-
古代には、秘儀参入者は外的な名前ではなく、彼らが何を知っているかによって、彼らにふさわしい名前で呼ばれました。(『輪廻転生とカルマ』P138)
記紀神話に登場してくる人物たちに付けられている呼称は、実際に声に出して読んでみると、現代日本人の日常感覚からするとまことに奇妙です。
古代の神話や伝説は、古代の見霊意識が霊界の中に見た事柄を感覚界の出来事に置き換えて物語ったものであり、ときには本質的に秘儀の経過の再現に他ならないのです(『イエスを語る』P211)。記紀は「古代人の秘儀参入体験を書き表した書である」という観点で記紀に現れる不思議な言葉、「記号のような文字」をあれこれ考察してみるのは、自分を秘教学徒だとみなして日々精進されている方々には大変面白い研究テーマだと思います。神話部分は実際に秘儀参入の知識を守ってきた古代の組織によって口伝によって保持されてきたものでしょう。本来漢字を使う文化ではなかったのですから、暗唱者から聞き取って文字に起こしたという古事記の冒頭部分は事実でしょう。ですから、記紀が書物として人々の前へ出現したのは、もちろん「政争の結果」だったのですが、今日においては日本人への「贈り物」となっていることは、当時懸命に中国由来の漢文を学習習得し、それを日本語化してくれた「名もなき官僚たちの頭脳労働」、その奮闘努力には感謝の念を捧げたいと思います。天(あま)、国(くに)、彦(ひこ)、姫(ひめ)、根(ね)、火(ほ)、耳(みみ)、足(たらし)、別(わけ)、勝(かち)、甕(みか)、武(たけ)、早日(はやひ)、津(つ)、貴(むち)、などなど、「神々の名前に添えられて出てくる」こういった言葉(記号部分)にはちゃんとそれが意味している実体があったと思います。たとえば記紀には「根の国」という言葉がありますが、この言葉は「死後の世界」として語られています。人智学的な観点で言い換えると、「根」とはアストラル界を意味する言葉です。死者が最初に行く場所です。そして見霊者には原因と結果があべこべに現れる世界、つまり時間が逆に流れる世界です。
私のYouTube「秘教学徒」動画では、日本人が死者の着物を普通とは逆(左前)に整えるのは、現代人には、その由来の大本は忘れられてしまっているが、「死者はあべこべの世界にいく」という古代以来の「先祖たちが知っていた知識」が伝承されて形式だけが習慣化した結果だという趣旨の話をしたことがありました。
霊能力者に予言が可能なのも、アストラル界では結果が先に見え、原因が後に見えるからです。アストラル界では、245という数列を見たら、実際には542と受け取るのが正しい解釈なのです。自己像に関する美醜イメージもさかさまに出現します。「ね」という言葉は古代人にとって大本、土台を意味していたことがだんだん分かってきました。「ね」とは黄泉平坂の向こうにある世界です。ですからこの世の大本としての「ね」=霊界(アストラル界)と解釈することもできます。霊主体従という言葉がありますが、世界の成り立ちにおいてまず霊の国があり、その霊の国を土台、つまり「根」として、この物質界が生まれたのだ、という感覚は、東西世界に共通の、古代に生きた人々の「宗教感覚」でした。秘儀の三段階として霊視(イマジネーション)能力、霊聴(インスピレーション)能力、霊的合一(イントゥイション)能力という概念をご紹介したことがありました。この概念を記紀神話に接続させて言い直せば、霊視能力、つまりアストラル界に像意識のみで参入できる人物は霊視者であり、日本の古代の秘教用語では「根の能力」を持った人物ということになります。アストラル界で霊聴能力つまりイメージだけではなく音や言葉をも聞き分ける能力をも行使できる人物は「耳の能力」を持った人物です。この点に関しては聖徳太子に関する記事で言及しました。神話上では瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の父親になっている天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)は、日本書紀の別の個所では天忍穂根尊あるいは天忍穂骨尊(あめのおしほねのみこと)とも書かれています。これは彼の秘儀参入段階に「根」段階(霊視者段階)から「耳」段階(霊聴能力者段階)への変遷があったことを暗示しているのではないでしょうか。日本書紀の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の天孫降臨神話を現代訳で見てみましょう。高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、真床追衾(まとこおうふすま)で皇孫(すめみま)天津彦火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を覆いかぶせて地上に降らせられた。皇孫は、そこで天磐座(あまのいわくら)を離れ、また天八重雲(あめのやえたなくも)をおし分けて、その威厳によって道をおし分け、きりひらいて、やがて日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に降臨された。(中公バックス日本の名著1「日本書記」P92)日本神話で言う「神が天降った」というのは、「死の体験をして天磐座(あまのいわくら=霊界)の実相を知りアストラル界の雲間を通って地上界へ戻ってきた」という意味でしょう。つまり、そういう言い回しで「彼は秘儀参入者だ」と言っているのです。シュタイナーが秘儀参入を行う場所として以下のような発言をしています。古代においては、秘儀への参入者は三日半の間、仮死状態に置かれました。そして、小さな部屋、墓のようなもののなかに置かれました。そうして、死の眠りの状態にやすらいだのです。あるいは、両手を伸ばして十字架にくくりつけられました。そのようにして、霊的な状態に入っていったのです。(「黙示録の秘密」P29)日本の秘儀参入の場合、三日半の秘儀参入が実際に行われていた時代は、真床追衾と呼ばれる寝具、これを私が現代訳の参照先とした中公バックス「日本書記」の注では「神聖なふとん」と注記していましたが、つまり瓊瓊杵尊は、今で言うところの「布団」の中に寝かされて、意識を奪われて、霊界を三日半の間旅し、そして現実界にふたたび戻ってきたのです。記紀の記述をそのまま日常生活で自然に用いている連想感覚で思い描き、たとえば宮崎駿監督のアニメのように、布団にくるまって〈空から降ってくる人〉の映像が頭の中に生じたのだとすれば、それはまったく通俗的な解釈感覚によったイメージ化なのです(「え、もしかして日本神話って、コメディ?」と唯物論者なら笑い出しさえしそうです)。古代の文献にあたるとき、問題は大抵の人は自分の抱いたイメージに疑問を抱かないということです。だから「通俗的に考えている」つまり「唯物論的に考えている」ということを、学術論文を書く高名な大学教授も、またその論文を同じような連想イメージを心に思い浮かべながら読んでいる読者も、「いま心に無意識に浮かべている連想イメージ」自体が解釈を妨げる原因になっていることを自戒できません。もしあなたが神話を読んで、古代人が、そういう「地上界で起こっている出来事のイメージ」を口伝のなかで描いていると無意識に思いながら読んでいるとしたら、そういう「安易な連想」をしている自分は「正しい位置」で古代の文献を読んでいるのだろうかと疑える感覚を取り戻さなければなりません。そうでないと「書かれていることを物質世界で魔術的に利用する勢力(書かれていることが現実化された世界を見たがる勢力)」が世の中に送り出してくる解釈に、エンタメ・ワクワク感覚で接しようが、不安感いっぱいで接しようが、心を奪われてしまいます。そういう人々は、自覚なしにアーリマン(物質界の統治者)の協力者になっているのかもしれません。たとえばヨハネの黙示録に対する「読者の接近の仕方」がそうです。ヨハネの黙示録は「秘儀参入者の秘儀体験を書き表した書」なのです。秘儀参入とは各人の魂の中にまどろんでいる力と能力を発展させることです。ヨハネは、人類個々が未来にいずれ体験するであろう秘儀体験を、前もって人々の前に提示したのです。
「黙示録の秘密」でシュタイナーはこう書いています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー黙示録の筆者はみずからのキリスト教秘儀体験を書いたのですが、ほかの人々はそれを公教的に理解しました。彼らは、偉大な霊視者が見たもの、秘儀参入者が霊的に認識した、何千年もの時空のなかで生起することを、まもなく感覚的・可視的な生活のなかで外的に生じるものに違いないと思いました。感覚的・物質的な雲のなかにキリスト・イエスは再来する、まもなく感覚的に生じる事柄について黙示録の筆者は書いたのだ、という見解が成立しました。何も起こらないと、単に期限を延ばして、「キリスト・イエスの出現によって古い宗教は終わり、地上に新しい時代が到来する」といい、「黙示録に書かれたことは一千年後に物質的・感覚的に生じる」と、感覚的に理解したのです。こうして、実際、紀元千年には多くの人々がキリスト教に敵対する力、反キリストが感覚界に現れるのを待ちました。そして、ふたたび何も起こらなかったので、また、期限を延長しました。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー全世界の教会人と信徒のなかに、そういう勢力がいて、「世界感覚において唯物論者化したキリスト教徒たち」に、おおきな影響力を行使しています。彼らは聖書の言葉を物質的イメージでしか把握できません。そういう人々が「書かれていること」を利用して人々の心をコントロールしようとする勢力に、そうとは意図せずに協力しているのです。人智学的-黙示録的には、この時空が終了するのにあと魚座時代、水瓶座時代、山羊座時代を経なければなりません。26000年の宇宙サイクルを12の星座で均等に割ると約2160年ほどですが、現在の時空は魚座時代の途中なのです。実際の星座は均等に分かれて存在しているのではないので、一時代につき2000年から3000年の幅があります。現在の星占いの主流派が用いているのは「天文学的な天体関係の位置情報」ではありません。実際の宇宙物理学的な位置関係において、太陽は春分点に魚座から今後も昇り続けるのです。ですから、通常の占星術の言説と人智学の説明を混同しないように注意してください。シュタイナーの言う魚座の時代というのは占星術用語ではないのです。
人類は過去、レムリア大陸時代、アトランティス大陸時代を経てきました。人智学的には、約1万年前のアトランティス時代終焉後に開始された現在の時空が終了するのに、あと魚座時代、水瓶座時代、山羊座時代を経なければなりません。一星座時代につき2000年から3000年の幅があります。魚座時代はまだ2000年ほど続きます。
現在の地球時代(第5人種時代)は今後「ひと時とふた時と半時という三つの星座期間」つまり、約6000年から8000年ほどを費やして「万人の万人に対する戦いの時代」を迎えて、地球の大変動とともに現在の第5人種時代を終え、浮上した新大陸を主要活動地域として第6人種時代に入り、また7つの文化期を経ていきます。そしてまた地球の様相が変容して第七人種時代を迎え、7つの文化期を経て終焉し、遂に地球の物質性が解消してアストラル的な天体、木星紀に変容していきます。つまり人類が再び「失った天使の位階」の一員に戻るまでには、まだまだ膨大な時間を「耐え忍ばなければならない」のです。「どこかの教会に属して信仰告白を済ませておけば、今の人格のままで天国へ行ける」あるいは「天使になれる」と思うのはあまりにも不遜な自己認識不足の思考態度なのだということです。人類個々の地上意識部分は、今のところ、神界に存する真の自我が物質界にのばしたプローブのようなものです。長い時間をかけて二つの世界が段々と重なっていくのです。「人生1回のみの〈短い〉忍耐」ではまったく足りないのです。現代人は聖書にしてもそうですが、古代の文献を読んだとき、そういう「物質的な視覚化連想で世界を眺めている自分に疑問を持たない」ので、自分の〈人間の世界〉の解釈や分析は〈預言と付き合わせて筋が通っている〉と考えています。しかし実際にはそれはとてもとても〈安易な思考態度〉なのです。(次回へ続く)次回は今回の話をもとに古代の武人について書きたいと思います。PR -
聖徳太子について「近いうちに動画一本」とか書いていましたが、全然進んでおりません。
断片的な「あれってこういうことかな」的な「思いつき」はあるんですが、文章化して書くには確信感覚が心に積もっていかないので、「やっぱだめだわ、今の状態のままだとすると」という感じです。
記紀の神話部分は「秘儀参入の書」であり、古代日本の秘儀参入者たちの秘儀体験に由来するということは自分のなかでははっきりしてるんですが、これも「誰かに伝える形式」にするのが、もうめんどくさい。それに「世間にそんな需要」ありますか?
ルドルフ・シュタイナーは『ヨハネ福音書講義』のなかで秘儀の7段階について述べていました(なんでしたらトリビアとして暗記してください)。
1烏 2隠者 3戦士 4獅子 5民族人 6日の英雄(日の御子) 7父
最近ぼんやりしていた感覚のなかでだんだんはっきりしてきたことは1から5までの秘儀について書かれているのが神武天皇の東征物語部分だということです。
八咫烏という言葉は「ムー」とかYouTubeの都市伝説、あるいは陰謀論関連のコンテンツにも登場してきますが、秘儀参入のリクルート(初心者団員)が「カラス」と呼ばれているのです。この人物は公的社会と秘儀の秘密を守っている社会との連絡役をなすとシュタイナーは語っています。
記紀においても八咫烏は「秘儀を守る中央組織から派遣されてきた連絡員」としてふるまっています。続いて「隠者」「戦士」「獅子」ですが「隠者」はオカルト生活(秘儀参入の準備修行)をすでに実践している者、「戦士」は秘儀の教えを告げ知らせ、また守る者、「獅子」はそれをそれにふさわしい他者に伝える許可を得た者であり、また言葉で伝えるだけでなく魔術的な行為を行使できる者を指しているという話です。
神武天皇の物語を読んでいけば、みなさんも「あ、これは隠者、これは戦士、これは獅子じゃないか」と思うようなキャラクターに出合うと思います。面白いのは「しっぽのはえた人」に出合ったという表現ですが、私はこれは「獅子」段階の人物と会ったということだろうと推察してます。
神武天皇自身はYouTubeの秘教学徒動画でも暗示したように「ヤマトびと」つまり「民族人」であり、ヤマト民族の民族霊をその身に宿すことが可能になった段階の、民族集団を率いる霊、つまり大天使(=民族霊)の位階に上昇できた秘儀参入者に当たります。おくり名に「大和」号を持つ大王(おおきみ)たちは、秘儀参入者だったと動画で言っていますよね。
そして「岩戸隠れの物語の主人公」たる天照大神は第6段階の秘儀参入者「ヒミコ」=「日の御子」だったことも語りました。
では第七段階の秘儀参入者は記紀に描かれているでしょうか。もちろん出てきます。ヤマトタケルノミコトの物語が第七段階「父」の位階へ達する秘儀参入の物語です。ヤマトタケルの物語は「父との関係」を描いている物語です。通俗的な読み方をする者には「仲の悪い親子の物語」「父親が一方的に子をいじめる物語」としか読めないでしょうし、童話に書き直して小さな子供たちに読んで聞かせたなら、「ヤマトタケルのお父さんはひどい人だ」とか「ヤマトタケルのために死んだお姫さまがかわいそう」というような感想を述べることでしょう。大人だってそういう「読み方」以上に先に進むことはできまんせん。
「日本の古代に実在した秘儀参入者」というテーマ自体が「存在する」ということを知らない、古典文学を研究する大学教授はザラでしょうし、古代史をやっている政治的に左派右派の傾向を感情に抱いている大学教授たちも、近代の論文は「唯物論」OS上での論理展開ですから、はなからそんな話には近づきません。日本神話に似た話が海外にあったら伝播説を採用するしかありません。本当は、古代の日本の秘儀参入者が霊界で得た体験が物語の土台になっているです。
聖徳太子の物語もまた、彼の「新しい秘儀参入体験」からとってこられた物語だと考えることができる可能性については、一般の聖徳太子研究者の間でも意識されることはないのでしょう。物部氏退場の物語は、神話上では饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)の名によって代表される子孫の部族集団によって秘匿されてきた三日半の秘儀体験の管理者たちの退場の物語だということもできます。これ以後、中国閥の中臣氏族創案による「新しい中国式の大嘗祭」(誰も意識不明体験をしない儀式)へと変容します。現代日本人が知っているのは「中国式の儀式」なのです。
聖徳太子研究者の多くは、文献学上の聖徳太子像を追及するのが「発表しても恥ずかしくない」かつ「唯一の方法」だと思っています。ですからそういう「常識感覚」に引きずられると、都市伝説系出版物でも、聖徳太子とキリスト教を結び付けるとき景教の影響という「物質界の常識」にそった伝播説解釈に帰結します。日本神話の話を現代日本の国民意識に接続するときは、皇室の話も「政治機構や権力維持の話」しかできないのです。現にYouTubeでもネット出版物の販促ビデオでも、そのような「扱い方」に終始しています。
でも、日本国民にもごくごくわずかながら、私のような話に関心を持ってくれる方はおられると思っておりますので、まあ、やる気モードになったら、このへんの話を動画にしてあげたいとは思っております。
気温が完全にあったかくなったら、やれるかもです。
P.S.
トップに掲げたのは法隆寺の救世観音。一説には聖徳太子の姿をかたどった像ともいわれているそうです。大昔、救世観音の白黒写真を初めて見たとき、アングルにもよったんでしょうが、「あ、昭和天皇のお顔にそっくりだ」と衝撃を受けた記憶があります(もしかしてほかの方はまったくそう感じない可能性もありますが)。昭和天皇はくちびるの感じが明治天皇と似ていますよね。だから、なんかやっぱ古代から遺伝的につながってるのかなあ、とも思いましたよ。まあ、でもこのPS記事は余談でしたね。P.S.2
物部氏といえば勝海舟。『海舟座談』には海舟が自分の持っている宝物として先祖の像を挙げる話が載っていますが、海舟が先祖の像だといったのは、なんと物部守屋像なんですよ。ということは「オレはニギハヤヒノミコトの子孫で、それを誇りに思っている」と言ってるわけで、数々の海舟人物伝が何度もテレビ番組で取り上げられますが、「この話」はまったく取り上げられたことがなかったように思います。おもしろい話ですよねえ。幕末物語って南九州地方人VS中国地方人VS関東中部東北人の戦いでしたが、それって、大まかな日本の位置関係としては天孫系VS出雲系VS諏訪系の神々の物語とも重なるんですよねえ。鳥獣戯画ってありますよねえ。最近では漫画の元祖とかとも言われてますが。あすこに出てくるアマガエルが天孫系、ウサギが出雲系、サルが諏訪系で、アマガエルとウサギが相撲をとって、アマガエルが勝ち、今度は一緒になってサルを追いやる絵柄を見て、「ああ、これは古代史の再現画なんだな」と思ったもんです。でも、これは自分の感想なんで、ほんとかどうかは分かりません。
P.S.3
なぜ聖徳太子像(救世観音像)を見て昭和天皇を連想したんだろう、と「奇妙な問い」を自分に向けて数日過ごしていたんですが、はっと思ったことがあります。彼らが生きた時代の前後が「言葉によって分断されている」という事実です。聖徳太子の場合没後、「大化の改新」という中国閥による革命が起き、それまでの民族的慣習や精神生活の破壊が起きました。中国閥の台頭は聖徳太子の意に反した歴史の動き方だったのではないでしょうか。以前の政治構造を否定する「成文化された法律」がうまれて、「虚偽の歴史物語」が人々におしつけられました(聖徳太子が書いたはずの、神々の歴史書たる「大王記」は意図的に焚書されて、日本書紀では、「その書物の喪失」は蘇我氏との政争時のアクシデントだったことにされました)。古き神々に対しても、「当時の奈良の住民たちが声に出して言ってはいけないこと」が生じて、多くの人が黙らされたことはもちろん記紀には出てきません。万葉集には「唱えてはいけない名」を持つ神がいることを暗示するような和歌があります。
三輪山を しかも隠すか雲だにも 情(こころ)あらなむ 隠さふべしや (額田王)
この神はヤマトにいたもうひとりの天照位階、すなわち第6位階の「太陽の英雄(日の御子)」の秘儀参入者でした。
そして昭和天皇の場合も「敗戦革命」以前以後で日本人の「精神生活の分断」が生じました。古代がそうだったように今回も「外国閥」勢力によって、古代と同じように「成文化された法律」が国民に押し付けられて、敗戦にいたるまでの「新しい歴史物語」が書かれました。そして「言ってはいけないことが生じ」て、国民一般は「新しい言葉に歯向かうことなく」、生活再建のみに邁進し、今日があります。「ああ、同じようなことが二度起きたんだ」と思いました。「ああ、だから聖徳太子の顔と昭和天皇の顔が重なって見えたのか」と、いまは勝手な解釈で自分を納得させているところなのでした。P.S.4
記紀に登場してくる神々には名前が入っているものと外されているものと二通りあるのです。
「おおぴらに名前を言葉に出してはいけない、あの方」ただしヴォルデモートのように「悪の総大将」としてそうなのではなく、当時の統治層の思惑でそうなってしまった神々です。
一人は三輪山の神「天照国照日子天火明奇甕玉饒速日尊」(あまてらすくにてらすひこあめのほあかりくしみかたまにぎはやひのみこと)、物部族の主「大物主」です。その名を布留(ふる)と言います。
今の天照大御神(あまてらすおおみかみ)、つまり「大日霊女貴尊」(おおひみこむちのみこと)には別名があります。「御」の字をつけて表記されているものがあるのは「み」が女性をあらわす記号になっているからです。大和では本来「天照大神」(あまてらすおおかみ)でよかったはずです。その名がさす対象が饒速日尊であるならば。
そのおくりなを「撞賢木厳御魂天疎向津毘売尊」(つきさかきいつのみたまあまさかるむかいつひめのみこと)と言います。この文字列のなかに彼女の本名が載っています「向」(むかい)です。「津」というのは、「耳」とおなじような彼女の人物像を伝える記号のようなものだと思いますが、はっきりしたことが私にはわかりません。
彼らが少年少女だったころは、「おーい、むかい、ごはんだよ」とか、「おい、ふる、喧嘩するんじゃない」みたいな会話がなされていたんだろうなと空想すると味わい深いです。
ヤマト民たちにとって「ふる」は同じ部族血族者たちですから、先祖を地元で祭るのは当然です。「むかい」は「ふる」の親戚になりましたが、彼女が属している部族集団はもともとは遠くから来た人々です。「日向地方民の太陽秘儀参入者」だった「むかい」の親族集団は「あらたな地元になる土地」で、二人の太陽の秘儀参入者を「同じ地域で祭ること」を拒絶されたのです。そこで最終的に伊勢に祭ることに落ち着きました。
そして長い歴史時間が経過したあと、大和に新しい政変が起き、もともと「大和地方民の太陽秘儀参入者」だった「ふる」の名前が差し押さえられる時代が到来したのでした。 -
前回のchouchou関連記事の続きです。
前回、「最果て」という言葉にこだわって書いた箇所がありましたが、その後、ネットでインタビュー記事を読んで、「あ、つながってんじゃん、おもしろいな」と感じたことがあったので、追加記事上げときます。私が読んだのは以下の記事。
chouchou インタビュー
注目箇所は以下。
それで初めてutakataを作ってジュリエットに歌ってもらったら結構二人とも気に入って「これはいいよね、これは今までにない感じで独特なジャンルになりそうだよね」ってなって。それですぐに2曲目、当時僕がやりたくてやれなかったアレンジなんかを「だって別に良ければいいじゃん、誰にも文句は言わせないぜ」って感じで自由に作ったのがsignでしたね。(引用終わり)
ということでまずは記念すべき初コラボ作品の「utakata」
(2019年のアルバム「Farewell,Astronauts」のアルバム名を連想させる「astronautsっていう歌詞がすでに出てるね。)
「今までにない感じで独特なジャンルになりそうだ」というアラベスク氏の感想はまさにその通りだった。で、つぎの共作がINSOMNIA所収のsign(「NARCOLEPSYには「sign 0」と「0」が加わった別バージョンが入っている。)
INSOMNIAもNARCOLEPSYも2009年に出たアルバムで、これは「ずっと覚醒し続けている状態」VS「たえず眠り込もうとしてしまう状態」というように対立する症状を英語でアルバムタイトルにしたということだ。このことに気が付いた時、私はシュタイナーの『悪の秘儀』内の記述を思い出した。
ルドルフ・シュタイナーの『悪の秘儀』にはこういう文章が出てくる。
精神という観点から観察してみると、私たちは目覚めているとき、硬化する方向へと向かう力を備えています。目覚めているとき、私たちは自分の肉体をしっかりと捉え、手足を使用します。そして私たちは眠りにつくときに、肉体の中にある、軟化させたり、若返らせたりする力を働かせます。すると、私たちは夢の中へと沈んでいきます。このとき私たちは、もはや自分の肉体を意のままに支配することはできません。つまり私たちは、「人間というものは本来、あまりにも軟化しすぎるか、あまりにも硬化しすぎるか、どちらかの状態に落ち込む危険に絶えず曝されている」と言うことができるのです。(P23)
で、そのあと「だからフォースにバランスをもたらす必要がある」という趣旨で話はつづく。
この歌の歌詞に「例えば今世界が終わり私の名がかき消されたら探して」って箇所がある。
これってまさに「world's end girlfriendのつぶやき」つまり「世の終わりにいる(誰かの)恋人=彼女のつぶやき」じゃん。world's endは「世界の終わり」とも「最果て」とも訳せると前回の記事で書いた。そしてworld's end girlfriendというミュージシャンが日本に実在して(一番好きなアルバムは「LAST WALTZ」)、自分は「最果ての彼女」と勝手に訳して受け止めていた、という趣旨のことも書いた。
そしてアルバム「Farewell, Astronauts」でまた「world's end lullaby」という題名の曲に出会う。
で、最新作が「最果のダリア」(world's end dahlia)だ。
実に面白いと思う。彼らが影響を受けた先行のミュージシャンとして「at eden」や「sputnik」という曲を書いた新居昭乃の名前は出ていなかったけど、まったく関連性がなかったとしたら、それはそれで興味深い事実。
さらにインタビューを読んで驚愕したのが、ボーカルのジュリエットが「ドイツ語のように聴こえるけど、comaは、日本語アナグラムの架空の言葉だ」と言った箇所。えー、じゃあ、彼女は菅野よう子&新居昭乃コラボ曲の「wanna be an angel」同様、「人工言語(つまり天使語?)で歌ちゃったの」とますます興奮した。アナグラムということは「日本語解読できる」ということだろうけど、私は、まだ解読版歌詞にはネット上では出会っていない。
ジュリエットの歌唱法は基本ささやきボイス系だと思うけど、曲によって歌い方を変えてるところが面白いよね。声優的というか。ALEXANDRITEのCatastropheとかは高校生の女の子が歌っている感じ。
いろいろなアルバムを聴きながら、一番大きい連想はやっぱ新居昭乃とのものなんだけど、なぜだか声優の能登麻美子のささやきボイスも連想した。Catastropheの声と能登麻美子はつながるか? といえばNOだな。なのにchouchouが出している多数の楽曲全体を通して聴いていると、なんでかそう感じたのだった。声に関して、chouchou→新居昭乃、新居昭乃→能登麻美子(「きれいな感情」とかかな?)の2通りの連結がchouchou→能登麻美子と連結したんだろうな。
能登麻美子はあまり歌を歌っていないようだ。CD類はあるけど、ドラマCDがほとんど。YouTubeでこういうのを見つけてきた。サムネイルはあの有名な、彼女が主演した「地獄少女」。
「うーん、新居昭乃と接続までは分かるけど、なんで能登麻美子なのかわかんねえ」というのがやっぱ読者の感想なんだろうなあ。まあ、「曲を聴いている最中に喚起される印象」のなかにそういう連想感覚も起きたということなので、そういう連想感覚は人によってもちろんちがうだろうから、この辺の感覚は、突っ込まずにもうほっといてほしい。
P.S. 能登麻美子「連想感覚」に関してその後、「あ、これが〈体験の海〉の中から一番プッシュしてきてたんだな」と思ったのだった。きっとそうだ。以下lovers & cigarettes
chouchouは教会音楽系もやっている。「アベ・マリア」については大昔、スラヴァのアルバム関連で当ブログでも取り上げたことがあったね。chouchouの「アベ・マリア」もなかなかいいよ。でも、私が「どはまりした」のは「 O come O come Emmanuel」だった。エマヌエルというのはイエス・キリストのことだ。まずは一般的な音源で聴いてみたい。
これだと、たんたんと最後まで聴けるよね。ところが、chouchouバージョンはアレンジに仕掛けがしてあるので、曲の後半で「思わず高まってしまう」ことを避けることができない。実際、ある時期私はこの曲ばかりリピート再生して、「高まって」いたのだった。3:16からがやばい。この箇所があったので、何度もリピート再生する(いわゆるオーバードーズ状態?)はめになってしまったのだった。
ということで、映画やドラマやアニメや音楽や絵画やらコミックやら、なにかしら創作をやっている人々はインスピレーション(やってくるもの)を無意識に地上に可視化可聴化する仕事をしている人々なので、そういうものに定期的に触れる生活は維持していきたいものだ。「若者だから老人だから」に関係なくね。 -
昔、秘教学徒にて「大嘗祭の本義」と題して、日本に中国式の統治思想の影響が及ぶ事件(大化の改新)以前、つまり「天皇」という言葉が日本の史書に登場する以前の、聖徳太子以前の大王(おおきみ)の時代における秘儀参入の場としての大嘗祭について言及したことがあった。
あすこではちょっとだけ聖徳太子の秘儀参入問題に触れ、「日本で最初にパウロ体験(エーテル界でキリストに出合う体験)をした人物」ではないかと私論を投げかけたままだったが、実はその後もずっと聖徳太子について、あれこれ考え続けてきた。
今では、記紀の成立は「聖徳太子一族の背景を壁に塗り込めるという意図を隠し持っている」とまで思うようになっている。記紀は聖徳太子の実像にベールをかぶせるための仕掛けとしても機能しているのではないかと。
「大嘗祭の本義」動画では、日本の古代の大王(おおきみ)につけられている名前は秘儀参入の段階を表しているのではないかという説を提示した。
シュタイナーの『輪廻転生とカルマ』に「古代には、秘儀参入者は外的な名前ではなく、彼らが何を知っているかによって、彼らにふさわしい名前で呼ばれました。(P138)」と書いてある。
「彼らが何を知っているかによって」というのは「どの位階の秘儀参入者なのかによって」と言うのと同じことである。
聖徳太子の「霊能力」については日本書紀に「予知能力があった」と書いているが、その直前に「一度に十人の訴えを聞き分けた」という趣旨の話が出てくる。「なぜ並べて書いているのだろうか」とは、普通読者は不思議に思わないだろう。それは日本書紀を研究して現代語訳を担当した学者とて同じだろう。
神々の名前付けのルールには決まりがあるはずだが、私はそれを明確に指摘した学者本に出合った記憶がない。たとえば私は、古代の神々についていた名前で「耳」というものには秘教的な意味があると思っている。一例として、天孫降臨神話に出てくるニニギノミコトの父親であるアメノオシホミミノミコト(天忍穂耳尊)である。「オシホ」が本来の名前であって、耳の部分は「どんな霊能力があったかを示す記号」ではないのかと思ったのだ。オシホミミノミコトは霊聴能力者、つまり秘儀参入者ではなかったのか、と思ったのだ。
精神科学(人智学)は、世界のあらゆる古代の宗教文献、神話・伝説、昔話などを読み解く助けになる、とはシュタイナーの言葉である。三日半の仮死体験の儀式は世界に広く普及していた秘儀参入の方法だったというのも彼の発言である。
ただ民族に応じて秘儀の達成度の段階の区分が三つだったり、五つだったり、七つだったりする。
霊視(イマジネーション)能力、霊聴(インスピレーション)能力、霊的合一(インテュイション)能力という三区分についてシュイタイナーは『ルカ福音書講義』で解説をしている。
現在でも霊視能力者はたくさんいるが、彼らは秘儀参入者ではない。霊聴能力以上にならないと、秘儀参入者とは呼べないと書いている。霊視は像を見る能力だが、それが何を意味しているのか実は分からない、だから霊聴(つまり言葉を聞き取り、理解する)能力まで高まらないと、見たものが何を意味しているのか解釈できないというのだ。
日本書紀には聖徳太子は豊聡耳皇子(とよとみみのみこ)と呼ばれたと書いてある。神話時代の先祖たちとは違って、その当時の古代人の霊能力はほぼ消え失せていた時代だった。そこにひさびさ「耳」という言葉で象徴される霊能力を持った人物が生まれたということだ。
これをシュタイナー霊学をものさしとして解釈すると、「太子は霊聴(インスピレーション)能力の持ち主で、その能力で未来予知をすることができた」と「遠まわし」に書いている、ということになる。
さらにたくさんの聖徳太子伝説に目を通せれば、シュタイナー霊学の観点から、いろいろなことが発見できるのだろうが、研究は遅々として進まない。
けれど、今回のブログ記事をもとに、近いうちに1本、秘教学徒用に動画を作ってアップロードしてみたいとは思っている。
あれ、X JAPANの話が出てこなかったぞ、とご不満のアナタ。これからですよ。
聖徳太子伝説は日本書紀以外にも日本霊異記に似た内容の話が出てくる。大昔、私は資料集めのつもりで古本で日本霊異記を手に入れて、内容を確かめていたのだが、昨日ふとページの最後のほうの空欄に何か書いているのに気がついた。
よく見ると
I'm walking in the rain
行くあてもなく傷付いた体濡らし
絡みつく氷の騒めき
殺し続けて漂う いつまでも
UNTIL I CAN FORGET YOUR LOVE
(以下略)
と書いてある。「なんじゃこりゃー」と度肝を抜かれた。
巨大検索マシンとしてのインターネットの出現以前に、このような体験をしたなら、私はこれが何かをついに探し当てることができなかっただろう。「これ、なにかわかる?」とだれか身近な人に聞けば「うーん、何か歌の歌詞かもしれんな。それとも自作ポエム?」という回答は得られたかもしれないが、よほど運がよくなければ、「言葉の正体」にたどりつけなかったかもしれない。結局、「古本だし、書き込みはありがちだよな。ま、どうでもいいや」と忘れてしまっただろう。
だが昨日この書き込みに気が付いて、「そうだ、検索」と書き込みの冒頭の部分をウェブの検索欄に入れてみたら、X JAPANの「ENDLESS RAIN」という歌の歌詞だったということが判明した。
古典のなかでもかなりマイナーな部類の文庫本の末尾の空白欄にヘビーメタルバンドの歌の歌詞をあまさずびっちり書き込むエナジーに心打たれた。その取り合わせが、とても面白いと感じたので、あまりブログも更新してこなかったのに、こうして「最近は聖徳太子を調べていますよ」という近況報告記事になったのだった。 -
2000年代以降、自分の中では、ついにJ-POPの位置づけがかつての歌謡曲VSニューミュージック(J-POP)からJ-POP VS something else に変わっていることに気が付く。
今の日本の音楽好きの一部は、90年代に全盛を極めたような「形式(モード)」の音楽に見向きもしなくなったんじゃないかと思う。つまり歌謡曲でもJ-POPでもないような音楽を「好んで聴く」ようになっているんじゃないかと思う。洋楽の受容においても、同じような状況だと思う。
でも、昭和の歌謡曲のオルタナティヴとして登場したのちにニューミュージックとよばれるような音楽は70年代にはまだ「一部の音楽好き」にしか関心を持たれていなかったはずだ。それまで円盤売り上げからいえば、この新カテゴリーの売り上げは微々たるものだったんじゃないかと思う。(昔大貫妙子がFMのスタジオライブでそんなことを言ってた記憶がある。5万枚売れたら大成功と認識されてた時代。)
そして80年代から歌謡曲をだんだんと駆逐していく時代が始まり、90年代に頂点に達した。そしてその後2000年以降は下りの坂道行程に突入し、音楽自体が「商品」として大衆の魅力を失う時代がやってきた。
ということで、日本の音楽環境を、なんか他人目線(=評論家目線)で一般化して書いている感じだけど、この感じは「自分の感覚そのもの」を評論めかして書いているだけで、要するに「今のメジャーレーベル系の音楽なんてもう飽きたんだよ」と言っているだけの話ではある。
自分の場合、ラジオで新譜を追っていたのは中高大時代の遠い昔、2000年前後の時期は、日本の音楽CDを買うことがまったくなくなっていた時期でもあったけど、ネットが登場し、深夜アニメが台頭し始めて、そのオープニング曲やエンディング曲を毎回聴かされる環境が登場してくると、新譜の知識はアニソンから、そしてネット上でインディーズサイトで無名のミュージシャンを探しているというような状況に陥ってしまった。挙句の果てにはアニメのサントラとインディーズ系CDの購入がメインになるという振る舞いをするようになった。
「ガサラキ」とか「ラーゼフォン」とかのサントラを買った。そういう当時のアニメに曲を提供しているアーティストのなかでもっとも自分のなかでヒットしたのが、新居昭乃だった。実は彼女は種ともこが歌う「ガサラキ」のエンディングテーマの作曲者だった。別のルート(別のアニメ作品の影響)で彼女のアルバムを聴くようになっていた私は、あとでその事実を知って、「あ、すでにオレは彼女の曲を聴いたことがあったんだ」と驚愕した。
坂本龍一や細野晴臣たちが民族音階やエレクトロ音楽、アンビエント音楽を始めたころは、真剣につきあってはこなかったが、その界隈の第二世代、第三世代が日本に登場するようになったころ、ネットのインディーズサイトでアンビエント・エレクトロニカ系の音楽を探して聴くようになり、その後Googleに買収された後のYouTubeでambient(アンビエント)系の音楽を検索して熱心に聴くようになった。
インディーズサイトで出会った忘れがたきアーティストといえば、昔ここでも紹介したことがあるマトリョーシカ(matryoshka)を一つ上げたい。(以下「Monotonous Purgatory」、自分流に訳せば「単調な煉獄」あるいは「単調な死後の世界」くらいのものだろうか。)
以下この曲が入ってるアルアムのURLLaideronnette(matryoshka)後年、「あれ、新居昭乃とマトリョーシカって、オレん中で、どこかつながってね?」と思っていた。
最近注目したバーバパパの動画は諧謔と恐怖の併存が特徴的だったけど、せっかくなので、今回の幽界系音楽とは、ちょっとズレてしまうけど、Monotonous Purgatory動画の仲間に入れておきたい動画を以下二つだけ紹介しておこう。(以下「endless summer vampillia」)
森田童子の「マザースカイ」の世界は幻想文学してると思うけど、こういうvampillia的な幻想的な動画と相性がいいと思うんだが。例えばアルバム所収の「伝書鳩」なんぞは、自分には空中に飛んで自殺をしようとする少年(もとの意図はまったくそういう話じゃないのだろうが)を想起させる恐ろしい歌に感じる。「a boy」所収の「ふるえているネ」のアゲハ蝶イメージとかも、もろ幻想性マックスだよね。
(以下「lilac vampllia 戸川純」)
新居昭乃については、昔「ブルガリアン・ボイス」関連でこのブログでも言及したことがあった。(以下、「wanna be an angel」(「天使になりたい」)
この曲はアニメ「マクロス・プラス」の劇中歌として書かれたものだ。曲名は英語なのに、歌詞は菅野よう子の作った人工言語で、地上に存在したことがない言語なのだからある意味菅野よう子のインスピレーションに降りた「天使語」と考えてもいいよね。歌を歌っているのが新居昭乃で、彼女自身すばらしい作曲家なんだが、この曲は作詞も作曲も菅野よう子がやっている。
YouTubeの「秘教学徒」では「人間天使シリーズ」を最後に天使論関連のアップロードをやめてるけど、あすこで語ったのは 「あなたがたは再び天使の位階に回帰できる」という希望の福音だからねえ。地球の管理天使という本来の「人間天使」の位階から地上に転がり落ちたが、「再び九位階の先輩天使たちの仲間に加わって天使となることができる」という話だからねえ。
Wanna be an angel?(天使になりたい、だって?)
もちろん、なれるよ、という回答が、まだ西洋の一般的なキリスト教徒たちには「意識化」できないでいるけれども、シュタイナーのキリスト論の中には含まれている、って話だった。
新居昭乃の曲は今でも時々聴いている。
アニソン系で「wanna be an angel」以外のオススメは、
アニメ「KURAU」(クラウ)のOPだった「懐かしい宇宙」
アニメ「東京アンダーグラウンド」のEDだった「覚醒都市」
アニメ「NOIR」(ノアール)のEDだった「きれいな感情」
などなど。あと大昔、YouTubeで銀魂のMAD(定春が巨大化するエピソードと曲をドッキング)で初めて聴いた記憶がある「ガレキの楽園」これもいいよね。(もはや見られなくなってるのが残念だ。)
さて、これまでYouTubeでいろいろとアンビエント系の曲を試しにポチって聴いてきた。その中でYAGYAの「sleepygirls」が気に入ったのだった。このアイスランド出身のアーティストのアルバムにおいて、日本人の女性歌手がボーカルで2曲参加しており、日本語の歌で「眠りの向こう側」という不思議な歌詞を歌っているのに出会って、その声と歌詞の不思議さに関心がわいたのだった。
彼女は名前を柳本奈都子といい、本来、rimaconaという二人組の音楽ユニットでボーカルを担当した人だった。どういう縁で録音に参加したのかはネットにも出てこない。ウィキペディアの日本語サイトにはyagyaの情報も載っていないので困った。「sleepygirls」の4曲目を聴いていたら「眠りの向こう側」という日本語が飛び出してきて驚き、しかも、どこかでなんか聞いたことがあるような歌詞だと思ったのだった。それはシュタイナーが語った「記憶の向こう側へ行く」(引用元「シュタイナーの死者の書」)という表現だったことを思い出した。「眠りの向こう側」ってどんな世界なんだろう?
それで、「ああ、やっぱオレはこういう覚醒と眠りの間をさまようような感覚にしてくれる曲も好きなんだな」ということを自覚するようになった。
だからchouchouに出会ったときも、雰囲気「マトリョーシカに似てね?」という反応ではなく、「やったー。こんなに大量にこの手の音楽浴ができるなんて、チョウチョウって最高じゃん」と思ってしまったのだった。ほんとはチョウチョウ(ローマ字読み)じゃなくてフランス語発音でシュシュ(日本では髪留めの呼び名だが、本来は「お気に入り」らしい)と読むということを後から検索で知ったのだった。(以下、「voyager」)
Farewell,Astronauts(chouchou)
紹介したアルバムは、比較的最近のものだが、ほかにも日本語や英語で歌われる曲が混在したアルバムをいくつか出している。日本語歌詞の場合、印象がJ-POP寄りになって聴こえる感じがする。
例えば、その代表例としてanemoneを聴いてみよう。
ALEXANDRITE(chouchou)
Farewell, Astronauts内での歌い声と印象が変わってしまう。でも名曲だよね。「エウレカセブン」の劇場映画に「ANEMONE」ってのがあって、chouchouのanemoneがエウレカセブンのアネモネに連結してしまった。
映画では坂本龍一の往年の名曲「Ballet Mécanique」(坂本龍一が担当日のNHKFM サウンドストリートのテーマだったよな)を、やくしまるえつこがカバーしていたけど、私は思わず、YouTubeに公開されている映画のトレイラー映像に坂本龍一バージョンではなくて、chouchouバージョンのanemoneを重ねて聴いてしまった。これはこれですごくいいじゃんと思ってしまった。(なので自宅で楽しむMAD動画みたいなものをAviUtlで作って遊ぼうかなとかも思っている)
自分が今のところ聴いたアルバムは以下。
INSOMNIA chouchou(2009)
NARCOLEPSY chouchou(2009)
VINCULUM chouchou(2010)
ALEXANDRITE chouchou(2015)
Night and Wanderer chouchou(2017)
Farewell,Astronauts chouchou(2019)
こういう幽界系の音楽も好んで聴けるという人にはお勧め。
P.S. 本記事投稿時の最新アルバムが去年の12月にでたばかりの「最果(さいはて)のダリア」
最果のダリア chouchou(2021)
「world's end」って言えば「世界の終わり」って訳語と「最果て」という訳語が出てくるけど、私のお気に入りで以前当ブログでちらっと言及したworld's end girlfriendのことを「世界の終末に直面している彼女」という意味では受け入れがたいと思ったので、自分では勝手に「最果ての彼女」と語呂がいい感じになるように訳していた。「最果てのパラディン」なんてアニメも最近見たし、「最果て=world's end」って言葉は、もしかして、ある界隈では関心語になってるのかな?
「最果のダリア」の前のアルバム「Farewell,Astronauts」の2曲目に「world's end lullaby」(最果の子守歌)ってのが入ってるから、そこをブリッジにして、今回のアルアムの題名に接続してるってことかな。
アニメ「ガンゲイル・オンライン」が好きで、さらには主人公レン(楠木ともり)が歌うED「to see the future」が好きで、「私の好きなアニソン・コーナー」(ずっとやってないけど)でいつか紹介したいと思っていたら、chouchouの「最果のダリア」所収の楽曲を楠木ともりに提供したという情報を得て、「いやあ、ほんといろいろつながっていくよなあ」としみじみとうれしく思ったところですよ。