"近況"カテゴリーの記事一覧
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かつてはただのダイニング・キッチンとして食事の時以外は長時間そこに居座らなかったフローリングの6畳間ですが、今ではほぼここに居座ってます(「Dear My Friend」もこの食卓の上で録音しました)。
背の高い大きな食器棚を処分して、半分の背の高さの食器棚(幅60cm高さ90cm)を2つならべて、その上にパソコンのモニターを据えて生活するようになって以来、「この部屋」が私の定位置になってしまいました。
ヤモリンが玄関のガラスの引き戸周辺をいつも警備してくれるようになって、もう長い年月が経ってますが、今年も同じようにヤモリンの子孫たちが先代たちの仕事を引き継いでくれています。
地方住まいなので、やっぱり家のまわりでいろんな生き物に遭遇することが多いですよ。
先週末ひさびさにぎょっとする体験をいたしました。なんと巨大な家蜘蛛がダイニング・キッチンの廊下のガラス扉の上にいるじゃないですか。突然出現したように見えたのが不思議です。
「うわー、でかい。これアシダカグモだよな。ひさびさにアシダカグモを見たなあ」と思い、同時に、「そう言えば・・・」と、大昔アシダカグモのことをブログで書いていたことを思い出したので、過去記事をチェックしたら、2007年10月6日に「ヤモリ、ゴキブリを食らうの図」という題で記事を出していることが分かりました。
「10月6日?、ああ、同じ時期での出来事だったんだ」と、そのことに意識が動きました。
あの時はヤモリの写真は撮れたんですが、アシダカグモは撮れませんでした。参考に載せたアシダカグモの写真は体の色が濃いですが、メスはこういう外見をしているそうです。というか今回の遭遇で、「私が子供時代以来見て来たアシダカグモはみなメスばかりだったんだ」ということに気が付きました。
今回私が遭遇したアシダカグモは体全体が白っぽくて、どうやらオスだったみたいです。オスの背中には独特の模様が入っています(写真をクリック)。
ネット記事によると、「アシダカグモは臆病なので人が近づくとすぐに逃げる」という話ですが、今回はしっかり写真を撮ることができました。
私はこの蜘蛛に、土曜日、日曜日、月曜日と同じ時間帯に三度遭遇しました。一度目はびっくりしただけで、写真を撮ろうと思いつかずに終わったんですが、まさかまた「同じ場所」に現れるとは思わず油断していたら、再び昨夜と同じくらいの時間に同じ場所に現れたので、またぎょっとしてしまいました。
前回同様、しばらくすると彼はその場を立ち去りました。そのとき「あ、明日の夜もまた現れるかもしれないから、そのときこそ写真を撮ろう」と思い、「心の準備」をしていました。
すると「予想」というか「期待」通りに、また同じくらいの時間帯に同じ場所に彼が現れたので、そっと近づいて写真を撮ることができました。写真は90度右に倒し、読者がよく観察できるように蜘蛛の部分だけを切り取ってます。
なんだか背中の部分は「しゃれこうべ」「どくろ」みたいじゃないですか。しかもデフォルメされた感じのデザインです。こんな感じの。
これがオスのアシダカグモたちが共通に自分の背中にしょっているデザインのようです。
でもつらつらと自分の撮った写真を眺めていたら、どくろのさらに上部は、どこか袈裟を身に着けた観音様のように見えてきて、自分のなかで、以下の絵のようなイメージが沸き起こりました。
「これ、どういう意味?」と思いましたが、まあ、意味があるわけでもなく、私の中で、物質界のイメージ像からの空想力への印象転移が起きただけの話です。
「三日続けてオスのアシダカグモに遭遇したことの意味」など、あったとしても、分かりません。ただ「この小さな体験」は私の中で死ぬまで残り続けるだろうことは確かです。
今年も「同じような時期」に(タカサゴユリは8月満開だったので自分のなかでは異常事態に感じましたが)曼殊沙華(彼岸花)の花が咲きました。去年は投稿記事の中で、「床の間に飾ろうと思ったけど、思ったときは時期を逃して、すでに花が枯れちゃってて、やれなかった」と書きました。そのとき、「ぜひ来年は飾ってみよう」と思っていたのでした。
今年、ようやく去年の思いを実行に移すことができました。
ネットで検索してみると、花瓶に飾ってある彼岸花の写真はたくさん出て来ますが、床の間に飾ってある彼岸花の写真はめずらしいようなので、以後、「床の間飾りの彼岸花ってどうだろう」と思いついた人が検索をかけたときに「参考写真としてヒット」してくれたら、「縁起の問題でいろいろ言う人もいるかもしれないけど、臆さなくてもいいんだよ」と背中を押してくれると思います。
P.S. 再び土日にかけて、アシダカグモが姿を現しました。日曜日には、ダイニングキッチンではなく、なんと寝室のカーテンの上でじっとしていました。それでもう一度写真を撮ろうと思い、前回よりももっと近くにスマホを寄せて撮ることができました。
この写真は左に90度回転させて、蜘蛛の姿を中心にトリミングしたものです。前回の写真より鮮明ですね。でも今回はドクロの上は観音様には見えません。頭巾をかぶったリスとかハムスターとかの顔に見えなくもない。読者にはまた違った連想が沸くかも。自分的には、なんか図像的には、カワイイ(上)+キモカワイイ(下)という感じ。ドクロが口をパクパクさせて、今にも何かしゃべりだしそう(9月13日追記1)。
夕方、買い物に行こうと思い、駐車場に行くと、私の白いクロスバイクの下に「茶色のアシダカグモ」がいました。茶色いということは、メスのアシダカグモです。実は、私、このメスには、今回「家の中」でオスのアシダカグモに遭遇する数日前に一度会っているんです。でもその時は「あ、アシダカグモ!」と思ったくらいで、家の中に入るとすぐに忘れてしまいました。それ以降今日まで「同じ場所」で彼女に遭うことはなかったんですが、再び目にしました。
今回の写真は、「アップロード可能な写真のデータサイズは1MB以内」という制限に沿うようにもとのスマホ写真を0.5倍したたけで、トリミングはしていません(写真をクリックしてご確認ください)。つまり寝室のカーテンにいたオスのアシダカグモ同様、ここまでスマホが近づいても彼女は微動だにしなかったということです。「え、もしかして死んでる?」とあまりにも不思議に感じたので、写真を数枚撮り終えた後、足をドンと踏み鳴らしたら、ササッと壁際へ移動したので、「あ、生きてんじゃん、よかった・・・」と思ったのでした。
これで2007年10月6日当時にはかなわなかった「自宅にいるメスのアシダカグモの写真の公開」をようやく実現することができました(9月13日追記2)。PR -
「facebookを始めたのはいつだったっけ?」と思い、自分が初めて投稿した年をチェックしたら、2013年だった。
それ以来、2025年の今日まで、ほぼ無活動。そのせいで、いまだに使い方が分からない。今回の「調査」時も、自分の過去の投稿ページになかなかたどりつけなくて、ほぼ偶然たどり着けたような感じだった。
思い出すと、facebookを始めた当時もそうだったけど、「彼女ら」はどうやって、無名の地方人がfacebookを開設したことを「嗅ぎつける」のか、外国籍を含め、有象無象的女人(にょにん)たちが、「友達申請」をしてくるのがすごく気持ちが悪かった。
たぶん、そういう「部分」がすごくイヤで、facebook界隈に近づくのはやめようと思って、ほぼ「本当の友人たち」の投稿があったときだけ(Yahoo!メールが「投稿があったよ」と知らせてくれる)、彼らのページを覗きにいくだけだった。
最近になって、音楽活動に関連して「facebook投稿頑張ってやってみようか」とふと思い立ち、自分の顔写真とか背景写真とかをアップしたら、またすぐに「有象無象現象」が始まったので、「マジかよ」と恐怖した。「どういう仕組みになってるんだろう。facebook当局も認可済みなんだろうか。ほんと不気味だ」と邪推せずにはいられないほどだった。組織的な「申請請負人」たちに(写真の「中の人」が実際に本人、あるいは女とは限らないし)facebookから「情報」が流れるような仕組みがあるんじゃないかと思ったのだった。
ページトップの「知り合いかも」の欄には、通常の「市井の人々」の何の変哲もない顔写真に交じって、頻繁に「こういうのが見たいんでしょ系」の女性の上半身写真と、芸能関係者、それとなぜかいろんなタイプの大谷翔平ページが出てきて、2013年の頃よりヒドくなってるんじゃないのかと驚愕したのだった。
不思議なことだけど、今年ある時期、「友だちの投稿時」以外はfacebookのページに近づかなかった自分がふとfacebookを訪れたくなって「あれ?」と思ってしまったことがあった。
なんと弟がfacebookしているのを知り、友達申請していたのでOKしたら、「弟との共通の友達」として女人(にょにん)たちによる「友達申請攻撃」を受けるようになったので、弟のページそのものを友達扱いから消去してしまった(すまんな、弟よ)。
boundheadのブログなら、長年いろんな領域に渡って書いてきたし、コメント欄で声をかけてもらえるのはうれしい話だけど、そもそも私のような「何のfacebook活動実績もない人物」と「なぜ友達になりたいのか」分からないじゃないか。
初めのうちはとりあえずOKを出してみたけれど、「相手側にも活動実績がない」のを見て、無気味に感じて「やっぱOK取り消そう」と思い直して、今は以前のような「友だち状態」に戻してしまった。
でも、せっかくfacebook投稿活動再開したのだから、「facebookの有効活用」について、しばらく思案してみようとは思っている。
「仲間内で閉じた活動」ではなく、「誰でも来れる場所で広く活動したい」というのがblog活動を重視して今日まで続けてきた理由でもあるしね。 -
昔、ネットで「GHQに発禁処分を受けた書物を復刻販売します」というキャンペーンをやっていて(今もやってるのかな?)、いろいろと買い込んだ時期があった。
その発禁本の中でも、「それ、まさに今の日本の話じゃん」と思ったのが、昭和19年に出版された長谷川泰造の『ユダヤの対日謀略』という本だった。
以下、長文で引用。
-------------------------------------------------------------------------新聞と通信「ニューヨークの新聞記者」の部分を「現代日本のメディア関係者、テレビ局員らおよび出演者たち」に置き換えて読むと、ここ200年間ずっと続けてこられた、認知改変術、始まりはヨーロッパにおいて局地戦的に、そして大戦後は、いわば「ナルト」における無限月読のごとき大魔術、つまり世界全体を攻撃対象とした「壮大な認知改変魔術」がまだ続いているんだということが分かる。
各国の新聞と通信とがユダヤの手中にあるように、米英の言論界もほとんどユダヤ人の手中に牛耳られている。ユダヤ人問題の知識もなく、何らの疑惑を有せぬ読者は、新聞に掲載された報道を、そのまま鵜呑みに真実と信じてしまうのが常である。
しかしユダヤ人に経営される新聞において真実が報道されることは、かくすることがユダヤ人に好都合の場合以外には有り得ないのである。
この問題について、アメリカ一流の論説記者ジョン・スウィントンは、ニューヨークの記者会議席上で次のような演説をしたことがある。
『アメリカでは田舎の町村以外には独立した新聞は存在しない。諸君はこの事実を知っている。余もまた知っている。諸君のうちには、真面目な議論を発表しようとする者は一人だっているまい。もし発表しようとしても、諸君はそれが活字にならないことを予め知っている。
余が執筆している新聞に、余が正直な主張を書かずにいることに対して、余は一週間に一五〇ドル貰っている。諸君も、他の新聞に対して同じ役目をすることによって、同額の給料を貰うことが出来る。もし余にして一度でも余の主張を新聞に掲載しようと無理をすれば、余の地位は二十四時間以内にふっ飛んでしまうであろう。
この事情がわからずに自分の正直な主張をのみ書こうとする記者は、失職して路上に他の職を探さなければならない。真実を偽り、威嚇し、財貨の前に跪き、報酬のため、即ち日々のパンのために国を売り、同族を売ることは、ニューヨークの新聞記者の仕事である。
われらは楽屋に身を隠している富裕な人々の道具であり、家来である。われらはまた操り人形に過ぎない。背後の人々が糸を操り、われらは踊るのである。われらの時間、われらの天分、われらの生涯、われらの能力、その他すべては他人の財産に過ぎない。われらはインテリの売節漢である』(以上はレスター・F・ウオード 「純正社会学」より引用)
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日米開戦が準備されることになった事情において、まだ世界にはっきりと「周知」されていない事実がある。それは「先に精神制圧攻撃を受けて、〈彼ら〉の知恵に屈したのは米国の方だった」という事実だ。
「米国人の時間、米国人の天分、米国人の生涯、米国人の能力、その他すべては〈彼ら〉の財産に過ぎない」
と言い換えて読んでみよう。
兵隊となった多くの米国の若者たちの命が、〈彼ら〉の世界戦略のいけにえとしてささげられることになった。「素朴な米国人の単純さゆえに、彼らの正義感は世界支配のための燃料」になった。米国の制圧という準備段階を経て、日本(米国)は米国(日本)と戦争をさせられたのだった。世界の諸国民は「実は原爆よりも制圧力のある兵器がある」こと、それが何だったのか、ようやく気付きつつあるところだ。それは一種の魔術のような何かであり、陰陽道における呪(しゅ)掛けと類縁な何かだった。
そしてGHQの統治が始まって以降、米国人がそうされたように、「今度は日本全体に認知改変という魔法がかけられた」のだった。もちろん大戦後のヨーロッパ人にも魔法がかけられた。そして保守と革新というプロレス興行が今日まで続いた。保守も革新もその根をたどれば「同じ雇い主」にいたる。そういうからくりだった。
〈彼〉あるいは〈彼ら〉は人間ではない。福音書で荒野のイエスに「自分の家来になれば地上の王にしてやる。地上世界はお前の〈所有物〉になる」とディールを持ちかけて来た存在だ。
だが〈彼〉は、「その時にはもはや「本来の自分」には戻れないし「真の故郷」にももちろん帰れない。お前の地上での栄光にはタイムリミットがある」と、この取引条件の隠れた部分は声に出しては言わなかった。
これまで「そのようなオファー」にたくさんの人間が向き合わされて、「どう行動するか」を試されてきたのだった。
(↑)筆者近影。
ということで、私も個人的な認知戦をしかけてみよう。
残りの人生は音楽三昧 -
去年の11月あたりから、何だかもやもやした感じの中で生活してまして、この気分は相変わらず続いています。
皆さんは、どうですか?
気分的には階段の踊り場で、ぐるぐる回って停滞している感じです。
最近、約30年周期の土星が一周を終えて、新しいサイクルを始めるという話をネットで知って、「あ、だから、オレの気分も安定しないんだろうか」と「合理化」してみたり。とはいえ、「理由付け」できたからといって、状況は何も変わりません。
自分にとって、第二次性徴以前の少年時代は、もっとも幸福だった時代です。だから幼稚園時代から小学6年生までの期間を過ごした場所には、強い思い入れがあります(中学に上がると、我が家は途中で引っ越しをしてしまいます)。ちなみに当時もっとも好きだった科目は、体育と図画工作でした。
古い写真を整理して、カラー化した話は以前書きましたが、下の写真はその時代に取られたモノクロ写真をカラー化したものです。道路はまだ砂利道です。このような細い砂利道がだんだん舗装されていく様子を見ながら、学校へ通った時代でした。
(左から母の妹、私、次男、三男、伯父、母、祖母、父)
この写真には、当時の我が家は写っていません。写真のさらに右側に建っていました。写真の左側には裁判官が住んでいる大きな屋敷がありましたが、これも今はありません。その隣が「空き地」で、放課後近所の小学生が三々五々集まってくる場所でした。もちろん、今は「空き地」などどこにもありません。どこもかしこも家が建っています。
のちに中学に上がった時、林田君という野球部のクラスメイトが(ちなみに私は剣道部でしたが)「あんなボロ屋に住んでるなんて、驚いた」などと失礼(率直)な「感想」を私に向かって披瀝してくれたのを覚えています。事実なんで怒るわけにもいきません。
写真に写っている長屋の一番奥には、若い警察官夫婦が住んでいましたが、奥さんが癌になって、臥せっていました。「奥さんがね、布団のなかで寒い寒い、って言うんだよ」と見舞いに行った母が語ったことを、なぜか強烈に覚えています。
あの場所はどうなっているのだろうと、最近、自転車で遠出して、ひさびさに訪れてみました。
なんと更地になっていました。古い家族写真は、左手前の白い自動車の前、かつてあったブロック塀の前で、撮られたものでした。ブロック塀の土台の部分だけが今も残っています。
世の中に子供がたくさんいて、子どもを中心にご近所づきあいがあった時代です。電話はまだ普及していませんでしたから、皆、友達を遊びに誘いたかったら、わざわざ出かけて行って、外から言葉に節をつけて「〇〇くん、遊ぼーや」と大声で呼ばうのです。
駄菓子屋へ入るときは、やはり節をつけて「ごめんください」と歌うかのごとく敷居をまたいだ時代でした。そのように、「子供たちの使う日常言葉が音楽的だった時代」があったということを、昭和時代の思い出語りとして語る人をあまり聞かないのが不思議です。 -
以前は仏壇に供えるために、下の写真にあるような、特殊な道具を使って型抜きしたごはんをを供えていたんです。ちなみにウチは真宗大谷派です。
でも、最近、お米がとても高いので、マシュマロを供えることにしました(写真をクリックしてください)。遠くからだと、見た目が似ています。
毎日取り換えてます。これで一日もたせて、前日のものは、取り換え時にパクっと口に入れて、食べてしまいます。
ごはんのときは、そんなこともできず、無駄にしてしまうことも多かったんです。
昔は、一回の食事で一合のご飯をどんぶり茶碗で食べていた時期もありましたが、今は四分の1合メシを小さなちゃわんで食べてます。その代わり、たっぷりのキャベツを食べて、腹を膨らませています。
浄土真宗系は、寝かせて線香をたきます。これまではセリアで購入した十徳香(ラベンダー)を(安価なので)使ってましたが、あまりよくない質のものに最近品揃えがかわりましたね。
がっかりしてたんですが、でも、新しい品揃え品の片隅にパッケージが簡素化された十徳香が置いてあるのに気が付いて、ちょっとほっとしました。見つけたら、まとめて買うようにしてます。