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ついこのあいだまでGYAOでやってた魔法少女アニメ「シュガシュガルーン」(ユキヒロ・マツシタ監督作)、面白かったよねー。
前回の記事の最後がウルトラマン関連だったので、今回もウルトラマンつながりで書いてます。
「シュガシュガルーン」の作者は安野モヨコさん。私はまったく漫画には詳しくないけど、安野モヨコさんて、基本的に成人向けの漫画を主に描いてきた人ですよね。
「なかよし」に連載されて賞までとっちゃった漫画が原作のアニメです。
で、彼女のだんなが、あのエヴァンゲリオンの庵野秀明。アニメ「シュガシュガルーン」ではOPの絵コンテを仲良く夫婦でこなしてました。OPの演出は庵野秀明がやってます。エヴァンゲリオンといえば、ウルトラマン・オマージュ作品らしい(というようなことをネットのどこかで読んだ記憶がある)。
で、アニメ中に現れた、たとえば、こんなカット
これってやっぱり「ウルトラマン・オマージュ」でしょうか? ショコラの絵は実際には左手を突き上げる図になっていて、ここでは初代ウルトラマンの図と比較しやすくするために左右反転にしております。
OPテーマもEDテーマも小西康陽がやってます。これはクレジットみなくても曲を聴くだけですぐに「あ小西さんだ」と思っちゃうような彼らしい曲。
いやー、何度聞いても聞き飽きない。特に聴きどころは、バスドラのリズムと音。ほんとすごくいいですよ。
ショコラ役の松本まりかの独特の声質もとても気に入ってます。この感じは釘宮理恵系かな。それに「クイーンズブレイド」で鋼鉄姫ユーミルの声をやっていた齋藤彩夏の声にまた出会えたことがうれしい(ワッフル役です)。特徴のある声質ってほんと耳に残ります。
感情を担うアストラル体は、それぞれの持つ感情の性質によって色によって区別されるという秘教的な観点から言えば、まさに感情がさまざまな色によって区別されることを示しているこのアニメは秘儀の知識を比喩的に扱っていると言えます。
また悪心を改心させるという物語に内在しているモチーフは、マニ教的なテーマも持っていると言え、少女向けアニメとはいえ、なかなかあなどれない内容を含んでいると言えます。
とはいえ、そういう方面のことに意識を向けなくとも、「シュガシュガルーン」は笑えて、楽しいアニメなので、未見の人にはお勧めしますよ。PR -
われわれ凡人が表象の世界へ旅立つとき、すなわち夢の世界で、あれやこれやの活動をするときは、まったく受身に徹している。そこはもちろん霊界ではない。スウェデンボルグや宜保愛子は「意識的」に、肉体を地上のある一点に残したまま、表象の世界(霊界)へ旅立つ能力を持っているが、秘儀参入者の参入レベルの差が霊界の表象能力の差として現れる。シュタイナーは死者の道行きをアストラル界から見た惑星秩序というかなり異質な観点から説明している。私には惑星軌道の境界は神霊の活動領域の範囲を示しているように思われる。したがって、低い霊視能力しか持たないものは、高次の霊的存在を見ること(認識すること)ができないのである。たとえば、キリストは紀元前、イエスの肉体に受肉して地上で認識できる「人間」として現れるまでは、けっして人間の霊視力の中で認識できない高次の神霊(キュリオテテス、叡智の霊、主天使)だった。
スウェデンボルグや宜保愛子は表象世界における死者のイメージを「旅日記」ふうに描写してくれたが、ルドルフ・シュタイナーは「別の観点」から見た死者たちの道行きを語ってくれる。
現在、われわれが学校で学習する太陽を中心とした惑星秩序を利用して、その上に霊界の惑星秩序を重ねたのが以下の絵である。
霊界における惑星の宇宙秩序はプトレマイオスが描写した宇宙の姿と一致する。
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以前は、人間は世界をまったくちがったふうに見ていた。たとえば、コペルニクスは、地球は静止しているという誤謬を打ち砕いた。彼は、太陽が地球のまわりを回っていると想像するのは誤りだと教えた。ケプラーとガリレオ・ガリレイが、その教えを発展させた。それでも、コペルニクスも、天動説を唱えたプトレマイオスも、どちらも正しいのである。どこから太陽と地球を考察するかという、観点がちがうだけなのである。太陽系を物質界からではなく、アストラル界から見れば、プトレマイオスの体系は正しいのである。アストラル界から見れば、昔の人々が思っていたように、地球が中心にある。アストラル界では、すべてが逆に見えるということを思い出してもらいたい。プトレマイオスの体系はアストラル界に通用し、コペルニクスの体系は物質界に通用するのである。(ルドルフ・シュタイナー「神智学の門前にて」P140)
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霊界にある地球を宇宙の惑星秩序のなかの中心として据え直して描くと、天体の順番は、(0)地球(人間の活動範囲)-(1)月(天使アンゲロイの活動範囲)-(2)水星(大天使アルヒアンゲロイの活動範囲)-(3)金星(権天使アルヒャイの活動範囲)-(4)太陽(能天使エクスシアイの活動範囲)-(5)火星(力天使デュナミスの活動範囲)-(6)木星(主天使キュリオテテスの活動範囲)-(7)土星(座天使トローネの活動範囲)となる。ただし古代では水星を金星と呼び、金星を水星と呼んでいたことにも注意を促したい。月領域までしか達することのできない秘儀参入者は天使は認識できても、大天使を見ること(認識すること)はできない。また水星領域までしか達することのできない秘儀参入者は権天使を見ることはできない。
ではシュタイナーの発言を見てみよう。--------------------------------------------
私たちは、死の扉をくぐったあと、「欲界」と呼ばれる領域を通過していきます。(ルドルフ・シュタイナー「精神科学から見た死後の生」P96)私たちは空間を越えて、広がっていきます。欲界期のあいだ、私たちは絶えず拡張していきます。そして欲界期が終わるとき、私たちは地球を回る月の軌道と同じ大きさになります。(P97
欲界期を通過しおわると、つぎの時期に、人間はもっと大きな空間のなかに生きます。人間はどこまでも拡張していきます。欲界期が終わると、人間は月の軌道内と同じ大きさの天空を越えて広がります。人間が地上での生において有した、地上生への情動、憧れ、情熱すべてが脱ぎ捨てられて、人間が死後に通過する欲界期の空間内に取り残されます。(P98)
ついで、私たちはさらに拡張していきます。
さらに拡張すると、私たちは神秘学で「水星領域」と呼ばれる、第二の領域に到ります。
不道徳な人は水星領域、すなわち欲界期のあとに来る時期において、自分と同じころに地上を去って精神界に行った人々を、見出すことができません。
地上で不道徳だった人は、精神世界の水星領域で孤独な隠者のようになります。道徳的だった人は、社交的になります。道徳的だった人は水星領域で、地上で懇意にしていた人々を、心魂存在として見出します。
欲界=月領域においては、私たちは社交に関して、これとは別の困難さを感じます。しかし一般的に言って、「月領域でも、人間は心魂の性質によって、孤独な隠者か社交家になる」と、思い浮かべることができます。(P99)
一般的に、月領域と水星領域において、すでに地上で親しかった以外の人々を見出すことは不可能です。その他の人々は、私たちには未知のままです。私たちが死後の世界で、他の人々と一緒にいるための条件は、「地上でも一緒にいた」ことです。(P101)
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「水星領域の霊視者」宜保愛子は「霊界ではときどき自分の見知っている人々に出会うが、互いに存在を確認しあう程度でみな黙々と自分の道を歩く」、「現世で仲のよかった夫婦や恋人が、霊界で会いたいなと思ったとき、その霊はスーッと側に来る。だが、心のなかでは嬉しいのかも知れませんが、ただ側に黙っているだけです」と書いている。死者は水星領域からさらに金星領域、太陽領域へと拡張する。
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死後、水星のつぎに通過する領域は金星領域です。地上で非宗教的な傾向だった場合、金星領域で「隠遁者」になります。金星領域では、死者は宗教および世界観ごとにグループを作ります。地上では、さまざまな傾向の宗教的ないとなみがあります。同じ世界観を持つ人々は、金星領域において大きな、力強い教区を形成します。それらの人々は隠遁者ではありません。
全体として、「金星領域では、自分と同じ世界観、同じ信仰を持った人々と集まることができる。他の信仰を持った人々とは、理解が困難である」と、言うことができます。(P108)
ついで、太陽領域に到ります。金星領域のつぎに通過する領域です。太陽領域では、さまざまな信条を和解させ、さまざまな宗教信条のあいだに橋を架けることができます。(P109)
--------------------------------------------スウェデンボルグの霊界報告を読むと、死者が思想や趣味嗜好ごとにグループを作る場所があることを報告している。もしかしたらスウェデンボルグは太陽領域までを見ることのできた霊能者だったのではないだろうか。ただ、私自身としては、スウエデンボルグという名前の由来から彼の認識力をもうひとつ上げて「火星領域の認識者」としたいと思う部分もある。
実はスウェデンボルグという名は彼にとって新しい名前なのだ。スウェデンボルグという名前は聖職者だった彼の父親がその功績によりスウェーデン女王から「今後はこの名前を名乗りなさい」ともらった名前なのだ。(参考資料)息子の彼は父の改名によって「そのままその名を受け継いだ」のだった。そして54歳で「死の技術」をマスターした彼は、文字通り自分の名前に国名(民族名)を背負うに足る段階の霊能力者となった。私にはロンドンに秘儀参入者スウェデンボルグを出現させるために霊界によって不思議な回り道をとって準備がなされたようにも見える。古代の秘儀の伝統によれば、第5段階の秘儀参入者、つまりの火星の秘儀参入者は民族名で呼ばれるそうだ。たとえば古代のミトラ教では秘儀参入者を以下の7段階であらわす。
(1)烏 (2)隠者 (3)戦士 (4)獅子 (5)民族 (6)日の英雄 (7)父
やはり彼は火星領域までの秘密に接することができたということが言えるのではないだろうか。記紀を読むと名前(おくりな)にヤマトを冠している人々が出てくるが、これは「日本の古代人」の一部に秘儀参入者がいたことを示す「しるし」なのかもしれない。私自身は初期の天皇たちは「本物の秘儀参入者だった」と思っている。(参考資料)
シュタイナーは続いて「死者は火星領域、木星領域、土星領域へと進み、土星領域へ達すると、今度はだんだんと領域を縮小させていく」という趣旨の発言をしているが、どういうわけか今回参照している「精神科学から見た死後の生」では「火星領域ではルシファーと出会う」と簡単に記述したあと、木星領域、土星領域の具体的な記述をおこなっていない。反転して領域縮小の道に入るといよいよ地上への転生の準備を開始することになる。
p.s. 1 ちなみにキリストとイエスは別存在である。こんなことを語るとアナタは笑うだろうが、日本人は初代ウルトラマンの物語を知っているはずである。光の国からやってきたキリストとイエスは、これもまた光の国からやってきウルトラマンとハヤタ隊員のごとくに「水辺でひとつになった存在」である。さらにいえば、シュタイナーはイエスは二人がひとつになった存在であることを語っていたが、のちに円谷プロは男女ふたりで光の宇宙から来た存在と合体させることまでやっている。昭和時代の日本の子供たちにだったら、シュタイナーの「キリスト論」はまったく違和感なく受け入れられたに違いない。まったくこんな「秘儀の秘密」を子供たちの前に、比喩としてではあるが、堂々と公開してしまった日本という国はかなり奇妙で不思議な場所であるなと思う。
p.s.2 初代ウルトラマンのエピソードのなかにウルトラマンは古代にもやって来ていて「ノアの神」(ということはユダヤの神)として祭られていたという話がでてくる。脚本家はいったい「どこからインスピレーションを得た」のだろうか。「ウルトラマン=キリスト論」を唱えてる人って私以外にもいることを、さっき「ウルトラマン ユダヤの神」で検索して発見した。おもしろい国=日本になってきたなあ。
p.s.3 以下の写真は「ゴルゴタの丘で磔にされる神」
つか、もろじゃん。
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ヨーロッパでスウェデンボルグが心霊家として活躍し始めたのが18世紀の後半だった。ちなみに、彼が28歳のとき日本では徳川吉宗の享保の改革が起き、彼が亡くなった年の1772年には田沼意次が老中になっている。すでにヨーロッパ人たちが近代化に邁進していた時代である。多くの西欧人たちの心から「敬神の念」が薄れていきつつあった時代に彼は登場した。彼は「続 霊界からの手記」(タツの本)の中で「世間の人々の中には、初めからあの世なんて存在しない、世界とはこの世だけだと考えている人も少なくないのは私も知っている」(P26)と述べている。唯物論者が幅をきかす時代が幕を開け始めていた。
スウェデンボルグがいわゆる「霊に目覚めた」のは50歳半ば近くになってのころだった。それは見知らぬ男との出会いから始まる。「霊界からの手記」(タツの本)によると以下の通りである。------------------------------------------------
私が霊の世界に導かれる最初の機縁となった不思議な経験のことを少し述べておこう。忘れもしない二十数年前の夏の夕べのことであった。このころ、私はある用向きのため故国スウェーデンを離れ、海をへだてた異国イギリスの客舎で初老に入ろうという身でひとりわび住まいをしていた。その夕べ、私は街にでていつもの店で夕食をとっていた。そのとき、店にはほかに客はなく、客は私ひとりだけであった。
食事をすませた私は、今夕は、やや食べ過ぎたかなと思いつつフォークをテーブルに置き、くつろいでいた。
不思議な経験はこのとき起きたのである。
私が食事をとっていた部屋の床面いっぱいに、蛇やガマガエルなどの気味の悪い生き物が突然湧いてでた。私は気もどうてんするばかりに驚いた。だが、しばらくするとこの気味の悪い生き物の姿は消えてなくなり、そこに、それまで一度も会ったことのない異様な雰囲気をただよわせた人物が現れた。
彼は私に告げた。
「汝、あまりに食を過ごすなかれ」その人物は、私にこれだけいうと私の視界からかき消すように消え、そのあとには雲や霞のようなものが部屋中にただよい、私もその中に包まれてしまった。そして、すぐ雲や霞も消え、私は前のように部屋の中にひとりいる自分を発見した。
私は急いで宿に帰った。だが宿の主人にはなにも話さず自分の部屋にこもって、いまの奇怪な経験について考えた。私は体や心の疲れかなにかの変調のせいかと考えてみたが、そんなことでないのは私自身が一番よく知っていた。
しかし、健康で現世の用向きに忙しかったそのころの私は、このことを深くは思いわずらわず、すぐ眠りについた。翌日の夜には、もっと驚くべきことが起こるとは思いもよらずに……。
翌日の夜、この不思議な人物は再び、今度は私が眠りにつこうとしたベッドのそばにあらわれたのである。私の驚きと恐怖がどれほどのものであったかはいうもおろかであろう。驚きと恐怖にふるえている私に対し、彼はつぎのように、さらに驚くべきことを告げたのである。
「われ、汝を人間死後の世界、霊の世界へともなわん。汝、そこにて霊たちと交わり、その世界にて見聞きしたるところをありのままに記し、世の人々に伝えよ」
この不思議な人物には、その後この世ではもちろん霊界、死後の世界でも一度も会わない。いまの私には、あれが世の人々のいう神というものであったのか、それとも私自身の気づかなかった私の心の中の霊であったのかとも思うが、それはさだかにはわからない。ただ、はっきりわかるのは、私がこれを機縁として人間の死後の世界、霊の世界へ出入りするようになったことだけである。(「スウェデンボルグの霊界からの手記」タツの本P24-P26)
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この「霊界からの手記」のなかで彼は「死者はまず精霊界で精霊となり、その後、霊となって霊界に入る」という趣旨の説明をしている。つまり、日本語的な概念で言い換えると、成仏以前の死者を精霊と呼び、成仏以後の死者を霊と呼んで区別しているのである。だから彼によると「精霊界」は厳密に言うと「霊界」ではないということである。そして、われわれ日本人が大好きな怪談話で出てくる「幽霊たちが引き起こすさまざまな問題」は未成仏霊が引き起こす現象だと説明している。日本では精霊界のことを中有界と呼んで区別している本もある。
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この世の人間が死んで、まず第一にその霊がいく場所が精霊界である。人間は死後ただちに霊となるわけではなく、いったん精霊となって精霊界に入ったのち、ここを出て霊界へ入り、そこで永遠の生を送る霊となる。精霊が人間と霊の中間的な存在であるように精霊界も、人間の世、この世の物質界、自然界と霊界との中間にある世界なのである。(「霊界からの手記」P45)精霊界は少なくとも精霊たちの意識のうちでは、人間界と少しも変わらないところだといってよいくらいに似ている。(「霊界からの手記」P47)
現代の人びとに、それもごく限られた人にだけだが、直接的な霊との交流が可能なのは、まだ本当の霊にはなっていない精霊との対話だけである。(「霊界からの手記」P201)
精霊と人間との直接の対話が、人間にとって非常に危険な理由は、精霊はまだ精霊界での選別をへた霊でないため、中には凶霊も少なくないこと。また、精霊には、まだこの世にあった人間のときの記憶がかなり残っているため、これが対話の相手の人間に害をあたえることがしばしばあることのふたつによるものである。(「霊界からの手記」P202)
死んだ人間は死後の第一状態から第二、第三状態へという変化を経験しつつ本物の霊になって行く。この変化は霊界における一時的な居留地・精霊界で行われる。第三状態に至れば初めて本物の霊になるわけだが、その前の第一、第二状態ではまだ彼は人間と霊の中間とでもいうべき存在に止まっている。だから第一状態、第二状態のころの彼はまだまだ人間だったときの「尻っぽ」を強くつけているといってもいい。
霊が人間の生活に大きな影響を与えていることは前章で述べた。しかし彼らが与える影響にはいい影響もあれば悪い影響もある。このように一口に霊の与える影響といってもさまざまなものがあるのは、ひとつには彼が善霊か悪霊か、霊界のどの団体に属しているかといったことによる。しかし、他方では彼が死後のどの状態にいるかによっても違ってくるためだ。
前章で私は自分の死さえまだ自覚していなかったスウェーデン国王の例を上げたが、このときの国王はまだ人間にもっとも近い第一状態にいた。そして、このような状態にいる霊は人間にもっとも近いだけに人間にもっとも強い影響を与える。
第一状態から第三状態までの変化に要する時間は霊によって相違し、数カ月の者もあれば数年かかる者もある。中には数十年も第一状態に止まっている霊もあり、こういう霊は仏教的ないい方でいえば成仏できない霊である。世間には数十年も前に死んだ者の霊が幽霊になって出没したり、そのほかさまざまな気味悪い現象を起こしたり、いわゆる「たたり」をもたらしたりといった現象がよくある。そして、これは誰でももっともよく知っている現象である。これもその霊が人間に強い影響を与える第一状態にずっと止まっていることから起きる現象にほかならない。(「続 霊界からの手記」p69-P70)
---------------------------------------------------スウェデンボルグは本書の中でまず精霊界を描写し、続いて霊界を描写するのだが、その霊界の様子は以下の通りである。
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眼に入るのはどこまでも続いているかわからない赤茶けた色の広漠たる世界----それは砂漠のような感じもしたが、それとは明らかに違うものだった----が広がっており、私はその中に、夕闇のようなうす明かりの中にひとりいるのだった。この世界には、まったくなんの生命あるものの存在も、そのかけらさえ感じさせるものはなかった。それは、まさに永遠の死の世界だった。(「霊界からの手記」P64)
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これと似たような霊界描写をしているのが宜保愛子である。---------------------------------------------------
霊界とはどんなところなのでしょうか。霊視でこれまで見てきた霊界の様子をご説明しましょう。まず、霊界には、朝、昼、晩の区別はなく、夕方より多少明るいかなという感じです。しかも、季節などありませんから、寒くも暑くもない、どんよりとしたところです。ギラギラと太陽が照るということもないのです。そして、赤土のおまんじゅうのような山また山が広がっています。高い山はなく、丘陵がどこまでも続いています。緑の樹や草はほとんどなく、ただほんの少し小さな雑草が生えているだけです。大きい木などはどこにも見当たりません。(「死後の世界」P62)
---------------------------------------------------ただ二人とも霊界で最初に見る世界はそういう世界だが、その後別の世界が現れると述べている。
また地獄についての説明も似ている。
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地獄の霊とても人間だったときの悪業に対する刑罰として地獄に落とされ、そこで刑罰を受けているわけではない。地獄の霊は地獄が自分に合っているがゆえに自分で自由に地獄を選んでそこに行くということであった。(スウェデンボルグ「霊界からの手記」P95)
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地獄へと行くべき霊は、ひとりでに自然に足がその方向へと向いていくのです。だれかに選別されて地獄への道を歩くのではありません。霊が霊界に着くと、あらかじめそれぞれの霊のために用意されている道があるわけです。霊界で進むべき道は、現世ですでに決定づけられています。現世での生きざまそのものが、霊界での道に続いているともいうことができます。(宜保愛子「死後の世界」P58)
---------------------------------------------------宜保愛子の場合、死者はずっとひとりぼっちで、ひたすら「変化のない世界」をとぼとぼと歩き、最後に来世に到るという趣旨のことを述べているが、スウェデンボルグは「思想や宗教を同じくする人々が集団を作って生活している」という描写をしている箇所がある。
シュタイナーは死者は社交期と孤独期を繰り返しながら死後の生活を送ると述べている。社交期は人間の生活の昼、孤独期は夜にあたるとも言っている。
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魂はいろいろな状態を体験していきます。魂はいつでも自分の霊的な照明力、創造力を環境へ向けて放射し、それによって周囲の神霊たちを体験できるようにするのではありません。この状態は、照明力が放射できないように感じられる状態と交替するのです。この状態のときの魂は内的に鈍くなり、もはや光を放射できず、その全存在を内に向け、まったく孤独な生活を体験します。ですからちょうど日常生活において、眠りと目覚めが交替するように、死後の魂は、外側へ流れ出る生活と内的な孤独の生活とを交互に繰り返すのです。(「死後の生活」P63)
----------------------------------------------------「新耳袋」には父親に話しかけてくる亡くなった幼い娘の話が出てくるが、父親が「あの世ってどんなところや?」と訊ねると「お花畑みたいなところもあるけど、真っ暗なところやで」と娘が答えたという話を伝えている。今までの話となにがしか関連性を感じる報告ではある。
宜保愛子とスウェデンボルグの霊界描写の違いは両人の霊視能力の差から来ているのではないかと私は考えている。シュタイナーは、死者の道行(精神の変化と成長にともなう行動領域の変化)を霊界の惑星軌道によって説明している。そこから考えると、宜保愛子は「水星領域までの霊視者」であり、スウェデンボルグは「太陽領域までの霊視者だった」と言えるのではないかと思う。認識の領域の範囲が拡張すると今まで見えなかった高次の霊(そして深遠なる摂理)を認識できるようになる。宜保愛子もスウェデンボルグも通常の人間では体験しえない体験を持ったわけだが、二人にとっても「まだ認識しえない世界・霊眼に映じてこない世界・さらに遠くへ達する惑星領域」というものはあったのである。しかし彼らの「体験報告」には素直に耳を傾けたい。人間は死後、自分自身を拡張させて、順次行動領域を地球自身から月の軌道範囲、水星、金星、太陽、火星、木星、土星の軌道範囲まで広げていくという記述をシュタイナーが行っている。ただしこの惑星軌道はコペルニクスの惑星観(現在学校で学習しているもの)ではなくプトレマイオスの惑星観による。
これについては次回披露しようと思う。
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お盆の時期なので、それに関連した記事を書こうと思う。
宜保愛子は「死後の世界」の中で「供養の大切さを訴えるのが私の使命」と書いている。「供養」という言葉を使うと仏教的な様式のイメージがたちまちにして沸き起こり、拒絶的な感情がわきあがってくる人もいるだろうが、宜保愛子の言う「供養」という言葉について要約すれば、つまり「かつてあなたと交流のあった死者たちのことを温かく思い出してあげなさい」ということだ。
死者を思い出すためのシステムは日本においては「仏教」がおもに担ってきた。仏壇というものが各家庭に入ってきた時期については調べてみないとよく分からないが、まさにこれは「Remember The Dead」のために作られたものだと思う。
このような「習慣」は日本独特のものなのかと言えば、どうもそうではないようだ。たとえばルドルフ・シュタイナーは「精神科学から見た死後の生」の中でこう書いている。
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比較的最近まで、生者と死者とのあいだのいきいきとした交流が、今日よりもずっと活発だったことが見出されます。生者と死者との交流は、次第に困難になってきました。中世のキリスト教徒、何百年か昔のキリスト教徒は、祈るとき、先祖や亡くなった知人のことを思ったものです。当時は、祈る人の感情が今日よりもずっと力強いものであり、死者の心魂へと突き進んでいったのです。
昔は祈りのなかに、死者のことを思う人々から、暖かい愛の息吹が流れてくるのを、死者たちの心魂は、容易に感じることができました。今日のような、外的なことがらばかりが重視される文化では、死者はそのような愛の息吹を感じられなくなっています。今日では、死者たちは生者から断絶されています。地上に生きている者たちの心魂のなかで何が生じているのかを見るのが、死者たちには大変困難になっています。(P124-P125)
私たちが死者に対して抱く愛、あるいは単なる共感でも、死者の歩む道を楽にし、死者から妨害を取り除きます。(P128)
死者が知ることができる人々は、知己に限定されます。地上で出会ったことのない人々の心魂は、かたわらを通り過ぎていき、死者はそれらの心魂を知覚しません。(P175)
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宜保愛子が著書のなかで何度も繰り返して強調してきたことがまさに「私たちが死者に対して抱く愛、あるいは単なる共感でも、死者の歩む道を楽にし、死者から妨害を取り除く」から、「死者を思い出すことによって死者が歩む道を照らし助けてあげてください」ということだった。くわえて宜保愛子はあの世で地獄的な道行に陥っている人々のことをとても心配していた。あの世でそのような立場に陥っている人々のことを忘れてはいけないというのだ。
こういう発想についてはシュタイナーが、さきほどの著書の中でこんなことを書いている。
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だれかが他人を憎んだ、あるいは、他人に反感を感じたとしてみましょう。憎まれた人、反感を持たれた人が死んだとします。そうすると、その人を憎んだ者、その人に反感を持っていた者は、その人をもはや以前と同じように憎むことができなくなったり、もはや反感を持たなくなったりします。
自分が憎んでいた人が死ぬとします。その人が死んだ後も、その人への憎しみがなくならないとしたら、繊細な思いやりある心魂は、この憎しみ、反感を恥じます。このような感情を、透視者は追っていくことができます。そして、「なぜ繊細な心魂は、死者に対する憎しみまたは反感を、恥ずかしく思うのだろうか。そのような憎しみを持ったことが、人に知られていない場合でも、そのような恥の感情が生じるのはなぜか」という問いが立てられます。
死の扉を通過して精神世界に赴いた人間を透視者が追っていき、地上に残った者にまなざしを向けると、死者の心魂が生者の心魂のなかにある憎しみをはっきりと知覚・感受するのが分かります。比喩的に語れば、「死者は憎しみを見る」のです。
そのような憎しみが、死者にとってどのような意味があるのかも、私たちは追及していけます。そのような憎しみは、死者の精神的な進化におけるよい意図を妨害するものです。地上で他人が目標を達成しようとするのを妨害するのと同じような妨害なのです。死者は、その憎しみが自分の最良の意図を妨害するものであることを知ります。これが精神世界における事実です。
こうして、心魂の思惟のなかで憎しみが消滅していくのが分かります。自分が憎んでいた人が死ぬと、恥を感じるようになるからです。
透視者でないと、何が起こっているのか、知ることができません。しかし自分を観察すると、「死者は私の憎しみを見ている。私の憎しみは、死者のよい意図を妨害するものなのだ」という自然な感情が、心魂なかに生じます。
精神世界に上昇すると、そのような感情を生み出すもとになっている事象に注目できます。そのようにして明らかになる深層の感情が、人間の心魂のなかにはたくさんあります。地上にある多くのことがらを、単に外的-物質的に観察しないようにし、自分を観察して、「死者から観察されている」と感じると、死者への憎しみが消えていきます。
私たちが死者に対して抱く愛、あるいは単なる共感でも、死者の歩む道を楽にし、死者から妨害を取り除きます。(P128)
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「人は死んだらみな仏様になる」という発想を土台に宗教生活を営んできた日本人には非常によく分かる感覚である。私は子供時代、親類の集まりで死者のことをそしる人に「もうこの人は仏様になったんだから、その人の悪口を言うのはやめないさい」とたしなめる別の親類がいたことを覚えている。死者に対してこういう接し方をする日本人に、あなたも子供のころ、どこかの場面で遭遇した経験があるのではなかろうか。
こういう繊細な感覚については日本全国津々浦々共通のものがあったと思うが、宜保愛子が90年代に登場してきた当時の日本の「精神状態」はどういうものだったのだろうか。高度成長期からバブル時代とその崩壊、そしてそれに続く没落の時代にかけて、日本の人々はかなり「あの世への関心」を失っていたのだろうと逆に思われる。あの世はそれを憂えていたのではなかろうか。だから宜保愛子は「メッセージ」を伝えに「あの世からこの世に派遣されてきた」のではなかろうか。
有名人になる以前この人は学習塾の経営者兼先生をしていた人だった。テレビ番組を見れば分かるとおり、大柄で海外へ出ると通訳をつけずに英語を自在にあやつる。本人は「ヨーロッパ人から日本人に転生した」と考えている。
かつてヨーロッパ人として生きてきた人が、何度か日本人として転生し、庶民の間でずっと伝承されてきた「日本の伝統的な仏教的センス」を学んだあと----彼女の先祖はお寺さんだった----「死者を思い出しなさい」という言葉を伝えに現れたと私は思っている。
次回は「スウェデンボルグと宜保愛子」のテーマで書く予定です。
p.s. 1 日本神道確立時代(律令国家成立時代)以前の日本人の宗教感覚とその習俗は、その多くが古代に日本にやってきてその後独自な発展を遂げた日本仏教の行事の中に流れ込みぼんやりと反映している。たとえば日本の古代の人々(アイヌの人々もまたそうである)が知っていたことのひとつに「あの世は(シュタイナーの言うアストラル界)逆さまの世界として現れる」というのがある。日本人は死者の死装束を生きている時とは逆向きの左前にしつらえるが、これは古代から受け継がれてきた作法のひとつであろう。
アイヌの人々が「死後の世界」をどのように眺めていたかは梅原猛の「古代幻視」(文春文庫)に以下のような報告がある。「アイヌの信ずるあの世は、この世とあまり変わりはなく、ただこの世と全てがあべこべであるという違いがあるだけである。この世の右が左、左が右、昼は夜、夜は昼、夏は冬、冬が夏という違いがあるだけである。死ねば、人は祖先の待っているそういうあの世へ往き、しばらくあの世に滞在して、また同族の子孫となってこの世へ帰ってくる。」(P21)
古代、のちに日本と呼ばれるようになる土地に住んでいたさまざまな種族に属する人々は、仏教によって輪廻思想を学んだのではないのである。
p.s.2 神社は超越的存在あるいは超人を祭る場であって、庶民個々人の「死後の生活」についてなにひとつ「手当て」をしてはくれない。だから日本伝統の宗教が神道であったというのは一面の真理ではあろうが、一方で古代の日本人たちは「自分たち自身の死後の生活」のための別系統の儀礼ももっていたのだ。だがそれは現在にいたるまで決して「大声」で語られることはなかったのであって、それはいつも大きな物の裏側に隠れて維持されてきた。学者はその大きな物を神道だとか儒教だとか道教だとか仏教だとか呼んでいるにすぎない。そして学者たちは「日本人の宗教観にはこれらの影響があった」としたり顔で解説をしている。
p.s.3 祓い思想を前面に打ち出す現在に伝わる神道は、空から音を立てて平原に激突し、そのあたりにあったさまざまな遺物を焼き払って直径数百メートルもの巨大なくぼ地を作る隕石のようなものである。もともと内部にあったものは砂煙となって外側に吐き出される。そこに超越的存在があらたにすえられる。砂煙になって舞い上がったものは、大気に混じりこみ、「庶民がそれを吸い庶民の肺のなかでひそかに維持されてきた」。比喩的に表現すればそういうことになるのだろう。現代人である我々もその「古代に吹き飛ばされ、見えない空気に混じった灰」を吸って生きているのには違いない。ただ「意識できないだけ」である。
p.s4 三木住職が「三木大雲百物語 其の四」のなかでシュタイナーとそっくりな話をしていたので紹介しておこう(6:00を過ぎたあたりから始まる)。
「モニタールーム」のたとえを聞いたとき、以下のシュタイナーの言葉を思い出してしまったのだ。
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生前の死者とともに体験したことを、具象的にいきいきと思い浮かべて、その思考を死者に送ろうとすると、その思考は死者のところへと流れていきます。心魂に浮かぶそのイメージを、死者は一個の窓のように感じます。その窓をとおして、死者は地上世界を覗くのです。私たちが思考として死者に送るものだけが、死者のところに到るのではありません。そのイメージをとおして、全世界が死者のところに現れます。私たちが死者に送るイメージは一個の窓のようなものであり、その窓をとおして、死者は私たちの世界を眺めます。(「精神科学から見た死後の生」ルドルフ・シュタイナーP77)
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もーほんとに暑くて暑くてたまらないこのごろ。
そういうわけで、涼しくなるためのツールとしてのホラー映画や怪談話のお世話になりっぱなしなこのごろ。
YouTubeやGYAOなんぞで稲川淳二の話をまた聞いたりするわけです。
そんななか三木大雲というお坊さんの怪談がYouTubeにあがっているのに気がつきました。これがけっこういいです。
なかでも呪いの人形の話(「土産」)が「実にいやな感じ」でインパクトありました。
300万円のオレオレ詐欺の話(三木大雲の百物語1)もまたいやーな感じでよかったです。「三木大雲の百物語」というシリーズがぽつぽつとYouTubeに上がり続けてますので、これはぜひとも「百話」までやってもらいたいですよ。
この和尚さん、素人の怪談グランプリで準優勝だったそうで、稲川淳二さんから「練習しずぎましたね」と言われたとか。
この人は小さいころから特殊な方面で霊感が働くようで、「死のにおい」(つまり「この人は死にかけている」ってこと)がわかるそうです。(えっ、「死神の匂い」?もしかして。でも「ごげついたような、すっぱっぽいにおい」とは違うようです、住職の場合。」)
なんか顔がいいですよね、三木さん。信頼できるお坊さんというか。
p.s.1そういうわけで調子に乗って三木大雲和尚の文庫本(怪談和尚の京都怪奇譚)まで買ってしまいました。
p.s.2 ワタシ、宜保愛子さんも好きなんですが、YouTube少ないですねえ。著書を読んで気がついたのですが、あの世(中有界=精霊界ではなくて霊界)の描写(赤茶色の荒涼とした景色)がスウェデンボルグと同じなのが非常に興味深かったですよ。
p.s.3 「新耳袋」の木原浩勝・中山市朗コンビは本のなかで怨念系というか因縁復讐系は意図的に載せなかったと書いてましたけど、今度世に出すべき本は、そのまだ世に出していない「怨念系列」の話じゃないでしょうか。霊視によって見えてきた因縁話を書いてきた宜保愛子さんの本(「死後の世界」)はほぼ怨霊の復讐劇ばかりでしたしね。
p.s.4 大津中2自殺事件では越市長が夕方のTBSのニュースに生出演した際、顔面部の画像だけが何度もゆがむなどという面妖な事件もありました(まさに「ほんとにあった呪いのビデオ」を地で行く感じです)。偶然とは思えないんですよねえ、これ。