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ルドルフ・シュタイナーのスポーツ観2
今回は前回の記事をさらに補足するため、シュタイナーがスポーツについてどのような見解を持っていたかこれからご紹介したいと思います。


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一度、「人間は生まれてから死ぬまで、地上存在である」ということを、考えてみてください。人間は地上で働かねばなりません。しかし、いつも仕事をしていることはできません。身体が消耗したりします。

人間は身体を動かそうとしますが、地球に適したように物質的身体を動かそうとはしません。人間はエーテル体に従おうとします。エーテル体は円環運動をしようとします。それで、人間は踊ります。踊るのは、人間が物質的身体ではなくエーテル体に従おうとすることなのです。踊りたいと欲望するのは、人間が物質的身体を忘れて、自分は宇宙に属する存在であると感じることができる、ということなのです。

人間は内的な感情に従うと、宇宙に属したいと思い、エーテル体に従うでしょう。人間は本来、地球が欲するように動こうとせず、エーテル体に従おうとします。エーテル体が欲する動き、円を描く動きが大変気に入ります。ですから、人間は地球に属する動きに慣れねばなりません。この通常の動きを、私たちは教育のなかにも受け入れねばなりません。体操です。

なぜ人間は体操をするのでしょうか。体操は、普通に地球に適応できる以上に、もっと地球に適応するためのものです。人間がエーテル体から離れて、常時エーテル体に従うことがないように、体操をするのです。しかし人間は、宇宙からまったく切り離されないために、地上に結び付かない動きもしなければなりません。

私たちは唯物論の時代に生きています。唯物論に憧れる人間は、たいてい西洋に生きています。古い文化を有する東洋人・アジア人は、地球に属することに執着しません。東洋人・アジア人は、キリスト教徒よりもずっと、地上を「涙の谷」と考察します。東洋・アジアに生きる人々は、できるかぎり早く、そっと浮世から去ろうと願います。

しかし、西洋の人間は地球を、非常に好みます。口には出しませんが、西洋人はいつまでも地上にとどまりたいと思っています。

「エーテル体は、天に合った動きをしようとする。惑星は円を描いて動き、地球は円を描いて動く。エーテル体は円環運動を欲し、物質的身体は円環から抜け出たいと思う」と、言わねばなりません。人間はたくさん仕事があると、この円から抜け出ます。しかし、西洋の上層階級は仕事をする必要がありません。彼らは、どうなるのでしょう。

彼らには、奇妙なことが起こります。エーテル体が絶えず煩わしい思いをさせるので、彼らは居心地悪く感じます。ビーフステーキを食べる人間が世界を歩むと、絶えずエーテル体に悩まされ、苦しめられます。そして、円環運動をしたくなります。ビーフステーキを食べる人間は、エーテル体の円環運動に従おうとします。しかし、何ということでしょう。それは大変不快なのです。

エーテル体は絶えず踊ろうとし、きれいな円環運動をしようとします。ビーフステーキを食べる人は、その動きについていけません。彼は物質的身体を強くして、エーテル体に円環状にひっぱられないように、物質的身体を慣れさせようとします。こうして、彼はスポーツをします。体操ではなく、スポーツです。

スポーツをすると、その結果、人間は完全にエーテル体から抜け出て、物質的な地球の動きにのみ従います。こうして人間は、ますます地上に親しみ、精神界から離れます。

人間は精神世界について考えないことによってのみ精神世界から遠ざかる、と思ってはなりません。スポーツをしすぎることによっても、精神世界から遠ざかるのです。つまり、物質的身体をエーテル体からまったく離れさせることによって、人間は精神世界から遠ざかるのです。これは人間にとって恐ろしいことであり、まったく気がかりなことです。

スポーツに打ち込むと、人間は精神的なものを忘れます。そういう人たちは、死ぬと、すぐに精神世界から戻ってきます。西洋文明全体が精神を受け取らないと、精神世界に戻りたくない人間のみが地上に住むようになるでしょう。そうなると、しだいに地球を崩壊させる人間たちのみが、地上に住むようになるでしょう。すでに、そうなりはじめています。人間がもはや、まったくエーテル体にへと向かわず、物質的身体のみに向かうと、地上には恐ろしい状態が到来するでしょう。ですから、精神科学によって介入しなければなりません。人間を物質的身体のなかに駆り立てて、まったく地上的にする動きに、別の動きを対峙させることによってのみ、それは達成できます。

いま人間は、最も重要なのは地上的人間になることだ、と考えています。このような状況に、みなさんは心が痛むでしょう。

私は去年の夏、イギリスに行ってきました。イギリスを発つとき、イギリス全体が興奮に満ちており、夕刊に載る重要な出来事を待っていました。みんながかたずを飲んで、いまかいまかと、夕刊を待っていました。何を待っていたのでしょう。サッカーの結果です。

私たちは、ノルウェーから下ってきたところでした。私たちが乗車すると、多くの人々が私たちとともに乗車しました。プラットホームは満員でした。汽車が動き出すと、「万歳、万歳」という声が響き渡りました。つぎの駅でも、「万歳」と、人々が叫びました。もちろん、私たちに向かって歓声が上げられたのではありません。中欧からやってきたサッカー選手たちが、汽車で帰るところだったのです。

今日、人間は何に興味を抱いているのでしょう。何百万という人々の幸福と苦痛に関わる出来事よりも、物質的身体をエーテル体から引き離すもの、つまりスポーツに今日の人間は関心があり、人間は地上動物になっていくでしょう。

これが今日、全世界でなされている運動、ますます広まっている運動に、別の運動つまりオイリュトミーを対峙させねばならない理由です。オイリュトミーはエーテル体に則ります。オイリュトミーを鑑賞すると、エーテル体が行う動きを見ることになります。スポーツを鑑賞すると、物質的身体が遂行する動きを見ることになります。

スポーツへの憧れが強いので、これは非常に重要なことです。私はスポーツ全般に反対して語るつもりはありません。仕事をする人がスポーツに駆られるのは、よいことです。仕事においては、不自然な動きに慣れねばならないからです。物質的身体に適合した、自然な動きをスポーツのなかに持ち込むと、スポーツはレクリエーションとしてよいものです。しかし、多くの人々が参加する今日のスポーツ活動は、レクリエーションになっていません。

朝急いで教会に行って、「私は天にいます一なる神を信じる」云々と祈るスポーツマンがいます。もちろん、スポーツマン全員がそうなのではありません。しかし、なかには、そのように祈ってから競技場に行くスポーツマンがいます。彼らの行動を言葉にすると、「私は天の一なる神を信じない。神は私にエーテル体を与えた。しかし、私はエーテル体について何も知りたくない。私は肉と骨を信じる。それが、私の唯一の至福なのだ」という意味になります。

これが、今日行われてものの、必然的・無意識的な結果なのです。「精神的なものを何も知りたくない」と言う人が唯物論者なのではありません。人間全体が精神的なものから引き離されることによって、人は唯物論者になるのです。

だれかが森のなかを歩いており、霧が深くて道に迷ったら、エーテル体について行く、と私は言いました。そうすると、同じ場所に戻ってきます。回転するのは、そんなに悪いことではありません。あるときはエーテル体に、あるときは物質的身体へと揺れ動きます。人間は物質的身体とエーテル体を育成すべきです。

しかし今日、西洋では一般に、エーテル体から完全に離れて、物質的身体のみを育成する傾向があります。それは恐ろしい唯物論、有害な唯物論を形成します。思考的な唯物論は最悪ではありません。最も有害なのは、人間全体を動物へと突き落とす唯物論です。このことを、よく考えねばなりません。

人々は、「こいつは生半可な知識を振り回す俗物だ。スポーツを罵っている。スポーツは、とても有益なものなんだ」と、言いがちです。

私はスポーツを罵っているのではありません。人間は自由な存在です。しかし、単にスポーツに熱中していると、人間として崩壊するでしょう。(『人体と宇宙のリズム』P69-P75)
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今回も私が気になった個所をいくつか箇条書きしておきます。

①踊るのは、人間が物質的身体ではなくエーテル体に従おうとすることなのです。踊りたいと欲望するのは、人間が物質的身体を忘れて、自分は宇宙に属する存在であると感じることができる、ということなのです。

②物質的身体に適合した、自然な動きをスポーツのなかに持ち込むと、スポーツはレクリエーションとしてよいものです。しかし、多くの人々が参加する今日のスポーツ活動は、レクリエーションになっていません。

③今日、西洋では一般に、エーテル体から完全に離れて、物質的身体のみを育成する傾向があります。それは恐ろしい唯物論、有害な唯物論を形成します。思考的な唯物論は最悪ではありません。最も有害なのは、人間全体を動物へと突き落とす唯物論です。

最近、YouTubeの「ハンターCh」で榎木孝明氏が古武術をやっている自分に関連させて「筋力に頼らなくて済むのが本来の日本人の体の使い方だというのが分かったので」と述べていたのが印象的です。

日本の盆踊りに典型的に見られるように、日本の伝統的ダンスは円運動を行います。東洋の舞、ダンスは「筋肉に負担をかけるようなこと」をそもそも行ってきませんでした。

日本の古武術、というかその淵源となっている記紀の神々の時代以来の武術(そういえば記紀の神々の武術考察を当ブログでやったことがありました)は筋力に頼った技術体系ではなく、エーテル体の動きに則していたと思います。

植芝盛平によって近代に成立した合気道も、「その精神」の系譜にあるために、「筋力トレ」を修行の基礎に置いていません。達人のワザは、まるで舞っているように見えます。

シュタイナーは別の著書で「バレエは幾分唯物論的です」と語ったことがありますが、バレエが「身体に筋力の負荷を要求するダンス」であることを考えれば、その著書を読んだ際「はて、どういう意味?」と思いながら読み飛ばしてしまった学徒にも、今回のシュタイナーのスポーツ論を読めば、合点がいくのではないかと思います。
ちなみに、私はバレエを見るのは大好きです。ただし古典バレエですが。古典バレエはまだ古い時代の精神性へのまなざしの余韻を、その舞台演出などで垣間見ることができますから。20世紀末から21世紀にかけてますます盛んになっているように見える、米国製のダンスは、いまはヒップホップをBGMにして激しい動きを頻繁に行うようになっています。ダンスというより「有酸素運動」といってよいほどに「優雅さ」とは無縁な動きを行います。

「筋肉への偏愛」は「近代の西洋男性たち」から始まったのです。近年アメリカ人男性たちのマッチョイズムは女性をも男性化しています。そして女性の外皮をかぶった「男性性」がスポーツ競技の世界にまで入り込んでいます。フリーメーソンは女性性を排除した秘儀をめざしています。(この問題についてはいずれご紹介する機会もあるでしょう)。




「精神ではなく筋肉運動の喜び」が勝ります。それは審美的にも「女性性の撲滅」「女性の外皮の中身が男性化」「男性性のみによる秘儀参入」(さきほども言いましたが、シュタイナーによれば、これはフリーメーソン思想の土台でもあるのですが)、それがもっとも顕著に表れているように見えるのが、こんにちの米国の政治的文化だと感じます。それは、精神生活、あるいは霊界への道とつながるよりも、むしろ、それを忘れさせるようなもの、つまり「物質界のことだけを考えて生きていたい」と思うような人々を量産するのに大きな寄与をしていると言えます。


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