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BOUNDHEAD

実態(霊力)が消えたので痕跡(神社)が残ったのです
月最低2回の更新を果たさなければいけないと思い、以前書きためていた記事に手を加えて今回出すことにしました。間に合ってよかったなあ。

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大化の改新とは古代の大陸閥(外国精神)革命でした。つまり「本来の古い統治思想(豪族連合統治=仕付け糸式)を大陸精神(中央集権式)で上書きした革命」でした。それは、司馬遼太郎によれば「庶民が沈黙させられた古代の社会主義革命時代」の始まりでした。

その革命以後、日本の庶民は何百年も忍耐し、ついにこれを破壊したのが、地方の豪族由来の開発武士団で、「彼らの精神」は、御成敗式目として結実しました。武家は公式に律令を廃するという布告を出さずに、いわば勝手に「自分たちの暮らしの実情に沿った決まり」を作って、「ああ、そういうのもあったよな」的に律令をほったらかしにしました。

武士団は、庶民の精神生活の再日本化に寄与したのです。しかし、呼気と吸気を長い周期で繰り返す人類の歴史の途上において、日本においては、明治革命によって、仕付け糸式の武家政権統治は姿を消し、再び世の中は「中央集権=王政復古=中国閥(藤原組)革命政権」に回帰しました。

とはいえ、こんにちにおいても、さらにもっと古い時代への復古、「大化の改新以前の日本への復古」はまだ起きていません。日本に律令体制、古代式社会主義体制を持ち込んだ為政者たちは、一種の言論弾圧を行ったのです。それまで庶民の間で流通していた言葉(認識)を別の言葉で上書きしました。この「国民精神への上書き」はものすごくうまくいきました。ちょうど戦後にもう一度「言ってはいけない革命」によって今の日本人一般のマインドセットが出現したように。

三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや     額田王

(懐かしい三輪山をそんなにも隠すのか。せめて雲だけでも思いやりの心があって ほしい。そんなにも隠し続けてよいものか。)

大化の改新以前の古代日本の王政とは今日的な言い方で言うと「秘儀参入者=霊界にアクセスでき、霊界の神々にまみえることができ、そこで得た経験を物質界にもたらすことができる能力を持った人物を、王として立て、国民が彼らを敬うもの」でした。

魏志倭人伝にあるように「道で行き会うとパンパンと拍手の音でもって挨拶される人々」が大化の改新よりさらにずっと以前の古い日本にはいたのです。

今の日本人は、古代日本には「特別な霊力を有した者」だけが拍手をもって挨拶を受けた時代があったことを、皆忘れてしまっています。今日の日本人からはまったく失われてしまっていますが、古代日本にはふつうの民にも「誰が偉大な人物なのか」を見分けられる程度の「霊力」は備わっていたのでした。

人々はその後霊力を完全に失いました。そのような状態で物質界を生きなければならない状況が出現し、そのような状況が20世紀まで続きました。とはいえ、失われた人類の霊力の復活と進展に関しては、すでに新しいフェーズに入っています。

21世紀に入ってからますます、こんにちその輪郭はまだ漠然としてはいますが、人類の認識力(霊力)の進展や輪廻思想も含め、特に日本のマンガやアニメは世界に向けて「紀元以前の古代思想(世界感覚)」の緩やかな普及に大いに寄与しているとも言えます。今日の日本のエンタメ(小説・漫画・アニメ等)には「そのモチーフ」がいろんな作品で何度も登場してくるのが興味深いのです。

シュタイナーの以下の言葉を思い出しました(以下『シュタイナー用語辞典』から引用)。

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東洋(ロシアとアジア)では輪廻思想が、思考を麻痺させる鈍い感情として現れ、その精神の墓に精神的自己(霊我)が入ってくる。

アジアの文化から未来的なものが生まれる。
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一方、英米の男たちの精神的態度については、以下。

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3千年紀(21世紀以降)に世界に輪廻思想が復興するが、心魂が強く地上に捕らわれている英米の男性は、スポーツを盛んにして、輪廻思想を阻止する(英米では精神生活は女性によって伝えられる)。
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例えば、「転生したらスライムだった件」(season1-ep2)で、ゴブリンたちに向かってリムルが「どうして自分を畏れ敬うのか」という趣旨の質問をしたら、村のオサが「ものすごいオーラが、我々村人たちにだだもれしているからです」という趣旨の返事をします。このアニメの世界では最下層の人々さえそういう「感知能力(霊力)」を持っているのです。



そういう「霊力」は古代の日本人にも本当にあったのです。古代の日本人全体がごく当たり前に霊力を維持できていた時代の、かつての高次の秘儀参入者たちが、こんにち神社を訪れた人々によって、拍手でもって挨拶される人々となりました。

今の日本人は、「なぜ今日の日本人は目の前にいる生きた人々に対して拍手で挨拶をしないのか」と考えたことがありません。「儀式」や「習慣」にはもともと根拠があったのですが、それが習慣化すると、根源を問うことを皆忘れていくものですから、それは仕方のないことではあります。

しかし歴史の周期の中で、人類の霊(界参入)能力が、インド思想的に言えば、黄金時代から白銀時代、そして青銅時代とだんだんレベルを落としていき、そしてついに今日のような無能力時代(カリユガの時代)に到り、世界の諸民族からも霊力が消えてしまうと、ここ日本においても、「誰に向かって拍手で挨拶すればいいのか分からない時代」がやってきました。3世紀以降今日の日本人に到るまで誰も「自らの力(認識力)」を用いて「道で行き会った生きている偉人を見分け、その人物に対して拍手で挨拶する」ことができなくなりました。

庶民が「その能力」を失って久しいですが、「近代」に到り、今日隆盛を極めているのは、その精神性で言えば、極めてアーリマン的な、「文字象徴をいかに上手に扱えるかを競うことによる能力判断テスト」であり、それも社会人以前の、未成年時代のペーパーテスト成果が絶大な価値を持つという、考えてみれば、「歴史的」に見て、はなはだ異常な文化時代です。

自然神ではなく、人を神として祀る系統の日本の神社文化とは、「秘儀参入者を敬う」という、まだ民族全体が霊力を維持していた紀元前にさかのぼる非常に古い時代の伝統が可視化されたものです。こんにち見る神社文化以前の様相が今の日本人にはまったく「思い出されて」いないのです。

こんにち神社参拝は新しいエンタメとして若い人々にも人気になっていますが、大事なのは「こんにち見られるような神社文化を成立させた、古代日本人の霊的実相に思いをはせる」ことです

「実態(霊力を持った偉人たち)」が消えたので「思い出」としての「顕彰所・痕跡(神社)」が残ったのです。

こんにちまで伝わっている神社文化は、われわれに、「国民が秘儀参入者を敬い、秘儀参入者を通じて、人間を超えた高次の神霊たちと交流する、そういう時代があった」ということを類推させるだけにとどまっています。

天皇呼称が使われるようになる以前の「おおきみ」とは高次の秘儀参入者のことであり、古代日本では秘儀参入者のことを「カミ」と呼んで敬ったのでした。「おおきみはカミにしませば」という言葉が出てくるゆえんでした。高次の神霊(カミ)と交流できるものはカミに等しき存在として受け取られたからでした。

日本は「秘儀参入者を敬う」という1万年以前にさかのぼる「非常に由来の古い宗教感覚」によって維持されてきた国でしたが、民族全体が霊力を失った時点で(大化の改新時には壊滅状態でした)日本人全体が「その事実」を忘れてしまいました。そしてその過程で「秘儀参入文化」は「こんにち見られるような神社文化」へと変貌を遂げたのでした。

シュタイナーによると19世紀後半に人類はカリユガ期を抜け、霊力の発展期を何千年もの月日をかけて逆にたどっていくことになります。青銅時代が現れ、白銀時代、黄金時代が出現します。

彼はまた、「人類は、いずれ脳に前世を思い出すための器官を持つようになる」とも語っておりますから、その器官をまだ開花させていない我々ではまだ見通せないでいる過去も、未来に出現する子孫たちにとっては、より接近しやすい対象になるのかもしれません。こんにち学校で学習させられる歴史は(時代が古くなればなるほど)「講釈師見て来たような嘘を言い」の世界と実は大差ないようです。


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