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誕生日に暗い夜道を走る
11月は私の誕生月です。

11月27日生まれなので射手座になります。

そういうわけで、前回は中学高校時代の音楽に関する思い出話をしましたが、今回は、私が小学3年生だったころの話です。

私の両親はともに戦前生まれで、しかも山奥のド田舎出身者です。加えて双方に兄弟姉妹が7.8人もいて、本人たちも含め兄弟姉妹が親に大事に扱われて誕生日を祝うというようなハイカラな習慣を家庭内で持った経験がなかったんだと思います。

年を重ねるというのは、戦前生まれの田舎暮らしの人々にとっては、数え年方式ですから、正月を迎えれば皆一斉に歳をひとつ取るというのが、本来の「日本式の年齢の感じ方」でした。

そのせいか、小学生時代、同級生の誕生会に呼ばれたことはありましたが、自分の家の中では、「誕生日おめでとう」と両親から言われたことは一度もありません。もちろん誕生日のプレゼントなどもらったこともありません。

小さいころから「ウチはそういうウチなんだ・・・・・」と受け入れていたので、親の誕生日が来たとき、逆に子どもの側から親に向かって「誕生日おめでとう」と言うこともまたありませんでした。「家族の誕生日は勝手に過ぎていく」・・・・。そういう家庭でした。

それが小学3年生の11月27日の夜、私はなぜか(ついに我慢できなくなったのでしょうか)「今日はボクの誕生日なんだからケーキかなんか買っててよ」と母に言うと、「ああそう。じゃこのお金をやるから店で何か買ってきな」的なことを言われて、お札を一枚渡されました。何円札だったのかははっきり覚えていません。

とにかく「誕生日を覚えていないなんて、ひでえ親だ」と内心思いながら、もらったお金をポケットに突っ込んで、一番近い店に買い物に行くことにしました。

過去、その店と私にはちょっとした私的な縁もありました。私が幼稚園に通う時期になったとき、その店のおばちゃん(奥様)が「年少組の4歳の長女を連れていっしょに幼稚園に通ってくれないだろうか」と頼みごとをしてきたのを、母が快諾したのでした。「あんたはあの子といっしょに幼稚園に通いなさい」。それで私はまず自宅を出て家の前の道を真っすぐに南に進み(灰色のスーツの男に後をつけられた道です)、最初の角を右に曲がって、その店の前まで行って、その女の子を拾って幼稚園まで一緒に通園していた時期があったのでした。幼稚園はその店の前の道を延々と東に進んだ先にありました。

さらに余談ですが、こんにちではこんな地方都市でも幼稚園児たちが(ましてや4歳児が)街中を歩いて通園している姿を見かけることはありませんが(基本送迎バスです)、今思うとあれだけの距離(約1km)を黄色いベレー帽に紺の園児用制服を着て、4歳と5歳の子供がふたりで毎日トコトコ、トコトコと歩いていたなんて、とんでもない話だなと思います。

話を小学3年生の11月の時点に戻します。

当時の小路は、こんにちのような明るい夜道ではありません。月明り以外ほぼ真っ暗です。私は、その真っ暗な道をとにかく店まで走りきることに心のエネルギーを集中させました。「ここから真っすぐ走って、それから右に曲がれば店に着く」とイメージしつつ、それでもまだ小学3年生ですから、生い茂った柳の木々なんぞ見ると何か出て来そうで怖いのです。タッタッタと軽快に、しかし、ドキドキもしながら走っていきます。




走ってきた道を右に曲がると、明るい光に照らされているその店先が見えました。店の前で走るのをやめて、外から店の中を覗くと、想定外の理解不能な光景を目撃しました。




店主のおじさんが、椅子に座って腹のあたりを押さえながら、うなっていました。腹の前のあたりに血の跡が広がっていました。今思い出すと不思議なのですが、すでに寒い時期だったはずなのに、おじさんは白い肌着にステテコ姿だったように思います。その肌着の腹の部分が血に染まっていたのでした。「え、これ何・・・・・」おじさんに声をかけようなんて思い浮かびもしません。私は店の外で立ちすくんでいました。(イラスは昭和テイストがまったくないので、店内の明るさも含め、読者の昭和の商店イメージで補完してください)。

「おじさん刺されたんだ」と思いました。私はショックを受け、茶色い木製の三脚椅子に座って腹を押さえてうなっているおじさんの様子をただ見ていました。店はしーんと静まり返っていて、普段店番をしていたはずの奥さんが見当たりませんでした。

すると救急車がサイレンを鳴らしてやってきました。


私は突然脱兎のごとくに駆け出しました。真っ暗な道を、来た時よりももっと一生懸命に自分の家に向かって走りました。

自宅にたどりついて、母が私の様子を見て「あんたどうしたと。顔色が青いが・・・・・」と言いました。私は、いま自分が体験したことを語りながら、もらったお札を母に返しました。

結局、その夜は「悲惨な誕生日」になったのでした。店で買えたはずだった「うまいもの」は何も手に入らず、ただ、ショック状態で床に就いただけでした。

後にご近所で仕入れた噂話を母が教えてくれました。ある男がその店でクリームパンを買ったのですが(当時50円くらいでしょうか)、金を払わずに逃走したのです。「金を払え、払わない」でひと悶着あったのでしょうか、その時、奥さんは刃物で手の指を切られ、おじさんは、その男を追いかけましたが、追いついたときに、その男に腹を刺されたのでした。

男はその場から逃走し、近くの大瀬川に飛び込んで泳いで渡って逃げたそうです。もちろん犯人は捕まりました。ある意味悲しい昭和時代の事件です。腹がすいているのに食べ物を買う金がない男が、たった50円のクリームパンのために店主の腹を刺してしまったのでした。「金を出せ」とナイフで脅してレジスターから金を奪うというような典型的な強盗事件ではなかったのでした。男はなぜそういう境涯(すきっぱら状態)にいたって、私のご近所に現れたのでしょう。詳しいことは私にはわかりません。

結局、その誕生日以降、私は二度と自分の誕生日を親に訴えるようなことはしませんでした。

「家族の誕生日は勝手に過ぎていく」別にそれでいいと思いました。

大晦日には「今夜は歳取りの晩だから」と、父がおちょこにお酒をついで、「お前たちも飲め」と「三人の小学生の息子たちに飲酒を強要してきました」から、家族が歳を重ねることに関心がなかったわけではなかったろうと思うんですよ。

習慣はあっという間に変わります。明治維新以前は、葬儀は皆白装束で臨むのが基本でした。日本人が葬儀において黒い衣装を着るようになったのは、「近代西洋人の文化」がそうだったので、西洋基準に合わせた結果、一気に日本全国に広がりました。

神社文化における神前結婚も明治維新以前にはありませんでした。結婚式はそれぞれの家で行っていたのを、西洋人が教会で結婚式をしているのを日本人が見て、それでは神社もやりましょうと始めたものです。


ということで、最後はまったくの余談になりましたね。今後も「何がフォーマルか」「何が常識か」についての日本人一般の観念体系も変わっていくのでしょうねえ。











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