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ゴールデンウイークは雨ばかりで楽しみ半減でしたねえ。
結局私は野球ゲームばかりしてました(ざっと60試合)。といっても、ダイソー版ではなく、そのオリジナル版(1stエディション)の『草野球』の方でしたが。
「ああ、なんか暇つぶし用の簡単なゲームでもしたいなあ」という動機から始まり、もともとは「で、どんなもんなんだろう」という興味でダイソーの100円ゲームの中古品を、ヤフオクとかメルカリとかで手に入れて近づいたPCゲームの世界だったんですが、結構面白いじゃないですか。
そのようにして、時々、単品で買ったり、複数出品のものをまとめて買ったりしたものの中から、「じゃ今度はこれでもやってみようか」と思って、いろいろ遊んできましたが、この3月に始めたのがダイソーの『野球ゲーム』でした。
やってくる球を打ち返す、ただそれだけで楽しかったのでした。YouTubeではゲーム専用機系ののファミスタ・シリーズとか日本や米国のプロ野球ゲームの内容紹介動画がたくさん出てますけど、そういうものは、これまでやったことがなかったので、比較のしようもなく、この「かわいらしい二頭身キャラたち」が織りなす勝負の世界を、ただただ面白がっていられたのは、かえって、よいことだったと思います。
このダイソーの野球ゲームのショートカットアイコンには「野球ゲーム」ではなく、「草野球ダイソー版」と書いてあったことが気になって、「ってことは別のバージョンがあるのかな?」と思い、ネットで調べ始めました。
すると、ダイソーの野球ゲームは、2002年にMSD-JAPANが出した『草野球EX』の機能制限版だった、ということが分かりました。
Windows XP全盛時代の20年前、ダイソーで100円で売られていたPCゲームの多くが、実はMSD-JAPANという、PC用ゲームに特化して商売をしていた会社の終焉によって実現された「過去商品の再パッケージ化」だった(すなわちダイソーへの版権移動事件だった)という事実を、私は最近まで知りませんでした。
ファミコンに代表されるようなゲーム専用機向けの商品開発に労力を注いだ会社は、今日巨大な企業に成長しています。今となっては、ネットでMSD-JAPANについて調べようとしても、ウィキペディアにすら出てきませんし、個人が懐かしんで、MSD-JAPAN体験の思い出を語っているようなページも、検索かけてもヒットしません。私には、このことが、なんだかとても不思議な気がします。
YouTubeにはダイソー版の『草野球』の紹介動画と、『草野球EX』紹介動画が上がってますので、見比べることができます。「ゲームやおよろず」内にある記事も参考になります。
ダイソーの『草野球』は3チームで行うゲームでしたが、元ネタの『草野球EX』は6チームあり、PC相手だけではなく、1P対2Pで試合をすることもできることが分かって、「よし、じゃあ、このソフト手に入れよう」と思い、アマゾンをチェックしたら、ちょうど折りよい時期に当たっていたのか、中古品を手に入れることができました。
もとは2000円の品でしたが、なんと中古販売業者は新品を7000円で出してました、私はもうひとつあった中古品の方を3700円で買いました。
『草野球EX』にはさらに以前のエディションがあるので、こちらの初代「草野球ゲーム」の方もヤフオク経由で手に入れました。
「初代」の方もEXと基本構造は同じで、6チーム構成で、かつ対PC戦と1P対2P戦もできるのですが、『草野球EX』で、それまでできなかった牽制や盗塁を盛り込んだというわけです。
『草野球EX』は値上がりし、中古品を手に入れにくくなってますが、初代の『草野球』は500円前後でヤフオクやメルカリで運が良ければ入手可能な状況です。
ダイソー版の『草野球』のジャケットには二頭身キャラしか登場しません。もともと「そういうキャラとして制作されたゲーム」であったならば、少しもおかしなことではありません。
ダイソー版、EX版、初代版と、新しいエディションから古いエディションへと、順に写真を見ていただいて、気づかれたと思いますが、ジャケットにおいて、ダイソー版は、キャラに感情移入する「スキマ」があまりありません。
その理由は、ゲームを開始すれば、チーム名とか選手名とかは分かるにしても、ダイソー版では、かつてのソフトには付属していた「ある要素」が完全に払拭されているからです。
MSD-JAPAN版のケースにはアニメ絵っぽいイラストが描かれていますが、2000年版にしても2002年版にしても、ゲームの中にこれらのジャケット絵が再び出てくるのです。とはいえ〈彼ら〉は絵を提示するだけで、なんの説明もしていません。
しかし「それ」が、私の空想癖に火をつけてしまいました。私はこれらの絵をもとにアニメ作品として一連のお話を空想し、南二子山町内会やらフォーチューン・ナンバーズやらフライング・ウインズやら幸福ケ丘駅前商店街やらトワイライト・ソルジャーズやらエリオンズ・トラッカーズ・クラブズやらというチーム名の由来を考えました。
私が空想する、このアニメの主人公は、南二子山チームの投手たる山田姉さんです。本当はエヴァンゲリオン(二子山からの連想です)みたいな巨大ロボット物語内における、それぞれにクセのある組織集団の登場人物たちの織りなす物語の幕間劇としての草野球のシーン、それがこの『草野球』だったのではないかと、思い込むことにしたのです。そうすると、さらに楽しくなりました。
実在するアニメにも幕間劇として草野球をするエピソードを盛り込んだものがいくつかありましたね。例えば近年では『ドロヘドロ』なんかもそうでした。
ロボット搭乗員たちと整備士集団、彼らが利用する商店街の人々、名前を数字で呼び合う別組織のロボット搭乗員たち、戦闘機に乗って戦うパイロットたち、陸上自衛隊の隊員たち、忍者のようなアサシン(追跡者)を抱えるエリオンという組織、などなど、そういう人々がこの山田姉さんの活躍を中心に描かれるアニメの登場人物たちです。
そして彼らは「過酷な日々」を過ごしながら、なぜか「定期的に集って草野球をする」のですが、その様子を描いているのが、この『草野球』というPCゲームの正体だったのだ、というのが「私の見立て」です。
もちろん、すべて私の妄想(二次創作)に過ぎないのですが、ダイソー版では外されてしまったイラストと、そのイラストの中に盛り込んだ「裏設定」のようなものは、制作者側の〈彼ら〉(STUDIO Sequence)の中には確実に存在したはずだと思います。
〈彼ら〉から、それを聞くことができたら、どんなに楽しいことでしょうか。
次回に続く。PR -
以下、前回の投稿の続きです。
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アラン・カルデック 『霊との対話』1866年4月25日パリ
地球に風が吹き渡り、すべての人間に覚醒を促しているのを感じませんか。嵐が近づきつつあるという漠然とした予感が、世界全体を包んでいるのではありませんか。
しかし、世界の終わりが来るわけではありません。地球は、創られたとき以来、進化を続けているのであって、これからもまだ進化を続ける必要があるからです。しかし、人類は、大いなる変容の時期に差しかかっています。地球は次なる段階に入っていかなければなりません。
したがって、訪れようとしているのは、物質的な世界の終焉ではなくて、これまでの精神のあり方の終焉なのです。偏見、エゴイズム、傲慢、狂信が滅んでいくのです。毎日少しずつ、それらが消滅していき、やがて、新たな世代が新たな建物を建て、それに続く世代が、その建物を堅固にし、完成させていくでしょう。
罪が償われ、地球は幸福な星になっていくでしょう。そして、そこに住むことは、罰ではなく、報いを意味することになるでしょう。悪に代わって、善がそこを支配するようになるでしょう。
人類が地球上で幸せに暮らすには、地球が、よき人で満たされる必要があります。善を望む人々だけが生まれ変わってくる必要があるのです。そして、実際にそうした時期がやってきました。
現在、大規模な移住が進行中です。悪のために悪を犯す人々、善の感情を持つことができない人々は、変容後の地球にはふさわしくないので、地球外へと移り住むことになるでしょう。なぜなら、彼らが残っていると、新たに混乱をもたらして、進化の邪魔をすることになるからです。彼らは、地球よりも進化の遅れた星に移住して、そこで、善に対して無感覚になった心を変えていく必要があります。地球で獲得した知識を携えて、その星の進化のために使命を果たすのです。
彼らが出ていったあとには、もっと優れた魂がやってきて、正義と平和と友愛に基づく生活を展開するでしょう。
すでに言ったように、地球は、一世代全体を滅ぼすような大規模な天変地異によって変容するのではありません。いま地球上に生きている世代は徐々に姿を消し、それに続く世代が同じく徐々に姿を現すのです。自然の秩序が乱れるということではありません。物理的な世界が変わるのではありません。そうではなく、『いままで地球で生まれ変わっていた魂の一部が、もはや地球には生まれてこなくなる』ということなのです。
これからは、未発達の、悪に傾きやすい魂の代わりに、進化した、善への傾向を持った魂が生まれてくるということです。人類の肉体が大きく変わるということではなくて、そこに宿る魂のレベルが上がるということなのです。
したがって、『何か超自然的な、驚くべきことが起こって、人類が変わっていくだろう』と思っている人々は、失望することになるでしょう。
現在は、移行の時期です。いまは、二つの世代が混在しているのです。あなたがたは過渡期にあって、一つの世代が地球を去り、別の世代が地球にやってくるのを見るでしょう。
それらの世代を見分けるのは簡単です。それぞれに性格が際立っているからです。
交代しつつある二つの世代は、まったく異なるものの見方、考え方を持っています。心の傾向性もそうですが、生まれつきの直観力においても大きく異なっていますので、両者を区別するのは極めて簡単です。
一段と進んだ時代をつくる新たな世代は、幼少のころから発達する知性と理性、生れつき持っている善への傾向性、見えないものを信じる力などによって際立っていますが、それらは、彼らが過去世でしっかりと修行してきたことの、疑いようもない証なのです。彼ら全員が、霊格の非常に高い人々だというわけではありません。そうではなくて、すでに、ある程度の進化を遂げているために、進んだ考え方を取り込みやすく、人類を再生させる運動を支えることができる、ということなのです。
逆に、未発達霊の特徴は、摂理を否定し、高級霊の存在を否定し、神に対して反逆することです。さらに、低劣な欲望に本能的に惹かれ、傲慢、憎悪、嫉妬、煩悩といった、人と人を切り離す感情に親和性があり、そして物質に対する執着が非常に強いということなのです。
そうした悪しき精神作用を地球から一掃しなければなりません。そのためには、進化を否定する人々には地球から出ていってもらうほかないでしょう。これからやってくる友愛の時代に、彼らはふさわしくないからです。彼らがいると、善なる人々が苦しむことになるからです。
中略
そして、それ以外にも、自殺者の数が前代未聞のレヴェルに達するでしょう。そこには子供たちさえ含まれることになります。多くの人々が狂気に取りつかれ、みずからの命を絶つことになるのです。まさに、それこそが時代の異常さを告げるしるしとなるでしょう。
以上のようなことが、次から次へと生じるはずですが、それらはすべて自然の法則に則っているのです。
とはいえ、あなたがたを覆っている黒い雲を通して----すでに嵐のうなり声が聞えていませんか----、新たな時代の光が射しはじめているのを感じ取ってください。
地球上のあちこちで、友愛の基礎が築かれ、人々は手を差し伸べ合っています。野蛮が姿を消しつつあります。これまで数多くの流血の原因となってきた、民族的な偏見、宗教的な偏見が消えつつあります。狂信、不寛容がその立場を失いつつあり、一方で、良心の自由が社会に導入され、一つの権利となりつつあります。
あらゆる場所で、人々の考え方が変化してきています。悪が至るところに見られますが、人々はその悪を癒そうとしています。しかし、多くの人が、羅針盤なしに歩んでおり、夢想の世界に迷い込んでいます。世界はいま、産みの苦しみの最中なのです。これは、まだ百年は続くでしょう。まだまだ混乱は続きますが、やがては目的がはっきり見えてくるでしょう。和解の先触れである統合が感じられるようになるはずです。
それもまた、時代のしるしなのです。しかし、先に述べたのが、過去が滅びゆく断末魔の姿であったのに対して、これらは、新たに生まれつつある未来の新生児たちの泣き声なのです。新たな世紀が目撃することになる曙の最初の光なのです。やがて、新たな世代が力に満ちて立ち上がってきます。18世紀の様相と19世紀の様相が明らかに違うように、19世紀の様相と20生起の様相は、はっきりと異なるのです。
新しい世代の持つ特徴のうちで、最も目立つのは、彼らが生れつき信仰を持っているということです。それも、人間を分断する、偏狭で盲目的な信仰ではなく、人間を隣人への愛と神への愛で一つに結びつける、理性的な信仰なのです。いまの世代が消えていくにつれ、精神と社会の進歩に反する不信と狂信の名残も、姿を消していくことでしょう。
中略
戦いには、魂を鍛えるという意味もあります。悪に接することで、善の価値をよりよく認識することもできるようになるのです。諸能力を発達させる戦いがないと、霊はみずからの向上に無頓着になることもあり得るのです。自然の力との戦いは、肉体的な諸能力と知性を発達させます。悪との戦いは、モラルの力を発達させるのです。(P335-P346)-------------------------------------------------
19世紀の当時においては、まだそうではなくとも、いずれ世界中で「子供が自殺するようになる時代が来る」という言葉はすでにその通りになっています。ルドルフ・シュタイナーは『神智学の門前にて』において、今後も唯物論が克服されることがなかったら、「ますます人類一般は神経質になっていき、狂気という流行病が蔓延するようになる」とか「子供が震えながら生まれてくるようになる」と語っています。
実際には、単に震えながら生まれてくるだけでなく、たといこの世に生まれても原因のわからない死、つまり「突然死」という形で、「肉体との結びつきを放棄する赤子」だってすでに出ているかもしれません。
子供を唯物論的な思考態度(今日「日本的」と呼ばれているもの、戦後、特に発展し定着していった社会制度や慣習慣例の大部分もそうなのです)から守らなければ、今後も子供の受難は続くのです。 -
抹茶ラテの口パク化に熱中して一通りの満足を得られたら、「やる気なしモード」に突入して、「さあ、じゃ次回は口パクを導入して新作に挑もう」という流れになりませんでした。
ダラダラ過ごしながら、20年前のPCゲーム(ダイソー系)ばかりやってました。特にはまったのが「野球ゲーム 52」ですが、あまりにも気に入ったので、いろいろと調べたくなり、関連ソフトを収集したりしながら過ごしてました。
ダイソーの「ピンボールゲーム」のときにも深堀記事を書きましたが、今回もいろんな事実が分かり、「そーだったのかあ」と深い感慨にふけりながら、今日も野球ゲームやってます。「その調査生活の日々」については、また日を改めてご報告させていただきますね。
ということで、今回は、「野球ゲーム三昧」に入る以前に、あれこれやっていた「別系統の調査」の報告になります。
エーテル視力の獲得を目指しながら一方で重りとなって取りつくアーリマン族
とともにある人類の図
エドガー・ケイシーの全リーディングが納められたDVDを手に入れたという報告を以前しましたけど、実はケイシーのリーディングには公開されていないものがあることをご存じでしょうか。
これは、W・H・チャーチという作家さんがケイシー関連の著書のなかで言及している話です。
その公開禁止の条件で行われたリーディングの依頼主たちには2系統あり、一人はあのルドルフ・シュタイナーが警告を発し続けていたウッドロー・ウィルソン大統領であり(彼のいとこが代理人として派遣されてきた)、もう一系統が、当時イスラエルの再興運動、つまりシオニズム運動に参加していた米国在住のユダヤ人でした。
通常のリーディングにおいてはケイシーの奥さん(質問者役)や秘書(筆録役)の補助のもとにおこなわれていたリーデングですが、そういう「通常形態」ではなく、ケイシー関係者を排除して、ケイシーだけが招かれて行われたと言います。
そして守秘義務の書類にでもサインさせられたのか、ケイシーは死ぬまでそのときに行われたリーディングの内容を公開することはありませんでした。
ルドルフ・シュタイナーの黙示録解説については、そのさわりを少しだけ当ブログでも扱いましたが、ヨハネが扱っている時空は途方もない未来にまで及んでおり、21世紀に世界が崩壊し、「今の自称キリスト教徒たち」の天国に移行するという話ではありません。
長大な時空のなかで4(地球紀)-5(第五根源人種)-7(第七文化時代)の末期時代に起こることが、今ある種の人々が「起こってほしいと期待している地球の大異変」です。シュタイナーはこう語っていました。
-----------------------------------第七文化期が終る頃、地球の状況が根本的に変化するであろう。その変化は、アトランティス期から後アトランティスへの過程で生じた大変動に匹敵するものとなろう。(神秘学概論-文庫版P421)シュタイナー同様にケイシーの予言も短期の時空を扱っているものではないと思えない人は「聖書」に基づいて「人類の滅亡が近々やってくる」という「期待感あるいは恐怖感」を抱いて生きている「うっかり八兵衛的な人々」、あるいはそういうマインドを経済的利益に転換してやろうと思っている人々のお祭り騒ぎ(≒営利活動)のカモにされているのでしょう。
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宇宙のひと時を2160年とすると、現在4-5-5(1413-3573)の時代の途中(610/2160)ですから、「大陸の模様替え期」までに約三分の二時と二時(1550+2160+2160=5870)が残っています。もちろん2160年という数値は説明の便宜のために用いている単位であることは踏まえておいてください。実際には前後するのです。
宇宙は7の数によって進展していきますから、ひと時とふた時と半時というのは、7という歴史単位の半分、すなわち3,5時ということになります。
4-6-1の時代に突入する直前に地球の様相が、アトランティス時代の終焉時代同様に変化するとシュタイナーは語っています。
4-5-4の時代、つまり7つの文化期の4番目の途中、ひと時と二時と半時に、インマヌエルの降誕がありました。そしてキリスト降誕から数えて、再び人類はひと時と二時と半時の時空を通り過ぎていくのです。7の半分、1+2+0,5とは、人類個人がが秘儀に参入する長さでもありました。
人類はこれから霊的発展の上昇期に向かうのですが、その前にアーリマンが地上にもたらしたものの精算期(今日)を通り過ぎなければならないので、アーリマンの受肉と言われる1998年は一種の焦点であり、ケイシーが新しい周期が1998年以降から始まると述べたのも、そのような長大な人類史の中に時おり現れるエポック現象を俯瞰して述べたものと考えるとよいでしょう。
アーリマンの地上降下事件は、ある意味、人類の成熟をテストするための中間試験のようなものでしょう。英語的振動(それはコンピュータ言語でもあります)を駆使して「人類の未来について狡猾な言葉を吐く人々」を人類は拒絶できるか、それが試されているのです。
ラテン語のスピリトゥスとは、もともとは「物質が希薄化したもの」を意味していました。今日、英語のゴーストは幽霊という意味で用いられています。ドイツ語で霊・精神を意味するガイストは古代の英語ではゴーストだったのです。けれどもこの近代の200年の間に、英米人たちは、物質性に関連づけられた言葉だったスピリットをゴーストの代わりに霊・精神という意味で口語訳聖書で使うようになりました。この意味をしばし考えてみてください。アングロサクソン精神の唯物論化はこういう領域でもひそかに進行してきたのです。
ラテン語が西洋の各民族言語を超えて支配していた時代はルシファー的錯誤の時代でした。15世紀以来徐々に、世界は英語という霊性・精神性を欠いた言語(シュタイナー曰く)、つまり物質の統治に最適な言語によって支配されるようになりました。しかし第6文化期(1500年後ですが)になると、支配言語もきっと交代するに違いありません。
前回「ドーリスライという言葉の脳内固着」の話をしましたけど、こういう現象って誰にでも普通にありますよね。特に多いのが特定の音楽、曲なり歌なりが、なぜか繰り返し頭のなかで鳴ってしまう日があるような…。
実は以前にも突然言葉がなんの脈絡もなく、頭の中に浮かぶ経験が去年の9月にありまして、それというのが、ケイシーのリーディングDVDの内容を調べている時期だったんですが、突然、なんの脈絡もなく「アラン・カルデク」という言葉が頭に浮かびました。
「え、アラン・カルデク、誰?」
それで、すぐネットで検索したら、「ああ、あの本を書いた人か」と思い出しました。若いころ地元の古本屋で『精霊の書』という、それまで聞いたことのなかった人物の「精神世界本」を見つけて買って帰って読み、すでにケイシーファンだった私は、当時の読後感としては特に新しい驚きや知見を得たということもなかったので、一度読んだきりそのままになって引っ越しを繰り返す中で無くしてしまっていた本でした。
記憶に残っていたのは「ブラジルの霊能者だ」ということだけでした。翻訳者の解説にはそのように書いてあったような記憶がありました。自分の頭の中に情報として残っていたのはそれだけだったのです。
しかし改めてアラン・カルデクをネットで調べてみると、「彼はブラジル人ではない」ことが分かりました。「間違って記憶していたんだ」と思いました。本自体が失われているので、記述を確認することもできません。例えば、翻訳者が「ブラジルで有名な…」と書いていたものをのちに私が記憶改変してしまった可能性があります。
「彼は19世紀後半にフランスで活躍した心霊主義者で、今日では本国よりもブラジルのカトリック教徒たちの間で有名である。彼らはカトリックでありながら、輪廻転生を信じており、カルデシアンと呼ばれて区別されている」というような趣旨の説明がネット上にありました。
そこで次に、本を手に入れようと思ったんですが、私が持っていた『精霊の書』は絶版で中古市場でも見つかりませんでした。それで代わりに『霊との対話』『天国と地獄』の二冊をネット経由で手に入れました。
その本の日本語呼称は、アラン・カルデックとなっており、21世紀の日本においては、私が記憶していたアラン・カルデク表記は廃れているようです。別の翻訳本ではアラン・カーデックという表記も見かけました。
さて、前置きが長くなりましたが、そうやって「奇妙な成り行き」で手に入れることになったアラン・カルデックの翻訳本のなかに私の印象に強く残った個所がありましたので、次の回でご紹介したいと思います。 -
アニメspy×familyが大ヒットして、今年10月には第3期が放送される予定とか。
私もつい調子に乗って、自分の動画にてアーニャ・オマージュをしてしまいましたが、この冬期のアニメで別口の「血のつながらない者同士が家族になっていく物語」をやってまして、「うーん、やっぱ絶対spy×familyと較べちゃうよなあ」と思いながら、Netflixで見始めたら、ことのほか面白いじゃないか。そうです、「Buddy Daddies」であります。
このアニメのエンディングテーマが名曲なんです。私、歌を聴くとき基本歌詞をちゃんと聴かずに聴き始めて、楽曲そのものが気に入ったら、歌詞にも関心を示すタイプのリスナーです。
歌声の質、トーンも、意味を把握せずに母音の連なりとして耳に入ってくるものが楽曲全体として耳に入ってくるとき、歌詞、というより、その言葉が「発音」されたときに、母音とメロディの連結が違和感を感じさせる歌、つまり歌詞が音像に埋まっていない曲はやっぱりよくないんだと思いますよ。
そういうふうに歌詞の意味を把握せずに声も楽器の一部として、歌声も楽器構成の一部として「曲全体」として聴いても、よい音楽であれば、聴き手は感動するものですよね。日本人の洋楽の受容態度がそうでしたしね。あるリズムに乗って鳴らされる和音が、人の感情に意味を想起させずに影響するのが音楽ですからねえ。
「DURDN」の「My Plan」は、そういう楽曲の仕上がりそのものが、全体として人を感動させる質を持っていて、私久々にエンデングテーマを飛ばさずに毎回聴いてます。OPやEDを飛ばすとか、そういう「振る舞い」をしてしまうNetflixの視聴者は多いと思います。歌が平凡だったら、やっぱ省略モードで、「物語の続き自体」に気持ちがいくんです。曲がよかったら、「これは聴かなくちゃ。で物語へ行こう」と思っちゃいますよね。
なんか後頭部からぼわーっと頭が抜けていくような感覚に襲われる瞬間があるんですよ、この曲って。
フルバージョン
ダーダンの詳細については、以下を参照
音楽ナタリー
参照先の記事を読んでもらうと分かる通り、男二人女一人の三人でやってるユニットだそうです。
で、なんとこの曲のボーカルをしているのがBakuさん。韓国人です。向こうで兵役に就くまでは日本語はしゃべれず、兵隊やりながら日本語の勉強始めて、結局、いろんな縁が重なって日本に移住してミュージシャンになったという話は面白いですねえ。
本記事の冒頭で「血のつながらない者同士が家族になっていく物語」と書きましたが、思い出してみると、私、そういうモチーフ〈も〉内包しているアニメが結構好きなんだなってことを再認識させられました。
当ブログでもその手のアニメに言及してるんですよね。
まずは「ウィッチブレイド」
それから「エルゴプラクシー」
そしてアーニャ・オマージュの動画にも引用した「小林さんちのメイドラゴン」
「spy×family」と「ウィッチブレイド」で家族になる女の子は「人間」ですが、「エルゴプラクシー」ではロボット少女(愛玩用オートレイブ)ですし、「小林さんちのメイドドラゴン」では、子供のドラゴンです。
もう、日本の漫画・アニメ制作者たちって、どこまで「先走っていく」のだろうと思うくらいに〈彼ら〉は「異質なものを結ぶ衝動」を抱えていますよね。
21世紀に「炎の舌」を使って、「ある衝動」を世界に提示している人々は、「そういう業界」にいる人々であって、決して旧来の古代や中世以来の宗教の伝統の末端にいて組織力拡大運動に邁進している人々ではないってことでしょうねえ。
P.S. ということで本記事書きながら、一方でその日は「ドーリスライ、ドーリスライ」という言葉が頻繁に頭に浮かぶ日だったのです。「なんだ、ドーリスライって? なにかの洋画かアニメの登場人物だろうか?」と思いながらほっておいたのだが、結局ドーリスライが止まらない。本記事を書き終えて買い物に車で出かけたのが、運転中もやっぱり「ドーリスライ」という言葉が湧き上がってくる。
しかたなく家に帰ってから検索したら、「神曲奏界ポリフォニカ」の登場キャラクターだった。正確にはドーリスラエ。で、「あ、あの少女と同化した精霊さんか」と思い出した。
「神曲奏界ポリフォニカ」は私のお気に入り作品だったが、さすがにドーリスラエは忘れていたのだった。
けれども、実はこのアニメ(1期)のエンディングテーマが大好きで、今でも定期的に無性に聴きたくなるので(その時はいつもリピート再生モードで)、よく聴いている。この曲も「頭がぼあっと広がっていく感覚のする名曲」だ。今回の投稿の後日談ということで、ご紹介いたします。
concordia(コンコルディア) kukui
P.S.2 あ、あんずのクチパク映像(「ごはん」という決めぜりふ)で引用した「ヒナまつり」も今回のテーマに沿ったアニメだった。〈彼女〉の場合、戦闘マシンとして育てられた異世界人です。
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やっと暖かくなってきましたねえ。
ブログのほうは、「これは書いておきたい」ということも特に思い浮かばなくて、かなり時間があいちゃいましたね。なので、更新記事のつなぎに一本投下しておこうと思います。
私、ギタリストとしての才能はないんですが、ジョー・パスの「Night and Day」を一生懸命練習していた時期がありました。
ジャズ系のソロギターっていうと、ジャズ愛好者ではない(つまりソッチ系にはあまり詳しくない)自分にはジョー・パス以外ほとんど思い浮かばないんですが(それでもバンドでやってる人たちはある程度は知ってますが)、かつてアマゾン・ミュージックでたまたま出会って気に入ったギタリストにジョナサン・クライスバーグって人がいて(アマゾン・ミュージックはクレイズバーグとカタカナ化していてますが、間違いですかね?)、「ONE」というアルバムのしょっぱなの曲がいたく気に入りました。
「Canto De Ossanha」って曲です。
「Canto De Ossanha」はブラジルでは国民的名曲扱いされているって話を、あとで調べて知りました。日本語のウェブ上ではこのポルトガル語を「オサーニャの歌」と訳して紹介している記事に一度出会ったのみで、日本語で得られる情報は少ないです。
英語では「Chant Of Ossanha」と表記しているものにも出会ったので、まさに「オサーニャの歌」ですね。オリジナルもYouTubeで聴けますので、興味のある方はさらに聴いてみるといいです。
ジョナサン・クライスバーグもYouTubeで活動しています。ジョナサン・クライスバーグは「カント・ヂ・オサーニャ」と発音してましたね。
ひさびさ、クライスバーグアレンジの「オサーニャの歌」はコピーしてみたくなった曲です。
うれしいことにYouTubeには譜面付きの教則動画まであります。
ちなみにジョー・パスの「Night and Day」の教則動画も同じシリーズのなかにありますよ。
さて、近況です。
シュタイナー関連動画の方は、最後のアップロード以来、「抹茶ラテのクチパク化を新たなチャレンジ目標」に掲げて自宅であれこれ試みをやってきて、一応自分なりの「これでいいんじゃないか」というものは出来たんですけど、「だからと言ってクチパクが何よ?」という思いもありまして、「目標クリア」できた時点で、新たな動画作成自体への意欲が半減して、ほんとある意味、次回作の予定も何も思い浮かばずにぼんやり過ごしてきた2月、3月でした。
D-IDというサイトが個人の写真と音声をアップロードすれば、勝手にクチパク動画を作成してくれるという情報に出会って、それではということで抹茶ラテのイラストイメージをアップしてみたんですが、このAIは「イラスト絵対応」ではなく、人の肖像写真じゃないとダメでした。
自分の顔写真をアップして投稿動画で使ったAI Talk3の音声と合わせてみたら、ちゃんとクチパク(しかもちゃんとリップシンクする)&まばたきする動画が作れました。でも、そんな動画、自分自身で顔出してしゃべれば済むだけの話で「世界的需要」があるのかなと、疑問ではあります。
そうではなく、D-IDが、顔写真ではなく、2D系3D系さまざまな顔の絵を簡単にクチパク化させてくれるサイトだったなら、ピクシブとかに絵を投稿している連中は、きっと大喜びするんじゃないかと思いますよ。
自分もイラスト動画作成が「完全なるリップシンクモード」で可能になるような進化をD-IDが果たしてくれたなら、その時は利用を考えてもいいかなと思ってます。
当ブログでも紹介したあんずの「ごはん」GIFは動画本編では母音の口の形にリップシンクさせて作成したものですが、ああいうタイプのものを長い時間に渡っていちいち「手動」で作っていたら、それだけでヘトヘトになることは分かってます。だからコスト思考の上に成り立っている日本のアニメの場合、リップシンクさせていませんよね。岡田斗司夫氏によると、そこが海外のアニメと日本のアニメの違いだということです。米国が日本のアニメ会社に発注するとリップシンクを要求する、とYouTubeで語っていましたね。
D-IDに限らずとも、きっと世界のどこかにそういう系統の、イラスト系2D画像を自動的にリップシンク化するウェブAIも出現すると思うので、気長く待っていよーっと。