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崖の上のポニョ・フィーチャリング・ワーグナー

今日やっと「崖の上のポニョ」を見た。例によって一切の前知識なしで見た(オレが前もって知っていたのはテーマソングの最初の4小節と人魚姫に似た話だってくらいのもんだった)。

ポニョが女の子の姿で海上を駆けてくるシーンで使われた音楽が妙に心にひっかかった(それは違和感だったのかもしれない)。「なんか妙にワーグナーっぽい音楽使ってんな。でもなんでここでワーグナーなんだろう」と・・・・・。それにそのときのポニョの走り方が、あの『未来少年コナン』でコナンが巨大な飛行艇の翼の上を走っていた姿とだぶっても見えた。
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で鑑賞終了後、詳細を確認しようと思い、ウィキペデアに行ったら、ちゃんとワーグナーの話が出ていた。

ああ、そうなんだ。でも奇妙なことだ。確か宮崎駿監督は『もののけ姫』の公開後のNHKのドキュメンタリーで北欧神話の話----「ヴァルハラでうんぬん」というような内容だった----をしていたよな。そのときもオレには「ヴァルハラの話」は「唐突な挿入」に聞こえたけど、その心理的関心を今日まで延々と持ち続け、なんとこの童話系アニメにまでワーグナーというワン・クッションを入れることで、その当時からずっと自分のこころに絡まり続けてきた神話的(あるいは秘儀的)関心を「唐突な挿入」として持ち込んじゃったんだ、と思った。

さらに驚いたのは、最近オレがこのブログで報告した「オフィーリア」の絵の話がウィキペデアの「崖の上のポニョ」の説明文のなかに出てきたことだった。彼はジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」に感銘を受けたと書いている。なんてこった。もっとはやく「崖の上のポニョ」を見ていたら、このアニメ関連からもっと簡単に「オフィーリア」にたどり着けたのに、と思った。

それから押井守監督のコメントがネット上に上げられていたのをたまたま聴いた。宮崎駿監督と押井守監督はいつも互いの作品に対してけっこうキツいこと言いあってる気がするな。「デヴォン紀の海」だったけ? 水面下で古代魚が悠々と泳ぐシーン。でも押井守監督がその作品を作ったためにしばらく仕事をほされたという「天使のたまご」にも、古代魚が悠々と泳ぐシーンが出てくる。コメントにはなかったが、あのシーンを見た押井監督はひそかに自分の作品の古代魚シーンを連想したんじゃなかろうか。ちなみに「天使のたまご」の宮崎駿評は「努力は認めるが理解されない」だったっけ?。今回の宮崎作品に対する押井守評は「老人の妄想」だった。

だが「老人の妄想系童話」なら、「不思議の国のアリス」という話もある。

ウィキペディアによると、「崖の上のポニョ」ではエピソードを大胆にカットしたと宮崎監督は言っていたらしい。この作品を映画としてではなく、もっとじっくり腰をすえて、テレビアニメ様式でさまざまなエピソードに彩られた13話、あるいは26話、あるいは52話のアニメとして制作できたなら、つまりポニョの苦闘をポニョの心理を丹念に追っていけたら、最後のキスシーンは大感動シーンに姿を変えたんじゃないだろうか。ああハッピーエンドでよかったという思いだけではなく、「それに加えて」きっと人々はうれしい涙を流したに違いない。大人たちばかりではなく、もちろんポニョと同じくらいの年齢の子供たちが「ほんとうによかったね、ポニョ」と言いながら。

しかしこの短い尺のなかのわずかなエピソードの積み重ねの中からは、鑑賞者たちは、ポニョの情熱、ポニョの苦悩、ポニョの悲しみと喜びに共感することはまったくできなかったにちがいない。

この映画のポニョは「思いついたら」なんでもやすやすと突破してしまう。これでは5歳の幼児たちは「ああっ、危ない。ポニョがんばれ。ポニョ逃げろ。ポニョ、後ろー」とか言いながら、物語の中に入り込んで「ポニョとともに旅をする」ことはできなかったろう。

だから映画のラストシーンは人々に感動をもたらさないつけたしのようなもの----テレビアニメで言えば、原作が終了していないので、便宜的につけた足早に進むラスト・シークエンスのようなもの----になってしまったように思う。宮崎監督は「エピソードの積み重ねによる起伏を物語に持ち込むという定石を拒絶したかった」というような趣旨のことを言っているが、その試みは成功したとは、やはり言えないだろう。

「未来少年コナン」の話をさっきもしたが、あの話のエピソードのいくつかを大胆にカットして----話のつながりが追えないくらいに大胆なカットでつなぎ、「巨大飛行艇ギガントの翼の上を走るコナンの姿」や「あの有名な津波シーン」は必ずいれるというような編集をして----1時間40分ほどの映画にしたら、たぶん感動は半減する。あるいは「意味不明な映画」に変貌するだろう。オレには「崖の上のポニョ」はそういう構造をしたアニメだったように思う。「ほんとうの崖の上のポニョ」は全13話、あるいは26話あるいは52話で出来ていたのだ。それを宮崎監督はいきなり映画版に再編集したのだった。

オレにはそう思えてならない惜しい作品だった。

もしアナタが「この物語には納得できねー派」だったとしたら----というのはこの映画をとても満足して見終えた人々もたくさん存在するのもまた事実だろうから----地上界では宮崎駿によって大胆にカットされてしまった、ヴァルハラの神々と戦士たちにのみ読むことが許されている、霊界(理念界)にのみ存在している「崖の上のポニョ」というお話の真の全体像、その膨大なエピソードを自分なりに空想し、アナタも13話バージョンのポニョ、26話バージョンのポニョ、52話バージョンのポニョを、つまり自分の空想上の「崖の上のポニョ」を作ってみるといいと思う。もちろんこの映画では登場してこなかったたくさんのキャラクターも空想しつつ・・・・・。そうすれば「人間になることと引き換えにポニョが失わなければならなかった魔法の力」が、ふたたび「アナタの中で復活し」、この物語のラストを「本当のラストシーン」に変容させてくれるに違いない。

p.s.1  ところで押井監督の「スカイクロラ」まだ見てないのだった。ていうか最近「映画自体」を----っていってもオレの場合、レンタルDVDメインだけど----見てないっすよ。シリーズ物のアニメばっか見てるんで・・・・。押井監督もスターウォーズ・シリーズを全部見ていないってような話をしてましたね。

p.s.2  宮崎監督には「頑固じいさんモード」には入ってほしくないですよ。なんせ「ハイジ効果」という用語を思いつくきっかけをくれたのは宮崎監督が若いころ手がけたあの有名な「アルプスの少女ハイジ」なんですから。

p.s.3  でもジブリはあの絵柄から----ジブリは基本的に1類類の絵柄(定石)しか持っていない----自由になれないんだろうな、これからも。

p.s.4  昨夜また「風の谷のナウシカ」をやってたようだね。内容が映画版とは違う原作の宮崎駿自筆の漫画がいいよね。もちろん映画版も傑作だけど。でも、オレにとってあの漫画の魅力は、ナウシカと巨神兵との交流、もうその一事に尽きる。オレは巨神兵ファンなので。

p.s. 5  実を言うと「秘儀の歴史」から言えば、遥か以前「(現在のような状態の)人間になるために魔術的な能力を失った」のは「人間」そのものなのだった・・・・・と、これはシュタイナーファンなら、了解済みの人間秘史だったね。

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