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『草野球』に登場してくる6つのチーム名と選手の名前を、制作者たち(STUDIO Sequence)がどういう基準で選んだのかは,もちろん私には分かりませんが、しかしフライング・ウインズ(FLYING WINDS)の選手たちの名前は、チーム名を見ればすぐに連想されるように、航空機から採用されていることはあきらかです。
1アスカ
2ヴィクセン
3ファルコン
4シンデン
5ファントム
6メッサー
7ゼロ
8ラプター
9アパッチ
以上の9名です。もしあなたが航空機マニアであったなら、1から9まで、すべての航空機イメージを即座に自分の記憶の中から呼び出すことが可能でしょうが、残念なことに私は航空機に関心が強い人間ではなかったので(あなたはいくつ連想することができたでしょうか?)、実在性の確認のために、1アスカ、2ヴィクセン、4シンデンの三つについては、あたらめてネットで検索することにしました。すると予想通り、それらはみなこの世に実在する航空機の名前でした。
ほかのチーム名と選手名にも何らかのオマージュなり、引用なりが存在するのかもしれませんが、今の私にはその答にたどり着ける力はありません。
とはいえ、『草野球物語』においては、二子山や幸福ケ丘以外の選手たちは、ニックネーム、あるいは偽名で登場していると思われます。
ERION’s Tracker's Club’s Team(エリオンズ・トラッカーズ・クラブズ・チーム)とは、何でしょうか?
カタカナ発音で聞くと、運送会社「エリオン」のトラック運転手たちの集まりではないのかと連想しそうになりますが、表記が「Trucker」ではなく「Tracker」なんですよ。とすると、いきなり不穏な感じになりますよねえ。「Tracker」には追跡者のほかに警察犬という意味もあるようですから、警察犬養成所の人たちのチームと考えられます。このチームには女性が4人もいますから、私が「その1」で空想した不穏な忍者系あるいはアサシン系組織ではなく、あるいはこっちのほうが「本来」なのかもしれませんね。警察犬関係者たちが山田姉さんたちと交流を持っていた、という世界線で、妄想シナリオを書き直すこともできそうです。
↑は私が作ったGIF系MAD。セリフが読みにくい場合は画像をクリックしてみてください。実際のゲームには実況担当として二人が一緒に出てくるシーンはありません。本来のゲーム内では、各イニング終了後に交代で登場します。セリフは吐きません。ただ黙ってこちらを見つめてくれるだけです。機能制限版のダイソー版『草野球』では、背後のスコアボードが河川敷草野球場の写真の中に現れるだけで、登場しません。
私の妄想の中では、女性の方はピッチャーの山田姉さんの、さらに上の姉を想定しております。
初代版のジャケット絵には学生服なのか事務員の服なのか判然としない衣装を着た山田姉さんの背後に写ってます。そういう「レイアウトの位置関係」から姉妹だと判定しました。とはいえ、アニメ世界ならピアスして女子高校生やってても全然OKなので、アニメ設定的には山田(姉)投手は、高校生の方がいいかもしれないですね。男性の方は素性とキャラ設定がまだ自分の中で完了しておりません。彼らは実況解説時、演出として、プロ野球でおなじみの「鳴り物付きの大応援団の音声」を特殊効果として流しながら(だって実際の草野球ゲーム内には大応援団なんていないでしょ、ハハ)、数台のドローンを使って、試合を撮影し、試合経過をチーム関係者のPCやらスマホに流してるんです。だから、われわれがゲーム中に見ている球場の視点は、そのドローンから見たたものであるということですね。
「その1」で、6つのチーム名と選手名、背番号、守備、左右どちらの打席に立つか(LRという文字は私たちから見てどちら側に見えるかを示していて、Rならば実際には左打席に入る選手であることを意味しています)、打力、走力を数値化した表を掲げました。これはゲーム内で個別に出てくるもの(黒背景に白字で出てくる)を私が一枚に編集し直したものです。この表の中で無意味だったものが背番号です。この背番号情報は、私が「ある妄想」において矛盾点の合理化のための根拠になってくれましたが(後述します)、ゲーム内においては、どんな場所においても生かされていません。背番号を見せる選手のシーンは一切出てこないのでした。
それと私が欲しかったのは選手たちの性別情報でしたが、これは表の中には明確に示されていません。ですが先ほどエリオンズ・トラッカーズ・クラブズ・チームに女性が4人いると明言できたのはなぜでしょう?
もし私が初代の『草野球』を手に入れていなかったら、私はずっとエリオンズのシドニーは女性なのか男性なのか迷っていたでしょう。キャサリン、エレン、エリー、ヨーコは名前から判断できますが、シドニーは男女ともに、いそうな名前ですから。(『進撃の巨人』のエレンは男だったよな、とあとで自分に突っ込みをいれました。)
それで悩んでいたら、この連休中にようやく初代版を使って、すべてのチームで自陣をそれぞれ先攻バージョンと後攻バージョンに分けて、合計60試合やりました。(参考までに追記させていただきますと、試合に2時間くらいはザラに費やされる本当の野球の試合と違って、『草野球』シリーズは、だいたい20分ちょっと(アニメ1本見終わるくらいの長さ)で終了するゲームです。延長試合になると30分かかることもありますが、『草野球』ルールでは延長試合は13回で引き分けゲーム終了になります。)
南二子山町内会チームの山田投手はチームデータ一覧に(姉)と書かれていたし、また二頭身キャラの姿も他のチームの投手たちとは異なったデフォルメが施されているので、明確に女性と判断できます。
そうではあるのですが、初代版をやっている最中に、ダイソー版とEX版をやったときには気づかなかったユニフォームにおける微妙な差異に気が付いたのです。
左がEX版で、右が初代版です。背後のフェンスの差異にはすぐに気が付いたのですが、最初ユニフォームにまで気が回りませんでした。
画像をクリックして見ていただくと、分かりやすくなると思いますが、EX版のユニフォームはソックスを見せずに足元まですっぽり覆っています。しかし右の初代版の山田姉さんの足元を見るとソックス(それとも生足?)が見えています。これは女子ソフト選手が着用するユニフォームを模したものだったのかもしれません。初代版においても、彼女以外の他の二子山の選手が打席に立つときは、左のユニフォームと同じで足元まですっぽり隠すユニフォームを着ているのです。
それでもしやと思って、エリオンズの試合をやってみると、キャサリンとエレンとエリーとヨーコの4人もソックスを見せるタイプのユニフォーム姿で登場しており、他の選手はそうではありませんでした。
それでシドニーは男性であると確信できたのです。とはいえ、EX版以降、彼ら制作者たちが、「微妙なユニフォームの違い」で性別を暗示するのをやめて、登場する選手全員を「同じスタイル」で再統一した理由はなんでしょう。
私はEX版で妖艶に描かれた女性が、ほんとは山田姉さんではなく、実際にはフォーチューン・ナンバーズかフライング・ウインズの中にいた女性選手であったらいいのにと思っています。しかし初代版の二つの該当チームのユニフォーム姿のなかには、女性を暗示するユニフォームを着た選手は出てこないのです。
「それならいっそEX版で選手全員を同じスタイルで再統一して矛盾を払拭しよう」と考えたのかどうかは分かりません。むしろ明確にどちらかのFの頭文字から始まるチームのなかにソックスを見せて打席に入る選手をひとり紛れ込ませてくれていたら、それが助けになって、私の妄想もすんなりと先へ進むことができたんですが。
とはいえ、私個人の見立てとしては、あの妖艶女子は、フォーチューン・ナンバーズに所属する女子選手だと考えたいのです。
初代版のイラストには、IIDUKA(飯塚)と読める背番号30の右利きの選手が描かれています。しかし二子山の選手一覧表には背番号30の飯塚なる人物は出てきません。
ところがEX版のイラストには飯塚と読める背番号7の左利き選手が描かれています。フォーチューン・ナンバーズの選手一覧表のなかに背番号7の選手はいるでしょうか……。なんといるじゃないですか。
それで私はもと二子山チームの30番だった飯塚クンは、なんらかの事件を機に、もとの組織を離れて、フォーチューン・ナンバーズの属している組織体の一員(ロボット搭乗員)になって、野球においては、妖艶姉さんのチームメイトになった、と解釈しました。利き腕がスイッチしていることに関しては別の説明を捏造しなければなりませんが。
ということで、「妄想も大概にしろ」と突っ込まれ、あきれられそうですが、このゲームの制作者たちの裏設定(本来の意図)がどのようなものであれ、自分の物語を妄想して楽しむのは愉快なことですよ。
次回に続く。PR -
前回、20年ほど前に、ダイソーで売られていた100円ゲームの多くが、実は、MSD-JAPANが過去に販売していたゲームタイトル群の再パッケージ化だったという話をしました。
一方で、MSD-JAPANについてネット上で得られる情報はきわめて少ないという話もしました。
彼ら(MSD-JAPAN社員やこの会社にゲームを納入していたゲームメーカーたち)はその後どこへ散っていったのでしょうか。
あるいは大手のゲームメーカーや販売会社への再就職を果たせた人もいるかもしれません。
Yahoo!知恵袋でこんな質問を見つけました。---------------------------------------------------ホームページ自体はまだあるようですですが2001年より更新が止まっているので多分つぶれているのでしょう---------------------------------------------------
確かに、MSD-JAPANのホームページは2001年で更新が止まっているじゃないですか。じゃあ『草野球EX』は2002年の販売なのに、これはいったいどういうことなんだろうと私は思いました。いろいろと大変な時期だったんでしょうねえ。
販売会社としては更新は止まっていましたが、さらにホームページ内のリンクをたどっていくと社長語りのページで、社長さんが2008年まで更新を続けていることに気が付きました。その間(7年間)、一方でいろいろと残務整理をしていたんでしょうかねえ。
「かつてMSD-JAPANという会社が存在した」という証拠を、こうやって社長ご自身が維持し続けてくれていたことはありがたいことでした。とはいえ、その社長自身のページも更新が止まってすでに15年。それ以降のことはもはや何も分からないのです。検索の過程で、かつて『ぷよぷよ』というゲームで一世を風靡したコンパイルの仁井谷正充氏のインタビュー記事に出会ったのも、私にとっては、不思議なシンクロ現象でした。今日まで仁井谷正充氏のことはまったく知らないで過ごしていましたので。
さて、話を『草野球』に戻しましょう。
初代の『草野球』が『草野球EX』になったとき、新機能追加と合わせて、草野球場のデザインや選手のユニフォームその他いくつかのマイナーチェンジも施されました。
『草野球EX』のパッケージを見れば、イラストも新たに描き換えられていることは一目瞭然ですが、そのことによって初代版では、試合終了後に時々出現するイラスト(これは前回紹介しました)は2枚だったものが、『草野球EX』のパッケージ用イラストからさらに2枚付け加えられて、全部で4枚が、定期的に試合終了後の画面に出現する仕様に改変されました(追加画像は以下参照)。
2枚目のバットを振るうお姉さんは、初代版の山田姉さんより妖艶じゃないですか?
しかも初代版の二子山チームのユニフォームとデザインが異なっています。彼女の帽子とユニフォームにつけられているのは「F」というアルファベット一文字のみ。けれども、初代版のイラストを見れば、彼らのユニフォームでは漢字の「二子山」を使っていることが分かります。
おきゃんな感じのする初代の山田姉さんとEX版のこの妖艶な女性は同一人物なのだろうか?……、という疑問が私の脳裏に浮かびました。
それで、再度、両方のバージョンのイラストレーターの名前を確認しましたが、やはり同じ人物(F.SEKI)でした。初代版の山田姉さんは2枚とも左の耳にピアスをしていますが、拡大して確認してみましたが、この妖艶女性の左の耳には、ピアスの痕跡は見当たりません。初代版の山田姉さんの左の耳にピアスを描き込んだ関さんは、なぜ今回の妖艶なお姉さんの左耳にはピアスを描きこまなかったのでしょうか? 「やはり別人物なのではなかろうか?」と私は思いました。
「もしかしたら、彼女の帽子のアルファベットのFは、二子山の頭文字ではなく、別のチームの頭文字ではないのか?」、と、そう思いました。
Fで始まるチームといえば、フォーチューン・ナンバーズとフライング・ウインズがいます。なんとユニフォーム的には、アルファベットで言えば、6チーム中、Fで始まるチームが3チームもいるんです。
初代の制作にあたっても、イラストのユニフォームに出てくる名前が「南二子山」ではなく「二子山」になったことについては、彼らの間で、イラスト担当の関氏との調整確認事案もあったのだろうと推察します。「デザイン的には、南は省いて、二子山の三文字だけのほうがいい」というような話になった結果なのかもしれません。
山田姉さんの妖艶化は、新機能追加に合わせて、二子山チームのユニフォームが新調されることになった流れの延長線上にあるだけの話で、別段詮索する必要のない問題なのかもしれません。
けれども、一連のロボット活劇アニメ・シリーズの各エピソードを妄想中の私には、むしろデザインが新たにされた「この妖艶な女性」は、物語の中で山田姉弟にからんでくることになる、フォーチューン・ナンバーズ(別組織の凄腕女性ロボット搭乗員)かフライング・ウインズの一員(女性戦闘機乗り)であってほしいと思うのです。そのほうが「私の中」で妄想が面白くなって広がるからでした。次回に続く。 -
ゴールデンウイークは雨ばかりで楽しみ半減でしたねえ。
結局私は野球ゲームばかりしてました(ざっと60試合)。といっても、ダイソー版ではなく、そのオリジナル版(1stエディション)の『草野球』の方でしたが。
「ああ、なんか暇つぶし用の簡単なゲームでもしたいなあ」という動機から始まり、もともとは「で、どんなもんなんだろう」という興味でダイソーの100円ゲームの中古品を、ヤフオクとかメルカリとかで手に入れて近づいたPCゲームの世界だったんですが、結構面白いじゃないですか。
そのようにして、時々、単品で買ったり、複数出品のものをまとめて買ったりしたものの中から、「じゃ今度はこれでもやってみようか」と思って、いろいろ遊んできましたが、この3月に始めたのがダイソーの『野球ゲーム』でした。
やってくる球を打ち返す、ただそれだけで楽しかったのでした。YouTubeではゲーム専用機系ののファミスタ・シリーズとか日本や米国のプロ野球ゲームの内容紹介動画がたくさん出てますけど、そういうものは、これまでやったことがなかったので、比較のしようもなく、この「かわいらしい二頭身キャラたち」が織りなす勝負の世界を、ただただ面白がっていられたのは、かえって、よいことだったと思います。
このダイソーの野球ゲームのショートカットアイコンには「野球ゲーム」ではなく、「草野球ダイソー版」と書いてあったことが気になって、「ってことは別のバージョンがあるのかな?」と思い、ネットで調べ始めました。
すると、ダイソーの野球ゲームは、2002年にMSD-JAPANが出した『草野球EX』の機能制限版だった、ということが分かりました。
Windows XP全盛時代の20年前、ダイソーで100円で売られていたPCゲームの多くが、実はMSD-JAPANという、PC用ゲームに特化して商売をしていた会社の終焉によって実現された「過去商品の再パッケージ化」だった(すなわちダイソーへの版権移動事件だった)という事実を、私は最近まで知りませんでした。
ファミコンに代表されるようなゲーム専用機向けの商品開発に労力を注いだ会社は、今日巨大な企業に成長しています。今となっては、ネットでMSD-JAPANについて調べようとしても、ウィキペディアにすら出てきませんし、個人が懐かしんで、MSD-JAPAN体験の思い出を語っているようなページも、検索かけてもヒットしません。私には、このことが、なんだかとても不思議な気がします。
YouTubeにはダイソー版の『草野球』の紹介動画と、『草野球EX』紹介動画が上がってますので、見比べることができます。「ゲームやおよろず」内にある記事も参考になります。
ダイソーの『草野球』は3チームで行うゲームでしたが、元ネタの『草野球EX』は6チームあり、PC相手だけではなく、1P対2Pで試合をすることもできることが分かって、「よし、じゃあ、このソフト手に入れよう」と思い、アマゾンをチェックしたら、ちょうど折りよい時期に当たっていたのか、中古品を手に入れることができました。
もとは2000円の品でしたが、なんと中古販売業者は新品を7000円で出してました、私はもうひとつあった中古品の方を3700円で買いました。
『草野球EX』にはさらに以前のエディションがあるので、こちらの初代「草野球ゲーム」の方もヤフオク経由で手に入れました。
「初代」の方もEXと基本構造は同じで、6チーム構成で、かつ対PC戦と1P対2P戦もできるのですが、『草野球EX』で、それまでできなかった牽制や盗塁を盛り込んだというわけです。
『草野球EX』は値上がりし、中古品を手に入れにくくなってますが、初代の『草野球』は500円前後でヤフオクやメルカリで運が良ければ入手可能な状況です。
ダイソー版の『草野球』のジャケットには二頭身キャラしか登場しません。もともと「そういうキャラとして制作されたゲーム」であったならば、少しもおかしなことではありません。
ダイソー版、EX版、初代版と、新しいエディションから古いエディションへと、順に写真を見ていただいて、気づかれたと思いますが、ジャケットにおいて、ダイソー版は、キャラに感情移入する「スキマ」があまりありません。
その理由は、ゲームを開始すれば、チーム名とか選手名とかは分かるにしても、ダイソー版では、かつてのソフトには付属していた「ある要素」が完全に払拭されているからです。
MSD-JAPAN版のケースにはアニメ絵っぽいイラストが描かれていますが、2000年版にしても2002年版にしても、ゲームの中にこれらのジャケット絵が再び出てくるのです。とはいえ〈彼ら〉は絵を提示するだけで、なんの説明もしていません。
しかし「それ」が、私の空想癖に火をつけてしまいました。私はこれらの絵をもとにアニメ作品として一連のお話を空想し、南二子山町内会やらフォーチューン・ナンバーズやらフライング・ウインズやら幸福ケ丘駅前商店街やらトワイライト・ソルジャーズやらエリオンズ・トラッカーズ・クラブズやらというチーム名の由来を考えました。
私が空想する、このアニメの主人公は、南二子山チームの投手たる山田姉さんです。本当はエヴァンゲリオン(二子山からの連想です)みたいな巨大ロボット物語内における、それぞれにクセのある組織集団の登場人物たちの織りなす物語の幕間劇としての草野球のシーン、それがこの『草野球』だったのではないかと、思い込むことにしたのです。そうすると、さらに楽しくなりました。
実在するアニメにも幕間劇として草野球をするエピソードを盛り込んだものがいくつかありましたね。例えば近年では『ドロヘドロ』なんかもそうでした。
ロボット搭乗員たちと整備士集団、彼らが利用する商店街の人々、名前を数字で呼び合う別組織のロボット搭乗員たち、戦闘機に乗って戦うパイロットたち、陸上自衛隊の隊員たち、忍者のようなアサシン(追跡者)を抱えるエリオンという組織、などなど、そういう人々がこの山田姉さんの活躍を中心に描かれるアニメの登場人物たちです。
そして彼らは「過酷な日々」を過ごしながら、なぜか「定期的に集って草野球をする」のですが、その様子を描いているのが、この『草野球』というPCゲームの正体だったのだ、というのが「私の見立て」です。
もちろん、すべて私の妄想(二次創作)に過ぎないのですが、ダイソー版では外されてしまったイラストと、そのイラストの中に盛り込んだ「裏設定」のようなものは、制作者側の〈彼ら〉(STUDIO Sequence)の中には確実に存在したはずだと思います。
〈彼ら〉から、それを聞くことができたら、どんなに楽しいことでしょうか。
次回に続く。 -
以下、前回の投稿の続きです。
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アラン・カルデック 『霊との対話』1866年4月25日パリ
地球に風が吹き渡り、すべての人間に覚醒を促しているのを感じませんか。嵐が近づきつつあるという漠然とした予感が、世界全体を包んでいるのではありませんか。
しかし、世界の終わりが来るわけではありません。地球は、創られたとき以来、進化を続けているのであって、これからもまだ進化を続ける必要があるからです。しかし、人類は、大いなる変容の時期に差しかかっています。地球は次なる段階に入っていかなければなりません。
したがって、訪れようとしているのは、物質的な世界の終焉ではなくて、これまでの精神のあり方の終焉なのです。偏見、エゴイズム、傲慢、狂信が滅んでいくのです。毎日少しずつ、それらが消滅していき、やがて、新たな世代が新たな建物を建て、それに続く世代が、その建物を堅固にし、完成させていくでしょう。
罪が償われ、地球は幸福な星になっていくでしょう。そして、そこに住むことは、罰ではなく、報いを意味することになるでしょう。悪に代わって、善がそこを支配するようになるでしょう。
人類が地球上で幸せに暮らすには、地球が、よき人で満たされる必要があります。善を望む人々だけが生まれ変わってくる必要があるのです。そして、実際にそうした時期がやってきました。
現在、大規模な移住が進行中です。悪のために悪を犯す人々、善の感情を持つことができない人々は、変容後の地球にはふさわしくないので、地球外へと移り住むことになるでしょう。なぜなら、彼らが残っていると、新たに混乱をもたらして、進化の邪魔をすることになるからです。彼らは、地球よりも進化の遅れた星に移住して、そこで、善に対して無感覚になった心を変えていく必要があります。地球で獲得した知識を携えて、その星の進化のために使命を果たすのです。
彼らが出ていったあとには、もっと優れた魂がやってきて、正義と平和と友愛に基づく生活を展開するでしょう。
すでに言ったように、地球は、一世代全体を滅ぼすような大規模な天変地異によって変容するのではありません。いま地球上に生きている世代は徐々に姿を消し、それに続く世代が同じく徐々に姿を現すのです。自然の秩序が乱れるということではありません。物理的な世界が変わるのではありません。そうではなく、『いままで地球で生まれ変わっていた魂の一部が、もはや地球には生まれてこなくなる』ということなのです。
これからは、未発達の、悪に傾きやすい魂の代わりに、進化した、善への傾向を持った魂が生まれてくるということです。人類の肉体が大きく変わるということではなくて、そこに宿る魂のレベルが上がるということなのです。
したがって、『何か超自然的な、驚くべきことが起こって、人類が変わっていくだろう』と思っている人々は、失望することになるでしょう。
現在は、移行の時期です。いまは、二つの世代が混在しているのです。あなたがたは過渡期にあって、一つの世代が地球を去り、別の世代が地球にやってくるのを見るでしょう。
それらの世代を見分けるのは簡単です。それぞれに性格が際立っているからです。
交代しつつある二つの世代は、まったく異なるものの見方、考え方を持っています。心の傾向性もそうですが、生まれつきの直観力においても大きく異なっていますので、両者を区別するのは極めて簡単です。
一段と進んだ時代をつくる新たな世代は、幼少のころから発達する知性と理性、生れつき持っている善への傾向性、見えないものを信じる力などによって際立っていますが、それらは、彼らが過去世でしっかりと修行してきたことの、疑いようもない証なのです。彼ら全員が、霊格の非常に高い人々だというわけではありません。そうではなくて、すでに、ある程度の進化を遂げているために、進んだ考え方を取り込みやすく、人類を再生させる運動を支えることができる、ということなのです。
逆に、未発達霊の特徴は、摂理を否定し、高級霊の存在を否定し、神に対して反逆することです。さらに、低劣な欲望に本能的に惹かれ、傲慢、憎悪、嫉妬、煩悩といった、人と人を切り離す感情に親和性があり、そして物質に対する執着が非常に強いということなのです。
そうした悪しき精神作用を地球から一掃しなければなりません。そのためには、進化を否定する人々には地球から出ていってもらうほかないでしょう。これからやってくる友愛の時代に、彼らはふさわしくないからです。彼らがいると、善なる人々が苦しむことになるからです。
中略
そして、それ以外にも、自殺者の数が前代未聞のレヴェルに達するでしょう。そこには子供たちさえ含まれることになります。多くの人々が狂気に取りつかれ、みずからの命を絶つことになるのです。まさに、それこそが時代の異常さを告げるしるしとなるでしょう。
以上のようなことが、次から次へと生じるはずですが、それらはすべて自然の法則に則っているのです。
とはいえ、あなたがたを覆っている黒い雲を通して----すでに嵐のうなり声が聞えていませんか----、新たな時代の光が射しはじめているのを感じ取ってください。
地球上のあちこちで、友愛の基礎が築かれ、人々は手を差し伸べ合っています。野蛮が姿を消しつつあります。これまで数多くの流血の原因となってきた、民族的な偏見、宗教的な偏見が消えつつあります。狂信、不寛容がその立場を失いつつあり、一方で、良心の自由が社会に導入され、一つの権利となりつつあります。
あらゆる場所で、人々の考え方が変化してきています。悪が至るところに見られますが、人々はその悪を癒そうとしています。しかし、多くの人が、羅針盤なしに歩んでおり、夢想の世界に迷い込んでいます。世界はいま、産みの苦しみの最中なのです。これは、まだ百年は続くでしょう。まだまだ混乱は続きますが、やがては目的がはっきり見えてくるでしょう。和解の先触れである統合が感じられるようになるはずです。
それもまた、時代のしるしなのです。しかし、先に述べたのが、過去が滅びゆく断末魔の姿であったのに対して、これらは、新たに生まれつつある未来の新生児たちの泣き声なのです。新たな世紀が目撃することになる曙の最初の光なのです。やがて、新たな世代が力に満ちて立ち上がってきます。18世紀の様相と19世紀の様相が明らかに違うように、19世紀の様相と20生起の様相は、はっきりと異なるのです。
新しい世代の持つ特徴のうちで、最も目立つのは、彼らが生れつき信仰を持っているということです。それも、人間を分断する、偏狭で盲目的な信仰ではなく、人間を隣人への愛と神への愛で一つに結びつける、理性的な信仰なのです。いまの世代が消えていくにつれ、精神と社会の進歩に反する不信と狂信の名残も、姿を消していくことでしょう。
中略
戦いには、魂を鍛えるという意味もあります。悪に接することで、善の価値をよりよく認識することもできるようになるのです。諸能力を発達させる戦いがないと、霊はみずからの向上に無頓着になることもあり得るのです。自然の力との戦いは、肉体的な諸能力と知性を発達させます。悪との戦いは、モラルの力を発達させるのです。(P335-P346)-------------------------------------------------
19世紀の当時においては、まだそうではなくとも、いずれ世界中で「子供が自殺するようになる時代が来る」という言葉はすでにその通りになっています。ルドルフ・シュタイナーは『神智学の門前にて』において、今後も唯物論が克服されることがなかったら、「ますます人類一般は神経質になっていき、狂気という流行病が蔓延するようになる」とか「子供が震えながら生まれてくるようになる」と語っています。
実際には、単に震えながら生まれてくるだけでなく、たといこの世に生まれても原因のわからない死、つまり「突然死」という形で、「肉体との結びつきを放棄する赤子」だってすでに出ているかもしれません。
子供を唯物論的な思考態度(今日「日本的」と呼ばれているもの、戦後、特に発展し定着していった社会制度や慣習慣例の大部分もそうなのです)から守らなければ、今後も子供の受難は続くのです。 -
抹茶ラテの口パク化に熱中して一通りの満足を得られたら、「やる気なしモード」に突入して、「さあ、じゃ次回は口パクを導入して新作に挑もう」という流れになりませんでした。
ダラダラ過ごしながら、20年前のPCゲーム(ダイソー系)ばかりやってました。特にはまったのが「野球ゲーム 52」ですが、あまりにも気に入ったので、いろいろと調べたくなり、関連ソフトを収集したりしながら過ごしてました。
ダイソーの「ピンボールゲーム」のときにも深堀記事を書きましたが、今回もいろんな事実が分かり、「そーだったのかあ」と深い感慨にふけりながら、今日も野球ゲームやってます。「その調査生活の日々」については、また日を改めてご報告させていただきますね。
ということで、今回は、「野球ゲーム三昧」に入る以前に、あれこれやっていた「別系統の調査」の報告になります。
エーテル視力の獲得を目指しながら一方で重りとなって取りつくアーリマン族
とともにある人類の図
エドガー・ケイシーの全リーディングが納められたDVDを手に入れたという報告を以前しましたけど、実はケイシーのリーディングには公開されていないものがあることをご存じでしょうか。
これは、W・H・チャーチという作家さんがケイシー関連の著書のなかで言及している話です。
その公開禁止の条件で行われたリーディングの依頼主たちには2系統あり、一人はあのルドルフ・シュタイナーが警告を発し続けていたウッドロー・ウィルソン大統領であり(彼のいとこが代理人として派遣されてきた)、もう一系統が、当時イスラエルの再興運動、つまりシオニズム運動に参加していた米国在住のユダヤ人でした。
通常のリーディングにおいてはケイシーの奥さん(質問者役)や秘書(筆録役)の補助のもとにおこなわれていたリーデングですが、そういう「通常形態」ではなく、ケイシー関係者を排除して、ケイシーだけが招かれて行われたと言います。
そして守秘義務の書類にでもサインさせられたのか、ケイシーは死ぬまでそのときに行われたリーディングの内容を公開することはありませんでした。
ルドルフ・シュタイナーの黙示録解説については、そのさわりを少しだけ当ブログでも扱いましたが、ヨハネが扱っている時空は途方もない未来にまで及んでおり、21世紀に世界が崩壊し、「今の自称キリスト教徒たち」の天国に移行するという話ではありません。
長大な時空のなかで4(地球紀)-5(第五根源人種)-7(第七文化時代)の末期時代に起こることが、今ある種の人々が「起こってほしいと期待している地球の大異変」です。シュタイナーはこう語っていました。
-----------------------------------第七文化期が終る頃、地球の状況が根本的に変化するであろう。その変化は、アトランティス期から後アトランティスへの過程で生じた大変動に匹敵するものとなろう。(神秘学概論-文庫版P421)シュタイナー同様にケイシーの予言も短期の時空を扱っているものではないと思えない人は「聖書」に基づいて「人類の滅亡が近々やってくる」という「期待感あるいは恐怖感」を抱いて生きている「うっかり八兵衛的な人々」、あるいはそういうマインドを経済的利益に転換してやろうと思っている人々のお祭り騒ぎ(≒営利活動)のカモにされているのでしょう。
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宇宙のひと時を2160年とすると、現在4-5-5(1413-3573)の時代の途中(610/2160)ですから、「大陸の模様替え期」までに約三分の二時と二時(1550+2160+2160=5870)が残っています。もちろん2160年という数値は説明の便宜のために用いている単位であることは踏まえておいてください。実際には前後するのです。
宇宙は7の数によって進展していきますから、ひと時とふた時と半時というのは、7という歴史単位の半分、すなわち3,5時ということになります。
4-6-1の時代に突入する直前に地球の様相が、アトランティス時代の終焉時代同様に変化するとシュタイナーは語っています。
4-5-4の時代、つまり7つの文化期の4番目の途中、ひと時と二時と半時に、インマヌエルの降誕がありました。そしてキリスト降誕から数えて、再び人類はひと時と二時と半時の時空を通り過ぎていくのです。7の半分、1+2+0,5とは、人類個人がが秘儀に参入する長さでもありました。
人類はこれから霊的発展の上昇期に向かうのですが、その前にアーリマンが地上にもたらしたものの精算期(今日)を通り過ぎなければならないので、アーリマンの受肉と言われる1998年は一種の焦点であり、ケイシーが新しい周期が1998年以降から始まると述べたのも、そのような長大な人類史の中に時おり現れるエポック現象を俯瞰して述べたものと考えるとよいでしょう。
アーリマンの地上降下事件は、ある意味、人類の成熟をテストするための中間試験のようなものでしょう。英語的振動(それはコンピュータ言語でもあります)を駆使して「人類の未来について狡猾な言葉を吐く人々」を人類は拒絶できるか、それが試されているのです。
ラテン語のスピリトゥスとは、もともとは「物質が希薄化したもの」を意味していました。今日、英語のゴーストは幽霊という意味で用いられています。ドイツ語で霊・精神を意味するガイストは古代の英語ではゴーストだったのです。けれどもこの近代の200年の間に、英米人たちは、物質性に関連づけられた言葉だったスピリットをゴーストの代わりに霊・精神という意味で口語訳聖書で使うようになりました。この意味をしばし考えてみてください。アングロサクソン精神の唯物論化はこういう領域でもひそかに進行してきたのです。
ラテン語が西洋の各民族言語を超えて支配していた時代はルシファー的錯誤の時代でした。15世紀以来徐々に、世界は英語という霊性・精神性を欠いた言語(シュタイナー曰く)、つまり物質の統治に最適な言語によって支配されるようになりました。しかし第6文化期(1500年後ですが)になると、支配言語もきっと交代するに違いありません。
前回「ドーリスライという言葉の脳内固着」の話をしましたけど、こういう現象って誰にでも普通にありますよね。特に多いのが特定の音楽、曲なり歌なりが、なぜか繰り返し頭のなかで鳴ってしまう日があるような…。
実は以前にも突然言葉がなんの脈絡もなく、頭の中に浮かぶ経験が去年の9月にありまして、それというのが、ケイシーのリーディングDVDの内容を調べている時期だったんですが、突然、なんの脈絡もなく「アラン・カルデク」という言葉が頭に浮かびました。
「え、アラン・カルデク、誰?」
それで、すぐネットで検索したら、「ああ、あの本を書いた人か」と思い出しました。若いころ地元の古本屋で『精霊の書』という、それまで聞いたことのなかった人物の「精神世界本」を見つけて買って帰って読み、すでにケイシーファンだった私は、当時の読後感としては特に新しい驚きや知見を得たということもなかったので、一度読んだきりそのままになって引っ越しを繰り返す中で無くしてしまっていた本でした。
記憶に残っていたのは「ブラジルの霊能者だ」ということだけでした。翻訳者の解説にはそのように書いてあったような記憶がありました。自分の頭の中に情報として残っていたのはそれだけだったのです。
しかし改めてアラン・カルデクをネットで調べてみると、「彼はブラジル人ではない」ことが分かりました。「間違って記憶していたんだ」と思いました。本自体が失われているので、記述を確認することもできません。例えば、翻訳者が「ブラジルで有名な…」と書いていたものをのちに私が記憶改変してしまった可能性があります。
「彼は19世紀後半にフランスで活躍した心霊主義者で、今日では本国よりもブラジルのカトリック教徒たちの間で有名である。彼らはカトリックでありながら、輪廻転生を信じており、カルデシアンと呼ばれて区別されている」というような趣旨の説明がネット上にありました。
そこで次に、本を手に入れようと思ったんですが、私が持っていた『精霊の書』は絶版で中古市場でも見つかりませんでした。それで代わりに『霊との対話』『天国と地獄』の二冊をネット経由で手に入れました。
その本の日本語呼称は、アラン・カルデックとなっており、21世紀の日本においては、私が記憶していたアラン・カルデク表記は廃れているようです。別の翻訳本ではアラン・カーデックという表記も見かけました。
さて、前置きが長くなりましたが、そうやって「奇妙な成り行き」で手に入れることになったアラン・カルデックの翻訳本のなかに私の印象に強く残った個所がありましたので、次の回でご紹介したいと思います。