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BOUNDHEAD

今日もまた始められなかった「今日からはじめるパソコン・ミュージック」
今から20年前、つまり2002年、ローランドから「今日からはじめるパソコン・ミュージック」というDTMソフトが発売された。

私がそれを買ったのは発売の年だったのか記憶がはっきりしない。ネット上の話題としてDTMがよく目に飛び込んでくるような時期だったので、自分も興味を持ったのだろうが、うん万円もするDTMソフトに手を出す気はサラサラなかった。

ただ「アア、オレも安いのでいいから、その手のソフトをひとつ持っておきたいなあ」という思いが募ったので、たまたまいきつけの家電量販店で見つけたDTMソフトが安かったので、手に入れたのだった。

私が手に入れたのは、箱に『今日からはじめるパソコン・ミュージック』という名前が付いたDTMソフトだった。

私はそれを5000円くらいで買った記憶がある。一番安い値札がついていたからだった。だが、最近改めてネットで検索したら12000円という記事が出ていたので、「?」と思ってしまった。

参考ページ 新cakewalkの隠された機能



地元の店が安売りしたのか、それともメーカー側が値段を下げて再発売したのか、さだかではない。

買ったはいいものの、それに付いていたマニュアルを見て、すぐに「こんなもん、読めるかい」とやる気を失った。それでも1曲完成させたが、ひたすらマウスをポチる作業の連続で、もうそれでおなか一杯になったというか、ヘとへとになって、それ以降DTMソフトには近づかなくなって20年が過ぎたのだった。

ネット世界が始まる以前、90年代までは録音はカセットテープの時代だった。


中学3年の時、友人からラジカセを3日の約束で借りて、自分のラジカセに録音したものを流しながら、リードギターなんぞを加えて、またそのテープを流しながら、もう一方のラジカセの前でハモリを入れたり、いろいろ加えて、録音してというふうに、そういう作業を何度も繰り返して、1曲を完成させた。音質は最悪である。

それを友人に聞かせると、「え、これどうやって録ったんだよ」と、とんでもなく感動して(もちろん曲にではない、録音方法にである)感心しまくったのだった。そして、あまりつきあいのなかった同級生が(彼はその当時の同じ中学校全体のトップと呼んでもいいくらい、とてつもなくギターが上手だったが、付き合い的には私とは別グループの人物だった)間接的に曲を聴かせた友人からラジカセ録音話を聞いて、「聞かせてくれ」と自宅にやってきて、感銘を受けたようで、のちには彼の自宅にも招待してくれた。

しかし、当時はまだ、その後に到来することになるカセットテープ式MTR(マルチトラックレコーダー)を用いた、宅録全盛時代の日本はやってきていなかった。そういうことができる商品(機材)が一般人の市場には、まだなかったからだった。

私が「そういう機材」を手に入れることができるようになったのは、80年代の後半以降のことだったと思う。




写真は、左が4トラックのTASCAMのportaoneで、右が8トラックのYAMAHAのMT8X。この二つの機材もいまは処分されて自宅にはない。写真はネットから拾ってきたものだが、同じ機種を私も自宅で使っていた時代があったのだった。



演奏(合奏)を録音したかったら、仲間を集めてやる、つまりバンドを作る。至極当たり前なことだったし、それに「身体」を駆使してやる音楽はほんとに楽しかった。声を出すにしろ、楽器を弾くにしろ、そうだ。これは今でも変わらない。

シンセ系の楽器を使っている人々も一部をシーケンス機能に任せているにしても、まだ「身体性」を保っていた時代だったろうと思う。


そういうわけだから、いろんな楽器や声を「自分自身の技能」でまかなうこと自体は「まだ許容範囲内」だった。「演奏(身体性)」を「記録する」わけだから。

だがDTM全盛時代の今、「身体性」は記録される必要がなくなった。「構想」「設計データ」が記録され、そのデジタルデータがデコードされて、空気を震わせる音声に変換されてスピーカーから鳴らされるのを聴いて感動するのが、もっとも新しい音楽の聴かれ方になった。

DTM系では特に顕著に個人の演奏能力や演奏の個性はパージされ、またDTM系の楽曲を好むリスナーの興味関心を引くテーマではなくなった。リードギターなどの間奏部を飛ばして聴く若者たちの出現が最近話題になっていたけれど、さもありなんということだ。

商品としての人間の生の歌声はそれでもまだ「身体性」に頼っている。しかしボカロの出現と進化は結局、プロの音楽家たちのDTM作業への接近が「人間の演奏者を用なしにし、駆逐していった」ように、「生きている人間の声」を完全に駆逐してしまわないまでも、ますますの台頭を許すようになるのかもしれない。

アナログ楽器の音色のデジタル化、つまりサンプリング技術は飛躍的に進歩したではないか。読み上げソフト以上の技術が必要になってくる歌声のサンプリング技術もいずれ、楽器に劣らず極点にまで到達するんだろう。

画像のAI生成技術やら美空ひばりの合成動画やひろゆきのようにしゃべる音声合成ソフトなどの出現がそういう未来の到来を予告してくれている。

すでに映画やドラマだってディープ・フェイク技術を使って、ところどころで「のようにみえる顔」を作って使っている。「ストレンジャー・シングス」では子役の女の子の顔にミリー・ボビー・ブラウン嬢の若返った顔が違和感なく合成されていた。

「のようなもの思想」はすでに大昔に、建築資材やら食品パッケージで「出現」していた。レンガ材や壁板材、フローリング材のように見える安価な建築素材、桐の弁当箱を模したプラ容器(これはすでに市場から消滅しているようだが)笹の葉のように見える仕切り材しかり。どれも「かつて存在してた本物のイミテーション」である。そしてそれは経済行為として出現したのだった。

現在は、かろうじて声の個性や歌の上手さは「DAW内で構想される一部門」になることは、まだ完全には実現されていなけれども、こういう状況(生声録音素材なのかデジタル合成音の誰か風のイミテーションなのかの配分)もいつかは変化していくんだろう。

とはいえ、そのような予想される道行への反対運動をしたいわけではない。「バック・トゥ・ザ・フューチャーⅠ」で描かれていた「新しい音楽の出現に対する人類の鳥肌衝撃体験」(チャック・ベリーの楽曲のパクリ演奏シークエンスはその象徴表現である)の連続が、50年代に始まった新しい流行音楽の黎明期から90年代までの終焉期までの間に人類が得た経験値だった。

ラジオが新しい音楽に触れるための窓口だった当時の若者たちの多くが、「低音質のラジオ」から流れてきた、かつて自分が接したことがない「のようなものではない曲」を聴いて、ほんとに鳥肌立てて気が狂ったようになった体験を持っている。

だがもはや21世紀の若者は「狂ったように感激」はしない。「最高の音質」で、まあいいんじゃないと思う音楽を生活の隣に付随させて生きている。その商品としての付加価値は「音楽自体が持っている力」からやってはこない。何かのイベントにぶら下がった価値として出現するしかなくなっているようだ。

日本の昭和時代のリスナーたちのようには、音楽アルバムパッケージに3000円払う価値はもはや感じていない。昭和の中学生のように、何か精神的な飢えのようなものに促されて、小遣いをためて身銭を切る感覚で1枚のアルバムを買いに行くわけではもはやないのだ。音楽の手に入れ方も大変容した。今は、ゲームに金を払うほうがずっと意味があると感じている世代の時代である。

今後は「~のような音楽」の時代が続くのだろう。AI(自動生成)技術がさらに進化すれば、「~のようなもの」をイラストや絵画に限らず、映画にしろ、音楽にしろ、もしかしたら小説や、あるいは哲学書さえ、AIが作り出してくれるだろうから。

とはいえ、それらはもはや、かつては「精神と身体感覚性」との共同作業の中から出現してきた生成物だったものの模倣にすぎない。消費者が「のようなもの」で満足している以上、それは商品価値を持ち続けるだろうし。

過去のデータしか学習できないAIは人類に「新しいもの(制作物あるいは精神)」をもたらさない。「機械に読み込ませた〈思い出〉の再合成の反復」をするだけである。けれども、商売人は「生成された思い出」を「新商品」と言って売りつけるのだろう。ますますトム・ソーヤー商法(壁塗りエピソード参照)が栄えていくのだろう。

ここで突然話題がアナタの予想外の方向へ飛んでしまうかもしれないが、ついでなので語っておこう。

超感覚的世界にも、そういう「のようなもの現象」が存在するらしいことを、ルドルフ・シュタイナーが報告している。というより、ようやく物質界におけるアーリマン的進展が霊界的現象の模倣を行える地点まで人類史は来たということなのだろう。

『神智学の門前にて』で、シュタイナーは以下のような話をしている。

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人間が行ったことすべては、たとえ歴史の本に書かれなくとも、神界の境にあるアーカーシャ年代記という不滅の歴史書に書き込まれている。意識のある存在によって世界に引き起こされたことすべてを、この境の領域で経験できる。

意識のある存在が体験したことは、アーカーシャ年代記に書きとめられる。秘儀参入者はこのようにして、人類の過去のすべてを読み取ることができる。しかし、まずどのようにして読み取るかを学ばねばならない。アーカーシャ(虚空)は生命的なもので、アーカーシャ像は混乱した言葉を語る。

シーザーのアーカーシャ像を、シーザー自身と混同してはならない。シーザー自身はもう再受肉しているかもしれない。外的な手段によってアーカーシャ年代記に近づくと、そのような混同をしやすい。そのような混同は往往にして、降霊会で生じるのである。心霊論者は、亡くなった人を見た、と信じる。しかし、それは死者のアーカーシャ像にすぎないのである。

たとえば、ゲーテのアーカーシャ像が、1796年に活動したときの姿で現れることがある。神秘学に通じていない者は、このアーカーシャ像をゲーテ自身と混同する。このアーカーシャ像は、質問に答えることができる。それも、昔答えたことを答えるだけではなく、昔は答えなかった、まったく新しい質問にも答える。答えを繰り返すのではなく、当時ゲーテが答えたであろうように答えるのである。それどころか、このゲーテのアーカーシャ像は、当時のゲーテのスタイルとセンスをもって、詩を作ることもできる。

アーカーシャ像は、まさに生きた構成体なのである。事実はこのように、驚くべきものである。しかし、事実なのである。(P32-P34)
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マトリックスのサイファーが戻りたかった場所のことも連想つながりで思い出す。つまり「幸福な生活を感じさせてくれるイミテーション界」への回帰願望のことだが、アーリマンも着々とそういう「イミテーション界」とでも呼ぶべき「地球の楽園」を作ろうと鋭意画策中なんだろうねえ。

さて、「今日からはじめるパソコン・ミュージック」というWindows XP向けソフトだが、結局イジリたおして習熟したわけでもなく、すでに20年も経過してしまった。にもかかわらず最近やっとソフトに添付されていたカーペンターズのデータ入力用練習曲(「イエスタデイ・ワンス・モア」と「トップ・オブ・ザ・ワールド」)を「指導書」通りにやってみた。


つまり再度マニュアルの読み込みから始めなければならなかったわけだ。指導書に沿ってクリック、クリック。やはりすごく疲れた。

いまでは最新版のcakewalkのDTMソフトがネット上で無料で手に入る。

cakewalk by bandlab

こちらも手に入れて、さあ、どうしようかと思うのだが、結局生演奏を録音するための機材として、つまりアナログ・カセットテープ録音式からデジタル録音式に進化したMTRとしてギター、ベース、キーボードなどの演奏を録音するために利用するくらいが(ドラム音源はDTM付属のソフトシンセサイザー利用で)、自分が「楽しいと感じながらできること」の最大値なんだろうと思う。

YouTubeでcakewalk関連の動画をたくさん見たせいか、DTM関連の動画が頻繁に現れるようになった。自動コード進行生成機能付きDTMソフトとか、与えられたコード進行に自動的に多種多様なメロディー生成提案をしてくれる機能を搭載したソフトとかの解説をしているYouTuberもいる。


もういいよ、「アレクサ、大瀧詠一の声を使って、ロング・バケーションに入ってたような曲を作って流してくれないか」と言ったら「こんなのどうですか?」と〈高品質の楽曲〉が流れてくるのが日常になってる「のようなもの文明」が全盛の未来なんて、そんなことがすでに実用化されていたとしても、そんな家電品使わんと思うんだよ、オレ様は。

結局、未来において、そんなものは経済的には成立せず、「そんな生活が当然の日常」にはなっていなかったって状況ももちろん十分にあり得ると思う。けれど、100年後の人類がどんな音楽をどんなふうな方法で聴いているのか、やはり想像することはできないよなあ、自分には。

シュタイナーはアトランティス時代の7度インターバル感受時代を経て(「エリック・ザ・バイキング」という映画には海に沈む国の住人がみょうちきりんな和声音楽を誇らしげにエリックに披露するシーンが出てくるのを思い出した)、古代エジプト時代の5度インターバル感受時代からギリシア・ラテン時代の3度インターバル感受時代になり、近代人はまだその感受性(長3度感覚と短3度感覚)の延長線上に立っているという趣旨の話をしている。

今後は、オクターブ感受時代がやってくると言っているが、ポピュラー音楽の世界では、オクターブを「和音」の響きとしてウェス・モンゴメリーとかジョージ・ベンソンとか、ピアノではリチャード・ティーとか米国のミュージシャンたちがすでに試みているし、ギター・エフェクターとしてBOSSからオクターバーという商品が発売されていた時代もあったけれど、いまはそういう「和音感覚」を押し出した曲はついぞ聴かなくなったね。

私個人としては「ある周波数」が大事なんだという意見から、反440ヘルツ運動をやっている人々、あるいは特定周波数押しをする人々の存在も認識しているけれど、大事なのは音と音の「間(あいだ)」から人間にもたらされる「ある感覚」その「何か」のほうが重要なんじゃないかと思う。つまり「音楽としての周波数の共鳴現象」が人類にもたらしてきたものについての話をシュタイナーはしていたのであって、「特定周波数を贔屓にしろ」ということではないのだった。

大事なのは周波数同士が「〈音楽〉として共同したときに生まれるもの」なのであって、「特定の単体周波数」それ自体の価値ではないと思っている。

未来にやってくる「オクターブ感覚」というのは現代人が使っている「今の感受力」とは異なっているんだろうとは予想ができるけれど、将来「オクターブ」を心を動かす和音として聴くことになる人類は、その和音から「どんな感情を引き出す」ことになるのか(シュタイナーによれば自我感覚に関連するようだ)、今世で味わえるものなら味わってみたいものであるが、「〇〇は死ななきゃ治らない」ということわざはつまりは「生まれ変わらなきゃ先へ進めない」と同義だと勝手に解釈している私は、今世においては「いろんなことをあきらめて」おかないといけないんだろうなあとも思ってますよ。

オクターブ感覚もそのうちのひとつですよ。




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