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ピンボールというのは昭和時代、大抵はデパートの最上階に設置されたゲームフロアに置いてあったので、年配の人ならば、やったことがあるという人がいっぱいいると思います。
直接「3次元の身体感覚を使って遊んだ」ことはないと言う人も、WindowsXPなどのPCにオマケで入っていたので、「2次元スクリーン上」でなら、やったことあるよという人もまた多いでしょう。
でも、Vista以降は、マイクロソフトはゲームをつけてくれなくなったので、2次元でもピンボール体験はないという人は若い世代には多いと思います。
今回採り上げるダイソーのゲーム『ピンボールSLAMTILT』ですが、これがXP対応を謳っておりながら、まともに動作しないシロモノだったという事実は、まったく話題にもなっていません。
私はこのソフトをまず最初にIBMのR40e(ノート型)に入れて動作するか試してみました。インストールはスムーズに終了したのですが、アイコンをクリックすると、画面がなんだかおかしい。こんな感じです。
右端上部にこんな画像があらわれて、音楽が流れて、長い長いイントロダクション・ムービーが続きます。Escキーを押して止めなければ、いつまでもイントロムービーを繰り返します。正確には、この幻のイントロが1回だけ流れてそのあと、画面が切り替わって登場する、ドラマや映画のエンドロールみたいな制作スタッフ紹介シークエンスがくどいのです。「こんなん、いらんくね?」と大抵の人は思うはずです。
こういう一連の紹介シークエンスを見たくなかったら、イントロが始まってもEscキーを押すとゲーム設定画面へ入れるようになるので、そこからは普通にボタンを選択し、遊ぶことができました。
以下は劣情レトロゲーム倶楽部さんがYouTubeに上げてる動画です。
しかし、あとではっきりとわかったのですが、最初に現れる画面は本当はこうでなければならなかったのです。
私はいろんな機種にXPを入れて試してみましたが、結局一台も上にあるような画像を正しくXP上で呼び出すことができませんでした。先へ進めないXP機の場合は、最初に掲げたあの見切れた映像のあとすぐにダンというような音を立てて、真っ黒画面になりフリーズしてしまうので、Ctrl+Alt+Delでタスクマネージャーを呼び出して、「タスクの終了」によって、フリーズ状態から復帰しなければなりませんでした。
実は上の画像はWindows10 64bit版に入れたある特定ホルダー内のアイコンをクリックして初めて得られたものです。(ちなみにWindows10自体はCDからは正常にインストールすることができませんが、裏技を使えばWindows10で遊べるので、この点については後述します。)
Windows10を使って取り出した「幻のイントロダクション」がこれです。
私は次に何台かのデスクトップ型PCにXPを入れて、動作するか試してみました。動作するマザーボードとしないマザーボードがあることが分かりました。
当時、このソフトを買って自宅のXPに入れたけど、「動作しないじゃん、なにこれ。でも100円だし、こういうクオリティなんだろうな、別にもういいわ」とピンボールで遊ぶのはやめちゃった人がたくさんいたと思います。
たかが100円の品ですし、この動作しないダイソーゲームをネットでけなす意欲までは湧かない人が多かったのでしょうか。話題にもされず無視され忘れられて、こうして20年が経過するわけです。
あきらめきれない私は、次に、グラボをかませたら、どうなるか試してみました。グラボというとNvidia系とAMD系がありますが、手元にあるNvidiaのGeforceシリーズはすべてダメでした。グラボなしでは動作したマザーボードもGeforceを入れるとゲームが正しく動作しません。
しかしAMDのHDシリーズだと起動して遊べることが分かったのです。私の場合、マザーボードの種類を問わず、このゲームを動作させることのできた、手元にあるグラボはAMD系のATI Radeon HD2400PROでした。
私は写真の三つのグラボを試してみました。左上のファンレスタイプがGIGABYTE製、右上のファン付タイプがASUS製、下のファンレスタイプがSAPPHIRE製のHD2400Proです(このタイプは他の二つと異なり、ビデオを信号を出すS端子がありません。デバイスマネージャー上ではHD2400ProではなくHD2400Seriesと表示されます)。
HD2400Proならばどこの会社のグラボでもOKというわけではなく、ファン付きタイプのASUSグラボをつけると動作しませんでした。(補足:23年4月に「余ったHD2400PROファンタイプ」で再度ドライバー導入からやり直してみたら、ちゃんと百円ソフトが動作しました。)
Nvidia(Geforce)にしろAMD(Radeon)にしろ、今やXP上ではネットでドライバーのダウンロードサイトにアクセスできないので、パッケージのインストーラーが自動的にネットアクセスして足りない要素をダウンロードしてさらにインストールというような方式ができなくなっています。
私は、Windows10でダウンロードサイトにアクセスし、XP用のドライバーパッケージをダウンロードしたものを使いました。そして、グラフィックドライバのみ入れました。ただしHD2400ProのXP用パッケージは高速モードでもほかの場合のように「アクセス不可による停滞」(これはネットに接続している状態だと起きるので、初めから無接続状態であればよかっただけの話でした)をおこさずに入りました。
ほかのダイソーの100円ソフトの動作も合わせてチェックしてみたのですが、Geforce系のグラボではダイソーのゲームはちゃんと動作しないということが分かってきました。たとえば『スキーゲーム』です。
Geforceグラボでは、こんな風に紙飛行機が飛んでいるような画像になってしまいます。けれども本来は以下のような画像を表示しなければならないのです。
さらに以下はTRAINING MODE-STAGE1の画像です。
世の中には膨大な種類のノート型パソコンとデスクトップ型のパソコンとグラフィックボードがありますから、どの機種だと動作するのかは実際にインストールしてアイコンをクリックしてみるまで分かりません。
しかし、もしあなたがXPの入ったデスクトップ型PCにダイソーのゲームを入れてみたいと思うのなら、グラボなしであれやこれやのソフトが動作すれば幸いだし、もし動作しなかったとすれば、たとえばXP専用グラボとして(AMDのダウンロードサイトには10用のパッケージがなく8までになっています)、HD2400Proを手に入れて導入すれば幅広く遊べる可能性はかなり高まります。
次回に続くPR -
前回ダイソーの100円ゲームについて報告すると予告しておきながら、ずいぶん時間がたっちゃいました。
XP対応とパッケージに書いてあるからと言って、かならず動作するというわけでもないダイソーの100円ゲームなのです。
どんなXP機にすれば、すべてのダイソーゲームに対応できるのか、という「新しい研究課題」が生まれちゃったせいで、そっちの研究に没頭しているところでした。
この点についても、いずれご報告できるかと思います。
さて、ダイソー・ゲーム・シリーズの第2シーズン作品である『ネオ・ビリヤード』(ポケット・ビリヤード3)ですが、前回も言った通り、とても105円とは思えない内容です。
これらのゲーム群はXP時代の、モニターは今の主流に比べれば、比較的小さめで4:3画面で遊べるような仕様で作られています。
そこでまずはXP機で遊んでみたいと思います。
XP機では、いまの16:9系のモニターでも4:3画面に設定すれば、フルスクリーンで遊べると思います。
これがWindows10だとフルスクリーン設定が使えません。そもそもWindows10-64bit機ではインストールそのものができません。とはいえ、ひと手間かければ、Windows10でも遊べるようになるので、これは最後にご紹介したいと思います。
MODEが13種類あって、LEVELが5種類ですから、13×5=65通りのゲームがあるということになります。
9BallsとMODEのトップにありますが、使用される玉の数が9個だというくらいの意味で、本来のナインボールのルールではありません。
ポケット・ビリヤード3は対戦型のゲームではなく、ソロプレイのみの仕様になっています。むしろ、「とあるシリーズ」のアクセラレーター(一方通行)みたいに、「ベクトル演算」によって(笑)、玉を狙ったポケットに落とし込むシューティングゲーム、じっくりと時間をかけてキューの角度や当てる力を考えながら、決断し実行するので、一種のスナイパーゲームみたいなものだと思った方がいいです。
向こうから大量の標的が無数に流れてくる状況にあたふたしながら行うシューテングゲームもそれなりに楽しいですが、お祭りの出店でやる射的のようにじっくり狙いたい、とおっしゃる方には、おあつらえ向きのゲームかと存じます。
これが9ballsMODE時の初期画面ですが、3D仕様になっています。右下の四つのアイコンを操作することで自在に視点を変えることが可能です。
しかし私は2Dの俯瞰画面の方が好きなので、基本こっちで遊んでいます。玉の位置関係が読みにくい場合に3Dにスイッチして、玉を突くキューの角度を調整しています。
ゲームが終了すると、将棋のような感想戦モードも利用することができます。ゲームを記録して呼び出して、始まりから終了までを再現する映像を見ることができるのです。いくらでも記録できるので膨大な過去ゲームの「見直し」をすることができます。
プリセット状態ではMODEは13種類でしたが、そのなかで、ワンショットゲームを始め、いろいろな「状況設定」ゲームを楽しむことができます。
世の中には、詰め将棋問題をいろいろと考案する人がいるように、なんとこのソフトでは、自分で玉のセッテングを考えて、詰め将棋問題のようなものを作成することができるんです。
Program FilesホルダーにあるDaisoのなかにpb3と名付けられたポケット・ビリヤード3のプログラムが収められていますが、そのなかのPbEditというアイコンをクリックすると、上のような画面が出てきます。操作の詳細は省略しますが(実際には詳しいヘルプが、当然ですがソフト付いてますので)、ホルダー内から今回はワンショットゲーム仕様のプログラムを呼び出してみました。初期設定は玉の位置関係は以下のようになっています。
これを好きな位置に動かします。
リストに1~5の白い球が出ていますので、これをそのまま利用すると連続する5通りの課題ができあがります。私は自玉の位置をだんだん離していって、距離によってキューの角度をどのように変えていけばいいのかの研究問題にしようと思い、この自分用に作成した「詰め将棋」でも遊んでいます。
ダイソー・ゲーム・シリーズの第一集(11)には、ナインボールのルールに沿って作られたビリヤードゲームがありました。
こちらはソロプレイとPC相手の対戦プレイの二種類のみというごくシンプルなものです。100円ゲームという名にふさわしい内容です。
そうであるがゆえに、今回ご紹介している第二集のポケット・ビリヤード3の内容の濃さには圧倒されます。105円とは思えないと感想をもらしたゆえんです。
さて、Windows10 64bit版でポケット・ビリヤード3がやってみたいと思われた方もおられることでしょう。ヤフオクとかメリカリとかで、ポケット・ビリヤード3をゲットしたいけれど、自宅にXP機なんてねーよ、とおっしゃる方も、あきらめる必要はありません。
Windows10 64bit版にインストールしようとすると「d3drm.dllがありません」というような趣旨の表示が出てきて、不完全なインストール状況で終了し、実際にはゲームを起動させることができません。
「ああ、やっぱWindows10ではダメなんだ」とあきらめてしまわれた方も過去にはいたかもしれません。でも、この「d3drm.dll」、ネットで検索すれば手に入れることができるんです。これをダウンロードして、ドライブ(C)→Program Files→Daiso→pb3と開いていき、このホルダーにコピー、あるいは貼り付けをすれば、それだけでWindows10でも動作するようになります。
上図は貼り付け後の画像です。
ということで、「ビリヤードゲーム、おもしろそうじゃん、自分もやってみようかな」、と思う方の参考になれば幸いです。
P.S. このソフトの一番奇妙な部分について書くのを忘れていました。上から三番目に掲げてあるポケット・ビリヤード3の初期画面をよーく眺めてみてください。
ファイル、表示、のあとにプレイヤーという表示が出てきます。その下部には何やらCDのようなアイコン。実はこのソフトには音楽プレイヤーも付いているのです。CD音源をこのソフトで再生することができるんです。もちろん好みの音源を編集して、お好みのBGM集にすることもできます。
この機能を使うとNo Listという表示が出ている場所に今流れている曲名が表示されるようになります。右隣に出てくるカーソルは音量調節用のボリュームです。
第一集の方の9BALLにはBGMがついていますが、このソフトにはついていません。「バックでジャズとかを流しながら、ゲームをしたいなら、ソフト付属のメディア・プレイヤーもどうぞご利用ください」ということなのでしょうが、こういうものがなくても、別ソフトで音楽流しながら、ビリヤードはできますので、なぜあえてゲーム作者はこういうものを付けたのだろうと不思議に思っております。 -
朝起きると、これまでの関心事が去ってしまって、継続して考えることがストップしてしまう、ということが周期的にやってくるので、シュタイナー関連の長文を次々と書いてましたけど、小休止状態です。ついでに聖徳太子についてもストップ。
なんか一気にやる気なしモードに突入してますが、これが「対価を求めての賃金労働」つまり仕事であったなら、新聞、テレビ、ラジオ、漫画、雑誌などなど、最近ではネットのポータルサイト記事構成担当者たちとかも、「締め切り時間」を意識して日々を過ごしている人々は、「とにかくいついつまでに何か商品(記事なり映像コンテンツなり)を上げろ」式な振る舞いを強いられて生きているので、気分なんぞ関係なく、「予定を消化し続ける」ためにいやいやでも自分に作業をさせるのでしょうがねえ。
万事にやる気なし状態になって、なんか暇だなーと思って、本棚のなかを覗いていたら、大昔のWindows98対応のビリヤードゲームのパッケージに関心が向きました。「ショックプライス500 ゲームシリーズ」のひとつです。
なぜ家にビリヤードゲームがあったのか思い出せないこともあり、たぶんゲオか、ツタヤか、本屋さんの在庫処分の安売りみたいなもんがあって100円くらいで衝動買いして、あとで「あ、しもた、これWindows98までが対象のやつじゃん」とほっておいたものでしょう。
Windows10にインストールしてみたら、ちゃんと受け入れてくれたので、やってみました。でも途中から必ず画面がバグることを発見し、それでWindows XPに入れて試してみたら、やっぱり同じようにバグりました。やはり対象OSがWindows98までの製品だったからでしょうか?
それでなんか残念感覚が残っちゃったので、「PCゲームとしてのビリヤード」自体に興味が湧いたので、ほかのソフトはないかと、ネットでビリヤードゲームを探して、それでダイソーのビリヤードゲームを二種類手に入れました。
ダイソーのゲームは私も発売時にはいろいろ購入した記憶があるんですが、これまで人にやったり皆どこかへ行ってしまって手元に残ってませんでした。
私が手に入れたのは以下の二つです。
ダイソーのゲーム・シリーズは、おおまか3通りあるようです。
ダイソー100円ゲーム レビュー・攻略サイト参照
初代のザ・ゲーム・シリーズと次のネオ・ゲーム・シリーズ、そしてプラスチックケースではなく、紙ケースに入れられて発売されたロムディアシリーズです。
右の「ザ・ゲーム・シリーズ11 ビリヤード 9ball」が初回シリーズのもので、左の「ザ・ゲーム・シリーズ5 ポケット・ビリヤード3」が次のシリーズのものです。
ダイソーのゲームについてはYouTubeとかニコニコ動画にも映像が上がってますが、右の「9ボール・ゲーム」はYouTubeでも見ることができたんですが、左の第二シリーズの「ポケット・ビリヤード3」の方は無いみたいです。
でもこの「ポケット・ビリヤード3」の中身がとても105円で売られていいレベルのもんじゃなかったので、いまごろそれに気が付いて驚愕しているところです。
「ダイソー物」では、これまで唯一手元に残っていたのが、大昔当ブログで紹介したエクセレント麻雀です。これは、紙のケースに入れられて発売されたロムディア・シリーズのものだったのだということを、今回ネットでダイソーのゲーム全般を調べたことで知りました。かつて「メッサーシュミット」も持っていた記憶があるのですが、一回試しにやったくらいで、すぐに興味を失い、人にあげたので、いまは手元に残っておりません。残念。
そういうわけで、20年前に全国のダイソーで105円で売られていた膨大なゲーム群の「中身」に俄然興味がわいたので、ビリヤードに続いて、さらにいくつか手に入れて遊んで(研究して?)います。
今のところWindows11は運用していないので分かりませんが(いずれ試してみたいとは思います)、Windows10については、インストール問題の報告も当ブログでしてみたいと思います。
このダイソーのゲームのなかにはWindows10がインストールを受け入れるもの、受け入れないもの、インストール途中でバグってしまうもの、受け入れても実際にゲームするとバグってしまうものなどいろいろあります。
一般には「ダメだ、こりゃ」と「Windows10で遊ぶことを断念させられたタイトル商品」であっても、対処の仕方によっては「Windows10でも動く」ということが「研究?」(実際にはイジりたおし)の結果判明したゲームもあるので、今後ご紹介したいと思います。
あいかわらず当ブログで扱っているような「その手のニッチな情報」を欲している人々は多くはないでしょうが、けれども、確実にそのような人々は日本全国に散らばって生きているでしょうから、検索によって、「Windows10で遊べないと思っていたダイソーゲームが遊べる」という事実に辿り着ける少数の人々のために「研究成果」のご報告をさせていただこうかと思っております。
次回に続く。 -
ワシはもと西洋人の言うた七年一変の説ネ。アレを信じているのだ。どうも七、八年ないし十年にして人心が一変するよ。(『氷川清話』勝海舟)
YouTube動画、やるやると言いながらちっとも始まりません。
そもそも「動画を使ってやること」自体が、実は反シュタイナー的行為であることも確かなわけでして、どこか胸苦しい感じをいつも抱いておるのです。
シュタイナーの生きていた時代はようやっと映画が普及し始める時期で(彼は1925年に亡くなっています)、写真だってまだカラーの時代じゃありませんでした。そういう時代に二次元平面に映し出される動画、つまり当時においては映画しかありませんが、それを批判して「映画は、人間の意識の深い層に作用して、エーテル体を駄目にし、無意識を唯物論にする」というような趣旨の発言をしています。『死者の書』では以下のようなことも言っています。
-----------------------------------------------------------スピノザの倫理学やカントの純粋理性批判を映画で読み解くことができたら、或る面では時代の外的要求にふさわしいと言えるでしょう。どうしてそうでないと言えるでしょうか。このようなことを、私たちの時代は愛しています。人びとがこのような受動的な帰依を愛していることを、私たちは確信できます。
一度、たとえば広告塔の前に立って、その広告を見ている人びとの心の中に浮かぶ思いを推測してみて下さい。スライドを使わず、もっぱら聴き手の魂が積極的に参加することを求める講演を、人びとは好みません。人びとはむしろ受動的に帰依するだけですむのであれば、そちらの方へ行ってしまうでしょう。しかし、もしも時代の根底を覗き見るなら、そのような人びとの魂の中にも、活動性への衝動が存在していることが分かるのです。人びとはまったく積極的に働く魂を、ふたたび取り戻したいと思っているのです。(P35)-----------------------------------------------------------
こういったものは人間から「現実的な生活対象」への積極的な関与力を奪い、「ひたすら受動的な態度に終始するマインド」になるよう人々を誘導してしまうとシュタイナーは言っているのです。21世紀の今日となっては世界中の人々の精神生活を圧倒している「コンテンツ」というものは「人々を特別に有能にも賢くもしない」ということもバレてしまいました。
「マトリックス」の住人たちのように機械に接続されて、脳内に「本当の自分の現実を反映していない偽の表象」を大量に浴びせられています。それが虚偽だと分かっていても、サイファーのような「感じ方」をする人物に至っては「そっちの内部にいた自分の方が幸せだった」と幻影の世界にいることをこそ希求するようになります。そのようなアーリマンの支配にあえて屈するような感性は、確実に現代社会のなかにも出現しています。
いまやニュース系の「危機感啓発情報」でさえ「コンテンツ」(映像商品)の一部門にすぎません。「怖いものがやってくる」と騒いでいるうっかり八兵衛みたいな人物が、最近交通事故で亡くなった知人を思い出して、「きみはこれから日本を襲うはずの巨大地震とそれにともなう巨大津波を体験せずに逝ってしまった」と嘆いたとしたら、「彼の不安感覚」というのはエンタメワクワク感覚のなかにある「何か」だったんではないかと疑いたくもなります。マスコミがそういう煽り方を、「報道商品」の「売り方」の定石にしてしまったゆえに、現代人は、パンデミックやら天災やら戦争に「巻き込まれて死ぬ」のは極端に怖がりますが、多くの人は「でも自分はそういうのが来る前に、そういうふうな死に方じゃない死に方をすると思う」とは「普通」考えません。視聴者たちは「テレビ番組」で巨大な地震災害予告報道を聞かされて「いやー、そうなったら怖いですよねえ」と、ひとしきり建前なのか本気なのか分からないような感想を述べながら「予言」報道に付き合ってくれますしね。テレビ局にとっては、いいカモですよ。エドガー・ケイシーとか日月神示の神なんぞは「安全な地域は教えることはできるが、究極それがどうした」ですからねえ。「それで死のうが生き残ろうが、あんたが正しく生きてきたならそれでいい」という但し書き付きではありますが。
ということで巷ではエンタメ都市伝説系「おどしネタ」として世界中で頻繁に「そっち系」で取り上げられているところの、前々回、神話や伝説への接近の仕方(読み方)に関してちらっと言及したヨハネの黙示録関連記事の見直しをしておるところです。特に最近はシュタイナーの『黙示録の秘密』を読み返しております。
この本は、ただ読んでいくだけでは、何も頭のなかに入ってきません。というかシュイタイナーの本はどれも、特定のカテゴリー語群やその順番、上下の位置関係など、あらかじめ記憶しておいてからでないと読書しても時間の無駄になってしまうことが多いです。
「3月下旬に桜の花が咲き、6月には雨がたくさん降りますよね」と聞けばみな即座に自分のなかに定着しているそれらに関する連想感覚を用いて、話者の話を消化しながら聞くことができます。1月から12月まで数え上げながら、その月に付着している個人的想い出や知識上の連想を無意識に「結びつけていける」ので、人は「自分にとっての1月から12月」までを具体的にイメージ把握できるわけです。
数学の教科書や参考書問題集を読んで「書かれていることを理解しよう」と独学している中高生に「理解の差」が生まれてしまう原因と同じです。書いていることが理解出来ない場合、「教科書を読むためには、自分はまだ何が分かっていないのか、あらかじめの準備として何を覚えていなかったのか」が分かっていないことが原因です。
つまりシュタイナー本は、小説を読むような「いつものノリ」で読んでいると頭の中で用語や熟語が音として頭の中を飛び交うだけで、その概念や理念が自分の持っている知識と頭のなかで「何も結びつかない」という状態に陥ってしまいます。
だから切り取られた霊学上の言葉をYouTubeの簡単編集コンテンツとして、ひろさちやのような「聞き終えるとなんかジーンくる言葉」のようなものとして受容するような人は、そもそも霊学に対する「接近の仕方」が間違っているということを自覚することから「やり直さない」とほんとの先には進めません。
近代人は身体の筋肉が凝っているだけではありません。しかし近代人は肩こりには悩みますが、「自動起動する論理と感情」が意識化されるべき凝りなんだとは思いません。学校教育やマスメディアを通して流し込まれた知識とその言葉にまつわる社会感情、それらによって「自動的に起動するようにしつけられた感情反応」こそが凝りなのです。そして学校に通っていた未成年時代、なまじ利口者だったために、文科省指導に基づいた教科書に準拠して機械的に発せられる教師の問いに「正しく答えられ、そう反応するのが社会的に正しい理屈と感情だと思われている言葉遣いで評論できる自分」に対して抱いてきた自尊心をこそ一度全部捨てないと、霊学研究へは進めないと感じられるようになっておかないといけません。
通俗的で唯物論的な感情で、神話や伝説、もっと言えば新旧の聖書に接し、それを解釈している自分の頭のなかに湧き出てくる「近代人的なモラル感覚」が、古代人の神話世界の意識を推し測り解釈する道具(メジャー)となっていることを反省できないのは、まさに近代人が何か形而上の問題についてのコメントを「世間用に公言する」時に、建前上「近代人とって馬鹿みたいに聞こえるようなこと」は言わないでおこうという世間の空気(暗黙のお約束事)に従って、この論理に乗っかって発言すれば、安全で突っ込まれる心配がないと「互いに思いあっている」ところの「唯物論OS」上で発言することしかできなくなっている自分自身を「意識化」できないからです。それは近代人にとって、壮大なる、英語で言うところの「 There is an elephant in the room」現象です。自分の認識力の変容のためやっているのか、単に「それをタネに商売しているだけ」なのか、立場のはっきりしない書き手もたくさんいるのが、「この胡散臭い世界」の実情ですしね。
霊学に対して、このような意識的な感情をもって臨むことは、いわば畑に種を蒔く前に十分に準備をすることと同じです。まかれた種がよりよく育つためには、「畑の状態」を意識して、それを正しく耕しておかなければなりません。
前置きが長くなりました。excelを使って地球紀の進化にまつわるあれやこれをまとめてみましたということが実は今回の投稿テーマでした。参考にしてください。
そのうえで『黙示録の秘密』を読み直してみるなり、あるいは取り寄せてトライしてみるといいと思います。以下、図版をクリックすれば、とりあえず判読できる図が現れます。
7つに分けられた区分の上段は7つの惑星進化紀に使うことのできる一般的な用語です。下段は「地球紀専用の用語」になります。
ちなみに、シュタイナーによると、黙示録に登場する666のは「人類の進化の数」を表すということです。「進化の数」とは、人類がすでに通過したカテゴリーを上位カテゴリーから順番に並べたものです。(ただしABCの上位の三つ組みで表される数ではないのでご注意ください。)
掲げた表で説明すれば惑星状態C、根源人種D、民族文化期Eを、前から順番に並べたものなのです。現時点で人類はC4、D5、E5地点におりますから、すでに通り過ぎたカテゴリーは順番にC3、D4、E4となります。したがって「現在の人類の進化の数」は344になります。
したがって黙示録でいう666の時代とはC6、D6、E6のカテゴリーを卒業した時点での話なのだということです。その時代とはC7D7E7地点、つまり人類が、第7形態状態期の第七根源人種期の第七亜人種(民族文化)期に到達した時に起こる出来事が描写されているのだということです。まだまだ途方もなく遠い未来に起きる出来事なのです。
666=ネロとかヒトラー、あるいは今後出現することを期待されている大悪党キャラ出現とかの都市伝説系の「わかりやすい話」ではないんですよ、黙示録が描いている世界というのは。
ヨハネ存命当時にあってさえ最高の秘儀に到達している者でなければ「何を言っているのか分からないシロモノ」であった黙示録という「秘儀参入体験の一連の描写」の意味が、こうしてようやくシュタイナーによって公開されたとは言っても、実際に翻訳本に当たって、それをちゃんと読み解いてみようと試みている日本人は多くないと思います。邦訳本がどのくらいの部数日本で売れたのか分かりませんが、購入した人のうち、しっかりと読み解いて自分の中に明確な全体像を作り上げて保持できている人はさらに少数だと思います。
さて、地球は7つの惑星意識、7つの惑星生命状態、7つの惑星形態状態、7つの根源人種、7つの民族文化(亜人種)期の組み合わせて進化していくという話でした。
7×7×7×7×7、つまり7の5乗です。
組み合わせの数は16807通りです。
シュタイナーは太陽が黄道を一周する宇宙年(25920年)を12等分して一文化期の長さとしています。25920年÷12=2160年です。現在の地球は魚座時代(1413年~3573年)の途中ということです。3573-2022=1551、これに次の第六文化期の水瓶座時代の2160年と第七文化期の山羊座時代の2160年を足すと5871年になります。
いまから5871年たつと、黙示録にいうところの「万人の万人に対する戦いの時代」、つまりアトランティス時代の末期がそうであったように地球の地表が再び大変動する時代になります。
現在のA4B4C4時代(表でご確認ください)の下位カテゴリー、つまり地球紀の物質状態時代C4の下位カテゴリーD区分のみを取り出して並べてみると、そのD領域内の根源人種については、
1ポラール時代 2ヒュペルボレアス時代 3レムリア時代 4アトランティス時代 5ユーラシア時代 6第六根源人種時代 7第七根源人種時代
となりますが、1の地球が気体状だったとさえ言えない時代から、2気体状、3液体状とだんだん地球が硬化していき、現在の地球の地表こそが、もっとも歴史的に硬化している時代になっているというイメージを持ってください。そして今後地球はまただんだんと軟化していくのです。
シュタイナーが現在の地球硬化時代に2160年の周期を当てはめているにしても、時代を遡るにつれ地球の状態は異なっていますし、ポラール時代にいたっては、固い物質地球が宇宙に浮かんでいたのではないですから、地球と太陽と月の物理的運動と位置関係で一年の長さや一日の長さがイメージ化されて使われている今日的感性をそのまま適用することはできません。時間感覚についてはアトランティス時代でもレムリア時代でも現在の地球と同じようには扱えないというふうに考えるべきでしょう。
とはいえ、今日使っている「時間感覚」で数えれば、現在の5大陸上で営まれている人類の生活は5871年後には変容するということです。周期が変容するごとにレムリアが沈み、アトランティスが浮上し、またアトランティスが沈み、ユーラシアが浮上したように、未来は現在のユーラシアや他の地上の大陸群が別のもの(質も異なっている)と交代すると予想できます。これまで硬化の道を進んできた地球という惑星が今後は反転して、軟化の道を歩むとすれば、現在の時間センスをそのまま適用できなくなるのではないかということも予想されます。地球紀の地球が現在の鉱物界ー物質状態を卒業するまでには、まだまだ途方もない時間が費やされるということも確かです。
木星紀にいたるにはどれほど時間を要するのか、すでに感受能力の範囲を越えています。とはいえ、現在の人類が、いまの魚座時代、水瓶座時代、山羊座時代を終了し、大陸大変動時代に達するのに5871年。それから一段上に上がって第六根源人種の7つの文化期を2160年×7=15120年、第7根源人種の7つの文化期で15120年、5871年+15120年+15120年=36111年。
このようにして3万6千年たつと、ようやく人類はさらにもう一段階上位カテゴリーで移動して、鉱物界カテゴリー内のアストラル状態の地球で生きることになります(表でご確認ください)。
再度言いますが、これらの未来へいたる時間を「今の感覚」で測れるのかという疑問はたえず付きまといますので、実際には物質地球の存在する世界感覚の産物たる、2160年という時間の長さから今の人類が受け取る時間感覚を倍数化して、そのまま時間感覚化できるわけもないだろうと思われます。実際以下のようなシュタイナーの発言があります。「第六根源人種の中頃、その三分の二が過ぎたころ、もはや物質的身体はなくなります。人間はふたたびエーテル的になることでしょう」(『人智学から見た家庭の医学』)
地球が軟化していくというのは、エーテル化アストラル化していくということでもありますから、人類も「軟化」の道をたどっていくのです。
ちなみに現在の地球に適用されている2160年の幅にしてもシュタイナーが便宜的に分けたものでしょうから、現実はかちっと区分されているというわけでもないことも付言しておきます。
現在の「地球時間感覚」で7の5乗進化の長さを測っても、次の木星紀にいたるためだけでも途方もない忍耐が人類に要求されているということになります。
秘教学徒たるもの、「最後に生き残るのは私感覚をになう霊」であって、現在私自身だと勘違いさせられているところの、輪廻のたびに気質と性別を変えていくアストラル魂に担われたものでも、ましてやそれを入れている地上の肉体でもないということも、あわせていつも意識して過ごしたいものです。
以下、「一般民衆の霊界参入能力の変遷」
古代人は実際に日常と霊界とを、ともに生きていました。近代公教育の学校の先生たちから聞いたように、古代人が、自然界には、神々、精霊がいると空想した結果が、いまに伝わる宗教感覚になった・・・・・というわけではありません。それは百科事典的な当たり障りのないような説明です。そのような説明を読むと「当たり障りがない説明で実に穏当だ」と近代人は感じます。
学問の場に供される近代式の印刷された辞典や便覧はまさに唯物論的思考の集大成です。近代の宗教学者、社会学者たちは、彼らが古代人の「空想」とみなしたものを、科学的思考態度に則って、つまり唯物論的手法によって「アニミズム」と命名しました。科学の論理作法による用語ですから、彼らは彼岸的世界の実在についてはあえて言及することは慎重に避けて「遠巻きに眺めるだけ」で、触れないで済むように論文上ではそっとしておきます。
「愛したり憎んだり悲しんだりと、生活感情のうえで、我々と基本的に変わることのなかったはずの古代人たち」が、なぜそのように考えるようになったのだろうと、古代人の「心理分析」の結果として、そう命名したのです。このように近代の論理思考は、土台がゆるぎなき唯物論によって「演繹化された出発点」を持っていますので、前提を疑うことがないのです。
秘教を学ぼうとする者は、「学者の名」によって語られる「アカデミック」な解説に耳を傾けるときは、そういう学者事情も理解したうえで、彼らの学術書と付き合っていくことが大事でしょう。 -
「〇〇が陰謀をたくらんで人類を支配しようとしている」というトンデモ話を扱う領域を陰謀論と呼んでいます。誰かが馬鹿げた話をネットに持ち込むと、必ずそれを陰謀論という独特な用語で否定する集団も同時に出現します。ソッチ系の界隈ではフリーメーソンとかイルミナティとか大人気コンテンツのひとつですよね。しかも「本家」が媒体握って、適宜、情報頒布活動に関与しているとなれば、情報の出し役と受け取り頒布役が、たといそのプレーヤー同士が人脈的に無関係であったとしても、とどのつまり源はおんなじじゃん、という笑えない話に帰着します。近代は「そんな話ばかりで実は出来上がっている」ことも多いって話ですよね。攻撃側から「それは陰謀論だ」と言われたら「陰謀なんてない。それは事実ではない作り話だ」と言っているのと同じことですが、銀魂の神楽の焼きそばエピソードのように「ウソつくんじゃねーよ」とストレートに言わずに、英国人のように「それは陰謀論ですね」と遠まわしに言うところが、そのそぶりに対して、にやっと笑いたくなるところではあります。一昔前の英語圏アカデミーの権威筋から発せられていた「歴史修正主義者(リビジョニスト)」という呼称による、遠まわしな表現による、「視点選択の無力化活動(ある視点の、解釈選択肢からの削除運動)」も似たような源泉から出てきたものでしょう。本物の花の周りを無数の造花で飾ると、もはや人は「生きている花」をその中から選び出すことができません。目の前に咲いている花が一株だけだったなら、私たちは「探すための苦労」することもなく、近づいて手で触り、すぐにそれが本物の花だということを自力で確認できます。しかし1ヘクタールを埋め尽くす、一見植物にみえるようにしつらえられたさまざまな造花のなかに隠された本物の花を遠くから眺めて、つまり学校教育やマスメディア経由で見せられて、「どれが本物なのか」を指摘することは、特別の透視力など持たない私たちには、ほぼ不可能でしょう。近年の高校の英語の教科書に、ジャムの詰め合わせ商品の購買傾向についての記事が出ていましたが、このリサーチ報告は要するに「消費者はパッケージに盛り込まれた選択肢の数がある水準を超えると、選ぶこと、つまり判断し決断することができなくなり、結局は、よりシンプルな品数の詰め合わせセットを選んでしまう」ということでした。膨大な情報に脳が圧倒されて痺れさせられている時代には、人々は「分かりやすさ」、つまりそれは「受け入れやすさ」と同義ですが、それこそを選択の基準にしているということです。それが今日の時代です。要するに、ことわざとして昔からよく耳にしてきた「木を隠すなら森の中作戦」は「情報の秘匿方法」として、今日でも大変有効に機能しているということですね。さて、近代の民主化運動とフリーメーソンの関係について、シュタイナーは『神殿伝説と黄金伝説』にて以下のような発言をしています。-----------------------------------------------------------すでに述べたように、近代フリーメーソンはイギリスにおいて、もちろんそれまでの伝統をふまえた上で、18世紀初頭にはじめて設立されました。以来、大英帝国内ではなく、イギリス王国内でのフリーメーソンは、非常に尊敬すべき在り方を続けてきました。けれども、他の多くの地域でのフリーメーソンは、主として、またもっぱら、政治的な利害打算の中だけで動いているのです。そのような政治的な利害打算をもっとも顕著にあらわしているのは、フランスの大東社(グラントリアン)ですが、フランス以外の大東社にもこのことは多かれ少なかれ当てはまります。イギリス人は言うかもしれません。「他の諸国において、オカルト的な背景をもつフリーメーソン結社が政治的な傾向をもっているからといって、われわれに何のかかわりがあるというのか」。しかしさまざまな事実を相互に関連づけてみると、パリにおける最初の大東社ロッジは、フランス人ではなく、イギリス人の手によって創設され、イギリス人がフランス人をそこへ加入させたのだ、ということがわかります。それは1725年のことでした。1729年には、この大東社の承認の下に、最初のロッジの一つが同じくパリに創られました。次いで、同じくイギリス人の手で、1729年ジブラルタルに、1728年マドリッドに、1736年リスボンに、1735年フィレンツェに、1731年モスクワに、1726年ストックホルムに、1735年ジュネーブに、1739年ローザンヌに、1737年ハンブルクに創られました。こう述べていくと、きりがなくなります。私が言いたいのは、たとえイギリス王国の場合とは違った性格をもっているとしても、イギリス人による同じネットワークの一環として、これらのロッジが創られ、特定のオカルト的=政治的な衝動のための外的な道具にされている、ということです。もしもこの政治的衝動の深い根拠を問おうとするのなら、近世史をもう少し広く展望する必要があります。この衝動は17世紀以来----すでに16世紀から----準備されて、民主化運動となって普及していきました。ある国ではより速く、別の国ではよりゆっくりと、少数の者の手から権力が取り上げられ、大衆の手に委ねられるようになりました。私は政治的な立場から申し上げているのではありません。ですから、民主主義を擁護するつもりで語っているのでもありません。ただ事実だけを取り上げるなら、この民主化の衝動は、近世史を通じて、加速度的に、テンポを速めて普及していきました。けれどもその際、もうひとつの流れも、それと一緒に形成されたのです。複数の流れが現れているときに、その中の一つだけを取り上げて考察すると、判断を誤ってしまいます。ひとつの流れが世界中に広がっていくとき、常にもう一方の流れがあって、はじめの流れを補完しているのです。歴史の上に緑の流れと赤い流れとが並んで存在するとき、人びとは通常、その一方の流れだけを見るように、暗示にかけられているのです。にわとりの口ばしで地面を引けば、そのにわとりは線に沿って歩きます。そのように人びとは、特に大学の歴史研究者は、一方の側だけに寄り添って歩いて、歴史の歩み全体を洞察する余裕を失っているのです。民主化の流れの背後に、さまざまな結社の、特にフリーメーソン結社の、オカルト的な力を利用しようとする流れが見え隠れしているのです。オカルト的な力を利用しようとする動機は決して精神的であるとは言えないのに、一見精神的なふりをしている貴族主義が、フランス革命で大きな役割を演じたあの民主主義と、手に手をとって発展してきたのです。ロッジの貴族主義がひそかに出現したのです。私たちが現代人にふさわしく、社会に参加し、社会の仕組みに通じたいと思うのなら、民主主義の進歩についてのきまり文句に目を眩まされてはなりません。ロッジの儀礼とその暗示的な力とによって、支配力を少数者だけのものにしておこうとする働きに、眼をしっかりと向けなければなりません。西洋近代の世界は、ロッジの支配力から解放されたことが一度もなかったのです。常にロッジの影響が強力に作用していました。人びとの考え方を一定の方向へ向けるにはどうしたらいいのか、ロッジの人びとはよく心得ています。今日はそのようなロッジのネットワークの一つひとつの結び目のことを述べたにすぎませんでしたが、このようなネットワークはすでに出来上がっています。ですから、自分の好む方向へ社会をもっていこうと思ったら、ただテーブルのボタンを押しさえいいような体制が出来上がっているのです。[1917年1月8日の講義より](P428-P430)-----------------------------------------------------------ご紹介した発言の中で、イギリス本国のフリーメーソン人は世俗的ではないが、「あるイギリス人」がイギリス国外に出て行って次々に設立したフリーメーソンは「たちが悪い」と語っていますね。「旅の恥はかき捨て」という日本のことわざのように、次々と海外に植民地をこさえて独立国家を作り、国家の法のなかに人種差別条項を設けて「法の下における人種差別政策」を行ってきた国々はすべて「海外に出ていったイギリス人の子孫たち」によって作られた英語圏国家だった事実とつき合わせて歴史を眺め直してみると、その行状は「海外に出て行った、イギリス人の作ったフリーメーソン思想」とも呼応し合っています。シュタイナー発言の中から私が気になった個所を箇条書きにしてみます。①フリーメーソンは、主として、またもっぱら、政治的な利害打算の中だけで動いている。②ロッジの構成員たちの本来の目的は貴族主義(貴族統治)だが、彼らはそれを民主化運動のなかで実現させるべく暗躍してきた。③西洋近代の世界は、ロッジの支配力から解放されたことが一度もなかった。④彼らの好む方向へ社会をもっていこうと思ったら、ただテーブルのボタンを押しさえいいような体制が出来上がっている。このシュタイナーのフリーメーソン批判は、約100年前になされたものですが、今日でも状況は同じでしょう。世界的事件の数々は、実際には、緑の流れと赤い流れの「二つの流れ」が相合わさって形成されてきたのに、近代の一般の人々は幻惑されて、緑の流れだけを見せられて、「これが歴史なのだ」と考えるように誘導されてきたのだとシュタイナーは言っているのです。近代人は、学校制度というシステムのなかで「彼らが望むとおりに思考する」と評定Aプラスがもらえるので、この筆記試験の結果が形成することになる、それまでの「生まれや身分の違い」による選別方法に代わる「新たな選別方法による階級社会」の中にいやおうなく投げ込まれて、教育現場において、遠まわしに絶えずくすぐられ続ける自尊心や恐怖心から生まれる利己主義を「彼らに利用されてきた」のです。
そのような反復訓練を施されて、社会に出て行って一定の社会人的経済人的地位を得ます。彼らは「自分たちは有能で、確かな地盤に立って生きている」と感じています。利口ではあるけれど、競走馬のブリンカー(遮眼革)ように視野を狭める器具を装着されて、洞察力を奪われて生きている近代人、「誰かにしつけられた思考方法」を演繹的に用いながら、思考生活の上で受動的に生きてきたのが、近代人の「現在の立ち位置」なのです。フリーメーソンは彼らの計画を実行に移す前に必ず予告を行うとシュタイナーは言っています。-----------------------------------------------------------ヨーロッパには今日、なにごとも短絡的に考えようとする人々がいます。世界大戦の勃発を、フランツ・フェルディナンド皇太子の暗殺に関連させて考える人々がいます。それが間違いだ、と言っているのではありません。1914年6月起こった暗殺事件に遡って説明することはできます。しかし、1913年1月の西欧の新聞(パリ・ミディ)に、「ヨーロッパ人の安泰のために、フランツ・フェルディナンドが暗殺されるべきだ」という記事が載っていたことを強調す人々もいるでしょう。実際の暗殺事件まで遡ることもできるし、1913年1月の新聞に「彼は暗殺されるべきだ」と書かれていたことに遡ることもできます。おそらく真相は明らかにならない、平和な時代の最後に起こったジョレス暗殺に遡ることもできます。また、1913年にくだんの新聞に「ヨーロッパにおける状況が戦争へと突き進むとしたら、ジョレスが最初に殺される人物だろう」と書かれていること遡ることもできます。40フランで売っているオカルト・アルマナックを見てみましょう。1913年のアルマナック、つまり、すでに1912年に印刷されたアルマナックに、「オーストリアでは、統治者になるだろうと人々が思っている人物ではなく、老皇帝ののちに統治するとは思われていない若い男が統治するだろう」と書かれています。1912年の秋に印刷された、「1913年のアルマナック」です。1913年に印刷された「1914年のアルマナック」に、同じ指摘が繰り返されています。1913年には、暗殺計画が失敗したからです。
ものごとを明瞭に見通せば、外的な現実のなかで生じることと、秘密裡に企まれることとが関連しているのが明らかになるでしょう。おおやけの生活からあれこれのオカルト結社に連なる糸が認識されるでしょう。「密儀の真理については沈黙しなければならない」と今も主張する結社がいかに愚かかも、認識されるでしょう。オカルト的な源泉を専有しようとするフリーメーソンの古参会員であっても、子供っぽく無邪気なことがあります。とはいえ、彼らは人々が闇のなかにいることを欲します。(『職業の未来とカルマ』P194-P196)-----------------------------------------------------------彼らは、新聞や町の売店で安価で手に入る予言カレンダー(オカルト・アルマナック)などで、「これから彼らが引き起こすことを告知する」のです。今日でも世界情勢予測や経済予測、そして占い系のコンテンツは大繁盛していますが、印刷出版業が大発展を遂げていた当時もそうだったのです。フリーメーソンは、雑誌『ムー』だったり、今だとYouTubeの都市伝説系コンテンツでもよく取り上げられているネタです。そして彼らと関連させて言及されるのが、いわゆる「イルミナティ・カード」とかイギリスの経済雑誌『エコノミスト』の表紙です。何か大きな事件があるたんびに、「予言が当たった」と言って、そういう話題を扱う媒体が面白可笑しく取り上げて騒ぎますけど、言ってみれば、そういうコンテンツで商売をしている人々は、「自覚なき彼らの手駒たち」として利用されているわけですね。100年前にヨーロッパで活動していたシュタイナーの残した文書を読むと、実は「そういうやり方」つまり「あらかじめ予告してから実行する」という演劇的振舞い方というのは、フリーメーソンがずっと大昔から持っていた、一種の「子供っぽさ」の表れなのだということが分かります。シュタイナーによれば、「書かれたことが現実になる」ように暗躍する人々は実在するということになりますが、これをDSと言う風に今日的な言葉に言い換えても、たいした違いはないでしょう。今日の日本の独特な表現で言い直すと、彼らは「そのやり方」において「中2病っぽい」のです。そのような儀式的演劇的なふるまいを彼らは「伝統」として今日も引き続き継承して、行使し続けているのだということが分かります。たとえば「名探偵コナン」の登場人物の怪盗キッドは「誰がいつ何を奪いに来るか」を警察組織に分かるように伝えますが、フリーメーソンは彼らの計画を市井に出回る媒体に「堂々と」ではなく、「そっと」忍ばせてから、実行に移します。しかも「誰が」の部分は決して公開しません。そもそもオカルト組織ですから、そうすることは言霊(一種の魔術的作用力)を発動させるための、彼らにとって欠かすべからざる儀式的手続きになっているのでしょう。今で言ったら「引き寄せ効果」を期待しての振舞いなのかもしれません。昔結社の指導者たちに「いいか、同志諸君、欲しいものは皆の前で声に出して言え」とでも教えられたのでしょうか。しかし実際には彼らは「分かりにくい場所で、小声でこそこそとつぶやいているだけ」でした。けれども彼らの「その小さな仕掛け」こそが、彼らの「中2病マインド」をメラメラと燃え立たせ、彼らの貴族共同体的な仲間意識と自尊心を満足させる行為となっているのです。フリーメーソンが「唯物論の普及活動を行っている」ことについて、シュタイナーはこんなことを言っています。-----------------------------------------------------------オカルト同胞団は、生活の本当の法則に関連するものについて人々の知識を曖昧なままにしておこうとします。そのような人々の下で、オカルト同胞団は最も活動しやすいからです。自分が本当はどのように現代に生きているかを人々が知りはじめたら、もはやオカルト同胞団は活動できません。秘密を漏らさず、どさくさまぎれに利を得ようとする者たちにとって、本当の知識が広まるのは危険なのです。彼らは自分たちの望みどおりに人々を社会のなかで生活させるために、秘教を用いようとします。今日、オカルト同胞団のなかに、「私たちの周囲のいたるところに霊的な力が存在し、正者と死者のあいだに絆が存在する」と確信している会員たちがいます。彼らがオカルト同胞団なかで語っているのは、精神世界の法則にほかなりません。それは、いま公開されるべきものであり、私たちの精神科学が有するものです。彼らは、先祖返り的な伝統から受け継いだものを語っています。しかし、彼らはその知に反対するようにふるまって、「それは中世的な迷信だ」と、新聞に書きます。秘密結社のなかで受け継がれた霊的な教えを大事にしている人々が、マスコミでは正反対にふるまって、「中世的な迷信・神秘主義だ」と評するのです。彼らは、その教えを人に漏らさず、他人を愚かなままにしておくのがよい、と思っているからです。どんな原則によって人間が導かれているのか、人々を無知のままにしておきたいのです。オカルト同胞団のなかには、世界をよく見て、「密儀の内容を今日おおやけに人々に伝えるのは不可能だ」と語る会員たちがいます。人々を五里霧中のままにしておくには、いろいろな方法があります。本当の精神科学は、精神世界への鍵となる理念を私たちに伝えます。しかし、自然科学的な世界観によって悟性を浅薄にされていない人々をも騙せる概念があるのです。一定の方法で概念を形成できるのです。今日、おおやけの概念がどのように形成されるかを多くの人が知ったら、本当の精神科学への衝動を感じるでしょう。(『職業の未来とカルマ』)-----------------------------------------------------------シュタイナーによると、近代フリーメーソンの淵源は13世紀にまでさかのぼることができるそうです。エジプトの秘儀以来のさまざまな国家、地域の秘儀の象徴を寄せ集めて保存しています。思想の上で、最大の影響力を持っているのが旧約聖書の秘教部分、つまりユダヤ教のカバラ思想です。しかしもはや彼らは自分たちが秘匿している秘密を正しく理解していません。フリーメーソン思想はユダヤ教ではないのですが、ユダヤの秘教部分とつながりがあるのです。18世紀末になると、フリーメーソンの一部にイエズス会が浸透しました。これがいわゆるイルミナティ部門なのでしょう。イエズス会思想の土台もまた秘教、オカルト思想に根差しています。多分に物質主義的なイメージ、人類を地上から解き放つ(人類の霊界回帰、人類の天使化ではなく)、「イエスに地上の王になってもらって永遠に統治してもらおう」という、本来のキリスト教が持っていた「上への衝動」とは真逆の「地上統治への強い愛着感情」をもとに活動してきた組織なのです。人類の貴族統治を目指しているフリーメーソンとも相性のいい「キリスト教思想」なのでしょう。イエズス会がスペイン・ポルトガルの海外侵略に手を貸した理由も太陽霊キリストではなく、地上の王イエスによる人類統治という目標があればこそだったのでしょう。キリスト会ではなくイエズス会、つまりイエス会という呼称を使っていたのは偶然ではないのです。それはイエス教のイエス会だったのですから。
『社会の未来』においてルドルフ・シュタイナーは「企業集団は真の目的を隠して、蓄積された大資本で巨大な権力を手に入れ、民衆を支配しようとしていたのです。」と語っています。私たちは「資本主義は利益の最大化を目指す」と習いました。けれど「なんのためにそうするのか」は教科書には書いていません。富を増やすことが「最終目的」だと言います。しかしシュリーマンが大金を得るために企業を立ち上げて大成功し、莫大な資金を得たのは、「より多くの富の獲得」が目的だったからではなく、「手段」だったことは有名な話です。シュリーマンは「手に入れた資本」をトロイ発掘の「手段」にしたのです。近代は「紙幣の支配権を手にすること」こそが「人類統治のための手段」になったのでした。「彼ら」はお金が欲しいのではなく、お金を使って達成できることを追求してきただけなのですが、一般庶民は相変わらず、所得の不均衡には声を上げても、自分たちの唯物論化した思考態度を改めようとはしていません。庶民が「金の話ばかりしているだけ」なら、唯物論の宣布人フリーメーソンには安泰なのです。それは引き続き人類を幻影の中に置いてコントロールできるということなのですから。今日精力的に世界の企業を傘下に収めてきた人々は「神などいない。この世は偶然ビッグバンで生じ、たびかさなる偶然の連鎖の結果、猿から人間が生じた」と近代科学思想で武装した科学者たちに広宣させながら、「そうだ、お前たち民衆に神など必要ない。お前たちに我らの神は必要ない。だから我らの神をお前たちの眼の前から隠しておくのだ。その神は我らの神であって、お前たちの神ではないからだ」と思っています。ほんとに彼らは「一休さんの水あめ和尚さん」そっくりの、「大ウソつき」なんですよ。