"ルドルフ・シュタイナー"カテゴリーの記事一覧
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前回、「ヨーロッパ人は証明衝動が強く、アメリカ人は自己主張衝動が強い」という趣旨のシュタイナーの発言をご紹介しました。「この箇所」を読んで、もっと前後の文脈を含んだシュタイナーの発言を知りたいと思った方もおられるでしょう。けれども、それをしようと思うと、『色と形と音の瞑想』という本を手に入れなければなりません。私としては「ぜひぜひご購入してご自分で確かめてください」と言いたいのですが、その前にここで前回よりもさらに詳しい抜粋を紹介しておこうと思います。前回の抜粋個所の前に語られていた部分になります。
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(ヨーロッパ人が)アメリカに引っ越すと、その家族の子孫はだんだん腕が長くなっていきます。ヨーロッパ人がアメリカに定住すると、脚もいくらか伸びます。もちろん移住した人自身ではなく、子孫の腕と脚です。ヨーロッパ人がアメリカに来ると、中脳を通過して後脳へと引かれるからです。
しかし同時に、アメリカ人には独特のことが生じます。ヨーロッパ人は思想家になると、まったく自分の内面に生きます。思想家にならないでも、確かに熟考しますが、その場合は思考活動は果たし尽くされません。しかし、ヨーロッパ人がアメリカに行くやいなや、もはやじっくり考えなくなります。
ヨーロッパの本を読むと、いつも証明がなされています。証明からまったく抜け出ていません。四百ページの本を全部読んでも、証明しか書かれていません。小説でも、常に証明がなされています。四百ページの本の最後では、たいてい何も証明されていません。アメリカ人はそうはしません。アメリカの本を読むと、あらゆる主張がなされています。本能に近いところに、繰り返し戻ります。動物はそもそも、何も証明しません。ライオンは、他の動物を食べようとするとき、その正当性を証明しません。ただ食べます。ヨーロッパ人は、何かを行おうとするとき、まず、その正当性を証明します。すべてが、まず証明されなくてはならないのです。ヨーロッパ人は証明し、アメリカ人は主張します。これが、ヨーロッパ人とアメリカ人との大きな違いです。
しかし、アメリカ人が主張することは真実ではありえない、と言うことはできません。彼らは全身で主張します。これが、アメリカ人がヨーロッパ人に勝っている点です。アメリカ人は一方では、滅亡していくインディアンに接近します。人間は滅亡しはじめると賢くなります。ヨーロッパ人はアメリカに来ると、賢くなって、証明をやめます。
証明への欲求は、前進をもたらす特性ではありません。朝、何かをすべきときに証明しはじめ、いつも証明すべきことがまだあるので、夜眠るときになっても、まだ実行できません。アメリカ人は、そんなことはしません。アメリカ人は証明する練習・訓練をしていないのです。ですから、さしあたりアメリカはドイツに勝ります。
太陽は常に光と熱を地上に送っています。いま、春分点は魚座にあります。それ以前は、春分点は牡羊座にありました。後には、春分点は水瓶座に移ります。そのとき、本当のアメリカ文明が成立するでしょう。それまで、つぎつぎと文明がアメリカに向かっていくでしょう。今日すでに、アメリカ人が強大になり、ヨーロッパ人がだんだん無力になっているのを、見ることができます。ヨーロッパ人は自分の土地をもはや理解していないのです。(1923年の)いまヨーロッパは平和ではありません。全文明がアメリカへと向かいます。ゆっくりした歩みながら、春分点が水瓶座に入ると、アメリカ文化が特別に力強くなるのに好都合なように、日光が地上に降り注ぎます。その前触れが、今日すでに見られます。(P46-P49)--------------------------------------------------------
以下、私が気になった個所を取り出してみました。
①ヨーロッパ人がアメリカに行くやいなや、もはやじっくり考えなくなります。
②アメリカの本を読むと、あらゆる主張がなされています。本能に近いところに、繰り返し戻ります。
③彼らは全身で主張します。これが、アメリカ人がヨーロッパ人に勝っている点です。
④アメリカ人は証明する練習・訓練をしていないのです。ですから、さしあたりアメリカはドイツに勝ります。
本日、ドジャース優勝でMLBの決着がつきましたね。優勝、おめでとうございます。米国人はスポーツが大好きです。私自身はスポーツ一般への反感は特にありませんが、「筋肉運動への過度の愛着」は人を唯物論者にするというのがシュタイナーの主張でしたね。彼は健康増進に寄与する軽い運動や体操を攻撃していたわけではありません。彼はまた、「スポーツ(筋肉酷使)に熱中すると嗜眠性を誘発する」という趣旨の発言も言っています。この発言を読んだとき、白鵬や大谷翔平が一日12時間寝ているというニュース情報を思い出したものです。
スポーツという言葉のもともとの意味は「気晴らし」ですが、近代人のスポーツへの愛着は「スポーツ(気晴らし)」になっていなというのがシュタイナーの主張です。要は「あんたらやってることが極端なんだよ」ってことですね。
シュタイナーは「米国では、男たちはスポーツに熱中して、輪廻転生思想の普及を阻止しようとするが、一方で、女性たちが米国における精神活動の普及を担うようになる」とも言っています。
YouTubeなどを見ると、スピリチュアル運動が米国発なのは分かりますが(日本人の一部がそれを輸入して日本風に翻案している最中です)、それがまだ「人智学(神智学)のパチもん」だとしても、ヨーロッパよりもずっとキリスト教信仰への情熱が強かったはずの北米の地で、占星術やタロットなどを扱う女性の占い師たちが、輪廻転生やカルマの話をタロットというカード占いと紐づけて語るようになっているのを知って、私は「これは新しい事態だ」と思ったのでした。
「人は一度だけ神によって地上に生まれ、死んだら霊界でキリストが迎えに来るまで待機している」これが典型的(公的な)なキリスト教徒的発想でした。
キリストが迎えに来るまで何度も何度もさまざまな人種・民族・国民・性別に生まれ変わらなければならない、という考え方を普通米国の神父(カトリック)や牧師(プロテスタント)は語らないでしょう。米国人はすでに、教会関係者から提供される、伝統的な(つまりさんざん聞き飽きた)救済話だけでは満足しなくなっているのです。
現実的にも、人間は集団で人種・民族・国民を移動します。明治維新以降、霊として流入し、日本人の体をまとって地上で活動してきたのは、3・4世紀ごろゲルマン民族として生きていた人々だというのがシュタイナーの情報です。この情報を出してすでに100年の月日が経過していますが、その間もさまざまな「民族移動」が頻繁に起きているのです。
3・4世紀ごろ日本人として生きていた人々は今どこで人間の体をまとっているのでしょう。源平の合戦、あるいは鎌倉時代、あるいは戦国時代に生きた人々は、いま「どこ」にいるのでしょう。そしてこんにち日本人の体をまとっている人々の「民族移動前の故郷」はどこでしょうか。
人々の内面が変化するのは、あるいは、それまで受け入れられなかった思考態度が、人々の間に浸透するようになるのは、「いったん死を迎え、霊界に退き、ふたたび霊界を経由して、各民族が物質界で先祖から受け継いで保存してきた体に、かつて別の人種・民族として違った経験を積んだ人間集団が入り込む」からです。物質界で肉体とそれを賦活するエーテル体として先祖から受け継がれてきた遺産と、霊界から新たにやってきて、保管されたものと結びつき、新たな衝動をもたらす霊団が共同するのです。
代々受け継がれてきた先祖の肉体は物質界で発展を続け、かつてそのなかで力を発展させた民族の成員たちが、時を超えて別の民族が物質界で発展させた地上の遺産(身体と文化)を受け継ぐのです。
人々は「私とは何だ」と「新しい問い」を自分に向けるようになります。その問いは唯物論時代の、せいぜい7、80年くらいで滅びてしまう「こんにち的な発展段階の弱弱しい自我に紐づけされたもの」「ペルソナ(人格):原義は仮面」、つまり「死のたびに解消される縁起の成果としての構成体」「ルシファーの影響力によって生み出され、足枷として地上に投げ落とされた錘(おもり)のようなも」だけを自分だと思って生きてきた時代の人々の苦悩や悩みに関連した問いとは「見た目(言葉)は同じなのに、内包している意味が違う」ものになっていきます。PR -
前回の投稿で「近代に英語圏の人びとはゴーストという古代語をスピリットという言葉に置き換えた」という趣旨の話をしました。
攻殻機動隊の草薙素子は「私のゴーストが囁くのよ」という名台詞を吐きましたが、今の英語圏の人びとは、彼女が「私のスピリットが囁くのよ」と語ったなら、もっと簡単に理解できたでしょう。そういうわけで、彼らには「彼女が言うゴーストとは何だ?」という問いが生じます。
ちなみに最近英語圏の若い人々が、ghostという言葉を動詞として使うようになったようです(相手と「音信不通になる。交流を断つ」というような意味)。
こんにちの英語圏ではボディ・アンド・ソウルという言葉が当たり前すぎて、まさにローマ・カトリックがキリスト教に持ち込んだ「改変」(体・魂・霊の三分節から体・魂の二分節へ)は、長い時を経て、特に英語をしゃべっている人々に、もっともローマ的な影響を、「霊」を指す古語を消失させることで、及ぼしたのだということもできます。
アメリカ人が霊的事象を「物質界的比喩によって表象しようとする強い衝動」を持っていることは、往年のホラー映画などを見るとよく分かります。
以下、シュタイナーの発言の抜粋をご紹介します。
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注意深くアメリカの本を読み、注意深く国会演説を聞くと、今日(今から100年前)アメリカで起こっていることが理解できます。「おやまあ、こりゃたまげた。まったく奇妙なことだ。ヨーロッパでは、精神から人智学が形成されている。アメリカでは人智学の模造品が作られている」と、思われます。その模造品は、すべて唯物論になります。アメリカ文化はヨーロッパの人智学に似たものを有しています。ただアメリカでは、すべてが模造品で、まだ生命的ではありません。ヨーロッパでは、精神によって人智学を生命的にできます。アメリカでは、人智学を本能から取り出します。
このアメリカの模造品が語りはじめるときが、いつかやってきます。そうなったら、ヨーロッパの人智学によく似たことを語るでしょう。「ヨーロッパでは、精神的な方法で人智学が形成される。アメリカ人は人智学を、自然な(本能的な)方法で形成する」と、言うことができます。ですから、私は人智学を説明するときに、「これは人智学的です。それはアメリカ的な戯画です。人智学の戯画です」と示唆できます。
(人智学の)狂信者は、「内的ないとなみ」をとおしてではなく、熱狂的に(外面的に)人智学に親しみます。そうして(人智学の)狂信者は、アメリカ主義を強烈に罵ります。人間が猿を罵倒するのは、猿が人間に似ているからです。これは漫画です。「ヨーロッパで精神的に達成されるもの」と、「アメリカで自然な(本能的な)方法で達成されるもの」とのあいだには、北極と南極のような差異があります。
アメリカの自然科学の本は、ヨーロッパの自然科学の本とはまったく別物に見えます。アメリカの自然科学の本は、絶えず霊について語りますが、霊を粗雑に物質的に表象しています。ですから、近代の心霊主義はアメリカで発生したのです。心霊主義は何を行っているのでしょうか。霊について語り、霊を雲のような現象だと思っています。すべてが雲のように現れてほしい、と思っているのです。ですから、心霊主義(スピリチュアリズム)はアメリカ製です。心霊主義は唯物論的な方法で、霊を研究します。
アメリカでは、精神への途上で、唯物論が猛威を振るっています。ヨーロッパ人は唯物論者になると、人間としては死にます。アメリカ人は若い唯物論者です。本来、子どもは最初、みな唯物論者です。そして、唯物論的でないものへと成長していきます。そのように、アメリカの極端な唯物論は、太陽が水瓶座から昇るとき、精神的なものへと成長していくでしょう。
このように、ヨーロッパ人がどのような課題を持っているかが分かります。アメリカ人を罵るのがヨーロッパ人の課題ではありません。ヨーロッパ人は、最良のものから構成された文明を、全世界に築かなくてはなりません。
アメリカ的なヨーロッパ人であるウィルソン大統領に一杯食わされた、バーデンの王子のようにものごとを考えると、うまく行きません。ウィルソンは生粋のアメリカ人ではありません。彼の理論(民族自決主義)は本来、すべてヨーロッパから受け取ったものです。そのために、彼は不毛な理論を作りました。真性のアメリカ主義が、精神的な方法でものごとを見出すヨーロッパ主義と、いつか結び付くでしょう。このような方法で研究すると、世界でどのように行動すべきかが分かります。(『色と形と音の瞑想』P46-P52)
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「現代人はみな悪徳商人になる傾向があります」とシュタイナーは語りました。私はトム・ソーヤー商法(壁塗りエピソード参照のこと)という言葉を創作して、かつてこのブログでも使ったことがあります。その時同時に「うっかり八兵衛商会」という言葉も作りました。「現代はトム・ソーヤーのようなコンマン(con man)が社会システムからの圧力によって大量発生するしかない状況になっている」と思います。悪徳商人というより、価値の取引において、人々を香具師の口上みたいな言葉遣いをする宣伝家ばかりにしたというほうが実態に近いでしょうか。「その技術」を人々は「一か所に大量に人々を集める」ために駆使しています。「われら自覚なき悪徳商人たち」はそうやって、「場所提供者」の作ったゲームルールに則って(場所提供者たちは「もっと大きな顧客」のためにそういう場所を作ったのですが)「プレイヤー候補者たち」として集められ、一か所に耳目を大量に集めるという「作業をやらされている」のでした。巨大な胴元たちは、プレイヤーたちが、メタ次元に出て自分のやっていることに「道徳的疑問」を感じないように金銭的インセティブを与えています。
そういうえば『悪の秘儀』でシュタイナーは「アーリマンは(彼がばらまく思想の)賛同者を集めることに躍起になっている」と書いてましたっけ。彼は一方で、「人々はバラバラな集団に分裂していき、その集団も内部分裂し、やがてそれぞれが集団の中でひとりになる。そして最後は一人の人間が右の人と左の人に分裂して争うようになる」と不思議な話もしていましたね。
「ロスト」という北米人気ドラマにはトム・ソーヤーという偽名を名乗るキャラクターが出て来ます。彼はコンマン、つまり詐欺師でした。彼が自分のことをトム・ソーヤーと名乗ったのは、少年時代に彼の両親がトム・ソーヤーと名乗るコンマンの餌食になり、彼の目の前でピストルを使って心中し、その衝撃的な思い出を胸にその復讐心を忘れないために同じ偽名を使うようになったのでした。もちろんこれはシナリオ担当者がこのドラマにおいてはトム・ソーヤーという有名な児童向け小説のキャラクターを「詐欺師の象徴」として翻案したからです。コンマンをやっている自分に自覚がない無邪気さこそ、こんにちのわれわれの精神状況を表しています。それでも未来に人々が(シュタイナーの表現によれば)、「苦い目覚め」を自覚するときも来るのでしょう。P.S.
シュタイナーは「議論においてヨーロッパ人は証明することへの衝動が強く、アメリカ人は自己主張することへの衝動が強い」と述べていました。米国人は「公教育」においても小学生からずっと「大きな声を出して主張せよ」という教育を受けていますし。それが西洋圏といってもヨーロッパ系の人々と異なっているところです。上に紹介した動画は、100年後のこんにちにおいても、やはり「ヨーロッパ人はアメリカ人をなじっている」という事実を教えてくれる動画でした。シュタイナーは「将来アメリカ人は品がよくなる(子供から大人になって精神性を深める。)」ということも言ってますし、期待して(時間的には数百年単位の変容でしょうが)待っていましょう。 -
月最低2回の更新を果たさなければいけないと思い、以前書きためていた記事に手を加えて今回出すことにしました。間に合ってよかったなあ。
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大化の改新とは古代の大陸閥(外国精神)革命でした。つまり「本来の古い統治思想(豪族連合統治=仕付け糸式)を大陸精神(中央集権式)で上書きした革命」でした。それは、司馬遼太郎(『この国のかたち3』)によれば「庶民が沈黙させられた古代の社会主義革命時代」の始まりでした。
その革命以後、日本の庶民は何百年も忍耐し、ついにこれを破壊したのが、地方の豪族由来の開発武士団で、「彼らの精神」は、御成敗式目として結実しました。武家は公式に律令を廃するという布告を出さずに、いわば勝手に「自分たちの暮らしの実情に沿った決まり」を作って、「ああ、そういうのもあったよな」的に律令をほったらかしにしました。
武士団は、庶民の精神生活の再日本化に寄与したのです。しかし、呼気と吸気を長い周期で繰り返す人類の歴史の途上において、日本においては、明治革命によって、仕付け糸式の武家政権統治は姿を消し、再び世の中は「中央集権=王政復古=中国閥(藤原組)革命政権」に回帰しました。
とはいえ、こんにちにおいても、さらにもっと古い時代への復古、「大化の改新以前の日本(精神生活においてという意味ですが)への復古」はまだ起きていません。日本に律令体制、古代式社会主義体制を持ち込んだ為政者たちは、一種の言論弾圧を行ったのです。それまで庶民の間で流通していた言葉(認識)を別の言葉で上書きしました。この「国民精神への上書き」はものすごくうまくいきました。ちょうど戦後にもう一度「言ってはいけない革命」によって今の日本人一般のマインドセットが出現したように。
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや 額田王
(懐かしい三輪山をそんなにも隠すのか。せめて雲だけでも思いやりの心があって ほしい。そんなにも隠し続けてよいものか。)
大化の改新以前の古代日本の王政とは今日的な言い方で言うと「秘儀参入者=霊界にアクセスでき、霊界の神々にまみえることができ、そこで得た経験を物質界にもたらすことができる能力を持った人物を、王として立て、国民が彼らを敬うもの」でした。
魏志倭人伝にあるように「道で行き会うとパンパンと拍手の音でもって挨拶される人々」が大化の改新よりさらにずっと以前の古い日本にはいたのです。
今の日本人は、古代日本には「特別な霊力を有した者」だけが拍手をもって挨拶を受けた時代があったことを、皆忘れてしまっています。今日の日本人からはまったく失われてしまっていますが、古代日本にはふつうの民にも「誰が偉大な人物なのか」を見分けられる程度の「霊力」は備わっていたのでした。
人々はその後霊力を完全に失いました。そのような状態で物質界を生きなければならない状況が出現し、そのような状況が20世紀まで続きました。とはいえ、失われた人類の霊力の復活と進展に関しては、すでに新しいフェーズに入っています。
21世紀に入ってからますます、こんにちその輪郭はまだ漠然としてはいますが、人類の認識力(霊力)の進展や輪廻思想も含め、特に日本のマンガやアニメは世界に向けて「紀元以前の古代思想(世界感覚)」の緩やかな普及に大いに寄与しているとも言えます。今日の日本のエンタメ(小説・漫画・アニメ等)には「そのモチーフ」がいろんな作品で何度も登場してくるのが興味深いのです。
シュタイナーの以下の言葉を思い出しました(以下『シュタイナー用語辞典』から引用)。
----------------------------------------------------------------東洋(ロシアとアジア)では輪廻思想が、思考を麻痺させる鈍い感情として現れ、その精神の墓に精神的自己(霊我)が入ってくる。
アジアの文化から未来的なものが生まれる。-----------------------------------------------------------------
一方、英米の男たちの精神的態度については、以下。
-----------------------------------------------------------------3千年紀(21世紀以降)に世界に輪廻思想が復興するが、心魂が強く地上に捕らわれている英米の男性は、スポーツを盛んにして、輪廻思想を阻止する(英米では精神生活は女性によって伝えられる)。
西のオカルト結社は、人々の心魂を地球に縛り付けて、輪廻思想を排除しようとする。-----------------------------------------------------------------
例えば、「転生したらスライムだった件」(season1-ep2)で、ゴブリンたちに向かってリムルが「どうして自分を畏れ敬うのか」という趣旨の質問をしたら、村のオサが「ものすごいオーラが、我々村人たちにだだもれしているからです」という趣旨の返事をします。このアニメの世界では最下層の人々さえそういう「感知能力(霊力)」を持っているのです。
そういう「霊力」は古代の日本人にも本当にあったのです。古代の日本人全体がごく当たり前に霊力を維持できていた時代の、かつての高次の秘儀参入者たちが、こんにち神社を訪れた人々によって、拍手でもって挨拶される人々となりました。
今の日本人は、「なぜ今日の日本人は目の前にいる生きた人々に対して拍手で挨拶をしないのか」と考えたことがありません。「儀式」や「習慣」にはもともと根拠があったのですが、それが習慣化すると、根源を問うことを皆忘れていくものですから、それは仕方のないことではあります。
しかし歴史の周期の中で、人類の霊(界参入)能力が、インド思想的に言えば、黄金時代から白銀時代、そして青銅時代とだんだんレベルを落としていき、そしてついに今日のような無能力時代(カリユガの時代)に到り、世界の諸民族からも霊力が消えてしまうと、ここ日本においても、「誰に向かって拍手で挨拶すればいいのか分からない時代」がやってきました。3世紀以降今日の日本人に到るまで誰も「自らの力(認識力)」を用いて「道で行き会った生きている偉人を見分け、その人物に対して拍手で挨拶する」ことができなくなりました。
庶民が「その能力」を失って久しいですが、「近代」に到り、今日隆盛を極めているのは、その精神性で言えば、極めてアーリマン的な、「文字象徴をいかに上手に扱えるかを競うことによる能力判断テスト」であり、それも社会人以前の、未成年時代のペーパーテスト成果が絶大な価値を持つという、考えてみれば、「歴史的」に見て、はなはだ異常な文化時代です。
自然神ではなく、人を神として祀る系統の日本の神社文化とは、「秘儀参入者を敬う」という、まだ民族全体が霊力を維持していた紀元前にさかのぼる非常に古い時代の伝統が可視化されたものです。こんにち見る神社文化以前の様相が今の日本人にはまったく「思い出されて」いないのです。
こんにち神社参拝は新しいエンタメとして若い人々にも人気になっていますが、大事なのは「こんにち見られるような神社文化を成立させた、古代日本人の霊的実相に思いをはせる」ことです
「実態(霊力を持った偉人たち)」が消えたので「思い出」としての「顕彰所・痕跡(神社)」が残ったのです。
こんにちまで伝わっている神社文化は、われわれに、「国民が秘儀参入者を敬い、秘儀参入者を通じて、人間を超えた高次の神霊たちと交流する、そういう時代があった」ということを類推させるだけにとどまっています。
天皇呼称が使われるようになる以前の「おおきみ」とは高次の秘儀参入者のことであり、古代日本では秘儀参入者のことを「カミ」と呼んで敬ったのでした。「おおきみはカミにしませば」という言葉が出てくるゆえんでした。高次の神霊(カミ)と交流できるものはカミに等しき存在として受け取られたからでした。
日本は「秘儀参入者を敬う」という1万年以前にさかのぼる「非常に由来の古い宗教感覚」によって維持されてきた国でしたが、民族全体が霊力を失った時点で(大化の改新時には壊滅状態でした)日本人全体が「その事実」を忘れてしまいました。そしてその過程で「秘儀参入文化」は「こんにち見られるような神社文化」へと変貌を遂げたのでした。
シュタイナーによると19世紀後半に人類はカリユガ期を抜け、霊力の発展期を何千年もの月日をかけて逆にたどっていくことになります。青銅時代が現れ、白銀時代、黄金時代が出現します。
彼はまた、「人類は、いずれ脳に前世を思い出すための器官を持つようになる」とも語っておりますから、その器官をまだ開花させていない我々ではまだ見通せないでいる過去も、未来に出現する子孫たちにとっては、より接近しやすい対象になるのかもしれません。こんにち学校で学習させられる歴史は(時代が古くなればなるほど)「講釈師見て来たような嘘を言い」の世界と実は大差ないようです。 -
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(古代には)選ばれた人だけが、秘儀参入を通して、霊界を見ることができました。そのような人びとは、古代においては、「蛇」と呼ばれました。蛇とは秘儀参入者のことなのです。(ヨハネ福音書講義P140)
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たとえばヨハネの黙示録を「物質世界、あるいは世界政治的に読む人」は、ちょうどタロットカードに描かれている図案を「王様がさかさまに落ちていきます」次のカードは「火がが山頂に降り注いでいます」などと説明している人の言葉に、図案通りに反応し、かつて歴史的に物質界に存在したあれやこれやを「連想的に当てはめて、おそろしい未来が来る」と吹聴してまわる人と同じことをやっているにすぎません。タロット占い師はイメージが指し示しているものを解読します。ヨハネは人々に、タロットカードの絵柄をこんなものが描かれていると順番に説明する人のように霊界で見たイメージをそのまま書き並べているのですが、そのように受け取りたくない、唯物論的な感受性を持った人々が、物質界で起こるべき大災害だ、政治的変動だと受け取ります。
インドのヨガなど、神秘思想の領域において、尾骶骨から背骨に沿って上昇していく力(クンダリニー)を、英語でserpentine fire(サーペンタイン・ファイア)と呼んでいたりします。
日本人にはクンダリニーとサーペンタイン・ファイアと、どちらがより聞き覚えのある「用語」でしょうか?アース・ウィンド&ファイアのファンだった人なら、アルバム『太陽神』(原題All 'n All[オール・アンド・オール])に「serpentine fire」という曲が収められていますから、あるいはサーペンタイン・ファイアという言葉を知っているとおっしゃる日本の方もおられるかもしれません。
クンダリニーについては、ウィキペディアでは以下のように説明しています。
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インド哲学用語。 原義は「とぐろを巻いている雌のへび」で、人間の個人存在の奥底にある活力、可能力を意味する。
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シュタイナーの『ヨハネ福音書講義』にはこう書いてあります。
-------------------------------------------------------------------------------彼ら(秘儀参入者たち)がイエス・キリストの先ぶれでした。モーセは蛇を掲げる(民数記21章8-9)、つまり霊界を見る人びとに高めるという使命を、象徴として民衆に示したのです。(ヨハネ福音書講義P140)-------------------------------------------------------------------------------聖書には人類の言語が分断される原因となったバベルの塔の話が出ていますが、神智学の文献によると、アトランティス時代の人類の言語は皆膠着語だったそうです。その時代は、今日よりもずっと世界の人種・民族・国民相互の意思疎通が容易な時代だったはずです。
神智学、あるいはシュタイナーの解説によれば、アトランティス時代の終焉期に勃興したのがモンゴロイド、黄色人種です。それ以前にすでに6つの人種が勃興し、前衛の役割交代を重ねて行きました。ある人種が、力を得、力を発揮し、そして、次の時代の人種に勢力が移動していきました。今日でもそういう「力の担い手の交代劇」は「フラクタル的」に起こっています。
アトランティス時代の文明が「7つの人種による交代劇」によって進展していったのに対し、アトランティス後のユーラシア文明は「7つの民族の交代劇」によって進展します。
15世紀以降、今日までアングロ・サクソンが世界を牽引しています。英語は世界共通語になりました。しかし少し以前までは、ラテン系の民族が世界を牽引し、今日のアングロ・サクソンたちの先祖たちは自分たちを文化的に劣った者として、ギリシア・ローマ文化的なものを、あるいはラテン語を敬っていたのです。
それ以前の前衛文化はエジプト文化であり、その前は(今日知られているよりも以前の)ペルシャ文化であり、その前は(今日知られているよりも以前の)インド文化が人類の前衛的立場に位置しておりました。それより以前になると、すでにアトランティス時代末期の別のサイクル時代に突入します。
インドを大きな円の最下部として、左向きに時間を動かしていくと(下図クリック参照)、古代文明の担い手から近代文明の担い手へ順番に西回りに力が移動していることに気づくはずです。古代インド東隣にアトランティス人としての最後の人種、黄色人種が生きていました。黄色人は前時代の一連の文化継起の最後の場所を生きました(小さな6の端っこ)。継起する時間は、新時代を生きるようになったアトランティス系モンゴル人種と新たに生み出されたインド民族の間で分断されています。
神智学の文献によれば、アトランティス時代の黄色人種は、それまでの人種と異なり、アトランティス大陸では生じず、今日のユーラシア大陸が、古代的な形をしていた時代に、今日のロシアの北東部あたりを居住地として始まったということでした。
今日の人種は素質のいくつかを受け継いでいることはありますが、アトランティス時代の人種と全く同じというわけではありません。今日の人種は新しく生まれたもの、新生されたものです。
エドガー・ケイシーの1万年以上前の超古代時代のエジプトに関するリーディングに黄色人種の記述が出て来ますが、「黄色人種とはいっても、彼らは今日黄色人種と分類される人々とは顔つきが異なっていた」という不思議な記述がでてきます。
ちなみに余談ですが、アトランティス大陸からエジプトへ避難してきた高貴な人々は両性具有者だった。彼らはそれを誇り、両性具有者ではない現地民を軽蔑していたというこれまた奇妙な記述もあります。
アトランティス後の新しい周期は「新しい言語構造」を人類にもたらしましたが、今日でも膠着語を話している日本人は、古い時代の言語構造を受け継いだ民族です。今日の中国人の話す言語は膠着語ではありませんが、周辺のモンゴロイド系の民族には膠着語系が多いので、中国人は、ある目的で特別に分けられた人々だったのでしょう。
紀元前2000年より少し前頃に、ルシファーが人としてかつての中国に出現し、現地人を指導したとシュタイナーは語っていますから、モンゴロイドの仲間であるにも関わらず言語構造はむしろ、アトランティス後に世界中に出現した非膠着語系の言語を使うようになった今の中国人たちの先祖たちは、やはり特殊な立場に置かれていた人種民族集団だったのでしょう。
アトランティス文明が終焉して、新しい周期が始まり、今日もその時間軸上で事件が展開し続けています。前の周期においては、すべての人類が一般庶民まで秘儀参入者的でした。つまり地上生活を行いながらも、霊界もまた体験していたのでした。しかし、そのような「感覚体験」はたくさんの世代交代を重ねる間に次第に民衆生活から消えていきました。
キリストが地上に、人間の肉体のなかに顕現した当時、一般の民衆からは前の周期では当たり前に行使できていた「霊界を見る感覚」は失われていました。ただ言い伝えや伝説だけが霊界の存在を教えてくれていました。
それゆえにアトランティス崩壊後の周期において「秘儀参入者」という人々が価値を持つようになったのです。彼らはいわば菩薩道に参入した人々です。富士山が山開きするときは、まず富士山登山のあれこれに通暁したエキスパートが先に入って、後から来る「一般登山者たち」のために人知れず「道を整え」ます。そのように「彼ら」は、これから未来に向けて、霊界参入していく人類の安全を考慮し、見届けます。
「日本の神話部分は秘儀参入(霊界参入)を描いている」と何度も訴えてきましたが、YouTubeなどでも、このテーマをまじめに取り上げている「その方面の広宣人たち」をいまだに目にすることがないのが少々残念です。
伊勢遍歴をする倭姫命(やまとひめのみこと)は個人名ではないとどこかの記事で書いたことがあります。これは秘儀参入用語のひとつです。同様に、倭彦命(やまとひこのみこと)、も倭建命(やまとたけるのみこと)も「個人名」ではありません。
たとえばこの秘儀参入者用語は以下のように使います。
倭イワレ彦命
これは神武天皇の諡号として日本書紀に伝わっているものです。
倭〇〇〇彦命、という形式で呼ばれる人物は、「ある段階の秘儀参入」に至ったことを示しているのです。女性の場合は、倭〇〇〇姫命と呼ばれます。有名な人物として日本書紀に登場する倭迹迹日百襲姫命 (やまとととびももそひめのみこと)の逸話があります。ともに秘儀の7段階のうち、第5段階の秘儀参入を成功させている男女への呼称です。
神話上では、さらに高い段階の秘儀に参入できた者は、倭〇〇〇建命と呼ぶことになっていたらしいいことが暗示されています。ですから、神話に登場するヤマトタケルノミコトの「個人名」は今日伝わっておりません。倭姫命の遍歴物語もまた、彼女の「個人名」は示されていないのです。
西洋には「白鳥」を象徴とする秘儀の高次段階が存在します。ヤマトタケルの物語も「白鳥となって飛び立つお話」で終わるのは、興味深いことです。
「蛇」は秘儀参入者を暗示する符牒でした。オオキミの時代の日本において、「蛇」の象徴を持っていたのが大物主大神ですが、具体的にはその子孫と言われる物部一族が「秘儀実践の細則」を「不立文字」(とはいえ、当時は、もともと文字なき口承の時代でしたが)として保全してきたのでした。
のちの時代の物部氏の没落物語(=表舞台からの隠遁)は、「もはや本来の秘儀参入は行われない」ということの別様の表現でもありました。
遠い古代以来の霊界参入能力を素質として持っている人々は、必然的に減っていきました。アトランティス後の時代の「前半」は、そうなるように運命づけられていました。人間はかわりに知性を育てる周期に入っていたからです。
神話に登場する、倭姫命が「箸にホドを突かれて絶命するエピソード」は「蛇の一族、すなわち物部族に導かれて行われた秘儀参入の失敗を告げる物語であり、もはや秘儀の7段階のうちの、第6段階の秘儀参入の儀式に耐えられる者(アマテラス)はいなくなった」ということを示す物語でした。
-------------------------------------------------------------------------------《日本書紀》に登場する巫女的な女性。《古事記》では夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命と名のみみえる。謀叛の予見,神憑りによる神意の伝達などで崇神天皇を助けたとある。姫は蛇体の大物主(おおものぬし)神の妻となるが,その正体に驚いて夫の怒りをかい,後悔のあまり箸で陰部を撞いて死ぬ。よって姫の墓は箸墓(はしはか)とよばれた。奈良県桜井市にある大規模な前方後円墳がそれだといわれる。姫を邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)に比定する説もあるが,ともあれ大古墳の主という伝承自体,当時の巫女的女性の権威の大きさを物語っている。
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「蛇体の大物主神の妻となる」=第6段階のアマテラスの秘儀を敢行する
「その正体に驚いて夫の怒りをかい,後悔のあまり箸で陰部を撞いて死ぬ」=高次の霊界への上昇に失敗し、命を落とした。
この神話はエロ話をしているのではありません。今日のような唯物論者ならば、エロくて悲惨な話と受け取るでしょうが、「秘儀の秘密の管理者たち」は秘密を知るべきでない人々が「そのように受け取ってくれるなら、むしろ歓迎だ」と思っていたでしょう。
世界中にある「蛇殺し」の神話は、「アトランティス後の人類はそれまであった霊界を見る能力を失った」ことを神話的に表現したものです。ギリシア人の活躍した時代はもはや「特殊な素質を遺伝的に受け継いでいる少数の者以外、一般庶民たちが蛇たることをやめてしまった時代」でした。ただ、そのような神話・伝説を未来に解読されるべき贈り物として受け取り、知性の育成の時代に入っていったのです。
今年は巳年、蛇の年ですし、「モーセが蛇を掲げた」ように、新しい秘儀参入体験を持つことのできる人々がさらに増えていくのでしょうか?
楽しみですね。 -
前回の記事では、「エルフェンリートと百合の花」を扱ったが、今回はエルフェンリートと角について、さらに「連想」したことを書くことにする。
エルフェンリートに登場してくる少女たちの頭には、一見すると猫耳と誤認しそうな形姿の「角」が描かれている。岡本倫先生は、なぜあのような読者が簡単に誤解してしまいそうな形姿で(猫耳っぽく見える)角を描いたのだろうかと思う。
それは単にデザイン上のつまりルック上の審美的判断によって、日本における鬼のイメージのような「伝統的な角の描き方」を避けたからということなのかもしれない。作品中では、角と松果体との関連にも言及していたので、秘儀参入関連の話として登場してくる7つのチャクラ、特に眉間(アジナ)のチャクラの話とまったく無関連だとも思えない。きっと文献的な参照はされているのだろうと思う。
近年日本の漫画家やアニメーター、あるいはラノベ作家たちは、神話や魔術や神智学や人智学文献に詳しい人が増えていると思われる。ネタの宝庫だからだ。ところで一方で、飯のタネになるからとそれらの書物群を読み、その体験をもとに物語作りに没頭している彼らクリエイターたちは、自覚はなくとも「天啓」を地上で具象化しているのであって、中世的な布教システムのなかで、古びた説教を、教えられた通りにオウム返しているわけではない。組織安堵が目的の古い西洋由来、東洋由来の教会思想の頒布者たちは、今日もはや力を失っている。「彼らの言葉」はもはや民衆を感激させる力を失っている。
西洋においては、悪魔は角を生やして描かれているし、日本においては、鬼と呼ばれる存在は、童話の挿絵などで図像化されているように、やはり頭に角を生やしている。
古代日本人は「鬼」という漢字が日本に入ってきたとき、なぜか中国原義の「死霊」の意味を、「鬼」と書いて「おに」と読ませる漢字に含意させなかった。今日においても日本人にとって鬼(おに)は中国人が思うような「死んだ人間の霊」ではない。一方、ルドルフ・シュタイナーは、『神智学の門前にて』で、ミケランジェロは、モーセが秘儀参入者であることを象徴的に示すために二本の角を頭の上に加えたと語っている。
シュタイナーによると、額のチャクラは二枚の花弁を持っており、モーセの頭部に付け加えられた二本の角は、その二枚のチャクラの花弁の隠喩なのだ。つまり「角を持つ者」とは「秘儀参入者」の隠語でもあったということだ。
------------------------------------アストラル体に、ある器官が発生する。その器官というのは、七つのチャクラである。鼻根のあたり、眉のあいだのところに、二弁の蓮華のチャクラができる。霊視的な芸術家は、このことを知っており、作品のなかにそのチャクラを象徴的に描いた。ミケランジェロはモーセ像に、二本の角を刻み込んでいる。(P55-P56)------------------------------------神智学者のリード・ビーターは「これがチャクラのイメージ図だ」と、彩色された七つのチャクラの姿を『チャクラ』という本の中で紹介している。以下は眉間のチャクラの図像である。
『チャクラ』によると「眉間のチャクラの花弁は2枚または96枚」と書かれている。真ん中で半分に割って左右微妙に色合いが異なっていることは確認できると思う。大まかな色としては2色に分割できるが、さらに発展すると96枚に分節していくということなのだろう。
ちなみに、シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』においては、眉間のチャクラは2弁でできていると述べている。
以下は『チャクラ』掲載の図像に手を加えたものだ(画像をクリック)。
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そして今はじめて、両目の付近にある二弁の蓮華を用いる時がきたのである。この蓮華が回転し始めると、自分の高い自我をそれより一層高次の精霊達と結びつけることが可能になる。この蓮華から生じる流れは高い位階にまで広がっていくので、その精霊たちの活動が完全に意識化できるようになる。光が物体を見えるようにしてくれるように、この流れが高次の世界の精霊たちを霊視させてくれるのである。(文庫版P183)
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このように、ルドルフ・シュタイナーは、「額の二弁のチャクラを発達させた者は、高次の精霊(神霊)たちと交流を持つことができるようになる」と『いかにして超感覚的世界の認識を獲得できるか』のなかで述べている。
そういうわけで、古代の日本においても、二弁の額の蓮華(チャクラ)を開華させえた者(秘儀参入者)は、「額に二本の角を生やした者」あるいは「おに」と形容されていた時期があったのではないかと考えたのだった。
飛鳥・奈良時代は「日本精神の中国化」が進められた時代だった。特に大化の改新の均田制の導入は司馬遼太郎によれば「古代の社会主義革命」だった。また彼によれば、その時代は一方では、国家によって民衆が黙らされた時代だった。(参考『この国のかたち』)
高松塚古墳には人物像が描かれているが、それは、あきらかに当時の中国人の風俗図であった。では、日本の選良たちが「中国文化にかぶれ」る以前の日本人は、顔をどのように描いていたのだろうか、というのが新たに芽生えた私の関心だった。
そう思ったとき、隔世遺伝のごとき復古趣味、つまり両親(飛鳥・奈良時代)からではなく、その前の世代(おおきみの時代)の祖父母の因子が遺伝されるように、平安時代の化粧法の中にその「日本本来の化粧思想」が隠れているのではないかと、ふと思いついた。
そして同時に30年ほど前、ニフティーサーブでパソコン通信をしていた時代に出会った「ある議論」を思い出した。
それはスサノオノミコトの図像には眉の下に角が描かれている、というものだった。それが以下に掲げた、島根県松江市の八重垣神社に伝わる絵画である。
左がスサノオノミコト、右がイナダヒメの図像と伝わっている。両人ともに本来の眉を消し、額の左右にべったりと墨を塗ったような大きな眉が描きこまれている。「スサノオノミコトの左側の眉はなぜ盛り上がっているのか、これは角ではないのか、角の上から眉墨を大きく塗りこんだ姿ではないのか」という問題提示だった。
今日、考古学的遺産として残されているのは、当時の日本の指導層がどのように隋・唐の政治・文化風俗に感染させられたか(かぶれたか)を示す証拠である。
高松塚古墳の壁画に出てくる人物画は、眉間に文様はないが、眉は「正しい位置」にしっかりと描きこまれており、これらはそのまま当時の中国人の風俗そのものだと言える。また正倉院にある「鳥毛立女屏風」からは、眉をしっかりと描き、眉間の間に文様を描き込むという、当時の中国婦人たちの化粧風俗を読み取ることができる。
今日の日本の女性の眉は時代によって濃くなったり、薄くなったりしても、本来眉のあるべき「ただしい位置」に描いている。だが、そもそも平安時代の貴族たちは、男も女も「本来の眉のある位置」に眉を描かなかった。
当時の中国人たちが「眉のある場所に眉を描いていた」のに対して、日本の貴人たちは本来の眉を消して、額の位置に新たに眉を描き込んでいる。
わざわざそんなことをする理由が「何に由来しているか」、実ははっきりしたことは一般には知られていない。ただ「確かにこの化粧習慣は中国産ではない」と思われる。とすれば、その淵源は飛鳥時代以前の「秘儀の文化」からもたらされたものではないかというのが私の見立てだ。
2.3世紀ころまでの日本人は、まだ肉の体にありながら霊界を垣間見る能力を残していたらしいことは、以前にも書いた。
そのような人々の中に、高次の神霊たちと交流する感覚を持っていることを示す「眉間のチャクラ(蓮華)」の開華者たち、すなわち秘儀参入者たちが存在した。彼ら彼女らは「光り輝く眉間のチャクラ」を有していた。
6・7世紀には、本来の秘儀参入者は日本の朝廷周辺からも消えてしまっていたが、「古代の思い出」はなお残っていた。
古い時代、魏志倭人伝に書かれているように、貴人とは秘儀参入者であるがゆえに拍手を受けて敬われる存在のことだったことも前回書いた。
平安時代に「シナ革命以前の日本の古代への復古(国風文化)」として、当時の貴人たち(貴族たち)が、自分たちの化粧として施した「不思議な眉の描き方」は、「強い霊力の持ち主の象徴として二本の角(二弁のチャクラ)を額に持っていた先祖たちの子孫」であることを表示する、いわば記号だったというのが私の見立てである。
平安時代の日本の貴族たちは<男女ともに>同じような眉の描き方をするようになった。あるいはすでに以前から「日本人の伝統」として、飛鳥・奈良時代には、そのような化粧法(秘儀参入者であった先祖の思い出として、その血を受け継ぐ子孫のあかしとして、「角持ち」の象徴として額の高い位置に眉を描くこと)はあったのかもしれないが、考古学的遺物として発見された中国式肖像画の存在が、そのような「伝統の先在」の事実を覆い隠していたのかもしれない。
飛鳥・奈良時代の人物画として日本に残っているものは、「当時の日本人」を描いたものだったのかさえ、あやしいからだ。それは単に当時の中国人の姿だったのかもしれない。
古代中国文化が流入する以前の古代日本には「神あるいは貴人の肖像を描く」というような文化はなかったのだから。
女性が婚礼の場で「角隠し」と呼ばれるずきんをかぶるようになったのは江戸時代以降らしい。その由来については「どこから持ち込まれた習俗なのか」はっきりしない。なぜ隠すものが「顔」ではなく「角」なのか。「角」とはいったい何を指してそう呼んでいるのか。ここで言う「角」とは本当の眉の上部、つまり額に新たに描きこんだ眉のようなものを指している。「日本の古代人たち」が額に描き込んでいる、眉ように見える「何か」は、さらに古い時代には、「角」と呼ばれ、彼ら「日本の古代人たち」の霊眼によって二葉のチャクラとして実際に認識されていた。「角」とは、秘儀の言葉であり、額に出現する二葉のチャクラの「古代的表現」だった。その痕跡を、後代「眉隠し」と呼ばずに「角隠し」と呼んだところに妙味がある。
「古代へ帰れ」あるいは、新しい攘夷、あるいは王権継承というのなら、飛鳥以前の大王(おおきみ)の時代までの文化、「秘儀参入者たちが統治した時代の文化」へのまなざしが復古する必要がある。これは今日の日本人にはまったく知られていないものである。
見たり聞いたり触れたりする行為は「直観」的(直接的)認識である。先祖たちが、近代日本人が失って久しい「ある直観能力」を持って霊界と物質界を「それぞれの感覚器官(直観器官)」を用いて「認知」していた時代があったということを認めることから始めなければならない。しかしそれは唯物論者であることをやめた者にしか始められない。「それぞれの感覚器官」と書いたが、今日、その片方はずっと失われたまま「復活する」のを待っている状態なのだ。
実際には目には見えないが、「すべての自然物に神霊が宿っている」と空想することをアニムズムという、と近代西洋の唯物論の土台の上で思考作業を重ねている人文科学者たちが語ると、「その意味が担っている土台(実際には自然の中に神などいないのだが、という唯物論者の隠れた悪意」を観取できずに、「これは古い日本文化賞賛のための補強理論になる」と思い込んで「日本人は古来アニミズム思想で生きてきた。すばらしい、日本の古代人は最高のエコロジストだった。自然にはどれもこれも神々が宿っているから大切にすべきだ。実際には古代人にも神々なんて見えなかったのだろうが、考え方自体はすばらしい。だから近代日本人はそのような古代人的思考態度を持つべきだ」などという宣教にしきりに感心して、このトピックは近代日本人への「政治上の説教話」に使えると思いなして、実際にそれを言う輩がとても多いことが問題なのだと気が付かない。
YouTubeなどで「日本最高教」を布教する彼ら自身は、まさに「近代の子」であり、日本の遠い先祖たちは「自然界についてこうあれかしと空想」していたのではなく、「実際に神霊を見、交流していた」ということについては夢にも思っていないのだ。
人間が「実際に神霊を見、交流すること」はアニミズムではない。それは「近代の学者が論文用に空想してこさえ上げた架空の思想」ではなく「実体験」なのだから。日本において左翼的エコロジストにしろ、王党派的な政治的に右側を自任している人々も、実際には「近代人特有の感受性と近代に書かれた歴史解釈本で学習した連想感覚」で古代人を眺めているにすぎない。
皆「どのように思考するか」については「唯物論的近代教育の犠牲者」なのだ。近代人的な連想感覚を土台に作成された教科書の内容でテストされ、高得点をとって、権威筋から褒められ続けると「その言語ルール」のなかで他者とのペーパー競争に勝利し続けてきた自分に酔ってしまい、そこから冷めることのできない悟性魂(硬直脳)のままの利口者もいる。
だから「古代の神話を読んでみよう。万葉集を見てみよう。人の心は昔も今も変わらない」などという「近代人特有の言い回し(偏見)」から抜け出せない人々の「解説」など、本来聞くべき真実な内容を持っているはずがないのだ。遠い古代以来、人間は変容し続けてきたし、これからも変容を続けるのだから。人の心(認識力)は昔と今では変わってしまったのだ。
今後人類が「どのように変化」していくのかについての見取り図については、かつて当ブログでも書いた。
シュタイナーの語る「7の5乗の世界」
今後、一人でも多くの人に「この観点」が共有されるようになっていくことが新しい時代感覚の進展の到来時期の早さ、遅さを決めていくことになるという話だ。