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日本人が形成したような霊的な思考は現実のなかに進入していきます。それがヨーロッパ-アメリカの唯物論と結びつき、ヨーロッパの唯物論が霊化(精神化=脱唯物論化)されないなら、その思考はヨーロッパの唯物論を凌ぐことは確かです。ヨーロッパ人は、日本人が持っているような精神の可動性を持っていないからです。このような精神の可動性を、日本人は太古の霊性の遺産として有しているのです。(『いま、シュタイナーの民族論をどう読むか』P76-P77)
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西洋人が近代に始めた選抜試験システムは、国民の中から「官僚」つまり「国民の管理人役」を「効率的に抜き出す」ために「もっと上位の者たち」によって導入されるようになったものです。
明治維新以降、日本の統治層は、当時の唯物論的な傾向に傾き始めていた西洋思想を「適応すべき対象」として大々的に輸入し始めましたが、それに付随してスポーツも輸入し始めたのでした。
100年前シュタイナーは日本人について「日本人は太古の霊性の(つまりアトランティス時代の)遺産として「精神の可動性」を持っている。しかしその能力は「使い方」を誤ると、本人たちに〈過剰適応〉をもたらし、本家のヨーロッパ人を上回る唯物者論的所作の推進者に変貌してしまうかもしれない」という趣旨の警告を発していたのです。
確かにそういう事態が「出来」しそうな予兆はありました。日本は西洋を見て「追いつけ、追い越せ」と自らに掛け声をかけました。しかし日本の統治層は、「追い越す」とは「どういう状況を指している」のか実は分かっていませんでした。西洋人が「人類が陥る闇の原因」を作り出すと、日本人は「それ」も抱き合わせで輸入して、それどころか、「その洗練化」にさえ着手しました。
こんにちの学校では、子どもたちは、自分の心は「〈その教えられ方〉に共感的に近づくこと」はできないということを早いうちから悟ってしまいますから、教室にいる間は自分の「共感的心」をどこかにしまい込んで、非共感的な「試練(ペーパーテスト)を突破する「技術の習得」に専心させられることになります。なぜ非共感的に感じるのでしょうか。それは、自分の現実生活の喜びあるいは苦悩や疑問に答えてほしいのに、学校という場所は、そのような「彼らの精神的な飢え」に共感的に答えてくれない、という反感を感じてしまうからです。
大昔、テレビCMで、日本の高校の古典の授業風景が出て来ました。突然女子生徒が「先生の授業つまりません」と声を上げるのです。
日本の学生たちは延々と〈古典文法〉を学ばされて、「ソレ」を使って翻訳することばかりさせられて卒業しますが(日本の英語教育と同質のアプローチです)、これは明治維新以来、日本の統治層が、西洋の学校が、古典としてギリシャ語やラテン語の授業を語学的に行っていたのをマネたせいです。近代以前の日本人は古典から「物語そのもの」や「思想」を学んだのであって、翻訳能力をテストされて偏差値的なランクづけによって選別されるために古典を読んでいたのではありません。そもそも寺子屋に通っている子供たちは「自分たちが古典の本を〈手段〉として使われることで、「得点」という「最も貴重な獲得物」(こんにちの日本人にとって学習体験という現場で最も関心がある「非精神的な何か」)を得るために競争させられている」とは思わなかったでしょう。また寺子屋の「お師匠さんたち」も「そんなことが大事だ」とはちっとも思わなかったでしょう。当時の日本人は学び場において、「こんにちの子供たちが受けているような仕打ち」をを受けませんでした。昔の人の方がこんにちの子供たちよりも古典的教養が高かったのです。〈どういう目的〉で、〈何〉を〈どのようにして〉学んだのかということの差が、「そのために費やされた時間」が、精神の血肉に変わるかどうかの分かれ目になるからです。
こんにちの日本の高校生たちは、先祖たちの用いていた言語ルールに「文法解析的」に触れても、「先人たちの思想や感情体験」におのれの心を共感的に投げ込んで追体験する機会がありません。ただ「言葉を解析すること」に3年間もの時間を浪費させられます。こんにち「学校制度の中での学習体験」は、なにひとつ「子供の心の栄養」にになってくれません。
「先生、古典の授業って退屈です」と声を上げる女子生徒は正直です。大部分の学生たちは「寄り添えない心」を脇に置いて、ひたすらペーパーテスト用に編成された授業(解法技術獲得)に付き合います。
「唯物論的な所作に満ちた、こんにちの学校」という場所で「時間を浪費している」とだんだんと心が干からびていくのです、「硬化していく精神」「弱められていく生命力」への対抗手段は学校生活の外部にあります。子どもたちは「学校の外」で「心を共同させることのできるコンテンツに触れる」ことで、生きていくための心の栄養や教養を身に着けています。そういうことに寄与している人々は「行政官のよう」ではありません。皆、「生産者」として、商業行為のなかで、延々と「心が干からびていくような現場に忍耐させられている人々」に精神的な栄養を提供しようとしています。けれども、それでは足りません。子供たちは、あまりにも多くの「非精神的でいなくてはならない時間」に忍耐させられてきたからです。だから学校システムは「健康」を取り戻さなくてなりません。
スポーツの話に戻ります。スポーツのルールにしても西洋人は定期的にそれを「更新」しますが、日本人の場合は、「彼ら」が作った、つまり「出来上がったルール内部」で受身的に対処し、「すでにできている対象にいかに適応して好成績を上げるか」という戦術視点しか関心を持てませんでした。明治維新以来、戦争においてもっとも既存のルール(国際法)を守って戦ったのも日本人です。
戦略的次元、メタ次元へ上昇して「戦略的思考」を発揮したい(つまり新たな思想・理念・理想を創造したい)という衝動が弱かったのです。日本人は「彼らの作ったゲーム盤」に参加して、「いかに技術的戦術的に勝利するか」を追求しました。
そういう「思考態度」は、戦後においても、学歴社会でいかに「高判定」を得るかという「特定技術の洗練化の追求」という欲求になり、予備校や学習塾の大繁栄につながりました。ビデオゲーム文化において、チート的マインドの発露たる「攻略本」を買う行為とパラレルです。ゲームは気晴らしにすぎませんから、「チート行為」をしたからといって、まだ「社会的損害」は少ないですが、「学校システムにおけるチート行為による子供の社会化」という行為は「気晴らし」ではありません。「物質界」で生き抜くことと直結しています。それで子供が精神を病むようになっても、この50年の歳月の経過の中でますます高学歴化していった日本の保護者達は「それでうまくいった〈私〉がそうしたように〈自分の子供だけ〉は、〈既存のルール〉内部で他者を凌ぐための戦術を身につけさせよう」とし続けてきました。現代の保護者たちは子供が学校で〈どんな内容〉を〈どのように〉学ばされているかについてはまったく関心がありません。自分たちの子供の「解法技術」が上がったり下がったりした「報告書類」を見て、喜んだり嘆いたりするだけです。
西洋人が近代に始めた選抜試験システムは、国民の中から「官僚」つまり「国民の管理人役」を「効率的に抜き出す」ために「もっと上位の者たち」によって導入されるようになったものです。
明治維新以降、日本の統治層は、当時の唯物論的な傾向に傾き始めていた西洋思想を「適応すべき対象」として大々的に輸入し始めましたが、それに付随してスポーツも輸入し始めたのでした。
100年前シュタイナーは日本人について「日本人は太古の霊性の(つまりアトランティス時代の)遺産として「精神の可動性」を持っている。しかしその能力は「使い方」を誤ると、本人たちに〈過剰適応〉をもたらし、本家のヨーロッパ人を上回る唯物者論的所作の推進者に変貌してしまうかもしれない」という趣旨の警告を発していたのです。
確かにそういう事態が「出来」しそうな予兆はありました。日本は西洋を見て「追いつけ、追い越せ」と自らに掛け声をかけました。しかし日本の統治層は、「追い越す」とは「どういう状況を指している」のか実は分かっていませんでした。西洋人が「人類が陥る闇の原因」を作り出すと、日本人は「それ」も抱き合わせで輸入して、それどころか、「その洗練化」にさえ着手しました。
こんにちの学校では、子どもたちは、自分の心は「〈その教えられ方〉に共感的に近づくこと」はできないということを早いうちから悟ってしまいますから、教室にいる間は自分の「共感的心」をどこかにしまい込んで、非共感的な「試練(ペーパーテスト)を突破する「技術の習得」に専心させられることになります。なぜ非共感的に感じるのでしょうか。それは、自分の現実生活の喜びあるいは苦悩や疑問に答えてほしいのに、学校という場所は、そのような「彼らの精神的な飢え」に共感的に答えてくれない、という反感を感じてしまうからです。
大昔、テレビCMで、日本の高校の古典の授業風景が出て来ました。突然女子生徒が「先生の授業つまりません」と声を上げるのです。
日本の学生たちは延々と〈古典文法〉を学ばされて、「ソレ」を使って翻訳することばかりさせられて卒業しますが(日本の英語教育と同質のアプローチです)、これは明治維新以来、日本の統治層が、西洋の学校が、古典としてギリシャ語やラテン語の授業を語学的に行っていたのをマネたせいです。近代以前の日本人は古典から「物語そのもの」や「思想」を学んだのであって、翻訳能力をテストされて偏差値的なランクづけによって選別されるために古典を読んでいたのではありません。そもそも寺子屋に通っている子供たちは「自分たちが古典の本を〈手段〉として使われることで、「得点」という「最も貴重な獲得物」(こんにちの日本人にとって学習体験という現場で最も関心がある「非精神的な何か」)を得るために競争させられている」とは思わなかったでしょう。また寺子屋の「お師匠さんたち」も「そんなことが大事だ」とはちっとも思わなかったでしょう。当時の日本人は学び場において、「こんにちの子供たちが受けているような仕打ち」をを受けませんでした。昔の人の方がこんにちの子供たちよりも古典的教養が高かったのです。〈どういう目的〉で、〈何〉を〈どのようにして〉学んだのかということの差が、「そのために費やされた時間」が、精神の血肉に変わるかどうかの分かれ目になるからです。
こんにちの日本の高校生たちは、先祖たちの用いていた言語ルールに「文法解析的」に触れても、「先人たちの思想や感情体験」におのれの心を共感的に投げ込んで追体験する機会がありません。ただ「言葉を解析すること」に3年間もの時間を浪費させられます。こんにち「学校制度の中での学習体験」は、なにひとつ「子供の心の栄養」にになってくれません。
「先生、古典の授業って退屈です」と声を上げる女子生徒は正直です。大部分の学生たちは「寄り添えない心」を脇に置いて、ひたすらペーパーテスト用に編成された授業(解法技術獲得)に付き合います。
「唯物論的な所作に満ちた、こんにちの学校」という場所で「時間を浪費している」とだんだんと心が干からびていくのです、「硬化していく精神」「弱められていく生命力」への対抗手段は学校生活の外部にあります。子どもたちは「学校の外」で「心を共同させることのできるコンテンツに触れる」ことで、生きていくための心の栄養や教養を身に着けています。そういうことに寄与している人々は「行政官のよう」ではありません。皆、「生産者」として、商業行為のなかで、延々と「心が干からびていくような現場に忍耐させられている人々」に精神的な栄養を提供しようとしています。けれども、それでは足りません。子供たちは、あまりにも多くの「非精神的でいなくてはならない時間」に忍耐させられてきたからです。だから学校システムは「健康」を取り戻さなくてなりません。
スポーツの話に戻ります。スポーツのルールにしても西洋人は定期的にそれを「更新」しますが、日本人の場合は、「彼ら」が作った、つまり「出来上がったルール内部」で受身的に対処し、「すでにできている対象にいかに適応して好成績を上げるか」という戦術視点しか関心を持てませんでした。明治維新以来、戦争においてもっとも既存のルール(国際法)を守って戦ったのも日本人です。
戦略的次元、メタ次元へ上昇して「戦略的思考」を発揮したい(つまり新たな思想・理念・理想を創造したい)という衝動が弱かったのです。日本人は「彼らの作ったゲーム盤」に参加して、「いかに技術的戦術的に勝利するか」を追求しました。
そういう「思考態度」は、戦後においても、学歴社会でいかに「高判定」を得るかという「特定技術の洗練化の追求」という欲求になり、予備校や学習塾の大繁栄につながりました。ビデオゲーム文化において、チート的マインドの発露たる「攻略本」を買う行為とパラレルです。ゲームは気晴らしにすぎませんから、「チート行為」をしたからといって、まだ「社会的損害」は少ないですが、「学校システムにおけるチート行為による子供の社会化」という行為は「気晴らし」ではありません。「物質界」で生き抜くことと直結しています。それで子供が精神を病むようになっても、この50年の歳月の経過の中でますます高学歴化していった日本の保護者達は「それでうまくいった〈私〉がそうしたように〈自分の子供だけ〉は、〈既存のルール〉内部で他者を凌ぐための戦術を身につけさせよう」とし続けてきました。現代の保護者たちは子供が学校で〈どんな内容〉を〈どのように〉学ばされているかについてはまったく関心がありません。自分たちの子供の「解法技術」が上がったり下がったりした「報告書類」を見て、喜んだり嘆いたりするだけです。
日本人の才能は、「外から学んだもの」を自分たち用に翻案する能力です。日本は極めて唯物論的な近代西洋の学校制度も翻案しました。数字だけがものをいうようになった日本の選抜システムとしての偏差値崇拝はその(唯物論者的適応)到達点です。これは1970年代以降の日本で、直近の50年間に強烈に高まった「唯物論的衝動」のひとつでした。いろいろな方面において日本人の精神は明治維新以降「短い期間」で「みずから進んで〈それ〉に過剰に適応して」大改造されたのです。
そして日本人は、全国津々浦々に「部活動」というもはや課外活動(レクレーション)とはいえないシステムを導入して、昭和のサラリーマンたちが休日出勤して仕事をするような異常な「仕事への過剰適応」を行うようになったのと同時並行して、教師や生徒たちも、そしてそれをよしとする保護者達にも後押しされて土曜日日曜日も費やして部活動に異常なエネルギーを注ぎ込むという過剰適応状態を日本の日常生活にしました。
日本の子供たちは、そうやってシュタイナー的な視点で眺め直してみれば、「いつも物質界のことしか考えない子どもになる」ように、国家とともに邁進してきたのでした。「戦術」的枠組みの中で勝ち残った者たち(「オレは高得点者だ」と「対社会的な自尊心」をくすぐられて育てられた者たち)は、つまり「そんなふうにして心の弱さ(傲慢)を利用された利口者たち」は、誰に雇われたわけでもないのに「そのシステムを守る」ための自覚なきエージェント・代理人になります。こんにちそのような人々が、経済分野や政治分野において日本の統治に当たっています。
そして日本人は、全国津々浦々に「部活動」というもはや課外活動(レクレーション)とはいえないシステムを導入して、昭和のサラリーマンたちが休日出勤して仕事をするような異常な「仕事への過剰適応」を行うようになったのと同時並行して、教師や生徒たちも、そしてそれをよしとする保護者達にも後押しされて土曜日日曜日も費やして部活動に異常なエネルギーを注ぎ込むという過剰適応状態を日本の日常生活にしました。
日本の子供たちは、そうやってシュタイナー的な視点で眺め直してみれば、「いつも物質界のことしか考えない子どもになる」ように、国家とともに邁進してきたのでした。「戦術」的枠組みの中で勝ち残った者たち(「オレは高得点者だ」と「対社会的な自尊心」をくすぐられて育てられた者たち)は、つまり「そんなふうにして心の弱さ(傲慢)を利用された利口者たち」は、誰に雇われたわけでもないのに「そのシステムを守る」ための自覚なきエージェント・代理人になります。こんにちそのような人々が、経済分野や政治分野において日本の統治に当たっています。
この50年で教師たちは教育行政に携わっている官僚たちの作った指導要領を実践する行政官的振る舞いをますます実践するようになりました。たしかに教師の大部分は身分的には「地方公務員」ですから、「教師」という名の「役人」として子どもの前に立っているのであれば、「役人」的には正しい振る舞い方なのでしょう。身分的には公務員ではない私立の教師であっても、「振る舞い方」において「公務員的行政官」であることに変わりはありません。「決められたルールを忠実に実施する者」こそが有能な行政官です。
以下は、シュタイナーの警告です。
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以下は、シュタイナーの警告です。
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今日、百年前にはほとんど知られていなかった病気が広まっている。知られていないことはなかったとしても、広まってはいなかった病気である。神経質である。この独特な病気は、十八世紀の唯物論的な世界観の結果である。唯物論的な思考習慣なしには、神経質はけっして生じなかったであろう。もし、唯物論がまだ何十年もつづくなら、唯物論は民族の健康に破壊的な働きかけをするだろうということを、秘密の導師は知っている。もし、唯物論的な思考習慣が抑止されないなら、やがて人間は神経質になるだけではなく、子どもも震えながら生まれてくるようになる。子どもは周囲の世界を感じるだけではなく、どのような周囲の環境にも苦痛を感じるようになる。とくに、精神病が非常な早さで広まる。狂気の流行病が、何十年か先には現れるだろう。(『神智学の門前にて』P90)
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2024年の日本の子供たちの自殺件数は529件で過去最高となりました。不登校の数も出生数が減っているにもかからわず、増えています。確かに日本でも「子供はふるえながら生まれてきている」に違いありません。
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2024年の日本の子供たちの自殺件数は529件で過去最高となりました。不登校の数も出生数が減っているにもかからわず、増えています。確かに日本でも「子供はふるえながら生まれてきている」に違いありません。
その2へ続く
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