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YouTubeにはChillhop Musicという音楽専門チャンネルがあるんですよ。
ちょっと前に「動画に使われる絵に日本趣味が入っている上質の音楽チャンネル」として日本のポータルサイトにも記事が紹介されたことがあるので、「ああ、その記事、見たよ」という方もいらっしゃるかもしれません。
絵の特定部分が変化するので、「妖怪ウォッチ」のジバニャンなら、大喜びしそうな「静止画」が特徴です。
Chillhop Musicでは、いろんなアーティストの楽曲を集約して1時間前後のコンテンツに編集して公開しています。
音楽系と言っても、こういうチャンネルの場合、流し聴き的な接し方にどうしてもなりがちで、私も基本ずっとそういう聴き方になってしまってました(集められてる楽曲自体は上質だと思います)。
しかし最近、いつものように「ながら作業」(読書)している最中に「!!!!!」と「注意力が奪われる瞬間」がありました。
私が「!」感覚になったのが、この動画の4曲目、Asoの「Ur OK」。
なんかソファーに深く座って、ゆっくりと息を吐き出させるような呼吸にさせてしまうような、「不思議なゆるさ」を醸し出す効果を持っている、魔術力のある1曲ですよ。
あんまりにも気に入ってしまったので、1曲単体の動画はないのかYouTube上で探したらありました。
ということで、いたく気に入ってしまったので、ここ数日はこの曲ばかりヘビーローテーションで聴きながら読書してたりします。基本、フレーズの繰り返しですが、前回の記事で紹介したような、ウィリアム・アッカーマンのタタタ系(私の造語です)の曲(synopsis)のような、後頭部(後脳?)に響く、「脱魂化」を促すようなタイプの曲とは、また異なってますよねえ。
むしろガットギターの音色から、最初に連想したのはゴンチチの「水筒をさげて」という曲でした。
それから、ハッピーエンドの「あの名曲」。ゆるさの極北「夏なんです」。
watch on YouTubeリンクをクリックしてお聴きください。
細野晴臣のボーカル入りの曲ですけど、ほんと「ゆるく」ていいですよねえ。
そして最後に連想したのがNujabesの「Aruarian Dance」のダウンテンポバージョンです。
この曲はマングローブの作品「サムライチャンプルー」で使われたオリジナルバージョンを遅いテンポに改変したものですが、本来のテンポはかなり速くて(関心のある方は探して聴き比べてみてください)、それだと、「ゆるい気持ち」を喚起しないので、「この改変はアリ」だと個人的には思うんですよ。皆さんはどうでしょか?nujabesの曲は叙情的なものが多いです。「Spiritual State」所収の「Island」はお気に入りの1曲ですが、今回のテーマとはカテゴリー違いのような感じがします。
「Island」ほどじゃないですが、「Aruarian Dance」にも感情を喚起する要素があるので、今回大プッシュしているAsoの「Ur OK」の「感情脳ではなく身体(呼吸)に訴求する力」があるのではないかと思われるタイプの曲とは、またちょっとタイプが違ってますかね。
まあ、音楽に反応する内部センサーの調整具合は人それぞれなので、「なにその、ゆるさがいいとか、全然わかんねー」とおっしゃる方もいらっしゃるとは思いますが、「あ、その感覚わかるわー」とおっしゃることのできる系の音楽ファンの方には、Asoの「Ur OK」はかなりお気に入りの楽曲になるんじゃないかと思います。
読書しながらヘビーローテーションで聴いてみてください。PR -
最近聴いている音楽は、あいかわらずシュシュだったりはするんですが、今日は特にcomaをヘビーローテーションで聴いてました。なんか瞑想的な気分になるんですよ。以前紹介したアルバムを全部流しながら寝てしまうとか、今でもよくしてますねえ。
瞑想的と言えば、これはもうだいぶ前からYouTubeで出会って、「気になる人入り」しているミュージシャンがいて、その人が表題のウィリアム・バシンスキです。
ミニマリズムというんですか、同じフレーズをずっと繰り返すアレです。
「ミニマリズム」でウィキペディア検索したら、ミニマル・ミュージックという言葉もあるようですけど、なんかこれだとポップ感全面押しな感じで違和感あります。
でもスティーブ・ライヒとかそういうタタタタが連続するような音列構成によるミニマリズムじゃないんですよ、私が気に入ってるウィリアム・バシンスキの曲って。
タタタ系って、ずっと聴いてると脱魂化しそうです。アコースティック・ギターだと、ウィリアム・アッカーマンの「synopsis」って曲がありましたけど、これも好きでしたねえ。大昔、この曲をリピート再生して聴いてました。ウィリアム・アッカーマンって普段はこんな曲あんまり作品として出さない叙情派っぽい人なんですけどねえ。
William Ackerman Synopsis([PAST LIGHT」所収)
このblogページ上では動画が見られない形式になっているようなので、画面内の「watch on YouTube」リンクをクリックして聴いてください。
ということで、ウィリアム・バシンスキの場合は、むしろアンビエント系ということで紹介したほうがよいのかもしれません。
ということでまずはこれが私が最初にYouTubeで出会った曲です。
William Basinski Watermusic Ⅱ
もうひとつ水に関する曲
William Basinski cascade
カスケードって辞書的には「滝」って出てきますが、イメージ的には垂直落下系のやつじゃなくて、傾斜の緩いタイプの、階段状になったタイプのやつだそうです。
YouTubeにはほかにもたくさん動画が上がってますが、今回上げた二つは重苦しいという印象はないですけど、ほかの作品はかなり重苦しいのばっかりです。でもそれはそれでいいですよ。
William Basinski - The Disintegration Loops (full album)
5時間53分38秒という非常識な長さのアルバムだというのがびっくりです。最初に登場してくる曲は、ずっと聴いているとそのうちに繰り返しがだんだん崩壊(Disintegration)していきます。アップロード(あるいはダウンロード)ミスじゃなくて意図的に故障的な音像を作っているようです。そこまで聴き続ける根気のある人はトライしてみてください。
ウィリアム・バシンスキは、日本のリスナーには一般になじみがない人物だと思われますが、「日本の普通の音楽」では歯ごたえがないと感じる向きにはおすすめです。米国人がYouTubeのおかげで日本の80年代の音楽に遭遇してハマったように、日本人もまたいろいろと「日本にない音楽に遭遇できる」ようになったことはありがいたいですね。
ライブ風景の動画もあったので最後に置いときます。
アルバムのデザインとかライブでバックで流している映像を見ると、滝というより「さざ波」っていう印象を受けますね。辞書検索してみるといろいろ書いてありました。これによると、どうやら「次々と継起するもの」ってのがcascadeって言葉が本来内包しているイメージなんでしょうね。 -
大昔、エドガー・ケイシーのリーディングを管理している米国のバージニアビーチに本部があるA.R.Eが1万4千件に及ぶリーディングの内容をCD全集として販売したことがあった。値段は日本円で15万円ほどだったと記憶している。
欲しかったけれど、高すぎて初めから買う気は失せていた。
日本には米国のA.R.Eと提携している日本エドガー・ケイシー・センターが設立されていたので、金を支払えばA4判のコピーを取り寄せることが可能だった。
そこで私は、五千円払って、第二次世界大戦の勃発を扱っているID Number 3976 World Affairs Readingsを取り寄せてみた。
すると厚みが1センチくらいになるコピーが届いた。これは二つに分けてバインダーに閉じ、今でも大事に取ってある。
エドガー・ケイシーにしろルドルフ・シュタイナーにしろ、都市伝説・陰謀論系コンテンツでの扱われ方は予言者扱いしかされないうえに、「そんなこと言ってねえだろ」とツッコミを入れたくなるようなひどいまとめ方をされているが、トム・ソーヤーの壁塗り商法の氾濫するYouTubeにいちいちキレても仕方がない。
エドガー・ケイシーは、エジプトのギザのピラミッドの建設者としての前世があることはケイシーファンには周知の事実だが、その詳細を都市伝説家たちが取り上げることはない。
もっと言えば、ケイシーは死の近づいた晩年に自分がルカ福音書作者だったことをリーディングで告げられる。「なぜもっと早く教えてくれなかったのか」と関係者にリーディング時に尋ねさせると「それを知って思いあがりが生じることを避けるためだった」と答えたという逸話が残っている。
アトランティス時代には人間が使役する動物人間のような存在がいたことや巨人がいた話とか、イエス・キリスト出現前後のエッセネ派関連リーディング。ここではのちに発見される死海写本の存在を暗示しているなどなど、なかなか読み物としても面白いリーディングが目白押しだが、こういう話をじっくり研究してYouTubeでコンテンツ化できてる都市伝説系関係者はいまのところいないようだ。
最近、そういう話が載っている(手元から失われていた)エジプトやアトランティス関連の翻訳本を買い直そうと思って、ヤフオクとかメルカリを物色していたら、メルカリで以下のような出物を見つけた。9700円の値が付いていた。もともとの価格は119ドルと裏表紙に書いてあった。
これは大昔CD全集という分量のかさばる高額な商品だったものが、2010年に至ってDVD1枚にリーディング情報を収めて、新たな商品として売り出されたものだった。そんなことになっているとはまったく知らないで12年も過ごしてきたのだった。
結局私は長い間待たされてCD全集の15分の1の値段で「すべてのリーディング情報」を手元に置くことがやっとできたわけである。
このような商品が出ていたことに驚いて、改めて調べてみたが、日本のアマゾンにはそもそもこの商品のページが存在しなかった。メルカリの出品者は参考ページとしてインドのアマゾンのリンクを張っていたが、米国のamazon.comで調べて見ると、ここにもちゃんと商品ページが存在しているじゃないか(ただし売り切れ状態、値段も若干上がっている)。
2010年というのはwindows7が当時の最新OSだった時代で、2000、XP、Vistaも含め、商品自体はそれらOS上で動作する検索ソフトDVDを添えて二枚組で構成されていた(もちろんmacにも対応している)。
商品が届くとさっそく検索ソフトを導入してみた。導入したのはwindows10だがちゃんと動いてくれた。しかしものすごく使いにくいと感じた。今のところイジり倒しているという状況ではないので、あれこれやっていくうちに慣れてくるのかもしれないが、そもそもTEXTとしてDVDに収納されているのだから、DVDを開いて直接取り出せるんじゃないかと思って、DVDを開いてみたら、ちゃんと取り出せることが分かった。
いざとなったら、これをA4紙に印刷すればいいやと今は思っているところです。 -
ルドルフ・シュタイナーの著作は日本では大量に翻訳本が出ていますので、ドイツ語が分からない人々にとって日本は、本気でオカルト学(秘教)に挑みたい人にとっては、たいへんよい環境が整っていると思います。
彼の情報によると、さかのぼること1万年以上前までのアトランティス時代の人類は、みな今で言うところの秘儀参入者でした。「秘儀参入者である」というのは、単に霊界を垣間見ることができるというのではなく、高位の神霊たちと交流することができたという意味を含んでいます。
シュタイナーは『ルカ福音書講義』にて、霊界参入者を以下のように3段階に分類して説明しています。
(1)霊視者(イマジネーション認識者)(2)霊聴者(インスピレーション認識者)(3)霊的合一者(インテュイション認識者)
彼は現代においても霊視者はたくさんいると述べています。霊視者は霊界の像を浮かび上がらせる能力はあるが、その像が何を意味しているのか分からない段階にいる霊界参入者です。またその能力にも差があることは、最近ではアニメ「見える子ちゃん」でも描写されていましたね。
音楽的な才能(感覚)を比喩として用いるなら、訓練されている人とされていない人とでは、聴こえてくる音像から取得できる「情報」には大きな差があることはよくご存じのことだと思います。音楽に疎い人にとってはひとつの漠然とした響きにしか聴こえない複数音声の集合体をを、訓練を受けた人は、いくつの音で構成されていて、その音はこれこれだ、そしてコード名は何々と言うと答えられます。
人間の可聴周波数の問題ではモスキート音というものがありましたね。20歳の人には〈音〉として聴こえる周波数が年を取ると〈可聴化できない〉、つまり認識できなくなくなるというあれです。人間が持っている「感覚器」を用いて、何かの情報を取得しそれが何であるかを解釈できる能力には個人差があるのです。霊能力についても、同じ個人差が存在するということですね。もっと長大な年月をスパンとした人類史においては、時を経ることよって、全人類単位で一気に失われた「人類の能力」というものがあったのだということを、その事実を、現代人は認めることができるでしょうか。
霊視者は霊界参入者ではあっても「秘儀参入者」ではないとシュタイナーは言います。
秘儀参入者と呼ばれるためには、霊聴能力、つまり見たものを言葉や音として聴き取る能力も、〈見る力〉つまり霊視能力とともに持っていなければなりません。そういう能力の所有者のことを日本の古代の秘教の伝統にそって言い直すなら、「耳」という称号を贈られた者たちがそういう領域に属している人々です(以前当ブログで紹介した古代の大王(おおきみ)たちの諡号や聖徳太子が豊聡耳命と呼ばれた故事を思い出してください)。
宜保愛子氏は晩年、「像は確かに見えていたが、言葉は聴きとれなかった」と述懐したと語られていますが、そういう意味では彼女は霊界参入者ではあっても秘儀参入者ではなかったということになります。
霊的合一者は霊視能力、霊聴能力に加えて、対象の中に入って一体化できる能力を持つ者です。認識できる範囲は霊聴者よりもさらに広がるのです。「秘儀参入者」とは霊聴能力者か霊的合一者のどちらかを指す言葉なのです。
アトランティス時代には人類は誰でも自分がその中に生きているところの霊界を認識しながら生きていました。つまり死者や高次の種々の神霊たちに取り巻かれて生きることは所与の現実体験だったので、それらの実在を証明する「動機」が存在しませんでした。それゆえに、いわゆる今日に見られるような形態の「宗教」というものはありませんでした。
宗教というものが「この新しい世界」に出現したのは、人類が「霊界の住人」でいられなくなった結果なのです。宗教は、かつての人類は彼岸の存在だったということを思いださせ、人類にその見えなくなった世界を敬わせるために出現したのがそもそもの始まりです。「そのような宗教感覚」はアトランティス後の時代に世界各地にいた秘儀参入者たちが自分たちの属する共同体に持ち込み、育て上げたものに由来するのです。「宗教的である」というのは、彼岸の存在を信じ、それを敬う態度を持つということなのです。
シュタイナーは『神智学の門前にて』で、以下のような話をしています。
学識者は(神話や)伝説は民族精神に由来するものだという。だが、それは真実ではない。また、この伝説は偶然にできあがったものではない。偉大な秘儀参入者たちが、自分たちの叡智を込めてこの伝説を作り、人々に伝えたのである。あらゆる伝説、神話、あらゆる宗教、あらゆる民衆文学は世界の謎を解くのに役立つものであり、秘儀参入者たちの霊感に由来するものである。(P26)
どこかの宗派に属していることをもって宗教に入っている人という認識で日常生活を営んでいる戦後日本人的な感覚は実は相当に世界の常識とずれた見立て(自己認識)なのだということです。
それは日本人が近代化という掛け声のもとで唯物論という「悪しきセンス」も同時に持ち込んで、そこに自分自身をフィットさせようと努力してきた結果です。
近年日本が生産した四角いスイカが世界の話題になったことがありますが、まさに近代化以降の日本人の態度そのものを象徴するトピックでした。日本人は「自分の身体にあった衣服をオーダーメイドする習慣」を捨てて、それを善なる振る舞いだと信じて、スイカの実がだんだんと四角い木枠のなかに隙間なくぴったりとフィットするように成長を遂げていくように「自分自身の精神の可動力を駆使して精神を変容させた」のです。木枠の持つ「形」に迎合したのです。
よく「共産主義は宗教だ」という表現を聞きますが、厳密には宗教ではありません。何かの主義主張が宗教であるためには、地上を超えた世界や存在の実在を信じそれを敬うという要素がなければなりません。
しかし死後の生を否定するようになった近代人は、その定義を捻じ曲げて、「彼らにとって不合理だと見做せる教え」を「信じる行為」を行っている人々への蔑みの表現になりました。
たしかにカルトの問題を見れば、そういう見方になってしまう側面もあるでしょう。この定義ならば、共産主義をもカルト宗教に似た側面をもつ教えとして存分に罵倒できるからですが、そもそも、宗教という言葉を使うときに、本来の宗教との微妙な差異について「自覚的になれない人」は、学校現場を支配している近代教育の思考態度で批評をしているだけの話です。
私はかつて、高校の現代社会の教師が「〇〇は宗教だ」と生徒の前で言っている事実を知ったときに、明治維新時に近代改革派が当時のヨーロッパの思想を「技術」中心に輸入したとき、それに付随して唯物論的な思考態度を学問的思考の「基本態度」として重視すべきだと思って学校現場にも持ち込んだ成果が、今ありありと実を結んだのだと思っています。
その後の日本の教育界は「西洋のそれをしのぐほどの唯物論思想」普及に無自覚にまい進しました。その結果、唯物論者であること(あるいは「そのように装う」こと)が、現代日本人の「公的態度=建前」の表現として世間の表舞台に掲げられ、流通させられるようになり、日本人は「公的マナー」として無自覚にそのことに「身を摺り寄せ」て、つまり自らを変化させ適応させて生きてきたのだということです。
以下はシュタイナーの日本人への警告です。
日本人が形成したような霊的な思考は現実のなかに進入していきます。それがヨーロッパ-アメリカの唯物論と結びつき、ヨーロッパの唯物論が霊化(精神化=脱唯物論化)されないなら、その思考はヨーロッパの唯物論を凌ぐことは確かです。ヨーロッパ人は、日本人が持っているような精神の可動性を持っていないからです。このような精神の可動性を、日本人は太古の霊性の遺産として有しているのです。(『いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか』P76-P77)
また西川隆範氏は、シュタイナーが日本の近代化の実情について語った内容を以下のように紹介しています。
日本人が蒸気船の運転を試みたという話である。どのように運転するか、どのように舵を切るかを、日本人は見様見真似で習得した。そして、日本人は外国人の教師に対して、もう自分たちで航行できる、といった。そうして、外国人教師を陸に残して、日本人船長の指揮のもとに蒸気船は出発した。日本人は舵を切って、方向転換をした。ところが、どうやって元に戻せばよいのかを知らなくて、船は回転しつづけた。(『いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか』P77)「どうやって元に戻せばよいのかを知らなくて、船は回転しつづけた。」という部分はとても深刻に響きますねえ。「その回転度はますます激しさを増している」というのが現代日本の姿なのでしょうねえ。まるで地球の重力圏から飛び出せずに永遠に周回軌道を回転を続けるデブリのような状況です。
現代日本人の場合に限って言えば、長い学校生活を通して一度も「宗教とは何か」ということについて、ここで述べたような「ちゃんとした定義」を教師の口から聞くことなく成人した人ばかりです。
中学生が高校受験用の質問として「世界の三大宗教は何ですか」と問われると優秀な子は「仏教、キリスト教、イスラム教」と即座に答えられます。そのように「表面的なこと」はたくさん知っていますが、肝心なことは分からないままにほっておかれているのが日本の現代っ子たちの「精神生活」のありようです。しかし子供を育てているオトナの側にそのような観点に対する自覚がない以上、子供を責めることもできませんね。
アトランティス大陸の崩壊後、新しい陸地に移住した人々が「知性の発展」という新しい課題に向けて、新生活を始めるようになりました。霊視を可能にするために身体からはるかに抜きん出ていた古代人のエーテル体は、ますます物質的身体とその輪郭を一致させるようになりました。そのような状態に身体が変化することが思考力を育てるには必要だったのです。とはいえ、その時代においても、なお高次の神霊たちの言葉を理解できる霊聴能力を維持できている人々もいましたが、時代が下るにつれて、知力の発展と引き換えに、「ますます古いタイプの霊界参入能力」を失っていきました。
日本の縄文時代人も5千年前までは実際に自分の周囲に神霊を見ていたのです。山や木に神霊がいると「空想」し、「その空想を信じた」のではなく、「実際に見ていた」ということを縄文時代文化復興運動にまい進する人々は理解すべきです。それは西洋近代の宗教学者が定義したような「アニミズム」ではないのです。日本人はこういう唯物論ベースの説明を百科事典的に参照し、「分かったような気」になって人前でオウム返しします。
彼らの言うアニミズムとはどういう意味でしょう。それは学問的には「古代人による、自然界には神霊がいると〈空想〉する態度」のことなのです。〈そういう態度〉を学問的にはアニムズムと定義すると言ってるにすぎません。つまり「神霊やら精霊やらの実在を〈信じる〉なんて、古代人は馬鹿だった」と遠回しに言うためにアニミズムという言葉を学問用語として捏造したのです。一方で、彼らは「神々と言うのは古代人の捏造にすぎない」と〈信じる態度〉を一般庶民たちの前で披歴してくれていますが。では〈このように信じる態度〉は学問的にはなんと言う言葉で定義されるべきなのでしょうか。それを唯物論というのです。
高次の神霊と交流できるような「高い霊能力」が完全に失われたのが紀元前3千年、言い換えるといまから5千年前の時代です。縄文時代末期に抜歯の習慣が始まったのも、そのことと関連性があるのです。歯の形成力とエーテル体には強い関連性があり、抜歯によってエーテル体を霊視力として解放する技術でした。それは自分たちの周囲からますます消えていきつつある神霊世界の消失を押しとどめたいがための苦肉の策でした。
ルドルフ・シュタイナーは「霊視」について以下のような話をしています。
霊視とは、そもそもなんなのでしょうか。霊視できるということは、エーテル体の器官を使用することができるということです。アストラル体の器官だけを使うことができる状態では、深い秘密を内的に感じ、内的に体験することはできますが、その秘密を見ることはできません。アストラル体のなかで体験したことがエーテル体に刻印されると、霊視が可能になります。太古の霊視は、まだ完全には物質体のなかに入り込んでいないエーテル体の器官を使用できたために可能なものでした。人類は時間の経過のなかで、なにを失ったのでしょうか。エーテル体の器官を使用する能力を失ったのです。(『ルカ福音書講義』P64)
そしてさらに3千年が経過し、キリストが太陽領域から地上に到来するころには、一部の人類がかろうじて若干の霊視力を隔世遺伝的に保持できている状態でした。もはやその当時において、霊視力を持つ人々の見るものは、悪霊のようなものばかりとなっていました。最後に人類に残された力に映じた霊視像は邪悪なものばかりの時代がやってきて、そしてついにそれさえも見えなくなる時代がやってきたのでした。
今日では、先祖から隔世遺伝的に霊視能力を受け継いでる人も、それを失ってしまうことはよくあるようです。YouTubeでパシンペロン氏が、「以前見えていた人が失ってしまった霊視能力が復活するときにまず最初に遭遇するのは悪霊だ。そのあと能力が高まるにつれて善霊が見えるようになる」というような趣旨の話を語っておりましたが、これはシュタイナーの発言とも符合するコメントです。
紀元後の弥生時代以降の日本の古代においてもすでに個々人から霊視能力は奪われておりました。神おろしと称して霊媒を使う技術も残っておりましたが、これは縄文時代前期人一般がそなえていた「高い霊視能力」が失われた代替技術でしかなく、今日的視点で言えば、一種の堕落行為でした。
特別な修行体系に則って「長期的な準備」のもとに行われたのがその総仕上げとしての秘儀参入体験としての大嘗祭です。この秘儀は中臣・藤原氏が主導する大化の改新以降は完全に別のもの(神秘体験を伴わない古代中国式即位儀礼)にとってかわられました。
日本民族の秘儀参入の伝統もこのとき途絶えたのです。しかし、世界中の民族が同じ運命をたどって今日ある姿となっているのです。
しかし人類には「新たな能力」が目覚めつつあるということもシュタイナーは語っております。これから2500年ほどかけて、個々人に順々に隔世遺伝的な霊視力によるのではなく、個々人が忍耐して繰り返してきた長い輪廻転生の成果がこれから少しずつ現れてくるという話です。
5千年前に人類一般が失った能力を取り戻すために修行僧という人々が出現しました。仏教のお坊さんもカトリックの神父さんたちも霊界参入のために修行したのだということが今日の一般の人々の常識からも失われています。庶民はいまやそれらの地位は「社会的職業の一種」に過ぎないとさえ思っています。
この系統の伝統もすでに形骸化しています。それらはもはや有職故実に過ぎないものとなって、企業に属している人々が企業の利益や秘密を守るために利己的にふるまってしまうように、僧団や教会集団に属している人々も「組織に属していること自体に意味を見出す」のみで、「組織安堵」のためにポジショントークすることこそが自分の役割だと思って活動しています。
しかし釈尊にしろ、イエスにしろ、若いころはたくさんの旅をして師につき、個人として世界の成り立ちの真の姿を追い求めたのではなかったでしょうか。
僧団や教会組織がちょうど個々人の属する家庭のようなものならば、我々は昔から家族の住む家でともに過ごしながら、外に出て行ってともに働く仲間を得て、「新しいもの」を作り上げるために共同してきたではありませんか。
有職故実主義から自由になって、すでに近代に出現しているにもかかわらず無視され続けてきた「新しい啓示」に個人として積極的に触れることが必要です。大事なのは、「古い教え(解釈)」をオウム返しできるようになることではなく、自分自身が霊界参入者となることで、これまで語られてきた宗教上の教えを「自分の力で再確認できるようになる」ことです。これが人類の新しい目標です。
今日では秘儀参入者となるために修行の道を歩む人と隔世遺伝ではない新しいタイプの秘儀参入者の出現の道という二つの道が予告されています。宜保愛子氏のような遺伝的素質による霊界参入は新しい霊界参入ととって変わられるのですが、現代はまだそのかすかな予兆が始まったばかりです。
そのような人々の「体験の報告」がゆるやかに人々の常識感覚を変える時代が近づいているというシュタイナーやエドガー・ケイシーの予告が実現される日をはやく見てみたいものです。 -
上位カテゴリー管理者たちから命令されて、ゲームメーカー(日本支部は文科省官僚たちが担当)によって作られた「人選ゲーム世界」で戦い、少数者たちが「彼らが地上に投下したゲーム」の上位者となって「彼らの仲間(ゲーム管理者)」に加わって、「同じゲーム」のバージョンアップをする。マークシートに限ってみてもVer.1.0から今何番目のバージョンの投入になっているんだろうか。
大学への国家管理強化の手段の一つとして始められた共通一次テスト。1979年の第一回「ゲーム参加料」は5千円だか8千円だか、記憶では1万円を切っていたが、いまや2万5千円も取っている。そしてウェーバーが「役人は仕事を増やす」という通り、その後さまざまな改変が加えられて(悪名高い「教員免許更新制度」も官僚たちによるウェーバー論的振る舞いのひとつだった。この時も官僚たちはマスコミを動員してもっともらしい理由を広宣させて、国民の了承を簡単に得てしまった。だが結果は廃止である。結論は「税金の無駄遣いだった」である。だが彼らは誰も、金銭的な浪費だけではなく、そのために「国民の通常の生活や労働」から切り取られて費やされた膨大な時間や人的資本の浪費の責任を取らない)、試験手法と内容はますます複雑で煩瑣なものになって、このシステム周辺で利益を得ている企業人たちと黒子の官僚たちの暗躍場所になっている。
このシステム自体も教員免許更新制度同様、一種の国民からの金銭搾取フィールドになっている。進学校では進学や就職が決まってテストを受ける必要のない学生にも「ゲーム・エントリー料金」の支払いを強制している。まるでNHKの集金人のような役割を高校教師たちはやっているが、この領域ではNHK党のようなものがないので、学生もその親も戦うことができない。疑問を感じている教師たちもいるが、彼らは自分を守るために声を上げない。
高校生たちは「なぜそんなことを大人たちが許してきたのか」そもそも疑問が湧いたこともない。彼らは「自分らが強いられている勉学の環境全体」を「適応すべき所与のもの」として、大人たちによって維持されてきたこれらの進学システムの方法すべてを信頼して勉学に励んでいるからだ。彼らに関心があるのは(あるいは「関心を向けさせられている」のは)「このゲームの攻略法だけ」なのだから。一方で、「ゲーム巧者であること」によって自尊心(強烈な利己主義感情)を育ててきた学生たちにとっては、そこに飛び込んで泳ぎ回ること自体は、さほど苦もならない遊び場でもある。子供たちはモザイクがかけられた世界のなかに投じられているが、モザイクがかかっている箇所が見えない。
このゲームで成功した者たちは「文科省管理下のデータ」を参照しつつ、「人材」を吸い上げ、文科省の管理者たちの後援者となって、このゲームが終了しないように味方をしてくれる。そして「金をかけて育てられた彼ら自慢の優秀な子供たち」もまた、「ぬるま湯のなかに投入されたゼリーの粉」のようにシステムの中で攪拌されて、「時間の経過」とともにプルプルに固まった頭に仕上がって社会人になっていく。そのような「頭」を首の上に据えて、国力を衰退させる既得権所有者層とともに「運命を全うしよう」とする。
この次元領域からメタ次元に出て「今何が起こっているか」を本気で自覚し、そして別様に行動し始めている人々は存在するけれど、そういう人々は、このシステムの変更を阻止したい官僚たちやその周辺にいて、彼らの仲間となって一大勢力を形成している企業人から敵認定を受けざるを得ない。そんな彼らに呼応してマスメディアが日本全国から集めて作り上げる「民衆的津波力」が大量に異端者たちにぶつけられる。だから時に秩序破壊者との烙印を押された人々は精神病院や刑務所に入れられることも覚悟しておなかければならない。油断していると、映画「マトリックス」のようにサイファー主義者たちというフレネミーたちが近づいてきて背後で暗躍することになる。(終)
参考文献
国家が教育を管理すること
近代は国家制度と経済力とに高度に依存した精神生活を発達させた。人間は子どものうちから国立の学校に通うようになる。そして自分が育った環境の経済状態が許す範囲内でしか教育を受けることができない。
人びとは、それによって人間が現代の生活状況に良く適応せざるをえなくなっている、と安易に信じている。事実、国家は教育制度を、つまり公共の精神生活の主要部分を、共同社会にもっともよく仕えられるように形成しようとしており、そして人間は自分が育った環境の経済力に見合った教育を受け、それによってその経済的可能性が許す場所で仕事をするのが、人間社会のもっともよい成員となることだ、と安易に信じられている。
われわれの公共生活の混乱は、精神生活が国家と経済とに依存していることによる。このことを明示するという、今日あまり歓迎されない課題を、本書は引き受けなければならない。そしてこの依存から精神生活を解放することが極めて緊急な社会問題の一部を構成していることも明示しなければならない。
このことによって、本書は一般に普及している誤謬に対抗しようとする。国家が教育制度を管理することは、人類の進歩にとって望ましい、と以前から思われてきた。そして社会主義者は、社会が個人を社会のために、社会の基準に従って教育することを当然だと思っている。
人びとは教育の分野で、今日どうしても必要な洞察を進んで得ようとは思っていない。以前正しかったことが後の時代には誤りになる、というのは、歴史の発展を考える上での必要な洞察であろう。教育制度並びに公共の精神生活が中世において、それを占有していた人の手を離れて、国家の手に委ねられたのは、近世の社会状況の成立にとっては必要だった。しかしこの状態を今日も維持しようとすることは、重大な社会的誤謬である。(P15-P16) ルドルフ・シュタイナー『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』