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YouTubeでOTYKENを知ってもうずいぶんになるけど、このバンドをどのように扱っていいのかわからなくて、長らく自分だけのお気に入りとして、定期的に視聴してきた。
私が初めてOTYKENに出会ったのが、GENESISという曲だった。
一体、なにもの?
なんか衣装とか見るとアイヌ的雰囲気もある、遠い昔には彼らとも関連のある(枝分かれした)北方モンゴル系? でも騎馬民族(朝青龍)系とも違うよなあと感じた。
「おー、あれって精霊の仮面をかぶっているのか?、ビジュアルもカッケーなあ」と思ったのだった(おそらく彼がアンドレイ・メドノス?)。
というのが最初の感想で、しかもこの「民族言語で歌われる奇妙な曲」は、最後まで聴かせてしまう不思議な魅力に溢れていたので、続いて、次をポチりたいと思ってしまったのだった。
それが以下のLEGENDという曲だった。
いよいよ、「こいつあただならぬバンドじゃん」と思って、例によって検索開始。当然、まずは日本国内の認知状況から入ったわけだが、ほとんど情報がない。
それで英語圏のwikipediaに飛んだら、ちゃんと記事があった。
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オティケンのメンバーはチュリム族、ケト族、ハカス族、ドルガン族、セルクプ族であり、これらの民族はアイヌやアメリカ先住民と関連している可能性があります。メンバーは全員、パセチノエ村近くの小さな集落出身の地元の人材です。そこでは医薬品や電気へのアクセスが難しく、食料は漁業、狩猟、採餌、農業、養蜂を通じて地元で得られています。 その結果、グループのメンバーは、特にコンサートが中止になる夏の間、地域で働き、家族を助けるなど、バンドの外でも多忙な生活を続けています。グループの主なメンバーは約 10 人ですが、各人の空き状況に応じて、コンサートに参加する人は少なくなる傾向があります。出演者の中には(アハを除いて)専門的に音楽の訓練を受けた者はいなかったが、シベリア先住民の多くは家庭で民謡や楽器を演奏する習慣があり、音楽の才能を持っている。
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彼女たちは国籍的にはロシア人で、民族的には北方シベリア人の少数民族に属しているということだ。
日本のJ-POPのようにAメロBメロサビの永久運動みたいな古びた定型とは無縁の「構成的にもユニークな無国籍感タップリの音楽」を民族的土台から再構築して演奏している。日本でこういうアプローチに成功していると思えるものは少ない。劇場版「攻殻機動隊」のテーマくらいだろうか。ロシア語ではなく民族言語を使って歌われているとはいえ、彼女たちがやっているのは「伝統音楽」ではまったくない、ということも言っておきたい。
世界の音楽潮流にとってのオルタナ的展開である。
彼女たちの活動が、アメリカ先住民の多くがシベリア系民族の音楽をよく聴きに来ていたことから(彼らに民族音楽を聴いてもらう)始まったことを思えば、今回の最新バージョンのGENESISのヴィジュアルがネイティヴ・アメリカン様式になったのも、奇妙なことではない。
詳しくはウィキペディアの記事を参照してもらいたいが、彼女たちが世に出たのは、彼女たちの村と家業の養蜂業を通じて知り合いになったアンドレイ・メドノス(白人系、奥さんがチュリム族)が後押しをしてくれたからだった。
この絵を見て、日本の「今どきの女子がコスプレしてる」感じをも受けちゃう、奇妙な視聴体験時間だった。たまたま今日の夕方、彼女たちの最新の更新動画を見たせいで、やっと記事の投稿をする気になったのだった(OTYKENについて書きたいとずっと思っていたので、今回達成できてよかった)。
アイヌについて政治的に語ることが好きな人(アイヌ利権側も批判側も)はここではほっておきたい。戦前金田一京助博士は、鈴鹿山脈以北にはアイヌの足跡が残っていると語っていたが、最近の政治的アイヌ論争では、金田一博士の言葉が引用された場面に出会ったことがない。
日本列島の南方と北方は入れ墨文化があって、その間に別の文化を持った種族が入ってきたようだ。古事記ではボディーガードの隼人族が目の周りに入れ墨をしているの見て、姫が驚いて「それは何なの?」と尋ねたというエピソードが出てくる。南方の諸島人たちは明治期まで女性も入れ墨をする文化があった。西郷さんが島流しされていたときの島女房の女性も入れ墨の入っている人で、薩摩人の文化とは異なっていた。
かつて暴走族の総長で、のちに役者として活躍することになる宇梶剛士はアイヌの血を受け継いでいる。私は彼の名字を聴いたとき、すぐに古事記に登場する兄弟の名前を連想した。
エウカシとオトウカシ
である。兄のウカシと弟のウカシ、という意味である。
だから、「ああ、宇梶さんて古事記にも登場してくるキャラの子孫なんだろうか」と思ったものである。まあ、これはあてにならない憶測である。
単に民族音楽ではなく、それを踏まえて他の音楽要素も取り入れる、そして「まったくの先祖文化に戻るのではなく、今の時流を超えて新生する活動」こそがオルタナであるのだよ。だから、これから生まれて来るものは「これまでになかった何か」でなければならない。
ということで、月最低2回は更新すると言っておきながら、さぼっていた更新をなんとか月の最終日にクリアできてよかったですよ。
P.S.
大昔「こころの旅 神ありて我あり 我ありて神あり」という題名のNHK番組があったのを思い出す。アイヌの芸能一家のドキュメンタリーだった。そういやあすこに出てきた女子たちもOTYKENと同じような髪の伸ばし方をしていたなあ。(ということで調べてみたら2001年11月4日にNHK教育で放送された番組だった。なんと22年前。VHSビデオに録画したものをDVDに焼き直して保存してた。改めて見直したけど、やっぱいいわ。)
近年、アイヌの音楽で話題になったものと言えば、Netflix版のドラマシリーズ『呪怨』のエンディングテーマとして使われたsonkaynoがあるね。
Sonkayno / MAREWREW
南方諸島系のおすすめ
朝崎郁恵 おぼくり~ええうみ
P.S.
1:40前後から出てくる縄というかロープをくるくる回しながら太鼓をたたく
シーンがすごくかっこいいねえ。エスニック四つ打ちミュージック。PR -
現在、人類はすでに21世紀に入って、その五分の一を通り過ぎたところだが、ルドルフ・シュタイナーが100年前に語っていた「人類の意識の変化」に関して「どのあたりに立っている」のだろうと、つい思ってしまう。彼は『天使と人間』において「21世紀に入るまでに、人類が霊化の道をたどらないのなら、天使たちは、人間が、睡眠という形で定期的に身体から離れて回帰している霊界において(今日の時点においては大部分の人間が明確に思い出すことができないでいるが)、人類が実現すべき未来のヴィジョンを提示するという仕事をやめてしまう」という趣旨の発言をしている。
地上の状況によっては、人類の精神的発展の始まりは100年遅れてしまう場合もありうるし、最悪の場合は、天使の意図は実現されずに終わる場合もありうる、とも言っている(とはいえ、シュタイナーは別の個所で「天使の仕事が無駄に終わることはない。人類は最終的には道を見つける」というような趣旨の発言もしている)。
霊界において天使が人類に示す理想像は三つある。
天使のヴィジョンは人間の構成要素である、霊・魂・体の領域そのひとつひとつに対応している。
一つ目は体の世界、すなわち物質界に関係する。天使は人類は物質生活における友愛を目指すように諭している。平等ではなく友愛である。
二つ目は魂の世界、すなわち宗教感覚に関する提案である。人類個々人が宗教の自由を得ること。最終的にはキリスト教の教会さえ不要のものとすること。シュタイナーはキリスト教教会の消滅を例に挙げているが、もちろん仏教にしろイスラム教にしろ、何であれ宗教団体の組織安堵を目的としたような活動への情熱は、将来人類一般から消えていくという未来だ。
三つ目は霊の世界、すなわち精神の探求願望、個々人による霊学への接近である。アイ・ビリーヴ(信じたい)衝動ではなくアイ・ノウ(知りたい)衝動への接近である。
将来、このまま同じ作業を続けても、霊界で天使から教わったことを「人類は現実化できる可能性がない」と天使たちが判断してしまったら、天使たちは、これまでの仕事を中止して、人間が眠って霊界に滞在している間に、地上に残されたエーテル体に対して働きかけるようになり、そのことによって地上で生きる人類たちに有害な事態が出来するようになる、と語っている。
これまで天使たちは人類の意識魂、つまり「自己を観察・意識する魂」とともにある自我に働きかけてきたのだが、人類個々人の固有の霊に働きかけるのをやめ、人間の地上生活における外皮たる肉体を賦活しているエーテル体に、つまり本能的活動を担う部分に働きかけを開始するようになると語っている。
そうなると人類は、朝になるたんびに、「昨日までは知らなかったはずの知識」を携えて目を覚まし、そして、その「どこからやってきたのか由来の分からない知識」を「インスピレーションが来た!」と言って地上で使って応用し、結局、そのチート能力を駆使して人類の地上生活をまますます荒廃させるようになる、と語っている。
今回のような、「もし天使たちが本来の仕事を完遂できなかったら事案」としてではなかったが、かつて666年に、西アジアでアーリマンの弟子たるゴンディシャプールの学院の学者たちによって、「同じような事態」が地上に起ころうとしていた。しかしその時は、マホメットが地上に出現することによってイスラム教徒たちが、ゴンディシャプールの学者たちを追放し、「自動的に本能的な知識を得ることによって心理的精神的努力なしに生きる唯物論者としての人類」の出現を阻んだのだった。
もし天使が所期の計画をあきらめ、人間の魂ではなく、身体を支えているエーテル体に介入し始めたら、その時は三つのことが起こる、とシュタイナーは言う。
一つ目は「有害な医学知識」の獲得。天使がエーテル体に埋め込んだヴィジョンによって、人類は、薬に精通するようになり、医者たちはそれでもって意図的に病気を引き起こしたり、それを治したりするようになる。
二つ目は「優生学」である。人類は遺伝的な優位性の獲得を目指すようになり、「本能的に得た生殖の知識」を用いて、友愛の精神ではなく、「いかに優秀な子供を得るか」を追求する血統主義に傾く。また「道を踏み外した性行為」に熱中するようになる。そのような振る舞いをする人物は、最高に開明的で、かつ尊敬されるべき人物と見なされるようになる。これまで美しいとされていたことが醜いとされ、醜いとされていたことが美しいと言われるようになり、人類の半分が悪魔のような存在になる。
三つめは「律動学」。新しい動力源の発見と応用である。これまで人類は、車輪を回転させて乗り物を動かしたり、電力を得たりするのに化石燃料を燃やす必要があったが、火を使わないで、ただ振動の合成のみによって、巨大な動力を得て、機械を動かすようになる。つまり石炭、石油、ウラン、プルトニウム等の「地下資源」に頼る必要がなくなるが、人類はそれを利己的な目的に使用する。
人類が近代に失ってしまった願望、すなわち霊界回帰願望を思い出せないまま、物質界の霊化ではなく、「現在の唯物論的な思考態度」をさらに洗練させていくことに邁進するならば、意識魂が発展する機会は失われ、地上世界は荒廃する。
というような話が、『天使と人間』で語られていた。
有無を言わせぬ世界規模のワクチン接種強要問題やLGBT問題など、「フォースの暗黒面の帰依者たち」は、すでに個々の主権国家の自律的な決断を許さないような「政策」を、個々の政府が断行するように「超法規的な圧力」をかけてくる。1920年の国際連盟から始まり、戦後の国連による「国家の多数決主義」(賛同国家の多数派が正義であり、ターゲットにされた反対側は犯罪を犯した国家として、〈みんな〉で鉄槌を下してよいという見方)を世界の諸国民の「新しい常識」にしてしまうという入念な下準備の後、21世紀のこの4年間「恐怖街宣による諸国家のコントロール実験」が行われてしまったことを、我々はありありと見た。
明治維新時、つまり国連主義が地上世界に出現する以前の近代西洋の軍事常識は、「戦争は当事国同士が国際法にのっとって解決すべき事案であり、戦争当事国でない諸国家は調停等の提案が当事国からなされたときに介入する。また国家の戦争行為の是非は問わず、戦争は条約をもって終了とする。」
であった。だが国連主義(その実態は根回しによる同盟行為の簡略化であった)の登場によって、必ずしも軍事力を持たない勢力でも、さまざまな方法で(たとえば莫大な資金の提供などで)、自陣が有利になれるような方策を「国家間の多数決」という方法を駆使することで、以前の西洋世界の儀式的な軍事慣習にのっとるよりも簡単に行使できるようになった。20世紀以後の近代戦争においては、戦闘の前に、すでにリバーシゲームが終了していたのだ。
すでに日本は先の世界大戦で、1920年にウィルソンによって地上に出現させられた「その考え方」によって、世界の舞台で悪役として、首を締めあげられた経験を持つ。
これらのことは、天使に見放された人類にやってくる荒廃世界の、その前触れかと思ってしまいたくもなるが、本当のところはどうだろう。とはいえ、三つ目の「火を使わない動力」の問題は、いまだその兆しさえもネットニュース上の話題には上ってこない。
フリーメーソンがフランス革命を裏から操ったという話は、その界隈ではよく聞かれる話だが、自由、平等、友愛という理念は、もともと秘教由来の言葉で、「彼ら」はそれらを剽窃して、「わざと論争が紛糾するような曖昧な定義立ての概念として普及させた」という趣旨の話をシュタイナーはしていた。
シュタイナー自身は『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』において、「精神の自由」「法の下での平等」「経済における友愛」という表現で「彼ら」が「秘教由来の概念から意図的に脱落させた文言」を補っている。医学や性意識の領域において、「概念普及過程における意図的な混乱の醸成」は今日においても「彼らの戦術」であり続けているのだろう。
よき理念と抱き合わせに闇(不純物)を混ぜて広宣普及活動にいそしんできたのが、「彼ら」だった。
問題は、今日の地球全体を巻き込んだ広報技術とその管理体制によって「個人が真偽・善悪の判断をする力」を奪われて翻弄され続けている状況から、人類はいかに脱出するかということである。
『社会の未来』『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』は必読の書だが、残念なことにまだ文庫化されていない。是非文庫化(ちくま学芸文庫化)していただけないだろうか。
ふさわしい時期ではないときに出現する律動学の警告ではなく、一方で、シュタイナーは人類が正しい発展を遂げたときに地上世界に出現する「振動力の応用」について「この力は善人にしか扱えない。同じ機械を前にして、ある人(善人)の前では動き、別の人(悪人)の前では反応しない」とも語っている。特定の人物たちにしか扱えない機械とは奇妙な存在だ。現代では、属人的という言葉が否定的に使われるようになり、生産現場における「職人的技量」への依存を排除し、「人の経験に頼らない一般的生産システム」の構築こそ安定的で効率的な生産維持に求められている、などと語られる。
今日では電気現象の領域でテスラの名前が頻繁に取りざたされているが、シュタイナーは、未来の振動力学の先駆者として、ジョン・キリーの名前を挙げている。キリーは永久機関の探求者たちの話題で登場してくる人物で、今日的な評価では「ただの詐欺師だった」というレッテルが定着している。しかしシュタイナーは「そうではない。キリーは実際に機械を動かすことができたのだ。彼は人類一般に先んじて、すでに振動力を行使する能力を持っていたが、周囲の者は持っていなかったのだ、誰かがキリーの代わりに機械の前に立って、同じ動作をしても、機械は反応しなかったのだ」というような趣旨の話をしている(『神殿伝説と黄金伝説』『職業のカルマと未来』)
そのような世の中が出現するのは「正規のルート」をたどっても、まだずっと先の話、場合によっては、我々が地上に再来してくる1000年後の世界なのかもしれない。
とはいえ、「今の自分のペルソナ」、あるいは仏教的には「縁の構成体」「ルシファーの作品としての人格」(当ブログ「輪るピングドラムと神様」参照のこと)に個々人が自我の力によって影響力を行使して、細胞膜が細胞壁から剝がれるように、頑強な細胞壁を自分と見なし、一体化して生きてきた感情体験のプリセットモードからより自由で俯瞰的になり、ペルソナの隣に「新しい人間」(ルシファーによって堕天しなければ、そうなれたはずの天使候補生、再興された天界の第四ヒエラルキアに属する人間天使)を生もうと試みる行為(これを修行とも呼ぶ)は、今世の寿命が尽きるまで続けていくしかないのだよ。 -
前回の投稿で、「お薦めアーティスト」系記事がさらに続くような書き方になっていた手前、そういう約束はちゃんと果たしておかないとダメだろうと思ったので、あともう一本記事を投稿しておきたい。
YouTubeにおけるインデー系アーティストたちのプレイリスト紹介のなかで、「選者のセンス」と「自分の趣味」が一致すると最高の新曲体験が味わえるという趣旨のことを書いた。
数々の選集ページの中で私がもっともお気に入りの楽曲選集ページはMusic like Men I Trust | Similar Artists Playlistに集められた楽曲集だった。
Men I Trustというバンドに似た楽曲集というテーマで集められた52曲だが、ほんと「選者さん」はいい曲を集めてくれたなあと思う。
思い出すと、エマニュエル・プルクスがボーカリストとして定着した以降のMen I Trustとか、スペイン語系のルーツを大事にしているThe Maríasとか、70年代のラジオ番組を聴いてるかのような感情を湧き出させるStrawberry Guyとか、Japanese BreakfastとかJakob Ogawaとか、ほか(and more)にも「調査意欲を沸き立たせたアーティストたち」が目白押しだった。
Men I Trust自体はOncle JazzというYouTubeページを偶然試しにクリックして知り、そこから似た楽曲のプレイリストということで今回の言及記事となった。
とはいえ、Xinxinみたいに「気合を入れて記事を書く=布教活動にいそしむ」よりも「結局自分が楽しんでいれば、それいいじゃん」とも思うが、「偶然の接触」こそ最強の出会い衝動の行使でもあるので、その行使が「誰か」にとっては別の局面において小さなお役にたってくれるかもしれないとも思っている。
さてここまで前振りをしておきながら、結局、名前を挙げたアーティストたちの深堀記事は今回書かないのだった(なんだ、それ?)。
今回紹介したいアーティストは、別のプレイリストで出会ったバンドだった。その名を「Night Tapes」と言う。
bandcampの紹介文はこのように書いてある。
Night Tapes started out as evening jams between housemates Max Doohan, Sam Richards and Iiris Vesik in London.
Night Tapes は、ロンドンでハウスメイトのマックス・ドゥーハン、サム・リチャーズ、アイリス・ヴェシクによる夜のジャムセッションとして始まりました。
前回紹介したXinxinは米国の西海岸側出身のバンドだったが、Night Tapesはロンドン出身のバンドだ。
彼らもXinxin同様に発表曲が極端に少ない。物販品としてビニール系、つまりレコードかカセットテープを作っている。CDは作らず、デジタル配信はさまざまな場所を通じて行っているようだ。
英語圏の検索機能を使ってNight Tapesのディスコグラフィーを調べてみたが、一番古いのがカセットテープとして発売された2019年発表の「Dream Forever In Glorious Stereo」で、実は「 Dream」 「Forever」「 In Glorious Stereo」という3曲を並べて、カセット版のタイトルにしていただけの話だった。
発表曲は次の順番だ。
「Dream Forever In Glorious Stereo」(2019) 3曲入り
「Download Spirit」(2020) 5曲入り
「Forever Dream Kids」(2021) 「Download Spirit」からのシングルカットとしてA面「Forever Dream Kids」B面「Forever」
「Perfect Kindness」(2023) 6曲入り
つまり彼らの既存曲は、3曲+5曲+6曲=14曲で、2019年を活動開始の年として数えると、すでにキャリアは5年ほどになるが、公式にNight Tapesとして公開された楽曲は14曲しかないということだ。
けれども内容はすばらしい。Men I trustの初期メンバーは男たちで結成されたので、初期の楽曲には男性ボーカルものもあるし、複数の女性ボーカリストを招いてアルバムを作っているが、Men I Trustが本当の魅力を発揮し出すのは、エマニュエル・プルクスが正式の女性メンバーとしてボーカルを引き受けるようになって以降に発表されたアルバム群からである。
同じようにNight Tapesにおいても初期(記念すべき第1曲目)は男性メンバーの声メインの楽曲も出しているが、やはりこのバンドはアイリス・ヴェシクの個性的なきんきら声あってのバンドなのだ。
私が小学生の昭和時代、「まこち、Mさんは、はよ、しね、はよしねち、きんきら声でおらんじかいよー」などと母がその日あったことなどを語っていた時代があった。私は一学年下の近所の遊びともだちのお母さんたる、Mさんを知っていたので(当ブログ「怪異な出来事」記事において灰色の背広男に追いかけられたときに私が逃げ込んだ家の敷地こそ彼女の家だった)、もちろん具体的に脳内でMさんの顔を思い浮かべ、きんきら声を再生しながら母の話を聞いていたものだった。
ちなみに標準語現代語訳では「ほんと、Mさんは、早くして、早くして、と言って、キンキンする声で叫ぶんだからねー」くらいの意味である。
私がYouTubeで最初に出合ったNight Tapesの楽曲が「Silent Song」という曲だった。他の音楽愛好家なら「ああ、〇〇っぽいね」と連想(過去体験との比較思考)できた人もいるかもしれないが、私の狭い知識では「新しい音像体験」だった。
それで「これはおもしろいぞ」と、いつものように「調査」を始めたわけだ。そして他の楽曲にも複数触れて、「このバンドはすごくいいぞお」と確信した私は、今では彼らの数少ない楽曲を発表順に14曲並べてヘビーローテーションで聴いている日々である。2023年の今年発表された「Perfect Kindness」は特に最高の出来だと思う。
ボーカルの声質に触れれば、アイリス・ヴェシクの歌声を聴くと、往年のケイト・ブッシュの声に連想が飛ぶ人もたくさんいるだろう。
ケイト・ブッシュを知らない若い人たちにとってはNetflixの「ストレンジャー・シングス」で引用されて話題にされた楽曲(Running Up That Hill)がケイト・ブッシュのものだったと言えば、「あ、なんかそんな記事読んだ記憶があるな」という人もいるかもしれない。
ケイト・ブッシュのような声質は、私の地元では古くから「きんきら声」と呼んで区別している。日常会話において、こんな声でまくしたてられたら、さぞ大変だろう。特に旦那になった人は夫婦喧嘩なんぞ絶対したくないと思うはずである。
けれども、近代芸術の世界においては、強烈な個性を持った声こそ武器である。クラッシックの声楽(あるいは日本の能などの芸能における発声もそうだ)が一定の型に沿って皆似たような響きになるように寄せていく訓練をほどこされるのに対して、販売を目的に作られている「現代のポピュラー音楽」においては誰かの声に似ている(というか、印象に残るような特徴がない)と感じられることはマイナス点でしかない。
だからこそ現代において「個性的な声質」をもって生まれてきた人は祝福された人である。洋画やドラマの吹き替えやアニメの仕事をする声優さんたちの声質の差異や個性に対して、長年に渡り、強い関心を持ちつつ視聴者として接してきた日本人にとって、戦後に新たに発展したこの独特のセンスは、近代以前から続く、詫び寂びを肯定的に感じる感覚や虫の声を雑音ではなく音楽的に聴いたりできる感覚同様、他国では生まれてこなかった感覚であった。だから声の個性に対する独特の関心もまた、日本でこそ生じた新しい何かであって、他国的ではないものだった。
そしてそういう感性があったればこそ「日本にしかない声優業」という仕事も「価値」を持ち、業種として成立できている。日本人という人々は「声の個性の価値」を世界中でもっともよく理解できる人々でもあるのだった。
とはいえ、一方では、最近の邦楽ミュージシャンたちの「声の個性は弱い」と感じる。
バンドで歌を売って成功したかったら、「宝(個性的な声質)を持っているボーカリストをまず探せ」と、日本でインディー活動をしたいと思っている人々には言いたい。
ということで、最後はNight Tapesとは直接関係のない話になってしまったけど、「Night Tapesいいじゃん」と思ってくれるリスナーが少しでも増えてくれれたら、幸いである。
p.s. ちなみに表題の「Silent Song」は「Perfect Kindness」所収の曲で、このアルバムの最後に出てくる曲だ。YouTube内に掲示している英語の歌詞を味わいつつ試聴してみるのも一興である。 -
7月下旬から8月初旬にかけて熱中していたのが、北米のインディーバンドを聴きまくることだった。私が当blogで推したいバンドがいくつか見つかったのだが、今回はまず最初にXinxinを紹介したい。
Xinxinというのは変な単語だと思う。英語っぽくない。ジンジン?それともズィンズィンだろうかと思って、検索をかけたら、これは中国語の「欣欣」を中国人がアルファベットを使って表音化するときに使う表記だと分かった。
ということは「シンシン」というふうに発音するのが一番原音に近いと思うが、例によって、彼らが自分たちのバンド名を声に出して発音している場面に出会っていないので、「おそらくそうだろう」ということではある。
私はスポティファイは利用していないし、アマゾンミュージック・アンリミテッドは一時期利用していたこともあったが、結局使わないので解約して今はほとんどサイトに近づくこともない。
そういうわけで、今のところ「新しい音楽体験はもっぱら、YouTubeで」ということになっている。
New Indie MusicとかIndie Pop/Rockとか、さまざまなアーティストたちの曲を3時間程度に集約して流してくれる人々(選者たち)がいるので、「選者のセンス」と「自分の好み」の傾向が一致している場合、これはほんとに驚愕の新曲体験となるのだった。
本を読みながら流し聴きしていると、ふと注意が本から曲の方へ逸らされるタイミングがときどきくる。「あれ、なんかいいじゃん」そういうときは、曲名とアーティスト名をチェックして、再度YouTubeで検索をかけて、お目当てのアーティストをさらに深堀していくのだ。
そういう風なふるまいによって、大ファンになったバンドやユニットやソロアーティストがここ最近かなり増えた。
でも、こういうこと(今まで知らないでいた名曲を探求したい気分に襲われること)は、やってくる時期に周期があるので、「そういう時期が来る」かどうかで、また数年、あるいは10年以上も「発見が遅れてしまう名曲」だって多々あるだろう。でも、それはそれで「いつ出会えるか」ということに関しては「偶然」にゆだねるしかないのも事実だ。
私がXinxinの曲として初めて聴いたのが「blue flowers」だった。
私がおもに聴いていた多くの曲がリバーブ感たっぷりの反響系の(人によっては気持ち悪いと感じるかもしれない)ミックスダウンをほどこされた曲だった。だから「Blue flowers」もそういう傾向を好むアーティストたちのなかに出てくる一曲だと思っていた。
それで、この曲には「読書のジャマをされた」ので、俄然興味がわき、いつものように「調査」を始めたわけだ。
XinxinをYouTubeで検索し、その他の曲を数曲聴いてみたら、「blue flowers」みたいなサイケデリック系じゃなくて、まさに黒人の女性ボーカリスト独特の節回しで歌われる楽曲のオンパレードだった。
「どういうこと? これって、もろブラックミュージックじゃん」と思った。そして「ああ、この感じの楽曲アレンジって日本のそっち系のミュージシャンたちもよくやってたよなあ」と思った。最初に心に浮かんだのは80年代前後のころの吉田美奈子バンドの音だった。
英語圏におけるXinxinについての評論記事には2つしか出会わなかった。YouTubeの再生回数を見れば、分かる通り、みごとなまでの「無関心」ぶりである。もちろん日本のアマゾンにはページすらない。
こんなブラックブラックした曲がなぜこれほどまでに「そっち界隈の人々」に相手にされないんだろうと不思議に思った。
数少ないXinxinへの言及記事のなかに以下のような記述があった。
----------------------------------------------------------------------------------------------The group – which consists of Janize Ablaza on vocals and guitar, Stephen Reed on drums, Carlos Elias on bass, and Jonah Huang on keys – formed in Southern California’s Inland Empire, the suburban expanse that buffers the megalopolis of L.A. against the Mojave Desert.
このグループは、ボーカルとギターのジャニズ・アブラーザ、ドラムのスティーヴン・リード、ベースのカルロス・エリアス、キーのジョナ・ファンで構成されており、南カリフォルニアのインランド・エンパイア、モハーベ砂漠に対してロサンゼルスの大都市を緩衝する郊外の広がりで結成されました。
Vocal&Guitar ジャニズ・アブラーザdrums スティーヴン・リードBass カルロス・エリアスKeyboard ジョナ・ファンブラックミュージック的なアプローチで名をなした吉田美奈子が黒人女性ではなかったように、このバンドのボーカルであるジャニズ・アブラーザもまた黒人女性ではなかったのだった。
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FacebookやInstagramのフォロワー数を見て、長年活動を続けてきたろうに気の毒になってしまった。YouTubeにもバンドが演奏する動画がいくつか上がっているが、見てくれてる人はほんとに少ない。
カリフォルニアと写真と名前から類推できるのは、彼女はスペイン語を話すメキシコ系の先祖を持ち、容貌はインディオ系の血を色濃く反映しているように見える。
中南米インディオ系×アングロサクソン系×ラテン系×中国系=Xinxinなのだ。
大学時代から数えればかなりキャリアは長いはずだが、公開されている楽曲の数が極端に少ない。ライブにおいては、ジャニズ・アブラーザはエレキギターを抱えてテンションコードを駆使しながら歌を歌う。基本目立つようなソロは弾かない。エレキギターで独特のテンションコードを鳴らしながら歌を歌う女性ボーカリストはめずらしいんじゃないか。
ライブ演奏動画は、声がちゃんと拾われてなくて、あまりよい録画のものがない。それにライブではジャニズの声を複数用意してハモらせることができないので、「録音もの」よりも説得力が落ちている(コーラスこそ聴きどころだ)。もしバックコーラス要員を調達したうえで、ライブ会場を回れたら、リスナーたちの反応ももっとあがったんじゃないかとは思う。
今回は全部で8曲紹介しようと思っているが、YouTubeでもその程度しか拾えなかった。彼女はもしかしたら「blue flowers」のようなサイケデリックな(というか精神的・内省的な)方向の歌をもっとやりたくなっているのかもしれない。既存の発表曲のジャケット絵には、中国だけではなく、日本の影響(草書体の引用)も感じるのだが、どうだろう。
私としては、これまで楽曲を一枚のアルバムにして、それこそ「日本仕様盤」(つまりCD)を出すなんて企画が出ないかな、などと思ってるところだ。それは、表題にもある通り、北米人よりも日本人に発見された方が「ウケがいい」と思う故だ。もっともっと新曲を出してもらって、彼女たちの歌と演奏を味わってみたいと思うが、とはいえ、私と同じ気持ちを抱いている人は北米にも日本にも少ないんだろうなあ。
p.s.
ちなみにXinxinのInstagramやFacebookを見ると、私が抹茶ラテ(秘教学徒)動画で引用したアーニャ(アニメ「Spy×Family」のキャラクター)の、「謎の笑い顔」が出てくるページに出会って、「あー、ジャニズもあのアニメ好きで見てたんだ」と思ったのだった。 -
不思議とシュタイナーの言葉と勝海舟の言葉は、私の中ではつながっていて、かずかずある人智学関連図書と一緒に勝海舟の聞き書き本(『海舟座談』『氷川清話』)も、「その関連本」のなかに含まれる重要参照本と感じる私の感覚は、おかしいのでしょうか。
そう言えば、「理解する」ということについて、シュタイナーはこういうことを言っていましたねえ。「理解するということは、ある事柄を別な事柄に関係づけることです。この世では一つの事柄を他の事柄に関係づけなければ、何も理解することができません。(P109)」(教育の基礎としての一般人間学)---------------------------------------------------------------------------------------
最近、以前買っておいた白黒写真のカラー化ソフト(CODIJY Colorizer Pro)のことを思い出して、「そうだ『氷川清話』の扉に掲げてある、あの写真をカラー化してみよう」と思ってトライしてみました。とはいえ、素材はネットから採ってます。文庫本の写真をコピーして着色しようとしたら、ドットの粗さが目立ってとても使いものになりませんでしたので(写真をクリックすればもとの作成サイズで見ることができます)。
本来の着物の色は分からないので何通りか試してみましたが、「派手系」の仕上がりの方が「より色が付いてる感」が強いので、着物は黒ではなく派手系にしてみました。
こういう作業はほんとめんどくさいです。アニメ制作をやっている人たちは、線描にいちいち色を指定して延々と色付けしていく作業を繰り返しているのでしょうが、白黒写真に色を付けるこのソフトにおいても、場所ごとにいちいち色指定していくのです。
だから白黒写真は線描画ではありませんが、部分ごとに色指定を繰り返すことでカラー化していくという点では似ているところがありますね。というか塗り絵ですよね。
でも、こういった作業も未来には、さらに人の手を離れて写真を読み込んでAIに「適当に色を付けて」と命令すれば、延々と着色された別バージョンの提示を繰り返してくれ、その中からベストと感じたものを選ぶというようになるのでしょうか。
さて写真だけではさみしいので『氷川清話』から海舟語録として、いくつかご紹介しておきます。
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何事も知らないふうをして、独り局外に超然としておりながら、しかもよく大局を制する手腕のあったのは、近代ではただ西郷一人だ。世が文明になると、皆が神経過敏になって、ばかのまねなどはできなくなるから困る。坂本龍馬が、かつておれに、「先生はしばしば西郷の人物を賞せられるから、拙者もいって会ってくるにより添え書きをくれ」といったから、さっそく書いてやったが、その後、坂本が薩摩から帰ってきていうには、「なるほど西郷というやつは、わからぬやつだ。少しくたたけば少しく響き、大きくたたけば大きく響く。もしばかなら大きなばかで、利口なら大きな利口だろう」といったが、坂本もなかなか鑑識のあるやつだよ。
西郷は、どうも人にわからないところがあったよ。大きな人間ほどそんなもので、小さいやつなら、どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうでないのう。子どもを教育するには、よほど気を付けんといかん。あまり学問学問といっていると、口ばかり達者になって、じきに親父(おやじ)をやりこめるようになるよ。今の若い連中には、おれはとてもかなわない。しかしそういう息子のある家の庫(くら)には、遠からずくもが巣を張るよ。
これは一家のことばかりではない。一国もまたそのとおりで、人民が理屈ばかりいっておっては、おっつけ貧乏してしまうだろう。------------------------------------------------------------------------------
「もう君(政府)には頼まない」「もう一度自分らでやり直す」という律令(出羽守)政治から御成敗式目政治への故事の(その本質は「こんなゴワゴワな身体に合わないお仕着せ服を着続けられない」という精神改革でした)再来はあるでしょか。
古代中世においては、当時の権威者だった出羽守たちが当時の日本人に従うようにと押し付けてきたのが「隋唐の舶来統治思想」でしたし、そのための革命政権でしたが(以前このブログで聖徳太子と昭和天皇に関連して言及したことがありますね)、結局それを変えてしまったのは地方の豪族たち、のちの武士団でした。
さて、「出羽守からの離脱」=「利口者に見せるために周囲に合わせて裸の王様を褒めたたえて生きる」というその場限りの自己保身からの離脱(自分自身で考える)を、日本人は「もう一度」始められるでしょうか。