忍者ブログ

BOUNDHEAD

人類の新しい霊界参入体験について
ルドルフ・シュタイナーの著作は日本では大量に翻訳本が出ていますので、ドイツ語が分からない人々にとって日本は、本気でオカルト学(秘教)に挑みたい人にとっては、たいへんよい環境が整っていると思います。

彼の情報によると、さかのぼること1万年以上前までのアトランティス時代の人類は、みな今で言うところの秘儀参入者でした。「秘儀参入者である」というのは、単に霊界を垣間見ることができるというのではなく、高位の神霊たちと交流することができたという意味を含んでいます。

シュタイナーは『ルカ福音書講義』にて、霊界参入者を以下のように3段階に分類して説明しています。









(1)霊視者(イマジネーション認識者)
(2)霊聴者(インスピレーション認識者)
(3)霊的合一者(インテュイション認識者)

彼は現代においても霊視者はたくさんいると述べています。霊視者は霊界の像を浮かび上がらせる能力はあるが、その像が何を意味しているのか分からない段階にいる霊界参入者です。またその能力にも差があることは、最近ではアニメ「見える子ちゃん」でも描写されていましたね。

音楽的な才能(感覚)を比喩として用いるなら、訓練されている人とされていない人とでは、聴こえてくる音像から取得できる「情報」には大きな差があることはよくご存じのことだと思います。音楽に疎い人にとってはひとつの漠然とした響きにしか聴こえない複数音声の集合体をを、訓練を受けた人は、いくつの音で構成されていて、その音はこれこれだ、そしてコード名は何々と言うと答えられます。

人間の可聴周波数の問題ではモスキート音というものがありましたね。20歳の人には〈音〉として聴こえる周波数が年を取ると〈可聴化できない〉、つまり認識できなくなくなるというあれです。人間が持っている「感覚器」を用いて、何かの情報を取得しそれが何であるかを解釈できる能力には個人差があるのです。霊能力についても、同じ個人差が存在するということですね。もっと長大な年月をスパンとした人類史においては、時を経ることよって、全人類単位で一気に失われた「人類の能力」というものがあったのだということを、その事実を、現代人は認めることができるでしょうか。

霊視者は霊界参入者ではあっても「秘儀参入者」ではないとシュタイナーは言います。

秘儀参入者と呼ばれるためには、霊聴能力、つまり見たものを言葉や音として聴き取る能力も、〈見る力〉つまり霊視能力とともに持っていなければなりません。そういう能力の所有者のことを日本の古代の秘教の伝統にそって言い直すなら、「耳」という称号を贈られた者たちがそういう領域に属している人々です(以前当ブログで紹介した古代の大王(おおきみ)たちの諡号や聖徳太子が豊聡耳命と呼ばれた故事を思い出してください)。

宜保愛子氏は晩年、「像は確かに見えていたが、言葉は聴きとれなかった」と述懐したと語られていますが、そういう意味では彼女は霊界参入者ではあっても秘儀参入者ではなかったということになります。

霊的合一者は霊視能力、霊聴能力に加えて、対象の中に入って一体化できる能力を持つ者です。認識できる範囲は霊聴者よりもさらに広がるのです。「秘儀参入者」とは霊聴能力者か霊的合一者のどちらかを指す言葉なのです。

アトランティス時代には人類は誰でも自分がその中に生きているところの霊界を認識しながら生きていました。つまり死者や高次の種々の神霊たちに取り巻かれて生きることは所与の現実体験だったので、それらの実在を証明する「動機」が存在しませんでした。それゆえに、いわゆる今日に見られるような形態の「宗教」というものはありませんでした。

宗教というものが「この新しい世界」に出現したのは、人類が「霊界の住人」でいられなくなった結果なのです。宗教は、かつての人類は彼岸の存在だったということを思いださせ、人類にその見えなくなった世界を敬わせるために出現したのがそもそもの始まりです。「そのような宗教感覚」はアトランティス後の時代に世界各地にいた秘儀参入者たちが自分たちの属する共同体に持ち込み、育て上げたものに由来するのです。「宗教的である」というのは、彼岸の存在を信じ、それを敬う態度を持つということなのです。

シュタイナーは『神智学の門前にて』で、以下のような話をしています。

学識者は(神話や)伝説は民族精神に由来するものだという。だが、それは真実ではない。また、この伝説は偶然にできあがったものではない。偉大な秘儀参入者たちが、自分たちの叡智を込めてこの伝説を作り、人々に伝えたのである。あらゆる伝説、神話、あらゆる宗教、あらゆる民衆文学は世界の謎を解くのに役立つものであり、秘儀参入者たちの霊感に由来するものである。(P26)

どこかの宗派に属していることをもって宗教に入っている人という認識で日常生活を営んでいる戦後日本人的な感覚は実は相当に世界の常識とずれた見立て(自己認識)なのだということです。

それは日本人が近代化という掛け声のもとで唯物論という「悪しきセンス」も同時に持ち込んで、そこに自分自身をフィットさせようと努力してきた結果です。

近年日本が生産した四角いスイカが世界の話題になったことがありますが、まさに近代化以降の日本人の態度そのものを象徴するトピックでした。日本人は「自分の身体にあった衣服をオーダーメイドする習慣」を捨てて、それを善なる振る舞いだと信じて、スイカの実がだんだんと四角い木枠のなかに隙間なくぴったりとフィットするように成長を遂げていくように「自分自身の精神の可動力を駆使して精神を変容させた」のです。木枠の持つ「形」に迎合したのです。

よく「共産主義は宗教だ」という表現を聞きますが、厳密には宗教ではありません。何かの主義主張が宗教であるためには、地上を超えた世界や存在の実在を信じそれを敬うという要素がなければなりません。

しかし死後の生を否定するようになった近代人は、その定義を捻じ曲げて、「彼らにとって不合理だと見做せる教え」を「信じる行為」を行っている人々への蔑みの表現になりました。

たしかにカルトの問題を見れば、そういう見方になってしまう側面もあるでしょう。この定義ならば、共産主義をもカルト宗教に似た側面をもつ教えとして存分に罵倒できるからですが、そもそも、宗教という言葉を使うときに、本来の宗教との微妙な差異について「自覚的になれない人」は、学校現場を支配している近代教育の思考態度で批評をしているだけの話です。

私はかつて、高校の現代社会の教師が「〇〇は宗教だ」と生徒の前で言っている事実を知ったときに、明治維新時に近代改革派が当時のヨーロッパの思想を「技術」中心に輸入したとき、それに付随して唯物論的な思考態度を学問的思考の「基本態度」として重視すべきだと思って学校現場にも持ち込んだ成果が、今ありありと実を結んだのだと思っています。

その後の日本の教育界は「西洋のそれをしのぐほどの唯物論思想」普及に無自覚にまい進しました。その結果、唯物論者であること(あるいは「そのように装う」こと)が、現代日本人の「公的態度=建前」の表現として世間の表舞台に掲げられ、流通させられるようになり、日本人は「公的マナー」として無自覚にそのことに「身を摺り寄せ」て、つまり自らを変化させ適応させて生きてきたのだということです。

以下はシュタイナーの日本人への警告です。

日本人が形成したような霊的な思考は現実のなかに進入していきます。それがヨーロッパ-アメリカの唯物論と結びつき、ヨーロッパの唯物論が霊化(精神化=脱唯物論化)されないなら、その思考はヨーロッパの唯物論を凌ぐことは確かです。ヨーロッパ人は、日本人が持っているような精神の可動性を持っていないからです。このような精神の可動性を、日本人は太古の霊性の遺産として有しているのです。(『いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか』P76-P77)

また西川隆範氏は、シュタイナーが日本の近代化の実情について語った内容を以下のように紹介しています。

日本人が蒸気船の運転を試みたという話である。どのように運転するか、どのように舵を切るかを、日本人は見様見真似で習得した。そして、日本人は外国人の教師に対して、もう自分たちで航行できる、といった。そうして、外国人教師を陸に残して、日本人船長の指揮のもとに蒸気船は出発した。日本人は舵を切って、方向転換をした。ところが、どうやって元に戻せばよいのかを知らなくて、船は回転しつづけた。(『いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか』P77)


「どうやって元に戻せばよいのかを知らなくて、船は回転しつづけた。」という部分はとても深刻に響きますねえ。「その回転度はますます激しさを増している」というのが現代日本の姿なのでしょうねえ。まるで地球の重力圏から飛び出せずに永遠に周回軌道を回転を続けるデブリのような状況です。

現代日本人の場合に限って言えば、長い学校生活を通して一度も「宗教とは何か」ということについて、ここで述べたような「ちゃんとした定義」を教師の口から聞くことなく成人した人ばかりです。

中学生が高校受験用の質問として「世界の三大宗教は何ですか」と問われると優秀な子は「仏教、キリスト教、イスラム教」と即座に答えられます。そのように「表面的なこと」はたくさん知っていますが、肝心なことは分からないままにほっておかれているのが日本の現代っ子たちの「精神生活」のありようです。しかし子供を育てているオトナの側にそのような観点に対する自覚がない以上、子供を責めることもできませんね。

アトランティス大陸の崩壊後、新しい陸地に移住した人々が「知性の発展」という新しい課題に向けて、新生活を始めるようになりました。霊視を可能にするために身体からはるかに抜きん出ていた古代人のエーテル体は、ますます物質的身体とその輪郭を一致させるようになりました。そのような状態に身体が変化することが思考力を育てるには必要だったのです。とはいえ、その時代においても、なお高次の神霊たちの言葉を理解できる霊聴能力を維持できている人々もいましたが、時代が下るにつれて、知力の発展と引き換えに、「ますます古いタイプの霊界参入能力」を失っていきました。

日本の縄文時代人も5千年前までは実際に自分の周囲に神霊を見ていたのです。山や木に神霊がいると「空想」し、「その空想を信じた」のではなく、「実際に見ていた」ということを縄文時代文化復興運動にまい進する人々は理解すべきです。それは西洋近代の宗教学者が定義したような「アニミズム」ではないのです。日本人はこういう唯物論ベースの説明を百科事典的に参照し、「分かったような気」になって人前でオウム返しします。

彼らの言うアニミズムとはどういう意味でしょう。それは学問的には「古代人による、自然界には神霊がいると〈空想〉する態度」のことなのです。〈そういう態度〉を学問的にはアニムズムと定義すると言ってるにすぎません。つまり「神霊やら精霊やらの実在を〈信じる〉なんて、古代人は馬鹿だった」と遠回しに言うためにアニミズムという言葉を学問用語として捏造したのです。一方で、彼らは「神々と言うのは古代人の捏造にすぎない」と〈信じる態度〉を一般庶民たちの前で披歴してくれていますが。では〈このように信じる態度〉は学問的にはなんと言う言葉で定義されるべきなのでしょうか。それを唯物論というのです。

高次の神霊と交流できるような「高い霊能力」が完全に失われたのが紀元前3千年、言い換えるといまから5千年前の時代です。縄文時代末期に抜歯の習慣が始まったのも、そのことと関連性があるのです。歯の形成力とエーテル体には強い関連性があり、抜歯によってエーテル体を霊視力として解放する技術でした。それは自分たちの周囲からますます消えていきつつある神霊世界の消失を押しとどめたいがための苦肉の策でした。

ルドルフ・シュタイナーは「霊視」について以下のような話をしています。

霊視とは、そもそもなんなのでしょうか。霊視できるということは、エーテル体の器官を使用することができるということです。アストラル体の器官だけを使うことができる状態では、深い秘密を内的に感じ、内的に体験することはできますが、その秘密を見ることはできません。アストラル体のなかで体験したことがエーテル体に刻印されると、霊視が可能になります。太古の霊視は、まだ完全には物質体のなかに入り込んでいないエーテル体の器官を使用できたために可能なものでした。人類は時間の経過のなかで、なにを失ったのでしょうか。エーテル体の器官を使用する能力を失ったのです。(『ルカ福音書講義』P64)

そしてさらに3千年が経過し、キリストが太陽領域から地上に到来するころには、一部の人類がかろうじて若干の霊視力を隔世遺伝的に保持できている状態でした。もはやその当時において、霊視力を持つ人々の見るものは、悪霊のようなものばかりとなっていました。最後に人類に残された力に映じた霊視像は邪悪なものばかりの時代がやってきて、そしてついにそれさえも見えなくなる時代がやってきたのでした。

今日では、先祖から隔世遺伝的に霊視能力を受け継いでる人も、それを失ってしまうことはよくあるようです。YouTubeでパシンペロン氏が、「以前見えていた人が失ってしまった霊視能力が復活するときにまず最初に遭遇するのは悪霊だ。そのあと能力が高まるにつれて善霊が見えるようになる」というような趣旨の話を語っておりましたが、これはシュタイナーの発言とも符合するコメントです。

紀元後の弥生時代以降の日本の古代においてもすでに個々人から霊視能力は奪われておりました。神おろしと称して霊媒を使う技術も残っておりましたが、これは縄文時代前期人一般がそなえていた「高い霊視能力」が失われた代替技術でしかなく、今日的視点で言えば、一種の堕落行為でした。

特別な修行体系に則って「長期的な準備」のもとに行われたのがその総仕上げとしての秘儀参入体験としての大嘗祭です。この秘儀は中臣・藤原氏が主導する大化の改新以降は完全に別のもの(神秘体験を伴わない古代中国式即位儀礼)にとってかわられました。

日本民族の秘儀参入の伝統もこのとき途絶えたのです。しかし、世界中の民族が同じ運命をたどって今日ある姿となっているのです。

しかし人類には「新たな能力」が目覚めつつあるということもシュタイナーは語っております。これから2500年ほどかけて、個々人に順々に隔世遺伝的な霊視力によるのではなく、個々人が忍耐して繰り返してきた長い輪廻転生の成果がこれから少しずつ現れてくるという話です。

5千年前に人類一般が失った能力を取り戻すために修行僧という人々が出現しました。仏教のお坊さんもカトリックの神父さんたちも霊界参入のために修行したのだということが今日の一般の人々の常識からも失われています。庶民はいまやそれらの地位は「社会的職業の一種」に過ぎないとさえ思っています。

この系統の伝統もすでに形骸化しています。それらはもはや有職故実に過ぎないものとなって、企業に属している人々が企業の利益や秘密を守るために利己的にふるまってしまうように、僧団や教会集団に属している人々も「組織に属していること自体に意味を見出す」のみで、「組織安堵」のためにポジショントークすることこそが自分の役割だと思って活動しています。

しかし釈尊にしろ、イエスにしろ、若いころはたくさんの旅をして師につき、個人として世界の成り立ちの真の姿を追い求めたのではなかったでしょうか。

僧団や教会組織がちょうど個々人の属する家庭のようなものならば、我々は昔から家族の住む家でともに過ごしながら、外に出て行ってともに働く仲間を得て、「新しいもの」を作り上げるために共同してきたではありませんか。

有職故実主義から自由になって、すでに近代に出現しているにもかかわらず無視され続けてきた「新しい啓示」に個人として積極的に触れることが必要です。大事なのは、「古い教え(解釈)」をオウム返しできるようになることではなく、自分自身が霊界参入者となることで、これまで語られてきた宗教上の教えを「自分の力で再確認できるようになる」ことです。これが人類の新しい目標です。

今日では秘儀参入者となるために修行の道を歩む人と隔世遺伝ではない新しいタイプの秘儀参入者の出現の道という二つの道が予告されています。宜保愛子氏のような遺伝的素質による霊界参入は新しい霊界参入ととって変わられるのですが、現代はまだそのかすかな予兆が始まったばかりです。

そのような人々の「体験の報告」がゆるやかに人々の常識感覚を変える時代が近づいているというシュタイナーやエドガー・ケイシーの予告が実現される日をはやく見てみたいものです。
PR

コメント

コメントを書く