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最近、アマゾンプライムで『輪るピングドラム』というアニメを見たんですが(ペンギンで笑いを取ってくるところ好きですよ)、その一話目の冒頭の主人公の独白を聴いて、ふと沸き上がった反応をもとに以下、長文を連ねてみます。---------------------------------------------------------------------
「神様は不公平だと訴えるとき、人は自分の由来を意識していない。」
近代人は、たとえ「死んだら終わりじゃない」と漠然と考えるタイプの人間であっても、幼いころからすでに、「自分たちの日常生活の中に忍び込んでいる様々な通路」を通して、繰り返し繰り返し唯物論的な世界観に従うようにと強いられている。
近代において、そのようにして国民の精神生活の自由に介入してきた一番大きな力が、国家が法を盾に国民に「それに従うように」と強いてきた教育制度であった。そのような制度を通じて、いわば「精神に色づけを施された国民」が、今日のような社会体系を構築してきた。それが成り立ってきたのは、最終的には国民の側が「国家によって自分の精神が色付けされることはよきことだ」と思い、「その強制を受け入れた」からだった。「国家がタダで学をさずけてくださるんだ、いいことじゃねえか」という国民の合意が大規模に形成された結果だった。
そのような「体制」のもとで、国民の一部は、そのシステム維持のためのメンテナス要員、つまり官僚になったり、大学、マスコミ、広告会社に到るまで、言葉や映像イメージを操る産業に従事して「選別された特定の言葉遣いや、それに基づいた編集されたイメージの群れ」を再生産し続けている。
現在も続いている、国家が国民に「何をどのように考えるべきなのか」を強制するシステムは、もともと西洋において国民の人選システムとして設計されたものだった。近代以前の古い身分制社会を打破し、「支配層は何を尺度にして形成されるべきか」という近代的実験の結果が、今、われわれが眼の前で見せられているものである。
これまで何度も「私」が地上世界に伸ばしてきた肉体への絆は、この地球の歴史の時間軸の中でたった一本しかないと思うような感受性を、意識的にせよ、無意識的にせよ、長い時間をかけて醸成されてきたならば、人類は「今の私」への関心だけで、歓喜したり悲嘆にくれたり、死にたくなったりするしかないだろう。
特に戦後から今日まで、物質界とはまったく様相が異なった霊界から、まったく勝手の違う競争社会へ降りてきて、強力な模倣衝動、あるいは適応衝動によってペルソナを形成する時期の子供たちにとって世界は、〈愛しくて仕方がない自分のペルソナ〉を傷つけようとしてくる魔物のようなものとしてますます受け止められるようになってしまった。そして現代に至って、自分の運命は福引の回転するガラガラ(あるいはガチャ)から飛び出してきた玉のようなものだと見なしはじめている。
近代の始まりのとき、日本国民は「国家がタダで学をさずけてくださるんだ、いいことじゃねえか」「さあ、おれたちも出世ゲームに参加できる素敵な世の中がやってきた。息子よ、お前は末は博士か、大臣か、いったいどっちになるよ」と希望を膨らませて、新しい社会を受け入れたのではなかったか。だが、そのような希望の時代は、すでに峠をこえて、むしろ日本の子供たちは社会に参加すること自体を恐れるようになってしまった。
希望の掛け声は絶望の掛け声と「同じ言葉」だったことに、今の国民は愕然として気づいている。今となっては、自分のペルソナをそのような社会の不条理から守り抜きたいのに守り切れないという絶望感は、かつての日本の子供たちよりも強いだろう。
けれども、その場所にいる間に、この唯物論ベースで成り立った社会感覚とは異なった思考態度、「新しい世界の理解の仕方」と出会うことがなかったならば、その霊界由来の魂は、ますますこの「人選ゲーム世界」としか認識できなくなってしまった現代社会の空気のなかで、窒息状態になり、若くして老人のように硬化していくしかないだろう。
「将来、唯物論が克服されることがなかったら、子供は震えながら生まれてくるようになるだろう」(ルドルフ・シュタイナー)。
もし「死にたいと思っている今の私」の前の私、そして未来の私は、現在の私とはまったく違った気質や性格、性別、人種、国籍の所有者だろうと思うことができる時代に生きているなら、「嘆き方」も「異なったもの」になっていただろう。
そして神様に「私の苦境を救ってほしい」と願うとき、まだ輪廻転生やカルマの思想にとことん深く触れておらず、「瞑想の対象として徹底できていない人」は、とくに輪廻転生思想を他宗派的だと見なして受け入れようとしない近代西洋のキリスト教徒たちは、自分のペルソナを救ってほしいと祈っていることが分からない。
彼らや彼女らは「私のペルソナ」、つまり「ルシファーによって物質界にもたらされた構成体」を、それが求めるような魂的満足を得られる状況にしてほしいと祈っている。
現在、人類が「人間」と呼んでいるものは、正規の神々とルシファーとの合作品であり、ルシファーの不正な介入(それをキリスト教では堕罪と呼んでいる)によって物質界に出現させられてしまった〈特殊な構成体〉なのだという視点が欠けているからだ。
2000年前、多くの「聞く耳を持った人々」の前でキリストが「あなたがたなら私の言っていることが理解できるだろう」と判断することができたなら、「私は〈アナタが自分だと思っているもの〉を救いに来たのではない。ほかならぬ〈アナタによって妨げられてきたもの〉を育て上げ救い出すためにきたのだ」と告げたことだろう。
しかし当時、「今われわれが読むことができる福音書」に出てくる多くの人々の前で、実際にそう告げて回ったら、誤解され、
「えっ、私を救いに来たんじゃないのか。それなら、なんであんたを敬う必要がある。とっとと、どこかへ行ってしまえ」
と、そのようにあしらわれるのが関の山だったことだろう。
そして布教は福音書に記述されているものよりも更にもっと困難になったことだろう。実際には多くの奥義がその難解さゆえに少数の弟子たちの間のみで秘密にされ(これは福音書にも出ている話)、一般の人々には比喩で「人類の進むべき道」を分かりやすく語ろうと試みるということが「その時代の人類の理解力あるいは許容力に対しての限界」だった。
一方で、人生は一回きり。そういう世界観のなかで西洋人は「自己感覚」というものを鍛えてきた。けれども、キリスト教成立以前には西洋世界にもあった古代由来の輪廻思想は、完全に西洋人のマインドから目隠しされてしまう。
近代文明の中で生み出された西洋産のドラマや映画には、キリスト教徒を自認している人物が「こんなに祈ったのに助けてくれなかった。私は神を憎む。私は神を許さない」と「反対側へ飛ぶシーン」が頻繁に出てくるようになる(これは東洋的感性とは異なった、唯物論ベースのマインドで生きるようになった近代西洋人に頻発する心理反応だと思う)。
輪廻転生を繰り返すたびに霊(あるいは高次の自我)に紐づけされて地上に出現する〈ルシファー構成体〉、つまり、現在のところ人類個々によって「自分自身だ」と「感じられているもの」は、キリストによって救い出される、今のところ「天使の体を破壊されたまま、地上にほってかれている霊」の、その記憶のなかに生きることになる「生まれ変われないペルソナ」、そのたびに霊によって取り換えられてきたペルソナ(仮面)だった。
救済されるのは、例えば、ある時代の、ある人種民族国家に属しており、ある地方都市で暮らしている二児の父や母をやっていると思っているキリスト教徒たる自分(そのパーソナリティ)ではない。
物質界にパーソンとして何度も出現するようになったものは、その始まりにおいては、もともと神々の失敗作だった。しかし元天使候補生たちが失敗作になったのは、彼ら自身の責任と言うよりも、ルシファーが人間の魂に時期尚早に介入したためだ。神々は「その結果」をそのままほっておいてもよかった。神々は自分たちの課題だけを追求する選択もあったのだ。
けれども、今の人類は「汚染された箇所を持つ神々の失敗作」ではあっても、まさに「その汚染された状況」を「最初の素材」として、その悪しきものが、未来の良きものに変容するように、物質界における人類の認識の誤謬と錯誤の結果に対抗させようと、死や痛みや苦悩に遭遇するチャンスを与え、また輪廻転生を通じて繰り返し魂磨きをするようにと、初期の失敗を「補完する計画」を人類に与えたのだった。
けれども、キリスト到来以前においては、特別に素質に恵まれた強い霊魂以外、長期に渡る困難な修行を行って、霊界への帰還を完遂する(秘儀参入者となる)ことはできなかった。当時の人類にとって、釈迦のような修行の道は、誰もが歩み通せる道ではなかった。
人智学で言う自我感覚とは利己主義マインドのことではない。人の霊が「接触感覚(自我感覚)」を用いて「私」を感じるとき、「この身体に接し、この魂の中で喜怒哀楽しているのは私だ、という感覚」には差があるという話をしている。(自我感覚ではないが、白人は傷を負ったとき、痛みに弱いと言われることがあるのは、〈身体内部からやってくる音〉を他人種よりも強くグリップするからだろう。)
人間の身体の接触感覚性をマイクロフォンに例えるなら、西洋産マイクロフォンで音を拾うと、東洋産マイクロフォンよりも明瞭な音声を「高感度(強い入力レベル)で拾い上げる」ことができたという話である。
歴史的に、東洋人と西洋人の身体とでは、自分を個我として感じる力に「感度の差」が存在した。日本では戦後においても、田舎では特に、一人称と二人称の混同共用が起きていた。彼我感覚が分離していない状況があったが、それも21世紀の現代となっては方言感覚はますます弱まって、若い人たちは特に、かつての日本人よりも自己感覚が強まっている。
西洋近代の初め、大航海時代の機運に乗って西洋から日本にやってきた宣教師たちは、他の教えを邪教と見なし、キリスト教を最高の教えとして称揚していた。しかし、ある農民が「じゃあ、キリスト教徒でなかった死んだ私の先祖たちは救われるのか」と質問すると、宣教師たちは答に窮して黙り込んでしまう。
すでに何百年にも渡って、日本人は仏教由来の輪廻転生思想を日常生活のなかに受け入れて生きてきたが、当時の西洋人たちはそうではなかったのだ。
西洋社会においては、彼ら宣教師の時代には「これが私の先祖たちだ」とイメージできる範囲の人々は、すでにみんなキリスト教徒だったからだ。だから西洋のキリスト教徒は「今地上に生きている私のペルソナ」の救済だけにかまけ、「先祖の心配」をしないで済んだのだった。「私とは何か」についての関心を「前へ進めることができなかった」のだ。
戦国時代の日本の農民は、こう思う。
宣教師たちは「人間は生まれ変わらない。生前キリスト教徒だった者は、死後の世界でキリストに声をかけてもらうまで待機しているのだ」と主張している。そうなのか、キリスト教では先祖を救えない。先祖を救えない舶来の教えは、我々の知っている、もう一つの愛と慈悲を説く教え、仏教よりも劣る。
当時の日本の農民たちの多くが「キリスト教は自己中心的な了見の狭い教えだ」と感じたに違いない。
すでに愛と慈悲を説く仏教思想によって十分、魂の訓育を受けてきた日本の人々にとって「キリスト教」は自分たちの知っている愛と慈悲の教えよりも劣るものと見なされたのだった。
次回へ続くPR -
明けましておめでとうございます。
YouTubeへの動画投稿が停止してますが、今年はなんとか再開したいなあと思ってます。
ここ数日はウェブ上で遊べる「安定拡散オンライン(笑)」、つまりStable Diffusion Onlineサイトで、プロンプトを(その界隈では〈呪文〉と言われているようですが)打ち込んで、何が出てくるか楽しむ、つまりワロたり、「もうちょい惜しい」と思ったり、「おお」と感心したりする、といういうようなことをやっておりました。
何が飛び出してくるか、まったく想像がつかないし、そういう意味で、〈呪文〉で遊んでいる人にガチャ的な感覚を引き起こさせるんですが、「安定拡散オンライン」は「同じ絵を二度と吐き出さない」という特性を持っているようなので(多分)、まさに一期一会の観賞タイムとなっておりました。
実際にはいろんな呪文を投入して、写真系からアニメ絵系までいろいろ吐き出してもらいましたが、まだまだ精度的には「安定」してないです。(ちなみに最初に4枚の絵が現れますが、右上の「Generate image」ボタンをクリックすれば次の「提案」がまた4枚吐き出されます。延々とボタンをクリックして変化を楽しむことができるので、かなり暇つぶしになりますね。
この絵画AIは、heavenという一単語だけで美しい風景画を吐き出します。そういう「連想動作」をするように構成されています。人間が今のところその具体像を空想できないでいるところの、「あの世」は描けません。AIにとって人間が考えるheavenとは「美しい自然」のことなのです。「よいか、皆のもの、ヘブンは地上にあるのじゃ」みたいな……。
じゃあhellは?
おお、往年のハードロック(AC/DCみたいな)、あるいはヘビーメタル系のアルバムジャケットにしたくなるような一品じゃないですか。そういうわけで、hellと呪文を唱えると、AIは極彩色から一転、モノトーン系の暗い色を使って絵を吐き出します。
参考絵は示しませんが、ゴッホとかパウル・クレーとか入れると、まさにそのような絵を吐き出してくれます(ほんと面白いですから「まだ呪文を唱えていない方」はぜひサイトに飛んで、ゴッホとかパウル・クレーとかピカソとかで遊んでみてください。呪文はもちろん英単語を入れます。つづりはネット検索すればすぐ手に入りますので)。この手の巨匠絵画の吐き出しは違和感ないですが、日本的なアニメ絵を上手に吐き出させるにはまだまだAIのほうの学習も必要なんじゃないかと思います。
ネット上の記事によりますとNovelAIのほうがずっとクオリティが高い絵を合成してくれるようです(ただし課金式です)。
まあ、私の場合、金を払ってまで「絵画ガチャゲーム」をやろうとは思っていないので、何か動機になるようなきっかけがないと、NovelAIを試しには今のところいかないだろうと思ってます。
以下のGIFは比較的完成度の高い画像を10枚集めて作成したものです。
「呪文」は「two cute girls,Japanese animation,city」
まだまだ未熟な絵ですよねえ。
P.S.いろんな呪文にcyberpunkとかsteampunkとかという「呪文」を混ぜて使うと都市の様子や人物像もかなり変化しますよ。
P.S.2 時間帯によっては、プロンプト記入欄のみで、ネガティブ・プロンプト欄が出てこない場合もあります。アクセス時にプロンプト記入欄が二段になっているときはラッキーです。
たとえば、下段に「black hair」と入れると、これは「髪は黒くしないで」という追加命令になります。つまりnotが付かない単語なり文をそのまま入れます。するとAIの側が「そういう属性は排除せよ」と解釈してくれるわけです。 -
前回の記事内に以下のような個所があった。
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マトリックスのサイファーが戻りたかった場所のことも連想つながりで思い出す。つまり「幸福な生活を感じさせてくれるイミテーション界」への回帰願望のことだが、アーリマンも着々とそういう「イミテーション界」とでも呼ぶべき「地球の楽園」を作ろうと鋭意画策中なんだろう。
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シュタイナーによれば、アーリマンたちが人類の前進を阻もうとしているのは、「人間は霊である」「人類はかつて天使の第四ヒエラルキア(現時点では第四ヒエラルキアが天界から消失し、第三ヒエラルキアまでしか成立していない特殊状況が続いている)に属するリクルート(候補生)だったのだ」という認識であり、一方で推進しようとしているのは「物質界の快適な経験を永遠のものにすることが人類が追求すべき理想だ」と吹き込むことである。
彼らが広宣するのは、「あなたは、今のあなた、今の自己感覚のまま、機械(電気現象)の中の永遠をめざせ」というアジテーションである。
「イミテーション界」という言葉はシュタイナー用語ではなく、私の造語である。
実は、前回、記事を書いたときに、『シュタイナー用語辞典』において、西川隆範氏がまとめていた関連個所のいくつかも思い出していたので、参照先として、以下、紹介しておこう。
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1850年以来、アーリマンによって、機械の世界が地球の超地質層として形成される危険がある。(P19)
1850年以後、アーリマンの作用によって機械世界が地表の層を形成する危険があり、合目的性の追及・官僚主義・技術にアーリマン的傾向が存在する。(P89)
アメリカでは、アーリマン的な技術によって人間を身体(および身体から発する霊性)に縛り付け、イエズス会に支えられて、キリスト認識を不可能にしようとする。(P32)---------------------
シュタイナー本人が存命中の時代は、蒸気機関全盛時代であり、さら晩年には石油の大規模利用の開始、初歩的な電気技術の普及の時代だったが、シュタイナーの言う「超地質層」というのは、当時の人類には「そのあり方」を空想することさえできなかった電気技術を土台にしたネット空間、いわば「疑似霊界」の出現をも意味している思う。この見立てについてはYouTubeの抹茶ラテの秘教学徒内においても言及した。「電気は蒸気機関よりも魔的な技術である」というのがシュタイナーの見立てであった。
「身体から発する霊性」とは、「地上の物質的身体感覚を土台にした精神活動」と言い換えてみる。日本語の「霊」(幽霊という意味の霊ではない)も「精神」も、ドイツ語ではガイストである。アーリマンの仕事は人類の霊界認識を妨害することなので、シュタイナー的観点に立って地上で継起していく現象を観察すれば、人類がその便利さゆえにありがたがっている近代の機械的電気的技術によって地上に出現した世界は「真の霊界(精神界)」をベールで覆い隠すというアーリマン勢力の行っている仕事の延長線上にあると、言うこともできそうだ。
映画「マトリックス」には、実は聖書や神話からの引用がたくさんあるにしても、それは近代人が行っている唯物論的解釈に立ったそれであった。
「マトリックス」は「荒廃した物質界で〈本来の物質的身体〉のなかで覚醒して生き延びようとする人類」が「機械の中で電極につながれて夢を見ている人類」を助け出そうとする〈だけ〉の物語である。そして結局仕事は完遂されてないまま終わる。
サイファーは二者択一を迫られて、イミテーション界に戻る決断をする。機械から解放されて生身の身体のなかで覚醒しても、太陽の見えない荒廃した地上で生きるしかないとすれば、「自分が今理解できる範囲の、今空想できる幸福観」を満たしてくれる世界を選ぶというサイファーの選択は、その他大勢の、唯物論の中で生きる人類の選びそうな一般的解だと思われる。
宮台真司の娘が「マトリックス」を見て、サイファーの選択の感想を求められたとき、「なんでそれがいけないの」と答えたというエピソードはその象徴的な出来事だ(YouTube参照)。
この映画には「霊界」(物質的身体から抜け出なければ行きつけない領域)が出てこないのである。電脳空間とは言っても、それは地上にちゃんと〈物質的身体〉が存在していることが大前提となっている。
生身の身体のなかで覚醒している少数の人間たちは、地上を荒廃しきった地獄同然の世界と見なしている。彼らは機械の世界を滅ぼせるとはもはや思っていない。そして映画の登場人物たちにも映画を見ている観客にも、伝統的な宗教がずっと人類に主張しつづけてきた「人類が本来生きていたはずの場所」あるいは「人類が動物の身体と結びつく以前にいた世界への回帰」に関しては、まったく暗示さえされていないのである。
そしてさらに空想的な「攻殻機動隊」においては〈人類が物質的身体から抜け出して行きつく世界〉が「ある」と暗示して終わる。「ネットの世界は広大ね」という草薙素子の言葉とともに。「ゴーストが鉱物的=物質的機械を土台とした電気のネットワーク現象のなかで生きることができる」という暗示である。こういう発想自体は近代に出現した唯物論的思考の成果である。ただ攻殻機動隊においては、「ゴースト」というのは「あいまいな概念」として物語上で利用されているので、制作側からも、それが何なのかについては明確な言及がない。
近代英語ではゴーストとは幽霊のことになっている。ところが、勝海舟の『海舟座談』に登場する米国における教会体験として「ホーリー・ゴースト、ホーリー・ゴーストで固めて祈ってるよ」というのが出てくる。この逸話に登場するゴーストは「幽霊」を指すのだろうか。
以下『海舟座談』から引用
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アー、西洋では、いつも礼賛堂(教会)へ行ったよ。大層、褒められたよ。世話をしてくれた親仁(おやじ)が極く熱心だったから、その息子などと一処に行くとネ、ホーリー、ゴースト、ホーリー、ゴーストで固めて祈ってるよ。息子が、親仁の祈っているのを指さして、オレの顔を見て笑うのサ。(P96)
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今でもドイツ語では、日本語で言う「(幽霊という意味ではない)霊」も「精神」もガイストである。実は英語でも近代以前は、ゴーストは、「霊」あるいは「精神」を指して使われていたのだ。英語のゴーストとドイツ語のガイストは、口に出して発音してみると、もともと同じ語源から生まれたものであることが分かる。
古い時代の英語圏の伝統的聖書(ジェームズ王の欽定聖書)では、ホーリー・ゴーストとは聖霊を指す言葉であり、かつてはジェームズ王の聖書にもとづいて民衆がホーリー・ゴーストと呼んでいた対象(聖霊)を、近代口語英訳の聖書ではホーリー・スピリットと差し替えて用いるようになったのだ。
そして英語圏の聖職者(その権威筋の認定を受けたキリスト教布教の権威者である人々)が「ゴーストもスピリットも同じです」などと解説をして一般信者の疑問に回答している。
聖霊をホーリー・ゴーストと呼んでいたジェームズ王の聖書時代の英語民だったら、アーサー・ケストラーの「ザ・ゴースト・イン・ザ・マシーン」は「機械の中の幽霊」ではなく「機械の中の霊(精神)」と解釈しただろう。
アニメ映画「攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL」という映画では、さらにゴーストの意味をツイストさせて、「機械の中に宿った霊あるいは自我のようなものがネットの海に溶融する」という暗示を行って終わるのである。これだと無我論の伝統に沿った小乗仏教的「涅槃に入る」の唯物論的翻案である。
近代日本に生きる人々が「霊」という言葉を聞くとまず最初に連想する「対応イメージ」が、人をおどかすところの「幽霊」になってしまったように、イギリスの一般民衆も、そして世界に散った英語圏民も「ゴースト」と聞くと「幽霊」をまず「最初に連想する」ようになったのである。この現象は近代に唯物論が人類の精神を広範囲に侵すようになった副産物でもある。
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英米の結社は人類に「霊は高次の自然にすぎない」と思い込ませる。『シュタイナー用語辞典』(P165)
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これは9世紀にカトリック教会が「人間は霊と魂と体からなる」という古代キリスト教にあった見立てを否定して「人間は魂と体からなる」というのを正解としたという故事と連動している。カトリック教会は「人間個人は霊を持たない。霊(精神)の部分は教会が受け持つ」と公布して、地上から「霊の真相」を隠したのだ。そして近代の西洋のキリスト教徒たちは霊と魂の区別がもはやつかなくなったまま、教会に通うようになった。
将来において、民衆が「霊」という言葉を聞くと人をおどかす「幽霊」を連想するようになる下地(つまり唯物論的感性)をカトリックが用意したからである。
君子(士大夫たる貴族)は心(精神)を労し、小人(被統治民)は体を労す。(古代中国)
霊(精神)はカトリック教会が担い、人間は魂と体を担う。(カトリック)
共産党は人民の頭脳であり、人民はその体である。(共産党)
これらはすべて、時代や地域は異なれど、被支配民は「精神(霊)」を所有するべきではない、という遠回しな警告であり、貴族統治主義の変奏曲である。そして冷戦後は、民主主義の皮をかぶった官僚統治主義として、資本主義を謳う先進諸国家内においても新手の貴族統治主義思想が「主旋律」に「新しい編曲」を施されて展開中である。
特に聖書は、近代において典型的な通俗的読解娯楽本にされてしまったが、聖書も含め、近代以前に成立していた神話や寓話あるいは童話を、近代人的感覚で受け取って「表現が残虐でけしからん。子供の教育に悪い」とか「ハッピーエンドに改変しろ」などと突っ込みを入れたり、「聖書予言的中、生き残れるか、人類」などと面白がっている感性は、唯物論的に地上世界を感じる以外にできなくなった近代市民一般の「俗物性」「通俗性」の反映でもある。寓話としてのウルトラマンにもそのような「市民に迷惑をかけるウルトラン」という神経質症的突っ込みが「オトナの感性側」から出現し、童話として無意識に子供なかに侵入している霊的な真理をともなうファンタジー部分の意味を見過ごしてしまう。
古代人は神話や聖書や童話に対して、今とは別様の受け止め方をしていたということが、まず前提として近代の知的に奢った一般市民に共有されていなので(彼らの中には敬虔なキリスト教徒を自認している者が大勢いる)、たとえば日本においては、偏差値70の現代文読解力を駆使して「古代の文献の翻訳書籍」が解釈できると思っている。
だが高等数学の教科書も一種の書籍だが、論説文や小説文解釈に強いことを自負している人物は「準備なし」に、「書き手が意図していた内容」を「読み解ける」と思うだろうか。高等数学に関しては、「用語の解釈においても日常的読解感覚で数学の本を解釈してはいけない」ことを「無自覚に受け入れている」のに、古代の文献に対しては「近代人の通俗的感受性」で向き合っていることを自覚できないということこそが、まさにアーリマンにはお気に入りなのだ。
もちろんわれわれが知っている「ネット空間」は「物質界の延長」であり、「霊界」ではない。「そこ」は、シュタイナーが暗示したところの「超地質層」、物質界の地球に付属している世界である。今後ますます、「俗物性普及の王」アーリマンとその軍団(左派)は「空想的熱狂性の王」ルシファーとその軍団(右派)と共闘して人類の抵抗勢力として、より多くの人類を永遠の幸福な地上生活願望に縛り付けるという作業に没頭する。そして「人類を鍛えよ」という、神に託された仕事、「人類に認識の錯誤をさせるという仕事」、つまり「悪のお役目」を完遂させようと奮闘努力していくんだろうねえ。
P.S.
ちなみに「マトリックス」も「攻殻機動隊」映画版アニメ版ともに大好きですよ。
P.S.2
以前、河添恵子が「イギリスが世界に輸出した最大のものは何でしょう?」というような趣旨の質問をYouTubeの動画内でしたことがあった。「うーんなんだろ、帝国主義思想?」と、思いついた言葉を頭の中でもてあそんでいたら、間髪入れずに「英語です」と答えた。その途端、『シュタイナー用語辞典』で読んだことのあった記述が自分の中で蘇った。
----------英米の左道オカルト結社は英語を世界支配言語にしようとしている。(P107)----------
そして今回「ゴースト」という言葉にまつわる英語圏の聖書の歴史に言及したとき、以下の言葉も思い出した。
----------英語では語られたものが精神(霊)に完全に重なる可能性がない。(P107)
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英語は聖書を「唯物論的イメージで頒布する」には最適の言語ツールとしても機能するようになったのではないか、ということだ。
「英米の左道オカルト結社」について西川隆幡氏は具体的な注記をしていないので、いわゆる「あいつら?」と空想するしかないのだが、「左道オカルト結社」といっても「英米系」という但し書きは入っているので「イギリスとアメリカの」ということは分かる。具体的にどんなことをシュタイナーが書いていたか、『シュタイナー用語辞典』から、ご紹介しておこう。
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西洋のオカルト結社は、ドッペルゲンガーと関連する磁気の力を用いて、世界を支配しようとしている。(P129)
3千年紀(21世紀以降に)に世界に輪廻思想が復興するが、心魂が強く地上に捕らわれている英米の男性は、スポーツを盛んにして、輪廻思想を阻止するが、英米では精神生活は女性によって伝えられる。(P32)
西のオカルト結社は、英米が第五文化期を指導するようにし、ラテン系の要素を破壊しようとした。真実を表現するのに適さない英語を世界言語にしようとする左道オカルト結社の影響下にある心魂は、大天使と結びつくことができず、大天使の位階にとどまったアーリマン的なアルカイに捕らわれる。
西のオカルト結社は、人々の心魂を地球に縛り付けて、輪廻思想を排除しようとする。
西の左道オカルト結社は、エーテル界へのキリストの出現をそらせて、エーテル的なアーリマン存在をもたらそうとしている。西のオカルト結社には、アーリマン的な四大元素存在が多数受肉している。(P73)
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今もこの戦いの(アストラル界ではさらに大規模に)真っ最中なんだろうなあ、と思いますよ。 -
今から20年前、つまり2002年、ローランドから「今日からはじめるパソコン・ミュージック」というDTMソフトが発売された。
私がそれを買ったのは発売の年だったのか記憶がはっきりしない。ネット上の話題としてDTMがよく目に飛び込んでくるような時期だったので、自分も興味を持ったのだろうが、うん万円もするDTMソフトに手を出す気はサラサラなかった。
ただ「アア、オレも安いのでいいから、その手のソフトをひとつ持っておきたいなあ」という思いが募ったので、たまたまいきつけの家電量販店で見つけたDTMソフトが安かったので、手に入れたのだった。
私が手に入れたのは、箱に『今日からはじめるパソコン・ミュージック』という名前が付いたDTMソフトだった。
私はそれを5000円くらいで買った記憶がある。一番安い値札がついていたからだった。だが、最近改めてネットで検索したら12000円という記事が出ていたので、「?」と思ってしまった。
参考ページ 新cakewalkの隠された機能
地元の店が安売りしたのか、それともメーカー側が値段を下げて再発売したのか、さだかではない。
買ったはいいものの、それに付いていたマニュアルを見て、すぐに「こんなもん、読めるかい」とやる気を失った。それでも1曲完成させたが、ひたすらマウスをポチる作業の連続で、もうそれでおなか一杯になったというか、ヘとへとになって、それ以降DTMソフトには近づかなくなって20年が過ぎたのだった。
ネット世界が始まる以前、90年代までは録音はカセットテープの時代だった。
中学3年の時、友人からラジカセを3日の約束で借りて、自分のラジカセに録音したものを流しながら、リードギターなんぞを加えて、またそのテープを流しながら、もう一方のラジカセの前でハモリを入れたり、いろいろ加えて、録音してというふうに、そういう作業を何度も繰り返して、1曲を完成させた。音質は最悪である。
それを友人に聞かせると、「え、これどうやって録ったんだよ」と、とんでもなく感動して(もちろん曲にではない、録音方法にである)感心しまくったのだった。そして、あまりつきあいのなかった同級生が(彼はその当時の同じ中学校全体のトップと呼んでもいいくらい、とてつもなくギターが上手だったが、付き合い的には私とは別グループの人物だった)間接的に曲を聴かせた友人からラジカセ録音話を聞いて、「聞かせてくれ」と自宅にやってきて、感銘を受けたようで、のちには彼の自宅にも招待してくれた。
しかし、当時はまだ、その後に到来することになるカセットテープ式MTR(マルチトラックレコーダー)を用いた、宅録全盛時代の日本はやってきていなかった。そういうことができる商品(機材)が一般人の市場には、まだなかったからだった。
私が「そういう機材」を手に入れることができるようになったのは、80年代の後半以降のことだったと思う。
写真は、左が4トラックのTASCAMのportaoneで、右が8トラックのYAMAHAのMT8X。この二つの機材もいまは処分されて自宅にはない。写真はネットから拾ってきたものだが、同じ機種を私も自宅で使っていた時代があったのだった。
演奏(合奏)を録音したかったら、仲間を集めてやる、つまりバンドを作る。至極当たり前なことだったし、それに「身体」を駆使してやる音楽はほんとに楽しかった。声を出すにしろ、楽器を弾くにしろ、そうだ。これは今でも変わらない。
シンセ系の楽器を使っている人々も一部をシーケンス機能に任せているにしても、まだ「身体性」を保っていた時代だったろうと思う。そういうわけだから、いろんな楽器や声を「自分自身の技能」でまかなうこと自体は「まだ許容範囲内」だった。「演奏(身体性)」を「記録する」わけだから。
だがDTM全盛時代の今、「身体性」は記録される必要がなくなった。「構想」「設計データ」が記録され、そのデジタルデータがデコードされて、空気を震わせる音声に変換されてスピーカーから鳴らされるのを聴いて感動するのが、もっとも新しい音楽の聴かれ方になった。
DTM系では特に顕著に個人の演奏能力や演奏の個性はパージされ、またDTM系の楽曲を好むリスナーの興味関心を引くテーマではなくなった。リードギターなどの間奏部を飛ばして聴く若者たちの出現が最近話題になっていたけれど、さもありなんということだ。
商品としての人間の生の歌声はそれでもまだ「身体性」に頼っている。しかしボカロの出現と進化は結局、プロの音楽家たちのDTM作業への接近が「人間の演奏者を用なしにし、駆逐していった」ように、「生きている人間の声」を完全に駆逐してしまわないまでも、ますますの台頭を許すようになるのかもしれない。
アナログ楽器の音色のデジタル化、つまりサンプリング技術は飛躍的に進歩したではないか。読み上げソフト以上の技術が必要になってくる歌声のサンプリング技術もいずれ、楽器に劣らず極点にまで到達するんだろう。
画像のAI生成技術やら美空ひばりの合成動画やひろゆきのようにしゃべる音声合成ソフトなどの出現がそういう未来の到来を予告してくれている。
すでに映画やドラマだってディープ・フェイク技術を使って、ところどころで「のようにみえる顔」を作って使っている。「ストレンジャー・シングス」では子役の女の子の顔にミリー・ボビー・ブラウン嬢の若返った顔が違和感なく合成されていた。「のようなもの思想」はすでに大昔に、建築資材やら食品パッケージで「出現」していた。レンガ材や壁板材、フローリング材のように見える安価な建築素材、桐の弁当箱を模したプラ容器(これはすでに市場から消滅しているようだが)笹の葉のように見える仕切り材しかり。どれも「かつて存在してた本物のイミテーション」である。そしてそれは経済行為として出現したのだった。
現在は、かろうじて声の個性や歌の上手さは「DAW内で構想される一部門」になることは、まだ完全には実現されていなけれども、こういう状況(生声録音素材なのかデジタル合成音の誰か風のイミテーションなのかの配分)もいつかは変化していくんだろう。
とはいえ、そのような予想される道行への反対運動をしたいわけではない。「バック・トゥ・ザ・フューチャーⅠ」で描かれていた「新しい音楽の出現に対する人類の鳥肌衝撃体験」(チャック・ベリーの楽曲のパクリ演奏シークエンスはその象徴表現である)の連続が、50年代に始まった新しい流行音楽の黎明期から90年代までの終焉期までの間に人類が得た経験値だった。ラジオが新しい音楽に触れるための窓口だった当時の若者たちの多くが、「低音質のラジオ」から流れてきた、かつて自分が接したことがない「のようなものではない曲」を聴いて、ほんとに鳥肌立てて気が狂ったようになった体験を持っている。
だがもはや21世紀の若者は「狂ったように感激」はしない。「最高の音質」で、まあいいんじゃないと思う音楽を生活の隣に付随させて生きている。その商品としての付加価値は「音楽自体が持っている力」からやってはこない。何かのイベントにぶら下がった価値として出現するしかなくなっているようだ。
日本の昭和時代のリスナーたちのようには、音楽アルバムパッケージに3000円払う価値はもはや感じていない。昭和の中学生のように、何か精神的な飢えのようなものに促されて、小遣いをためて身銭を切る感覚で1枚のアルバムを買いに行くわけではもはやないのだ。音楽の手に入れ方も大変容した。今は、ゲームに金を払うほうがずっと意味があると感じている世代の時代である。
今後は「~のような音楽」の時代が続くのだろう。AI(自動生成)技術がさらに進化すれば、「~のようなもの」をイラストや絵画に限らず、映画にしろ、音楽にしろ、もしかしたら小説や、あるいは哲学書さえ、AIが作り出してくれるだろうから。
とはいえ、それらはもはや、かつては「精神と身体感覚性」との共同作業の中から出現してきた生成物だったものの模倣にすぎない。消費者が「のようなもの」で満足している以上、それは商品価値を持ち続けるだろうし。
過去のデータしか学習できないAIは人類に「新しいもの(制作物あるいは精神)」をもたらさない。「機械に読み込ませた〈思い出〉の再合成の反復」をするだけである。けれども、商売人は「生成された思い出」を「新商品」と言って売りつけるのだろう。ますますトム・ソーヤー商法(壁塗りエピソード参照)が栄えていくのだろう。
ここで突然話題がアナタの予想外の方向へ飛んでしまうかもしれないが、ついでなので語っておこう。
超感覚的世界にも、そういう「のようなもの現象」が存在するらしいことを、ルドルフ・シュタイナーが報告している。というより、ようやく物質界におけるアーリマン的進展が霊界的現象の模倣を行える地点まで人類史は来たということなのだろう。
『神智学の門前にて』で、シュタイナーは以下のような話をしている。
---------------------------------------------------------------------------------------------------------------人間が行ったことすべては、たとえ歴史の本に書かれなくとも、神界の境にあるアーカーシャ年代記という不滅の歴史書に書き込まれている。意識のある存在によって世界に引き起こされたことすべてを、この境の領域で経験できる。---------------------------------------------------------------------------------------------------------------
意識のある存在が体験したことは、アーカーシャ年代記に書きとめられる。秘儀参入者はこのようにして、人類の過去のすべてを読み取ることができる。しかし、まずどのようにして読み取るかを学ばねばならない。アーカーシャ(虚空)は生命的なもので、アーカーシャ像は混乱した言葉を語る。
シーザーのアーカーシャ像を、シーザー自身と混同してはならない。シーザー自身はもう再受肉しているかもしれない。外的な手段によってアーカーシャ年代記に近づくと、そのような混同をしやすい。そのような混同は往往にして、降霊会で生じるのである。心霊論者は、亡くなった人を見た、と信じる。しかし、それは死者のアーカーシャ像にすぎないのである。
たとえば、ゲーテのアーカーシャ像が、1796年に活動したときの姿で現れることがある。神秘学に通じていない者は、このアーカーシャ像をゲーテ自身と混同する。このアーカーシャ像は、質問に答えることができる。それも、昔答えたことを答えるだけではなく、昔は答えなかった、まったく新しい質問にも答える。答えを繰り返すのではなく、当時ゲーテが答えたであろうように答えるのである。それどころか、このゲーテのアーカーシャ像は、当時のゲーテのスタイルとセンスをもって、詩を作ることもできる。
アーカーシャ像は、まさに生きた構成体なのである。事実はこのように、驚くべきものである。しかし、事実なのである。(P32-P34)
マトリックスのサイファーが戻りたかった場所のことも連想つながりで思い出す。つまり「幸福な生活を感じさせてくれるイミテーション界」への回帰願望のことだが、アーリマンも着々とそういう「イミテーション界」とでも呼ぶべき「地球の楽園」を作ろうと鋭意画策中なんだろうねえ。
さて、「今日からはじめるパソコン・ミュージック」というWindows XP向けソフトだが、結局イジリたおして習熟したわけでもなく、すでに20年も経過してしまった。にもかかわらず最近やっとソフトに添付されていたカーペンターズのデータ入力用練習曲(「イエスタデイ・ワンス・モア」と「トップ・オブ・ザ・ワールド」)を「指導書」通りにやってみた。
つまり再度マニュアルの読み込みから始めなければならなかったわけだ。指導書に沿ってクリック、クリック。やはりすごく疲れた。
いまでは最新版のcakewalkのDTMソフトがネット上で無料で手に入る。
cakewalk by bandlab
こちらも手に入れて、さあ、どうしようかと思うのだが、結局生演奏を録音するための機材として、つまりアナログ・カセットテープ録音式からデジタル録音式に進化したMTRとしてギター、ベース、キーボードなどの演奏を録音するために利用するくらいが(ドラム音源はDTM付属のソフトシンセサイザー利用で)、自分が「楽しいと感じながらできること」の最大値なんだろうと思う。
YouTubeでcakewalk関連の動画をたくさん見たせいか、DTM関連の動画が頻繁に現れるようになった。自動コード進行生成機能付きDTMソフトとか、与えられたコード進行に自動的に多種多様なメロディー生成提案をしてくれる機能を搭載したソフトとかの解説をしているYouTuberもいる。
もういいよ、「アレクサ、大瀧詠一の声を使って、ロング・バケーションに入ってたような曲を作って流してくれないか」と言ったら「こんなのどうですか?」と〈高品質の楽曲〉が流れてくるのが日常になってる「のようなもの文明」が全盛の未来なんて、そんなことがすでに実用化されていたとしても、そんな家電品使わんと思うんだよ、オレ様は。
結局、未来において、そんなものは経済的には成立せず、「そんな生活が当然の日常」にはなっていなかったって状況ももちろん十分にあり得ると思う。けれど、100年後の人類がどんな音楽をどんなふうな方法で聴いているのか、やはり想像することはできないよなあ、自分には。
シュタイナーはアトランティス時代の7度インターバル感受時代を経て(「エリック・ザ・バイキング」という映画には海に沈む国の住人がみょうちきりんな和声音楽を誇らしげにエリックに披露するシーンが出てくるのを思い出した)、古代エジプト時代の5度インターバル感受時代からギリシア・ラテン時代の3度インターバル感受時代になり、近代人はまだその感受性(長3度感覚と短3度感覚)の延長線上に立っているという趣旨の話をしている。
今後は、オクターブ感受時代がやってくると言っているが、ポピュラー音楽の世界では、オクターブを「和音」の響きとしてウェス・モンゴメリーとかジョージ・ベンソンとか、ピアノではリチャード・ティーとか米国のミュージシャンたちがすでに試みているし、ギター・エフェクターとしてBOSSからオクターバーという商品が発売されていた時代もあったけれど、いまはそういう「和音感覚」を押し出した曲はついぞ聴かなくなったね。
私個人としては「ある周波数」が大事なんだという意見から、反440ヘルツ運動をやっている人々、あるいは特定周波数押しをする人々の存在も認識しているけれど、大事なのは音と音の「間(あいだ)」から人間にもたらされる「ある感覚」その「何か」のほうが重要なんじゃないかと思う。つまり「音楽としての周波数の共鳴現象」が人類にもたらしてきたものについての話をシュタイナーはしていたのであって、「特定周波数を贔屓にしろ」ということではないのだった。
大事なのは周波数同士が「〈音楽〉として共同したときに生まれるもの」なのであって、「特定の単体周波数」それ自体の価値ではないと思っている。
未来にやってくる「オクターブ感覚」というのは現代人が使っている「今の感受力」とは異なっているんだろうとは予想ができるけれど、将来「オクターブ」を心を動かす和音として聴くことになる人類は、その和音から「どんな感情を引き出す」ことになるのか(シュタイナーによれば自我感覚に関連するようだ)、今世で味わえるものなら味わってみたいものであるが、「〇〇は死ななきゃ治らない」ということわざはつまりは「生まれ変わらなきゃ先へ進めない」と同義だと勝手に解釈している私は、今世においては「いろんなことをあきらめて」おかないといけないんだろうなあとも思ってますよ。
オクターブ感覚もそのうちのひとつですよ。 -
YouTubeにはChillhop Musicという音楽専門チャンネルがあるんですよ。
ちょっと前に「動画に使われる絵に日本趣味が入っている上質の音楽チャンネル」として日本のポータルサイトにも記事が紹介されたことがあるので、「ああ、その記事、見たよ」という方もいらっしゃるかもしれません。
絵の特定部分が変化するので、「妖怪ウォッチ」のジバニャンなら、大喜びしそうな「静止画」が特徴です。
Chillhop Musicでは、いろんなアーティストの楽曲を集約して1時間前後のコンテンツに編集して公開しています。
音楽系と言っても、こういうチャンネルの場合、流し聴き的な接し方にどうしてもなりがちで、私も基本ずっとそういう聴き方になってしまってました(集められてる楽曲自体は上質だと思います)。
しかし最近、いつものように「ながら作業」(読書)している最中に「!!!!!」と「注意力が奪われる瞬間」がありました。
私が「!」感覚になったのが、この動画の4曲目、Asoの「Ur OK」。
なんかソファーに深く座って、ゆっくりと息を吐き出させるような呼吸にさせてしまうような、「不思議なゆるさ」を醸し出す効果を持っている、魔術力のある1曲ですよ。
あんまりにも気に入ってしまったので、1曲単体の動画はないのかYouTube上で探したらありました。
ということで、いたく気に入ってしまったので、ここ数日はこの曲ばかりヘビーローテーションで聴きながら読書してたりします。基本、フレーズの繰り返しですが、前回の記事で紹介したような、ウィリアム・アッカーマンのタタタ系(私の造語です)の曲(synopsis)のような、後頭部(後脳?)に響く、「脱魂化」を促すようなタイプの曲とは、また異なってますよねえ。
むしろガットギターの音色から、最初に連想したのはゴンチチの「水筒をさげて」という曲でした。
それから、ハッピーエンドの「あの名曲」。ゆるさの極北「夏なんです」。
watch on YouTubeリンクをクリックしてお聴きください。
細野晴臣のボーカル入りの曲ですけど、ほんと「ゆるく」ていいですよねえ。
そして最後に連想したのがNujabesの「Aruarian Dance」のダウンテンポバージョンです。
この曲はマングローブの作品「サムライチャンプルー」で使われたオリジナルバージョンを遅いテンポに改変したものですが、本来のテンポはかなり速くて(関心のある方は探して聴き比べてみてください)、それだと、「ゆるい気持ち」を喚起しないので、「この改変はアリ」だと個人的には思うんですよ。皆さんはどうでしょか?nujabesの曲は叙情的なものが多いです。「Spiritual State」所収の「Island」はお気に入りの1曲ですが、今回のテーマとはカテゴリー違いのような感じがします。
「Island」ほどじゃないですが、「Aruarian Dance」にも感情を喚起する要素があるので、今回大プッシュしているAsoの「Ur OK」の「感情脳ではなく身体(呼吸)に訴求する力」があるのではないかと思われるタイプの曲とは、またちょっとタイプが違ってますかね。
まあ、音楽に反応する内部センサーの調整具合は人それぞれなので、「なにその、ゆるさがいいとか、全然わかんねー」とおっしゃる方もいらっしゃるとは思いますが、「あ、その感覚わかるわー」とおっしゃることのできる系の音楽ファンの方には、Asoの「Ur OK」はかなりお気に入りの楽曲になるんじゃないかと思います。
読書しながらヘビーローテーションで聴いてみてください。