"ルドルフ・シュタイナー"カテゴリーの記事一覧
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今から20年前、つまり2002年、ローランドから「今日からはじめるパソコン・ミュージック」というDTMソフトが発売された。
私がそれを買ったのは発売の年だったのか記憶がはっきりしない。ネット上の話題としてDTMがよく目に飛び込んでくるような時期だったので、自分も興味を持ったのだろうが、うん万円もするDTMソフトに手を出す気はサラサラなかった。
ただ「アア、オレも安いのでいいから、その手のソフトをひとつ持っておきたいなあ」という思いが募ったので、たまたまいきつけの家電量販店で見つけたDTMソフトが安かったので、手に入れたのだった。
私が手に入れたのは、箱に『今日からはじめるパソコン・ミュージック』という名前が付いたDTMソフトだった。
私はそれを5000円くらいで買った記憶がある。一番安い値札がついていたからだった。だが、最近改めてネットで検索したら12000円という記事が出ていたので、「?」と思ってしまった。
参考ページ 新cakewalkの隠された機能
地元の店が安売りしたのか、それともメーカー側が値段を下げて再発売したのか、さだかではない。
買ったはいいものの、それに付いていたマニュアルを見て、すぐに「こんなもん、読めるかい」とやる気を失った。それでも1曲完成させたが、ひたすらマウスをポチる作業の連続で、もうそれでおなか一杯になったというか、ヘとへとになって、それ以降DTMソフトには近づかなくなって20年が過ぎたのだった。
ネット世界が始まる以前、90年代までは録音はカセットテープの時代だった。
中学3年の時、友人からラジカセを3日の約束で借りて、自分のラジカセに録音したものを流しながら、リードギターなんぞを加えて、またそのテープを流しながら、もう一方のラジカセの前でハモリを入れたり、いろいろ加えて、録音してというふうに、そういう作業を何度も繰り返して、1曲を完成させた。音質は最悪である。
それを友人に聞かせると、「え、これどうやって録ったんだよ」と、とんでもなく感動して(もちろん曲にではない、録音方法にである)感心しまくったのだった。そして、あまりつきあいのなかった同級生が(彼はその当時の同じ中学校全体のトップと呼んでもいいくらい、とてつもなくギターが上手だったが、付き合い的には私とは別グループの人物だった)間接的に曲を聴かせた友人からラジカセ録音話を聞いて、「聞かせてくれ」と自宅にやってきて、感銘を受けたようで、のちには彼の自宅にも招待してくれた。
しかし、当時はまだ、その後に到来することになるカセットテープ式MTR(マルチトラックレコーダー)を用いた、宅録全盛時代の日本はやってきていなかった。そういうことができる商品(機材)が一般人の市場には、まだなかったからだった。
私が「そういう機材」を手に入れることができるようになったのは、80年代の後半以降のことだったと思う。
写真は、左が4トラックのTASCAMのportaoneで、右が8トラックのYAMAHAのMT8X。この二つの機材もいまは処分されて自宅にはない。写真はネットから拾ってきたものだが、同じ機種を私も自宅で使っていた時代があったのだった。
演奏(合奏)を録音したかったら、仲間を集めてやる、つまりバンドを作る。至極当たり前なことだったし、それに「身体」を駆使してやる音楽はほんとに楽しかった。声を出すにしろ、楽器を弾くにしろ、そうだ。これは今でも変わらない。
シンセ系の楽器を使っている人々も一部をシーケンス機能に任せているにしても、まだ「身体性」を保っていた時代だったろうと思う。そういうわけだから、いろんな楽器や声を「自分自身の技能」でまかなうこと自体は「まだ許容範囲内」だった。「演奏(身体性)」を「記録する」わけだから。
だがDTM全盛時代の今、「身体性」は記録される必要がなくなった。「構想」「設計データ」が記録され、そのデジタルデータがデコードされて、空気を震わせる音声に変換されてスピーカーから鳴らされるのを聴いて感動するのが、もっとも新しい音楽の聴かれ方になった。
DTM系では特に顕著に個人の演奏能力や演奏の個性はパージされ、またDTM系の楽曲を好むリスナーの興味関心を引くテーマではなくなった。リードギターなどの間奏部を飛ばして聴く若者たちの出現が最近話題になっていたけれど、さもありなんということだ。
商品としての人間の生の歌声はそれでもまだ「身体性」に頼っている。しかしボカロの出現と進化は結局、プロの音楽家たちのDTM作業への接近が「人間の演奏者を用なしにし、駆逐していった」ように、「生きている人間の声」を完全に駆逐してしまわないまでも、ますますの台頭を許すようになるのかもしれない。
アナログ楽器の音色のデジタル化、つまりサンプリング技術は飛躍的に進歩したではないか。読み上げソフト以上の技術が必要になってくる歌声のサンプリング技術もいずれ、楽器に劣らず極点にまで到達するんだろう。
画像のAI生成技術やら美空ひばりの合成動画やひろゆきのようにしゃべる音声合成ソフトなどの出現がそういう未来の到来を予告してくれている。
すでに映画やドラマだってディープ・フェイク技術を使って、ところどころで「のようにみえる顔」を作って使っている。「ストレンジャー・シングス」では子役の女の子の顔にミリー・ボビー・ブラウン嬢の若返った顔が違和感なく合成されていた。「のようなもの思想」はすでに大昔に、建築資材やら食品パッケージで「出現」していた。レンガ材や壁板材、フローリング材のように見える安価な建築素材、桐の弁当箱を模したプラ容器(これはすでに市場から消滅しているようだが)笹の葉のように見える仕切り材しかり。どれも「かつて存在してた本物のイミテーション」である。そしてそれは経済行為として出現したのだった。
現在は、かろうじて声の個性や歌の上手さは「DAW内で構想される一部門」になることは、まだ完全には実現されていなけれども、こういう状況(生声録音素材なのかデジタル合成音の誰か風のイミテーションなのかの配分)もいつかは変化していくんだろう。
とはいえ、そのような予想される道行への反対運動をしたいわけではない。「バック・トゥ・ザ・フューチャーⅠ」で描かれていた「新しい音楽の出現に対する人類の鳥肌衝撃体験」(チャック・ベリーの楽曲のパクリ演奏シークエンスはその象徴表現である)の連続が、50年代に始まった新しい流行音楽の黎明期から90年代までの終焉期までの間に人類が得た経験値だった。ラジオが新しい音楽に触れるための窓口だった当時の若者たちの多くが、「低音質のラジオ」から流れてきた、かつて自分が接したことがない「のようなものではない曲」を聴いて、ほんとに鳥肌立てて気が狂ったようになった体験を持っている。
だがもはや21世紀の若者は「狂ったように感激」はしない。「最高の音質」で、まあいいんじゃないと思う音楽を生活の隣に付随させて生きている。その商品としての付加価値は「音楽自体が持っている力」からやってはこない。何かのイベントにぶら下がった価値として出現するしかなくなっているようだ。
日本の昭和時代のリスナーたちのようには、音楽アルバムパッケージに3000円払う価値はもはや感じていない。昭和の中学生のように、何か精神的な飢えのようなものに促されて、小遣いをためて身銭を切る感覚で1枚のアルバムを買いに行くわけではもはやないのだ。音楽の手に入れ方も大変容した。今は、ゲームに金を払うほうがずっと意味があると感じている世代の時代である。
今後は「~のような音楽」の時代が続くのだろう。AI(自動生成)技術がさらに進化すれば、「~のようなもの」をイラストや絵画に限らず、映画にしろ、音楽にしろ、もしかしたら小説や、あるいは哲学書さえ、AIが作り出してくれるだろうから。
とはいえ、それらはもはや、かつては「精神と身体感覚性」との共同作業の中から出現してきた生成物だったものの模倣にすぎない。消費者が「のようなもの」で満足している以上、それは商品価値を持ち続けるだろうし。
過去のデータしか学習できないAIは人類に「新しいもの(制作物あるいは精神)」をもたらさない。「機械に読み込ませた〈思い出〉の再合成の反復」をするだけである。けれども、商売人は「生成された思い出」を「新商品」と言って売りつけるのだろう。ますますトム・ソーヤー商法(壁塗りエピソード参照)が栄えていくのだろう。
ここで突然話題がアナタの予想外の方向へ飛んでしまうかもしれないが、ついでなので語っておこう。
超感覚的世界にも、そういう「のようなもの現象」が存在するらしいことを、ルドルフ・シュタイナーが報告している。というより、ようやく物質界におけるアーリマン的進展が霊界的現象の模倣を行える地点まで人類史は来たということなのだろう。
『神智学の門前にて』で、シュタイナーは以下のような話をしている。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------人間が行ったことすべては、たとえ歴史の本に書かれなくとも、神界の境にあるアーカーシャ年代記という不滅の歴史書に書き込まれている。意識のある存在によって世界に引き起こされたことすべてを、この境の領域で経験できる。---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
意識のある存在が体験したことは、アーカーシャ年代記に書きとめられる。秘儀参入者はこのようにして、人類の過去のすべてを読み取ることができる。しかし、まずどのようにして読み取るかを学ばねばならない。アーカーシャ(虚空)は生命的なもので、アーカーシャ像は混乱した言葉を語る。
シーザーのアーカーシャ像を、シーザー自身と混同してはならない。シーザー自身はもう再受肉しているかもしれない。外的な手段によってアーカーシャ年代記に近づくと、そのような混同をしやすい。そのような混同は往往にして、降霊会で生じるのである。心霊論者は、亡くなった人を見た、と信じる。しかし、それは死者のアーカーシャ像にすぎないのである。
たとえば、ゲーテのアーカーシャ像が、1796年に活動したときの姿で現れることがある。神秘学に通じていない者は、このアーカーシャ像をゲーテ自身と混同する。このアーカーシャ像は、質問に答えることができる。それも、昔答えたことを答えるだけではなく、昔は答えなかった、まったく新しい質問にも答える。答えを繰り返すのではなく、当時ゲーテが答えたであろうように答えるのである。それどころか、このゲーテのアーカーシャ像は、当時のゲーテのスタイルとセンスをもって、詩を作ることもできる。
アーカーシャ像は、まさに生きた構成体なのである。事実はこのように、驚くべきものである。しかし、事実なのである。(P32-P34)
マトリックスのサイファーが戻りたかった場所のことも連想つながりで思い出す。つまり「幸福な生活を感じさせてくれるイミテーション界」への回帰願望のことだが、アーリマンも着々とそういう「イミテーション界」とでも呼ぶべき「地球の楽園」を作ろうと鋭意画策中なんだろうねえ。
さて、「今日からはじめるパソコン・ミュージック」というWindows XP向けソフトだが、結局イジリたおして習熟したわけでもなく、すでに20年も経過してしまった。にもかかわらず最近やっとソフトに添付されていたカーペンターズのデータ入力用練習曲(「イエスタデイ・ワンス・モア」と「トップ・オブ・ザ・ワールド」)を「指導書」通りにやってみた。
つまり再度マニュアルの読み込みから始めなければならなかったわけだ。指導書に沿ってクリック、クリック。やはりすごく疲れた。
いまでは最新版のcakewalkのDTMソフトがネット上で無料で手に入る。
cakewalk by bandlab
こちらも手に入れて、さあ、どうしようかと思うのだが、結局生演奏を録音するための機材として、つまりアナログ・カセットテープ録音式からデジタル録音式に進化したMTRとしてギター、ベース、キーボードなどの演奏を録音するために利用するくらいが(ドラム音源はDTM付属のソフトシンセサイザー利用で)、自分が「楽しいと感じながらできること」の最大値なんだろうと思う。
YouTubeでcakewalk関連の動画をたくさん見たせいか、DTM関連の動画が頻繁に現れるようになった。自動コード進行生成機能付きDTMソフトとか、与えられたコード進行に自動的に多種多様なメロディー生成提案をしてくれる機能を搭載したソフトとかの解説をしているYouTuberもいる。
もういいよ、「アレクサ、大瀧詠一の声を使って、ロング・バケーションに入ってたような曲を作って流してくれないか」と言ったら「こんなのどうですか?」と〈高品質の楽曲〉が流れてくるのが日常になってる「のようなもの文明」が全盛の未来なんて、そんなことがすでに実用化されていたとしても、そんな家電品使わんと思うんだよ、オレ様は。
結局、未来において、そんなものは経済的には成立せず、「そんな生活が当然の日常」にはなっていなかったって状況ももちろん十分にあり得ると思う。けれど、100年後の人類がどんな音楽をどんなふうな方法で聴いているのか、やはり想像することはできないよなあ、自分には。
シュタイナーはアトランティス時代の7度インターバル感受時代を経て(「エリック・ザ・バイキング」という映画には海に沈む国の住人がみょうちきりんな和声音楽を誇らしげにエリックに披露するシーンが出てくるのを思い出した)、古代エジプト時代の5度インターバル感受時代からギリシア・ラテン時代の3度インターバル感受時代になり、近代人はまだその感受性(長3度感覚と短3度感覚)の延長線上に立っているという趣旨の話をしている。
今後は、オクターブ感受時代がやってくると言っているが、ポピュラー音楽の世界では、オクターブを「和音」の響きとしてウェス・モンゴメリーとかジョージ・ベンソンとか、ピアノではリチャード・ティーとか米国のミュージシャンたちがすでに試みているし、ギター・エフェクターとしてBOSSからオクターバーという商品が発売されていた時代もあったけれど、いまはそういう「和音感覚」を押し出した曲はついぞ聴かなくなったね。
私個人としては「ある周波数」が大事なんだという意見から、反440ヘルツ運動をやっている人々、あるいは特定周波数押しをする人々の存在も認識しているけれど、大事なのは音と音の「間(あいだ)」から人間にもたらされる「ある感覚」その「何か」のほうが重要なんじゃないかと思う。つまり「音楽としての周波数の共鳴現象」が人類にもたらしてきたものについての話をシュタイナーはしていたのであって、「特定周波数を贔屓にしろ」ということではないのだった。
大事なのは周波数同士が「〈音楽〉として共同したときに生まれるもの」なのであって、「特定の単体周波数」それ自体の価値ではないと思っている。
未来にやってくる「オクターブ感覚」というのは現代人が使っている「今の感受力」とは異なっているんだろうとは予想ができるけれど、将来「オクターブ」を心を動かす和音として聴くことになる人類は、その和音から「どんな感情を引き出す」ことになるのか(シュタイナーによれば自我感覚に関連するようだ)、今世で味わえるものなら味わってみたいものであるが、「〇〇は死ななきゃ治らない」ということわざはつまりは「生まれ変わらなきゃ先へ進めない」と同義だと勝手に解釈している私は、今世においては「いろんなことをあきらめて」おかないといけないんだろうなあとも思ってますよ。
オクターブ感覚もそのうちのひとつですよ。PR -
ルドルフ・シュタイナーの著作は日本では大量に翻訳本が出ていますので、ドイツ語が分からない人々にとって日本は、本気でオカルト学(秘教)に挑みたい人にとっては、たいへんよい環境が整っていると思います。
彼の情報によると、さかのぼること1万年以上前までのアトランティス時代の人類は、みな今で言うところの秘儀参入者でした。「秘儀参入者である」というのは、単に霊界を垣間見ることができるというのではなく、高位の神霊たちと交流することができたという意味を含んでいます。
シュタイナーは『ルカ福音書講義』にて、霊界参入者を以下のように3段階に分類して説明しています。
(1)霊視者(イマジネーション認識者)(2)霊聴者(インスピレーション認識者)(3)霊的合一者(インテュイション認識者)
彼は現代においても霊視者はたくさんいると述べています。霊視者は霊界の像を浮かび上がらせる能力はあるが、その像が何を意味しているのか分からない段階にいる霊界参入者です。またその能力にも差があることは、最近ではアニメ「見える子ちゃん」でも描写されていましたね。
音楽的な才能(感覚)を比喩として用いるなら、訓練されている人とされていない人とでは、聴こえてくる音像から取得できる「情報」には大きな差があることはよくご存じのことだと思います。音楽に疎い人にとってはひとつの漠然とした響きにしか聴こえない複数音声の集合体をを、訓練を受けた人は、いくつの音で構成されていて、その音はこれこれだ、そしてコード名は何々と言うと答えられます。
人間の可聴周波数の問題ではモスキート音というものがありましたね。20歳の人には〈音〉として聴こえる周波数が年を取ると〈可聴化できない〉、つまり認識できなくなくなるというあれです。人間が持っている「感覚器」を用いて、何かの情報を取得しそれが何であるかを解釈できる能力には個人差があるのです。霊能力についても、同じ個人差が存在するということですね。もっと長大な年月をスパンとした人類史においては、時を経ることよって、全人類単位で一気に失われた「人類の能力」というものがあったのだということを、その事実を、現代人は認めることができるでしょうか。
霊視者は霊界参入者ではあっても「秘儀参入者」ではないとシュタイナーは言います。
秘儀参入者と呼ばれるためには、霊聴能力、つまり見たものを言葉や音として聴き取る能力も、〈見る力〉つまり霊視能力とともに持っていなければなりません。そういう能力の所有者のことを日本の古代の秘教の伝統にそって言い直すなら、「耳」という称号を贈られた者たちがそういう領域に属している人々です(以前当ブログで紹介した古代の大王(おおきみ)たちの諡号や聖徳太子が豊聡耳命と呼ばれた故事を思い出してください)。
宜保愛子氏は晩年、「像は確かに見えていたが、言葉は聴きとれなかった」と述懐したと語られていますが、そういう意味では彼女は霊界参入者ではあっても秘儀参入者ではなかったということになります。
霊的合一者は霊視能力、霊聴能力に加えて、対象の中に入って一体化できる能力を持つ者です。認識できる範囲は霊聴者よりもさらに広がるのです。「秘儀参入者」とは霊聴能力者か霊的合一者のどちらかを指す言葉なのです。
アトランティス時代には人類は誰でも自分がその中に生きているところの霊界を認識しながら生きていました。つまり死者や高次の種々の神霊たちに取り巻かれて生きることは所与の現実体験だったので、それらの実在を証明する「動機」が存在しませんでした。それゆえに、いわゆる今日に見られるような形態の「宗教」というものはありませんでした。
宗教というものが「この新しい世界」に出現したのは、人類が「霊界の住人」でいられなくなった結果なのです。宗教は、かつての人類は彼岸の存在だったということを思いださせ、人類にその見えなくなった世界を敬わせるために出現したのがそもそもの始まりです。「そのような宗教感覚」はアトランティス後の時代に世界各地にいた秘儀参入者たちが自分たちの属する共同体に持ち込み、育て上げたものに由来するのです。「宗教的である」というのは、彼岸の存在を信じ、それを敬う態度を持つということなのです。
シュタイナーは『神智学の門前にて』で、以下のような話をしています。
学識者は(神話や)伝説は民族精神に由来するものだという。だが、それは真実ではない。また、この伝説は偶然にできあがったものではない。偉大な秘儀参入者たちが、自分たちの叡智を込めてこの伝説を作り、人々に伝えたのである。あらゆる伝説、神話、あらゆる宗教、あらゆる民衆文学は世界の謎を解くのに役立つものであり、秘儀参入者たちの霊感に由来するものである。(P26)
どこかの宗派に属していることをもって宗教に入っている人という認識で日常生活を営んでいる戦後日本人的な感覚は実は相当に世界の常識とずれた見立て(自己認識)なのだということです。
それは日本人が近代化という掛け声のもとで唯物論という「悪しきセンス」も同時に持ち込んで、そこに自分自身をフィットさせようと努力してきた結果です。
近年日本が生産した四角いスイカが世界の話題になったことがありますが、まさに近代化以降の日本人の態度そのものを象徴するトピックでした。日本人は「自分の身体にあった衣服をオーダーメイドする習慣」を捨てて、それを善なる振る舞いだと信じて、スイカの実がだんだんと四角い木枠のなかに隙間なくぴったりとフィットするように成長を遂げていくように「自分自身の精神の可動力を駆使して精神を変容させた」のです。木枠の持つ「形」に迎合したのです。
よく「共産主義は宗教だ」という表現を聞きますが、厳密には宗教ではありません。何かの主義主張が宗教であるためには、地上を超えた世界や存在の実在を信じそれを敬うという要素がなければなりません。
しかし死後の生を否定するようになった近代人は、その定義を捻じ曲げて、「彼らにとって不合理だと見做せる教え」を「信じる行為」を行っている人々への蔑みの表現になりました。
たしかにカルトの問題を見れば、そういう見方になってしまう側面もあるでしょう。この定義ならば、共産主義をもカルト宗教に似た側面をもつ教えとして存分に罵倒できるからですが、そもそも、宗教という言葉を使うときに、本来の宗教との微妙な差異について「自覚的になれない人」は、学校現場を支配している近代教育の思考態度で批評をしているだけの話です。
私はかつて、高校の現代社会の教師が「〇〇は宗教だ」と生徒の前で言っている事実を知ったときに、明治維新時に近代改革派が当時のヨーロッパの思想を「技術」中心に輸入したとき、それに付随して唯物論的な思考態度を学問的思考の「基本態度」として重視すべきだと思って学校現場にも持ち込んだ成果が、今ありありと実を結んだのだと思っています。
その後の日本の教育界は「西洋のそれをしのぐほどの唯物論思想」普及に無自覚にまい進しました。その結果、唯物論者であること(あるいは「そのように装う」こと)が、現代日本人の「公的態度=建前」の表現として世間の表舞台に掲げられ、流通させられるようになり、日本人は「公的マナー」として無自覚にそのことに「身を摺り寄せ」て、つまり自らを変化させ適応させて生きてきたのだということです。
以下はシュタイナーの日本人への警告です。
日本人が形成したような霊的な思考は現実のなかに進入していきます。それがヨーロッパ-アメリカの唯物論と結びつき、ヨーロッパの唯物論が霊化(精神化=脱唯物論化)されないなら、その思考はヨーロッパの唯物論を凌ぐことは確かです。ヨーロッパ人は、日本人が持っているような精神の可動性を持っていないからです。このような精神の可動性を、日本人は太古の霊性の遺産として有しているのです。(『いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか』P76-P77)
また西川隆範氏は、シュタイナーが日本の近代化の実情について語った内容を以下のように紹介しています。
日本人が蒸気船の運転を試みたという話である。どのように運転するか、どのように舵を切るかを、日本人は見様見真似で習得した。そして、日本人は外国人の教師に対して、もう自分たちで航行できる、といった。そうして、外国人教師を陸に残して、日本人船長の指揮のもとに蒸気船は出発した。日本人は舵を切って、方向転換をした。ところが、どうやって元に戻せばよいのかを知らなくて、船は回転しつづけた。(『いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか』P77)「どうやって元に戻せばよいのかを知らなくて、船は回転しつづけた。」という部分はとても深刻に響きますねえ。「その回転度はますます激しさを増している」というのが現代日本の姿なのでしょうねえ。まるで地球の重力圏から飛び出せずに永遠に周回軌道を回転を続けるデブリのような状況です。
現代日本人の場合に限って言えば、長い学校生活を通して一度も「宗教とは何か」ということについて、ここで述べたような「ちゃんとした定義」を教師の口から聞くことなく成人した人ばかりです。
中学生が高校受験用の質問として「世界の三大宗教は何ですか」と問われると優秀な子は「仏教、キリスト教、イスラム教」と即座に答えられます。そのように「表面的なこと」はたくさん知っていますが、肝心なことは分からないままにほっておかれているのが日本の現代っ子たちの「精神生活」のありようです。しかし子供を育てているオトナの側にそのような観点に対する自覚がない以上、子供を責めることもできませんね。
アトランティス大陸の崩壊後、新しい陸地に移住した人々が「知性の発展」という新しい課題に向けて、新生活を始めるようになりました。霊視を可能にするために身体からはるかに抜きん出ていた古代人のエーテル体は、ますます物質的身体とその輪郭を一致させるようになりました。そのような状態に身体が変化することが思考力を育てるには必要だったのです。とはいえ、その時代においても、なお高次の神霊たちの言葉を理解できる霊聴能力を維持できている人々もいましたが、時代が下るにつれて、知力の発展と引き換えに、「ますます古いタイプの霊界参入能力」を失っていきました。
日本の縄文時代人も5千年前までは実際に自分の周囲に神霊を見ていたのです。山や木に神霊がいると「空想」し、「その空想を信じた」のではなく、「実際に見ていた」ということを縄文時代文化復興運動にまい進する人々は理解すべきです。それは西洋近代の宗教学者が定義したような「アニミズム」ではないのです。日本人はこういう唯物論ベースの説明を百科事典的に参照し、「分かったような気」になって人前でオウム返しします。
彼らの言うアニミズムとはどういう意味でしょう。それは学問的には「古代人による、自然界には神霊がいると〈空想〉する態度」のことなのです。〈そういう態度〉を学問的にはアニムズムと定義すると言ってるにすぎません。つまり「神霊やら精霊やらの実在を〈信じる〉なんて、古代人は馬鹿だった」と遠回しに言うためにアニミズムという言葉を学問用語として捏造したのです。一方で、彼らは「神々と言うのは古代人の捏造にすぎない」と〈信じる態度〉を一般庶民たちの前で披歴してくれていますが。では〈このように信じる態度〉は学問的にはなんと言う言葉で定義されるべきなのでしょうか。それを唯物論というのです。
高次の神霊と交流できるような「高い霊能力」が完全に失われたのが紀元前3千年、言い換えるといまから5千年前の時代です。縄文時代末期に抜歯の習慣が始まったのも、そのことと関連性があるのです。歯の形成力とエーテル体には強い関連性があり、抜歯によってエーテル体を霊視力として解放する技術でした。それは自分たちの周囲からますます消えていきつつある神霊世界の消失を押しとどめたいがための苦肉の策でした。
ルドルフ・シュタイナーは「霊視」について以下のような話をしています。
霊視とは、そもそもなんなのでしょうか。霊視できるということは、エーテル体の器官を使用することができるということです。アストラル体の器官だけを使うことができる状態では、深い秘密を内的に感じ、内的に体験することはできますが、その秘密を見ることはできません。アストラル体のなかで体験したことがエーテル体に刻印されると、霊視が可能になります。太古の霊視は、まだ完全には物質体のなかに入り込んでいないエーテル体の器官を使用できたために可能なものでした。人類は時間の経過のなかで、なにを失ったのでしょうか。エーテル体の器官を使用する能力を失ったのです。(『ルカ福音書講義』P64)
そしてさらに3千年が経過し、キリストが太陽領域から地上に到来するころには、一部の人類がかろうじて若干の霊視力を隔世遺伝的に保持できている状態でした。もはやその当時において、霊視力を持つ人々の見るものは、悪霊のようなものばかりとなっていました。最後に人類に残された力に映じた霊視像は邪悪なものばかりの時代がやってきて、そしてついにそれさえも見えなくなる時代がやってきたのでした。
今日では、先祖から隔世遺伝的に霊視能力を受け継いでる人も、それを失ってしまうことはよくあるようです。YouTubeでパシンペロン氏が、「以前見えていた人が失ってしまった霊視能力が復活するときにまず最初に遭遇するのは悪霊だ。そのあと能力が高まるにつれて善霊が見えるようになる」というような趣旨の話を語っておりましたが、これはシュタイナーの発言とも符合するコメントです。
紀元後の弥生時代以降の日本の古代においてもすでに個々人から霊視能力は奪われておりました。神おろしと称して霊媒を使う技術も残っておりましたが、これは縄文時代前期人一般がそなえていた「高い霊視能力」が失われた代替技術でしかなく、今日的視点で言えば、一種の堕落行為でした。
特別な修行体系に則って「長期的な準備」のもとに行われたのがその総仕上げとしての秘儀参入体験としての大嘗祭です。この秘儀は中臣・藤原氏が主導する大化の改新以降は完全に別のもの(神秘体験を伴わない古代中国式即位儀礼)にとってかわられました。
日本民族の秘儀参入の伝統もこのとき途絶えたのです。しかし、世界中の民族が同じ運命をたどって今日ある姿となっているのです。
しかし人類には「新たな能力」が目覚めつつあるということもシュタイナーは語っております。これから2500年ほどかけて、個々人に順々に隔世遺伝的な霊視力によるのではなく、個々人が忍耐して繰り返してきた長い輪廻転生の成果がこれから少しずつ現れてくるという話です。
5千年前に人類一般が失った能力を取り戻すために修行僧という人々が出現しました。仏教のお坊さんもカトリックの神父さんたちも霊界参入のために修行したのだということが今日の一般の人々の常識からも失われています。庶民はいまやそれらの地位は「社会的職業の一種」に過ぎないとさえ思っています。
この系統の伝統もすでに形骸化しています。それらはもはや有職故実に過ぎないものとなって、企業に属している人々が企業の利益や秘密を守るために利己的にふるまってしまうように、僧団や教会集団に属している人々も「組織に属していること自体に意味を見出す」のみで、「組織安堵」のためにポジショントークすることこそが自分の役割だと思って活動しています。
しかし釈尊にしろ、イエスにしろ、若いころはたくさんの旅をして師につき、個人として世界の成り立ちの真の姿を追い求めたのではなかったでしょうか。
僧団や教会組織がちょうど個々人の属する家庭のようなものならば、我々は昔から家族の住む家でともに過ごしながら、外に出て行ってともに働く仲間を得て、「新しいもの」を作り上げるために共同してきたではありませんか。
有職故実主義から自由になって、すでに近代に出現しているにもかかわらず無視され続けてきた「新しい啓示」に個人として積極的に触れることが必要です。大事なのは、「古い教え(解釈)」をオウム返しできるようになることではなく、自分自身が霊界参入者となることで、これまで語られてきた宗教上の教えを「自分の力で再確認できるようになる」ことです。これが人類の新しい目標です。
今日では秘儀参入者となるために修行の道を歩む人と隔世遺伝ではない新しいタイプの秘儀参入者の出現の道という二つの道が予告されています。宜保愛子氏のような遺伝的素質による霊界参入は新しい霊界参入ととって変わられるのですが、現代はまだそのかすかな予兆が始まったばかりです。
そのような人々の「体験の報告」がゆるやかに人々の常識感覚を変える時代が近づいているというシュタイナーやエドガー・ケイシーの予告が実現される日をはやく見てみたいものです。 -
上位カテゴリー管理者たちから命令されて、ゲームメーカー(日本支部は文科省官僚たちが担当)によって作られた「人選ゲーム世界」で戦い、少数者たちが「彼らが地上に投下したゲーム」の上位者となって「彼らの仲間(ゲーム管理者)」に加わって、「同じゲーム」のバージョンアップをする。マークシートに限ってみてもVer.1.0から今何番目のバージョンの投入になっているんだろうか。
大学への国家管理強化の手段の一つとして始められた共通一次テスト。1979年の第一回「ゲーム参加料」は5千円だか8千円だか、記憶では1万円を切っていたが、いまや2万5千円も取っている。そしてウェーバーが「役人は仕事を増やす」という通り、その後さまざまな改変が加えられて(悪名高い「教員免許更新制度」も官僚たちによるウェーバー論的振る舞いのひとつだった。この時も官僚たちはマスコミを動員してもっともらしい理由を広宣させて、国民の了承を簡単に得てしまった。だが結果は廃止である。結論は「税金の無駄遣いだった」である。だが彼らは誰も、金銭的な浪費だけではなく、そのために「国民の通常の生活や労働」から切り取られて費やされた膨大な時間や人的資本の浪費の責任を取らない)、試験手法と内容はますます複雑で煩瑣なものになって、このシステム周辺で利益を得ている企業人たちと黒子の官僚たちの暗躍場所になっている。
このシステム自体も教員免許更新制度同様、一種の国民からの金銭搾取フィールドになっている。進学校では進学や就職が決まってテストを受ける必要のない学生にも「ゲーム・エントリー料金」の支払いを強制している。まるでNHKの集金人のような役割を高校教師たちはやっているが、この領域ではNHK党のようなものがないので、学生もその親も戦うことができない。疑問を感じている教師たちもいるが、彼らは自分を守るために声を上げない。
高校生たちは「なぜそんなことを大人たちが許してきたのか」そもそも疑問が湧いたこともない。彼らは「自分らが強いられている勉学の環境全体」を「適応すべき所与のもの」として、大人たちによって維持されてきたこれらの進学システムの方法すべてを信頼して勉学に励んでいるからだ。彼らに関心があるのは(あるいは「関心を向けさせられている」のは)「このゲームの攻略法だけ」なのだから。一方で、「ゲーム巧者であること」によって自尊心(強烈な利己主義感情)を育ててきた学生たちにとっては、そこに飛び込んで泳ぎ回ること自体は、さほど苦もならない遊び場でもある。子供たちはモザイクがかけられた世界のなかに投じられているが、モザイクがかかっている箇所が見えない。
このゲームで成功した者たちは「文科省管理下のデータ」を参照しつつ、「人材」を吸い上げ、文科省の管理者たちの後援者となって、このゲームが終了しないように味方をしてくれる。そして「金をかけて育てられた彼ら自慢の優秀な子供たち」もまた、「ぬるま湯のなかに投入されたゼリーの粉」のようにシステムの中で攪拌されて、「時間の経過」とともにプルプルに固まった頭に仕上がって社会人になっていく。そのような「頭」を首の上に据えて、国力を衰退させる既得権所有者層とともに「運命を全うしよう」とする。
この次元領域からメタ次元に出て「今何が起こっているか」を本気で自覚し、そして別様に行動し始めている人々は存在するけれど、そういう人々は、このシステムの変更を阻止したい官僚たちやその周辺にいて、彼らの仲間となって一大勢力を形成している企業人から敵認定を受けざるを得ない。そんな彼らに呼応してマスメディアが日本全国から集めて作り上げる「民衆的津波力」が大量に異端者たちにぶつけられる。だから時に秩序破壊者との烙印を押された人々は精神病院や刑務所に入れられることも覚悟しておなかければならない。油断していると、映画「マトリックス」のようにサイファー主義者たちというフレネミーたちが近づいてきて背後で暗躍することになる。(終)
参考文献
国家が教育を管理すること
近代は国家制度と経済力とに高度に依存した精神生活を発達させた。人間は子どものうちから国立の学校に通うようになる。そして自分が育った環境の経済状態が許す範囲内でしか教育を受けることができない。
人びとは、それによって人間が現代の生活状況に良く適応せざるをえなくなっている、と安易に信じている。事実、国家は教育制度を、つまり公共の精神生活の主要部分を、共同社会にもっともよく仕えられるように形成しようとしており、そして人間は自分が育った環境の経済力に見合った教育を受け、それによってその経済的可能性が許す場所で仕事をするのが、人間社会のもっともよい成員となることだ、と安易に信じられている。
われわれの公共生活の混乱は、精神生活が国家と経済とに依存していることによる。このことを明示するという、今日あまり歓迎されない課題を、本書は引き受けなければならない。そしてこの依存から精神生活を解放することが極めて緊急な社会問題の一部を構成していることも明示しなければならない。
このことによって、本書は一般に普及している誤謬に対抗しようとする。国家が教育制度を管理することは、人類の進歩にとって望ましい、と以前から思われてきた。そして社会主義者は、社会が個人を社会のために、社会の基準に従って教育することを当然だと思っている。
人びとは教育の分野で、今日どうしても必要な洞察を進んで得ようとは思っていない。以前正しかったことが後の時代には誤りになる、というのは、歴史の発展を考える上での必要な洞察であろう。教育制度並びに公共の精神生活が中世において、それを占有していた人の手を離れて、国家の手に委ねられたのは、近世の社会状況の成立にとっては必要だった。しかしこの状態を今日も維持しようとすることは、重大な社会的誤謬である。(P15-P16) ルドルフ・シュタイナー『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』 -
ワシはもと西洋人の言うた七年一変の説ネ。アレを信じているのだ。どうも七、八年ないし十年にして人心が一変するよ。(『氷川清話』勝海舟)
YouTube動画、やるやると言いながらちっとも始まりません。
そもそも「動画を使ってやること」自体が、実は反シュタイナー的行為であることも確かなわけでして、どこか胸苦しい感じをいつも抱いておるのです。
シュタイナーの生きていた時代はようやっと映画が普及し始める時期で(彼は1925年に亡くなっています)、写真だってまだカラーの時代じゃありませんでした。そういう時代に二次元平面に映し出される動画、つまり当時においては映画しかありませんが、それを批判して「映画は、人間の意識の深い層に作用して、エーテル体を駄目にし、無意識を唯物論にする」というような趣旨の発言をしています。『死者の書』では以下のようなことも言っています。
-----------------------------------------------------------スピノザの倫理学やカントの純粋理性批判を映画で読み解くことができたら、或る面では時代の外的要求にふさわしいと言えるでしょう。どうしてそうでないと言えるでしょうか。このようなことを、私たちの時代は愛しています。人びとがこのような受動的な帰依を愛していることを、私たちは確信できます。
一度、たとえば広告塔の前に立って、その広告を見ている人びとの心の中に浮かぶ思いを推測してみて下さい。スライドを使わず、もっぱら聴き手の魂が積極的に参加することを求める講演を、人びとは好みません。人びとはむしろ受動的に帰依するだけですむのであれば、そちらの方へ行ってしまうでしょう。しかし、もしも時代の根底を覗き見るなら、そのような人びとの魂の中にも、活動性への衝動が存在していることが分かるのです。人びとはまったく積極的に働く魂を、ふたたび取り戻したいと思っているのです。(P35)-----------------------------------------------------------
こういったものは人間から「現実的な生活対象」への積極的な関与力を奪い、「ひたすら受動的な態度に終始するマインド」になるよう人々を誘導してしまうとシュタイナーは言っているのです。21世紀の今日となっては世界中の人々の精神生活を圧倒している「コンテンツ」というものは「人々を特別に有能にも賢くもしない」ということもバレてしまいました。
「マトリックス」の住人たちのように機械に接続されて、脳内に「本当の自分の現実を反映していない偽の表象」を大量に浴びせられています。それが虚偽だと分かっていても、サイファーのような「感じ方」をする人物に至っては「そっちの内部にいた自分の方が幸せだった」と幻影の世界にいることをこそ希求するようになります。そのようなアーリマンの支配にあえて屈するような感性は、確実に現代社会のなかにも出現しています。
いまやニュース系の「危機感啓発情報」でさえ「コンテンツ」(映像商品)の一部門にすぎません。「怖いものがやってくる」と騒いでいるうっかり八兵衛みたいな人物が、最近交通事故で亡くなった知人を思い出して、「きみはこれから日本を襲うはずの巨大地震とそれにともなう巨大津波を体験せずに逝ってしまった」と嘆いたとしたら、「彼の不安感覚」というのはエンタメワクワク感覚のなかにある「何か」だったんではないかと疑いたくもなります。マスコミがそういう煽り方を、「報道商品」の「売り方」の定石にしてしまったゆえに、現代人は、パンデミックやら天災やら戦争に「巻き込まれて死ぬ」のは極端に怖がりますが、多くの人は「でも自分はそういうのが来る前に、そういうふうな死に方じゃない死に方をすると思う」とは「普通」考えません。視聴者たちは「テレビ番組」で巨大な地震災害予告報道を聞かされて「いやー、そうなったら怖いですよねえ」と、ひとしきり建前なのか本気なのか分からないような感想を述べながら「予言」報道に付き合ってくれますしね。テレビ局にとっては、いいカモですよ。エドガー・ケイシーとか日月神示の神なんぞは「安全な地域は教えることはできるが、究極それがどうした」ですからねえ。「それで死のうが生き残ろうが、あんたが正しく生きてきたならそれでいい」という但し書き付きではありますが。
ということで巷ではエンタメ都市伝説系「おどしネタ」として世界中で頻繁に「そっち系」で取り上げられているところの、前々回、神話や伝説への接近の仕方(読み方)に関してちらっと言及したヨハネの黙示録関連記事の見直しをしておるところです。特に最近はシュタイナーの『黙示録の秘密』を読み返しております。
この本は、ただ読んでいくだけでは、何も頭のなかに入ってきません。というかシュイタイナーの本はどれも、特定のカテゴリー語群やその順番、上下の位置関係など、あらかじめ記憶しておいてからでないと読書しても時間の無駄になってしまうことが多いです。
「3月下旬に桜の花が咲き、6月には雨がたくさん降りますよね」と聞けばみな即座に自分のなかに定着しているそれらに関する連想感覚を用いて、話者の話を消化しながら聞くことができます。1月から12月まで数え上げながら、その月に付着している個人的想い出や知識上の連想を無意識に「結びつけていける」ので、人は「自分にとっての1月から12月」までを具体的にイメージ把握できるわけです。
数学の教科書や参考書問題集を読んで「書かれていることを理解しよう」と独学している中高生に「理解の差」が生まれてしまう原因と同じです。書いていることが理解出来ない場合、「教科書を読むためには、自分はまだ何が分かっていないのか、あらかじめの準備として何を覚えていなかったのか」が分かっていないことが原因です。
つまりシュタイナー本は、小説を読むような「いつものノリ」で読んでいると頭の中で用語や熟語が音として頭の中を飛び交うだけで、その概念や理念が自分の持っている知識と頭のなかで「何も結びつかない」という状態に陥ってしまいます。
だから切り取られた霊学上の言葉をYouTubeの簡単編集コンテンツとして、ひろさちやのような「聞き終えるとなんかジーンくる言葉」のようなものとして受容するような人は、そもそも霊学に対する「接近の仕方」が間違っているということを自覚することから「やり直さない」とほんとの先には進めません。
近代人は身体の筋肉が凝っているだけではありません。しかし近代人は肩こりには悩みますが、「自動起動する論理と感情」が意識化されるべき凝りなんだとは思いません。学校教育やマスメディアを通して流し込まれた知識とその言葉にまつわる社会感情、それらによって「自動的に起動するようにしつけられた感情反応」こそが凝りなのです。そして学校に通っていた未成年時代、なまじ利口者だったために、文科省指導に基づいた教科書に準拠して機械的に発せられる教師の問いに「正しく答えられ、そう反応するのが社会的に正しい理屈と感情だと思われている言葉遣いで評論できる自分」に対して抱いてきた自尊心をこそ一度全部捨てないと、霊学研究へは進めないと感じられるようになっておかないといけません。
通俗的で唯物論的な感情で、神話や伝説、もっと言えば新旧の聖書に接し、それを解釈している自分の頭のなかに湧き出てくる「近代人的なモラル感覚」が、古代人の神話世界の意識を推し測り解釈する道具(メジャー)となっていることを反省できないのは、まさに近代人が何か形而上の問題についてのコメントを「世間用に公言する」時に、建前上「近代人とって馬鹿みたいに聞こえるようなこと」は言わないでおこうという世間の空気(暗黙のお約束事)に従って、この論理に乗っかって発言すれば、安全で突っ込まれる心配がないと「互いに思いあっている」ところの「唯物論OS」上で発言することしかできなくなっている自分自身を「意識化」できないからです。それは近代人にとって、壮大なる、英語で言うところの「 There is an elephant in the room」現象です。自分の認識力の変容のためやっているのか、単に「それをタネに商売しているだけ」なのか、立場のはっきりしない書き手もたくさんいるのが、「この胡散臭い世界」の実情ですしね。
霊学に対して、このような意識的な感情をもって臨むことは、いわば畑に種を蒔く前に十分に準備をすることと同じです。まかれた種がよりよく育つためには、「畑の状態」を意識して、それを正しく耕しておかなければなりません。
前置きが長くなりました。excelを使って地球紀の進化にまつわるあれやこれをまとめてみましたということが実は今回の投稿テーマでした。参考にしてください。
そのうえで『黙示録の秘密』を読み直してみるなり、あるいは取り寄せてトライしてみるといいと思います。以下、図版をクリックすれば、とりあえず判読できる図が現れます。
7つに分けられた区分の上段は7つの惑星進化紀に使うことのできる一般的な用語です。下段は「地球紀専用の用語」になります。
ちなみに、シュタイナーによると、黙示録に登場する666のは「人類の進化の数」を表すということです。「進化の数」とは、人類がすでに通過したカテゴリーを上位カテゴリーから順番に並べたものです。(ただしABCの上位の三つ組みで表される数ではないのでご注意ください。)
掲げた表で説明すれば惑星状態C、根源人種D、民族文化期Eを、前から順番に並べたものなのです。現時点で人類はC4、D5、E5地点におりますから、すでに通り過ぎたカテゴリーは順番にC3、D4、E4となります。したがって「現在の人類の進化の数」は344になります。
したがって黙示録でいう666の時代とはC6、D6、E6のカテゴリーを卒業した時点での話なのだということです。その時代とはC7D7E7地点、つまり人類が、第7形態状態期の第七根源人種期の第七亜人種(民族文化)期に到達した時に起こる出来事が描写されているのだということです。まだまだ途方もなく遠い未来に起きる出来事なのです。
666=ネロとかヒトラー、あるいは今後出現することを期待されている大悪党キャラ出現とかの都市伝説系の「わかりやすい話」ではないんですよ、黙示録が描いている世界というのは。
ヨハネ存命当時にあってさえ最高の秘儀に到達している者でなければ「何を言っているのか分からないシロモノ」であった黙示録という「秘儀参入体験の一連の描写」の意味が、こうしてようやくシュタイナーによって公開されたとは言っても、実際に翻訳本に当たって、それをちゃんと読み解いてみようと試みている日本人は多くないと思います。邦訳本がどのくらいの部数日本で売れたのか分かりませんが、購入した人のうち、しっかりと読み解いて自分の中に明確な全体像を作り上げて保持できている人はさらに少数だと思います。
さて、地球は7つの惑星意識、7つの惑星生命状態、7つの惑星形態状態、7つの根源人種、7つの民族文化(亜人種)期の組み合わせて進化していくという話でした。
7×7×7×7×7、つまり7の5乗です。
組み合わせの数は16807通りです。
シュタイナーは太陽が黄道を一周する宇宙年(25920年)を12等分して一文化期の長さとしています。25920年÷12=2160年です。現在の地球は魚座時代(1413年~3573年)の途中ということです。3573-2022=1551、これに次の第六文化期の水瓶座時代の2160年と第七文化期の山羊座時代の2160年を足すと5871年になります。
いまから5871年たつと、黙示録にいうところの「万人の万人に対する戦いの時代」、つまりアトランティス時代の末期がそうであったように地球の地表が再び大変動する時代になります。
現在のA4B4C4時代(表でご確認ください)の下位カテゴリー、つまり地球紀の物質状態時代C4の下位カテゴリーD区分のみを取り出して並べてみると、そのD領域内の根源人種については、
1ポラール時代 2ヒュペルボレアス時代 3レムリア時代 4アトランティス時代 5ユーラシア時代 6第六根源人種時代 7第七根源人種時代
となりますが、1の地球が気体状だったとさえ言えない時代から、2気体状、3液体状とだんだん地球が硬化していき、現在の地球の地表こそが、もっとも歴史的に硬化している時代になっているというイメージを持ってください。そして今後地球はまただんだんと軟化していくのです。
シュタイナーが現在の地球硬化時代に2160年の周期を当てはめているにしても、時代を遡るにつれ地球の状態は異なっていますし、ポラール時代にいたっては、固い物質地球が宇宙に浮かんでいたのではないですから、地球と太陽と月の物理的運動と位置関係で一年の長さや一日の長さがイメージ化されて使われている今日的感性をそのまま適用することはできません。時間感覚についてはアトランティス時代でもレムリア時代でも現在の地球と同じようには扱えないというふうに考えるべきでしょう。
とはいえ、今日使っている「時間感覚」で数えれば、現在の5大陸上で営まれている人類の生活は5871年後には変容するということです。周期が変容するごとにレムリアが沈み、アトランティスが浮上し、またアトランティスが沈み、ユーラシアが浮上したように、未来は現在のユーラシアや他の地上の大陸群が別のもの(質も異なっている)と交代すると予想できます。これまで硬化の道を進んできた地球という惑星が今後は反転して、軟化の道を歩むとすれば、現在の時間センスをそのまま適用できなくなるのではないかということも予想されます。地球紀の地球が現在の鉱物界ー物質状態を卒業するまでには、まだまだ途方もない時間が費やされるということも確かです。
木星紀にいたるにはどれほど時間を要するのか、すでに感受能力の範囲を越えています。とはいえ、現在の人類が、いまの魚座時代、水瓶座時代、山羊座時代を終了し、大陸大変動時代に達するのに5871年。それから一段上に上がって第六根源人種の7つの文化期を2160年×7=15120年、第7根源人種の7つの文化期で15120年、5871年+15120年+15120年=36111年。
このようにして3万6千年たつと、ようやく人類はさらにもう一段階上位カテゴリーで移動して、鉱物界カテゴリー内のアストラル状態の地球で生きることになります(表でご確認ください)。
再度言いますが、これらの未来へいたる時間を「今の感覚」で測れるのかという疑問はたえず付きまといますので、実際には物質地球の存在する世界感覚の産物たる、2160年という時間の長さから今の人類が受け取る時間感覚を倍数化して、そのまま時間感覚化できるわけもないだろうと思われます。実際以下のようなシュタイナーの発言があります。「第六根源人種の中頃、その三分の二が過ぎたころ、もはや物質的身体はなくなります。人間はふたたびエーテル的になることでしょう」(『人智学から見た家庭の医学』)
地球が軟化していくというのは、エーテル化アストラル化していくということでもありますから、人類も「軟化」の道をたどっていくのです。
ちなみに現在の地球に適用されている2160年の幅にしてもシュタイナーが便宜的に分けたものでしょうから、現実はかちっと区分されているというわけでもないことも付言しておきます。
現在の「地球時間感覚」で7の5乗進化の長さを測っても、次の木星紀にいたるためだけでも途方もない忍耐が人類に要求されているということになります。
秘教学徒たるもの、「最後に生き残るのは私感覚をになう霊」であって、現在私自身だと勘違いさせられているところの、輪廻のたびに気質と性別を変えていくアストラル魂に担われたものでも、ましてやそれを入れている地上の肉体でもないということも、あわせていつも意識して過ごしたいものです。
以下、「一般民衆の霊界参入能力の変遷」
古代人は実際に日常と霊界とを、ともに生きていました。近代公教育の学校の先生たちから聞いたように、古代人が、自然界には、神々、精霊がいると空想した結果が、いまに伝わる宗教感覚になった・・・・・というわけではありません。それは百科事典的な当たり障りのないような説明です。そのような説明を読むと「当たり障りがない説明で実に穏当だ」と近代人は感じます。
学問の場に供される近代式の印刷された辞典や便覧はまさに唯物論的思考の集大成です。近代の宗教学者、社会学者たちは、彼らが古代人の「空想」とみなしたものを、科学的思考態度に則って、つまり唯物論的手法によって「アニミズム」と命名しました。科学の論理作法による用語ですから、彼らは彼岸的世界の実在についてはあえて言及することは慎重に避けて「遠巻きに眺めるだけ」で、触れないで済むように論文上ではそっとしておきます。
「愛したり憎んだり悲しんだりと、生活感情のうえで、我々と基本的に変わることのなかったはずの古代人たち」が、なぜそのように考えるようになったのだろうと、古代人の「心理分析」の結果として、そう命名したのです。このように近代の論理思考は、土台がゆるぎなき唯物論によって「演繹化された出発点」を持っていますので、前提を疑うことがないのです。
秘教を学ぼうとする者は、「学者の名」によって語られる「アカデミック」な解説に耳を傾けるときは、そういう学者事情も理解したうえで、彼らの学術書と付き合っていくことが大事でしょう。 -
「〇〇が陰謀をたくらんで人類を支配しようとしている」というトンデモ話を扱う領域を陰謀論と呼んでいます。誰かが馬鹿げた話をネットに持ち込むと、必ずそれを陰謀論という独特な用語で否定する集団も同時に出現します。ソッチ系の界隈ではフリーメーソンとかイルミナティとか大人気コンテンツのひとつですよね。しかも「本家」が媒体握って、適宜、情報頒布活動に関与しているとなれば、情報の出し役と受け取り頒布役が、たといそのプレーヤー同士が人脈的に無関係であったとしても、とどのつまり源はおんなじじゃん、という笑えない話に帰着します。近代は「そんな話ばかりで実は出来上がっている」ことも多いって話ですよね。攻撃側から「それは陰謀論だ」と言われたら「陰謀なんてない。それは事実ではない作り話だ」と言っているのと同じことですが、銀魂の神楽の焼きそばエピソードのように「ウソつくんじゃねーよ」とストレートに言わずに、英国人のように「それは陰謀論ですね」と遠まわしに言うところが、そのそぶりに対して、にやっと笑いたくなるところではあります。一昔前の英語圏アカデミーの権威筋から発せられていた「歴史修正主義者(リビジョニスト)」という呼称による、遠まわしな表現による、「視点選択の無力化活動(ある視点の、解釈選択肢からの削除運動)」も似たような源泉から出てきたものでしょう。本物の花の周りを無数の造花で飾ると、もはや人は「生きている花」をその中から選び出すことができません。目の前に咲いている花が一株だけだったなら、私たちは「探すための苦労」することもなく、近づいて手で触り、すぐにそれが本物の花だということを自力で確認できます。しかし1ヘクタールを埋め尽くす、一見植物にみえるようにしつらえられたさまざまな造花のなかに隠された本物の花を遠くから眺めて、つまり学校教育やマスメディア経由で見せられて、「どれが本物なのか」を指摘することは、特別の透視力など持たない私たちには、ほぼ不可能でしょう。近年の高校の英語の教科書に、ジャムの詰め合わせ商品の購買傾向についての記事が出ていましたが、このリサーチ報告は要するに「消費者はパッケージに盛り込まれた選択肢の数がある水準を超えると、選ぶこと、つまり判断し決断することができなくなり、結局は、よりシンプルな品数の詰め合わせセットを選んでしまう」ということでした。膨大な情報に脳が圧倒されて痺れさせられている時代には、人々は「分かりやすさ」、つまりそれは「受け入れやすさ」と同義ですが、それこそを選択の基準にしているということです。それが今日の時代です。要するに、ことわざとして昔からよく耳にしてきた「木を隠すなら森の中作戦」は「情報の秘匿方法」として、今日でも大変有効に機能しているということですね。さて、近代の民主化運動とフリーメーソンの関係について、シュタイナーは『神殿伝説と黄金伝説』にて以下のような発言をしています。-----------------------------------------------------------すでに述べたように、近代フリーメーソンはイギリスにおいて、もちろんそれまでの伝統をふまえた上で、18世紀初頭にはじめて設立されました。以来、大英帝国内ではなく、イギリス王国内でのフリーメーソンは、非常に尊敬すべき在り方を続けてきました。けれども、他の多くの地域でのフリーメーソンは、主として、またもっぱら、政治的な利害打算の中だけで動いているのです。そのような政治的な利害打算をもっとも顕著にあらわしているのは、フランスの大東社(グラントリアン)ですが、フランス以外の大東社にもこのことは多かれ少なかれ当てはまります。イギリス人は言うかもしれません。「他の諸国において、オカルト的な背景をもつフリーメーソン結社が政治的な傾向をもっているからといって、われわれに何のかかわりがあるというのか」。しかしさまざまな事実を相互に関連づけてみると、パリにおける最初の大東社ロッジは、フランス人ではなく、イギリス人の手によって創設され、イギリス人がフランス人をそこへ加入させたのだ、ということがわかります。それは1725年のことでした。1729年には、この大東社の承認の下に、最初のロッジの一つが同じくパリに創られました。次いで、同じくイギリス人の手で、1729年ジブラルタルに、1728年マドリッドに、1736年リスボンに、1735年フィレンツェに、1731年モスクワに、1726年ストックホルムに、1735年ジュネーブに、1739年ローザンヌに、1737年ハンブルクに創られました。こう述べていくと、きりがなくなります。私が言いたいのは、たとえイギリス王国の場合とは違った性格をもっているとしても、イギリス人による同じネットワークの一環として、これらのロッジが創られ、特定のオカルト的=政治的な衝動のための外的な道具にされている、ということです。もしもこの政治的衝動の深い根拠を問おうとするのなら、近世史をもう少し広く展望する必要があります。この衝動は17世紀以来----すでに16世紀から----準備されて、民主化運動となって普及していきました。ある国ではより速く、別の国ではよりゆっくりと、少数の者の手から権力が取り上げられ、大衆の手に委ねられるようになりました。私は政治的な立場から申し上げているのではありません。ですから、民主主義を擁護するつもりで語っているのでもありません。ただ事実だけを取り上げるなら、この民主化の衝動は、近世史を通じて、加速度的に、テンポを速めて普及していきました。けれどもその際、もうひとつの流れも、それと一緒に形成されたのです。複数の流れが現れているときに、その中の一つだけを取り上げて考察すると、判断を誤ってしまいます。ひとつの流れが世界中に広がっていくとき、常にもう一方の流れがあって、はじめの流れを補完しているのです。歴史の上に緑の流れと赤い流れとが並んで存在するとき、人びとは通常、その一方の流れだけを見るように、暗示にかけられているのです。にわとりの口ばしで地面を引けば、そのにわとりは線に沿って歩きます。そのように人びとは、特に大学の歴史研究者は、一方の側だけに寄り添って歩いて、歴史の歩み全体を洞察する余裕を失っているのです。民主化の流れの背後に、さまざまな結社の、特にフリーメーソン結社の、オカルト的な力を利用しようとする流れが見え隠れしているのです。オカルト的な力を利用しようとする動機は決して精神的であるとは言えないのに、一見精神的なふりをしている貴族主義が、フランス革命で大きな役割を演じたあの民主主義と、手に手をとって発展してきたのです。ロッジの貴族主義がひそかに出現したのです。私たちが現代人にふさわしく、社会に参加し、社会の仕組みに通じたいと思うのなら、民主主義の進歩についてのきまり文句に目を眩まされてはなりません。ロッジの儀礼とその暗示的な力とによって、支配力を少数者だけのものにしておこうとする働きに、眼をしっかりと向けなければなりません。西洋近代の世界は、ロッジの支配力から解放されたことが一度もなかったのです。常にロッジの影響が強力に作用していました。人びとの考え方を一定の方向へ向けるにはどうしたらいいのか、ロッジの人びとはよく心得ています。今日はそのようなロッジのネットワークの一つひとつの結び目のことを述べたにすぎませんでしたが、このようなネットワークはすでに出来上がっています。ですから、自分の好む方向へ社会をもっていこうと思ったら、ただテーブルのボタンを押しさえいいような体制が出来上がっているのです。[1917年1月8日の講義より](P428-P430)-----------------------------------------------------------ご紹介した発言の中で、イギリス本国のフリーメーソン人は世俗的ではないが、「あるイギリス人」がイギリス国外に出て行って次々に設立したフリーメーソンは「たちが悪い」と語っていますね。「旅の恥はかき捨て」という日本のことわざのように、次々と海外に植民地をこさえて独立国家を作り、国家の法のなかに人種差別条項を設けて「法の下における人種差別政策」を行ってきた国々はすべて「海外に出ていったイギリス人の子孫たち」によって作られた英語圏国家だった事実とつき合わせて歴史を眺め直してみると、その行状は「海外に出て行った、イギリス人の作ったフリーメーソン思想」とも呼応し合っています。シュタイナー発言の中から私が気になった個所を箇条書きにしてみます。①フリーメーソンは、主として、またもっぱら、政治的な利害打算の中だけで動いている。②ロッジの構成員たちの本来の目的は貴族主義(貴族統治)だが、彼らはそれを民主化運動のなかで実現させるべく暗躍してきた。③西洋近代の世界は、ロッジの支配力から解放されたことが一度もなかった。④彼らの好む方向へ社会をもっていこうと思ったら、ただテーブルのボタンを押しさえいいような体制が出来上がっている。このシュタイナーのフリーメーソン批判は、約100年前になされたものですが、今日でも状況は同じでしょう。世界的事件の数々は、実際には、緑の流れと赤い流れの「二つの流れ」が相合わさって形成されてきたのに、近代の一般の人々は幻惑されて、緑の流れだけを見せられて、「これが歴史なのだ」と考えるように誘導されてきたのだとシュタイナーは言っているのです。近代人は、学校制度というシステムのなかで「彼らが望むとおりに思考する」と評定Aプラスがもらえるので、この筆記試験の結果が形成することになる、それまでの「生まれや身分の違い」による選別方法に代わる「新たな選別方法による階級社会」の中にいやおうなく投げ込まれて、教育現場において、遠まわしに絶えずくすぐられ続ける自尊心や恐怖心から生まれる利己主義を「彼らに利用されてきた」のです。
そのような反復訓練を施されて、社会に出て行って一定の社会人的経済人的地位を得ます。彼らは「自分たちは有能で、確かな地盤に立って生きている」と感じています。利口ではあるけれど、競走馬のブリンカー(遮眼革)ように視野を狭める器具を装着されて、洞察力を奪われて生きている近代人、「誰かにしつけられた思考方法」を演繹的に用いながら、思考生活の上で受動的に生きてきたのが、近代人の「現在の立ち位置」なのです。フリーメーソンは彼らの計画を実行に移す前に必ず予告を行うとシュタイナーは言っています。-----------------------------------------------------------ヨーロッパには今日、なにごとも短絡的に考えようとする人々がいます。世界大戦の勃発を、フランツ・フェルディナンド皇太子の暗殺に関連させて考える人々がいます。それが間違いだ、と言っているのではありません。1914年6月起こった暗殺事件に遡って説明することはできます。しかし、1913年1月の西欧の新聞(パリ・ミディ)に、「ヨーロッパ人の安泰のために、フランツ・フェルディナンドが暗殺されるべきだ」という記事が載っていたことを強調す人々もいるでしょう。実際の暗殺事件まで遡ることもできるし、1913年1月の新聞に「彼は暗殺されるべきだ」と書かれていたことに遡ることもできます。おそらく真相は明らかにならない、平和な時代の最後に起こったジョレス暗殺に遡ることもできます。また、1913年にくだんの新聞に「ヨーロッパにおける状況が戦争へと突き進むとしたら、ジョレスが最初に殺される人物だろう」と書かれていること遡ることもできます。40フランで売っているオカルト・アルマナックを見てみましょう。1913年のアルマナック、つまり、すでに1912年に印刷されたアルマナックに、「オーストリアでは、統治者になるだろうと人々が思っている人物ではなく、老皇帝ののちに統治するとは思われていない若い男が統治するだろう」と書かれています。1912年の秋に印刷された、「1913年のアルマナック」です。1913年に印刷された「1914年のアルマナック」に、同じ指摘が繰り返されています。1913年には、暗殺計画が失敗したからです。
ものごとを明瞭に見通せば、外的な現実のなかで生じることと、秘密裡に企まれることとが関連しているのが明らかになるでしょう。おおやけの生活からあれこれのオカルト結社に連なる糸が認識されるでしょう。「密儀の真理については沈黙しなければならない」と今も主張する結社がいかに愚かかも、認識されるでしょう。オカルト的な源泉を専有しようとするフリーメーソンの古参会員であっても、子供っぽく無邪気なことがあります。とはいえ、彼らは人々が闇のなかにいることを欲します。(『職業の未来とカルマ』P194-P196)-----------------------------------------------------------彼らは、新聞や町の売店で安価で手に入る予言カレンダー(オカルト・アルマナック)などで、「これから彼らが引き起こすことを告知する」のです。今日でも世界情勢予測や経済予測、そして占い系のコンテンツは大繁盛していますが、印刷出版業が大発展を遂げていた当時もそうだったのです。フリーメーソンは、雑誌『ムー』だったり、今だとYouTubeの都市伝説系コンテンツでもよく取り上げられているネタです。そして彼らと関連させて言及されるのが、いわゆる「イルミナティ・カード」とかイギリスの経済雑誌『エコノミスト』の表紙です。何か大きな事件があるたんびに、「予言が当たった」と言って、そういう話題を扱う媒体が面白可笑しく取り上げて騒ぎますけど、言ってみれば、そういうコンテンツで商売をしている人々は、「自覚なき彼らの手駒たち」として利用されているわけですね。100年前にヨーロッパで活動していたシュタイナーの残した文書を読むと、実は「そういうやり方」つまり「あらかじめ予告してから実行する」という演劇的振舞い方というのは、フリーメーソンがずっと大昔から持っていた、一種の「子供っぽさ」の表れなのだということが分かります。シュタイナーによれば、「書かれたことが現実になる」ように暗躍する人々は実在するということになりますが、これをDSと言う風に今日的な言葉に言い換えても、たいした違いはないでしょう。今日の日本の独特な表現で言い直すと、彼らは「そのやり方」において「中2病っぽい」のです。そのような儀式的演劇的なふるまいを彼らは「伝統」として今日も引き続き継承して、行使し続けているのだということが分かります。たとえば「名探偵コナン」の登場人物の怪盗キッドは「誰がいつ何を奪いに来るか」を警察組織に分かるように伝えますが、フリーメーソンは彼らの計画を市井に出回る媒体に「堂々と」ではなく、「そっと」忍ばせてから、実行に移します。しかも「誰が」の部分は決して公開しません。そもそもオカルト組織ですから、そうすることは言霊(一種の魔術的作用力)を発動させるための、彼らにとって欠かすべからざる儀式的手続きになっているのでしょう。今で言ったら「引き寄せ効果」を期待しての振舞いなのかもしれません。昔結社の指導者たちに「いいか、同志諸君、欲しいものは皆の前で声に出して言え」とでも教えられたのでしょうか。しかし実際には彼らは「分かりにくい場所で、小声でこそこそとつぶやいているだけ」でした。けれども彼らの「その小さな仕掛け」こそが、彼らの「中2病マインド」をメラメラと燃え立たせ、彼らの貴族共同体的な仲間意識と自尊心を満足させる行為となっているのです。フリーメーソンが「唯物論の普及活動を行っている」ことについて、シュタイナーはこんなことを言っています。-----------------------------------------------------------オカルト同胞団は、生活の本当の法則に関連するものについて人々の知識を曖昧なままにしておこうとします。そのような人々の下で、オカルト同胞団は最も活動しやすいからです。自分が本当はどのように現代に生きているかを人々が知りはじめたら、もはやオカルト同胞団は活動できません。秘密を漏らさず、どさくさまぎれに利を得ようとする者たちにとって、本当の知識が広まるのは危険なのです。彼らは自分たちの望みどおりに人々を社会のなかで生活させるために、秘教を用いようとします。今日、オカルト同胞団のなかに、「私たちの周囲のいたるところに霊的な力が存在し、正者と死者のあいだに絆が存在する」と確信している会員たちがいます。彼らがオカルト同胞団なかで語っているのは、精神世界の法則にほかなりません。それは、いま公開されるべきものであり、私たちの精神科学が有するものです。彼らは、先祖返り的な伝統から受け継いだものを語っています。しかし、彼らはその知に反対するようにふるまって、「それは中世的な迷信だ」と、新聞に書きます。秘密結社のなかで受け継がれた霊的な教えを大事にしている人々が、マスコミでは正反対にふるまって、「中世的な迷信・神秘主義だ」と評するのです。彼らは、その教えを人に漏らさず、他人を愚かなままにしておくのがよい、と思っているからです。どんな原則によって人間が導かれているのか、人々を無知のままにしておきたいのです。オカルト同胞団のなかには、世界をよく見て、「密儀の内容を今日おおやけに人々に伝えるのは不可能だ」と語る会員たちがいます。人々を五里霧中のままにしておくには、いろいろな方法があります。本当の精神科学は、精神世界への鍵となる理念を私たちに伝えます。しかし、自然科学的な世界観によって悟性を浅薄にされていない人々をも騙せる概念があるのです。一定の方法で概念を形成できるのです。今日、おおやけの概念がどのように形成されるかを多くの人が知ったら、本当の精神科学への衝動を感じるでしょう。(『職業の未来とカルマ』)-----------------------------------------------------------シュタイナーによると、近代フリーメーソンの淵源は13世紀にまでさかのぼることができるそうです。エジプトの秘儀以来のさまざまな国家、地域の秘儀の象徴を寄せ集めて保存しています。思想の上で、最大の影響力を持っているのが旧約聖書の秘教部分、つまりユダヤ教のカバラ思想です。しかしもはや彼らは自分たちが秘匿している秘密を正しく理解していません。フリーメーソン思想はユダヤ教ではないのですが、ユダヤの秘教部分とつながりがあるのです。18世紀末になると、フリーメーソンの一部にイエズス会が浸透しました。これがいわゆるイルミナティ部門なのでしょう。イエズス会思想の土台もまた秘教、オカルト思想に根差しています。多分に物質主義的なイメージ、人類を地上から解き放つ(人類の霊界回帰、人類の天使化ではなく)、「イエスに地上の王になってもらって永遠に統治してもらおう」という、本来のキリスト教が持っていた「上への衝動」とは真逆の「地上統治への強い愛着感情」をもとに活動してきた組織なのです。人類の貴族統治を目指しているフリーメーソンとも相性のいい「キリスト教思想」なのでしょう。イエズス会がスペイン・ポルトガルの海外侵略に手を貸した理由も太陽霊キリストではなく、地上の王イエスによる人類統治という目標があればこそだったのでしょう。キリスト会ではなくイエズス会、つまりイエス会という呼称を使っていたのは偶然ではないのです。それはイエス教のイエス会だったのですから。
『社会の未来』においてルドルフ・シュタイナーは「企業集団は真の目的を隠して、蓄積された大資本で巨大な権力を手に入れ、民衆を支配しようとしていたのです。」と語っています。私たちは「資本主義は利益の最大化を目指す」と習いました。けれど「なんのためにそうするのか」は教科書には書いていません。富を増やすことが「最終目的」だと言います。しかしシュリーマンが大金を得るために企業を立ち上げて大成功し、莫大な資金を得たのは、「より多くの富の獲得」が目的だったからではなく、「手段」だったことは有名な話です。シュリーマンは「手に入れた資本」をトロイ発掘の「手段」にしたのです。近代は「紙幣の支配権を手にすること」こそが「人類統治のための手段」になったのでした。「彼ら」はお金が欲しいのではなく、お金を使って達成できることを追求してきただけなのですが、一般庶民は相変わらず、所得の不均衡には声を上げても、自分たちの唯物論化した思考態度を改めようとはしていません。庶民が「金の話ばかりしているだけ」なら、唯物論の宣布人フリーメーソンには安泰なのです。それは引き続き人類を幻影の中に置いてコントロールできるということなのですから。今日精力的に世界の企業を傘下に収めてきた人々は「神などいない。この世は偶然ビッグバンで生じ、たびかさなる偶然の連鎖の結果、猿から人間が生じた」と近代科学思想で武装した科学者たちに広宣させながら、「そうだ、お前たち民衆に神など必要ない。お前たちに我らの神は必要ない。だから我らの神をお前たちの眼の前から隠しておくのだ。その神は我らの神であって、お前たちの神ではないからだ」と思っています。ほんとに彼らは「一休さんの水あめ和尚さん」そっくりの、「大ウソつき」なんですよ。