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BOUNDHEAD

ミチコとハッチン
ラテンアメリカを舞台にしたアニメっていままで知らなかったので、新鮮だった。

それにミチコ役は真木よう子。ぶっきらぼうな言い回しで、ひたすら下品にしゃべくっているのが、これまた驚きだった。(というのはオレはこの人のこと「サマータイムマシン・ブルース」で「初めて発見した」(印象に残った)程度でほとんど知らなかったのだった。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の方は見ていない。)

ハッチンと呼ばれる少女ハナの生い立ちは痛々しいが、このアニメでの彼女の描き方はどこか感情が欠落している感じだ。彼女は父も母も求めていないのに、強制的に「父をたずねて三千里」の旅へ連れ出される。

だが少しずつミチコと気持ちを通じ合っていく。

ハナのような「強い性格と意志」の持ち主なら、「9歳から10歳にかけて味わった事件」のあと、持ち前の根性で苦学して学校にも通い、ミチコの不良少女時代の友人アツコが警察官になったように、検事とか弁護士とかにさえなっていたかもしれない。彼女は「そのように決意してまっとうに生きることができる女」として描かれていなかっただろうか。

けれど最終話に登場してくるハナは、苦労して出会った父とも別れ、つまらん男と結婚し、結婚生活三ヶ月で離婚した子持ちの女として登場してくる。オレは10歳にして、ギャングのボス、サトシ・バチスタと渡り合い、彼に「いい女だぜ(10歳の女の子になんてこと言うんだ、コラ)」と言わしめたハナが、「そんな馬鹿げた結婚」をするとは思えない。(記憶をなくした少年とのエピソードも思い出そう。)

ミチコは飛行場での別れ際にハナの父親のヒロシに「ハナと一緒にいると必ず元気にしてくれるよ」と言ったじゃないか。つまり彼女も「ハイジ効果を持つ少女」だったのだ---その片鱗はサトシ・バチスタとのやり取りからも伺えるじゃないか----その「伏線」はどこに飛んでいったのか?

オレは制作側もいろいろ議論したんじゃないかと思う。「成人後の彼女」をどんなふうな立場の大人として描けばいいのかと。

オレは第18話の「あかんたれの弾道サンバ」のラストでハナがダンスを踊るシーンが大好きだ。このシークエンスは「ミチコとハッチン」のなかで「もっとも素晴らしく、かつ心にジンとくる、シークエンス」だとオレは思う。その不思議な余韻は時間が過ぎても消え去らない。いったい何故なんだろう、この不思議な感じは・・・・・。
dancinghacchin.jpg













このシーンを見たとき、突如として「ディケンズだ」という思いがわき上がった。「まるで少年のようなハナ」・・・・・この物語がハナの視点から描かれていたら、「本当の意味でのハナの喜怒哀楽」がちゃんと目に見える形で現れて、ディケンズの小説のような感動を視聴者にもっと呼び起こせたんではないかと思った。

だが、ハナがディケンズの小説のような出世をしたら、刑務所から出てハナに会いにくるミチコとどのような再会をさせればいいのか? ディケンズ的後日談で落とすのはやめよう・・・・・案外制作側も迷ったあげくの、最終話だったのかもしれない。結局「ミチコとハッチンは再び旅に出ることになる」という暗示を施してこの物語は終わる。最終話に登場してくるハナは、そのような制作者側の意図----また二人を旅立たせてみたらどう?----だがそのような必然性があるだろうか?----のために用意された「仮の人格」だったのだとオレは思う。

とはいえ、きっとオレは、このハナのサンバ・ダンスをまた見たくなるに違いないのだ。ストーリーがどうのこうのというより、このまるで「一編の映像詩」のような、「無心で踊るハナのかっこ悪いダンス」にすっかりやられちゃったのだから。
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