"近況"カテゴリーの記事一覧
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          以前、ブログで地元の河川映像をよく見ているという話をしたけど、実は地元延岡の(というにはちょっと離れているけど県内の)海の映像もよく見に行っているのだった。
宮崎県はサーフィンをやるのに適した砂浜が多いので、どこから集まってくるのか、平日でも朝から大勢のサーファーがやってきて、大賑わいしている。
延岡市にも長い砂浜(その名も長浜)はあるんだけど、海水浴には適しておらず(ゆえに遊泳禁止)、もっぱらキス釣りするためにでかい竿で遠投を繰り返す釣り人のための浜でしかないのが残念なのだった(写真は長浜)。とはいえ、ここでサーフィンする人もいるらしい。
延岡から一番近いサーフィンのできる砂浜が日向市にある「お倉ケ浜」だ。
上の写真は「II・NAMI.COM」からスクリーンショットで取ってきた。
ご覧の通り海も空もまったく青くないけど、これは使われているカメラが、こんな色合いしか出せない機種だからだと思う。YouTubeなんかで「日向 お倉ケ浜」で検索すれば、「ちゃんと」青々した海と空の映像を見ることができる。
カメラを変えてくれないかなあ、と長年思っているが、希望は叶いそうもない。
このサイトでは、お倉ケ浜以外にも、宮崎県内のさまざまなサーフィン・スポットを映したカメラにアクセスすることができる。
昔、お倉ケ浜は純然たる海水浴場だった。サーファーが毎日、この砂浜を占拠するようになる30年以上前まではそうだった。
上の写真は左から、私、三男、母、従妹(母の妹の娘)。初めて「お倉ケ浜」に海水浴に行ったときの写真。
今日、宮崎県下のかつての「市民みんなの海水浴場」は、行政ともからんで、サーフィン振興に舵を切って、もうずいぶん時間がたっている。
でもサーフィン文化の未来はあまり明るくないかもしれない事実もある。
近年の日本のサーフィン人口は40万人くらいだそうだが、数十年後には、サーフィンをしているのは老人ばかりになるだろう、という趣旨の記事に出会ってしまった。
10年後のサーフィン人口は50代以上ばっかりって本当!?|MINのウラナミVol.375
2030年には65歳以上の層が30%を超えるという予測を今年ネットで読んだことがあるが、そもそも60歳で定年を迎えてリタイアする「慣例」になっている日本の企業文化の状況下においては、今年の60歳が65歳になる5年後ではなくて、今年60歳で生産活動をやめてしまう人々が大勢いる時点で、「非生産活動者」は日本の総人口の3分の1に達しているのではないか、と推察する。
このまま推移すれば、日本人の半分は老人になるというのも、空想的な話じゃなくなる。
よくもまあ、戦後営々と、「子どもが精神的に生きるには酷な社会ルールとそれを支える精神統治システム」をみんなで一致団結して汗水たらして築き上げてきたもんだなあ。
戦後ますます西洋式(社会に対する唯物論的価値規範)に馴化するようになって、「起きていることの質を吟味する」よりも「数字的成果」(偏差値信仰もそのひとつ)を「技術的」に追求すること、「その巧者となること」、それを本家の西洋人たちよりももっと高度に洗練させた結果が、今日の日本の有様だ。
もはや日本の若者は、自分が「そのよう」にして、社会に送り出されたようには、自分たちの子供を世の中に送り出したくはないんだろう。だから子供を社会に送り出すことを断念する(ここ数十年間、静かに進行してきた国民によるサボタージュ行為)。2024年に誕生した子供の数は68.6万人ほどだという。
「今日、百年前にはほとんど知られていなかった病気が広まっている。知られていないことはなかったとしても、広まってはいなかった病気である。神経質である。この独特な病気は、十八世紀の唯物論的な世界観の結果である。唯物論的な思考習慣なしには、神経質はけっして生じなかったであろう。もし、唯物論がまだ何十年もつづくなら、唯物論は民族の健康に破壊的な働きかけをするだろうということを、秘密の導師は知っている。もし、唯物論的な思考習慣が抑止されないなら、やがて人間は神経質になるだけではなく、子どもも震えながら生まれてくるようになる。子どもは周囲の世界を感じるだけではなく、どのような周囲の環境にも苦痛を感じるようになる。」
これが、1世紀前にシュタイナーが出した警告だった。
シュタイナーは別の著書で「日本人が西洋から拝借して〈外面的〉に適応しようとしてきた、〈唯物論的思考態度〉は、その洗練度において西洋人のそれを凌いでしまうだろう」とも語っていた。1980年に中曽根内閣が共通一次テストを日本に持ち込んで以降、日本人の思考態度は「伯楽力」を失って、ますます「適応機械」のようになって硬直化していったように見える。日本人は引き返せるのだろうか?リュック・ベッソンの「グラン・ブルー」のラストシーンは一種のあこがれだ。
「日本人が形成したような霊的な思考は現実のなかに進入していきます。それがヨーロッパ-アメリカの唯物論と結びつき、ヨーロッパの唯物論が霊化されないなら、その思考はヨーロッパの唯物論を凌ぐことは確かです。ヨーロッパ人は、日本人が持っているような精神の可動性を持っていないからです。このような精神の可動性を、日本人は太古の霊性の遺産として有しているのです。(発言の引用元は『いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか』より)
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ひどい世の中だ。
私も深海で天使に出会ったら(これは私の解釈で実際には天使像なんぞ出てこないが)、そのままイルカととも旅立ちたい(天使になりたい)と思ってしまう。
「こっち、来る?」
だけど、シュタイナーなら「今の不完全な君の有様でかね。馬鹿を言っちゃいけないよ」といさめるだろうなあ。彼の著書『死者の書』には、そういう趣旨の話が出てくるし。そのためにこそ「境域の守護霊が君らを〈そんな気持ち〉から守っているのだ」と。
以下『死者の書』から
----------------------------------------------------------------私たちは、私たちのところに押し寄せてくるものの四分の一しか知覚していません。他の四分の三は意識化されずにいます。色彩を知覚する時には、色彩知覚を通して、創造的なヴィジョンやさらに霊聴および霊的合一も私たちの中に生じ、私たちの本性の一部分に組み込まれるのです。
霊的体験の三つのあり方を示す霊視、霊聴、霊的合一が感覚的知覚を通して私たちの生体内に入ってくるときには、昨日お話ししたルツィフェルの誘惑の結果であるような「霊化」を私たちの中に生じさせます。霊視、霊聴、霊的合一は、遠い未来に実現すべき理想的な人間存在へ到ろうとする努力の芽を、すべて摘み取ってしまいます。
そしてその代わりに、今のままで霊的存在になりたいという衝動を、私たちに与えるのです。私たちがこれまでの人生の中で達成してきた程度の完全さで、霊的存在になろうとするのです。そういうときの私たちは、次のように言うでしょう。
「理想的な人間になるのは、あまりにも努力のいることだ。未来へ向けて困難な道を歩まねばならない。そのような人間になるための、われわれの内なる可能性はそのままにしておこう。今のままの不完全さで、すぐに天使になりたいものだ。そうすれば自分の存在を霊化して、直接霊界に入っていける。そのときは、努力してわれわれの素質を開花させるときよりも不完全であろうが、しかし天使のような霊的存在となって、宇宙へはばたけるであろう。」
このような場合が生じうることを考えてみると、霊界の境域、並びに境域の守護霊と呼ばれるものがどれほど重要であるか、理解できるでしょう。(ちくま学芸文庫『シュタイナーの死者の書』P124-P125)
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「楽な道」なんてないんですよねえ、やっぱ。PR - 
          
          勝海舟がこんなことを語っています。思い出せば、「自分の中で何か(それがなんだかはっきり自覚できないんですが)変わったかも」と「自覚」できたのが、去年(2024)の11月か12月あたりだったです。
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一体、政治家は、機勢の変転というものを見なければならぬ。ワシはもと西洋人の言うた七年一変の説ネ。アレを信じているのだ。どうも七、八年ないし、十年にして人心が一変するよ。流行だと、人が言うが、ソウいうものじゃあ、ありや しない。維新までに三変したよ。私は、七で推す人だからね。七七、四十九年で、徳川の事も知れて来ると思っていたが、こう早くはなるまいと思っていたよ。(海舟座談)
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ちなみにシュタイナーの人生論によりますと、7年×7=49年で人生の周期がひとまず完了し、残りの人生は宇宙からの贈り物だとのことです。
最近、上がったり下がったり、なんか心がそわそわする感じが強いんですよねえ。
その時期は、エアコンとかガスコンロとかが立て続けに壊れて、買い替えを余儀なくもされちゃいました。
おまけに、それに続く2025年の正月には大昔いっしょに遊んでいた「古い友人」が帰省のついでに家を訪ねてくれて(会うのは30年ぶり)、いっしょに楽器を弾いたりして旧交を温めたりもしました。
「なんでわざわざ」と理由を尋ねると、「病気見舞いだ」と答えたので、「まあ、慢性病というだけで、大丈夫だよ」と返しました。彼には「アルバム1枚つくりたいねえ」とも言いました。
他にも最近30年間音信不通だった人物が夢に現れたり、奇妙で心がもぞもぞする出来事が続いています。つまり2025年は私に30年前を思い出させるフォースでも働いているのかと馬鹿げた空想モードにさえなっちゃいます。
去年の2024年は、セミリタイアっぽい生活をしてましたが、今年の春に入ると、「ああ、もうこういう商売道具を自宅に保管しておくのは、やめよう」と思うようになり、今年の4月、5月の連休期間にかけて、いろいろと処分しちゃいました。
代わりに、ぼちぼちとそろえてきていたデジタル系楽器類とか録音の機材とかを部屋の真ん中にすえて(キーボードにしろ電子ドラムにしろ、ほんと30年前と比べて安くで手に入るようになりましたねえ。「高かった昔の機材」は大昔に処分しちゃいました)、今後はこっちに熱中したいなあと思うようになりました。
それなので、できるだけ毎日、ギターとキーボードとドラムには短時間でも触るようにしてます。
特にドラム楽しいですよ。
とはいえ、そわそわ感は治らない。仕事をリタイアした直後は「ああ、暇になるって最高」って思ってましたが、「やっぱ仕事してたほうが精神の健康維持にはいいのかなあ、仕事再開しようか」と思ったり。
今の年金制度は終戦後の平均寿命60歳時代の日本の「状況」から設計されたなんて話を聞きましたけど、昔は30年×2でだいたい人生終了だったのに、今は30年×3の時代になってるでしょう。
別に長生きしたいとは思いませんし、それより「え、還暦すぎてから、もう1回30年サイクルに耐えなければならないの。それってキツいなあ」とも思っちゃうんですよねえ。
「春になると頭のおかしくなる人が増える」と岡田斗司夫氏がYouTubeで語ってました。みんなどこか調子が狂うようになるんでしょうか?
そういうわけで、「感情に振り回されていた、この世に生まれてからの最初の30年サイクル時代には存在していなかった自己観察者」を得ている今は(まるでシュタイナーの自我論を語ってるみたいですが)、「あれ、昨日と今日と気分が違う。昨日の心のあの感じって何だったんだろう」と振り返れるような「忍耐力」を発揮することくらいは、ようやくできるようになった今日この頃です。
この記事は「DUVET」を繰り返し再生しながら書きました。名曲ですねえ。P.S. ちなみに「DUVET」は羽根布団という意味。アニメ「Serial Experiments Lain」のオープニング曲でした。アニメは1998年ですから、かなり昔ですが、いまだにこのテーマ曲は世界でも日本でも根強い人気があるようです。
ボーカルのジャスミン・ロジャースを見れば、東洋人とのハーフなんだろうなあと誰でも思いますが、なんと彼女ともう一人の東洋人的な顔をした男性とは兄妹で、実はFreeとかBad Companyのボーカルをやってた、あのポール・ロジャースの娘だったと最近知って「ええ!」と驚きました。
ポール・ロジャースの奥様は日本人でした(のちに離婚)。そういうわけで、アルバム制作についても日本との縁が深くなったんでしょうね。
もう長らくアルバム制作してなかったようですが、去年(2024年)「Whiplash(むち打ち)」というアルバムを出してます。Whiplash、すごくいいですよ。
彼女のお父さんの名曲と言えばコレ。 - 
          
          それほど昔の話ではないが、いつだったかネットでアニメ「エルフェンリート」のオープニング曲の「Lilium」が西洋圏の教会で讃美歌として歌われているという記事を目にしたことがあった。
百合のことを英語で「Lily」と書くが、「Lilium」はラテン語である。歌詞もラテン語で歌われている。それでその時はその動画を見たあと、アニメ「エルフェンリート」についてウィキペディアの記事に飛んでさっと目を通した記憶がある。
エルフェンリート(妖精の歌)という言葉はドイツ語でelfenliedと書く。原作の漫画を描いた岡本倫氏は、もともとドイツ語圏にあった有名な楽曲から着想を得たらしい。アニメには使われなかったが、原作漫画の方では、そのヴォルフのエルフェンリートが引用されている。とはいえ、このエルフィンリートはアニメ版のオープニングテーマの「Lilium」のように悲壮な感情を呼び起こすタイプの曲ではなくもっと軽快な感じの曲調だ。私は、これまで20年近く「エルフェンリート」というアニメを見たことがなかった。このアニメは2004年に公開された作品だが、日本よりも海外で今なお評価が高い作品だという話だった。
当時は「Lilium(白百合)」という歌と、去年の秋、隣の空き家の庭で初めて目にしたタカサゴユリとはつながっていなかった。
今年の9月6日に、去年同様一輪のタカサゴユリが隣家の庭に咲いているのに気が付いた。去年の関連記事については以下のリンク参照のこと。
10月7日(土)からの三連休は変だったけど、タカサゴユリでほっとする
ふたたびタカサゴユリ
The age of the lily 水瓶座時代はユリの時代
今年見つけた花は、去年に比べて小さい花だったので「どうして小さいんだろう」と不思議に思ったが、ふたたびユリの花を見ることができたことがとてもうれしくて、「よっしゃ写真撮ったろう」と私の家の庭から腕を伸ばして撮ったのが以下の写真だ。
写真をよく見ると(写真をクリック)、「その時咲いていた小さいユリの花」の右隣にすでに花を落とした後のタカサゴユリの茎の様子が写っている。落ちている花の様子から、咲いていたときは、今咲いている花と同じくらいの大きさだったと思われる。「あっそうか、まず右側が先に咲いたのに、オレ、気づかないままだったんだ・・・・・ってことは8月の下旬にはすでに咲いていたってこと?そんな時期に咲くとは予期してなかったもんなあ」
そんなこんながありつつ、最近また「Lilium」をYouTubeで聴いて「やっぱいい曲だなあ」と思ったので、今度は「Lilium」という曲についてネットで調べてみた。
アニメ「エルフェンリート」のオープニングテーマの「Lilium」は悲劇的な人生を歩まざるを得なかった主人公のルーシーを、西洋(キリスト教圏)で「純粋」「無垢」あるいは「聖母マリア」の象徴とされている「白百合」に仮託して日本の作詞作曲家たち(小西香葉&近藤由紀夫)によって讃美歌様式で書かれた作品だった。
この記事に「気づいた(意識的になった)」とき、去年、当ブログに投稿したエドガー・ケイシーが語った水瓶座時代=「ユリの時代」にまつわる論考やら隣家の庭に咲いた三つのユリの花の記事に連想が接続した。
それで「あ、これはアニメを見なくちゃいけないな」と急にそわそわした気分になり始めたので手始めに地元のレンタル店に行ってみたが、なかったので、そんな場合いつもやってるようにネットレンタル店でレンタル可能かどうか調べた。ちゃんとあった。ちょうどツタヤ・ディスカスが一枚55円セールをやっている時期だった。ちなみツタヤ・ディスカスでは第1巻が借りられなかったので、あらためて別途DMMで第1巻を借りたのだった。
アニメ放送当時は、もともと16:9で制作されていたものを4:3にトリミングして放送したそうだ。残虐なシーンには修整が施されていた。DVDはトリミングなしの、もともとの16:9で製品化されており、テレビ放送時の修整は取り除かれてたので、見た目上の残虐度は増している。にもかかわらず、「このアニメは見た人を感動させる」と思った。
ひさびさに心の深いところにジーンと刺さったアニメを見たので、原作の漫画とCDも手に入れたくなった。そういうわけで原作漫画12巻とMOKA☆の合唱版CDを手も手に入れた。
このアニメのために作曲された、「白百合の象徴に関連した主題曲」があまりにも出来がよくて、オープニングのクリムトから引用された映像とともに「これなしではこのアニメのトーン(諧調)を成立させえないほどのインパクト」を視聴者たちに与えてしまうという重大な役割をこの楽曲はになっている。
だから私は、このアニメには図像としても「ユリの象徴」が出てくるはずだと思いながら見ていた。するとやはり何度か出てきた。
そのひとつが、ルーシーが幼いころ養護施設でひどいイジメに合い、その騒動の果てに、能力が暴走し、広間のテーブルの上の花瓶に生けてあったユリの花が血しぶきを浴びて赤く染まる、という、すごく象徴的なシークエンス。
ほかには、頭に銃撃を受け、「赤ちゃん(無垢)返り」になってしまったルーシーが世話になる、コウタのいる屋敷のなかにも、またさりげなく(血に染まっていない)ユリの花が出てくる。(以下参照)実は、原作の漫画には全体を通して「白百合の象徴」は出てこない。「血にまみれた白百合」が出てくるアニメの養護施設の広間シーンは漫画には出てこない。漫画においては、ただ「そこで殺戮があったこと」が示されるのみだ。
このアニメが「悲劇」として絶大な心理的効果を視聴者に与えるのは、劇中で何度も流れる「Lilium」という曲のバリエーションと、ところどころで象徴的に示される「百合の花」が、「ルーシー(楓)の運命の悲劇性」をたえず思い出させるからだろう。
「Lilium」という讃美歌と「百合の花」の図像を象徴的に提示するという「アニメ独自の観点を持ち込んだ」ことで、このアニメは「悲劇を宗教的に昇華させる象徴性」を獲得したんだと思う。
そういうわけで毎回、白百合の象徴を讃美歌にして始まるオープニングテーマを聞きながら話の展開を追っていったキリスト教圏のアニメ視聴者たちは、日本の視聴者たち以上に、より強く宗教的テーマ性を連想し、深く受け止めることができたんだろうと思う。だからこそこのアニメは「日本より西洋圏でこそ評価された」のだと思う。
アニメではルーシー(本名は楓)、ナナ、マリコという三人の角持ちの娘たち(ディクロニウス)が主要人物として登場してくるが、私はその三人の娘と、去年、ブログ投稿時に話題に出した三本のユリの花とを連想で結びつけてしまった。そして去年は三輪の花が咲くはずが、最後の一輪は咲けなかったこと(開花の時期まで時が待ってくれなかった)を思い出していた。
けれど、今年はすでに二つの花が咲いた。そして、そのときからひと月が経過した或る日、なんと三つ目の「白百合」のつぼみが、「彼女たち」の「右側」に出現しているのを発見して、私の心は高揚した。
それからの一週間というもの、私は「雑草駆除業者がやってくるんじゃないか」とびくびくだったが、ありがたいことに、この時期、雑草駆除は行われなかった。
そういうわけで、なんとなんと、その三つ目のタカサゴユリはひと月前に咲いたユリたちよりも大きな花を咲かせて、りっぱに花の一生を終えた。その一部始終を観察して「去年咲けなかったぶん、大きく咲いたんだろうか」などと非論理的なことを考えつつ、去年のようにならずによかったと思ったのだった。 - 
          
          実は、YouTubeでよく見にいくのが「国土交通省九州地方整備局」が管理している川の映像なのだった。
今年の6月までは地元の監視カメラ映像ばかり見ていた。(夜間の河川映像は魅力が半減するので、興味を持った方は、お日様が出ているいずれかの時間、都合のいい時に覗いてみてください。)
7月に入ってすぐ、YouTube上に九州内のほかの河川の監視カメラ映像を「国土交通省九州地方整備局」があげているのに気づき、こちらもよく見るようになった。
筑後川は五ヶ瀬川よりもかなり規模が大きいので、最近はこちらもよく見るようになった。
すごくいい映像だと思うんだが、五ヶ瀬川にしても、筑後川にしても、登録者はすくないし、五ヶ瀬川の場合は、見に出かけると視聴者0だったりして「え、これ見てんのオレだけ。なんで河川映像ってこんなに人気ないの?」と不思議に思ってしまう。
球磨川の映像もいい。
以前、国土交通省九州地方整備局による五ヶ瀬川ライブ映像を発見したとき、日本全国の河川もほかの地方の国土交通省の管理部門が公開しているんじゃないかと思って探したことがあったけど、その時にはいい結果が得られなかった。
「もしかして五ヶ瀬川だけなの?」とがっかりしながら、長年過ごしてきたが、梅雨の時期に合わせたのか、今年の7月になって、たくさん河川のライブ映像が「スーパーマーケットのチラシ画面」(YouTubeのホーム画面のこと)の中に紛れ込むようになって、「おお」と驚いて、即出かけていって登録しまくったのだった。
今後、さらに「全国河川」のライブ映像が増えてくれたら、YouTubeを見る楽しみが増えるというものだ。
前回は「小さい水路」の話で終わったけれど、連想作用でも働いたのか、今回は「でっかい水路」の話でした。 - 
          
          京極夏彦の小説が原作の『魍魎の匣』(もうりょうのはこ)というアニメがある。
ひさしぶりにこのアニメを見直そうと思ったので、Netflixやamazonやらをチェックしたが、なかったので、DMMでDVDをレンタルした。来週には届くだろうから、見直そうと思っている。
このアニメに「呪」という陰陽道用語の解説が出てくる。音読みだと、日常的には普通「呪」は「ジュ」という読み方をまず連想するはずだが、陰陽道では、これを「シュ」と読ませている。
「言葉で相手を縛る術」である。これを「呪(しゅ)をかける」という。近代は実は物理的な大戦争の背後で、この「呪(しゅ)」の魔術によって、人類が特定の思考方法しかできないようにさせられている時代でもあると、私などは思うのだが、どうだろうか? 統計やらなにやら、学問的権威めかして、「人々を誘導する技術の研究」の実践である。
ルドルフ・シュタイナーが「鶏の嘴て線を引くと、それをやられた鶏は、その線に沿って歩くようになる」という趣旨の話をしていたのを思い出した。人間も同じことをやられている、と。
アテンション・エコノミー全盛時代の現在、庶民のレベルまで「呪(しゅ)の飛ばし合い合戦」を行うようになっている。
XやらYouTubeやらが、その戦場である。
1対1で行うリバーシゲームではなくて、複数で行う「転ばしゲーム」である。
昔、ロバート・レッドフォード主演の映画内で「アフガニスタン・バナナスタン」という言葉を彼がささやくと、あらかじめかけられていた催眠状態に復帰して命令を実行し始める男のシーンがあったが、「多くの有名人たち」が世界中でそれをやっている。
以下、深田萌絵のYoutube番組より
アフガニスタン・バナナスタンの例(各社新聞の1面トップ)
もちろん、彼らが催眠術にかけられているというのではなく、「彼らのふるまいの数々の属性のうちのひとつ」が「契約」(金銭)によって発動されるような事態になっている。これは有名人を含め多くの人が「信念」というものを失っている時代だからこそ成り立つ「取引」なのだった。
普段はその有名人たちはみなめいめい勝手に好きなことを言ったり行ったりしているが、時々、「指令」が飛んでくる。すると彼らはビジネスとして「彼らの要請通りに発言する」。その代わりメディアで「〇〇はこう言った系」の記事を定期的に投下してもらい、それが記事集約サイトの管理者と連携して、共感・反感問わず、人々の関心(人気)を維持させる動きをする。
すべてが壮大な茶番だが、人々は「簡単に感情に溺れる」(ルシファーに陥落させられる)ので、胴元が作ったルールを是正する試みに関心が行くよりも、そのゲーム内でいかにチートするか(例えば、偏差値人選ゲーム突破のチート行為が塾通いであるように)、その技法探しに熱中する。
今日でも人は「お金とは何か」を学校で学ぶことはないし、労働者として、サラリーマンがもらっているものも公務員がもらっているのも等しく「労働の対価」だという「まやかし言葉」に疑問を持たないように「その嘴で地面に線を引かされたまま」だ。「時給」という考え方もそうだ。「労働時間」と金銭を交換していると思い込む(自動的にそのように連想するように「育てられてきた」)こと自体に「幻影」が入り込んでいるという気づきがやってこない。
マルクスは「賃金は労働の対価ではなく、生み出した商品の市場価値に対する対価だ」という真実を、自身の説く労働価値説で覆い隠して、「労働者たちがお金とは何かを考える機会」を隠蔽するのに大きな力を発揮した。見かけ上マルクスらの敵対者であるはずの資本家(企業体)側も、その「まやかし言葉」の上に乗っかって、「賃金」を支払っている。議会は「商法」「労働法」を作り、法律家が解釈する。官僚は日々「その思考線上に沿って、法案作成向けの下書き」をする。
その「思考方法」は「胴元がこさえたゲーム上のルール」から始まったのであって、胴元の主催するゲーム自体を破壊しない限り、胴元が勝つようにできてる。この200年の間に彼らは、そのもとのゲームをファインチューニングし続け、なおも人々に呪(しゅ)をかけ続けている。株式制度やら金融制度の世界的普及と均一化も近代以前の軍事的制圧とは別の手段によるアーリマン傘下の武器になった。あらゆる近代法体系が、「資本による(人間精神の)制圧」(脱精神化あるいは個々人の精神生活の漂白化)を容易にし、「彼ら」の目的に十分に仕えるためにファインチューニングされ続けて今日にいたる。「人間精神に干渉できる」という意味で、人類の闘争方法は野蛮力の行使から先へ進んで、「巷にあふれる言葉」こそ人類精神に対する最大の武器となったのだった。
戦後の日本人の精神的屈服も結局仕上げは原爆ではなく、その後に開始された一連の「言葉による制圧」(西洋式陰陽術)だった(似た事件は大化の改新時にも大規模に起きた)。学校では試験を課し、「彼らの欲する回答」に好成績で応じられる者たちが左右から選抜されて、同胞に対する監視官にされた。彼らはプロレスを延々とやり続けてきた。東アジアの三民族が「彼ら」に同じ目に合わされているが、まさに優秀ゆえに同胞の監視官にされた者たち自身には皆その自覚はない。ただ大衆から抜きんでているという自覚、その自尊心が「自分はほんとうは同胞たちの監視者であり実際には敵対者として振る舞っている」という自己洞察を阻んでしまう。あとは「彼ら」が、ぽんと背中を押すだけで、自ら分断統治という、戦前から準備され、戦後に眼に見えるものにされた東アジア統治の仕組みを率先してファインチューニングしてくれる「利口で便利な自動思考人形」として利己心を燃料にして生きる。それは霊界vs物質界の比喩としての「マトリックス」的世界というよりも、この物質界で起こっている「トータルリコール」的世界だ(ただしコリン・ファレル版の)。
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などと、つぶやいてみたが、蒸し暑い時期なのに「唇寒し、初夏の空」である。
すこしだけ「嘆いて」から、近況を書こうと思ったら、やっぱり長くなってしまった。
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以下が今回の本題である。
前回、駐車場の天井にスズメバチがよく巣を作ってきた、という話をしたが、この駐車場は南側が内側で側溝になっていて、家の南面側の瓦屋根の傾斜から流れ落ちてくる雨水を集めて、敷地外のもっと大きい側溝に流れ込むようになっている。
痛みがひどく数年前に一度モルタルを練って修繕したのだが、以後まったく関心を失っていた。今年、梅雨が始まる直前に、突然関心が沸き、チェックしたら、穴だらけだったことに愕然とした。
側溝の開いた穴から駐車場のコンクリートの下にたくさんの雨水が流れこんでいたのに、ほっておいたのだった。
それで、コンクリートのひび割れに使うチューブ式のひび割れ塞ぎ剤を買って応急処置をした。
修繕跡は動画で見れるが、実はブロック塀側ではなく、駐車場側の側溝部分がひどかったのだが、今回の動画では撮れていない。
修繕と言っても見た目相当にひどいが、大量の雨水が「変なところにもぐっていかない」ようになって、一安心である。
パイプの排出口が側溝にかかっているが、ももともはなかった部分で、今回付け加えた。もとは垂直に立った雨どいのパイプの口から、動画の最初に出てくる苔が映っているコンクリートの上を勢いよく雨水が流れ込む形になっていた。このコンクリート部分も大きくひび割れしていて、雨水の一部が流れ込んでいたのでふさいだ。
これまで何の関心もなかったくせに、四散せずにひとつにまとまった透明な水が水路をとうとうと流れていく様子を見ていると、不思議に「もっと眺めていたい」と思ってしまった。
それがスマホで動画を撮って残すことにした理由である。