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日本神話と秘儀の七段階、そして聖徳太子

聖徳太子について「近いうちに動画一本」とか書いていましたが、全然進んでおりません。




断片的な「あれってこういうことかな」的な「思いつき」はあるんですが、文章化して書くには確信感覚が心に積もっていかないので、「やっぱだめだわ、今の状態のままだとすると」という感じです。

記紀の神話部分は「秘儀参入の書」であり、古代日本の秘儀参入者たちの秘儀体験に由来するということは自分のなかでははっきりしてるんですが、これも「誰かに伝える形式」にするのが、もうめんどくさい。それに「世間にそんな需要」ありますか?

ルドルフ・シュタイナーは『ヨハネ福音書講義』のなかで秘儀の7段階について述べていました(なんでしたらトリビアとして暗記してください)。

1烏 2隠者 3戦士 4獅子 5民族人 6日の英雄(日の御子) 7父

最近ぼんやりしていた感覚のなかでだんだんはっきりしてきたことは1から5までの秘儀について書かれているのが神武天皇の東征物語部分だということです。

八咫烏という言葉は「ムー」とかYouTubeの都市伝説、あるいは陰謀論関連のコンテンツにも登場してきますが、秘儀参入のリクルート(初心者団員)が「カラス」と呼ばれているのです。この人物は公的社会と秘儀の秘密を守っている社会との連絡役をなすとシュタイナーは語っています。

記紀においても八咫烏は「秘儀を守る中央組織から派遣されてきた連絡員」としてふるまっています。続いて「隠者」「戦士」「獅子」ですが「隠者」はオカルト生活(秘儀参入の準備修行)をすでに実践している者、「戦士」は秘儀の教えを告げ知らせ、また守る者、「獅子」はそれをそれにふさわしい他者に伝える許可を得た者であり、また言葉で伝えるだけでなく魔術的な行為を行使できる者を指しているという話です。

神武天皇の物語を読んでいけば、みなさんも「あ、これは隠者、これは戦士、これは獅子じゃないか」と思うようなキャラクターに出合うと思います。面白いのは「しっぽのはえた人」に出合ったという表現ですが、私はこれは「獅子」段階の人物と会ったということだろうと推察してます。


神武天皇自身はYouTubeの秘教学徒動画でも暗示したように「ヤマトびと」つまり「民族人」であり、ヤマト民族の民族霊をその身に宿すことが可能になった段階の、民族集団を率いる霊、つまり大天使(=民族霊)の位階に上昇できた秘儀参入者に当たります。おくり名に「大和」号を持つ大王(おおきみ)たちは、秘儀参入者だったと動画で言っていますよね。

そして「岩戸隠れの物語の主人公」たる天照大神は第6段階の秘儀参入者「ヒミコ」=「日の御子」だったことも語りました。

では第七段階の秘儀参入者は記紀に描かれているでしょうか。もちろん出てきます。ヤマトタケルノミコトの物語が第七段階「父」の位階へ達する秘儀参入の物語です。ヤマトタケルの物語は「父との関係」を描いている物語です。通俗的な読み方をする者には「仲の悪い親子の物語」「父親が一方的に子をいじめる物語」としか読めないでしょうし、童話に書き直して小さな子供たちに読んで聞かせたなら、「ヤマトタケルのお父さんはひどい人だ」とか「ヤマトタケルのために死んだお姫さまがかわいそう」というような感想を述べることでしょう。大人だってそういう「読み方」以上に先に進むことはできまんせん。


「日本の古代に実在した秘儀参入者」というテーマ自体が「存在する」ということを知らない、古典文学を研究する大学教授はザラでしょうし、古代史をやっている政治的に左派右派の傾向を感情に抱いている大学教授たちも、近代の論文は「唯物論」OS上での論理展開ですから、はなからそんな話には近づきません。日本神話に似た話が海外にあったら伝播説を採用するしかありません。本当は、古代の日本の秘儀参入者が霊界で得た体験が物語の土台になっているです。

聖徳太子の物語もまた、彼の「新しい秘儀参入体験」からとってこられた物語だと考えることができる可能性については、一般の聖徳太子研究者の間でも意識されることはないのでしょう。物部氏退場の物語は、神話上では饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)の名によって代表される子孫の部族集団によって秘匿されてきた三日半の秘儀体験の管理者たちの退場の物語だということもできます。これ以後、中国閥の中臣氏族創案による「新しい中国式の大嘗祭」(誰も意識不明体験をしない儀式)へと変容します。現代日本人が知っているのは「中国式の儀式」なのです。

聖徳太子研究者の多くは、文献学上の聖徳太子像を追及するのが「発表しても恥ずかしくない」かつ「唯一の方法」だと思っています。ですからそういう「常識感覚」に引きずられると、都市伝説系出版物でも、聖徳太子とキリスト教を結び付けるとき景教の影響という「物質界の常識」にそった伝播説解釈に帰結します。日本神話の話を現代日本の国民意識に接続するときは、皇室の話も「政治機構や権力維持の話」しかできないのです。現にYouTubeでもネット出版物の販促ビデオでも、そのような「扱い方」に終始しています。

でも、日本国民にもごくごくわずかながら、私のような話に関心を持ってくれる方はおられると思っておりますので、まあ、やる気モードになったら、このへんの話を動画にしてあげたいとは思っております。

気温が完全にあったかくなったら、やれるかもです。

P.S.

トップに掲げたのは法隆寺の救世観音。一説には聖徳太子の姿をかたどった像ともいわれているそうです。大昔、救世観音の白黒写真を初めて見たとき、アングルにもよったんでしょうが、「あ、昭和天皇のお顔にそっくりだ」と衝撃を受けた記憶があります(もしかしてほかの方はまったくそう感じない可能性もありますが)。昭和天皇はくちびるの感じが明治天皇と似ていますよね。だから、なんかやっぱ古代から遺伝的につながってるのかなあ、とも思いましたよ。まあ、でもこのPS記事は余談でしたね。


P.S.2 

物部氏といえば勝海舟。『海舟座談』には海舟が自分の持っている宝物として先祖の像を挙げる話が載っていますが、海舟が先祖の像だといったのは、なんと物部守屋像なんですよ。ということは「オレはニギハヤヒノミコトの子孫で、それを誇りに思っている」と言ってるわけで、数々の海舟人物伝が何度もテレビ番組で取り上げられますが、「この話」はまったく取り上げられたことがなかったように思います。おもしろい話ですよねえ。幕末物語って南九州地方人VS中国地方人VS関東中部東北人の戦いでしたが、それって、大まかな日本の位置関係としては天孫系VS出雲系VS諏訪系の神々の物語とも重なるんですよねえ。鳥獣戯画ってありますよねえ。最近では漫画の元祖とかとも言われてますが。あすこに出てくるアマガエルが天孫系、ウサギが出雲系、サルが諏訪系で、アマガエルとウサギが相撲をとって、アマガエルが勝ち、今度は一緒になってサルを追いやる絵柄を見て、「ああ、これは古代史の再現画なんだな」と思ったもんです。でも、これは自分の感想なんで、ほんとかどうかは分かりません。

P.S.3

なぜ聖徳太子像(救世観音像)を見て昭和天皇を連想したんだろう、と「奇妙な問い」を自分に向けて数日過ごしていたんですが、はっと思ったことがあります。彼らが生きた時代の前後が「言葉によって分断されている」という事実です。聖徳太子の場合没後、「大化の改新」という中国閥による革命が起き、それまでの民族的慣習や精神生活の破壊が起きました。中国閥の台頭は聖徳太子の意に反した歴史の動き方だったのではないでしょうか。以前の政治構造を否定する「成文化された法律」がうまれて、「虚偽の歴史物語」が人々におしつけられました(聖徳太子が書いたはずの、神々の歴史書たる「大王記」は意図的に焚書されて、日本書紀では、「その書物の喪失」は蘇我氏との政争時のアクシデントだったことにされました)。古き神々に対しても、「当時の奈良の住民たちが声に出して言ってはいけないこと」が生じて、多くの人が黙らされたことはもちろん記紀には出てきません。万葉集には「唱えてはいけない名」を持つ神がいることを暗示するような和歌があります。

三輪山を しかも隠すか雲だにも 情(こころ)あらなむ 隠さふべしや (額田王)

この神はヤマトにいたもうひとりの天照位階、すなわち第6位階の「太陽の英雄(日の御子)」の秘儀参入者でした。

そして昭和天皇の場合も「敗戦革命」以前以後で日本人の「精神生活の分断」が生じました。古代がそうだったように今回も「外国閥」勢力によって、古代と同じように「成文化された法律」が国民に押し付けられて、敗戦にいたるまでの「新しい歴史物語」が書かれました。そして「言ってはいけないことが生じ」て、国民一般は「新しい言葉に歯向かうことなく」、生活再建のみに邁進し、今日があります。「ああ、同じようなことが二度起きたんだ」と思いました。「ああ、だから聖徳太子の顔と昭和天皇の顔が重なって見えたのか」と、いまは勝手な解釈で自分を納得させているところなのでした。


P.S.4

記紀に登場してくる神々には名前が入っているものと外されているものと二通りあるのです。

「おおぴらに名前を言葉に出してはいけない、あの方」ただしヴォルデモートのように「悪の総大将」としてそうなのではなく、当時の統治層の思惑でそうなってしまった神々です。

一人は三輪山の神「天照国照日子天火明奇甕玉饒速日尊」(あまてらすくにてらすひこあめのほあかりくしみかたまにぎはやひのみこと)、物部族の主「大物主」です。その名を布留(ふる)と言います。

今の天照大御神(あまてらすおおみかみ)、つまり「大日霊女貴尊」(おおひみこむちのみこと)には別名があります。「御」の字をつけて表記されているものがあるのは「み」が女性をあらわす記号になっているからです。大和では本来「天照大神」(あまてらすおおかみ)でよかったはずです。その名がさす対象が饒速日尊であるならば。

そのおくりなを「撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊」(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)と言います。この文字列のなかに彼女の本名が載っています「向」(むかい)です。「津」というのは、「耳」とおなじような彼女の人物像を伝える記号のようなものだと思いますが、はっきりしたことが私にはわかりません。

彼らが少年少女だったころは、「おーい、むかい、ごはんだよ」とか、「おい、ふる、喧嘩するんじゃない」みたいな会話がなされていたんだろうなと空想すると味わい深いです。

ヤマト民たちにとって「ふる」は同じ部族血族者たちですから、先祖を地元で祭るのは当然です。「むかい」は「ふる」の親戚になりましたが、彼女が属している部族集団はもともとは遠くから来た人々です。「日向地方民の太陽秘儀参入者」だった「むかい」の親族集団は「あらたな地元になる土地」で、二人の太陽の秘儀参入者を「同じ地域で祭ること」を拒絶されたのです。そこで最終的に伊勢に祭ることに落ち着きました。

そして長い歴史時間が経過したあと、大和に新しい政変が起き、もともと「大和地方民の太陽秘儀参入者」だった「ふる」の名前が差し押さえられる時代が到来したのでした。





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