"近況"カテゴリーの記事一覧
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昔、ネットで「GHQに発禁処分を受けた書物を復刻販売します」というキャンペーンをやっていて(今もやってるのかな?)、いろいろと買い込んだ時期があった。
その発禁本の中でも、「それ、まさに今の日本の話じゃん」と思ったのが、昭和19年に出版された長谷川泰造の『ユダヤの対日謀略』という本だった。
以下、長文で引用。
-------------------------------------------------------------------------新聞と通信「ニューヨークの新聞記者」の部分を「現代日本のメディア関係者、テレビ局員らおよび出演者たち」に置き換えて読むと、ここ200年間ずっと続けてこられた、認知改変術、始まりはヨーロッパにおいて局地戦的に、そして大戦後は、いわば「ナルト」における無限月読のごとき大魔術、つまり世界全体を攻撃対象とした「壮大な認知改変魔術」がまだ続いているんだということが分かる。
各国の新聞と通信とがユダヤの手中にあるように、米英の言論界もほとんどユダヤ人の手中に牛耳られている。ユダヤ人問題の知識もなく、何らの疑惑を有せぬ読者は、新聞に掲載された報道を、そのまま鵜呑みに真実と信じてしまうのが常である。
しかしユダヤ人に経営される新聞において真実が報道されることは、かくすることがユダヤ人に好都合の場合以外には有り得ないのである。
この問題について、アメリカ一流の論説記者ジョン・スウィントンは、ニューヨークの記者会議席上で次のような演説をしたことがある。
『アメリカでは田舎の町村以外には独立した新聞は存在しない。諸君はこの事実を知っている。余もまた知っている。諸君のうちには、真面目な議論を発表しようとする者は一人だっているまい。もし発表しようとしても、諸君はそれが活字にならないことを予め知っている。
余が執筆している新聞に、余が正直な主張を書かずにいることに対して、余は一週間に一五〇ドル貰っている。諸君も、他の新聞に対して同じ役目をすることによって、同額の給料を貰うことが出来る。もし余にして一度でも余の主張を新聞に掲載しようと無理をすれば、余の地位は二十四時間以内にふっ飛んでしまうであろう。
この事情がわからずに自分の正直な主張をのみ書こうとする記者は、失職して路上に他の職を探さなければならない。真実を偽り、威嚇し、財貨の前に跪き、報酬のため、即ち日々のパンのために国を売り、同族を売ることは、ニューヨークの新聞記者の仕事である。
われらは楽屋に身を隠している富裕な人々の道具であり、家来である。われらはまた操り人形に過ぎない。背後の人々が糸を操り、われらは踊るのである。われらの時間、われらの天分、われらの生涯、われらの能力、その他すべては他人の財産に過ぎない。われらはインテリの売節漢である』(以上はレスター・F・ウオード 「純正社会学」より引用)
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日米開戦が準備されることになった事情において、まだ世界にはっきりと「周知」されていない事実がある。それは「先に精神制圧攻撃を受けて、〈彼ら〉の知恵に屈したのは米国の方だった」という事実だ。
「米国人の時間、米国人の天分、米国人の生涯、米国人の能力、その他すべては〈彼ら〉の財産に過ぎない」
と言い換えて読んでみよう。
兵隊となった多くの米国の若者たちの命が、〈彼ら〉の世界戦略のいけにえとしてささげられることになった。「素朴な米国人の単純さゆえに、彼らの正義感は世界支配のための燃料」になった。米国の制圧という準備段階を経て、日本(米国)は米国(日本)と戦争をさせられたのだった。世界の諸国民は「実は原爆よりも制圧力のある兵器がある」こと、それが何だったのか、ようやく気付きつつあるところだ。それは一種の魔術のような何かであり、陰陽道における呪(しゅ)掛けと類縁な何かだった。
そしてGHQの統治が始まって以降、米国人がそうされたように、「今度は日本全体に認知改変という魔法がかけられた」のだった。もちろん大戦後のヨーロッパ人にも魔法がかけられた。そして保守と革新というプロレス興行が今日まで続いた。保守も革新もその根をたどれば「同じ雇い主」にいたる。そういうからくりだった。
〈彼〉あるいは〈彼ら〉は人間ではない。福音書で荒野のイエスに「自分の家来になれば地上の王にしてやる。地上世界はお前の〈所有物〉になる」とディールを持ちかけて来た存在だ。
だが〈彼〉は、「その時にはもはや「本来の自分」には戻れないし「真の故郷」にももちろん帰れない。お前の地上での栄光にはタイムリミットがある」と、この取引条件の隠れた部分は声に出しては言わなかった。
これまで「そのようなオファー」にたくさんの人間が向き合わされて、「どう行動するか」を試されてきたのだった。
(↑)筆者近影。
ということで、私も個人的な認知戦をしかけてみよう。
残りの人生は音楽三昧PR -
去年の11月あたりから、何だかもやもやした感じの中で生活してまして、この気分は相変わらず続いています。
皆さんは、どうですか?
気分的には階段の踊り場で、ぐるぐる回って停滞している感じです。
最近、約30年周期の土星が一周を終えて、新しいサイクルを始めるという話をネットで知って、「あ、だから、オレの気分も安定しないんだろうか」と「合理化」してみたり。とはいえ、「理由付け」できたからといって、状況は何も変わりません。
自分にとって、第二次性徴以前の少年時代は、もっとも幸福だった時代です。だから幼稚園時代から小学6年生までの期間を過ごした場所には、強い思い入れがあります(中学に上がると、我が家は途中で引っ越しをしてしまいます)。ちなみに当時もっとも好きだった科目は、体育と図画工作でした。
古い写真を整理して、カラー化した話は以前書きましたが、下の写真はその時代に取られたモノクロ写真をカラー化したものです。道路はまだ砂利道です。このような細い砂利道がだんだん舗装されていく様子を見ながら、学校へ通った時代でした。
(左から母の妹、私、次男、三男、伯父、母、祖母、父)
この写真には、当時の我が家は写っていません。写真のさらに右側に建っていました。写真の左側には裁判官が住んでいる大きな屋敷がありましたが、これも今はありません。その隣が「空き地」で、放課後近所の小学生が三々五々集まってくる場所でした。もちろん、今は「空き地」などどこにもありません。どこもかしこも家が建っています。
のちに中学に上がった時、林田君という野球部のクラスメイトが(ちなみに私は剣道部でしたが)「あんなボロ屋に住んでるなんて、驚いた」などと失礼(率直)な「感想」を私に向かって披瀝してくれたのを覚えています。事実なんで怒るわけにもいきません。
写真に写っている長屋の一番奥には、若い警察官夫婦が住んでいましたが、奥さんが癌になって、臥せっていました。「奥さんがね、布団のなかで寒い寒い、って言うんだよ」と見舞いに行った母が語ったことを、なぜか強烈に覚えています。
あの場所はどうなっているのだろうと、最近、自転車で遠出して、ひさびさに訪れてみました。
なんと更地になっていました。古い家族写真は、左手前の白い自動車の前、かつてあったブロック塀の前で、撮られたものでした。ブロック塀の土台の部分だけが今も残っています。
世の中に子供がたくさんいて、子どもを中心にご近所づきあいがあった時代です。電話はまだ普及していませんでしたから、皆、友達を遊びに誘いたかったら、わざわざ出かけて行って、外から言葉に節をつけて「〇〇くん、遊ぼーや」と大声で呼ばうのです。
駄菓子屋へ入るときは、やはり節をつけて「ごめんください」と歌うかのごとく敷居をまたいだ時代でした。そのように、「子供たちの使う日常言葉が音楽的だった時代」があったということを、昭和時代の思い出語りとして語る人をあまり聞かないのが不思議です。 -
以前は仏壇に供えるために、下の写真にあるような、特殊な道具を使って型抜きしたごはんをを供えていたんです。ちなみにウチは真宗大谷派です。
でも、最近、お米がとても高いので、マシュマロを供えることにしました(写真をクリックしてください)。遠くからだと、見た目が似ています。
毎日取り換えてます。これで一日もたせて、前日のものは、取り換え時にパクっと口に入れて、食べてしまいます。
ごはんのときは、そんなこともできず、無駄にしてしまうことも多かったんです。
昔は、一回の食事で一合のご飯をどんぶり茶碗で食べていた時期もありましたが、今は四分の1合メシを小さなちゃわんで食べてます。その代わり、たっぷりのキャベツを食べて、腹を膨らませています。
浄土真宗系は、寝かせて線香をたきます。これまではセリアで購入した十徳香(ラベンダー)を(安価なので)使ってましたが、あまりよくない質のものに最近品揃えがかわりましたね。
がっかりしてたんですが、でも、新しい品揃え品の片隅にパッケージが簡素化された十徳香が置いてあるのに気が付いて、ちょっとほっとしました。見つけたら、まとめて買うようにしてます。 -
以前、ブログで地元の河川映像をよく見ているという話をしたけど、実は地元延岡の(というにはちょっと離れているけど県内の)海の映像もよく見に行っているのだった。
宮崎県はサーフィンをやるのに適した砂浜が多いので、どこから集まってくるのか、平日でも朝から大勢のサーファーがやってきて、大賑わいしている。
延岡市にも長い砂浜(その名も長浜)はあるんだけど、海水浴には適しておらず(ゆえに遊泳禁止)、もっぱらキス釣りするためにでかい竿で遠投を繰り返す釣り人のための浜でしかないのが残念なのだった(写真は長浜)。とはいえ、ここでサーフィンする人もいるらしい。
延岡から一番近いサーフィンのできる砂浜が日向市にある「お倉ケ浜」だ。
上の写真は「II・NAMI.COM」からスクリーンショットで取ってきた。
ご覧の通り海も空もまったく青くないけど、これは使われているカメラが、こんな色合いしか出せない機種だからだと思う。YouTubeなんかで「日向 お倉ケ浜」で検索すれば、「ちゃんと」青々した海と空の映像を見ることができる。
カメラを変えてくれないかなあ、と長年思っているが、希望は叶いそうもない。
このサイトでは、お倉ケ浜以外にも、宮崎県内のさまざまなサーフィン・スポットを映したカメラにアクセスすることができる。
昔、お倉ケ浜は純然たる海水浴場だった。サーファーが毎日、この砂浜を占拠するようになる30年以上前まではそうだった。
上の写真は左から、私、三男、母、従妹(母の妹の娘)。初めて「お倉ケ浜」に海水浴に行ったときの写真。
今日、宮崎県下のかつての「市民みんなの海水浴場」は、行政ともからんで、サーフィン振興に舵を切って、もうずいぶん時間がたっている。
でもサーフィン文化の未来はあまり明るくないかもしれない事実もある。
近年の日本のサーフィン人口は40万人くらいだそうだが、数十年後には、サーフィンをしているのは老人ばかりになるだろう、という趣旨の記事に出会ってしまった。
10年後のサーフィン人口は50代以上ばっかりって本当!?|MINのウラナミVol.375
2030年には65歳以上の層が30%を超えるという予測を今年ネットで読んだことがあるが、そもそも60歳で定年を迎えてリタイアする「慣例」になっている日本の企業文化の状況下においては、今年の60歳が65歳になる5年後ではなくて、今年60歳で生産活動をやめてしまう人々が大勢いる時点で、「非生産活動者」は日本の総人口の3分の1に達しているのではないか、と推察する。
このまま推移すれば、日本人の半分は老人になるというのも、空想的な話じゃなくなる。
よくもまあ、戦後営々と、「子どもが精神的に生きるには酷な社会ルールとそれを支える精神統治システム」をみんなで一致団結して汗水たらして築き上げてきたもんだなあ。
戦後ますます西洋式(社会に対する唯物論的価値規範)に馴化するようになって、「起きていることの質を吟味する」よりも「数字的成果」(偏差値信仰もそのひとつ)を「技術的」に追求すること、「その巧者となること」、それを本家の西洋人たちよりももっと高度に洗練させた結果が、今日の日本の有様だ。
もはや日本の若者は、自分が「そのよう」にして、社会に送り出されたようには、自分たちの子供を世の中に送り出したくはないんだろう。だから子供を社会に送り出すことを断念する(ここ数十年間、静かに進行してきた国民によるサボタージュ行為)。2024年に誕生した子供の数は68.6万人ほどだという。
「今日、百年前にはほとんど知られていなかった病気が広まっている。知られていないことはなかったとしても、広まってはいなかった病気である。神経質である。この独特な病気は、十八世紀の唯物論的な世界観の結果である。唯物論的な思考習慣なしには、神経質はけっして生じなかったであろう。もし、唯物論がまだ何十年もつづくなら、唯物論は民族の健康に破壊的な働きかけをするだろうということを、秘密の導師は知っている。もし、唯物論的な思考習慣が抑止されないなら、やがて人間は神経質になるだけではなく、子どもも震えながら生まれてくるようになる。子どもは周囲の世界を感じるだけではなく、どのような周囲の環境にも苦痛を感じるようになる。」
これが、1世紀前にシュタイナーが出した警告だった。
シュタイナーは別の著書で「日本人が西洋から拝借して〈外面的〉に適応しようとしてきた、〈唯物論的思考態度〉は、その洗練度において西洋人のそれを凌いでしまうだろう」とも語っていた。1980年に中曽根内閣が共通一次テストを日本に持ち込んで以降、日本人の思考態度は「伯楽力」を失って、ますます「適応機械」のようになって硬直化していったように見える。日本人は引き返せるのだろうか?リュック・ベッソンの「グラン・ブルー」のラストシーンは一種のあこがれだ。
「日本人が形成したような霊的な思考は現実のなかに進入していきます。それがヨーロッパ-アメリカの唯物論と結びつき、ヨーロッパの唯物論が霊化されないなら、その思考はヨーロッパの唯物論を凌ぐことは確かです。ヨーロッパ人は、日本人が持っているような精神の可動性を持っていないからです。このような精神の可動性を、日本人は太古の霊性の遺産として有しているのです。(発言の引用元は『いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか』より)
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ひどい世の中だ。
私も深海で天使に出会ったら(これは私の解釈で実際には天使像なんぞ出てこないが)、そのままイルカととも旅立ちたい(天使になりたい)と思ってしまう。
「こっち、来る?」
だけど、シュタイナーなら「今の不完全な君の有様でかね。馬鹿を言っちゃいけないよ」といさめるだろうなあ。彼の著書『死者の書』には、そういう趣旨の話が出てくるし。そのためにこそ「境域の守護霊が君らを〈そんな気持ち〉から守っているのだ」と。
以下『死者の書』から
----------------------------------------------------------------私たちは、私たちのところに押し寄せてくるものの四分の一しか知覚していません。他の四分の三は意識化されずにいます。色彩を知覚する時には、色彩知覚を通して、創造的なヴィジョンやさらに霊聴および霊的合一も私たちの中に生じ、私たちの本性の一部分に組み込まれるのです。
霊的体験の三つのあり方を示す霊視、霊聴、霊的合一が感覚的知覚を通して私たちの生体内に入ってくるときには、昨日お話ししたルツィフェルの誘惑の結果であるような「霊化」を私たちの中に生じさせます。霊視、霊聴、霊的合一は、遠い未来に実現すべき理想的な人間存在へ到ろうとする努力の芽を、すべて摘み取ってしまいます。
そしてその代わりに、今のままで霊的存在になりたいという衝動を、私たちに与えるのです。私たちがこれまでの人生の中で達成してきた程度の完全さで、霊的存在になろうとするのです。そういうときの私たちは、次のように言うでしょう。
「理想的な人間になるのは、あまりにも努力のいることだ。未来へ向けて困難な道を歩まねばならない。そのような人間になるための、われわれの内なる可能性はそのままにしておこう。今のままの不完全さで、すぐに天使になりたいものだ。そうすれば自分の存在を霊化して、直接霊界に入っていける。そのときは、努力してわれわれの素質を開花させるときよりも不完全であろうが、しかし天使のような霊的存在となって、宇宙へはばたけるであろう。」
このような場合が生じうることを考えてみると、霊界の境域、並びに境域の守護霊と呼ばれるものがどれほど重要であるか、理解できるでしょう。(ちくま学芸文庫『シュタイナーの死者の書』P124-P125)
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「楽な道」なんてないんですよねえ、やっぱ。 -
勝海舟がこんなことを語っています。思い出せば、「自分の中で何か(それがなんだかはっきり自覚できないんですが)変わったかも」と「自覚」できたのが、去年(2024)の11月か12月あたりだったです。
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一体、政治家は、機勢の変転というものを見なければならぬ。ワシはもと西洋人の言うた七年一変の説ネ。アレを信じているのだ。どうも七、八年ないし、十年にして人心が一変するよ。流行だと、人が言うが、ソウいうものじゃあ、ありや しない。維新までに三変したよ。私は、七で推す人だからね。七七、四十九年で、徳川の事も知れて来ると思っていたが、こう早くはなるまいと思っていたよ。(海舟座談)
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ちなみにシュタイナーの人生論によりますと、7年×7=49年で人生の周期がひとまず完了し、残りの人生は宇宙からの贈り物だとのことです。
最近、上がったり下がったり、なんか心がそわそわする感じが強いんですよねえ。
その時期は、エアコンとかガスコンロとかが立て続けに壊れて、買い替えを余儀なくもされちゃいました。
おまけに、それに続く2025年の正月には大昔いっしょに遊んでいた「古い友人」が帰省のついでに家を訪ねてくれて(会うのは30年ぶり)、いっしょに楽器を弾いたりして旧交を温めたりもしました。
「なんでわざわざ」と理由を尋ねると、「病気見舞いだ」と答えたので、「まあ、慢性病というだけで、大丈夫だよ」と返しました。彼には「アルバム1枚つくりたいねえ」とも言いました。
他にも最近30年間音信不通だった人物が夢に現れたり、奇妙で心がもぞもぞする出来事が続いています。つまり2025年は私に30年前を思い出させるフォースでも働いているのかと馬鹿げた空想モードにさえなっちゃいます。
去年の2024年は、セミリタイアっぽい生活をしてましたが、今年の春に入ると、「ああ、もうこういう商売道具を自宅に保管しておくのは、やめよう」と思うようになり、今年の4月、5月の連休期間にかけて、いろいろと処分しちゃいました。
代わりに、ぼちぼちとそろえてきていたデジタル系楽器類とか録音の機材とかを部屋の真ん中にすえて(キーボードにしろ電子ドラムにしろ、ほんと30年前と比べて安くで手に入るようになりましたねえ。「高かった昔の機材」は大昔に処分しちゃいました)、今後はこっちに熱中したいなあと思うようになりました。
それなので、できるだけ毎日、ギターとキーボードとドラムには短時間でも触るようにしてます。
特にドラム楽しいですよ。
とはいえ、そわそわ感は治らない。仕事をリタイアした直後は「ああ、暇になるって最高」って思ってましたが、「やっぱ仕事してたほうが精神の健康維持にはいいのかなあ、仕事再開しようか」と思ったり。
今の年金制度は終戦後の平均寿命60歳時代の日本の「状況」から設計されたなんて話を聞きましたけど、昔は30年×2でだいたい人生終了だったのに、今は30年×3の時代になってるでしょう。
別に長生きしたいとは思いませんし、それより「え、還暦すぎてから、もう1回30年サイクルに耐えなければならないの。それってキツいなあ」とも思っちゃうんですよねえ。
「春になると頭のおかしくなる人が増える」と岡田斗司夫氏がYouTubeで語ってました。みんなどこか調子が狂うようになるんでしょうか?
そういうわけで、「感情に振り回されていた、この世に生まれてからの最初の30年サイクル時代には存在していなかった自己観察者」を得ている今は(まるでシュタイナーの自我論を語ってるみたいですが)、「あれ、昨日と今日と気分が違う。昨日の心のあの感じって何だったんだろう」と振り返れるような「忍耐力」を発揮することくらいは、ようやくできるようになった今日この頃です。
この記事は「DUVET」を繰り返し再生しながら書きました。名曲ですねえ。P.S. ちなみに「DUVET」は羽根布団という意味。アニメ「Serial Experiments Lain」のオープニング曲でした。アニメは1998年ですから、かなり昔ですが、いまだにこのテーマ曲は世界でも日本でも根強い人気があるようです。
ボーカルのジャスミン・ロジャースを見れば、東洋人とのハーフなんだろうなあと誰でも思いますが、なんと彼女ともう一人の東洋人的な顔をした男性とは兄妹で、実はFreeとかBad Companyのボーカルをやってた、あのポール・ロジャースの娘だったと最近知って「ええ!」と驚きました。
ポール・ロジャースの奥様は日本人でした(のちに離婚)。そういうわけで、アルバム制作についても日本との縁が深くなったんでしょうね。
もう長らくアルバム制作してなかったようですが、去年(2024年)「Whiplash(むち打ち)」というアルバムを出してます。Whiplash、すごくいいですよ。
彼女のお父さんの名曲と言えばコレ。