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BOUNDHEAD

国家による国民教育という国民を不幸にするシステム
上位カテゴリー管理者たちから命令されて、ゲームメーカー(日本支部は文科省官僚たちが担当)によって作られた「人選ゲーム世界」で戦い、少数者たちが「彼らが地上に投下したゲーム」の上位者となって「彼らの仲間(ゲーム管理者)」に加わって、「同じゲーム」のバージョンアップをする。マークシートに限ってみてもVer.1.0から今何番目のバージョンの投入になっているんだろうか。



大学への国家管理強化の手段の一つとして始められた共通一次テスト。1979年の第一回「ゲーム参加料」は5千円だか8千円だか、記憶では1万円を切っていたが、いまや2万5千円も取っている。そしてウェーバーが「役人は仕事を増やす」という通り、その後さまざまな改変が加えられて(悪名高い「教員免許更新制度」も官僚たちによるウェーバー論的振る舞いのひとつだった。この時も官僚たちはマスコミを動員してもっともらしい理由を広宣させて、国民の了承を簡単に得てしまった。だが結果は廃止である。結論は「税金の無駄遣いだった」である。だが彼らは誰も、金銭的な浪費だけではなく、そのために「国民の通常の生活や労働」から切り取られて費やされた膨大な時間や人的資本の浪費の責任を取らない)、試験手法と内容はますます複雑で煩瑣なものになって、このシステム周辺で利益を得ている企業人たちと黒子の官僚たちの暗躍場所になっている。

このシステム自体も教員免許更新制度同様、一種の国民からの金銭搾取フィールドになっている。進学校では進学や就職が決まってテストを受ける必要のない学生にも「ゲーム・エントリー料金」の支払いを強制している。まるでNHKの集金人のような役割を高校教師たちはやっているが、この領域ではNHK党のようなものがないので、学生もその親も戦うことができない。疑問を感じている教師たちもいるが、彼らは自分を守るために声を上げない。

高校生たちは「なぜそんなことを大人たちが許してきたのか」そもそも疑問が湧いたこともない。彼らは「自分らが強いられている勉学の環境全体」を「適応すべき所与のもの」として、大人たちによって維持されてきたこれらの進学システムの方法すべてを信頼して勉学に励んでいるからだ。彼らに関心があるのは(あるいは「関心を向けさせられている」のは)「このゲームの攻略法だけ」なのだから。一方で、「ゲーム巧者であること」によって自尊心(強烈な利己主義感情)を育ててきた学生たちにとっては、そこに飛び込んで泳ぎ回ること自体は、さほど苦もならない遊び場でもある。子供たちはモザイクがかけられた世界のなかに投じられているが、モザイクがかかっている箇所が見えない。

このゲームで成功した者たちは「文科省管理下のデータ」を参照しつつ、「人材」を吸い上げ、文科省の管理者たちの後援者となって、このゲームが終了しないように味方をしてくれる。そして「金をかけて育てられた彼ら自慢の優秀な子供たち」もまた、「ぬるま湯のなかに投入されたゼリーの粉」のようにシステムの中で攪拌されて、「時間の経過」とともにプルプルに固まった頭に仕上がって社会人になっていく。そのような「頭」を首の上に据えて、国力を衰退させる既得権所有者層とともに「運命を全うしよう」とする。

この次元領域からメタ次元に出て「今何が起こっているか」を本気で自覚し、そして別様に行動し始めている人々は存在するけれど、そういう人々は、このシステムの変更を阻止したい官僚たちやその周辺にいて、彼らの仲間となって一大勢力を形成している企業人から敵認定を受けざるを得ない。そんな彼らに呼応してマスメディアが日本全国から集めて作り上げる「民衆的津波力」が大量に異端者たちにぶつけられる。だから時に秩序破壊者との烙印を押された人々は精神病院や刑務所に入れられることも覚悟しておなかければならない。油断していると、映画「マトリックス」のようにサイファー主義者たちというフレネミーたちが近づいてきて背後で暗躍することになる。(終)



参考文献

国家が教育を管理すること

近代は国家制度と経済力とに高度に依存した精神生活を発達させた。人間は子どものうちから国立の学校に通うようになる。そして自分が育った環境の経済状態が許す範囲内でしか教育を受けることができない。

人びとは、それによって人間が現代の生活状況に良く適応せざるをえなくなっている、と安易に信じている。事実、国家は教育制度を、つまり公共の精神生活の主要部分を、共同社会にもっともよく仕えられるように形成しようとしており、そして人間は自分が育った環境の経済力に見合った教育を受け、それによってその経済的可能性が許す場所で仕事をするのが、人間社会のもっともよい成員となることだ、と安易に信じられている。

われわれの公共生活の混乱は、精神生活が国家と経済とに依存していることによる。このことを明示するという、今日あまり歓迎されない課題を、本書は引き受けなければならない。そしてこの依存から精神生活を解放することが極めて緊急な社会問題の一部を構成していることも明示しなければならない。

このことによって、本書は一般に普及している誤謬に対抗しようとする。国家が教育制度を管理することは、人類の進歩にとって望ましい、と以前から思われてきた。そして社会主義者は、社会が個人を社会のために、社会の基準に従って教育することを当然だと思っている。

人びとは教育の分野で、今日どうしても必要な洞察を進んで得ようとは思っていない。以前正しかったことが後の時代には誤りになる、というのは、歴史の発展を考える上での必要な洞察であろう。教育制度並びに公共の精神生活が中世において、それを占有していた人の手を離れて、国家の手に委ねられたのは、近世の社会状況の成立にとっては必要だった。しかしこの状態を今日も維持しようとすることは、重大な社会的誤謬である。(P15-P16) ルドルフ・シュタイナー『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』





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