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長い中断期間に入る前に掲げていた「あんずのお母さん登場回」とうとう実現できました。
いや、よかったです。
でも、関西弁のテンポというか調子は、ほぼAIにお任せだったので、かなりあやしいし、言い回しも大阪人ぽいのかどうか分かりません。
なんちゃって大阪弁ですが、関西人以外の方々は、そもそもツッコミどころが分かりにくいと思うので心配してませんが、本物の大阪人の方がいらっしゃったら、おかしなところがあっても、そこは笑ってスルーしておいてください。
でも、関西弁でしゃべくるというか、まくしたてると気持ちいいですねえ。
あと前回迷っていると書いていた「やまとくん」の扱いですけど、これはあんずの叔父さんに決めました。YouTubeといえば、ゆっくり解説系のAIボイスが一番有名だと思うんですが(VTuber系はほとんど見てないので感想がありません)、関西弁のAIボイスは貴重系だと思います。
絵の方はヘッドを別の衣装や身体に挿げ替えて使ってますが、ほんとは自分で絵が描けたら一番いいんですけどねえ。絵自体は好きでしたよ。小学校6年生のときは特に漫画作成に熱中しました。当時の参照漫画家さんは横山光輝だったですけど。あとシナリオとかも書きました。
シナリオに沿って漫画描こうって企てたことが小6のときにあったんですよ。そのシナリオを書き連ねた手帳が無くなりました。絶望していたら、近所の友達から面白かったと言って返してもらいました。話を聞くと、私の弟から回ってきたという話で、私に無断で隠れて読んで、それを外に持ち出し、それが私の遊び仲間みんなに回っていったらしいという話でした。で、続きを要求されたんですが、秘密の企てとして始めたことだったので、思いがけずバレてしまったことが自分には恥ずかしくて相当にショックだったので、その事件を境に漫画家はあきらめました。3か月くらい(たぶん)の夢でした。
私左利きなんですよ。でも小学校に上がる前に母に字を右手で書くように矯正されました。母親の奇妙さは、箸や絵筆はこれまで通り何にも言わなかったことでした。
それで小学校中学校と、字は右手で書き、図画工作とか美術とかの時間には筆を左手で持って描いていました。
高校に上がると音楽を選択したので、それ以来、左手で絵を描くことがなくなりました(高校卒業したら絵を描く機会なんて普通は来ない人が多いでしょう、利き腕にかかわらず)。なので、動画を編集するときにも、マウスはそもそも右手用にできていますから、修正のための線入れやら色付けも右手でやってるわけです。そもそもギターとかも右利き用でしたし。ポール・マッカートニーとかジミヘンみたいに強引に左利きモードでチャンレンジすることはありませんでした。
最近では、ペンタブは安く出回ってるようですから、手に入れたいとは思うんですが、そのときは左手でまた描き始めたいと思っているので、そんなことができるのかまだ十分に情報を吟味していないので、左手OKであるならば、タブレットを購入したいと思ってます。PR -
YouTubeの抹茶ラテのホーム画像を更新しました。
これはかつて当ブログで、「関西弁でしゃべるあんずのお母さん登場構想」を書いたことをちょっとだけ前進させた結果です。
かつては五人のキャラクターでやってましたが、最終的には「七人にしようかなあ」と思っていたので、ようやく一部「目に見える化」できました。
「七人化計画」を思いつかせた原因は、私が利用しているAI Talk3には関西弁バージョンがあったことです。AI Talk3には、これまでの動画作成では、まだ使っていなかった関西弁イントネーションの女声と男声が一人ずつあるんです。
せっかく持ってるんだから、なんとか活用したいと思ってました。それと「名探偵コナン」に出てくる、ネットでは「せやかて工藤」で有名な服部平次とそのおかんのキャラ立てが妙に印象深くて、「ああゆう感じ出せたらいいのになあ」と思いながら、過ごしてました。
ただ、すでにブログのバナーの中にもスーツ姿のお兄さんが出てますが、これを抹茶ラテの同僚にすべきか、あんずのおかんの弟にするか、まだ迷ってます。
還暦過ぎた、いい歳こいたおっさんが、こういうことを「あれはどう、これはどうかな?」と空想しながら、「目に見える化」に苦闘してるなんて、30歳のころの自分に予想できただろうか、と思うと自分が今やってることが不思議でなりませんよ。
でも、こういうチャレンジ目標が目の前に現われたので、YouTube投稿を続ける気持ちが消えなかったんだと思います。もし、ただ単に、シュタイナー本の解説話だけを淡々とやるだけだったら、自分にとってきっと退屈で、おそらく早々にYouTubeから撤退してしまったんじゃないかと思います。
まだ20代の後半だったころ、世の中では女子たちが老いも若きも皆、なにかと言えば「カワイイ」を連発していて、エンピツ見てカワイイ、ご老人を見てカワイイと言う。
「カワイイって何、なんでアレがカワイイの?」と不思議でならず、たまたま女子社員と車で仕事場に移動する最中に、隣に座っていたその彼女に「カワイイってどういう意味なの? オレ美人なら分かるし、区別できるけど、カワイイの基準が分からねえ」と言うと、「えーっとですねえ、胸がキュンとなることですよ」と答えました。でもそのときはやはり「?マーク」をつけたまま公道を走っているオレだったですよ。
清少納言が「小さきものはみなうつくし(かわいらしい)」と言った気持ちも今はよくわかるようになりました。というか「翁化(=老人化)」すると、みなそんなふうになってゆくもんなんでしょうかねえ?ところで、今使っているブログのバナー部分は、ブラウザのズームによって、見え方が変化してしまいます。もともとそういう仕様のものなので、知識のない自分には、ズームに応じて、ページ全体が均等に拡大縮小する「普通のページ構成」にすることができませんでした。
しかし、しばらくはこの状態で維持していこうと思ってます。 -
ようやくYouTube投稿再開しました。
1年間何をしていたのかというと、病院通いです。
まあ、それも一応落ち着いたので、「やる気スイッチ」が入りました(といっても気紛れスイッチなので、いつまで続くか分かりませんが)。
再開後第一弾
第二弾
しかしシュタイナーコンテンツって、他のシュタイナー投稿者さんたちの動画同様、ほんと人気がないですよねえ、大量に翻訳書籍が出ていて、今なお新刊が出版され続けているのに、です。
100年前、シュタイナーはヨーロッパにおける人智学の受容状況を以下のように語ってましたけど(『歴史兆候学』)、それはきっと現代でも「世界的に同じ状況」なんだと思います。
----------人々が人智学を知ろうとしますと、一定の要求がその人々に課せられますが、そういう努力はそれほど容易ではないのです。現在は、精神の変革を叫ぶ扇動家たちがいます。彼らが言うには、人々はただ寝椅子に横になって、楽にしていればいいのです。
そうすれば、高次の自我と神が、あるいは何かそういったものが、人間の中で活発に働くのです。人智学のような難解な諸概念に悩まされる必要などないのです。ただ自分自身の声に耳を傾けて、自由に生きれば、この高次の神秘的な自我が現れて、人々は自分の中に神を感得するというのです。
私の知り合った政治家たちも、人智学に耳を傾けるよりも、もっと楽な仕方で自我を求めなさいと教える神の説教者たちの言うことのほうを好んでいます。最近もある友人が私に語ってくれたのですが、こういう神の説教者のひとりが彼に、そのときはまだその説教者の信者だったのですが、こう言ったというのです。「ああ、私がどんなに愚かであるか、あなたにはとても想像がつかないでしょう」。
それにもかかわらず、「私がどんなに愚かであるか」と告白して、叡智の根源に到るのに賢さなど必要ないことを示すこの説教者は、上にも下にも、いたるところに多くの聴衆を見出しています。
実際、わざわざ難しいことをあれこれと語って、人々に意識魂の課題を知らせようとする者たちよりも、こういう人物たちの話し方のほうが人気があるのです。意識魂の立場で語ろうとする者たちは、四度にわたる進化過程について語るだけでなく、人々が互いに熱を与え合うべきこと、互いに色付け合うべきこと、互いに呼吸し合い、互いに消化し合うべきことを語ります。
こういう事柄を述べるには、一連の書物を読むことが必要になります。それはまったく楽なことではありません。しかし、それを難しいと感じることは、私たちの破局的な時代の諸衝動と無関係ではありません。それは私たちの不幸と結びついているのです。(P144-P145)
近代科学の教育を受け、思考を外なる感性界に従わせようとする人は、自由の哲学に到ることができません。私たちの時代の悲劇は、人々が自分の思考を外なる感性界に従わせるように、と大学で教育されていることです。(P154)----------「笑は174秒寿命を延ばす」というキャッチフレーズの映画がありましたけど、一日一回は笑う瞬間が欲しいですよねえ。この1年間は病院通いだったと言いましたが、最初に健康に不安を感じて、検査してもらいにいった病院には、以下のような言葉が壁に張ってありました。
一笑百寿
一怒百老
アストラル体をすこやかに保つ秘訣ですよねえ。
自分で絵を描かずにフリーの素材を加工して動画を作成してますけど、一応Moho Pro12とかPoser12とか持ってるんですけど、「今日もまた始められなかったソフト」の仲間のままです。
結局、今回は、Windows10のペイントを使って、あんずのクチパク画像を数枚作り、それをGIFにして、さらにそれを録画して、動画に加えました。ちっとだけ進歩してうれしいですよ。
でもそんなことをしなくても、AviUtlの作業場に直接画像を並べていけば作れたんですよね。キャラのアニメーション化については、いろいろ研究してみたいと思ってます。
アニメ「ヒナまつり」に登場する「ごはん」という「名台詞」を引用させていただきました。 -
さて、次は、近代英語の口語訳旧約聖書に登場する有名な神との対話の話から始める。
旧約聖書には、モーセがシナイ山で「あなたは何という名の神ですか」と尋ねると「I am who(that) I am」とその神は答えた、書いてある。
I am who I amという言葉を、たとえばGpogle翻訳にかけてみると、至極シンプルな訳語が現れる。それは現代日本語訳聖書に 出ているような「分かりにくく大仰な表現」(というか、おかしな日本語)ではなく、誰にでも了解できる表現だ。
Google翻訳は、「私は私だ」と訳している。
本来のヘブライ語(母音添付版)表記はどうなっているだろう。ネット上で検索すると以下の表記が代表例として出てくる。
Ehyeh asher ehyeh.
ルドルフ・シュタイナーの『悪の秘儀』邦訳版には
Ehjeh asher ehieh.
と出ているが、誤記だろうか。
「I am who I am ヘブライ語」で検索をかけると、「Ehyeh asher ehyeh」に対応する英単語は「am who am」で、主語の「I」が省略されている。英語ではそれを補って「I am who I am」と表現している、などと説明を試みている。(参考)けれども結局、日本のキリスト教関係者たちは、ヘブライ語を英語化するときに使われた理屈と経緯をもとに説明をしているので、「あれもあり、これもあり」で、最後まで読むと何か煙に巻かれたような、言いくるめられたような気分になる。さらに検索を進めて、他の記事を読んでも、結局、「言いくるめようとしている」としか感じられなくなる。
ルドルフ・シュタイナーは『美しい生活』で
古代ユダヤには「ヤハウェ」という言葉がありました。この言葉は「私」と同じ意味です。(P167)
と語っている。しかも「私=ヤハウェ」という言葉は「準備のできた祭祀しか声に出して語ることができない言葉だった」とも語っている。
そういう「前提」があるなら、旧約聖書の該当箇所に「I」抜きの表記がなされていたことも一応の納得はいく。
I am who i amという言葉は、最終的に新約聖書のパウロの言葉「私の中のキリスト」に接続すると考えないと「大団円」しない。小文字の〈i〉のなかに現れる、大文字の〈I〉である。
I am who i amのwhoのニュアンスをwhrereと置き換えて読み直してみるならば、「I am where i am=私は私が存在する場所にいる」になる。
ヤハウェ=キリストであるならば、「ヤハウェ=キリストは〈私〉が存在する場所にいる」となる。
そもそも名前を問われて「名詞」で応えていない点で、「この文章は通常のルールから逸脱している」と感じるのが普通だろう、「何か裏がありそうだ」と。けれども学者たちが苦闘したのは、その「裏側の何か」を探求することではなく、「どのように他の言語に表記変えするか」ということだけだった。そして奇妙な訳をして、「そのまま受け取って使いなさい」と言ったのだった。
福音書には、イエスが「崩壊した神殿を三日で再建できる」という言葉を周りのユダヤ人たちが「文字通り」に受け取るシーンが出てくる。けれども読者は「ああ神殿とはイエス自身の肉体のことだったのか」と理解できるような書き方になっていることが、後になって読者自身によって理解できる構成になっている。聖書には「発言者の本意」と「受け取り手」の解釈が、ズレてしまう個所が頻繁に出てくる。今日でも「受け取り手」は「通俗側」に寄り、ある表現を読んで、すぐに唯物論者的な感性で「連想解釈する自分」に疑いを持たずに生きている。
古くは「Frankie goes to hollywood」、最近では「Kiss my foot2」などなど、「文章全体を名詞扱いにして名前の代わりとする」などという例は近年やっと人類の間に出現した「名付け方法」だ。古くからの慣例、本来の名づけ方から言えば西洋であれ東洋であれ「異端的なやり方」だった。
「町に行って〈I AM〉と言いなさい」ではなく、「町に行って〈I〉という方がいらっしゃる、と言いなさい」と解釈した方が、そのもやもやがすっと解消する。
そして,その〈I〉とはのちにパウロによって〈キリスト〉と〈宣言〉されたのである。しかしその〈I〉in 〈me〉の本当の種明かしは、これから個々人に直接やってくる、というのがシュタイナーの語ったことである。
公教的キリスト教に「学術的」に(つまり研究技法における唯物論的手続きを用いて)接近する人々は、表現の裏に込められた秘教的な意図を無視せざるを得ないので、解釈が今日の唯物論的な説明に慣らされた人々に違和感を感じさせないような穏当な説明に終始するしかない。
記紀の神話は古代人の秘儀参入の過程を描いている、ということ知らない人々が、通俗的な解釈をする自分の「現代的な感覚」(試験でさんざん訓練されてきた通俗的文書の読解力)を疑うことを知らずに、自信たっぷりに百科事典的な解説をするのと同じである。「英語圏の学者たち」によって解釈された聖書をもとに日本人にキリスト教とは何かを説明する人々が日本でキリスト教の専門家を自認している。
「私は私。オレはオレ」ならば、日本人も、自分が一本筋を通そうとするときに、一度は口にしたことのある表現だろう。
日本語ならば、「私は私だ」は、言語感覚的にも文法的にまったく問題ない表現である。
しかし英文では文法的に、また「彼らの言語感覚」的に言って
I am IとかI have I.
とか言うのは奇妙に感じるので、関係代名詞を使って「自分たちが言語感覚的に受け入れられるようなもの」として「翻案」したのだ。
このシンプルな「私は私だ」という自己紹介文を、「日本人には解釈不能な翻訳文」にしたのが西洋人たちだった。
邦訳聖書版では、日本語の言語感覚通りに
「私は(あなたたちが)私(と呼んでいる者)だ」と訳すべきだ。
そして「私は〈我有り〉だ」とか「私は〈有りてあるもの〉だ」とか、およそ日本人一般の言語感覚としても「無理筋の翻案」を行って、信者たちに「そのような変な日本語」を平気で押し付けてきたのが、言語感覚においても西洋感覚追従主義の後方支援部隊として活動する「日本のキリスト教関係者たち」だったと、俯瞰的な視点を持つべきである。
前回書いた通り、通りで誰かに出会って「我(I)は海の子、して、我(you)はどこへ行く」と言っても相手に通じたのが彼我感覚の分離の弱かった古い時代の日本の田舎人だった。
キリストの影(反射光)たるヤハウェは、モーセに対して「自分は人類が一人称として使う(I)だ」と言っているのだ。
人類にとって「私」とは自分を意識するときに自分だけに向けて使う言葉である。しかしキリストは人類が「私」という言葉を感じ発するとき、同時にそれはキリストでもあると暗示したのだった。「私」を指して使われる言葉の対象がキリストだということがありえるだろうか。
キリストは「私は人類が自分を指してIというときのIなのだ」「私は人類のIなのだ」と宣言することで、つまり人類の自我の中心になることで、はるかな古代に開始された輪廻転生体験がもっと普通の人々にも有効に働くようになるように、つまり「修行に耐える素質のない弱き霊魂たち」にも価値ある体験になるように、人類の体の中に降臨して、人となり、人の苦しみを経験し、死を体験することで「ルシファーに汚染されていない体」「それでもって天界へ帰還できる朽ちない体」「天使の体」を人類に手渡せるように新生させるため、そのような道行になる未来を、あらかじめモーセの前で告げたのだった。
最終的にモーセは何の神に祈りを捧げたのだろう。旧約聖書にははっきりと書かれていない。けれども、不思議なことに日本人である大貫妙子が「アヴァンチュリエール」という歌の中で、答を出している。なぜそんな歌詞を思いついたのか謎ではあるが。
太陽の神に祈りを捧げる
その時海は二つに割れ
逃れる人々の道をつくる
物質界の人間生活では「あの人は仮面をかぶっている」と言われたりするが、霊界と物質界の関係で見れば、「あの人は仮面をかぶっている」と誰かを非難している自分自身が「霊が物質界でかぶっている仮面」、つまり地上という舞台の〈自己表現体〉なのだ。
英語のパーソンやパーソナリティと、ラテン語のペルソナは語源が同じである。ペルソナは仮面を意味する言葉で、もともと仮面を意味していた言葉が英語ではパーソン(人)パーソナリティ(人格あるいは人物像)というように変容して使われるようになった。
本来パーソン(ペルソナ)とは「人間の霊が地上でつける仮面(構成体)」のことだったのだ。本来この言葉は輪廻転生思想と関連付けて考えなければ了解できない「古代感覚に由来する言葉」だった。
仮面は舞台演者たちが、そのつど取り換えて使うものである。仮面があるのなら、それをつけている「本体」が存在するはずだが、アトランティスの崩壊以降、ますます霊界体験を失っていく人類は、あたかも仮面が本人と融合癒着して一体化してしまったかのように「ひとつ」になり、ますます自分たちの由来を忘れ、指導者層が「科学的」というエクスキューズで「公的場面における唯物論的言動」を「公共社会における、遵守すべきプロトコル、正しい時代感覚の表出」としてしまった近代以降は、まったくそのことを忘れて生きてきたのだ。
長期に渡る死後の人間の霊界生活(それは神の一日たる千年にも及ぶ)が生まれ変わりの準備の時期、すなわち霊界の真夜中あたりに到ると、低次の自我、ペルソナの体験記憶を伴って霊界に戻った霊の「自覚力」、つまり「これは私だ」と感じる自我の力をだんだん失ってしまう。
人は「自分の思い出を持ちこたえること」ができない。それはちょうど誰もが地上界の体験で味わったことのある睡魔同様に、強烈な眠気に襲われた人が、覚醒意識、自我感覚を保つことができなくなって、「生きてはいる」けれども、「自己感覚を喪失してしまう」ようにな状況と似ている。
生者の世界では、人は眠る、つまり肉体から離れ、「霊界へ一時帰還する」と、霊界では自己感覚を消失する。しかし秘儀参入者は肉体から離れても、つまり眠っても自己意識を失わない。
キリスト到来以前の世界では、人が新しいペルソナの原像を形成し始める「霊界の真夜中」まで「強い自覚を維持できる人」は稀だった。霊界で「自我を感じ取る力」は弱かったのだ。紀元前6世紀の仏教徒はそれを「自我の消滅」「無我の境地」と見なした。
しかしキリストが自我の模範を携えて地上に下り、地球の霊となった瞬間を境に、人類は地上の肉体の中にありながら意識を失わずに霊界に回帰し、死しては「霊界の真夜中」まで「正気でいる力」「霊界で持ちこたえられる力」を得る可能性を得たのだった。かつては秘儀参入者にしか可能性がなかった力を普通の人々が持つようになる時代を準備するために多くの神々(天使たち)がこれまで共同してきた。
何千年にも渡って、〈自分が本来何者であったのか〉を思い出せなくなっている仮面の主たちを、本来の天使候補者として正気に戻し、天上に連れ帰るために、キリストは地上の人のなかに現れたのだった。
今後、世界は、輪廻転生思想を再発見し、今後、ますます人の霊、人の自我とひとつになるようになる太陽霊の降臨の意味を理解し、受け入れるようになる、というのがシュタイナーの残した予言である。そしてその理解を容易にしてくれる働きを担って個々人に下るのがホーリー・ゴースト(聖霊)だとも言う。
本来聖霊とは死者に対して霊界のみで働く霊だった。聖霊の「聖」とは、「人間のような肉体における弱さを持たぬ霊」であるがゆえに、先頭に「聖」をつけて、そのように呼ばれるのだ。人類が単に救済にあずかるというだけではなく、聖霊の助けによって、人類にキリスト事件の顛末を理解してもらうためである。
「神あるいは宇宙人の人体降臨モチーフ」は戦後、特撮ドラマやアニメーションによって日本発で世界中に発信され続けているものだ。長い間西洋のキリスト教徒たちにとってポゼッションとは悪霊の憑依をイメージ喚起させるものだった。東洋人はよい憑きものと悪い憑きものがあることを知っている。しかも仏教の中にある権化思想は広く東洋の仏教圏諸国に行き渡っている。菩薩の降臨はポゼッション的だが太陽霊の降臨は確かに人体へのインカーネーションであった。
この新しいキリスト教理解は、むしろ仏教の訓育を受けたのち、近代になって自我感覚を強めてきた東洋人にこそ広く受け入れられる福音になるだろうと私自身は感じている。 -
最近、アマゾンプライムで『輪るピングドラム』というアニメを見たんですが(ペンギンで笑いを取ってくるところ好きですよ)、その一話目の冒頭の主人公の独白を聴いて、ふと沸き上がった反応をもとに以下、長文を連ねてみます。---------------------------------------------------------------------
「神様は不公平だと訴えるとき、人は自分の由来を意識していない。」
近代人は、たとえ「死んだら終わりじゃない」と漠然と考えるタイプの人間であっても、幼いころからすでに、「自分たちの日常生活の中に忍び込んでいる様々な通路」を通して、繰り返し繰り返し唯物論的な世界観に従うようにと強いられている。
近代において、そのようにして国民の精神生活の自由に介入してきた一番大きな力が、国家が法を盾に国民に「それに従うように」と強いてきた教育制度であった。そのような制度を通じて、いわば「精神に色づけを施された国民」が、今日のような社会体系を構築してきた。それが成り立ってきたのは、最終的には国民の側が「国家によって自分の精神が色付けされることはよきことだ」と思い、「その強制を受け入れた」からだった。「国家がタダで学をさずけてくださるんだ、いいことじゃねえか」という国民の合意が大規模に形成された結果だった。
そのような「体制」のもとで、国民の一部は、そのシステム維持のためのメンテナス要員、つまり官僚になったり、大学、マスコミ、広告会社に到るまで、言葉や映像イメージを操る産業に従事して「選別された特定の言葉遣いや、それに基づいた編集されたイメージの群れ」を再生産し続けている。
現在も続いている、国家が国民に「何をどのように考えるべきなのか」を強制するシステムは、もともと西洋において国民の人選システムとして設計されたものだった。近代以前の古い身分制社会を打破し、「支配層は何を尺度にして形成されるべきか」という近代的実験の結果が、今、われわれが眼の前で見せられているものである。
これまで何度も「私」が地上世界に伸ばしてきた肉体への絆は、この地球の歴史の時間軸の中でたった一本しかないと思うような感受性を、意識的にせよ、無意識的にせよ、長い時間をかけて醸成されてきたならば、人類は「今の私」への関心だけで、歓喜したり悲嘆にくれたり、死にたくなったりするしかないだろう。
特に戦後から今日まで、物質界とはまったく様相が異なった霊界から、まったく勝手の違う競争社会へ降りてきて、強力な模倣衝動、あるいは適応衝動によってペルソナを形成する時期の子供たちにとって世界は、〈愛しくて仕方がない自分のペルソナ〉を傷つけようとしてくる魔物のようなものとしてますます受け止められるようになってしまった。そして現代に至って、自分の運命は福引の回転するガラガラ(あるいはガチャ)から飛び出してきた玉のようなものだと見なしはじめている。
近代の始まりのとき、日本国民は「国家がタダで学をさずけてくださるんだ、いいことじゃねえか」「さあ、おれたちも出世ゲームに参加できる素敵な世の中がやってきた。息子よ、お前は末は博士か、大臣か、いったいどっちになるよ」と希望を膨らませて、新しい社会を受け入れたのではなかったか。だが、そのような希望の時代は、すでに峠をこえて、むしろ日本の子供たちは社会に参加すること自体を恐れるようになってしまった。
希望の掛け声は絶望の掛け声と「同じ言葉」だったことに、今の国民は愕然として気づいている。今となっては、自分のペルソナをそのような社会の不条理から守り抜きたいのに守り切れないという絶望感は、かつての日本の子供たちよりも強いだろう。
けれども、その場所にいる間に、この唯物論ベースで成り立った社会感覚とは異なった思考態度、「新しい世界の理解の仕方」と出会うことがなかったならば、その霊界由来の魂は、ますますこの「人選ゲーム世界」としか認識できなくなってしまった現代社会の空気のなかで、窒息状態になり、若くして老人のように硬化していくしかないだろう。
「将来、唯物論が克服されることがなかったら、子供は震えながら生まれてくるようになるだろう」(ルドルフ・シュタイナー)。
もし「死にたいと思っている今の私」の前の私、そして未来の私は、現在の私とはまったく違った気質や性格、性別、人種、国籍の所有者だろうと思うことができる時代に生きているなら、「嘆き方」も「異なったもの」になっていただろう。
そして神様に「私の苦境を救ってほしい」と願うとき、まだ輪廻転生やカルマの思想にとことん深く触れておらず、「瞑想の対象として徹底できていない人」は、とくに輪廻転生思想を他宗派的だと見なして受け入れようとしない近代西洋のキリスト教徒たちは、自分のペルソナを救ってほしいと祈っていることが分からない。
彼らや彼女らは「私のペルソナ」、つまり「ルシファーによって物質界にもたらされた構成体」を、それが求めるような魂的満足を得られる状況にしてほしいと祈っている。
現在、人類が「人間」と呼んでいるものは、正規の神々とルシファーとの合作品であり、ルシファーの不正な介入(それをキリスト教では堕罪と呼んでいる)によって物質界に出現させられてしまった〈特殊な構成体〉なのだという視点が欠けているからだ。
2000年前、多くの「聞く耳を持った人々」の前でキリストが「あなたがたなら私の言っていることが理解できるだろう」と判断することができたなら、「私は〈アナタが自分だと思っているもの〉を救いに来たのではない。ほかならぬ〈アナタによって妨げられてきたもの〉を育て上げ救い出すためにきたのだ」と告げたことだろう。
しかし当時、「今われわれが読むことができる福音書」に出てくる多くの人々の前で、実際にそう告げて回ったら、誤解され、
「えっ、私を救いに来たんじゃないのか。それなら、なんであんたを敬う必要がある。とっとと、どこかへ行ってしまえ」
と、そのようにあしらわれるのが関の山だったことだろう。
そして布教は福音書に記述されているものよりも更にもっと困難になったことだろう。実際には多くの奥義がその難解さゆえに少数の弟子たちの間のみで秘密にされ(これは福音書にも出ている話)、一般の人々には比喩で「人類の進むべき道」を分かりやすく語ろうと試みるということが「その時代の人類の理解力あるいは許容力に対しての限界」だった。
一方で、人生は一回きり。そういう世界観のなかで西洋人は「自己感覚」というものを鍛えてきた。けれども、キリスト教成立以前には西洋世界にもあった古代由来の輪廻思想は、完全に西洋人のマインドから目隠しされてしまう。
近代文明の中で生み出された西洋産のドラマや映画には、キリスト教徒を自認している人物が「こんなに祈ったのに助けてくれなかった。私は神を憎む。私は神を許さない」と「反対側へ飛ぶシーン」が頻繁に出てくるようになる(これは東洋的感性とは異なった、唯物論ベースのマインドで生きるようになった近代西洋人に頻発する心理反応だと思う)。
輪廻転生を繰り返すたびに霊(あるいは高次の自我)に紐づけされて地上に出現する〈ルシファー構成体〉、つまり、現在のところ人類個々によって「自分自身だ」と「感じられているもの」は、キリストによって救い出される、今のところ「天使の体を破壊されたまま、地上にほってかれている霊」の、その記憶のなかに生きることになる「生まれ変われないペルソナ」、そのたびに霊によって取り換えられてきたペルソナ(仮面)だった。
救済されるのは、例えば、ある時代の、ある人種民族国家に属しており、ある地方都市で暮らしている二児の父や母をやっていると思っているキリスト教徒たる自分(そのパーソナリティ)ではない。
物質界にパーソンとして何度も出現するようになったものは、その始まりにおいては、もともと神々の失敗作だった。しかし元天使候補生たちが失敗作になったのは、彼ら自身の責任と言うよりも、ルシファーが人間の魂に時期尚早に介入したためだ。神々は「その結果」をそのままほっておいてもよかった。神々は自分たちの課題だけを追求する選択もあったのだ。
けれども、今の人類は「汚染された箇所を持つ神々の失敗作」ではあっても、まさに「その汚染された状況」を「最初の素材」として、その悪しきものが、未来の良きものに変容するように、物質界における人類の認識の誤謬と錯誤の結果に対抗させようと、死や痛みや苦悩に遭遇するチャンスを与え、また輪廻転生を通じて繰り返し魂磨きをするようにと、初期の失敗を「補完する計画」を人類に与えたのだった。
けれども、キリスト到来以前においては、特別に素質に恵まれた強い霊魂以外、長期に渡る困難な修行を行って、霊界への帰還を完遂する(秘儀参入者となる)ことはできなかった。当時の人類にとって、釈迦のような修行の道は、誰もが歩み通せる道ではなかった。
人智学で言う自我感覚とは利己主義マインドのことではない。人の霊が「接触感覚(自我感覚)」を用いて「私」を感じるとき、「この身体に接し、この魂の中で喜怒哀楽しているのは私だ、という感覚」には差があるという話をしている。(自我感覚ではないが、白人は傷を負ったとき、痛みに弱いと言われることがあるのは、〈身体内部からやってくる音〉を他人種よりも強くグリップするからだろう。)
人間の身体の接触感覚性をマイクロフォンに例えるなら、西洋産マイクロフォンで音を拾うと、東洋産マイクロフォンよりも明瞭な音声を「高感度(強い入力レベル)で拾い上げる」ことができたという話である。
歴史的に、東洋人と西洋人の身体とでは、自分を個我として感じる力に「感度の差」が存在した。日本では戦後においても、田舎では特に、一人称と二人称の混同共用が起きていた。彼我感覚が分離していない状況があったが、それも21世紀の現代となっては方言感覚はますます弱まって、若い人たちは特に、かつての日本人よりも自己感覚が強まっている。
西洋近代の初め、大航海時代の機運に乗って西洋から日本にやってきた宣教師たちは、他の教えを邪教と見なし、キリスト教を最高の教えとして称揚していた。しかし、ある農民が「じゃあ、キリスト教徒でなかった死んだ私の先祖たちは救われるのか」と質問すると、宣教師たちは答に窮して黙り込んでしまう。
すでに何百年にも渡って、日本人は仏教由来の輪廻転生思想を日常生活のなかに受け入れて生きてきたが、当時の西洋人たちはそうではなかったのだ。
西洋社会においては、彼ら宣教師の時代には「これが私の先祖たちだ」とイメージできる範囲の人々は、すでにみんなキリスト教徒だったからだ。だから西洋のキリスト教徒は「今地上に生きている私のペルソナ」の救済だけにかまけ、「先祖の心配」をしないで済んだのだった。「私とは何か」についての関心を「前へ進めることができなかった」のだ。
戦国時代の日本の農民は、こう思う。
宣教師たちは「人間は生まれ変わらない。生前キリスト教徒だった者は、死後の世界でキリストに声をかけてもらうまで待機しているのだ」と主張している。そうなのか、キリスト教では先祖を救えない。先祖を救えない舶来の教えは、我々の知っている、もう一つの愛と慈悲を説く教え、仏教よりも劣る。
当時の日本の農民たちの多くが「キリスト教は自己中心的な了見の狭い教えだ」と感じたに違いない。
すでに愛と慈悲を説く仏教思想によって十分、魂の訓育を受けてきた日本の人々にとって「キリスト教」は自分たちの知っている愛と慈悲の教えよりも劣るものと見なされたのだった。
次回へ続く