解しようと思っても、とても理解しきれないとますます思うようになりました。
結局何もわからないまま死ぬんだろうなあと。
若い人は今まさに「適応のための闘争を続けている真っ最中」なんでしょうけど。
知っているのは「AすればBになる」とか「Cの場合はDすればいい」とか「EしたかったらFしろ」とか、そういう表面的なこの世を生きるための適応術ばかりだったなあ、と。 -
月ごとに最低2本は記事を投稿すると決めておきながら、なかなか思い通りにいかないです。調子のいいときは、ひと月に2本どころか、4本投稿したりしてますし。もー、ほんと気分屋ですよ。
最近、ひさびさに親戚関係で葬儀がありまして、車で一時間かけて神話の里高千穂町に行ってきました。伯父(私の父[次男]にとっては長兄)の奥様の葬儀です。88歳でした。伯父は5年前に他界しております。
浄土真宗系の葬儀です。伯父の時は、導師(お坊さん)として、ふっくらした年配のドイツ人の女性が金髪+眼鏡+袈裟姿で登場し、お経をあげてくださいました。「あの人は、国際結婚されて、住職の奥さんになった人だ」との話を聞いて「おー、これは珍しい。葬儀においてめったに出会えないような、とてもよい体験をした」と思ったのでした。今回は副住職との紹介を受けたハーフ顔の若いお兄さんが、導師を務められました。浄土真宗のお坊さんは、剃髪しないので、短めの茶色がかった髪の色をしておりました。寺の跡取りの息子さんなのでしょう。
帰りに葬儀場のすぐ近くにある高千穂神社に寄ってきました。宮崎交通の特別仕様バスが神社の駐車場に止まっていたので、上着を普段着に着替えてついふらふらと見にいきたくなったのが原因でした。
以下参考リンク
「侍ジャパン」をラッピングバスで送迎します。
そのついでに社殿にも寄ったのでした。ちなみに「このバス」に野球選手たちが乗ってきたわけではないので、誤解なきよう。
こんにちの高千穂神社は、観光客たちが立ち寄る名所のひとつになってます。でも、私の感想では、そのせいなのかどうか分かりませんが、どこか荒れてる感じがしました。その日も観光客でにぎわっていましたよ。中国語とかも飛び交ってました。
平成22年に秋篠宮家が参拝に来ていることが看板に出てました。
ちなみに私の地元延岡には観光地的にぎわいを感じるような神社はありません。なので規模の大きな神社はないんですが、私個人は春日神社が、小学生時代は仲間たちと境内で遊んでいた場所だったこともあり、子供時代からずっと清浄神秘に感じて、好きな神社です。
小学生時代の「遊び場」のひつとだったころの春日神社は、入り口が解放的で、遠くから社殿が見通せていました。開放的だったということは、子供が入り込みやすかったということです。以下はネットから拾ってきた写真。
「神様は風に乗って出入りする。」
しかし近年、写真で見ることのできる太鼓橋は撤去されて、代わりに下のようなりっぱな門が入り口に加えられました。かつて神社の敷地の北側(1枚目の写真で言うと太鼓橋のさらに右側)には西からずうっと水路が流れていましたが、蓋をかぶせられて、道路となり、元あった道と合体して今では暗渠となっています。
「非開放的な入り口空間」になってしまった「入り口」を初めて見たとき、悲しみのようなものを感じたのでした。「ああ、なんかもう気軽に入れない。身を縮めて門を抜けるような感じだなあ」。そう感じたのでした。なかなか、ほかの神社では、ついぞ見ることのできない太鼓橋。「社殿に至る入口前に子供受けする太鼓橋を配して、子供たちはいつも喜んでこの太鼓橋を渡ったのでした。けれども、もはや太鼓橋を渡って神社に入り込んで遊びを始める体験を今の子供たちは持つことができません。
大学生のころは、神武天皇を祭った宮崎神宮(上の写真)の近くに住んでました。きれいな神社です。毎日神社横を自転車で通りました。敷地が広大なので自転車で横を通り過ぎるまで結構な時間がかかりました。
延岡と宮崎の間にある、都農(つの)神社(上の写真)もよく行きました。この神社もなかなに広いです。祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)、つまり大国主命なので、出雲系神社です。昭和時代の大昔、「ここから邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)の社を遥拝することができます」という趣旨の結構大き目の横長の看板がかかっていたんですが、90年代には撤去されてしまいした。私は神社に電話して理由を尋ねたのですが、「駐車場整備のためです」という返答でした。かつて「都農神社の敷地内の〈特定の場所〉から西の空を仰げば、ここから遠く山の上に鎮座している邇芸速日命のお社を拝することができる」という趣旨の看板が90年代以前まではかかっていたのです。
こんにち都農神社は観光地化が進んでますが、邇芸速日命の名前を参拝者たちに意識させる「仕掛け」はついに復活しないままです。
ふと万葉集の額田王の歌を思い出しました。三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや( 懐かしい三輪山をそんなにも隠すのか。せめて雲だけでも思いやりの心があって ほしい。そんなにも隠し続けてよいものか。)
三輪山は邇芸速日命の山です。P.S.今回の話題とはまったく関係ないんですが、ひさびさ「こんな道具あります」系の話題も最後に添えておきます。最近手に入れました。昔同じようなタイプのものを使っていたのですが、有線キーボードでした。今回はBluetooth化してたので、値段も安いし見つけた時点で即買いしました。あんまりこういうガジェットを使っている人はいないと思うんですが、フリック入力が苦手で、一個一個ひらがなを選んで文章を書いている人が、スマホで「長文」を書きたいときは、便利かもです。
見た目はもはや「極小PC」のごとし、です。
Bluetoothのキーボード。同じくBluetoothのマウスとイヤホンとセットで利用してます。自宅ではあまり使い道がないんですが(写真上部にPC用キーボードが写っている通り、普段は大画面のモニター見ていますからねえ)、「どこかへ出かけたとき」に利用しようと思います。