以下のは記事は2022年の2月に書かれたものだったが、ずっと保留状態になっていたものだった。本日それに気が付いたので、もったいないので、公開することにした。
ずっと保留状態だったのは、自分の意見に確信が持てないからだった。いろいろと分からない部分が多すぎて、これでは空想の披瀝でしかないなあと書いた当時は思っていたので、公開ボタンをクリックしないで放置していたんだと思う。
愛子様が伊勢神宮と神武天皇陵を訪問した様子が報道されて、「こんなにも人気があるのか」とびっくりした。私が以下の動画をアップしたとき、心の中に想定していた「天からふとんに入って降りてくる女の子」とは彼女のことだった。
民族の力を身に付けて、子孫に伝えた人々は、王冠をかぶりました。王冠というのは、古代には、人間の霊性に贈られる最高のものを示す言葉でした。王冠をかぶることができるのは、秘儀に参入して最高の叡智を獲得した者だけでした。王冠は最高の叡智のしるしでした。(中略)「王冠」は古代人にとって、精神世界から超人的な人に贈られるものの象徴です。
王が冠を戴くのは不思議ではありません。王はいつも賢明であったり、最高の天賦の才を身に付けているわけではありませんが、そのしるしである冠を戴いています。このように古代のしきたりに従って表現されたものと、のちに乱用されたものとを混同してはなりません。(ルドルフ・シュタイナー『神仏と人間』P197-P198)
秘儀に参入することなしに神あるいは天から王権を授けられたと主張するようになった、のちの時代に現れた「単なる血統主義」が、2千年ほど続いたのち、今や近代の精神生活を営む市民社会によって人種民族を問わず、さまざまな場所において、「それはもはや不正なものとなっている」として排斥されるようになったことを人類は目の当たりにしてきた。
だから、もちろん彼女が今日の秘儀参入者だと言いたいのではなく(正直今日の皇位をめぐる政争にはうんざりだ)、大化の改新、というよりさらに以前、「漢字を使った政治」が始まる以前の日本においては、「おおきみ」の呼称で呼ばれる資格は直系の男系男子がその資格をもっていたのではなく、一族のなかで「秘儀(霊界)参入を果たした者」が〈おおきみ〉と呼ばれたのだ、という私の持論を踏まえたうえで、作成したものだ。
これに関連した記事として「人智学の光に照らされた日本神話」も参照していただけるとありがたい。
ここまでが、古い記事を公開するにあたって付け加えた部分になる。
昔、YouTube(秘教学徒)に「大嘗祭の本義」という動画をアップした。(動画の元になった記事は本blogに掲載した「令和記念 大嘗祭と秘儀参入者としての天皇」)
聖徳太子は、それ以前の大王(おおきみ)の時代から天皇の時代への転回点だったということも暗示した。
諡号に「大和(やまと」)という名前を持っている者は、「本物の(ミトラス教の秘儀と照らすと「第五段階」の)秘儀参入者」だったということも言った。その後、皇族たちは、「その能力」を失ったのである。
聖徳太子以前に出てくる「なになにの命」とか天皇の諡号に出てくる「彦」というのは皇位継承権を持つ者という意味で使われていたのではないか。またそれだけではなく、秘儀参入の到達レベルにも関連しているのではないか。男子を彦(ひこ)と言い、女子を姫(ひめ)と言っていた。この英語でprince、princessを意味する言葉は、記紀編纂の時代になると皇子、皇女(どちらも「みこ」)とう言葉に置き換えられる。
「ひ」「が抜かれたからである。「ひ」という言葉が秘儀参入能力に関連する言葉だったからだ。
「み」は美称であり、今の漢字でその原議を示すなら「御」に当たる。「御子」=「皇子・皇女」であり、「皇族の子」という「秘儀参入能力」とは無関係な意味に整理された。
記紀編纂の裏側で、そのように「数多くの改変」がなされたのである。
皇族たちから秘儀参入能力が失われて久しい時間が経過したが、聖徳太子という人物は先祖返り的な特異な霊界参入能力を持った人物だった。古代の秘儀の儀式の詳細を保持していたのが、物部氏だった。
そういう人々のなかから聖徳太子伝説の担い手となった人々が出た。聖徳太子伝説に「十人の訴えを一度に聞き分けた」という話が出てくる。シュタイナーは霊界参入能力を三段階に分けて説明している。霊視能力、霊聴能力、霊的合一能力の三段階である。
霊視能力者は現代でもたくさんいる。像意識を見る段階で、実は「何を意味しているか」を直接理解できない段階だ。今日、霊が見えると言う人々は、そのような霊視者である。
この霊視能力に「聞く能力」が加わると第二段階の霊聴能力者となるが、この段階に達して初めて「秘儀参入者」として区別されるとシュタイナーは述べている。
古代には天押穂耳命(あめのおしほみみ)という皇族の先祖が登場するが、この名前に登場してくる「耳」というのは「霊聴能力の保持者」という意味である。初期に登場してくる「大王」のおくり名に耳が入っている場合、それはインスピレーション(霊聴)能力を持っていたという「暗号」だったのでは、と私は考えている。
聖徳太子は豊耳命とも呼ばれている。この呼び名に出てくる「耳」こそ、「彼はこのような霊能力」の持ち主だったという暗示だと思われる。聖徳太子以前の「秘儀の秘密」は物部氏の政治舞台からの退場で、時の政治権力機構からは排除された。仏教台頭という「表舞台で起こった」と伝えられている出来事は「秘儀の消滅」を糊塗するための物語である。ただ「言葉の本当の意味」を知る者たちが遠回しに聖徳太子伝を書き残したのだ。
聖徳太子とその一族は不運の一族だった。彼の息子の一族は皆殺しにされたが、理由が日本書紀を読んでも分からない。聖徳太子の奥さんは聖徳太子が亡くなった翌日に亡くなったと日本書紀には書かれているが、ともに毒殺されたのだと思う。最大の問題は聖徳太子は異能の持ち主だということは「敵対者側」も知っていたが、聖徳太子は今日でいうところの中国閥、つまり「シナ派・儒教派」ではなかったのだ。
聖徳太子が書き残した歴史書は蘇我氏へのテロ事件時、倉庫が燃えて消えてしまったことにされている。それは記紀がシナ閥による改編の書だった事実を隠すためだった。聖徳太子の息子一族が皆殺しにされたのは、「真実を記した書物」が彼らの手元にあって、反大陸派だった太子とその子孫一族の権威を排除すべき対象と認識していた結果だった。
当時のシナ閥集団とはもちろん、中臣鎌足を始祖とする藤原氏一門を中核とした政治勢力である。彼らは大陸から呪術を持ち込んだ集団の子孫である。彼らは古代の「おおきみの時代」の慣習(太陽霊信仰やそれと関連した秘儀の伝統)を排除し、皇位継承の考え方や政治上のトップの呼び方を「シナ式の思考態度」とすげ替えた。
「太陽信仰の民」は「おおきみの民」だった。その代わりに「星座(北辰)信仰の民」として「天皇」という言葉をシナの古典から抜き出して使用するようになった。
藤原氏の行った政治は、シナの古典に出てくるような外戚政治そのものだった。そのようにして聖徳太子を境にして、古代にはあった末子相続(これは儒教という「漢字による支配」思想、「言葉で呪(しゅ)をかける思想」とは相いれない習慣だった)や意思決定における豪族たち(日本の神々-古い時代はみな霊界参入者だった)の集合による合議制は崩壊した。
そしてしばらくの間、日本は古代式社会主義の世界に突入したが(「律令制というのは沈黙の社会主義体制だったといっていい。」司馬遼太郎『この国のかたち3』)、藤原氏の力が弱まった平安末期以降、だんだんと武士の力が台頭すると、最終的に彼らはシナ式統治から距離を置き、古代の豪族連合体のような盟主制度を幕藩体制として武士階級の間で取り返したのだった。
さらに以下の記事も参考にしていただけると思う。
記紀の神々の名に付いている「記号」は何を意味しているのか 前編
記紀の神々の名に付いている「記号」は何を意味しているのか 後編
日本神話と秘儀の七段階、そして聖徳太子
古事記において、戦いの場面として登場する古代の神々の「手取りの技術」は、律令制度の外側で生きることになった武士団に所属する者たちに密かに連綿と受け継がれて、近代にいたって「殺しの技術」としてではなく、合気道という形で人々の目に触れるものとなった。
骨命(ねのみこと)、すなわち骨(こつ)をつかんだ者(秘儀に参入できた者)が、今日武術家のなかにも存在するのだろうか。
ずっと保留状態だったのは、自分の意見に確信が持てないからだった。いろいろと分からない部分が多すぎて、これでは空想の披瀝でしかないなあと書いた当時は思っていたので、公開ボタンをクリックしないで放置していたんだと思う。
愛子様が伊勢神宮と神武天皇陵を訪問した様子が報道されて、「こんなにも人気があるのか」とびっくりした。私が以下の動画をアップしたとき、心の中に想定していた「天からふとんに入って降りてくる女の子」とは彼女のことだった。
民族の力を身に付けて、子孫に伝えた人々は、王冠をかぶりました。王冠というのは、古代には、人間の霊性に贈られる最高のものを示す言葉でした。王冠をかぶることができるのは、秘儀に参入して最高の叡智を獲得した者だけでした。王冠は最高の叡智のしるしでした。(中略)「王冠」は古代人にとって、精神世界から超人的な人に贈られるものの象徴です。
王が冠を戴くのは不思議ではありません。王はいつも賢明であったり、最高の天賦の才を身に付けているわけではありませんが、そのしるしである冠を戴いています。このように古代のしきたりに従って表現されたものと、のちに乱用されたものとを混同してはなりません。(ルドルフ・シュタイナー『神仏と人間』P197-P198)
秘儀に参入することなしに神あるいは天から王権を授けられたと主張するようになった、のちの時代に現れた「単なる血統主義」が、2千年ほど続いたのち、今や近代の精神生活を営む市民社会によって人種民族を問わず、さまざまな場所において、「それはもはや不正なものとなっている」として排斥されるようになったことを人類は目の当たりにしてきた。
だから、もちろん彼女が今日の秘儀参入者だと言いたいのではなく(正直今日の皇位をめぐる政争にはうんざりだ)、大化の改新、というよりさらに以前、「漢字を使った政治」が始まる以前の日本においては、「おおきみ」の呼称で呼ばれる資格は直系の男系男子がその資格をもっていたのではなく、一族のなかで「秘儀(霊界)参入を果たした者」が〈おおきみ〉と呼ばれたのだ、という私の持論を踏まえたうえで、作成したものだ。
これに関連した記事として「人智学の光に照らされた日本神話」も参照していただけるとありがたい。
ここまでが、古い記事を公開するにあたって付け加えた部分になる。
昔、YouTube(秘教学徒)に「大嘗祭の本義」という動画をアップした。(動画の元になった記事は本blogに掲載した「令和記念 大嘗祭と秘儀参入者としての天皇」)
聖徳太子は、それ以前の大王(おおきみ)の時代から天皇の時代への転回点だったということも暗示した。
諡号に「大和(やまと」)という名前を持っている者は、「本物の(ミトラス教の秘儀と照らすと「第五段階」の)秘儀参入者」だったということも言った。その後、皇族たちは、「その能力」を失ったのである。
聖徳太子以前に出てくる「なになにの命」とか天皇の諡号に出てくる「彦」というのは皇位継承権を持つ者という意味で使われていたのではないか。またそれだけではなく、秘儀参入の到達レベルにも関連しているのではないか。男子を彦(ひこ)と言い、女子を姫(ひめ)と言っていた。この英語でprince、princessを意味する言葉は、記紀編纂の時代になると皇子、皇女(どちらも「みこ」)とう言葉に置き換えられる。
「ひ」「が抜かれたからである。「ひ」という言葉が秘儀参入能力に関連する言葉だったからだ。
「み」は美称であり、今の漢字でその原議を示すなら「御」に当たる。「御子」=「皇子・皇女」であり、「皇族の子」という「秘儀参入能力」とは無関係な意味に整理された。
記紀編纂の裏側で、そのように「数多くの改変」がなされたのである。
皇族たちから秘儀参入能力が失われて久しい時間が経過したが、聖徳太子という人物は先祖返り的な特異な霊界参入能力を持った人物だった。古代の秘儀の儀式の詳細を保持していたのが、物部氏だった。
そういう人々のなかから聖徳太子伝説の担い手となった人々が出た。聖徳太子伝説に「十人の訴えを一度に聞き分けた」という話が出てくる。シュタイナーは霊界参入能力を三段階に分けて説明している。霊視能力、霊聴能力、霊的合一能力の三段階である。
霊視能力者は現代でもたくさんいる。像意識を見る段階で、実は「何を意味しているか」を直接理解できない段階だ。今日、霊が見えると言う人々は、そのような霊視者である。
この霊視能力に「聞く能力」が加わると第二段階の霊聴能力者となるが、この段階に達して初めて「秘儀参入者」として区別されるとシュタイナーは述べている。
古代には天押穂耳命(あめのおしほみみ)という皇族の先祖が登場するが、この名前に登場してくる「耳」というのは「霊聴能力の保持者」という意味である。初期に登場してくる「大王」のおくり名に耳が入っている場合、それはインスピレーション(霊聴)能力を持っていたという「暗号」だったのでは、と私は考えている。
聖徳太子は豊耳命とも呼ばれている。この呼び名に出てくる「耳」こそ、「彼はこのような霊能力」の持ち主だったという暗示だと思われる。聖徳太子以前の「秘儀の秘密」は物部氏の政治舞台からの退場で、時の政治権力機構からは排除された。仏教台頭という「表舞台で起こった」と伝えられている出来事は「秘儀の消滅」を糊塗するための物語である。ただ「言葉の本当の意味」を知る者たちが遠回しに聖徳太子伝を書き残したのだ。
聖徳太子とその一族は不運の一族だった。彼の息子の一族は皆殺しにされたが、理由が日本書紀を読んでも分からない。聖徳太子の奥さんは聖徳太子が亡くなった翌日に亡くなったと日本書紀には書かれているが、ともに毒殺されたのだと思う。最大の問題は聖徳太子は異能の持ち主だということは「敵対者側」も知っていたが、聖徳太子は今日でいうところの中国閥、つまり「シナ派・儒教派」ではなかったのだ。
聖徳太子が書き残した歴史書は蘇我氏へのテロ事件時、倉庫が燃えて消えてしまったことにされている。それは記紀がシナ閥による改編の書だった事実を隠すためだった。聖徳太子の息子一族が皆殺しにされたのは、「真実を記した書物」が彼らの手元にあって、反大陸派だった太子とその子孫一族の権威を排除すべき対象と認識していた結果だった。
当時のシナ閥集団とはもちろん、中臣鎌足を始祖とする藤原氏一門を中核とした政治勢力である。彼らは大陸から呪術を持ち込んだ集団の子孫である。彼らは古代の「おおきみの時代」の慣習(太陽霊信仰やそれと関連した秘儀の伝統)を排除し、皇位継承の考え方や政治上のトップの呼び方を「シナ式の思考態度」とすげ替えた。
「太陽信仰の民」は「おおきみの民」だった。その代わりに「星座(北辰)信仰の民」として「天皇」という言葉をシナの古典から抜き出して使用するようになった。
藤原氏の行った政治は、シナの古典に出てくるような外戚政治そのものだった。そのようにして聖徳太子を境にして、古代にはあった末子相続(これは儒教という「漢字による支配」思想、「言葉で呪(しゅ)をかける思想」とは相いれない習慣だった)や意思決定における豪族たち(日本の神々-古い時代はみな霊界参入者だった)の集合による合議制は崩壊した。
そしてしばらくの間、日本は古代式社会主義の世界に突入したが(「律令制というのは沈黙の社会主義体制だったといっていい。」司馬遼太郎『この国のかたち3』)、藤原氏の力が弱まった平安末期以降、だんだんと武士の力が台頭すると、最終的に彼らはシナ式統治から距離を置き、古代の豪族連合体のような盟主制度を幕藩体制として武士階級の間で取り返したのだった。
さらに以下の記事も参考にしていただけると思う。
記紀の神々の名に付いている「記号」は何を意味しているのか 前編
記紀の神々の名に付いている「記号」は何を意味しているのか 後編
日本神話と秘儀の七段階、そして聖徳太子
古事記において、戦いの場面として登場する古代の神々の「手取りの技術」は、律令制度の外側で生きることになった武士団に所属する者たちに密かに連綿と受け継がれて、近代にいたって「殺しの技術」としてではなく、合気道という形で人々の目に触れるものとなった。
骨命(ねのみこと)、すなわち骨(こつ)をつかんだ者(秘儀に参入できた者)が、今日武術家のなかにも存在するのだろうか。
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