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「いつかカバーをやりたい」と思っていたtaccaさんの名曲「Dear My Friend」(当ブログでも言及済み)を今週3日かけて、やっと完成させました。
結局、使った機材はWindows XP時代のDTMソフトcakewalkをMTR代わりに使うという30年前(90年代は4トラック・カセットテープ式)と変わらないローテク的アプローチ。
台所の食卓にパソコンとマイクを設置して、歌を録音しました。PCの前でギターとベースを演奏。
写真にあるように、マイクはPC用の安物を使ってます。
デモ曲って、それでいいと思うんですよ。それに今回は長年録音行為をしてなかったので、その「リハビリ」ですし。
今回はドラムパートのみMIDIにして、ピアノとかシセン音とか、あれこれの打ち込みは断念しました。ほんとめんどくさいだもん、打ち込みって。
実際に演奏したのはガットギター(エレアコ)とエレキベースのみです。
Taccaさんの原曲はバラード調で格調高い雰囲気があり、使用楽器もたくさん、アレンジも凝ってます(あらためて聞き直してみて、いいなあと思います)。
Dear My Friend
私はロック調に解釈し直してます(いや手抜きです)。ほんとなら原曲研究も含め準備に1か月くらいかけて、ピアノかエレピとかも入れて、3声とかのバックコーラスもいれて、ドラムアレンジ・ベースアレンジ・ギターアレンジも細部まで詰めて、それを一発撮りで維持できるまで練習して録音に臨むべきなんでしょうけど。手早く済ますために、むずかしいことは一切やりませんでした。
歌も1回撮ったのみで、修正すべき点あるんですが、「ま、いっか」で終わらせました。
バンドでやれれば、自分は歌とせいぜいアコギとかに注力すれば済むので、あーほんとバンド録音でやりたかったです(今はひとりぼっちなんで)。
今年の11月で65歳になるというのに、声かなり出てますね。「老人の声」ではないよなあ、と自分なりに、姿は無残に老いさらばえていても、声はまだ大丈夫とわかってほっとしてます。
今後はもっとオリジナル楽曲も含め、いろんな曲の「録音作業」に時間を投資できるよう、頑張ろうっと。
P.S. YouTubeでもう1曲楽曲(オリジナル)公開してます。
30年くらい前4トラックMTRで録ったやつに動画を加えたやつです。
声今と変わんないですよね。
昔アップして削除した楽曲とかも再アップするかもです。PR -
「facebookを始めたのはいつだったっけ?」と思い、自分が初めて投稿した年をチェックしたら、2013年だった。
それ以来、2025年の今日まで、ほぼ無活動。そのせいで、いまだに使い方が分からない。今回の「調査」時も、自分の過去の投稿ページになかなかたどりつけなくて、ほぼ偶然たどり着けたような感じだった。
思い出すと、facebookを始めた当時もそうだったけど、「彼女ら」はどうやって、無名の地方人がfacebookを開設したことを「嗅ぎつける」のか、外国籍を含め、有象無象的女人(にょにん)たちが、「友達申請」をしてくるのがすごく気持ちが悪かった。
たぶん、そういう「部分」がすごくイヤで、facebook界隈に近づくのはやめようと思って、ほぼ「本当の友人たち」の投稿があったときだけ(Yahoo!メールが「投稿があったよ」と知らせてくれる)、彼らのページを覗きにいくだけだった。
最近になって、音楽活動に関連して「facebook投稿頑張ってやってみようか」とふと思い立ち、自分の顔写真とか背景写真とかをアップしたら、またすぐに「有象無象現象」が始まったので、「マジかよ」と恐怖した。「どういう仕組みになってるんだろう。facebook当局も認可済みなんだろうか。ほんと不気味だ」と邪推せずにはいられないほどだった。組織的な「申請請負人」たちに(写真の「中の人」が実際に本人、あるいは女とは限らないし)facebookから「情報」が流れるような仕組みがあるんじゃないかと思ったのだった。
ページトップの「知り合いかも」の欄には、通常の「市井の人々」の何の変哲もない顔写真に交じって、頻繁に「こういうのが見たいんでしょ系」の女性の上半身写真と、芸能関係者、それとなぜかいろんなタイプの大谷翔平ページが出てきて、2013年の頃よりヒドくなってるんじゃないのかと驚愕したのだった。
不思議なことだけど、今年ある時期、「友だちの投稿時」以外はfacebookのページに近づかなかった自分がふとfacebookを訪れたくなって「あれ?」と思ってしまったことがあった。
なんと弟がfacebookしているのを知り、友達申請していたのでOKしたら、「弟との共通の友達」として女人(にょにん)たちによる「友達申請攻撃」を受けるようになったので、弟のページそのものを友達扱いから消去してしまった(すまんな、弟よ)。
boundheadのブログなら、長年いろんな領域に渡って書いてきたし、コメント欄で声をかけてもらえるのはうれしい話だけど、そもそも私のような「何のfacebook活動実績もない人物」と「なぜ友達になりたいのか」分からないじゃないか。
初めのうちはとりあえずOKを出してみたけれど、「相手側にも活動実績がない」のを見て、無気味に感じて「やっぱOK取り消そう」と思い直して、今は以前のような「友だち状態」に戻してしまった。
でも、せっかくfacebook投稿活動再開したのだから、「facebookの有効活用」について、しばらく思案してみようとは思っている。
「仲間内で閉じた活動」ではなく、「誰でも来れる場所で広く活動したい」というのがblog活動を重視して今日まで続けてきた理由でもあるしね。 -
月最低2回の更新を果たさなければいけないと思い、以前書きためていた記事に手を加えて今回出すことにしました。間に合ってよかったなあ。
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大化の改新とは古代の大陸閥(外国精神)革命でした。つまり「本来の古い統治思想(豪族連合統治=仕付け糸式)を大陸精神(中央集権式)で上書きした革命」でした。それは、司馬遼太郎によれば「庶民が沈黙させられた古代の社会主義革命時代」の始まりでした。
その革命以後、日本の庶民は何百年も忍耐し、ついにこれを破壊したのが、地方の豪族由来の開発武士団で、「彼らの精神」は、御成敗式目として結実しました。武家は公式に律令を廃するという布告を出さずに、いわば勝手に「自分たちの暮らしの実情に沿った決まり」を作って、「ああ、そういうのもあったよな」的に律令をほったらかしにしました。
武士団は、庶民の精神生活の再日本化に寄与したのです。しかし、呼気と吸気を長い周期で繰り返す人類の歴史の途上において、日本においては、明治革命によって、仕付け糸式の武家政権統治は姿を消し、再び世の中は「中央集権=王政復古=中国閥(藤原組)革命政権」に回帰しました。
とはいえ、こんにちにおいても、さらにもっと古い時代への復古、「大化の改新以前の日本(精神生活においてという意味ですが)への復古」はまだ起きていません。日本に律令体制、古代式社会主義体制を持ち込んだ為政者たちは、一種の言論弾圧を行ったのです。それまで庶民の間で流通していた言葉(認識)を別の言葉で上書きしました。この「国民精神への上書き」はものすごくうまくいきました。ちょうど戦後にもう一度「言ってはいけない革命」によって今の日本人一般のマインドセットが出現したように。
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや 額田王
(懐かしい三輪山をそんなにも隠すのか。せめて雲だけでも思いやりの心があって ほしい。そんなにも隠し続けてよいものか。)
大化の改新以前の古代日本の王政とは今日的な言い方で言うと「秘儀参入者=霊界にアクセスでき、霊界の神々にまみえることができ、そこで得た経験を物質界にもたらすことができる能力を持った人物を、王として立て、国民が彼らを敬うもの」でした。
魏志倭人伝にあるように「道で行き会うとパンパンと拍手の音でもって挨拶される人々」が大化の改新よりさらにずっと以前の古い日本にはいたのです。
今の日本人は、古代日本には「特別な霊力を有した者」だけが拍手をもって挨拶を受けた時代があったことを、皆忘れてしまっています。今日の日本人からはまったく失われてしまっていますが、古代日本にはふつうの民にも「誰が偉大な人物なのか」を見分けられる程度の「霊力」は備わっていたのでした。
人々はその後霊力を完全に失いました。そのような状態で物質界を生きなければならない状況が出現し、そのような状況が20世紀まで続きました。とはいえ、失われた人類の霊力の復活と進展に関しては、すでに新しいフェーズに入っています。
21世紀に入ってからますます、こんにちその輪郭はまだ漠然としてはいますが、人類の認識力(霊力)の進展や輪廻思想も含め、特に日本のマンガやアニメは世界に向けて「紀元以前の古代思想(世界感覚)」の緩やかな普及に大いに寄与しているとも言えます。今日の日本のエンタメ(小説・漫画・アニメ等)には「そのモチーフ」がいろんな作品で何度も登場してくるのが興味深いのです。
シュタイナーの以下の言葉を思い出しました(以下『シュタイナー用語辞典』から引用)。
----------------------------------------------------------------東洋(ロシアとアジア)では輪廻思想が、思考を麻痺させる鈍い感情として現れ、その精神の墓に精神的自己(霊我)が入ってくる。
アジアの文化から未来的なものが生まれる。-----------------------------------------------------------------
一方、英米の男たちの精神的態度については、以下。
-----------------------------------------------------------------3千年紀(21世紀以降)に世界に輪廻思想が復興するが、心魂が強く地上に捕らわれている英米の男性は、スポーツを盛んにして、輪廻思想を阻止する(英米では精神生活は女性によって伝えられる)。
西のオカルト結社は、人々の心魂を地球に縛り付けて、輪廻思想を排除しようとする。-----------------------------------------------------------------
例えば、「転生したらスライムだった件」(season1-ep2)で、ゴブリンたちに向かってリムルが「どうして自分を畏れ敬うのか」という趣旨の質問をしたら、村のオサが「ものすごいオーラが、我々村人たちにだだもれしているからです」という趣旨の返事をします。このアニメの世界では最下層の人々さえそういう「感知能力(霊力)」を持っているのです。
そういう「霊力」は古代の日本人にも本当にあったのです。古代の日本人全体がごく当たり前に霊力を維持できていた時代の、かつての高次の秘儀参入者たちが、こんにち神社を訪れた人々によって、拍手でもって挨拶される人々となりました。
今の日本人は、「なぜ今日の日本人は目の前にいる生きた人々に対して拍手で挨拶をしないのか」と考えたことがありません。「儀式」や「習慣」にはもともと根拠があったのですが、それが習慣化すると、根源を問うことを皆忘れていくものですから、それは仕方のないことではあります。
しかし歴史の周期の中で、人類の霊(界参入)能力が、インド思想的に言えば、黄金時代から白銀時代、そして青銅時代とだんだんレベルを落としていき、そしてついに今日のような無能力時代(カリユガの時代)に到り、世界の諸民族からも霊力が消えてしまうと、ここ日本においても、「誰に向かって拍手で挨拶すればいいのか分からない時代」がやってきました。3世紀以降今日の日本人に到るまで誰も「自らの力(認識力)」を用いて「道で行き会った生きている偉人を見分け、その人物に対して拍手で挨拶する」ことができなくなりました。
庶民が「その能力」を失って久しいですが、「近代」に到り、今日隆盛を極めているのは、その精神性で言えば、極めてアーリマン的な、「文字象徴をいかに上手に扱えるかを競うことによる能力判断テスト」であり、それも社会人以前の、未成年時代のペーパーテスト成果が絶大な価値を持つという、考えてみれば、「歴史的」に見て、はなはだ異常な文化時代です。
自然神ではなく、人を神として祀る系統の日本の神社文化とは、「秘儀参入者を敬う」という、まだ民族全体が霊力を維持していた紀元前にさかのぼる非常に古い時代の伝統が可視化されたものです。こんにち見る神社文化以前の様相が今の日本人にはまったく「思い出されて」いないのです。
こんにち神社参拝は新しいエンタメとして若い人々にも人気になっていますが、大事なのは「こんにち見られるような神社文化を成立させた、古代日本人の霊的実相に思いをはせる」ことです
「実態(霊力を持った偉人たち)」が消えたので「思い出」としての「顕彰所・痕跡(神社)」が残ったのです。
こんにちまで伝わっている神社文化は、われわれに、「国民が秘儀参入者を敬い、秘儀参入者を通じて、人間を超えた高次の神霊たちと交流する、そういう時代があった」ということを類推させるだけにとどまっています。
天皇呼称が使われるようになる以前の「おおきみ」とは高次の秘儀参入者のことであり、古代日本では秘儀参入者のことを「カミ」と呼んで敬ったのでした。「おおきみはカミにしませば」という言葉が出てくるゆえんでした。高次の神霊(カミ)と交流できるものはカミに等しき存在として受け取られたからでした。
日本は「秘儀参入者を敬う」という1万年以前にさかのぼる「非常に由来の古い宗教感覚」によって維持されてきた国でしたが、民族全体が霊力を失った時点で(大化の改新時には壊滅状態でした)日本人全体が「その事実」を忘れてしまいました。そしてその過程で「秘儀参入文化」は「こんにち見られるような神社文化」へと変貌を遂げたのでした。
シュタイナーによると19世紀後半に人類はカリユガ期を抜け、霊力の発展期を何千年もの月日をかけて逆にたどっていくことになります。青銅時代が現れ、白銀時代、黄金時代が出現します。
彼はまた、「人類は、いずれ脳に前世を思い出すための器官を持つようになる」とも語っておりますから、その器官をまだ開花させていない我々ではまだ見通せないでいる過去も、未来に出現する子孫たちにとっては、より接近しやすい対象になるのかもしれません。こんにち学校で学習させられる歴史は(時代が古くなればなるほど)「講釈師見て来たような嘘を言い」の世界と実は大差ないようです。 -
今の日本の70代80代の人々が建てた家には、まだ様式として床の間付きの家が多かったと思うけど、彼らが30代40代の働き盛りだったころ、実際には床の間を床の間として利用していることは少なかったんじゃないかと思う。
つまり季節季節にその時期に合った絵が描かれた掛け軸をかけ替えて、水盤や花瓶に花を活け替えるというような所作を行うような「心の余裕」はあまり持てなかったんじゃないかと思う。
まだ幼い子供のいる若い夫婦の住む家の障子は「必ず破けている」のが相場だった。家族全体がいつもいつもばたばた、ばたばたしていた。
私が実家に戻ってきたとき、確かに床の間はあったが、そこには新築時に掛けたままになっている変色した掛け軸がそのまま掛かっていた。
私は家の床の間の壁も含めて、その他すすけていた壁紙を自分で全部貼り替えて、床の間を床の間としてちゃんと使ってやろうと思ったのだった。
それで季節ごとに(実際にはひと月ごとに)掛け軸を掛け替え、花も取り替える、というようなことを始めた。今日でも「その習慣」は続いてはいるが、「生の花」だけはどうにも扱い続けられなかった。
ダイソーなどという店が出現して、造花が豊富に廉価で売られている状況下では、「なんちゃって生け花派」になってしまうのも避けようがない運命だった。
8月といえばお盆の時期なので、普段は「絵」の描かれた掛け軸を垂らしているのだが、「南無阿弥陀仏」と書かれた掛け軸を飾っている。そういうわけで、今年も8月1日なって、その掛け軸に掛け替えたところだ。
舟形の水盤の中には円形の剣山が置いてあるけれど、実際には水は入っておらず、写真の白い菊一輪も造花であった。
それでも、仏壇と掛け軸と一輪の花以外に何も置かれていない部屋を眺めると心がすっきりとなるから不思議だ。
昨夜買い物から帰ると、玄関の右下でガサガサという音がした。暗くてよく見えなかったが、「なんだろう、我だろうか」と思っていると壁の隙間にすっと入り込んでしまった。
それですぐに関心をなくして、その日は終わったのだが、翌日、隣に住む老人が「回覧板でーす」と大声で叫ぶので、「はーい」とこちらも大声を出して取りに行った。
回覧板を取って振り返ったら、バルタン星人が、玄関のガラス引き戸の上にとまっていた。
さらに私を驚嘆させている事態が8月に入って、いよいよ明確になってきた。
過去2年に渡って秋にその開花を追いかけてきて、アニメ「エルフェンリート」などとも関連付けて、このブログで報告してきたタカサゴユリが(ページトップ右側の「ブログ内検索」に「タカサゴユリ」と入れると過去記事へ)、すでに開花し始めている。
しかもその本数がこれまでと異なっている。〈彼女たち〉は今、とんでもない本数になって私の目の前に出現しようとしているのだった。
「3年越しのタカサゴユリ開花物語」として眺め直してみると、何か「小さな奇蹟」でも見せられているみたいで胸がいっぱいになった(写真をクリック)。
今はまだほとんどつぼみの状態だが、〈彼女たち〉が一斉に開花したら、写真を追加して報告したいと思っている。
P.S. ということで、追加報告
かなり開花したよ。(2025-8-9)
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昔、ネットで「GHQに発禁処分を受けた書物を復刻販売します」というキャンペーンをやっていて(今もやってるのかな?)、いろいろと買い込んだ時期があった。
その発禁本の中でも、「それ、まさに今の日本の話じゃん」と思ったのが、昭和19年に出版された長谷川泰造の『ユダヤの対日謀略』という本だった。
以下、長文で引用。
-------------------------------------------------------------------------新聞と通信「ニューヨークの新聞記者」の部分を「現代日本のメディア関係者、テレビ局員らおよび出演者たち」に置き換えて読むと、ここ200年間ずっと続けてこられた、認知改変術、始まりはヨーロッパにおいて局地戦的に、そして大戦後は、いわば「ナルト」における無限月読のごとき大魔術、つまり世界全体を攻撃対象とした「壮大な認知改変魔術」がまだ続いているんだということが分かる。
各国の新聞と通信とがユダヤの手中にあるように、米英の言論界もほとんどユダヤ人の手中に牛耳られている。ユダヤ人問題の知識もなく、何らの疑惑を有せぬ読者は、新聞に掲載された報道を、そのまま鵜呑みに真実と信じてしまうのが常である。
しかしユダヤ人に経営される新聞において真実が報道されることは、かくすることがユダヤ人に好都合の場合以外には有り得ないのである。
この問題について、アメリカ一流の論説記者ジョン・スウィントンは、ニューヨークの記者会議席上で次のような演説をしたことがある。
『アメリカでは田舎の町村以外には独立した新聞は存在しない。諸君はこの事実を知っている。余もまた知っている。諸君のうちには、真面目な議論を発表しようとする者は一人だっているまい。もし発表しようとしても、諸君はそれが活字にならないことを予め知っている。
余が執筆している新聞に、余が正直な主張を書かずにいることに対して、余は一週間に一五〇ドル貰っている。諸君も、他の新聞に対して同じ役目をすることによって、同額の給料を貰うことが出来る。もし余にして一度でも余の主張を新聞に掲載しようと無理をすれば、余の地位は二十四時間以内にふっ飛んでしまうであろう。
この事情がわからずに自分の正直な主張をのみ書こうとする記者は、失職して路上に他の職を探さなければならない。真実を偽り、威嚇し、財貨の前に跪き、報酬のため、即ち日々のパンのために国を売り、同族を売ることは、ニューヨークの新聞記者の仕事である。
われらは楽屋に身を隠している富裕な人々の道具であり、家来である。われらはまた操り人形に過ぎない。背後の人々が糸を操り、われらは踊るのである。われらの時間、われらの天分、われらの生涯、われらの能力、その他すべては他人の財産に過ぎない。われらはインテリの売節漢である』(以上はレスター・F・ウオード 「純正社会学」より引用)
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日米開戦が準備されることになった事情において、まだ世界にはっきりと「周知」されていない事実がある。それは「先に精神制圧攻撃を受けて、〈彼ら〉の知恵に屈したのは米国の方だった」という事実だ。
「米国人の時間、米国人の天分、米国人の生涯、米国人の能力、その他すべては〈彼ら〉の財産に過ぎない」
と言い換えて読んでみよう。
兵隊となった多くの米国の若者たちの命が、〈彼ら〉の世界戦略のいけにえとしてささげられることになった。「素朴な米国人の単純さゆえに、彼らの正義感は世界支配のための燃料」になった。米国の制圧という準備段階を経て、日本(米国)は米国(日本)と戦争をさせられたのだった。世界の諸国民は「実は原爆よりも制圧力のある兵器がある」こと、それが何だったのか、ようやく気付きつつあるところだ。それは一種の魔術のような何かであり、陰陽道における呪(しゅ)掛けと類縁な何かだった。
そしてGHQの統治が始まって以降、米国人がそうされたように、「今度は日本全体に認知改変という魔法がかけられた」のだった。もちろん大戦後のヨーロッパ人にも魔法がかけられた。そして保守と革新というプロレス興行が今日まで続いた。保守も革新もその根をたどれば「同じ雇い主」にいたる。そういうからくりだった。
〈彼〉あるいは〈彼ら〉は人間ではない。福音書で荒野のイエスに「自分の家来になれば地上の王にしてやる。地上世界はお前の〈所有物〉になる」とディールを持ちかけて来た存在だ。
だが〈彼〉は、「その時にはもはや「本来の自分」には戻れないし「真の故郷」にももちろん帰れない。お前の地上での栄光にはタイムリミットがある」と、この取引条件の隠れた部分は声に出しては言わなかった。
これまで「そのようなオファー」にたくさんの人間が向き合わされて、「どう行動するか」を試されてきたのだった。
(↑)筆者近影。
ということで、私も個人的な認知戦をしかけてみよう。
残りの人生は音楽三昧