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II・NAMI.COM
以前、ブログで地元の河川映像をよく見ているという話をしたけど、実は地元延岡の(というにはちょっと離れているけど県内の)海の映像もよく見に行っているのだった。

宮崎県はサーフィンをやるのに適した砂浜が多いので、どこから集まってくるのか、平日でも朝から大勢のサーファーがやってきて、大賑わいしている。

延岡市にも長い砂浜(その名も長浜)はあるんだけど、海水浴には適しておらず(ゆえに遊泳禁止)、もっぱらキス釣りするためにでかい竿で遠投を繰り返す釣り人のための浜でしかないのが残念なのだった(写真は長浜)。とはいえ、ここでサーフィンする人もいるらしい。




延岡から一番近いサーフィンのできる砂浜が日向市にある「お倉ケ浜」だ。



上の写真は「II・NAMI.COM」からスクリーンショットで取ってきた。

ご覧の通り海も空もまったく青くないけど、これは使われているカメラが、こんな色合いしか出せない機種だからだと思う。YouTubeなんかで「日向 お倉ケ浜」で検索すれば、「ちゃんと」青々した海と空の映像を見ることができる。

カメラを変えてくれないかなあ、と長年思っているが、希望は叶いそうもない。

このサイトでは、お倉ケ浜以外にも、宮崎県内のさまざまなサーフィン・スポットを映したカメラにアクセスすることができる。



昔、お倉ケ浜は純然たる海水浴場だった。サーファーが毎日、この砂浜を占拠するようになる30年以上前まではそうだった。



上の写真は左から、私、三男、母、従妹(母の妹の娘)。初めて「お倉ケ浜」に海水浴に行ったときの写真。

今日、宮崎県下のかつての「市民みんなの海水浴場」は、行政ともからんで、サーフィン振興に舵を切って、もうずいぶん時間がたっている。

でもサーフィン文化の未来はあまり明るくないかもしれない事実もある。

近年の日本のサーフィン人口は40万人くらいだそうだが、数十年後には、サーフィンをしているのは老人ばかりになるだろう、という趣旨の記事に出会ってしまった。

10年後のサーフィン人口は50代以上ばっかりって本当!?|MINのウラナミVol.375

2030年には65歳以上の層が30%を超えるという予測を今年ネットで読んだことがあるが、そもそも60歳で定年を迎えてリタイアする「慣例」になっている日本の企業文化の状況下においては、今年の60歳が65歳になる5年後ではなくて、今年60歳で生産活動をやめてしまう人々が大勢いる時点で、「非生産活動者」は日本の総人口の3分の1に達しているのではないか、と推察する。

このまま推移すれば、日本人の半分は老人になるというのも、空想的な話じゃなくなる。

よくもまあ、戦後営々と、「子どもが精神的に生きるには酷な社会ルールとそれを支える精神統治システム」をみんなで一致団結して汗水たらして築き上げてきたもんだなあ。

戦後ますます西洋式(社会に対する唯物論的価値規範)に馴化するようになって、「起きていることの質を吟味する」よりも「数字的成果」(偏差値信仰もそのひとつ)を「技術的」に追求すること、「その巧者となること」、それを本家の西洋人たちよりももっと高度に洗練させた結果が、今日の日本の有様だ。

もはや日本の若者は、自分が「そのよう」にして、社会に送り出されたようには、自分たちの子供を世の中に送り出したくはないんだろう。だから子供を社会に送り出すことを断念する。2024年に誕生した子供の数は74万人にほどだという。

「もし、唯物論的な思考習慣が抑止されないなら、やがて人間は神経質になるだけではなく、子どもも震えながら生まれてくるようになる。子どもは周囲の世界を感じるだけではなく、どのような周囲の環境にも苦痛を感じるようになる。」これが、1世紀前にシュタイナーが出した警告だった。

シュタイナーは別の著書で「日本人が西洋から拝借して〈外面的〉に適応しようとしてきた、〈唯物論的思考態度〉は、その洗練度において西洋人のそれを凌いでしまうだろう」とも語っていた。1980年に中曽根内閣が共通一次テストを日本に持ち込んで以降、日本人の思考態度は「伯楽力」を失って、ますます「適応機械」のようになって硬直化していったように見える。
日本人は引き返せるのだろうか?


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ひどい世の中だ。

リュック・ベッソンの「グラン・ブルー」のラストシーンは一種のあこがれだ。

私も深海で天使に出会ったら(これは私の解釈で実際には天使像なんぞ出てこないが)、そのままイルカととも旅立ちたい(天使になりたい)と思ってしまう。



「こっち、来る?」



だけど、シュタイナーなら「今の不完全な君の有様でかね。馬鹿を言っちゃいけないよ」といさめるだろうなあ。彼の著書『死者の書』には、そういう趣旨の話が出てくるし。そのためにこそ「境域の守護霊が君らを〈そんな気持ち〉から守っているのだ」と。

以下『死者の書』から

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私たちは、私たちのところに押し寄せてくるものの四分の一しか知覚していません。他の四分の三は意識化されずにいます。色彩を知覚する時には、色彩知覚を通して、創造的なヴィジョンやさらに霊聴および霊的合一も私たちの中に生じ、私たちの本性の一部分に組み込まれるのです。

霊的体験の三つのあり方を示す霊視、霊聴、霊的合一が感覚的知覚を通して私たちの生体内に入ってくるときには、昨日お話ししたルツィフェルの誘惑の結果であるような「霊化」を私たちの中に生じさせます。霊視、霊聴、霊的合一は、遠い未来に実現すべき理想的な人間存在へ到ろうとする努力の芽を、すべて摘み取ってしまいます。

そしてその代わりに、今のままで霊的存在になりたいという衝動を、私たちに与えるのです。私たちがこれまでの人生の中で達成してきた程度の完全さで、霊的存在になろうとするのです。そういうときの私たちは、次のように言うでしょう。

「理想的な人間になるのは、あまりにも努力のいることだ。未来へ向けて困難な道を歩まねばならない。そのような人間になるための、われわれの内なる可能性はそのままにしておこう。今のままの不完全さで、すぐに天使になりたいものだ。そうすれば自分の存在を霊化して、直接霊界に入っていける。そのときは、努力してわれわれの素質を開花させるときよりも不完全であろうが、しかし天使のような霊的存在となって、宇宙へはばたけるであろう。」

このような場合が生じうることを考えてみると、霊界の境域、並びに境域の守護霊と呼ばれるものがどれほど重要であるか、理解できるでしょう。(ちくま学芸文庫『シュタイナーの死者の書』P124-P125)

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「楽な道」なんてないんですよねえ、やっぱ。

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