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先週のことだが、YouTubeのhome画面を訪れたら、サムネイルに崎谷健次郎がドナルド・フェイゲンの「I.G.Y.」の完コピカバー・バージョンをアップロードしているのに気が付いた。彼が「I.G.Y.」のカバーを公開したのが4月29日なので、今ちょうどひと月後ということになる。
え、えつ・・・・、そもそも崎谷健次郎がYouTube用のオフィシャル・アカウントを持っていて、そこに自分の動画を上げていたという事実に、こんにちまで気が付かずにいたことにびっくりした。
ちなみに本家バージョンは以下。
あらためて崎谷健次郎についてWikipediaでチェックしてみた。なんと彼は1962年生まれで、今63歳だということが分かった。今でも非常に若く見える。1987年にオリジナルアルバム「ディファレンス」でソロ・デビュー。
当時私もすぐ飛びついて以後彼がアルバムを出すたんびに追いかけたものだった。名曲「もう一度夜を止めて」にいたってはピアノ譜を手に入れて練習していた時期があったくらいだ。今でもその譜面は持っている。
昔当ブログでcakewalkというWindows XP時代のDTMソフトについて何度か書いた。そのとき、「一曲仕上げてくたくたになり、もう打ち込みなんてこりごりだと思うようになった」というような趣旨の話をしたけど、実はその時に完成させた曲が崎谷健次郎の「GO INTO THE TV」だった。この曲のベースラインが大のお気に入りだったからだった。
で、崎谷健次郎が「I.G.Y.」の完コピ・カバーをアップロードしたのを見て、「あ、オレも崎谷健次郎のカバーを公開してもいいんじゃないか」と急に思うようになったので、昨夜動画作成ソフトAviutlのアイコンをひさびさポチッて、崎谷健次郎オマージュをささげることにしたのだった。
最初にこれを企画した当時(Windows XP時代)、自分の声でボーカルを入れ、どこかの若い女子にコーラスをやってもらって完成させたかったのだけど、自分には少々キーが高いので、ひどい歌の仕上がりにしかならなかった。それに、コーラスを手伝ってくれそうな若い女子も身近にいなかったので、結局カラオケだけが残ったのだった。大昔一度YouTubeにアップしたことがあったけど、Google傘下に入った時期に削除したのだった。
今回、動画を作り直してアップロードしたら、しっかり著作権もクリアしてくれてるので、安心して見ることができる。ということで、以下「GO INTO THE TV」のカラオケです。
ちなみに以下が本家バージョンです。
P.S.さらに、ちなみにですが、動画作成中の合間に以下の動画も見て「ほほう」と思ったので紹介しておきます。
楽器は歌は「〈自分の身体〉を使うから楽しい」んですよ。
プロンプト打ちオンリーの人はミュージシャンじゃないでしょ。
警察には犯人の似顔絵描きをする人がいますけど、その絵描きさんたちは犯人の顔を目撃した協力者たちの「こんな感じです」という「プロンプト」に沿って絵を仕上げてるんですよ。絵筆を動かしている人は「画家」ですけど、「こんな感じです」と指示を出している人は、画家じゃないですから。これまでの商習慣的アナロジーで考えると、目撃者は、発注者、クライアント側寄りです。警察から「協力してください」と発注されて、それを請け負い、さらに画家にどんな絵にするか注文する人です。AI制作においては、これまでは人が人に発注していたのが、機械相手に変わっただけですよ。クライアントがAI絵師(ここまでは人が人にです)に発注し、AI絵師(プロンプト打ち)がAI(霊魂を持たないアーティスト)に発注しているのですよ。似顔絵画家さんの話はAI絵師に、より関連した話ですけど、音楽家だっておなじですよね。
とはいえ、経済領域では、AI制作者に発注すれば、これまで人に発注してきたコストよりも安価で済み、効果も人を使っていた時代と変わらないという統計上の数字が厳然と現れるようになったら、「企業」は営利を目的として会社を営んでいるのですから、「コストのかからない方」を選ぶでしょう。超有名女優や超有名プロ野球選手をCMイメージとして雇う力のある大企業は、絵や音楽にも実績と実力のある人に発注して彼らに大金を出すでしょうが、潤沢な資金を持たない地方の中小企業はだんだんとAI制作を選ぶようになりそうです。それもまた一方では必然の未来なんでしょうねえ。あとは法整備が追いつくことですよね。PR -
個人的には、まったく踊ったりしないし、「人前で踊りたい」と思ったこともない人生を歩んできたのですが(バンド活動は若いころ、ときどき人前でやってましたが)、なぜか当ブログには「ダンス」というカテゴリーがあります。考えてみるとオッサンがダンス動画を好んで見ているのは、「ダイジョブ」なことなのだろうかと不安に思うこともあります。
当方まったくその方面の知識はないし、要するにただの素人評定です。
以前から時々、YouTubeのホーム画面に「robot dance」という言葉で登場してくるダンス動画が現れることは知っていました。
そのたんびにクリックして、「おー、面白いなー」と思ってはいましたが、「この人は何者なんだ」という関心を持つまでには至っておりませんでした。
ところが最近以下の動画を見て、完全に魅了されてしまったのです。なぜか直接動画として貼れないので、リンク式でご紹介します。
another beat drop!
(↑クリックしてみてください。驚きますよ)
特にこの動画の10~11秒あたりで、彼女が頭を左に2回振る瞬間がいいですよ。
あなたもここでノックアウトされるはず。
ということで、数々ある彼女のダンス動画の中で、今回ご紹介したダンスが、私の一番のお気に入りになりました。(つまり何度も見たくなる、ということですね)。姿も衣装もメイクもなんか完成しちゃってますよね。とっても上品です。
このダンス動画をみて衝撃を受けたせいで、やっと「彼女は誰?」という関心がわいて、とうとう「調査作業」が始まりました。
Yahoo!知恵袋に以下のような回答が出ていました。
-------------------------------------------------------------------------------芸名: Barbin.ili /Ba Bin (芭比)出生名: Hu Li Lu (フー リー ル)誕生日: 1995 年 11 月 6 日出身地:浙江省温州市星座: さそり座身長: 155cm(5フィート1インチ)体重: 48キロ(105ポンド)ACKYさんという日本人ダンサーが、彼女のポッピング-------------------------------------------------------------------------------
と呼ばれるダンススタイルの師匠のようですよ。
「へー、ポッピング」っていうのかと新しい知識が増えました。
「barbin.ili芭比」という名前で活動しています。芭比=バービーみたいです。
中国のタレント発掘番組に出たことがあるようです。
Youtubeのrobot danceカテゴリーの人気女性ダンサーとして、もうひとりbabyslowという、これも中国人のダンサーが有名のようです。
YouTubeには、barbin.ili(China) vs Babyslow(Japan)として、日本人として紹介している動画もありましたが、調べてみると、中国語記事で以下のように
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ワン・チェンアー - 中国本土の女優。 2016年と2017年には、HHI世界ストリートダンス選手権上海ステーションダンス選手権大会と武漢ステーションダンス選手権大会でそれぞれ優勝した。 2018年には『This is ストリートダンス』シーズン1のレコーディングに参加。 2019年には湖南衛星テレビの「Dance...」に出演。
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とありますから、チャイナガールではないでしょうか。ただし現在日本で活動しているようです。
love MJ
ということで、
barbin.ili芭比とbabyslowという二人のチャイナガールの名前を新たに記憶することになりました。
P.S.これはいい!!
Cunli game challenge -
人智学の本を学ぶということは(いや本質的に言えば、それは人智学に限った話ではないのですが)、「〇〇についてはこういうふうに要約できるというふうに、考察対象と自分との距離感を手早く仕上げてインデックス化し、この思想については、これでサマリー化終了、じゃ、次の本のインデックス化へ進もう」と思うような「知識との付き合い方」をしている人には、何の意味ももたないでしょう。本を読んでも〈彼の生き方〉は、「これまで同様」です。
「この手の博識な知識人」はたとえば「宗教とはなんですか」と尋ねると「それが宗教であるためには、教祖、教え、信者の三つが揃っている必要があります。その三つが揃っているものを宗教と言います」などと答える自分に疑問を持つことができません。
こんにちそのような「知的に見えるふるまい」はAIが代わりにしてくれるようになりました。
学校教育の歴史の時間に、あるいはNHKの番組で、またはニュースなどで、宗教に関する唯物論的な説明を聞かされ続け、「信者の属している組織体」が歴史的にやらかしてきた非人道的なあれこれを知って、「宗教とは事実と関わりのない不合理な妄想を信じる行為だ」と考えるようになったのが、こんにちの日本人です。特にアジア人にとって、白人キリスト教徒たちは、「愛しなさい」と教えながら、一方で「その思想(組織的信念)にまつろわない人々」の命を奪ってきたうそつき集団でした。その悲惨な失敗の数々を「歴史の授業」として教科書で教えられると、今日的な言葉を使えば「なーんだ、白人たちというのは要するにただのサイコパス・・・、人類愛を唱えながら、人殺しをやってきた殺人鬼たちなんだ」と思うようになります。国家運営と結びついたことを疑問に思わない西洋のキリスト教徒たちを、日本人は「彼らのその歴史的失敗行為(友愛よりも殺害)の連続」によって「組織体で宗派活動をする人々はまったく信用がならない連中だ」と思うようになりました。これも「一種の近代式歴史教育の成果」ですが、そのような「近代教育」に沿って感情を育ててきた人は、続けて「だから共産主義も宗教だ」と容易に毒づくようになります。
本来宗教とは何だったのでしょう。
宗教とは「人間界を超えた世界を敬う態度」のことです。この観点から言えば、共産主義者たちは、宗教信者なのでしょうか。
新渡戸稲造が、「宗教というのは道徳を育成するために存在するものだが、あなたの国には何かそのような宗教はあるのか」と「近代的」キリスト教徒の外国人にたずねられて、その問いに悩んだすえ、彼への回答として英語で書いた本が「武士道」でした。
しかし「人としての生き方」「道徳を教えること」が宗教であるなら、そのキリスト教徒(近代西洋人)は「物質界の秩序を整序するためのツール」としてしか、実はキリスト教の存在意義を認めていないのかもしれません。「失礼ながら、貴殿は宗教の存在意義をいささか狭くとらえておられるのではないでしょうか」と新渡戸稲造は反論することができませんでした。彼もまた宗教を唯物論的に(つまり物質界の統治と整序の道具として)把握する傾向を、その外国人と共有していたからです。そして新渡戸稲造は「西洋精神の思考形式」に沿って、つまり、「物質界の事象の把握を容易にする言語」である英語で本を書きました。
道徳というよりも「古代以来の血族(家族)主義」から生じてきた、対人マナーを集積した教えである儒教も、「この視点」から見れば「宗教」ということになります。儒教には先祖崇拝の要素があり、そのための儀式の手順や道具類も存在します。しかし中国人は「死後の世界」には関心がありませんでした。むしろ「死者(先祖たち)の現界への出現」は忌避すべき事態であり、そのための封じ込めの呪法なども考案しました。水滸伝の始まりは「呪法によって封じられていた108人の死者の魂」を解放するエピソードから始まりす。「死者の封印」「物質界からの締め出し」を善とする「観念」が古代の中国人のなかにはあったのです。「物質界で生きている人間たちの対人関係を秩序付けること」、彼らはこの「関心事」に注力したのです。気の思想も霊界参入のためというよりも、物質界の秩序維持に役立てるためでした。のちにそのような「死者は封印すべし」という思想と呪術が古代に大陸から日本に入ってきて、神社文化の一部に組み込まれました。
「物質界における人としてのふるまい方」を教えてくれるものが「宗教」ならば、こんにち日本で暗躍しているマナー講師たちも、宗教行為を行っているという極論に達することも可能でしょう。
「よき人間」になることは、人類が、かつては持っており、今は失ってしまった「自然な霊界参入体験」を果たすための準備になるのです。「道徳的であること」は、こんにち特別な巡りあわせで「秘儀参入者」となろうと努力している人物にも「当然課せられている課題のひとつ」です。しかし「地上でよい人間になること」が、宗教の究極の目標ではありません。死んだら終わりだと思って生きている唯物論者も「地上で良い人間になろうと努力すること」を価値ある努力だと見なしています。
こんにちまで宗教として伝わってきたものは、古代の人々が「実際に体験した物質感覚を超えた先にある世界」を、地上の日常界に戻ったときに敬う行為から発展してきたものです。それが、のちの「特殊」な啓示宗教、あるいは教えの体系化によって「書かれたもの(教理)に立脚する集団行為」に発展したのです。
神道には「教えがない」ということをことさら「宗教上のイレギュラーだ」とみなして価値づけをし、そのようなものとして神道を語る人は、「自覚なき西洋視点かぶれ」になって自分たちの生活圏で目にする、あれやこれやを「近代の西洋概念」で判断していることに気が付いていないのです。私論では「神道は秘儀参入者を敬う行為から発展した」という話を何度も当ブログでは行ってきました。そもそも日本語の「宗教」という言葉も明治時代に「新たに造語された数々の西洋由来の概念の熟語化のうちのひとつ」なのです。明治時代以降、日本において熟語化された「西洋由来の概念」は、大陸や半島の人びとの使う母語の中に大量に流れ込んで完全に母国語化しています。
自然の中に入ってその「荘厳な雰囲気」を感じると「なんだかそこかしこに目には見えないけど、何かがいるような気がして拝まずにはいられなくなる」と感じたので、そのような古代の人類の想像力から、古代人は素朴な信仰を始めるようになったのだ。近代的学問に携わるわれわれは、これをアニミズムと呼んで区別しようと思う、と近代西洋の学者たちは思ったのです。「頭の悪かった古代人たちは、そんなふうに空想をたくましくした」・・・・・これが、日本人が西洋文化に対抗して「日本文化」を誇るためにしばしば援用する「いわゆるアニミズムという言葉」の本来の意味です。これは「唯物論者の古代人観」、もっと言えば「近代思想」なのです。
しかし実際には、太古以来、遠い時代の先祖たちは、超感覚的世界を「直接」体験し、この世界には物質界のほかに、自分たちの意識の前にそれとは別個の「出現の仕方」をする世界が存在するということを「知って」いました。ここで言う「知っている」というのは、「あなたはA地区の山田一郎さんを知っているか」と尋ねられて「はい、知っています。会ったことがありますから」と答える人と同じような体験をかつての先祖たちはしていたということです。しかし、時の経過のなかで「それを体験する能力」を失ってしまったのです。それこそがこの世に宗教が生まれた理由です。「人類が認識(直接体験)できなくなってしまった世界がある」ということを「同胞たちが忘れ切ってしまわない」ようにと、世界中の民族共同体のなかで「宗教」という「特別な形式」が生まれたのでした。
自然の中に入ってその「荘厳な雰囲気」を感じると「なんだかそこかしこに目には見えないけど、何かがいるような気がして拝まずにはいられなくなる」と感じたので、そのような「人類の想像力」から、古代人は素朴な「信仰」を始めるようになったのだ、と説明するのが、いわゆる日本人が「日本文化」を誇るためにしばしば援用するアニミズムという言葉の本来の意味です。これは「唯物論者の発想」です。
人間を超えた「隠れた領域」があり、人はそれを敬ってきたのです。そして「それらを敬う行為」こそを宗教的振る舞いとみなすことができるのです。
宗教と聞いて「教祖や教えや信者」の話を第一に思い浮かべる人は、すでに十分「普段どんな思考方法で生活を営んでいるか」に関して「唯物論者」でしょう。神道に教えがないことに「驚き」、「神道は宗教なのか」という問いに向かう人は、たとえば、世界中にある民族音楽を、西洋の楽典によって解釈しようとする人と似ています。東洋の伝統下に生きている人々が、どれほど「西洋から(しかもそれは近代に生まれたものです)借りた分類方法(つまり思考方法)で自分たちの精神生活を〈分類・解釈〉しようとしてきたか」、ちゃんと「意識化」できている日本人はあまり多くないように思えます。
日本を誇るために西洋の近代的な(つまりきわめて唯物論的な)分類衝動を、自分たちの暮らしや文化に当てはめて吟味し、世界に誇って見せるというのは、あまり「誇れる思考態度」とは、私には思えないのです。それを「無自覚」に行えば、たとえば、「日本はアニミズム文化だから素晴らしい」と、そういうレッテル貼り(言葉遣い)が「本来の学問的語義」の「日本人的誤解」から生じている現象なのだということを、その「誉め言葉」を傾聴している人々(一般日本人たち)に気がつかなくさせます。唯物論化した西洋人の「感覚」を「日本上げ」のための素材として重宝する「知的な(というよりも政治的な)人々」としてふるまう、そういう笑える事態が(ほんとは笑えませんが)「日本の近代」に出来してもう長いのです。 -
「チャイニーズ・ルシファーは中国古代神話上の誰に当たるのか?」という表題を掲げて始まる本稿ですが、実は明確な回答は私自身は持っていません。
中国の古代神話に出てくる「堯舜の時代」に当たる人物なのかとも思ったりもしましたが、よく分かりません。上に掲げた図(クリック)で言うと、人智学上の区分ではエジプト文化期に東アジアでは、ルシファーの受肉が起きていたことになります。ちなみに最下段の列はこんにちの占星術の区分になります。上段の列が人智学的区分です。人智学的には水瓶座時代は西暦3573年以降に始まるとされています。
エドガー・ケイシーが占星術に言及するときは、こんにちの占星術の区分に準じて発言しているようです。「魚座時代のまんなかでインマヌエル(キリスト)の降誕があった」と述べたのがエドガー・ケイシーです。
ちなみに「グノーシス」についてエドガー・ケイシーは「初期のキリスト教にあって、こんにちのキリスト教にはまったく含まれていないものである」と回答しています。
一方、ルドルフ・シュタイナーは、「キリストの降誕は牡羊座時代に起こった」と語っています。神の子羊という言葉が生まれたのも、牡羊座時代が背景にあるからだと。そして魚座時代に入ったこんにち、キリストは今後ますます「魚の象徴」で把握されるようになると語っています。人智学的には、「今、魚座時代の10分の3ほどを通り過ぎた」ところです。
今から4000年ほど前、紀元前2000年を過ぎた時期に、中国にルシファーが人間として現れたという話をしたのがルドルフ・シュタイナーでした。邦訳本では『悪の秘儀』で彼の発言を確認することができます。
とはいえ、「ルシファーの受肉」は当時の人類社会に何をもたらしたのかについては、『悪の秘儀』では語られていませんでした。この本においてシュタイナーは、「これから未来に起きることになっているアーリマンの受肉」の話に、より多くの紙面を割いています。
そして「こんにち」こそ「それが起きる(あるいは、すでに起きている?)時期」なのだということになります。GA193においてシュタイナーは「アーリマンは人類に不意打ちを食らわせるような形で現れる」と書いています。
とはいえ、今回はまず、「古代の中国人に化身したルシファー」について、シュタイナーの発言をここでご紹介させていただきたいと思います。
以下の引用は、以前にも紹介した「ルドルフ・シュタイナー・アーカイブ」のGA193の記事をGoogle Chromeのウェブ翻訳機能を使って、翻訳したものです。
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第三千年紀の初めに、重大な出来事が起こりました。このぼんやりとした、より本能的な生活の根本原因は、霊魂の存在である人間が、当時まだ知性の器官をうまく活用できなかったことにあると言えるでしょう。これらの器官はすでに人間の中にあり、肉体的な構造の中に形を成していましたが、霊魂の存在はそれらを活用することができなかったのです。そのため、人間は自らの思考、自らの知的な識別力によって知識を得ることができませんでした。彼らは秘儀から授けられるものに依存していたのです。そして、第三千年紀の初め頃、東アジアで重大な出来事が起こりました。
当時、アジアの名門一族の子供が、秘儀の儀式が行われる場所で育つことを許された。この子供は実際に儀式に参加することが許されたが、それは秘儀の儀式を執り行う司祭たちが、そのような子供を参加させるべきだと霊感を受けたからに違いない。そして、その子供に宿る存在がおよそ40歳になったとき、非常に驚くべきことが明らかになった。東アジアの秘儀の中心地の一つで育つことを許されたこの男が、およそ40歳になったとき、それまで啓示によってのみ秘儀にもたらされていたことを、人間の知性そのものによって突然理解し始めたことが明らかになったのである。秘儀の司祭たちがこの出来事を予見していたことは疑いようもない。彼は、いわば人間の知性の器官を初めて利用した人物であったが、それでもなお秘儀との関連においてであった。
秘儀の司祭たちがこの件について語ったことを現代の言葉で言い換えるならば、こう言わざるを得ない。この人において、ルシファー自身が受肉したのだ――それ以上でもそれ以下でもない!紀元前3千年紀に、東アジアで実際にルシファーが肉体をもって受肉したというのは、重大かつ重大な事実である。そして、このルシファーの肉体による受肉――この存在は教師となった――から、キリスト教以前の異教文化と呼ばれるものが生まれ、それはキリスト教初期の数世紀のグノーシスの中にも生き残っていたのである。
このルシファー文化を軽蔑的に判断するのは誤りだろう。ギリシャ文明が生み出したあらゆる美しさ、古代ギリシャ哲学やアイスキュロスの悲劇に今なお息づく洞察力でさえ、このルシファーの化身なくしては不可能だったに違いない。
キリスト教初期の数世紀において、ルシファーの化身の影響は、ヨーロッパ南部、アフリカ北部、そして小アジアにおいて依然として強力でした。そして、地上でゴルゴタの神秘が起こったとき、それを理解できたのは本質的にルシファーの叡智を通してでした。ゴルゴタの神秘の意味を解明しようとしたグノーシスは、ルシファーの叡智に深く染み込んでいました。したがって、まず第一に、紀元前3千年紀の初めに中国でルシファーの化身が起こり、現代の初めにキリストの化身が起こったことを強調しなければなりません。そして、キリストの化身の意義が理解されたのは、古いルシファーの化身の力がまだ残っていたからです。この力は、西暦4世紀まで人間の理解力から実際に消え去ることはなく、その後もなお、その余波と影響が残っていました。
古代におけるルシファーの化身と、地球に意味を与えるキリストの化身という、この二つの化身に、そう遠くない未来に第三の化身が加わるだろう。そして、現代の出来事は既に、その化身を迎える準備段階へと進んでいる。
紀元前3千年紀初頭におけるルシファーの受肉について、私たちはこう言わなければならない。ルシファーを通して、人類は知性の器官、すなわち知的識別力を用いる能力を獲得した。かつて啓示によってのみ人類に伝えられていたもの、すなわち秘儀の内容を、知性の力によって初めて理解したのは、人間の肉体を持ったルシファー自身であった。
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紀元前20XX年ごろ「当時、アジアの名門一族の子供が、秘儀の儀式が行われる場所で育つことを許された」とシュタイナーは書いています。
今から4000年前の「アジアの名門の一族」って何家なんでしょう?
〈彼〉は秘儀参入者たちが集う土地っ子として生まれ、そこで成長し、儀式にも参加し、40歳のときに「未来の人間たちが順次手に入れていくことになる能力」を初めて人体経験にもたらした人物だった、とシュタイナーは述べています。
ということは、私や今この記事を読んでいるあなたが持っているところの、知性を行使する能力も、4000年前のルシファーの受肉に負っているということなのでしょうか。
ということで以上、GA193「ルシファーとアーリマンの影響」(講義3)からの抜粋と解説でした。 -
以前ブログで言及した「ルドルフ・シュタイナー・アーカイブ」の存在は、もうずいぶん前に知っていたんですが、初めてこのサイトを訪れた当時は、こんにちほど使い勝手がよいものではありませんでした。
それが今では、ほぼ日本語として違和感なく読めるような状態になっていることに気が付いて、最近は全集に付けられたGAの番号や、邦訳本のなかに出ている講義の年代や日付をもとに、このサイトを使った「確認作業」をスムーズに行えるようになっています。
最近、シュタイナーの発言に関して自分の中の疑問が氷解したのも、「ルドルフ・シュタイナー・アーカイブ」にアクセスできた結果でした。
「シュタイナー用語辞典」のなかに「入浴」という項目があり、「入浴はむしろ有害である」と辞典には出ていました。
世界の中で最も入浴行為が好きな国民に属している私としては、この発言はなかなかに聞き捨てならないものでした。「何が問題なんだろうか?」と当然思いましたが、ずっとそのままにしていました。
辞典にはシュタイナーの発言のまとめに加えて、参照元の全集の番号が付いていましたが、これまで「その情報」を有効活用することができないでいました。
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入浴[Baden]
手を洗うと周囲に対する敏感さが増す。入浴はむしろ有害である。(全集124)
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最近になって、「そうだ。ルドルフ・シュタイナー・アーカイブで参照元をチェックしてみよう」と思い立ち、調べてみました。すると以下のような記述に出会いました。
参照先:マルコ福音書の背景 GA124 VII.人間の構成要素の上位部分-------------------------------------------------------------------------------------------ここで重要なのは、魂と精神が身体の様々な部分といかに異なる形で関係し、表現されているかを示すことです。手を洗いすぎることでアストラル体に害を及ぼす人はまずいないでしょうが、この点はより広い範囲で考察する必要があります。手と水の関係は、人間と周囲、つまりアストラル体と環境との関係に健全な影響を与える可能性があり、そのため物事は容易に極端に走らないでしょう。しかし、唯物論的に考え、思考を物質だけに結びつける人は、手に良いものは体の他の部分にも良いはずだと言うでしょう。これは、繊細な知覚に基づく違いが全く見過ごされていることを示しています。その結果、そしてそれは明白な事実ですが、ある目的のために全身に同じ治療法が適用されるのです。例えば、頻繁な冷水浴や冷水による継続的な摩擦は、子供にも特に効果的な治療法として推奨されています。幸いなことに、神経系への明らかな影響から、医師たちはこれらの治療法が不合理な極端に走っていることに既に気づき始めています。手はアストラル体と特別な関係にあるため、手にとって適切な行為であっても、アストラル体との関係が異なる身体部位に適用すると、有害な実験となる可能性があります。手を洗うことは、環境に対する健全な感受性をもたらすかもしれませんが、冷水浴などを過度に行うと、不健康な過敏症を引き起こす可能性があり、特に幼少期にそのような処置を受けた場合、生涯にわたって続くことがあります。-------------------------------------------------------------------------------------------西川隆範氏による「まとめ」は前後の文脈を知らない(あるいは意識しない)読者が読むと、誤解してしまうような短い抜粋となっていたことが、これで分かりました。いわゆる、日本人が暮らしのなかで普通に行っている「入浴」ではなく、治療としての「冷水浴」を指して、有害であると言っていたのでした。
長年の疑問が解消した瞬間でした。
シュタイナーの邦訳本はドイツ語の原典から「日本語化」を試みたものです。シュタイナーファンにはなじみの深い、「霊我」や「生命霊」や「霊人」という「人智学用語」も日本語化の過程で「造語」されたものです。
ルドルフ・シュタイナー・アーカイブを翻訳にかけると必ずしも、なじみのある翻訳語が出てくるわけではありませんが、これまでシュタイナーの邦訳本を十分に読みこんできた人は「ああ、これは〇〇〇のことで、こっちは〇〇のことだな」と推測をつけながら読むこともできるので、「訳語の変化に対処できる頭を作るため」の訓練にもなりそうです。
大学生時代は2年間教養でドイツ語を学びましたが、ほとんど身についていません。英語のほうがずっと得意です。それにもっぱら本によって人智学に近づいていた時代、高額なドイツ語の全集を買うことは頭のなかに思い浮かびさえしませんでした。
次々と出版される邦訳本を手に入れて「消化する」だけで、せいいっぱいでした。ドイツ語を参照するときは、特に用語として気になる点が生じた場合のみでした。
「霊」「精神」という言葉を「ゴースト」から「スピリット」に交換して使っている近代の英語圏の人々はある意味「気の毒」です。「〈誰か〉が特定の時代のある時点でそうするように動いた結果」ですから。
英語から日本語への翻訳は、日本語から英語への翻訳よりずっと高精度であるのも、英語が肉や脂肪部分をそぎ落としたような骨格系の言語であって、骨の周りについているさまざまな要素、つまり「多様なニュアンス」に気を使わない「朴念仁系の言語」だからでしょう。逆に言えば、率直に意図を互いに誤解なく伝え合うには(コンピュータ言語としてならなおさらそうでなくてはなりません)便利な言語です。この物質主義時代に「使い勝手のいい言語」(それはまるでレモンの果汁を搾り取った後に残った部分でできているような言語です)を使って「霊的な問題」を「英語で」世界に普及させようとするのは、シュタイナー的な言い回しをするなら戯画のようです。
そして日本においても「好事家たち」がアメリカ国内で次々と起こってくる「霊学を模したようなプレゼンテーアション活動」に接して、「彼らの提示する〈新思想〉」を「スピリチュアル」という「翻訳造語(日本語)」に乗せて、経済の流通過程にはなばなしい宣伝文句で出現し、商行為として再頒布し始めている状況がこんにちの姿です。
第二次世界大戦以前までは中部ヨーロッパの民族からさまざまな精神文化が世界中に届けられていましたが、この大戦は英米の勝利によって「ゲルマン系民族の文化衝動」を「瓶のなかに押し込める」という目的も果たしました。ユダヤ問題が彼らにとっての瓶のふたとなりました。これ以後、中部ヨーロッパの人々は「下を向いて生きていかざるを得なくさせられて」こんにちにいたります。こんにち彼らの精神の発露はせき止められています。かわりに英米文化圏による、「精神的」というよりも、おもに「経済的衝動による文化輸出時代」に突入しました。こんにちに見る英米勢力の支配層の繁栄をもたらすための「たくさんの仕掛け」があの時代の前後を通じて「英米の結社」側から発動され、それらは「ことごとくうまくいった」のでした。
もちろん「精神性の発露」を抑えられ「黙らされた」のはゲルマン民族だけではありません。彼らと同じように悪役として「こんにちの歴史書」に「登録」されている民族がいます。幕末時勝海舟が「東アジア三国合従連衡」して欧米列強と対峙すべきと進言した精神は「彼ら」に先手を打たれて、「実現」を見ずに終わりました。かわりに東アジアにおける瓶のふた役を「英米の結社組織」から委託されて「彼ら」のために、こんにちまでこなしてきたのが、大陸と半島の民族でした。瓶のふた論といえば在日米軍に関する議論でしたが、陰陽道的に言えば、「呪(しゅ)がけ」の装置は何も米軍だけではないのでした。
とはいえしかし・・・・・しかし時代精神の変化を感じます。
今後世界はこれまでと異なった衝動によって、方向転換し始めるのかもしれませんね。私はそれを見届けることができるでしょうか。
以上、今回の投稿の後半は私のボヤキになってしまいましたが、たまにはいいですよね。
P.S.昔こういう動画を作ってました。