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前回、「ヨーロッパ人は証明衝動が強く、アメリカ人は自己主張衝動が強い」という趣旨のシュタイナーの発言をご紹介しました。「この箇所」を読んで、もっと前後の文脈を含んだシュタイナーの発言を知りたいと思った方もおられるでしょう。けれども、それをしようと思うと、『色と形と音の瞑想』という本を手に入れなければなりません。私としては「ぜひぜひご購入してご自分で確かめてください」と言いたいのですが、その前にここで前回よりもさらに詳しい抜粋を紹介しておこうと思います。前回の抜粋個所の前に語られていた部分になります。
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(ヨーロッパ人が)アメリカに引っ越すと、その家族の子孫はだんだん腕が長くなっていきます。ヨーロッパ人がアメリカに定住すると、脚もいくらか伸びます。もちろん移住した人自身ではなく、子孫の腕と脚です。ヨーロッパ人がアメリカに来ると、中脳を通過して後脳へと引かれるからです。
しかし同時に、アメリカ人には独特のことが生じます。ヨーロッパ人は思想家になると、まったく自分の内面に生きます。思想家にならないでも、確かに熟考しますが、その場合は思考活動は果たし尽くされません。しかし、ヨーロッパ人がアメリカに行くやいなや、もはやじっくり考えなくなります。
ヨーロッパの本を読むと、いつも証明がなされています。証明からまったく抜け出ていません。四百ページの本を全部読んでも、証明しか書かれていません。小説でも、常に証明がなされています。四百ページの本の最後では、たいてい何も証明されていません。アメリカ人はそうはしません。アメリカの本を読むと、あらゆる主張がなされています。本能に近いところに、繰り返し戻ります。動物はそもそも、何も証明しません。ライオンは、他の動物を食べようとするとき、その正当性を証明しません。ただ食べます。ヨーロッパ人は、何かを行おうとするとき、まず、その正当性を証明します。すべてが、まず証明されなくてはならないのです。ヨーロッパ人は証明し、アメリカ人は主張します。これが、ヨーロッパ人とアメリカ人との大きな違いです。
しかし、アメリカ人が主張することは真実ではありえない、と言うことはできません。彼らは全身で主張します。これが、アメリカ人がヨーロッパ人に勝っている点です。アメリカ人は一方では、滅亡していくインディアンに接近します。人間は滅亡しはじめると賢くなります。ヨーロッパ人はアメリカに来ると、賢くなって、証明をやめます。
証明への欲求は、前進をもたらす特性ではありません。朝、何かをすべきときに証明しはじめ、いつも証明すべきことがまだあるので、夜眠るときになっても、まだ実行できません。アメリカ人は、そんなことはしません。アメリカ人は証明する練習・訓練をしていないのです。ですから、さしあたりアメリカはドイツに勝ります。
太陽は常に光と熱を地上に送っています。いま、春分点は魚座にあります。それ以前は、春分点は牡羊座にありました。後には、春分点は水瓶座に移ります。そのとき、本当のアメリカ文明が成立するでしょう。それまで、つぎつぎと文明がアメリカに向かっていくでしょう。今日すでに、アメリカ人が強大になり、ヨーロッパ人がだんだん無力になっているのを、見ることができます。ヨーロッパ人は自分の土地をもはや理解していないのです。(1923年の)いまヨーロッパは平和ではありません。全文明がアメリカへと向かいます。ゆっくりした歩みながら、春分点が水瓶座に入ると、アメリカ文化が特別に力強くなるのに好都合なように、日光が地上に降り注ぎます。その前触れが、今日すでに見られます。(P46-P49)--------------------------------------------------------
以下、私が気になった個所を取り出してみました。
①ヨーロッパ人がアメリカに行くやいなや、もはやじっくり考えなくなります。
②アメリカの本を読むと、あらゆる主張がなされています。本能に近いところに、繰り返し戻ります。
③彼らは全身で主張します。これが、アメリカ人がヨーロッパ人に勝っている点です。
④アメリカ人は証明する練習・訓練をしていないのです。ですから、さしあたりアメリカはドイツに勝ります。
本日、ドジャース優勝でMLBの決着がつきましたね。優勝、おめでとうございます。米国人はスポーツが大好きです。私自身はスポーツ一般への反感は特にありませんが、「筋肉運動への過度の愛着」は人を唯物論者にするというのがシュタイナーの主張でしたね。彼は健康増進に寄与する軽い運動や体操を攻撃していたわけではありません。彼はまた、「スポーツ(筋肉酷使)に熱中すると嗜眠性を誘発する」という趣旨の発言も言っています。この発言を読んだとき、白鵬や大谷翔平が一日12時間寝ているというニュース情報を思い出したものです。
スポーツという言葉のもともとの意味は「気晴らし」ですが、近代人のスポーツへの愛着は「スポーツ(気晴らし)」になっていなというのがシュタイナーの主張です。要は「あんたらやってることが極端なんだよ」ってことですね。
シュタイナーは「米国では、男たちはスポーツに熱中して、輪廻転生思想の普及を阻止しようとするが、一方で、女性たちが米国における精神活動の普及を担うようになる」とも言っています。
YouTubeなどを見ると、スピリチュアル運動が米国発なのは分かりますが(日本人の一部がそれを輸入して日本風に翻案している最中です)、それがまだ「人智学(神智学)のパチもん」だとしても、ヨーロッパよりもずっとキリスト教信仰への情熱が強かったはずの北米の地で、占星術やタロットなどを扱う女性の占い師たちが、輪廻転生やカルマの話をタロットというカード占いと紐づけて語るようになっているのを知って、私は「これは新しい事態だ」と思ったのでした。
「人は一度だけ神によって地上に生まれ、死んだら霊界でキリストが迎えに来るまで待機している」これが典型的(公的な)なキリスト教徒的発想でした。
キリストが迎えに来るまで何度も何度もさまざまな人種・民族・国民・性別に生まれ変わらなければならない、という考え方を普通米国の神父(カトリック)や牧師(プロテスタント)は語らないでしょう。米国人はすでに、教会関係者から提供される、伝統的な(つまりさんざん聞き飽きた)救済話だけでは満足しなくなっているのです。
現実的にも、人間は集団で人種・民族・国民を移動します。明治維新以降、霊として流入し、日本人の体をまとって地上で活動してきたのは、3・4世紀ごろゲルマン民族として生きていた人々だというのがシュタイナーの情報です。彼がこの情報を出してすでに100年の月日が経過していますが、その間もさまざまな「民族移動」が頻繁に起きているのです。
3・4世紀ごろ日本人として生きていた人々は今どこで人間の体をまとっているのでしょう。源平の合戦の時代、あるいは鎌倉時代、あるいは戦国時代に生きた人々は、いま「どこ」にいるのでしょう。そしてこんにち日本人の体をまとっている人々の「民族移動前の故郷」はどこでしょうか。
人々の内面が変化するのは、あるいは、それまで受け入れられなかった思考態度が、人々の間に浸透するようになるのは、「いったん死を迎え、霊界に退き、ふたたび霊界を経由して、各民族が物質界で先祖から受け継いで保存してきた体に、かつて別の人種・民族として違った経験を積んだ人間集団が入り込む」からです。物質界で肉体とそれを賦活するエーテル体として先祖から受け継がれてきた遺産と、霊界から新たにやってきて、保管されたものと結びつき、新たな衝動をもたらす霊団が共同するのです。
代々受け継がれてきた先祖の肉体は物質界で発展を続け、かつてそのなかで力を発展させた民族の成員たちが、時を超えて別の民族が物質界で発展させた地上の遺産(身体と文化)を受け継ぐのです。
人々は「私とは何だ」と「新しい問い」を自分に向けるようになります。その問いは唯物論時代の、せいぜい7、80年くらいで滅びてしまう「こんにち的な発展段階の弱弱しい自我に紐づけされたもの」「ペルソナ(人格):原義は仮面」、つまり「死のたびに解消される縁起の成果としての構成体」「ルシファーの影響力によって生み出され、足枷として地上に投げ落とされた錘(おもり)のようなもの」だけを自分だと思って生きてきた時代の人々の苦悩や悩みに関連した問いとは「見た目(言葉)は同じなのに、内包している意味が違う」ものになっていきます。PR - 
          
          前回の投稿で「近代に英語圏の人びとはゴーストという古代語をスピリットという言葉に置き換えた」という趣旨の話をしました。
攻殻機動隊の草薙素子は「私のゴーストが囁くのよ」という名台詞を吐きましたが、今の英語圏の人びとは、彼女が「私のスピリットが囁くのよ」と語ったなら、もっと簡単に理解できたでしょう。そういうわけで、彼らには「彼女が言うゴーストとは何だ?」という問いが生じます。
ちなみに最近英語圏の若い人々が、ghostという言葉を動詞として使うようになったようです(相手と「音信不通になる。交流を断つ」というような意味)。
こんにちの英語圏ではボディ・アンド・ソウルという言葉が当たり前すぎて、まさにローマ・カトリックがキリスト教に持ち込んだ「改変」(体・魂・霊の三分節から体・魂の二分節へ)は、長い時を経て、特に英語をしゃべっている人々に、もっともローマ的な影響を、「霊」を指す古語を消失させることで、及ぼしたのだということもできます。
アメリカ人が霊的事象を「物質界的比喩によって表象しようとする強い衝動」を持っていることは、往年のホラー映画などを見るとよく分かります。
以下、シュタイナーの発言の抜粋をご紹介します。
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注意深くアメリカの本を読み、注意深く国会演説を聞くと、今日(今から100年前)アメリカで起こっていることが理解できます。「おやまあ、こりゃたまげた。まったく奇妙なことだ。ヨーロッパでは、精神から人智学が形成されている。アメリカでは人智学の模造品が作られている」と、思われます。その模造品は、すべて唯物論になります。アメリカ文化はヨーロッパの人智学に似たものを有しています。ただアメリカでは、すべてが模造品で、まだ生命的ではありません。ヨーロッパでは、精神によって人智学を生命的にできます。アメリカでは、人智学を本能から取り出します。
このアメリカの模造品が語りはじめるときが、いつかやってきます。そうなったら、ヨーロッパの人智学によく似たことを語るでしょう。「ヨーロッパでは、精神的な方法で人智学が形成される。アメリカ人は人智学を、自然な(本能的な)方法で形成する」と、言うことができます。ですから、私は人智学を説明するときに、「これは人智学的です。それはアメリカ的な戯画です。人智学の戯画です」と示唆できます。
(人智学の)狂信者は、「内的ないとなみ」をとおしてではなく、熱狂的に(外面的に)人智学に親しみます。そうして(人智学の)狂信者は、アメリカ主義を強烈に罵ります。人間が猿を罵倒するのは、猿が人間に似ているからです。これは漫画です。「ヨーロッパで精神的に達成されるもの」と、「アメリカで自然な(本能的な)方法で達成されるもの」とのあいだには、北極と南極のような差異があります。
アメリカの自然科学の本は、ヨーロッパの自然科学の本とはまったく別物に見えます。アメリカの自然科学の本は、絶えず霊について語りますが、霊を粗雑に物質的に表象しています。ですから、近代の心霊主義はアメリカで発生したのです。心霊主義は何を行っているのでしょうか。霊について語り、霊を雲のような現象だと思っています。すべてが雲のように現れてほしい、と思っているのです。ですから、心霊主義(スピリチュアリズム)はアメリカ製です。心霊主義は唯物論的な方法で、霊を研究します。
アメリカでは、精神への途上で、唯物論が猛威を振るっています。ヨーロッパ人は唯物論者になると、人間としては死にます。アメリカ人は若い唯物論者です。本来、子どもは最初、みな唯物論者です。そして、唯物論的でないものへと成長していきます。そのように、アメリカの極端な唯物論は、太陽が水瓶座から昇るとき、精神的なものへと成長していくでしょう。
このように、ヨーロッパ人がどのような課題を持っているかが分かります。アメリカ人を罵るのがヨーロッパ人の課題ではありません。ヨーロッパ人は、最良のものから構成された文明を、全世界に築かなくてはなりません。
アメリカ的なヨーロッパ人であるウィルソン大統領に一杯食わされた、バーデンの王子のようにものごとを考えると、うまく行きません。ウィルソンは生粋のアメリカ人ではありません。彼の理論(民族自決主義)は本来、すべてヨーロッパから受け取ったものです。そのために、彼は不毛な理論を作りました。真性のアメリカ主義が、精神的な方法でものごとを見出すヨーロッパ主義と、いつか結び付くでしょう。このような方法で研究すると、世界でどのように行動すべきかが分かります。(『色と形と音の瞑想』P46-P52)
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「現代人はみな悪徳商人になる傾向があります」とシュタイナーは語りました。私はトム・ソーヤー商法(壁塗りエピソード参照のこと)という言葉を創作して、かつてこのブログでも使ったことがあります。その時同時に「うっかり八兵衛商会」という言葉も作りました。「現代はトム・ソーヤーのようなコンマン(con man)が社会システムからの圧力によって大量発生するしかない状況になっている」と思います。悪徳商人というより、価値の取引において、人々を香具師の口上みたいな言葉遣いをする宣伝家ばかりにしたというほうが実態に近いでしょうか。「その技術」を人々は「一か所に大量に人々を集める」ために駆使しています。「われら自覚なき悪徳商人たち」はそうやって、「場所提供者」の作ったゲームルールに則って(場所提供者たちは「もっと大きな顧客」のためにそういう場所を作ったのですが)「プレイヤー候補者たち」として集められ、一か所に耳目を大量に集めるという「作業をやらされている」のでした。巨大な胴元たちは、プレイヤーたちが、メタ次元に出て自分のやっていることに「道徳的疑問」を感じないように金銭的インセティブを与えています。
そういうえば『悪の秘儀』でシュタイナーは「アーリマンは(彼がばらまく思想の)賛同者を集めることに躍起になっている」と書いてましたっけ。彼は一方で、「人々はバラバラな集団に分裂していき、その集団も内部分裂し、やがてそれぞれが集団の中でひとりになる。そして最後は一人の人間が右の人と左の人に分裂して争うようになる」と不思議な話もしていましたね。
「ロスト」という北米人気ドラマにはトム・ソーヤーという偽名を名乗るキャラクターが出て来ます。彼はコンマン、つまり詐欺師でした。彼が自分のことをトム・ソーヤーと名乗ったのは、少年時代に彼の両親がトム・ソーヤーと名乗るコンマンの餌食になり、彼の目の前でピストルを使って心中し、その衝撃的な思い出を胸にその復讐心を忘れないために同じ偽名を使うようになったのでした。もちろんこれはシナリオ担当者がこのドラマにおいてはトム・ソーヤーという有名な児童向け小説のキャラクターを「詐欺師の象徴」として翻案したからです。コンマンをやっている自分に自覚がない無邪気さこそ、こんにちのわれわれの精神状況を表しています。それでも未来に人々が(シュタイナーの表現によれば)、「苦い目覚め」を自覚するときも来るのでしょう。P.S.
シュタイナーは「議論においてヨーロッパ人は証明することへの衝動が強く、アメリカ人は自己主張することへの衝動が強い」と述べていました。米国人は「公教育」においても小学生からずっと「大きな声を出して主張せよ」という教育を受けていますし。それが西洋圏といってもヨーロッパ系の人々と異なっているところです。上に紹介した動画は、100年後のこんにちにおいても、やはり「ヨーロッパ人はアメリカ人をなじっている」という事実を教えてくれる動画でした。シュタイナーは「将来アメリカ人は品がよくなる(子供から大人になって精神性を深める。)」ということも言ってますし、期待して(時間的には数百年単位の変容でしょうが)待っていましょう。 - 
          
          最近またYouTubeで英語圏のインディー系楽曲をいろいろ聴いて回ってます。
数日前に、「Best Indie Discoveries June 2025」のページに集められている各楽曲の動画バージョンを1曲1曲確認していたら、とても不思議な、シンクロニシティ感覚を刺激するような動画に出会いました。
その動画イメージは、今年5月に私が「ジリ・レーンに会え」という題で投稿した記事に付けたイメージ写真とすぐに連結しました。
「あ、もしかしてこの人が、ジリ・レーン?」
と思いましたが、楽曲のアップロード主はJackie Februaryという名義を使っていました。
その名前を見ると、またすぐに「Tommy Februaryと関係ある?」という感じの連想が続きます。「・・・・なわけないよな。でも名前を半分引用してるとかはあるかも」などと思ったのでした。彼女は赤いワンピースに白い靴下と運動靴姿、そして髪を後ろで結んで背中に垂らしていました。その上からバイク乗りがかぶるような(というよりよく見ると宇宙飛行士系)フルフェイス型の白いヘルメットをかぶっています。
動画の撮影地は東京のようです。彼女自身は日本人なのでしょうか? それは情報不足で今のところ私にはわかりません。それで、彼女個人のYouTubeページを検索して訪問してみました。もしかしたら、ヘルメットで顔を隠しているのは、すでに知られているミュージシャンの変名だからなのかもしれませんが、結局そこでも情報が得られなかったので、この見立もアテにならない話です。
いやいや、そもそもミュージシャンとフルフェイス型ヘルメットと言えば「Daft Funk」がいるでしょう(元祖はspaceだという記事有り)。Jackie Februaryはそっち系から印象を得たんじゃないですかと言われたら、「そうかも」と言うしかないです。
ちなみに、余談を少々。これらのミュージシャンたちは、いわゆる昔の言葉で言うところのテクノ系ですが、ドラムもベースも「手(足)弾き」ですよ。こんにちのDTM/DAW系の「オケ」は、(最近特に増えてきているように見える、もっぱら打ち込み作業のみで完結させているように聴こえる、日本のアニメのOPやEDは、そのよい実例です)、すでにカラオケ業界などで当たり前になっているタイプの伴奏制作をしている音楽業界経験者たちへの発注品なのでしょうか? 歌声はまだ「生きている人の声」だとしても、それはカラオケ店で流れる伴奏に合わせて歌っているようなものです。ドラム系の音もベース系の音も鳴っているのに、ちっともビート感がない。「ほんとに鳴っているんだろうか」と思って聴くと、確かに鳴っているけど、「ちっとも音楽的ではない」ので、鳴っているように聴こえない(その傾向についてはブログでも紹介した「The Real Reason Why Todays Music Is Starting To Sound The Same」が解説していましたね。クオンタイズ問題に注目)。まるで往年のアニメによく登場していた、本来は立体なのに、時々押しつぶされてペラペラな平面体になってしまうキャララクターのように「音像が平面の内部に押しつぶされている」ような感覚です。最近ではギターの音までシンセ音源を使っているアニソンもあります。そしてアレンジがその平面体の中で押しつぶされて過度にうるさくなってきている。どんどんひどくなっているように見えます。話を戻します。私がさらにJackie Februaryの動画に驚嘆したのは、以下のような、私の見た夢と奇妙にリンク感覚を感じさせる動画を見てしまったからです。この「Arriving on the earth」という題の短い動画は、ヘルメットをかぶった若い女性が、地球に「転移」する物語になっています。この動画が公開された日付は、今の時点で見ると7か月前(2025年2月28日)になってますから、彼女は、私が自分が見た奇妙な夢(2025年5月)についてブログで報告する以前に「異世界への転移」あるいは「タイムトラベル」という私の夢イメージと似たようなイメージの動画を作っていたことになります。
彼女のページのアイコンを見るとますます、私が「ジリ・レーンに会え」という題で書いたブログのページに掲げた写真のイメージと「連想的にそっくりな感じ」がしたので、「これはまったく奇妙でおもしろい」と驚嘆してしまいました。以下が彼女と私の二つの画像を並べたものですが、なんか共通のフォルムを内包していますよね。
でも、そもそも私が夢のイメージとして掲げた写真は、ウェブ版Stable Diffusionでこさえたものでした(ですから実際には「本来の夢のイメージ」とはまったく似たところがありません)。
夢の中では私はベッドに仰向けに寝ていて、足元に男女がいて、男から「ジリ・レーンに会え」と言われながら、布のようなものをかぶせられ(にもかかわらず同時に顔に装置のようなものを付けられたという二重感覚もあり)、それから自分の右目前に楕円状に現れたイメージ(別世界へ通じるポータルのようなもの?)を通って「異世界」へ移動したのでした。
ジャッキー・フェブラリーの動画では、彼女に異世界転移をするように告げる当局の者たちが、私の夢同様二人出て来ます。ただ動画では「転移の目的」が提示されていませんでしたね。
私の夢の場合は「ジリ・レーンに合え」ですが、なぜジリ・レーンに合わなければならないのか、夢の中では知らされていませんでした。ただ「そのこと」ははしょられていただけで、もっとたくさんの要素(設定)が意識の向こう側に隠れていて、自分はただ「その時」はそれを夢から覚めた時の意識上に乗せることができなかっただけの話なのかもしれません。
自分の手で、「ベッドに仰向けに寝ている自分と室内の様子」を描けばよかったんですが、どうせ上手に描けません。それで「病院 ベッド ヘルメット(装置イメージの代用)」などというようなプロンプトを使って、とりあえず手に入れたのが、ヘルメットをかぶってベッドの上で上半身を起こしている写真でした。
私は異世界にいて、ジリ・レーンを探し始め、いろいろな場所へ行き、いろいろなことをやったのですが、目が覚めたときには、具体的なことは何も覚えていなかったという内容の話を書いたのでした。
もしかして、私もJackie Februaryの「中の人」も「異世界からの転移者」で、でも「なぜ転移してきたのか、その目的が自覚できずに、物質界での違和感に耐えながら生きている・・・・」、などということがありえるのでしょうか。
英米系のスピリチュアル運動に詳しい人なら、「ああ、そういうタイプの、ほかの星から地球にやってきた人々の話なら、英語圏の人びとがよく語ってるよ」と答えるでしょう。
そういう界隈における古参的有名どころの人物、ドロレス・キャノンの言葉を借りるなら、インディゴ・チルドレンから始まる地球転移者たちの苦闘の物語の一部として、今回の不思議な体験も大きな物語の枝葉として包摂化も可能でしょうが、ほんとのところはどうなんでしょうねえ。
彼女によれば、インディゴ・チルドレン、すなわち第一波の宇宙からの来訪者たちは、1960年前後から地上に生まれ始めるが、彼らの一生はものすごく苦労の多いものとなると語っていましたね。次の世代、第二派世代、第三派世代の来訪者たちは、インディゴ・チルドレンが敷いた道あるいは経験によって、それほど苦労しなくて済むようになるとも。
とはいえ、私はシュタイナー学徒ですので、英語のスピリチュアルという言葉には多少反感を持っています。ドイツ語圏ではスピリットとは物質を希薄化したものを指し、こんにちでは酒精などの意味で使われることが多いとシュタイナーは書いていました。近代ドイツ語圏では「そういう扱いの言葉」を、英語圏の人びとは近代になったとたん「霊」を指す言葉として使うようになったのです。
霊・精神を表すドイツ語はガイストですが、英語も近代以前、200年前までは、英語版聖書においてゴーストを「霊・精神」の意味で使っていたのです。いわゆる「ホーリー・ゴースト」、聖霊ですね。今日、近代口語訳英語版聖書で説教を行っている人々は、かつてholy ghostという言葉で教えていた「対象」を、holy spiritという言葉に「置き換えて」教えています。
ガイストもゴーストも同じ語源から派生した由緒正しき古代世界由来の言葉です。つまり英語圏の人びとはすでに「霊」を指す「本来の古語」を喪失しているのです。そして語源的には、どこか物質的なニュアンスを感じさせるスピリットという言葉を世界中に普及させました。そしてその由来を知らない不思議大好き系日本人たちも、スピリチュアルという「カタカナ言葉」を何の疑問も感じずに使っています。日本人も「霊」と聞くと「幽霊」を連想するようになっています。しかも近代人は「霊」と「魂」の区別もできなくなっています。幽霊を指すドイツ語はガイストではありません。しかし日本人も英米人も、幽霊と霊をもはや区別できません。
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心霊主義(スピリチュアリズム)
唯物論が頂点を迎えた19世紀中葉に、英米の結社が物質的な方法で霊を証明しようとした試みで、霊は高次の自然にすぎない、と思い込ませる。秘教的知識を広めたくない人々と、その知識を大衆化したい人々との妥協の産物である。(『シュタイナー用語辞典』)
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こんにち「スピリチュアル」という言葉は19世紀の時代よりもずっとカジュアルな受け止められ方をするようになっています。英語で言うところの「スピリチュアリズム」は、もともとは「幽霊の実在の科学的手段による証明運動」として始まったものですが、「音声的」に関連する「スピリチュアル」という言葉は今や完全に「市民的」になっています。
そもそもキリスト教徒は人間は魂と肉体からできており、霊のように見える活動も散見される、というような認識をキリスト教思想の根幹に据えています(もちろんキリスト教も古代には霊・魂・体の三つを教えていたのですが、ニケーアの公会議で、人間から霊の要素を取り除いたのです)。つまり人間は魂的存在ではあっても、霊的存在ではない、と言っているわけです。霊は神霊存在、天使存在が有しているものなのです。あるいは霊の部分は教会が担うということになりました。英語は物質的な事象を表現するには最適な言葉となりました。こんにち世界に流通しているコンピューター言語は「英語」をもとに作られました。この唯物論の時代に「英語が世界を支配している」のは、偶然ではないのです。ゴーストリーという英語はありますから、霊学という意味でなら、ゴーストリー・サイエンスとでも言いたいところですが(ghosticという単語も存在するようですが一般的ではないようです)、そんな用例は近代には存在しません。日本語の「霊学」に当たる実際の用例は、ドイツ語=Geisteswissenschaft、英語=spiritual scienceです。でも200年前、近代にイギリス人たちが「ゴーストの本来の意味」を「喪失」しなかったなら、あるいは ghostly scienceという言葉がspiritual scienceの代わりに使われていたかもしれないということです。・・・・・・--------------------------------------------------------英語はゴート語の段階にとどまっており、言語を無価値にする。精神科学・人智学の本を英語に翻訳することはできない。英語では、語られたものが精神(霊)に完全に重なる可能性がないのである。(『シュタイナー用語辞典』)
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あれ、また「いらんこと」を延々としゃべりはじめそうになってる。なので、今回は「地球転移者」をテーマに記事を書いたんだということをも一度強調して本稿を終えようと思います。
P.S. 「ジリ・レーンに会え」では、「右目前にだんだん楕円状に拡大していくポータルのようなものから異世界へ移動した」という趣旨の話をしましたが、アマゾンプライムで始まったばかりの秋アニメ「素材採取家の異世界旅行記」の第一話を見たら、物語の冒頭部に、同じようなイメージを喚起させるシーンが出てきて、「またまたシンクロニシティじゃん」とびっくりしてます。(2025-10-19追記) - 
          
          かつてはただのダイニング・キッチンとして食事の時以外は長時間そこに居座らなかったフローリングの6畳間ですが、今ではほぼここに居座ってます(「Dear My Friend」もこの食卓の上で録音しました)。
背の高い大きな食器棚を処分して、半分の背の高さの食器棚(幅60cm高さ90cm)を2つならべて、その上にパソコンのモニターを据えて生活するようになって以来、「この部屋」が私の定位置になってしまいました。
ヤモリンが玄関のガラスの引き戸周辺をいつも警備してくれるようになって、もう長い年月が経ってますが、今年も同じようにヤモリンの子孫たちが先代たちの仕事を引き継いでくれています。
地方住まいなので、やっぱり家のまわりでいろんな生き物に遭遇することが多いですよ。
先週末ひさびさにぎょっとする体験をいたしました。なんと巨大な家蜘蛛がダイニング・キッチンの廊下のガラス扉の上にいるじゃないですか。突然出現したように見えたのが不思議です。
「うわー、でかい。これアシダカグモだよな。ひさびさにアシダカグモを見たなあ」と思い、同時に、「そう言えば・・・」と、大昔アシダカグモのことをブログで書いていたことを思い出したので、過去記事をチェックしたら、2007年10月6日に「ヤモリ、ゴキブリを食らうの図」という題で記事を出していることが分かりました。
「10月6日?、ああ、同じ時期での出来事だったんだ」と、そのことに意識が動きました。
あの時はヤモリの写真は撮れたんですが、アシダカグモは撮れませんでした。参考に載せたアシダカグモの写真は体の色が濃いですが、メスはこういう外見をしているそうです。というか今回の遭遇で、「私が子供時代以来見て来たアシダカグモはみなメスばかりだったんだ」ということに気が付きました。
今回私が遭遇したアシダカグモは体全体が白っぽくて、どうやらオスだったみたいです。オスの背中には独特の模様が入っています(写真をクリック)。
ネット記事によると、「アシダカグモは臆病なので人が近づくとすぐに逃げる」という話ですが、今回はしっかり写真を撮ることができました。
私はこの蜘蛛に、土曜日、日曜日、月曜日と同じ時間帯に三度遭遇しました。一度目はびっくりしただけで、写真を撮ろうと思いつかずに終わったんですが、まさかまた「同じ場所」に現れるとは思わず油断していたら、再び昨夜と同じくらいの時間に同じ場所に現れたので、またぎょっとしてしまいました。
前回同様、しばらくすると彼はその場を立ち去りました。そのとき「あ、明日の夜もまた現れるかもしれないから、そのときこそ写真を撮ろう」と思い、「心の準備」をしていました。
すると「予想」というか「期待」通りに、また同じくらいの時間帯に同じ場所に彼が現れたので、そっと近づいて写真を撮ることができました。写真は90度右に倒し、読者がよく観察できるように蜘蛛の部分だけを切り取ってます。
なんだか背中の部分は「しゃれこうべ」「どくろ」みたいじゃないですか。しかもデフォルメされた感じのデザインです。こんな感じの。
これがオスのアシダカグモたちが共通に自分の背中にしょっているデザインのようです。
でもつらつらと自分の撮った写真を眺めていたら、どくろのさらに上部は、どこか袈裟を身に着けた観音様のように見えてきて、自分のなかで、以下の絵のようなイメージが沸き起こりました。
「これ、どういう意味?」と思いましたが、まあ、意味があるわけでもなく、私の中で、物質界のイメージ像からの空想力への印象転移が起きただけの話です。
「三日続けてオスのアシダカグモに遭遇したことの意味」など、あったとしても、分かりません。ただ「この小さな体験」は私の中で死ぬまで残り続けるだろうことは確かです。
今年も「同じような時期」に(タカサゴユリは8月満開だったので自分のなかでは異常事態に感じましたが)曼殊沙華(彼岸花)の花が咲きました。去年は投稿記事の中で、「床の間に飾ろうと思ったけど、思ったときは時期を逃して、すでに花が枯れちゃってて、やれなかった」と書きました。そのとき、「ぜひ来年は飾ってみよう」と思っていたのでした。
今年、ようやく去年の思いを実行に移すことができました。
ネットで検索してみると、花瓶に飾ってある彼岸花の写真はたくさん出て来ますが、床の間に飾ってある彼岸花の写真はめずらしいようなので、以後、「床の間飾りの彼岸花ってどうだろう」と思いついた人が検索をかけたときに「参考写真としてヒット」してくれたら、「縁起の問題でいろいろ言う人もいるかもしれないけど、臆さなくてもいいんだよ」と背中を押してくれると思います。
P.S. 再び土日にかけて、アシダカグモが姿を現しました。日曜日には、ダイニングキッチンではなく、なんと寝室のカーテンの上でじっとしていました。それでもう一度写真を撮ろうと思い、前回よりももっと近くにスマホを寄せて撮ることができました。
この写真は左に90度回転させて、蜘蛛の姿を中心にトリミングしたものです。前回の写真より鮮明ですね。でも今回はドクロの上は観音様には見えません。頭巾をかぶったリスとかハムスターとかの顔に見えなくもない。読者にはまた違った連想が沸くかも。自分的には、なんか図像的には、カワイイ(上)+キモカワイイ(下)という感じ。ドクロが口をパクパクさせて、今にも何かしゃべりだしそう(9月13日追記1)。
夕方、買い物に行こうと思い、駐車場に行くと、私の白いクロスバイクの下に「茶色のアシダカグモ」がいました。茶色いということは、メスのアシダカグモです。実は、私、このメスには、今回「家の中」でオスのアシダカグモに遭遇する数日前に一度会っているんです。でもその時は「あ、アシダカグモ!」と思ったくらいで、家の中に入るとすぐに忘れてしまいました。それ以降今日まで「同じ場所」で彼女に遭うことはなかったんですが、再び目にしました。
今回の写真は、「アップロード可能な写真のデータサイズは1MB以内」という制限に沿うようにもとのスマホ写真を0.5倍したたけで、トリミングはしていません(写真をクリックしてご確認ください)。つまり寝室のカーテンにいたオスのアシダカグモ同様、ここまでスマホが近づいても彼女は微動だにしなかったということです。「え、もしかして死んでる?」とあまりにも不思議に感じたので、写真を数枚撮り終えた後、足をドンと踏み鳴らしたら、ササッと壁際へ移動したので、「あ、生きてんじゃん、よかった・・・」と思ったのでした。
これで2007年10月6日当時にはかなわなかった「自宅にいるメスのアシダカグモの写真の公開」をようやく実現することができました(9月13日追記2)。
オスのアシダカグモが最初に現れた日が、10月4日㈯で、それから10月22日㈬に玄関から出ていくまでに13回目撃しました。この期間まる一日目撃しない日などもあり、「いったいいつまで〈出現〉し続けるんだろう」と思いながら暮らしておりました。ある夜、買い物に出かけようと、玄関の靴脱ぎ場の電灯をつけたら、玄関のガラス戸に〈彼〉がいました。ぎょっとしましたが、私は外に出ていかねばならず、静かにガラスの引き戸を開けたら、〈彼〉がスルスルと移動して、ガラス戸の反対側へ回り、ぽとりと下に落ち、その場で8本の脚を広げてじっとしていました。「ああ、出ていくんだね」と思いながら、私はガラス戸を閉め、じっとしている〈彼〉の横をすり抜けてそのまま買い物に出かけたのでした。帰ってきたときには、もうそこに〈彼〉はいませんでした。(9月25日追記3) - 
          
          といことで、表題の通り、前回内容の後続記事であります。
Indie Playlist Septembaer 2025の動画は全体で3時間55分36秒もあるので、まず、ここで全体を通し聴きしようと思って、実行できる人って、あまりいないと思う。
DAW系のシンセ音を使った「環境音楽」的な聴き方だと、「そういうタイプの努力と忍耐」を聴き手に要求しないので、むしろ「耳が楽曲に引っ張られるような曲」を流すことは、聴き手の安楽さ欲求への迷惑行為にさえなる。「聴けば心地いいんだけど、印象が消えていくような楽曲」、できれば、睡眠誘導曲として、あるいは、精神鎮静として、部屋の中で流したい曲、そういう楽曲への要求が昔より、大きくなっている時代なんだろうと思う。
「このまま唯物論的な時代が続けば、いずれ社会は神経質という精神病の大流行に見舞われ、共同体が危機に瀕するようになるだろう」というのがシュタイナーの予言だったしね。だから音楽分野でも、「芸術体験」ではなく「心の鎮静剤」として「投薬体験」を強く求める時代になっているという逆証明でもあるんだろう。私もときどきこの手の「印象薄い系音楽」を「聴いてる」・・・・・、ではなく「部屋で流している」し。夏の間はこれ(←クリックしてください)をかなり頻繁に部屋のなかで流していた(炊事作業したり、本を読んだりしながら)。これだともはやシンセ系音楽ではなく、かつての日本なら地方のどこでも聴けた「本来の環境音の再現」になっちゃうけど。
でも今の私は割と暇人なので、このIndie Playlist Septembaer 2025の「歌声入りの楽曲集」を家の中でずっとリピート再生し続けていると、何か他のことをしていても、「耳が引っ張っていかれる曲」にときどき遭遇する。そういう「体験」をさせてくれる曲を集めると10曲ほどになった。
なかでもPine Barons の LILOって曲はとても耳に残った楽曲だった。で、その曲そのもので動画になってるページを検索して見てみた。するとすぐ「ある楽曲動画」への連想が沸き起こった(これは後で語ることにする)。
コメントはもちろん英文だらけだけど、そのなかに、ひとりだけ日本語賛辞を寄せている人がいた。
ああ、やっぱり、「探索者」は日本にも実はいっぱいいるんだろうなあ、と同志を見たような気分になった。
プレイリストのなかに2回この楽曲は登場してくるので、リスト制作者のミスだろうけど、逆に言うと、制作者も「一番のお気に入り曲」なので、「無意識の自己主張」をしちゃったのかなと思ったりもした。これはLILO動画のことではなく、一般論だけど、画像を見ながら、楽曲を聴くと、広い非物質空間へ移行することを遮断されるような気分になる。昭和時代のような、「喚起されるイメージ」はそれぞれの聴き手が「自分で作っていた」時代、ラジオから流れて来る楽曲のみに集中して聴くというスタイルだった時代は、「自分の空間」に移行することが容易だったよね。楽曲だけで、「自分固有のイメージ空間」に移行していた。それは多くの場合、具象的像ではないけれど、確かにみな、そういう「別世界空間」「印象空間」(ある意味、霊界のような?)に飛んで行ってたはずなんだよね(総合芸術、演劇や舞踏・ダンスとか映画の構成要素としての音楽体験の話はしてないので、誤解なきよう願います)。さて、LILOの動画を見て、沸き起こった「連想」とは、当ブログでもたびたび言及していたバーバパパの動画のひとつだった。
「ああ、なるほど。二つの動画があなたの中で〈つながってしまった〉のは、分かるような気がする」とおっしゃる方も、もしかしたらおられるかもしれない。
あるいはLILOを作ったPine Barons自身が、この動画から着想の一部を得ていた、などということがあったなら、それはそれでかなり面白いことだよなあと思うのだった。