昔、秘教学徒にて「大嘗祭の本義」と題して、日本に中国式の統治思想の影響が及ぶ事件(大化の改新)以前、つまり「天皇」という言葉が日本の史書に登場する以前の、聖徳太子以前の大王(おおきみ)の時代における秘儀参入の場としての大嘗祭について言及したことがあった。
あすこではちょっとだけ聖徳太子の秘儀参入問題に触れ、「日本で最初にパウロ体験(エーテル界でキリストに出合う体験)をした人物」ではないかと私論を投げかけたままだったが、実はその後もずっと聖徳太子について、あれこれ考え続けてきた。
今では、記紀の成立は「聖徳太子一族の背景を壁に塗り込めるという意図を隠し持っている」とまで思うようになっている。記紀は聖徳太子の実像にベールをかぶせるための仕掛けとしても機能しているのではないかと。
「大嘗祭の本義」動画では、日本の古代の大王(おおきみ)につけられている名前は秘儀参入の段階を表しているのではないかという説を提示した。
シュタイナーの『輪廻転生とカルマ』に「古代には、秘儀参入者は外的な名前ではなく、彼らが何を知っているかによって、彼らにふさわしい名前で呼ばれました。(P138)」と書いてある。
「彼らが何を知っているかによって」というのは「どの位階の秘儀参入者なのかによって」と言うのと同じことである。
聖徳太子の「霊能力」については日本書紀に「予知能力があった」と書いているが、その直前に「一度に十人の訴えを聞き分けた」という趣旨の話が出てくる。「なぜ並べて書いているのだろうか」とは、普通読者は不思議に思わないだろう。それは日本書紀を研究して現代語訳を担当した学者とて同じだろう。
神々の名前付けのルールには決まりがあるはずだが、私はそれを明確に指摘した学者本に出合った記憶がない。たとえば私は、古代の神々についていた名前で「耳」というものには秘教的な意味があると思っている。一例として、天孫降臨神話に出てくるニニギノミコトの父親であるアメノオシホミミノミコト(天忍穂耳尊)である。「オシホ」が本来の名前であって、耳の部分は「どんな霊能力があったかを示す記号」ではないのかと思ったのだ。オシホミミノミコトは霊聴能力者、つまり秘儀参入者ではなかったのか、と思ったのだ。
精神科学(人智学)は、世界のあらゆる古代の宗教文献、神話・伝説、昔話などを読み解く助けになる、とはシュタイナーの言葉である。三日半の仮死体験の儀式は世界に広く普及していた秘儀参入の方法だったというのも彼の発言である。
ただ民族に応じて秘儀の達成度の段階の区分が三つだったり、五つだったり、七つだったりする。
霊視(イマジネーション)能力、霊聴(インスピレーション)能力、霊的合一(インテュイション)能力という三区分についてシュイタイナーは『ルカ福音書講義』で解説をしている。
現在でも霊視能力者はたくさんいるが、彼らは秘儀参入者ではない。霊聴能力以上にならないと、秘儀参入者とは呼べないと書いている。霊視は像を見る能力だが、それが何を意味しているのか実は分からない、だから霊聴(つまり言葉を聞き取り、理解する)能力まで高まらないと、見たものが何を意味しているのか解釈できないというのだ。
日本書紀には聖徳太子は豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)と呼ばれたと書いてある。神話時代の先祖たちとは違って、その当時の古代人の霊能力はほぼ消え失せていた時代だった。そこにひさびさ「耳」という言葉で象徴される霊能力を持った人物が生まれたということだ。
これをシュタイナー霊学をものさしとして解釈すると、「太子は霊聴(インスピレーション)能力の持ち主で、その能力で未来予知をすることができた」と「遠まわし」に書いている、ということになる。
さらにたくさんの聖徳太子伝説に目を通せれば、シュタイナー霊学の観点から、いろいろなことが発見できるのだろうが、研究は遅々として進まない。
けれど、今回のブログ記事をもとに、近いうちに1本、秘教学徒用に動画を作ってアップロードしてみたいとは思っている。
あれ、X JAPANの話が出てこなかったぞ、とご不満のアナタ。これからですよ。
聖徳太子伝説は日本書紀以外にも日本霊異記に似た内容の話が出てくる。大昔、私は資料集めのつもりで古本で日本霊異記を手に入れて、内容を確かめていたのだが、昨日ふとページの最後のほうの空欄に何か書いているのに気がついた。
よく見ると
I'm walking in the rain
行くあてもなく傷付いた体濡らし
絡みつく氷の騒めき
殺し続けて漂う いつまでも
UNTIL I CAN FORGET YOUR LOVE
(以下略)
と書いてある。「なんじゃこりゃー」と度肝を抜かれた。
巨大検索マシンとしてのインターネットの出現以前に、このような体験をしたなら、私はこれが何かをついに探し当てることができなかっただろう。「これ、なにかわかる?」とだれか身近な人に聞けば「うーん、何か歌の歌詞かもしれんな。それとも自作ポエム?」という回答は得られたかもしれないが、よほど運がよくなければ、「言葉の正体」にたどりつけなかったかもしれない。結局、「古本だし、書き込みはありがちだよな。ま、どうでもいいや」と忘れてしまっただろう。
だが昨日この書き込みに気が付いて、「そうだ、検索」と書き込みの冒頭の部分をウェブの検索欄に入れてみたら、X JAPANの「ENDLESS RAIN」という歌の歌詞だったということが判明した。
古典のなかでもかなりマイナーな部類の文庫本の末尾の空白欄にヘビーメタルバンドの歌の歌詞をあまさずびっちり書き込むエナジーに心打たれた。その取り合わせが、とても面白いと感じたので、あまりブログも更新してこなかったのに、こうして「最近は聖徳太子を調べていますよ」という近況報告記事になったのだった。
あすこではちょっとだけ聖徳太子の秘儀参入問題に触れ、「日本で最初にパウロ体験(エーテル界でキリストに出合う体験)をした人物」ではないかと私論を投げかけたままだったが、実はその後もずっと聖徳太子について、あれこれ考え続けてきた。
今では、記紀の成立は「聖徳太子一族の背景を壁に塗り込めるという意図を隠し持っている」とまで思うようになっている。記紀は聖徳太子の実像にベールをかぶせるための仕掛けとしても機能しているのではないかと。
「大嘗祭の本義」動画では、日本の古代の大王(おおきみ)につけられている名前は秘儀参入の段階を表しているのではないかという説を提示した。
シュタイナーの『輪廻転生とカルマ』に「古代には、秘儀参入者は外的な名前ではなく、彼らが何を知っているかによって、彼らにふさわしい名前で呼ばれました。(P138)」と書いてある。
「彼らが何を知っているかによって」というのは「どの位階の秘儀参入者なのかによって」と言うのと同じことである。
聖徳太子の「霊能力」については日本書紀に「予知能力があった」と書いているが、その直前に「一度に十人の訴えを聞き分けた」という趣旨の話が出てくる。「なぜ並べて書いているのだろうか」とは、普通読者は不思議に思わないだろう。それは日本書紀を研究して現代語訳を担当した学者とて同じだろう。
神々の名前付けのルールには決まりがあるはずだが、私はそれを明確に指摘した学者本に出合った記憶がない。たとえば私は、古代の神々についていた名前で「耳」というものには秘教的な意味があると思っている。一例として、天孫降臨神話に出てくるニニギノミコトの父親であるアメノオシホミミノミコト(天忍穂耳尊)である。「オシホ」が本来の名前であって、耳の部分は「どんな霊能力があったかを示す記号」ではないのかと思ったのだ。オシホミミノミコトは霊聴能力者、つまり秘儀参入者ではなかったのか、と思ったのだ。
精神科学(人智学)は、世界のあらゆる古代の宗教文献、神話・伝説、昔話などを読み解く助けになる、とはシュタイナーの言葉である。三日半の仮死体験の儀式は世界に広く普及していた秘儀参入の方法だったというのも彼の発言である。
ただ民族に応じて秘儀の達成度の段階の区分が三つだったり、五つだったり、七つだったりする。
霊視(イマジネーション)能力、霊聴(インスピレーション)能力、霊的合一(インテュイション)能力という三区分についてシュイタイナーは『ルカ福音書講義』で解説をしている。
現在でも霊視能力者はたくさんいるが、彼らは秘儀参入者ではない。霊聴能力以上にならないと、秘儀参入者とは呼べないと書いている。霊視は像を見る能力だが、それが何を意味しているのか実は分からない、だから霊聴(つまり言葉を聞き取り、理解する)能力まで高まらないと、見たものが何を意味しているのか解釈できないというのだ。
日本書紀には聖徳太子は豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)と呼ばれたと書いてある。神話時代の先祖たちとは違って、その当時の古代人の霊能力はほぼ消え失せていた時代だった。そこにひさびさ「耳」という言葉で象徴される霊能力を持った人物が生まれたということだ。
これをシュタイナー霊学をものさしとして解釈すると、「太子は霊聴(インスピレーション)能力の持ち主で、その能力で未来予知をすることができた」と「遠まわし」に書いている、ということになる。
さらにたくさんの聖徳太子伝説に目を通せれば、シュタイナー霊学の観点から、いろいろなことが発見できるのだろうが、研究は遅々として進まない。
けれど、今回のブログ記事をもとに、近いうちに1本、秘教学徒用に動画を作ってアップロードしてみたいとは思っている。
あれ、X JAPANの話が出てこなかったぞ、とご不満のアナタ。これからですよ。
聖徳太子伝説は日本書紀以外にも日本霊異記に似た内容の話が出てくる。大昔、私は資料集めのつもりで古本で日本霊異記を手に入れて、内容を確かめていたのだが、昨日ふとページの最後のほうの空欄に何か書いているのに気がついた。
よく見ると
I'm walking in the rain
行くあてもなく傷付いた体濡らし
絡みつく氷の騒めき
殺し続けて漂う いつまでも
UNTIL I CAN FORGET YOUR LOVE
(以下略)
と書いてある。「なんじゃこりゃー」と度肝を抜かれた。
巨大検索マシンとしてのインターネットの出現以前に、このような体験をしたなら、私はこれが何かをついに探し当てることができなかっただろう。「これ、なにかわかる?」とだれか身近な人に聞けば「うーん、何か歌の歌詞かもしれんな。それとも自作ポエム?」という回答は得られたかもしれないが、よほど運がよくなければ、「言葉の正体」にたどりつけなかったかもしれない。結局、「古本だし、書き込みはありがちだよな。ま、どうでもいいや」と忘れてしまっただろう。
だが昨日この書き込みに気が付いて、「そうだ、検索」と書き込みの冒頭の部分をウェブの検索欄に入れてみたら、X JAPANの「ENDLESS RAIN」という歌の歌詞だったということが判明した。
古典のなかでもかなりマイナーな部類の文庫本の末尾の空白欄にヘビーメタルバンドの歌の歌詞をあまさずびっちり書き込むエナジーに心打たれた。その取り合わせが、とても面白いと感じたので、あまりブログも更新してこなかったのに、こうして「最近は聖徳太子を調べていますよ」という近況報告記事になったのだった。
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