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記紀の神々の名に付いている「記号」は何を意味しているのか 後編
では、今回は「速日」という言葉を考察してみます。

古代の武人は同時に秘儀参入者でもありました。

現代語訳版の日本書紀を読み直していて天忍穂耳尊には呼称に別バージョンがあることに気が付きました。天忍穂根尊あるいは天忍穂骨尊です。発音上から言えば「根=骨=ね」ということが分かりました。「あめのおしほねのみこと」です。

記紀には速日という呼称を持つ神々が出てきます。私は速日というのはすぐれた武術家・武人に対して付与された敬称だと思います。

『古事記』において、出雲の国譲りの場面で日向を代表して出雲の建御名方神(たけみなかたのかみ)に「手乞(てごい)」=決闘を迫ったのが、建御雷神(たけみかづちのかみ)でした。

今で言うと柔術家同士の決闘場面です。日本の古代の武人同士の決闘における約束事は、互いに相手の手を取り合って始めることでした。
決闘は以下のようにして始まります。

建御雷神(たけみかづちのかみ)が建御名方神(たけみなかたのかみ)にその手をつかませたところ、その手はたちまちに氷柱に変わり、また、剣の刃と変わった。建御名方神はびっくりして、退いた。そこで、建御雷神が、逆に「おまえの手をとらしてくれ」といって、建御名方神の手をとると、その手は柔らかい葦のようであった。そこで、その手をつかみつぶして、建御名方神を投げ倒したので、建御名方神は逃げていった。建御雷神は追って行き、とうとう、諏訪湖で追いついた。
(学研M文庫「古事記」梅原猛P63-P64)

日本書記では建御雷神は武甕槌神と表記されていまして、なぜか彼の家系紹介記事が挿入されて出てきます。

時に、天石窟(あまのいわや)に住む神で、稜威(いつ)の雄走神(おばしりのかみ)の子神の甕速日神(みかはやひのかみ)、甕速日神の子神の熯速日神(ひのはやひのかみ)、熯速日神の子神の武甕槌神がおられた。(中公バックス「日本書記」P90)

出雲で決闘をした武甕槌神は「速日」を名乗っている一族の子孫として紹介されています。本人は技量的には、まだ速日を名乗れない時期だったのでしょうか。

記紀には、名前に「はやひ」という呼称が入っている人物たちがほかにも出てきます。

饒速日尊(にぎはやひのみこと)や正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)などが代表的人物です。

日本書紀では、天忍穂耳尊は天忍穂根尊あるいは天忍穂骨尊とも書かれています。もとは「根」呼称だったがのちに「耳」呼称に変化しているのです。

私は、「耳」が霊聴能力者を示す記号なら、「根」は霊視能力者を示す記号ではないか、つまり「アストラル像を見ることができる段階に到達している者」を意味していると考えました。

「速日」という呼称は武術技量において高い能力に到達している人物に付けられた記号だと思います。天忍穂耳尊は、日本書紀の記述から、「根」の武人と呼ばれていた時代もあったのではないかと思います。

スポーツ化した現代武道に励んでいる人々に理解しにくい身体感覚こそ、「秘儀参入」部分なのだと思います。近代武道としての合気道の呼称に含まれている通り、この武術は「気」つまりエーテル体とどのように向き合うかに関係する術です。

身体の観察において、唯物論的な解釈しか受け入れられなくなっている現代の格闘家、あるいはそういう武術・格闘術ファンたちにとって、古代日本の武人の最高到達地点とは秘儀参入を果たすことであり、それ(アストラル界に参入すること)が身体の力(気=エーテル体)を自在に動かす体術としての最高境地の会得であった、という観点を受け入れることは可能でしょうか。この点については中国の武術家にも同じような意識の到達領域があったのだろうと推察されます。

たとえば合気道の開祖植芝盛平の伝記『武の真人』などを読むと、「ああ、植芝盛平は、今で言うと秘儀参入を果たした武人だったのだなあ」と思います。今日、日本にも世界にも、たくさんの合気道家がいますが、秘儀参入まで果たしている合気道家は多くないでしょう。

植芝盛平は、古代の呼称で速日と呼ばれるような領域にまで達していたのではないかと思われます。速日にも勝早日、饒速日、甕速日、熯速日というさらに細分化された呼称が存在することを考えると、植芝盛平は古代であれば「〇速日盛平根(あるいは骨あるいは耳)尊」とでも呼称されて祭られたかもしれません。私には植芝盛平が霊視者なのか霊聴者なのか、いまのところまだ明確に判断できないし、「〇」の部分の古代的意味が、今のところ私にははっきり分からないので、今回は欠字のまま書かせてもらいました。

神話から、日本の柔術の源流は天孫系のものと大和諏訪系の二大流派があったのかもしれないなとも感じました。

前々回に、勝海舟の先祖は物部守屋だという話をしました。物部氏の先祖が饒速日尊ですが、彼も「速日」呼称の持ち主です。ということは、凄腕の武術家だったのでしょう。勝海舟の勝は物部系の武人系の子孫に勝早日の称号を持つ人物がいて、そこから取られた名前かもしれないですね。

天忍穂耳尊は、その前は天忍穂根(骨)尊と呼ばれていたということを日本書記から読み取った私は、「そういえば骨という言葉を用いた武術の一派がいたよなあ」と思い出し、本棚から『骨法の秘密』という本を取り出して関連個所を再読してみました。著者の堀辺正史氏の先祖は、「骨」つまり「根」の秘儀参入者クラスの速日だったのではないでしょうか。

著書を読むと「骨法」(またの名を手乞)は神武天皇に仕えた大伴氏族からの流れの中で解説されていましたから、彼の話を信じるなら、もともとは日向系の手乞だったと思われます。

堀辺氏は、大化の改新以前の古代の一時期は「かばねの御代」と呼ばれており、それが「骨(かばね)の御代」とも呼ばれるようになったという伝説から、骨法と呼称される柔術の成立と結び付けていましたが、もっと大本を探ると、武人、天忍穂耳尊の以前の名前が天忍穂骨尊と書かれていることから、彼の先祖佐竹氏のさらに先祖が速日の(根=骨)クラスだったからではないかと思いました。秘儀参入において実際に「骨(ね)」という呼称を持っていた武人だったので、その流派に今日まで骨という言葉が受け継がれてきたのではないかと思ったのです。

骨法という柔術の流派は根(=骨)位階の早日から伝承されてきたものかもしれないなどと、と空想がいろいろと広がりました。とはいえ、堀辺氏自身は秘儀参入者ではないように思います。

植芝盛平自身は紀州の熊野地方の出ですから饒速日に縁がありそうです。武術初心者だった十八歳の盛平に大東流柔術を教えた師匠は、武田惣角という人物だそうですが、武田という名前から、源流は諏訪系手乞だったのではないかと思いました。つまりやっぱり饒速日系です。

植芝盛平が開眼し、合気道を呼称するようになったあと、彼の合気道に関する口述筆記には「時間を超越した速さ」を伝える言葉として天忍穂耳尊を引用しています。

口述の第三章「技」において、『古事記』を引用して

時間を超越した早さを、正勝吾勝勝速日(まさかつあかつかつはやび)という。

と述べています。

盛平の出自や学んだ流派に対して、天忍穂耳尊は天孫系の武術家でしたから、「このクロスしているところが面白いよなあ」と思いました。

ちなみに「時間を超越した早さの世界」とは秘儀参入学で言い換えるとアストラル界のことです。黄泉平坂に立った人は、過去と未来が同時に見渡せます。

ハリウッド映画『マトリックス』の柔術道場場面には、よく見ると「勝速日」と書かれた掛け軸が出てきます。主人公のネオはのちに「時間を超越する速さの奥義」に達します。これは映画製作者の中に(もしかして監督自身)合気道に詳しい(あるいは深くリサーチした)人物がいたからこそ出てきたシーンなのでしょう。

前編で、根=土台という観点を提示しました。「海ゆかば、みずくかばね」という歌がありますが、「かばね」とはもともと英語で言うBODY(身体)のことでした。命を失うと「死かばね」になります。

英語でも刑事ドラマなどで死体のことをBODYと呼んでいますが、日本でも「かばね」を死体そのものとして扱う用例があることはみなさんもご存じのことと思います。英語ではBODYは骨ではありませんが、日本では「かばね」は骨とも同一視されるようになります。「かばねをさらす」とは「死体をさらす」という意味だけでなく、「白骨をさらす」という意味にまで拡張しました。

古代人にとって身体とは「かば」と「ね」でできているものだという認識があったのではないでしょうか。もともと「かば」とは「覆うもの」を指す言葉だったのではないでしょうか。うなぎの蒲焼の「蒲」について検索すると「覆うもの」いう説明はでてきませんが、「かば」は「かわ=皮」という発音にも連結しますから、古代人にとって「かば」とは、外皮をさす言葉だったと思います。

身体の「ね」、土台は、「骨」です。したがって「外皮」の「かば」と「ね」としての「骨」によって「かばね」=身体ができあがります。骨そのものも「ほ」と「ね」で出来上がったものと考えるとその場合、「ほ」と「ね」とはなんだろうと考えると、空想が広がっていきますね。

大王(おおきみ)の時代の「かばねの民たち」には、国の体(国体)を形作るものという意識があったのではないでしょうか。そして「かばねの民」の中心に精神が宿るのです。それら全体が「くに」でした。

「大王(おおきみ)は神にしませば」と言うのは、古代人にとって「大王(おおきみ)は秘儀参入者であるのだから」と言っているのに等しかったのです。近代日本人が「天皇は神である」と言う言葉を聞いたときに抱く抽象的な(時に儒教的な)観念ではなかったのです。


砂泊兼基氏が『武の真人』の中でこんなことを書いています。

弘化三年正月、伴信友が七十三歳の時の著述である『鎮魂伝』によると、「物部氏の祖、饒速日命が倭の国を神武天皇に奉り、鎮魂の法を以て天皇に仕え祭りてより、うちつの島の大和の国は倭朝廷と密接の関係ありし」云々とあるから、(P81)

伴信友は江戸時代の国学者です。「饒速日命が鎮魂の法をもって天皇に仕えた」と書いています。鎮魂の法とは、これまでずっとテーマとして書いてきた三日半の秘儀参入の技術そのものでしょう。日本には鎮魂帰神という言葉がありますが、それは人智学用語で言い換えれば、秘儀参入そのものです。やはり物部氏族が「日本の秘儀の秘密の守護者たち」だったことは間違いないようです。
ルドルフ・シュタイナーは「王冠の意味」について以下のようなことを書いています。



民族の力を身に付けて、子孫に伝えた人々は、王冠をかぶりました。王冠というのは、古代には、人間の霊性に贈られる最高のものを示す言葉でした。王冠をかぶることができるのは、秘儀に参入して最高の叡智を獲得した者だけでした。

王冠は最高の叡智のしるしでした。元来、修道会にはみな意味がありました。のちには、修道会は虚栄のために設立され、もはや何も意味しなくなりました。しかし、「王冠」は古代人にとって、精神世界から超人的な人に贈られるものの象徴です。

王が冠を戴くのは不思議ではありません。王はいつも賢明であったり、最高の天賦の才を身に付けているわけではありませんが、そのしるしである冠を戴いています。このように古代のしきたりに従って表現されたものと、のちに乱用されたもの(近代人が今目にしている王家のしきたり)とを混同してはなりません。(『神仏と人間』)



P.S. 1

すでにテレビ新聞は「資本の制圧」を受けてダメになってるけど、なんだか最近(というかコロナ以降)これまでよく参照していたネット系記事も(スレッド引用まとめサイト系は特に)同様に「資本によって制圧されてしまった」ような感じで、すでにテレビ番組とかは災害時とか特別な時以外は、いっさい見なくなってひさしいですけど、いずれYouTubeとかもいっさい訪問しなくなる日がくるんじゃないかと思ったりしてますよ。なんか旧弊によって硬直してしまったヨーロッパで息苦しさを感じていた者たちが新大陸を目指したように、どこかに情報交換の新大陸があれば、でかけてみたいという思いはあるんですけどねえ。ネット上でさえ他人と「狂歌」のようなものでやりとりするしかできないような時代になったらいやですねえ。それとも「笑い男」みたいに口をつぐんで一生を終えようかなあ。

P.S.2

最初の追加記事はまったくテーマと関係なかったけど、この記事もまったく関係ないです。本日音楽(Farewell.astronauts chouchou)かけながらベッドに横になってたら、結局寝ちゃったんですけど、なんか夢を見まして、はっきり覚えてはいなんですが、目覚める直前の様子は、なんかキック式オートバイにまたがって、まさにエンジンかけて走り出そうと苦闘しているところで、周囲でEDM系の音楽が響いていて、自分の耳にガンガン重い感じのベースラインと四つ打ちバスドラアレンジ音楽がなっている。ところが突然頭の中で「さっき実際に流していたシュシュの音楽に切り替わった」ので(その間夢の中の意識が連続している)、「あれ、なんで音楽が変わったの?」って思ったんですが、「あ、そうか目が覚めたんだ」と思ったら、身体がベッドに横たわっている感覚がやってきて、ほんとに目が覚めたという体験をしました、というどうでもいい話です。

だいたい音楽かけながら寝入ってしまった人間が夢の中でまったくタイプの違う音楽を聴いているというのもシュールです。寝ぼけている感覚の中で、耳の中で鳴っている音楽がサクっと切り替わる体験というのはこれまでしたことがなかったので、やはり書き残しておこうと思い、この記事内に添えておくことにしました。



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