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記紀の神々の名に付いている「記号」は何を意味しているのか 前編

古代には、秘儀参入者は外的な名前ではなく、彼らが何を知っているかによって、彼らにふさわしい名前で呼ばれました。(『輪廻転生とカルマ』P138)





記紀神話に登場してくる人物たちに付けられている呼称は、実際に声に出して読んでみると、現代日本人の日常感覚からするとまことに奇妙です。




古代の神話や伝説は、古代の見霊意識が霊界の中に見た事柄を感覚界の出来事に置き換えて物語ったものであり、ときには本質的に秘儀の経過の再現に他ならないのです(『イエスを語る』P211)。

 
記紀は「古代人の秘儀参入体験を書き表した書である」という観点で記紀に現れる不思議な言葉、「記号のような文字」をあれこれ考察してみるのは、自分を秘教学徒だとみなして日々精進されている方々には大変面白い研究テーマだと思います。
 
神話部分は実際に秘儀参入の知識を守ってきた古代の組織によって口伝によって保持されてきたものでしょう。本来漢字を使う文化ではなかったのですから、暗唱者から聞き取って文字に起こしたという古事記の冒頭部分は事実でしょう。
 
ですから、記紀が書物として人々の前へ出現したのは、もちろん「政争の結果」だったのですが、今日においては日本人への「贈り物」となっていることは、当時懸命に中国由来の漢文を学習習得し、それを日本語化してくれた「名もなき官僚たちの頭脳労働」、その奮闘努力には感謝の念を捧げたいと思います。
 
 
天(あま)、国(くに)、彦(ひこ)、姫(ひめ)、根(ね)、火(ほ)、耳(みみ)、足(たらし)、別(わけ)、勝(かち)、甕(みか)、武(たけ)、早日(はやひ)、津(つ)、貴(むち)、などなど、「神々の名前に添えられて出てくる」こういった言葉(記号部分)にはちゃんとそれが意味している実体があったと思います。
 
 
たとえば記紀には「根の国」という言葉がありますが、この言葉は「死後の世界」として語られています。人智学的な観点で言い換えると、「根」とはアストラル界を意味する言葉です。死者が最初に行く場所です。そして見霊者には原因と結果があべこべに現れる世界、つまり時間が逆に流れる世界です。

私のYouTube「秘教学徒」動画では、日本人が死者の着物を普通とは逆(左前)に整えるのは、現代人には、その由来の大本は忘れられてしまっているが、「死者はあべこべの世界にいく」という古代以来の「先祖たちが知っていた知識」が伝承されて形式だけが習慣化した結果だという趣旨の話をしたことがありました。

霊能力者に予言が可能なのも、アストラル界では結果が先に見え、原因が後に見えるからです。アストラル界では、245という数列を見たら、実際には542と受け取るのが正しい解釈なのです。自己像に関する美醜イメージもさかさまに出現します。
 
「ね」という言葉は古代人にとって大本、土台を意味していたことがだんだん分かってきました。「ね」とは黄泉平坂の向こうにある世界です。ですからこの世の大本としての「ね」=霊界(アストラル界)と解釈することもできます。
 
霊主体従という言葉がありますが、世界の成り立ちにおいてまず霊の国があり、その霊の国を土台、つまり「根」として、この物質界が生まれたのだ、という感覚は、東西世界に共通の、古代に生きた人々の「宗教感覚」でした。
 
 
 
 
秘儀の三段階として霊視(イマジネーション)能力、霊聴(インスピレーション)能力、霊的合一(イントゥイション)能力という概念をご紹介したことがありました。
 
この概念を記紀神話に接続させて言い直せば、霊視能力、つまりアストラル界に像意識のみで参入できる人物は霊視者であり、日本の古代の秘教用語では「根の能力」を持った人物ということになります。
 
アストラル界で霊聴能力つまりイメージだけではなく音や言葉をも聞き分ける能力をも行使できる人物は「耳の能力」を持った人物です。この点に関しては聖徳太子に関する記事で言及しました。
 
神話上では瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父親になっている天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)は、日本書紀の別の個所では天忍穂根尊あるいは天忍穂骨尊(あめのおしほねのみこと)とも書かれています。
 
これは彼の秘儀参入段階に「根」段階(霊視者段階)から「耳」段階(霊聴能力者段階)への変遷があったことを暗示しているのではないでしょうか。
 
日本書紀の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨神話を現代訳で見てみましょう。
 
高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、真床追衾(まとこおうふすま)で皇孫(すめみま)天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を覆いかぶせて地上に降らせられた。皇孫は、そこで天磐座(あまのいわくら)を離れ、また天八重雲(あめのやえたなくも)をおし分けて、その威厳によって道をおし分け、きりひらいて、やがて日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に降臨された。(中公バックス日本の名著1「日本書記」P92)
 
日本神話で言う「神が天降った」というのは、「死の体験をして天磐座(あまのいわくら=霊界)の実相を知りアストラル界の雲間を通って地上界へ戻ってきた」という意味でしょう。つまり、そういう言い回しで「彼は秘儀参入者だ」と言っているのです。
 
 
シュタイナーが秘儀参入を行う場所として以下のような発言をしています。
 
古代においては、秘儀への参入者は三日半の間、仮死状態に置かれました。そして、小さな部屋、墓のようなもののなかに置かれました。そうして、死の眠りの状態にやすらいだのです。あるいは、両手を伸ばして十字架にくくりつけられました。そのようにして、霊的な状態に入っていったのです。(「黙示録の秘密」P29)
 
日本の秘儀参入の場合、三日半の秘儀参入が実際に行われていた時代は、真床追衾と呼ばれる寝具、これを私が現代訳の参照先とした中公バックス「日本書記」の注では「神聖なふとん」と注記していましたが、つまり瓊瓊杵尊は、今で言うところの「布団」の中に寝かされて、意識を奪われて、霊界を三日半の間旅し、そして現実界にふたたび戻ってきたのです。
 
記紀の記述をそのまま日常生活で自然に用いている連想感覚で思い描き、たとえば宮崎駿監督のアニメのように、布団にくるまって〈空から降ってくる人〉の映像が頭の中に生じたのだとすれば、それはまったく通俗的な解釈感覚によったイメージ化なのです(「え、もしかして日本神話って、コメディ?」と唯物論者なら笑い出しさえしそうです)。
 
古代の文献にあたるとき、問題は大抵の人は自分の抱いたイメージに疑問を抱かないということです。だから「通俗的に考えている」つまり「唯物論的に考えている」ということを、学術論文を書く高名な大学教授も、またその論文を同じような連想イメージを心に思い浮かべながら読んでいる読者も、「いま心に無意識に浮かべている連想イメージ」自体が解釈を妨げる原因になっていることを自戒できません。
 
もしあなたが神話を読んで、古代人が、そういう「地上界で起こっている出来事のイメージ」を口伝のなかで描いていると無意識に思いながら読んでいるとしたら、そういう「安易な連想」をしている自分は「正しい位置」で古代の文献を読んでいるのだろうかと疑える感覚を取り戻さなければなりません。
 
そうでないと「書かれていることを物質世界で魔術的に利用する勢力(書かれていることが現実化された世界を見たがる勢力)」が世の中に送り出してくる解釈に、エンタメ・ワクワク感覚で接しようが、不安感いっぱいで接しようが、心を奪われてしまいます。そういう人々は、自覚なしにアーリマン(物質界の統治者)の協力者になっているのかもしれません。たとえばヨハネの黙示録に対する「読者の接近の仕方」がそうです。ヨハネの黙示録は「秘儀参入者の秘儀体験を書き表した書」なのです。秘儀参入とは各人の魂の中にまどろんでいる力と能力を発展させることです。ヨハネは、人類個々が未来にいずれ体験するであろう秘儀体験を、前もって人々の前に提示したのです。

「黙示録の秘密」でシュタイナーはこう書いています。
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黙示録の筆者はみずからのキリスト教秘儀体験を書いたのですが、ほかの人々はそれを公教的に理解しました。彼らは、偉大な霊視者が見たもの、秘儀参入者が霊的に認識した、何千年もの時空のなかで生起することを、まもなく感覚的・可視的な生活のなかで外的に生じるものに違いないと思いました。感覚的・物質的な雲のなかにキリスト・イエスは再来する、まもなく感覚的に生じる事柄について黙示録の筆者は書いたのだ、という見解が成立しました。何も起こらないと、単に期限を延ばして、「キリスト・イエスの出現によって古い宗教は終わり、地上に新しい時代が到来する」といい、「黙示録に書かれたことは一千年後に物質的・感覚的に生じる」と、感覚的に理解したのです。こうして、実際、紀元千年には多くの人々がキリスト教に敵対する力、反キリストが感覚界に現れるのを待ちました。そして、ふたたび何も起こらなかったので、また、期限を延長しました。
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全世界の教会人と信徒のなかに、そういう勢力がいて、「世界感覚において唯物論者化したキリスト教徒たち」に、おおきな影響力を行使しています。彼らは聖書の言葉を物質的イメージでしか把握できません。そういう人々が「書かれていること」を利用して人々の心をコントロールしようとする勢力に、そうとは意図せずに協力しているのです。

人智学的-黙示録的には、この時空が終了するのにあと魚座時代、水瓶座時代、山羊座時代を経なければなりません。26000年の宇宙サイクルを12の星座で均等に割ると約2160年ほどですが、現在の時空は魚座時代の途中なのです。実際の星座は均等に分かれて存在しているのではないので、一時代につき2000年から3000年の幅があります。

現在の星占いの主流派が用いているのは「天文学的な天体関係の位置情報」ではありません。実際の宇宙物理学的な位置関係において、太陽は春分点に魚座から今後も昇り続けるのです。ですから、通常の占星術の言説と人智学の説明を混同しないように注意してください。シュタイナーの言う魚座の時代というのは占星術用語ではないのです。

人類は過去、レムリア大陸時代、アトランティス大陸時代を経てきました。人智学的には、約1万年前のアトランティス時代終焉後に開始された現在の時空が終了するのに、あと魚座時代、水瓶座時代、山羊座時代を経なければなりません。一星座時代につき2000年から3000年の幅があります。魚座時代はまだ2000年ほど続きます。



現在の地球時代(第5人種時代)は今後「ひと時とふた時と半時という三つの星座期間」つまり、約6000年から8000年ほどを費やして「万人の万人に対する戦いの時代」を迎えて、地球の大変動とともに現在の第5人種時代を終え、浮上した新大陸を主要活動地域として第6人種時代に入り、また7つの文化期を経ていきます。そしてまた地球の様相が変容して第七人種時代を迎え、7つの文化期を経て終焉し、遂に地球の物質性が解消してアストラル的な天体、木星紀に変容していきます。
つまり人類が再び「失った天使の位階」の一員に戻るまでには、まだまだ膨大な時間を「耐え忍ばなければならない」のです。「どこかの教会に属して信仰告白を済ませておけば、今の人格のままで天国へ行ける」あるいは「天使になれる」と思うのはあまりにも不遜な自己認識不足の思考態度なのだということです。人類個々の地上意識部分は、今のところ、神界に存する真の自我が物質界にのばしたプローブのようなものです。長い時間をかけて二つの世界が段々と重なっていくのです。「人生1回のみの〈短い〉忍耐」ではまったく足りないのです。

現代人は聖書にしてもそうですが、古代の文献を読んだとき、そういう「物質的な視覚化連想で世界を眺めている自分に疑問を持たない」ので、自分の〈人間の世界〉の解釈や分析は〈預言と付き合わせて筋が通っている〉と考えています。しかし実際にはそれはとてもとても〈安易な思考態度〉なのです。
 
(次回へ続く)次回は今回の話をもとに古代の武人について書きたいと思います。
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