忍者ブログ

BOUNDHEAD

「彼らは中2病っぽいんだよ」とシュタイナーは言った 
今回はシュタイナーによるフリーメーソン批判についてご紹介いたします。






 
 
「〇〇が陰謀をたくらんで人類を支配しようとしている」というトンデモ話を扱う領域を陰謀論と呼んでいます。誰かが馬鹿げた話をネットに持ち込むと、必ずそれを陰謀論という独特な用語で否定する集団も同時に出現します。
 
ソッチ系の界隈ではフリーメーソンとかイルミナティとか大人気コンテンツのひとつですよね。しかも「本家」が媒体握って、適宜、情報頒布活動に関与しているとなれば、情報の出し役と受け取り頒布役が、たといそのプレーヤー同士が人脈的に無関係であったとしても、とどのつまり源はおんなじじゃん、という笑えない話に帰着します。近代は「そんな話ばかりで実は出来上がっている」ことも多いって話ですよね。
  
 
攻撃側から「それは陰謀論だ」と言われたら「陰謀なんてない。それは事実ではない作り話だ」と言っているのと同じことですが、銀魂の神楽の焼きそばエピソードのように「ウソつくんじゃねーよ」とストレートに言わずに、英国人のように「それは陰謀論ですね」と遠まわしに言うところが、そのそぶりに対して、にやっと笑いたくなるところではあります。
 
一昔前の英語圏アカデミーの権威筋から発せられていた「歴史修正主義者(リビジョニスト)」という呼称による、遠まわしな表現による、「視点選択の無力化活動(ある視点の、解釈選択肢からの削除運動)」も似たような源泉から出てきたものでしょう。
 
本物の花の周りを無数の造花で飾ると、もはや人は「生きている花」をその中から選び出すことができません。目の前に咲いている花が一株だけだったなら、私たちは「探すための苦労」することもなく、近づいて手で触り、すぐにそれが本物の花だということを自力で確認できます。しかし1ヘクタールを埋め尽くす、一見植物にみえるようにしつらえられたさまざまな造花のなかに隠された本物の花を遠くから眺めて、つまり学校教育やマスメディア経由で見せられて、「どれが本物なのか」を指摘することは、特別の透視力など持たない私たちには、ほぼ不可能でしょう。
 
近年の高校の英語の教科書に、ジャムの詰め合わせ商品の購買傾向についての記事が出ていましたが、このリサーチ報告は要するに「消費者はパッケージに盛り込まれた選択肢の数がある水準を超えると、選ぶこと、つまり判断し決断することができなくなり、結局は、よりシンプルな品数の詰め合わせセットを選んでしまう」ということでした。膨大な情報に脳が圧倒されて痺れさせられている時代には、人々は「分かりやすさ」、つまりそれは「受け入れやすさ」と同義ですが、それこそを選択の基準にしているということです。それが今日の時代です。
 
要するに、ことわざとして昔からよく耳にしてきた「木を隠すなら森の中作戦」は「情報の秘匿方法」として、今日でも大変有効に機能しているということですね。
 
さて、近代の民主化運動とフリーメーソンの関係について、シュタイナーは『神殿伝説と黄金伝説』にて以下のような発言をしています。
 
-----------------------------------------------------------
 
すでに述べたように、近代フリーメーソンはイギリスにおいて、もちろんそれまでの伝統をふまえた上で、18世紀初頭にはじめて設立されました。以来、大英帝国内ではなく、イギリス王国内でのフリーメーソンは、非常に尊敬すべき在り方を続けてきました。けれども、他の多くの地域でのフリーメーソンは、主として、またもっぱら、政治的な利害打算の中だけで動いているのです。そのような政治的な利害打算をもっとも顕著にあらわしているのは、フランスの大東社(グラントリアン)ですが、フランス以外の大東社にもこのことは多かれ少なかれ当てはまります。
 
イギリス人は言うかもしれません。「他の諸国において、オカルト的な背景をもつフリーメーソン結社が政治的な傾向をもっているからといって、われわれに何のかかわりがあるというのか」。しかしさまざまな事実を相互に関連づけてみると、パリにおける最初の大東社ロッジは、フランス人ではなく、イギリス人の手によって創設され、イギリス人がフランス人をそこへ加入させたのだ、ということがわかります。それは1725年のことでした。1729年には、この大東社の承認の下に、最初のロッジの一つが同じくパリに創られました。次いで、同じくイギリス人の手で、1729年ジブラルタルに、1728年マドリッドに、1736年リスボンに、1735年フィレンツェに、1731年モスクワに、1726年ストックホルムに、1735年ジュネーブに、1739年ローザンヌに、1737年ハンブルクに創られました。こう述べていくと、きりがなくなります。私が言いたいのは、たとえイギリス王国の場合とは違った性格をもっているとしても、イギリス人による同じネットワークの一環として、これらのロッジが創られ、特定のオカルト的=政治的な衝動のための外的な道具にされている、ということです。
 
もしもこの政治的衝動の深い根拠を問おうとするのなら、近世史をもう少し広く展望する必要があります。この衝動は17世紀以来----すでに16世紀から----準備されて、民主化運動となって普及していきました。ある国ではより速く、別の国ではよりゆっくりと、少数の者の手から権力が取り上げられ、大衆の手に委ねられるようになりました。
 
私は政治的な立場から申し上げているのではありません。ですから、民主主義を擁護するつもりで語っているのでもありません。ただ事実だけを取り上げるなら、この民主化の衝動は、近世史を通じて、加速度的に、テンポを速めて普及していきました。けれどもその際、もうひとつの流れも、それと一緒に形成されたのです。複数の流れが現れているときに、その中の一つだけを取り上げて考察すると、判断を誤ってしまいます。
 
ひとつの流れが世界中に広がっていくとき、常にもう一方の流れがあって、はじめの流れを補完しているのです。歴史の上に緑の流れと赤い流れとが並んで存在するとき、人びとは通常、その一方の流れだけを見るように、暗示にかけられているのです。にわとりの口ばしで地面を引けば、そのにわとりは線に沿って歩きます。そのように人びとは、特に大学の歴史研究者は、一方の側だけに寄り添って歩いて、歴史の歩み全体を洞察する余裕を失っているのです。
 
民主化の流れの背後に、さまざまな結社の、特にフリーメーソン結社の、オカルト的な力を利用しようとする流れが見え隠れしているのです。オカルト的な力を利用しようとする動機は決して精神的であるとは言えないのに、一見精神的なふりをしている貴族主義が、フランス革命で大きな役割を演じたあの民主主義と、手に手をとって発展してきたのです。ロッジの貴族主義がひそかに出現したのです。私たちが現代人にふさわしく、社会に参加し、社会の仕組みに通じたいと思うのなら、民主主義の進歩についてのきまり文句に目を眩まされてはなりません。ロッジの儀礼とその暗示的な力とによって、支配力を少数者だけのものにしておこうとする働きに、眼をしっかりと向けなければなりません。
 
西洋近代の世界は、ロッジの支配力から解放されたことが一度もなかったのです。常にロッジの影響が強力に作用していました。人びとの考え方を一定の方向へ向けるにはどうしたらいいのか、ロッジの人びとはよく心得ています。今日はそのようなロッジのネットワークの一つひとつの結び目のことを述べたにすぎませんでしたが、このようなネットワークはすでに出来上がっています。ですから、自分の好む方向へ社会をもっていこうと思ったら、ただテーブルのボタンを押しさえいいような体制が出来上がっているのです。[1917年1月8日の講義より](P428-P430)
 
-----------------------------------------------------------
 
ご紹介した発言の中で、イギリス本国のフリーメーソン人は世俗的ではないが、「あるイギリス人」がイギリス国外に出て行って次々に設立したフリーメーソンは「たちが悪い」と語っていますね。「旅の恥はかき捨て」という日本のことわざのように、次々と海外に植民地をこさえて独立国家を作り、国家の法のなかに人種差別条項を設けて「法の下における人種差別政策」を行ってきた国々はすべて「海外に出ていったイギリス人の子孫たち」によって作られた英語圏国家だった事実とつき合わせて歴史を眺め直してみると、その行状は「海外に出て行った、イギリス人の作ったフリーメーソン思想」とも呼応し合っています。
 
シュタイナー発言の中から私が気になった個所を箇条書きにしてみます。
 
①フリーメーソンは、主として、またもっぱら、政治的な利害打算の中だけで動いている。
 
②ロッジの構成員たちの本来の目的は貴族主義(貴族統治)だが、彼らはそれを民主化運動のなかで実現させるべく暗躍してきた。
 
③西洋近代の世界は、ロッジの支配力から解放されたことが一度もなかった。
 
④彼らの好む方向へ社会をもっていこうと思ったら、ただテーブルのボタンを押しさえいいような体制が出来上がっている。
 
このシュタイナーのフリーメーソン批判は、約100年前になされたものですが、今日でも状況は同じでしょう。
 
世界的事件の数々は、実際には、緑の流れと赤い流れの「二つの流れ」が相合わさって形成されてきたのに、近代の一般の人々は幻惑されて、緑の流れだけを見せられて、「これが歴史なのだ」と考えるように誘導されてきたのだとシュタイナーは言っているのです。
 
近代人は、学校制度というシステムのなかで「彼らが望むとおりに思考する」と評定Aプラスがもらえるので、この筆記試験の結果が形成することになる、それまでの「生まれや身分の違い」による選別方法に代わる「新たな選別方法による階級社会」の中にいやおうなく投げ込まれて、教育現場において、遠まわしに絶えずくすぐられ続ける自尊心や恐怖心から生まれる利己主義を「彼らに利用されてきた」のです。

そのような反復訓練を施されて、社会に出て行って一定の社会人的経済人的地位を得ます。彼らは「自分たちは有能で、確かな地盤に立って生きている」と感じています。利口ではあるけれど、競走馬のブリンカー(遮眼革)ように視野を狭める器具を装着されて、洞察力を奪われて生きている近代人、「誰かにしつけられた思考方法」を演繹的に用いながら、思考生活の上で受動的に生きてきたのが、近代人の「現在の立ち位置」なのです。
 
 
 
フリーメーソンは彼らの計画を実行に移す前に必ず予告を行うとシュタイナーは言っています。
 
 
-----------------------------------------------------------
 
 
ヨーロッパには今日、なにごとも短絡的に考えようとする人々がいます。世界大戦の勃発を、フランツ・フェルディナンド皇太子の暗殺に関連させて考える人々がいます。それが間違いだ、と言っているのではありません。1914年6月起こった暗殺事件に遡って説明することはできます。
 
しかし、1913年1月の西欧の新聞(パリ・ミディ)に、「ヨーロッパ人の安泰のために、フランツ・フェルディナンドが暗殺されるべきだ」という記事が載っていたことを強調す人々もいるでしょう。実際の暗殺事件まで遡ることもできるし、1913年1月の新聞に「彼は暗殺されるべきだ」と書かれていたことに遡ることもできます。
 
おそらく真相は明らかにならない、平和な時代の最後に起こったジョレス暗殺に遡ることもできます。また、1913年にくだんの新聞に「ヨーロッパにおける状況が戦争へと突き進むとしたら、ジョレスが最初に殺される人物だろう」と書かれていること遡ることもできます。
 
40フランで売っているオカルト・アルマナックを見てみましょう。1913年のアルマナック、つまり、すでに1912年に印刷されたアルマナックに、「オーストリアでは、統治者になるだろうと人々が思っている人物ではなく、老皇帝ののちに統治するとは思われていない若い男が統治するだろう」と書かれています。
1912年の秋に印刷された、「1913年のアルマナック」です。1913年に印刷された「1914年のアルマナック」に、同じ指摘が繰り返されています。1913年には、暗殺計画が失敗したからです。

ものごとを明瞭に見通せば、外的な現実のなかで生じることと、秘密裡に企まれることとが関連しているのが明らかになるでしょう。おおやけの生活からあれこれのオカルト結社に連なる糸が認識されるでしょう。「密儀の真理については沈黙しなければならない」と今も主張する結社がいかに愚かかも、認識されるでしょう。オカルト的な源泉を専有しようとするフリーメーソンの古参会員であっても、子供っぽく無邪気なことがあります。とはいえ、彼らは人々が闇のなかにいることを欲します。(『職業の未来とカルマ』P194-P196)
-----------------------------------------------------------
 
彼らは、新聞や町の売店で安価で手に入る予言カレンダー(オカルト・アルマナック)などで、「これから彼らが引き起こすことを告知する」のです。今日でも世界情勢予測や経済予測、そして占い系のコンテンツは大繁盛していますが、印刷出版業が大発展を遂げていた当時もそうだったのです。
 
 フリーメーソンは、雑誌『ムー』だったり、今だとYouTubeの都市伝説系コンテンツでもよく取り上げられているネタです。そして彼らと関連させて言及されるのが、いわゆる「イルミナティ・カード」とかイギリスの経済雑誌『エコノミスト』の表紙です。
 
何か大きな事件があるたんびに、「予言が当たった」と言って、そういう話題を扱う媒体が面白可笑しく取り上げて騒ぎますけど、言ってみれば、そういうコンテンツで商売をしている人々は、「自覚なき彼らの手駒たち」として利用されているわけですね。
 
 
100年前にヨーロッパで活動していたシュタイナーの残した文書を読むと、実は「そういうやり方」つまり「あらかじめ予告してから実行する」という演劇的振舞い方というのは、フリーメーソンがずっと大昔から持っていた、一種の「子供っぽさ」の表れなのだということが分かります。シュタイナーによれば、「書かれたことが現実になる」ように暗躍する人々は実在するということになりますが、これをDSと言う風に今日的な言葉に言い換えても、たいした違いはないでしょう。
 
今日の日本の独特な表現で言い直すと、彼らは「そのやり方」において「中2病っぽい」のです。そのような儀式的演劇的なふるまいを彼らは「伝統」として今日も引き続き継承して、行使し続けているのだということが分かります。
 
たとえば「名探偵コナン」の登場人物の怪盗キッドは「誰がいつ何を奪いに来るか」を警察組織に分かるように伝えますが、フリーメーソンは彼らの計画を市井に出回る媒体に「堂々と」ではなく、「そっと」忍ばせてから、実行に移します。しかも「誰が」の部分は決して公開しません。
 
そもそもオカルト組織ですから、そうすることは言霊(一種の魔術的作用力)を発動させるための、彼らにとって欠かすべからざる儀式的手続きになっているのでしょう。今で言ったら「引き寄せ効果」を期待しての振舞いなのかもしれません。昔結社の指導者たちに「いいか、同志諸君、欲しいものは皆の前で声に出して言え」とでも教えられたのでしょうか。しかし実際には彼らは「分かりにくい場所で、小声でこそこそとつぶやいているだけ」でした。けれども彼らの「その小さな仕掛け」こそが、彼らの「中2病マインド」をメラメラと燃え立たせ、彼らの貴族共同体的な仲間意識と自尊心を満足させる行為となっているのです。
 
 
フリーメーソンが「唯物論の普及活動を行っている」ことについて、シュタイナーはこんなことを言っています。
 
-----------------------------------------------------------

オカルト同胞団は、生活の本当の法則に関連するものについて人々の知識を曖昧なままにしておこうとします。そのような人々の下で、オカルト同胞団は最も活動しやすいからです。自分が本当はどのように現代に生きているかを人々が知りはじめたら、もはやオカルト同胞団は活動できません。
 
秘密を漏らさず、どさくさまぎれに利を得ようとする者たちにとって、本当の知識が広まるのは危険なのです。彼らは自分たちの望みどおりに人々を社会のなかで生活させるために、秘教を用いようとします。
 
今日、オカルト同胞団のなかに、「私たちの周囲のいたるところに霊的な力が存在し、正者と死者のあいだに絆が存在する」と確信している会員たちがいます。彼らがオカルト同胞団なかで語っているのは、精神世界の法則にほかなりません。それは、いま公開されるべきものであり、私たちの精神科学が有するものです。
 
彼らは、先祖返り的な伝統から受け継いだものを語っています。しかし、彼らはその知に反対するようにふるまって、「それは中世的な迷信だ」と、新聞に書きます。秘密結社のなかで受け継がれた霊的な教えを大事にしている人々が、マスコミでは正反対にふるまって、「中世的な迷信・神秘主義だ」と評するのです。
 
 
彼らは、その教えを人に漏らさず、他人を愚かなままにしておくのがよい、と思っているからです。どんな原則によって人間が導かれているのか、人々を無知のままにしておきたいのです。オカルト同胞団のなかには、世界をよく見て、「密儀の内容を今日おおやけに人々に伝えるのは不可能だ」と語る会員たちがいます。
 
人々を五里霧中のままにしておくには、いろいろな方法があります。本当の精神科学は、精神世界への鍵となる理念を私たちに伝えます。しかし、自然科学的な世界観によって悟性を浅薄にされていない人々をも騙せる概念があるのです。一定の方法で概念を形成できるのです。今日、おおやけの概念がどのように形成されるかを多くの人が知ったら、本当の精神科学への衝動を感じるでしょう。(『職業の未来とカルマ』)
 
-----------------------------------------------------------
 
 
 
シュタイナーによると、近代フリーメーソンの淵源は13世紀にまでさかのぼることができるそうです。エジプトの秘儀以来のさまざまな国家、地域の秘儀の象徴を寄せ集めて保存しています。思想の上で、最大の影響力を持っているのが旧約聖書の秘教部分、つまりユダヤ教のカバラ思想です。しかしもはや彼らは自分たちが秘匿している秘密を正しく理解していません。フリーメーソン思想はユダヤ教ではないのですが、ユダヤの秘教部分とつながりがあるのです。
 
18世紀末になると、フリーメーソンの一部にイエズス会が浸透しました。これがいわゆるイルミナティ部門なのでしょう。イエズス会思想の土台もまた秘教、オカルト思想に根差しています。多分に物質主義的なイメージ、人類を地上から解き放つ(人類の霊界回帰、人類の天使化ではなく)、「イエスに地上の王になってもらって永遠に統治してもらおう」という、本来のキリスト教が持っていた「上への衝動」とは真逆の「地上統治への強い愛着感情」をもとに活動してきた組織なのです。人類の貴族統治を目指しているフリーメーソンとも相性のいい「キリスト教思想」なのでしょう。イエズス会がスペイン・ポルトガルの海外侵略に手を貸した理由も太陽霊キリストではなく、地上の王イエスによる人類統治という目標があればこそだったのでしょう。キリスト会ではなくイエズス会、つまりイエス会という呼称を使っていたのは偶然ではないのです。それはイエス教のイエス会だったのですから。
 
『社会の未来』においてルドルフ・シュタイナーは「企業集団は真の目的を隠して、蓄積された大資本で巨大な権力を手に入れ、民衆を支配しようとしていたのです。」と語っています。
 
私たちは「資本主義は利益の最大化を目指す」と習いました。けれど「なんのためにそうするのか」は教科書には書いていません。富を増やすことが「最終目的」だと言います。
 
 
しかしシュリーマンが大金を得るために企業を立ち上げて大成功し、莫大な資金を得たのは、「より多くの富の獲得」が目的だったからではなく、「手段」だったことは有名な話です。シュリーマンは「手に入れた資本」をトロイ発掘の「手段」にしたのです。近代は「紙幣の支配権を手にすること」こそが「人類統治のための手段」になったのでした。「彼ら」はお金が欲しいのではなく、お金を使って達成できることを追求してきただけなのですが、一般庶民は相変わらず、所得の不均衡には声を上げても、自分たちの唯物論化した思考態度を改めようとはしていません。庶民が「金の話ばかりしているだけ」なら、唯物論の宣布人フリーメーソンには安泰なのです。それは引き続き人類を幻影の中に置いてコントロールできるということなのですから。
 
今日精力的に世界の企業を傘下に収めてきた人々は「神などいない。この世は偶然ビッグバンで生じ、たびかさなる偶然の連鎖の結果、猿から人間が生じた」と近代科学思想で武装した科学者たちに広宣させながら、「そうだ、お前たち民衆に神など必要ない。お前たちに我らの神は必要ない。だから我らの神をお前たちの眼の前から隠しておくのだ。その神は我らの神であって、お前たちの神ではないからだ」と思っています。
 
ほんとに彼らは「一休さんの水あめ和尚さん」そっくりの、「大ウソつき」なんですよ。
PR

コメント

コメントを書く