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前回のchouchou関連記事の続きです。
前回、「最果て」という言葉にこだわって書いた箇所がありましたが、その後、ネットでインタビュー記事を読んで、「あ、つながってんじゃん、おもしろいな」と感じたことがあったので、追加記事上げときます。私が読んだのは以下の記事。
chouchou インタビュー
注目箇所は以下。
それで初めてutakataを作ってジュリエットに歌ってもらったら結構二人とも気に入って「これはいいよね、これは今までにない感じで独特なジャンルになりそうだよね」ってなって。それですぐに2曲目、当時僕がやりたくてやれなかったアレンジなんかを「だって別に良ければいいじゃん、誰にも文句は言わせないぜ」って感じで自由に作ったのがsignでしたね。(引用終わり)
ということでまずは記念すべき初コラボ作品の「utakata」
(2019年のアルバム「Farewell,Astronauts」のアルバム名を連想させる「astronautsっていう歌詞がすでに出てるね。)
「今までにない感じで独特なジャンルになりそうだ」というアラベスク氏の感想はまさにその通りだった。で、つぎの共作がINSOMNIA所収のsign(「NARCOLEPSYには「sign 0」と「0」が加わった別バージョンが入っている。)
INSOMNIAもNARCOLEPSYも2009年に出たアルバムで、これは「ずっと覚醒し続けている状態」VS「たえず眠り込もうとしてしまう状態」というように対立する症状を英語でアルバムタイトルにしたということだ。このことに気が付いた時、私はシュタイナーの『悪の秘儀』内の記述を思い出した。
ルドルフ・シュタイナーの『悪の秘儀』にはこういう文章が出てくる。
精神という観点から観察してみると、私たちは目覚めているとき、硬化する方向へと向かう力を備えています。目覚めているとき、私たちは自分の肉体をしっかりと捉え、手足を使用します。そして私たちは眠りにつくときに、肉体の中にある、軟化させたり、若返らせたりする力を働かせます。すると、私たちは夢の中へと沈んでいきます。このとき私たちは、もはや自分の肉体を意のままに支配することはできません。つまり私たちは、「人間というものは本来、あまりにも軟化しすぎるか、あまりにも硬化しすぎるか、どちらかの状態に落ち込む危険に絶えず曝されている」と言うことができるのです。(P23)
で、そのあと「だからフォースにバランスをもたらす必要がある」という趣旨で話はつづく。
この歌の歌詞に「例えば今世界が終わり私の名がかき消されたら探して」って箇所がある。
これってまさに「world's end girlfriendのつぶやき」つまり「世の終わりにいる(誰かの)恋人=彼女のつぶやき」じゃん。world's endは「世界の終わり」とも「最果て」とも訳せると前回の記事で書いた。そしてworld's end girlfriendというミュージシャンが日本に実在して(一番好きなアルバムは「LAST WALTZ」)、自分は「最果ての彼女」と勝手に訳して受け止めていた、という趣旨のことも書いた。
そしてアルバム「Farewell, Astronauts」でまた「world's end lullaby」という題名の曲に出会う。
で、最新作が「最果のダリア」(world's end dahlia)だ。
実に面白いと思う。彼らが影響を受けた先行のミュージシャンとして「at eden」や「sputnik」という曲を書いた新居昭乃の名前は出ていなかったけど、まったく関連性がなかったとしたら、それはそれで興味深い事実。
さらにインタビューを読んで驚愕したのが、ボーカルのジュリエットが「ドイツ語のように聴こえるけど、comaは、日本語アナグラムの架空の言葉だ」と言った箇所。えー、じゃあ、彼女は菅野よう子&新居昭乃コラボ曲の「wanna be an angel」同様、「人工言語(つまり天使語?)で歌ちゃったの」とますます興奮した。アナグラムということは「日本語解読できる」ということだろうけど、私は、まだ解読版歌詞にはネット上では出会っていない。
ジュリエットの歌唱法は基本ささやきボイス系だと思うけど、曲によって歌い方を変えてるところが面白いよね。声優的というか。ALEXANDRITEのCatastropheとかは高校生の女の子が歌っている感じ。
いろいろなアルバムを聴きながら、一番大きい連想はやっぱ新居昭乃とのものなんだけど、なぜだか声優の能登麻美子のささやきボイスも連想した。Catastropheの声と能登麻美子はつながるか? といえばNOだな。なのにchouchouが出している多数の楽曲全体を通して聴いていると、なんでかそう感じたのだった。声に関して、chouchou→新居昭乃、新居昭乃→能登麻美子(「きれいな感情」とかかな?)の2通りの連結がchouchou→能登麻美子と連結したんだろうな。
能登麻美子はあまり歌を歌っていないようだ。CD類はあるけど、ドラマCDがほとんど。YouTubeでこういうのを見つけてきた。サムネイルはあの有名な、彼女が主演した「地獄少女」。
「うーん、新居昭乃と接続までは分かるけど、なんで能登麻美子なのかわかんねえ」というのがやっぱ読者の感想なんだろうなあ。まあ、「曲を聴いている最中に喚起される印象」のなかにそういう連想感覚も起きたということなので、そういう連想感覚は人によってもちろんちがうだろうから、この辺の感覚は、突っ込まずにもうほっといてほしい。
P.S. 能登麻美子「連想感覚」に関してその後、「あ、これが〈体験の海〉の中から一番プッシュしてきてたんだな」と思ったのだった。きっとそうだ。以下lovers & cigarettes
chouchouは教会音楽系もやっている。「アベ・マリア」については大昔、スラヴァのアルバム関連で当ブログでも取り上げたことがあったね。chouchouの「アベ・マリア」もなかなかいいよ。でも、私が「どはまりした」のは「 O come O come Emmanuel」だった。エマヌエルというのはイエス・キリストのことだ。まずは一般的な音源で聴いてみたい。
これだと、たんたんと最後まで聴けるよね。ところが、chouchouバージョンはアレンジに仕掛けがしてあるので、曲の後半で「思わず高まってしまう」ことを避けることができない。実際、ある時期私はこの曲ばかりリピート再生して、「高まって」いたのだった。3:16からがやばい。この箇所があったので、何度もリピート再生する(いわゆるオーバードーズ状態?)はめになってしまったのだった。
ということで、映画やドラマやアニメや音楽や絵画やらコミックやら、なにかしら創作をやっている人々はインスピレーション(やってくるもの)を無意識に地上に可視化可聴化する仕事をしている人々なので、そういうものに定期的に触れる生活は維持していきたいものだ。「若者だから老人だから」に関係なくね。PR -
昔、秘教学徒にて「大嘗祭の本義」と題して、日本に中国式の統治思想の影響が及ぶ事件(大化の改新)以前、つまり「天皇」という言葉が日本の史書に登場する以前の、聖徳太子以前の大王(おおきみ)の時代における秘儀参入の場としての大嘗祭について言及したことがあった。
あすこではちょっとだけ聖徳太子の秘儀参入問題に触れ、「日本で最初にパウロ体験(エーテル界でキリストに出合う体験)をした人物」ではないかと私論を投げかけたままだったが、実はその後もずっと聖徳太子について、あれこれ考え続けてきた。
今では、記紀の成立は「聖徳太子一族の背景を壁に塗り込めるという意図を隠し持っている」とまで思うようになっている。記紀は聖徳太子の実像にベールをかぶせるための仕掛けとしても機能しているのではないかと。
「大嘗祭の本義」動画では、日本の古代の大王(おおきみ)につけられている名前は秘儀参入の段階を表しているのではないかという説を提示した。
シュタイナーの『輪廻転生とカルマ』に「古代には、秘儀参入者は外的な名前ではなく、彼らが何を知っているかによって、彼らにふさわしい名前で呼ばれました。(P138)」と書いてある。
「彼らが何を知っているかによって」というのは「どの位階の秘儀参入者なのかによって」と言うのと同じことである。
聖徳太子の「霊能力」については日本書紀に「予知能力があった」と書いているが、その直前に「一度に十人の訴えを聞き分けた」という趣旨の話が出てくる。「なぜ並べて書いているのだろうか」とは、普通読者は不思議に思わないだろう。それは日本書紀を研究して現代語訳を担当した学者とて同じだろう。
神々の名前付けのルールには決まりがあるはずだが、私はそれを明確に指摘した学者本に出合った記憶がない。たとえば私は、古代の神々についていた名前で「耳」というものには秘教的な意味があると思っている。一例として、天孫降臨神話に出てくるニニギノミコトの父親であるアメノオシホミミノミコト(天忍穂耳尊)である。「オシホ」が本来の名前であって、耳の部分は「どんな霊能力があったかを示す記号」ではないのかと思ったのだ。オシホミミノミコトは霊聴能力者、つまり秘儀参入者ではなかったのか、と思ったのだ。
精神科学(人智学)は、世界のあらゆる古代の宗教文献、神話・伝説、昔話などを読み解く助けになる、とはシュタイナーの言葉である。三日半の仮死体験の儀式は世界に広く普及していた秘儀参入の方法だったというのも彼の発言である。
ただ民族に応じて秘儀の達成度の段階の区分が三つだったり、五つだったり、七つだったりする。
霊視(イマジネーション)能力、霊聴(インスピレーション)能力、霊的合一(インテュイション)能力という三区分についてシュイタイナーは『ルカ福音書講義』で解説をしている。
現在でも霊視能力者はたくさんいるが、彼らは秘儀参入者ではない。霊聴能力以上にならないと、秘儀参入者とは呼べないと書いている。霊視は像を見る能力だが、それが何を意味しているのか実は分からない、だから霊聴(つまり言葉を聞き取り、理解する)能力まで高まらないと、見たものが何を意味しているのか解釈できないというのだ。
日本書紀には聖徳太子は豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)と呼ばれたと書いてある。神話時代の先祖たちとは違って、その当時の古代人の霊能力はほぼ消え失せていた時代だった。そこにひさびさ「耳」という言葉で象徴される霊能力を持った人物が生まれたということだ。
これをシュタイナー霊学をものさしとして解釈すると、「太子は霊聴(インスピレーション)能力の持ち主で、その能力で未来予知をすることができた」と「遠まわし」に書いている、ということになる。
さらにたくさんの聖徳太子伝説に目を通せれば、シュタイナー霊学の観点から、いろいろなことが発見できるのだろうが、研究は遅々として進まない。
けれど、今回のブログ記事をもとに、近いうちに1本、秘教学徒用に動画を作ってアップロードしてみたいとは思っている。
あれ、X JAPANの話が出てこなかったぞ、とご不満のアナタ。これからですよ。
聖徳太子伝説は日本書紀以外にも日本霊異記に似た内容の話が出てくる。大昔、私は資料集めのつもりで古本で日本霊異記を手に入れて、内容を確かめていたのだが、昨日ふとページの最後のほうの空欄に何か書いているのに気がついた。
よく見ると
I'm walking in the rain
行くあてもなく傷付いた体濡らし
絡みつく氷の騒めき
殺し続けて漂う いつまでも
UNTIL I CAN FORGET YOUR LOVE
(以下略)
と書いてある。「なんじゃこりゃー」と度肝を抜かれた。
巨大検索マシンとしてのインターネットの出現以前に、このような体験をしたなら、私はこれが何かをついに探し当てることができなかっただろう。「これ、なにかわかる?」とだれか身近な人に聞けば「うーん、何か歌の歌詞かもしれんな。それとも自作ポエム?」という回答は得られたかもしれないが、よほど運がよくなければ、「言葉の正体」にたどりつけなかったかもしれない。結局、「古本だし、書き込みはありがちだよな。ま、どうでもいいや」と忘れてしまっただろう。
だが昨日この書き込みに気が付いて、「そうだ、検索」と書き込みの冒頭の部分をウェブの検索欄に入れてみたら、X JAPANの「ENDLESS RAIN」という歌の歌詞だったということが判明した。
古典のなかでもかなりマイナーな部類の文庫本の末尾の空白欄にヘビーメタルバンドの歌の歌詞をあまさずびっちり書き込むエナジーに心打たれた。その取り合わせが、とても面白いと感じたので、あまりブログも更新してこなかったのに、こうして「最近は聖徳太子を調べていますよ」という近況報告記事になったのだった。 -
2000年代以降、自分の中では、ついにJ-POPの位置づけがかつての歌謡曲VSニューミュージック(J-POP)からJ-POP VS something else に変わっていることに気が付く。
今の日本の音楽好きの一部は、90年代に全盛を極めたような「形式(モード)」の音楽に見向きもしなくなったんじゃないかと思う。つまり歌謡曲でもJ-POPでもないような音楽を「好んで聴く」ようになっているんじゃないかと思う。洋楽の受容においても、同じような状況だと思う。
でも、昭和の歌謡曲のオルタナティヴとして登場したのちにニューミュージックとよばれるような音楽は70年代にはまだ「一部の音楽好き」にしか関心を持たれていなかったはずだ。それまで円盤売り上げからいえば、この新カテゴリーの売り上げは微々たるものだったんじゃないかと思う。(昔大貫妙子がFMのスタジオライブでそんなことを言ってた記憶がある。5万枚売れたら大成功と認識されてた時代。)
そして80年代から歌謡曲をだんだんと駆逐していく時代が始まり、90年代に頂点に達した。そしてその後2000年以降は下りの坂道行程に突入し、音楽自体が「商品」として大衆の魅力を失う時代がやってきた。
ということで、日本の音楽環境を、なんか他人目線(=評論家目線)で一般化して書いている感じだけど、この感じは「自分の感覚そのもの」を評論めかして書いているだけで、要するに「今のメジャーレーベル系の音楽なんてもう飽きたんだよ」と言っているだけの話ではある。
自分の場合、ラジオで新譜を追っていたのは中高大時代の遠い昔、2000年前後の時期は、日本の音楽CDを買うことがまったくなくなっていた時期でもあったけど、ネットが登場し、深夜アニメが台頭し始めて、そのオープニング曲やエンディング曲を毎回聴かされる環境が登場してくると、新譜の知識はアニソンから、そしてネット上でインディーズサイトで無名のミュージシャンを探しているというような状況に陥ってしまった。挙句の果てにはアニメのサントラとインディーズ系CDの購入がメインになるという振る舞いをするようになった。
「ガサラキ」とか「ラーゼフォン」とかのサントラを買った。そういう当時のアニメに曲を提供しているアーティストのなかでもっとも自分のなかでヒットしたのが、新居昭乃だった。実は彼女は種ともこが歌う「ガサラキ」のエンディングテーマの作曲者だった。別のルート(別のアニメ作品の影響)で彼女のアルバムを聴くようになっていた私は、あとでその事実を知って、「あ、すでにオレは彼女の曲を聴いたことがあったんだ」と驚愕した。
坂本龍一や細野晴臣たちが民族音階やエレクトロ音楽、アンビエント音楽を始めたころは、真剣につきあってはこなかったが、その界隈の第二世代、第三世代が日本に登場するようになったころ、ネットのインディーズサイトでアンビエント・エレクトロニカ系の音楽を探して聴くようになり、その後Googleに買収された後のYouTubeでambient(アンビエント)系の音楽を検索して熱心に聴くようになった。
インディーズサイトで出会った忘れがたきアーティストといえば、昔ここでも紹介したことがあるマトリョーシカ(matryoshka)を一つ上げたい。(以下「Monotonous Purgatory」、自分流に訳せば「単調な煉獄」あるいは「単調な死後の世界」くらいのものだろうか。)
以下この曲が入ってるアルアムのURLLaideronnette(matryoshka)後年、「あれ、新居昭乃とマトリョーシカって、オレん中で、どこかつながってね?」と思っていた。
最近注目したバーバパパの動画は諧謔と恐怖の併存が特徴的だったけど、せっかくなので、今回の幽界系音楽とは、ちょっとズレてしまうけど、Monotonous Purgatory動画の仲間に入れておきたい動画を以下二つだけ紹介しておこう。(以下「endless summer vampillia」)
森田童子の「マザースカイ」の世界は幻想文学してると思うけど、こういうvampillia的な幻想的な動画と相性がいいと思うんだが。例えばアルバム所収の「伝書鳩」なんぞは、自分には空中に飛んで自殺をしようとする少年(もとの意図はまったくそういう話じゃないのだろうが)を想起させる恐ろしい歌に感じる。「a boy」所収の「ふるえているネ」のアゲハ蝶イメージとかも、もろ幻想性マックスだよね。
(以下「lilac vampllia 戸川純」)
新居昭乃については、昔「ブルガリアン・ボイス」関連でこのブログでも言及したことがあった。(以下、「wanna be an angel」(「天使になりたい」)
この曲はアニメ「マクロス・プラス」の劇中歌として書かれたものだ。曲名は英語なのに、歌詞は菅野よう子の作った人工言語で、地上に存在したことがない言語なのだからある意味菅野よう子のインスピレーションに降りた「天使語」と考えてもいいよね。歌を歌っているのが新居昭乃で、彼女自身すばらしい作曲家なんだが、この曲は作詞も作曲も菅野よう子がやっている。
YouTubeの「秘教学徒」では「人間天使シリーズ」を最後に天使論関連のアップロードをやめてるけど、あすこで語ったのは 「あなたがたは再び天使の位階に回帰できる」という希望の福音だからねえ。地球の管理天使という本来の「人間天使」の位階から地上に転がり落ちたが、「再び九位階の先輩天使たちの仲間に加わって天使となることができる」という話だからねえ。
Wanna be an angel?(天使になりたい、だって?)
もちろん、なれるよ、という回答が、まだ西洋の一般的なキリスト教徒たちには「意識化」できないでいるけれども、シュタイナーのキリスト論の中には含まれている、って話だった。
新居昭乃の曲は今でも時々聴いている。
アニソン系で「wanna be an angel」以外のオススメは、
アニメ「KURAU」(クラウ)のOPだった「懐かしい宇宙」
アニメ「東京アンダーグラウンド」のEDだった「覚醒都市」
アニメ「NOIR」(ノアール)のEDだった「きれいな感情」
などなど。あと大昔、YouTubeで銀魂のMAD(定春が巨大化するエピソードと曲をドッキング)で初めて聴いた記憶がある「ガレキの楽園」これもいいよね。(もはや見られなくなってるのが残念だ。)
さて、これまでYouTubeでいろいろとアンビエント系の曲を試しにポチって聴いてきた。その中でYAGYAの「sleepygirls」が気に入ったのだった。このアイスランド出身のアーティストのアルバムにおいて、日本人の女性歌手がボーカルで2曲参加しており、日本語の歌で「眠りの向こう側」という不思議な歌詞を歌っているのに出会って、その声と歌詞の不思議さに関心がわいたのだった。
彼女は名前を柳本奈都子といい、本来、rimaconaという二人組の音楽ユニットでボーカルを担当した人だった。どういう縁で録音に参加したのかはネットにも出てこない。ウィキペディアの日本語サイトにはyagyaの情報も載っていないので困った。「sleepygirls」の4曲目を聴いていたら「眠りの向こう側」という日本語が飛び出してきて驚き、しかも、どこかでなんか聞いたことがあるような歌詞だと思ったのだった。それはシュタイナーが語った「記憶の向こう側へ行く」(引用元「シュタイナーの死者の書」)という表現だったことを思い出した。「眠りの向こう側」ってどんな世界なんだろう?
それで、「ああ、やっぱオレはこういう覚醒と眠りの間をさまようような感覚にしてくれる曲も好きなんだな」ということを自覚するようになった。
だからchouchouに出会ったときも、雰囲気「マトリョーシカに似てね?」という反応ではなく、「やったー。こんなに大量にこの手の音楽浴ができるなんて、チョウチョウって最高じゃん」と思ってしまったのだった。ほんとはチョウチョウ(ローマ字読み)じゃなくてフランス語発音でシュシュ(日本では髪留めの呼び名だが、本来は「お気に入り」らしい)と読むということを後から検索で知ったのだった。(以下、「voyager」)
Farewell,Astronauts(chouchou)
紹介したアルバムは、比較的最近のものだが、ほかにも日本語や英語で歌われる曲が混在したアルバムをいくつか出している。日本語歌詞の場合、印象がJ-POP寄りになって聴こえる感じがする。
例えば、その代表例としてanemoneを聴いてみよう。
ALEXANDRITE(chouchou)
Farewell, Astronauts内での歌い声と印象が変わってしまう。でも名曲だよね。「エウレカセブン」の劇場映画に「ANEMONE」ってのがあって、chouchouのanemoneがエウレカセブンのアネモネに連結してしまった。
映画では坂本龍一の往年の名曲「Ballet Mécanique」(坂本龍一が担当日のNHKFM サウンドストリートのテーマだったよな)を、やくしまるえつこがカバーしていたけど、私は思わず、YouTubeに公開されている映画のトレイラー映像に坂本龍一バージョンではなくて、chouchouバージョンのanemoneを重ねて聴いてしまった。これはこれですごくいいじゃんと思ってしまった。(なので自宅で楽しむMAD動画みたいなものをAviUtlで作って遊ぼうかなとかも思っている)
自分が今のところ聴いたアルバムは以下。
INSOMNIA chouchou(2009)
NARCOLEPSY chouchou(2009)
VINCULUM chouchou(2010)
ALEXANDRITE chouchou(2015)
Night and Wanderer chouchou(2017)
Farewell,Astronauts chouchou(2019)
こういう幽界系の音楽も好んで聴けるという人にはお勧め。
P.S. 本記事投稿時の最新アルバムが去年の12月にでたばかりの「最果(さいはて)のダリア」
最果のダリア chouchou(2021)
「world's end」って言えば「世界の終わり」って訳語と「最果て」という訳語が出てくるけど、私のお気に入りで以前当ブログでちらっと言及したworld's end girlfriendのことを「世界の終末に直面している彼女」という意味では受け入れがたいと思ったので、自分では勝手に「最果ての彼女」と語呂がいい感じになるように訳していた。「最果てのパラディン」なんてアニメも最近見たし、「最果て=world's end」って言葉は、もしかして、ある界隈では関心語になってるのかな?
「最果のダリア」の前のアルバム「Farewell,Astronauts」の2曲目に「world's end lullaby」(最果の子守歌)ってのが入ってるから、そこをブリッジにして、今回のアルアムの題名に接続してるってことかな。
アニメ「ガンゲイル・オンライン」が好きで、さらには主人公レン(楠木ともり)が歌うED「to see the future」が好きで、「私の好きなアニソン・コーナー」(ずっとやってないけど)でいつか紹介したいと思っていたら、chouchouの「最果のダリア」所収の楽曲を楠木ともりに提供したという情報を得て、「いやあ、ほんといろいろつながっていくよなあ」としみじみとうれしく思ったところですよ。 -
他人の夢の話なんて、聞いても退屈なだけだけど、2022年1月2日に見た夢はかなり奇妙だったので、こうしてブログに残しておくことにした。
韓国人の夢なんて初めてだ。それにこれまで韓国について特に関心があったわけでもないので、目が覚めたとき、「え、なんで、こんな夢」と思ってしまった。
一番強く残っているイメージは私と私の仲間たち(らしく感じた。顔がはっきりしないので)がタンデム自転車の前後、途中に位置して、新しく韓国の大統領になるオッサンを真ん中に乗せて、どこかへ移送しているというものだった。オッサンというのも後から思い出した時の印象で、やっぱり顔がはっきり思い浮かばないのだった。現在の候補者の顔をネットで確認してみたが、それらしき人物はいない。スポーツ刈りのような短髪のごま塩頭だったような気もする(中国のオッサンにはそういうイメージもった、短髪系オッサンたちが結構いるよね?)、それに近い雰囲気を持った人物だったような。眼鏡はかけていなかった。でもニコニコしていた。
こんな感じのタンデム自転車なんだが、人が座っている部分全体が、卵の形をした、なにか透明なプラスチックのようなもので囲まれている感じだった。
どこかの家で、しかも周りは全部アッチの人達の中で、食事を出してもらい、おしゃべりしたりとかもした。それから、港(?)、あるいは沼地(?)の前を通り抜けるのだが、白くてたくさんの触手みたいなものを持った奇妙な姿をした巨大なあやかしが水上でたくさんうごめいている。そのうごめく化け物のイメージは残っているのだが、言葉では表現しにくい。そのそばをタンデム自転車で通り過ぎていくのだった。
今度の韓国の大統領選について日本にも情報が入ってくるけど、こんな夢を見るまでは意識さえしてこなかった。あるいはずっと先の未来の話だろうか?まったく無関係な夢なのかもしれない。「夢に意味なんてあるわけないじゃん、胃腸の調子がイメージ化されたんじゃない」といわれれば、「そう言えば、ひさびさ下痢気味だったな、その日は」とかも思う。
日本以外の世界の政治家の夢ならほかにひとつだけ、大昔、見たものを今でも覚えている。それはアメリカがクリントン大統領だった時代に見た夢だ。私はなぜかクリントンの娘の部屋にいて、クリントン親子がその部屋に入ってくると、彼女のベッドの下に隠れて息を殺して様子をうかがっている、というものだった。
なにそれ? やばくね? 危ない人じゃん、おれ。でも本人はそういう系の趣味ないからね。だからこそ、その時も「なんで、こんな夢見たんだろう」と思って今でも覚えているわけだ。
(追加記事:最近、ネットでジェフリー・エプスタイン関連の記事を見たのを思い出して、そういえば、去年はネットフリックスでドキュメンタリーを見たんだったと連想し、「あ、あの夢、クリントンの娘だと思ってた子は、実の娘だったんだろうか?」と思ったのが本日[1/4]だった。)
YouTubeのほうは、やる気なしモード継続中。年末はPCのケース交換とかやってました。黒鉄という超軽量、シンプルデザインのミドルケースです。1台は片側透明バージョン。メインとサブと2台を机の両側に据えているのだが、いつの間にか同じケースでシンメトリーになってしまう。だから、歴代の稼働PCは、マザーボードは異なっていても外面が同じというパタンになってしまって、現役引退しているケースがペアでしまってある。
これ、いずれヤフオクで売ろう。
年末はほんと生活さえやる気なしになっていた。ネットフリックスで唯一飽きずに(次が見たい感覚が起こるという意味)見ることができたのは「ウィッチャー」のみ。英語版と吹き替え版で2度見ました。あと「異世界食堂」かな。
飯食う時はアマゾンで昔のコナンシリーズを流しながら、って感じですよ。もう少し待てば(我慢すれば)、「よし始めよう」とやる気スイッチ入るだろうか。
心のなかで「今何時、今何時」とか「もう知らない」というセリフが最近はよく浮かぶ。これってバーバパパの「インク切れ」中の歌詞だった。
耳掃除エイリアンの最新作、いいね。 -
最近、また「エルゴプラクシー」を見直して「やっぱいいなあ。ピノちゃんかわええなあ」と思った次第です。(以下、第12話「君微笑めば」の(カンカン修理GIF)
DVDバージョンで見直したんですが、以前ネット配信のものを見たとき、DVDではEDで使われていたレディオヘッドの曲が使われていなくて、無音の黒背景にクレジットが流れるバージョンになっていたので、少々がっかりした記憶があります。権利関係でレディオヘッド側と折り合いがつかなかった結果でしょうか。
とはいえ、自分が好きだったのはオープニングの「kiri」のほうなので、こっちはさすがに差し替えなんてできないと思うので、ちゃんと毎回聴けてよかったですよ。
このブログでも昔、エルゴプラクシーに言及したことがありました。そのときは、有名な絵画オフィーリアについて書いたのでした。(当ブログの検索欄で調べたら、2009年の記事でした。なんて大昔なんだ。)オフィーリアについては最近YouTubeで山田五郎氏の解説を見たばかりですよ。
アニメのオープニング「kiri」はMONORAL名義で出された邦楽曲だった、ということを、のちにウィキペディアで知りました。
MONORALというのは島田アニスと森泉アリの二人(二人ともハーフです)によるユニットで、ステージでは助っ人を入れてライブをやってきたようです。(島田アニスは、近頃中山美穂の不倫相手?という記事でスポットあびたことを今回記事を書くために検索するまで知りませんでした。「そういう人脈関係」は、どうでもいいし。)
どういう人脈で島田アニスにエルゴプラクシーのオープニングテーマ参加依頼が来たのか詳細は分かりませんが、物語のテーマに沿った歌詞とともにすばらしい名曲に仕上がっていると思います。
初めてこの曲を聞いて耳に入ってくる歌詞に「あれっ?」っと関心がわき、調べてみると、どうも、パウロの「私の内なるキリスト」という言葉で表されてきたものとの類縁性を感じて、「ああ、これって21世紀のゴスペルソングだな」と勝手に思い込んで、今日でもそういう「受け取り方」を個人的にはしています。
島田アニスがほんとうはどういうイメージでこの抽象的な歌詞を思いついたのかはさだかではないので、私の解釈は勝手な思い込みかもしれませんが。
まあ、それでも私同様に「kiri」が気に入って歌詞の内容にまで踏み込みたかったら、ネットで簡単に歌詞検索ができるので、自分なりに訳して味わってみるといいと思います。
ネット記事では「洋楽のような邦楽」なんて表現も目にしたけど、私は「初めから洋楽カテゴリー」として聞いてました。あとから日本国籍を持ったミュージシャンが日本で発売した楽曲だということを知って「So what?」と思いましたがね。
「kiri」が入っているのは「Turbulence」というアルバムですが、私が一番好きで聴いているのはフルアルバムとしてはファーストにあたる「Petrol」ですよ。なかでも「forozen peak」好きですねえ。
グランジ、オルタナティブなどなど用語上のロックカテゴリーの細分化には辟易しているリスナーも多いと思うけど、島田アニスの歌唱法は、そうはいってもそういう時代のものとやはりつながっているとは思います。
最初に連想したのはやはりパールジャムのエディー・ベイダーとか、あるいはストーン・テンプル・パイロッツのスコット・ウェイランドだった。なのに今では彼らの歌声より、私は島田アニスの歌声の方がより好みになった。
お気に入りで例にあげた「frozen peak」では「Don't freeze mine. I don't belong here tonight」と歌う部分がぐっとくるけど、皆はどうだろう?
ウィキペディアによると「エルゴプラクシーが世界中で放送された影響で外国からバンドとしてもオファーがあって南米を回った。ヨーロッパではスペインやフランスでライブをした」という話が出てるけど、北米やイギリスは回ってないんだよね。
ストーン・テンプル・パイロッツでさえ、デビュー当時は二番煎じと言ってたたかれた北米地域はやはり「気難しい連中の巣窟」なので、相手にされなかったってことなんだろうか。
でも、MONORALはメロディーや和声やパールジャムのようなザラザラ系でないギターのトーンやアレンジも独特で心地よいし、すごくオリジナリティにあふれていると思う。「Petrol」は彼らの最高傑作だと思う。
これまで聞き逃していた方にはぜひおすすめしたいアルバムです。