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令和記念 大嘗祭と秘儀参入者としての天皇
元号が変わりましたね。そこでずいぶん長くシュタイナー関連の記事はアップしてきませんでしたが、2008年に別のサイトで公開していた記事を少し言い回しなどを書き直して、このブログでも公開したいと思います。ではどうぞ。
最近(2008年当時)ずっとシュタイナーの以下の発言について考えてました。
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さまざまな民族の密儀に参入した者は、ある意味で同一のことを体験しました。苦しみを受け、3日間の仮死状態に到って、精神が身体から離れて神霊世界におもむいたあと、精神はふたたび身体のなかに戻りました。身体のなかに戻った精神は、神霊世界で体験したことを思い出せました。秘儀参入者は、神霊世界の秘密を告げる使者として登場しました。精神がしばらくの間物質的身体から離れて、死に到るのが秘儀参入でした。身体から離れて神霊世界に滞在したあと、物質的身体のなかに戻ってきて、神的な秘密の使者になるのが秘儀参入でした。入念な準備ののち、物質的身体という道具を用いずに3日半のあいだ生きることができるように心魂の力が鍛えられたのちに、秘儀参入は遂行されました。3日半ののち、参入者は物質的身体に結び付かねばなりませんでした。通常の生活から離れて高次世界に移ることによって、秘儀を体験したのです。(マルコ福音書講義)


(ヨハネ福音書の)作者は、ラザロの復活以後の諸章において、もっとも深い内容を語っています。とはいえ、それ以前の諸章の中でも、この福音書の内容が秘儀に参加したものだけに理解できるような事柄を扱っている、と到る所で示唆しています。すでに最初の数章の中には、秘儀参入に関わる事柄が含まれている、と暗示している箇所があります。

もちろん秘儀参入にはさまざまな段階があります。たとえば、東洋の或る秘儀(ミトラ教)においては、七段階が区別され、その各々が象徴的な名前で呼ばれていました。

第一に「烏(からす)」の段階、第二には「隠者」の段階、第三は「戦士」の段階、第四は「獅子」の段階です。第五段階は民族に応じて、それぞれにふさわしい民族名が用いられています。たとえばペルシア人の場合、第五段階の秘儀参入者は「ペルシア人」と呼ばれます。これらの名称の意味するところは、以下の通りです。

第一段階の秘儀参入者は、オカルト的な生活と外的な生活を仲介するために、あちこちに派遣されます。この段階の人物は、まだ外的な生活に身を捧げていなければなりません。そしてそこで探知した事柄を秘儀の場で報告しなければなりません。ですから、外から内へ何ごとかが伝えられねばならないとき、「烏」がその伝達の役割を果たすのです。どうぞ予言者エリアの烏やヴォータンの烏のことを思い出して下さい。バルバロッサの伝説にも、烏が出てきます。これらの烏は、外へ出ていくときが来たかどうかを、知らせなければなりません。

第二段階の秘儀参入者は、すでにまったくオカルト的な生活を送っていました。第三段階の人は外へ向かってオカルト的な事柄を主張することが許されました。つまり「戦士」の段階は、戦う人を意味するのではなく、オカルト的な教義を擁護することが許された人のことなのです。

「獅子」の人は、オカルト的な生活を自分の中に実現する人のことです。オカルト的な内容を言葉で擁護することが許されているだけでなく、行為によっても、つまり魔術的な行為によっても、そうすることが許された人のことなのです。第六段階は「日の英雄」、第七段階は「父」の段階なのですが、ここでは第五段階が問題になります。

古代人は共同体の中で生きていました。みずからの自我を体験するときも、その自我を集合魂の一員であると感じました。しかし第五段階の秘儀参入者は、自分の人格を捨て、みずからの中に民族の本性を全面的に受け入れるという供犠を捧げた人なのです。

他の人が自分の魂を民族魂の中で感じたように、この秘儀参入者は民族魂を自分の魂の中に受け入れたのです。自分の人格を問題にせず、個人を超えた民族霊のみを生かそうとしたのです。ですからこの秘儀参入者は、民族の名前で呼ばれました。(ヨハネ福音書講義)

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この発言を読んだとき、私は日本の古代の大王(おおきみ)は実際に「秘儀参入者」だったのではないかとふと思ったんです。そして「大嘗祭」という言葉が頭に浮かびました。そして検索をしてあれこれ記事を見てまわるうち、日本財団図書館のウェブサイトで面白いと感じた記事を見つけました。

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新嘗祭が、天皇の代替わりに際して、1世1回限りの大祭として行われたのが大嘗祭である。祭りの内容はほぼ同じだが、期間が4日間と長いこと、「大嘗宮」という施設をこの祭りのために新設することなどが、毎年の新嘗祭と異なる。

大嘗祭は、日本古来の祭りといいながら、その実態のきわめて分かりにくい祭りである。というのは、4日間の行事のうち、第1日の夜から第2日の朝にかけて天皇自らが殿舎にこもり、祭神に神饌(しんせん)を供する神事が大嘗祭の核心部分なのだが、これが外部からうかがい知ることを許されぬ秘儀とされているからだ。

この秘儀の持つ意味について衝撃的な解釈をほどこしたのは、折口信夫だった。折口は、天皇が神事のためにこもる殿舎に、衾(ふすま)をかけた寝座が神座として設営されていることに着目し、これを天孫降臨神話でニニギノミコトがくるまって天降りした真床襲衾(まどこおふすま)に当たるとした。新しい天皇はこの寝座に引きこもって物忌みをし、天皇霊を身につけて天子としての資格を得る、と解したのである。

岡田精司三重大教授によると約60年前のこの折口説(「大嘗祭の本義」)は、論証抜きに古代人の心に迫ろうとする詩人的直感の所産とでもいうべきものでありながら、天皇の祭りをはじめて民俗学的に、神話とのかかわりでとらえた研究として高く評価され、いまも学界内に大きな影響力を持っている。

一方、当然のことながら折口説に留保をつける研究者もいる。折口の弟子に当たる倉林正次国学院大教授(民俗学)は、律令期以後は、即位礼―大嘗祭の順で即位儀礼が行われているのに対し、律令前では大嘗祭―即位礼と逆転して行われていたと想定し、折口の天皇霊説が妥当するのは律令前までの段階のことで、律令後の大嘗祭は、天神地祇に天皇就任を報告する性格のものに儀礼の意味が変わった、と説く。(『儀礼文化』第8号所収「祭りから儀礼への展開」)
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大嘗祭の期間は「4日間」と書いてあります。現在天皇は「一夜しか眠らない」ですが、本来は「3日半の間眠っていた」のではないでしょうか。だからこそ「4日間続く儀式」だったのです。文献上ではニニギノミコトと秘儀体験の関連性を折口信夫が語っていますが、律令期前は「大嘗祭→即位礼」の順で行われていた儀礼が律令期以後は逆転したというのも、まさにこの古代の革命の時代に、律令制度という大陸的政治手法を始めるにあたって、日本古来からの秘儀の儀式は、これからは「単なる儀礼」となす、という意思の現れだったのかもしれません。「古代的なるもの」からの決別です。

大嘗祭で天皇は何をするのでしょうか。「神殿のなかで眠る」のです。学者等の報告によって外部者にはっきりと伺い知ることのできる事実は「天皇候補者は神殿の中で眠るらしい」という報告だけです(食事をするというのは夜を明かすのに何も食べないなどということがあるでしょうか。日本人はお通夜の席でも「誰かとともに食事をする」ではありませんか。お通夜にとって食事をすることが大事な儀式なのではありません。夜を明かすことが大事なのです)。そして一般的な常識感覚で判断する人々は「眠る」と聞いたら、自分たちが普段やっている行為にしか連想が及びません。しかし秘儀というのは「単なる儀式」ではありません。たとえば結婚式の儀式を厳かにあげたので「これで二人は本当の意味での夫婦になった」というような確認儀式ではなく、「かつて」そこには「霊界へ行き、何かを体験して生還した」という「体験」が伴っていたのです。

西洋の錬金術にしてもそうですが、秘密の教えは、いわゆる符丁(ジャーゴン)によって記述されていますので、日常的な単語解釈をそこに持ち込むと「どんな成果」も得られず、読解力があると思い込んでいる人々は、そもそもこれが暗号によって書かれているという前提に思い至れません。そして近代人的常識を当てはめて考えている自分の愚かさを反省する代わりに、バカげたことしか書かれていない、古代人は妄想ばかりしていたんだろうと結論づけます。

「眠る」というのは実際には「三日半の間意識不明になる」ということです。そして「それこそが日本の秘儀の最大の秘密だった」のでした。「秘儀体験とは〈眠り=死=霊界侵入〉の体験そのもの」であるということ知る人々は、当然、古代日本の大祭司たちは「ただ眠っただけ(いわゆる一般日本人とアカデミックな学者系解説者が、そうだと思い込んでいるところの、通常の意味での「一泊して帰る」こと)」なのではないと考えるのではないでしょうか。

儀式で天皇が「1日しか眠らなくなった」のは、すでに律令期よりもずっと以前からだった可能性もあります。儀式自体が変容したのは、聖徳太子の「新しい秘儀体験」によって「すでに形骸化していた、かつての秘儀体験が更新された結果」だったのかもしれません。

三日半の秘儀の形骸化は、天皇たちの諡の変化からもうかがい知れるのです。カムヤマトイワレビコノミコトという名に入っている「ヤマト」こそ「ヤマトびと」、つまり「第五段階の秘儀参入者」であることの証だったのではないでしょうか。日本書紀などを見れば諡にヤマトを含んでいる者たちが複数いることも分かります。ヤマトを名前に持つということは「秘儀においてヤマト民族の民族霊と一体化できた人物である」という証なのです。

シュタイナーは「秘儀参入の道」で、以下のようなことを言っています。
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古代の秘儀においては秘儀参入者と神々とが出会い、このような出会いを喚起するのに適した、いわば公認の場があったと申し上げました。この古代文明すべての基盤にあって、人々に霊的な衝動を与えてきた制度は徐々に消え去り、紀元4世紀以降はもはや存在しなくなったということができます。古代の秘儀の後を継ぐものはまだありましたが、厳密な古代の形式はなくなりました。(P108)
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日本人の肉体も縄文の昔から徐々に歴史的に変化してきたわけですし、文献上で遡及できる古代以後においては、「本当の秘儀」に耐えうる真の祭司候補はすでにいなくなっていた可能性があります。それは古代の民族がつまり人類の祖先全体が、多少の時期の食い違いはあれ、失わねばならない「身体上の素質」だったというのは、シュタイナーも言及しているところです。諸外国の古代の王権がそうならざるを得なかったように、秘儀参入者としての見霊体質は失われ、王権の継承はただ「男系の血のつながり」のみによって維持されていきます。聖徳太子がおのれ自身の超感覚体験によって「太陽霊の正体」を知り(「日本書紀」の聖徳太子の記事や「日本霊異記」の記事などから彼が霊界で「誰」と出会ったのか暗示されていますよね)、もはや古代の伝統に沿った三日半の「眠り(死)の儀式」を続けていく理由もなくなったのでした。そして律令制度確立以降、藤原式の「新しい祭り」が確立されていきます。

ともかく、シュタイナーの発言に学んだかたがたは、日本の古代人が行っていたであろう秘儀参入体験に思いをはせてみるとよいかと思われます。記紀における神武天皇の物語には「情報をもたらし道案内をするカラス」の話が出てきますが、これも「ヨハネ福音書講義」に出てくるカラスという呼称が意味するものと兼ね合わせて考えるとまた記紀神話を違った角度から読むこともできるかもしれません。諡に「ヤマト」という名を持った古代のオオキミ(天皇)たちの霊的立ち位置、あるいは「ヤマトタケルの命」と秘儀の関係など、案外秘儀の達成段階とその呼び名の深い関連性が記紀の記述のなかに隠されているかもしれません。
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